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ベターハーフ! ショートストーリーズ2

☆☆☆



このショートストーリーズでは、本編の幕間にあったお話を綴っていきます。
本編の補完的な意味合いも持たせていますが、時系列が前後する場合もございますので、一体いつ頃の時期なのか?ということは明記いたします。
読者様には、本編とはまたちょっとだけ違った「ベターハーフ!」をお楽しみいただければ幸いです。


今回は、九話とショートストーリーズ1の間、十二月中頃となります。
ふとした思いつきから澪がどういう行動を取ったのか……。
一年半も待たせてこれかい、というツッコミは眼鏡を外して受け流すとして
お詫びかたがた
今回の投稿にあわせて一話〜九話まで全てを改訂いたしました。
久しぶりにベターハーフを読んでやろうという方は、ぜひお目通しくださいませ。
では、お楽しみください。



☆☆☆





 石油化学プラント事件も終わってから少し経った頃、お食事後の昼下がり。
 冬には珍しく、とてもまっすぐな強い陽射しが教室の窓辺を暖めていた時。
 ふわあと口をついた欠伸を隠そうともしない気のゆるみがあんな事を言わせたのかもしれない。



「――お礼、しようかと思うのよね」

「お礼?」



 みんなぼんやりしていたところでちょっとばかり唐突だったのだろう、私の言葉にナオミはきょとんとしていた。
驚いたような、呆けたような表情でしばらく考えた後、納得した様子で手を合わせる。



「もしかして皆本さんに? 澪ちゃんが?」

「一応。こないだ、あの、その……まあ、それなりには世話になったし」

「それなりに、ね」



 ナオミの苦笑いを口実に、慣れないことなどさっさと止めておくべきだった。そう後悔したのは、それからほどなくの事だった。





−ベターハーフ! ショートストーリーズ2−





 ナオミの態度にいささか険を感じた私は、わざとらしく大仰な態度で肩をすくめ、誰の目にも分かるよう抗議した。
 


 「失礼ねー。いくら私だって鬼じゃあないわよ? そりゃあ相手があのバカ眼鏡とはいえ、大火災のまっただ中に私を救出するため単身飛び込んできたんだから、たといそれが任務であったとしてもよ、借りを作りたくないというか、後腐れの無いように形だけでもお礼の一つもしないといけない気がするだけなの」


 
 わかったかしらと、ナオミに言い含めた。
 だが何を勘違いしたのかそもそも最初から話を聞いていなかったのか、ナオミはまさに花のような笑顔でこう返した。



「すっごくいいと思うよ。気持ちを形にするのって、大切なんだから」

「いやだからアンタ、人の話聞いてた?」



 すっかり妄想にふけっているナオミになんと言った物やら悩んでいると、横あいから声がした。



「初音も良いと思うなー」

「アンタ起きてたのか」



 初音は机にもたれかかったまま、視線だけをよこしてくる。全く耳ざといことだ。
 優に五人前はあった宿木の特製弁当をお腹いっぱい食べて満足して眠りこけてたくせに、余計な事には気が回る。ずっとそうしてくれれば食後のデザートポッキーを奪われないか心配する必要もないのに、だ。
 ナオミはナオミで一人とても嬉しそうに『だよね』と初音に相づちを打っている。



「ふーん。そっかー、澪ちゃんが皆本さんにお礼ねえ」

「お礼ねー」

「なによ二人とも」

「ううん、別に?」

「何もないよー」

「……嫌な娘達ね」



 二人そろってニヤニヤ楽しそうに視線を交わしていればいくらテレパスはない私でも、こいつらが何を考えているかくらいはわかる。



「何度も言うけど、別にアイツに含むところがある訳じゃないからね?」

 

 わかってるわよ、とはナオミの弁。だけど私はそれを素直に信じるほど楽天家でも脳天気でもない。
 二人の食いつきの良さは、間違いなく下世話な興味が先に立ってるせいだろう。まるでまるっきり火の気のないところにものすごい煙を起こすダブルフェイスみたいだ。それでも裏はないんだろうけれど。



「でもお礼ってなにするのー?」

「あんまり考えてない」

「「だぁぁ!!」」



 見事にイスから滑り落ちてくれるお約束を決めてくれる二人は、きっと良い友達なのだろう。舞い上がった埃が陽差しに照らされるのを見つめながら、私は続ける。



「思いついたばっかだから、まだどうするか決めてないのよ」

「考えてから話すべきだと初音思う」

「その台詞、のしつけてお返しするわ。年がら年中食べることしか考えてないくせに」

「その分動いてるもん」

「あー言えばこういう」

「あ、でもでも。プレゼントなら、編み物なんか良いんじゃない?」

「そーよね。私もそう思って作ってみたの。どうかしらこれ」



 机の上に、昨日編んでみた手袋を置く。



「えーっと、スルガリュウグウウミウシ?」

「なんなのよそれ!? どこからどう見ても手袋でしょ!」

「んじゃシライトウミウシ?」

「いーかげんウミウシから離れなさいっ! なんなのよシライトウミウシってっ!」

「んとね、慶良間諸島に生息する……」

「そういう意味で言ったんじゃないっ!!」



 机の初音に肘を落として黙らせたと思えば、ナオミがぽつり呟く。



「でも……手をいれるところないよ?」

「う゛っ……」

「……」

「……」

「そ、そうだわ。お料理なんてどう?」

「そそ、そうね。私も丁度そう言おうとしたところ」

「明は毎日作ってくれるよ」

「へーへー良かったわね。かいがいしく世話を焼いてくれる相方がいて」



 早々に復活した初音がにへへと笑う。全く嫌らしいったらない。
 


「まあ、手作りの料理なら気持ちがこもってていいかも。でも宿木みたいに毎日作ってたならともかく、突然にってのもなにか変な気もするし……これは保留ね」

「じゃじゃあ、クリスマスカードに添えて贈り物とかは?」

「却下。クリスマスに絡める必要なし」



 あいつが変に勘違いしても嫌だし。あくまでもお礼、英語で言うならThank you for everything。決してLOVEじゃあない。



「なら皆本さん受験生なんだし、ちょっと良さげな鉛筆と消しゴムのセットだとかお守りだとか」

「それもいいけど……お礼にしては実用的過ぎない?」

「かなあ? 皆本さん、推薦入試が近いらしいよ。試験の時に役立つ物があれば喜ぶと思うけど」

「え、マジ?」

「うん。東キ大学の」

「日本一の大学の? 皆本さん頭いいんだね」

「初音ちゃんもそう思う? 私もびっくりしちゃった」

「つか、アタシ聞いてないわよ」

「あ、実は私も直接聞いてないの。ダブルフェイスの奈津子さんから」

「そういう事か……」



 なんでチームの私が知らないでダブルフェイスは知ってんのよ。後で蹴り倒してから問い詰めることにしよう。まあともかく、特段色気を求めてる訳じゃないけど、贈り物が素っ気なさ過ぎるのもどうだろう。過剰でなく、でも必要十分な物はなにかないだろうか。



「じゃ合格祈願のお札とか」

「どこで買ってもいいって訳でもないしね。うーん」



 どうせなら御利益のあるところがいい。それなら学問の神様菅原道真で有名な、太宰府天満宮だろう。テレポートで行って戻ってくるのはすぐだけど、スクランブルした自国の戦闘機におっかけられるのはめんどくさいし、そのことで局長に泣かれるのはもっとめんどくさい。



「じゃあ身の回りで使える小物とか毎日使えるような雑貨だとか」



 初音が誇らしげに指をピンと立てて言う。



「……アンタにしてはまともな提案ね」

「皆本さんが使いそうな雑貨、使いそうな……なんだろうね」

「やっぱり勉強道具になっちゃうよねえ」

「そうよね、万年筆だとか」

「澪と違ってまじめなイメージだもんね」

「どの口がそんなこと言うのかねー」



 もう肘は落ちて来ないだろうと油断していた初音を、今度は勢いよくこづく。あ、机で顎打った。



「いったーいっ!」

「不真面目を地でいくのはアンタじゃないのよ。振り回される宿木に合掌したくなるくらい」

「明は特別だもん。ぶーぶー」

「うっさい豚犬。しっかし雑貨でアイツが使いそうな物か。そうね……意外とでこっぱちだし、いっそリアッ○だとか」

「あげたら怒られるわね、確実に」



 お礼になってないわよ、と視線で訴えてくるナオミ。ごめん、言ってみただけだから許して。
アイツが前に髪を垂らしてる理由は、多分あの額の傷 −アイツが超能力を失う原因になった事故の跡− を隠したいからだろうけれど、それを茶化すのはさすがに不味いよね。



「やっぱり考えてから話すべきだと初音思うな」

「だからうっさいっての」

「そう言えば皆本さん、いつも制服姿しか見ないけど、洋服を贈るのはどう?」

「コートだとか?」



 それもいいかもしれないなあ、とぼんやりアイツのコート姿を想像した。一口にコートと言っても種類は様々なのに、ごく順当にダッフルコートとか似合いそうで、いかにも普通なアイツらしいと妙に納得してしまった。



「ん? ちょい待ち。服なんてこっちの趣味押しつけてもしゃーないでしょ。ああいうのこそ嗜好品なんだし」

「一緒に買いに行けばいいじゃない」

「え」



 とても良い思いつきだと手をあわせて、にこやかにナオミが宣う。
 アンタ正気か。



「だからあくまでもお礼だっていってんでしょうに」



 念押しするが、LOVEなどではないのだ。だいたい肩を並べて冬のイルミネーションの中を歩くなんて姿自体、想像だにできない。



「はぁ。アイツと私が一緒にお買い物、ねえ」



 仮に行ったとしてアイツの命を保障できないが、全精力を傾けてそのシーンをイメージしてみる。なめるなテレポート能力持ちの空間認識能力。冬の街を一緒に洋服を買いに歩く、私とアイツ。なるほど。



「……アイツにもうちょい上背がほしいところね」

「ん。何か言った、澪ちゃん?」

「え? あははは、なんでもないなんでもない」



 危ない危ない、ナオミに乗せられるところだった。つまんないこといいなさんな、と注意してから私たちはすっかり考え込んでしまい、女三人寄れば姦しいという諺の信憑性が大いに揺らぎかねない事態に陥った。散々騒いだ気もするけれど。
 頭をひねって私が思い出した事はと言えば



「……いつだったかの訓練で透視したときには、巨乳本が好みだったよーな」

「きょ?!」



 ナオミが目を白黒きょどきょどさせて、すぐ顔を真っ赤にして抗議する。その上気した様子が思いがけず綺麗で、谷崎のスケベおやぢの気持ちがちょっとわかった気がする。この娘、ホント憎らしいくらいに美人だわね。



「やはは。冗談よ、冗談。ったくナオミは固いわね」



 しかしアイツもそうだけれど、男はなんでああも大きい胸が好きなのだろう。大きいことが良いことな時代はとっくに過ぎ去った、今の時代は何事も小型でエコが望まれると言うに。そも胸が貧しいと書くから駄目なのだ、虚乳とか節胸とかエコ胸とでも言えばCO2削減に……止めよう、考えてて空しい。



「花の女学生が男の人にエロ本をあげられる訳ないでしょ。あげたらあげたで伝説になりそうだけどさ」



 私としても、そんな汚名という名の伝説をバベルに残したくも無い。そもそもどうやって買いに行くんだ。いっそ局長直属護衛部隊のAチームにでも買いに行ってもらおうかしら。
 でもアイツが好きそうな物を思い浮かべて出てきたのは、本当にこれくらいしかない。初音が宿木に、ナオミが谷崎主任にプレゼントをあげようとしたとき、こんなに悩むものなんだろうか。
 戸惑いながら髪をかき上げても、妙案は浮かばない。



「……ホント、アイツに何贈ったらいいのかなー。まいったわね」

「どれも良さそうだけど、なにか一つ足りないね」

「初音、皆本さんに聞けば早いと思うな」

「それが出来たら苦労しないっての。あーもー頭痛い。大体巨乳好きなら、いっそナオミのヌード写真集でも送ればアイツ満足するんじゃないのー? 撮影谷崎主任で」

「じゃああたし皆本さんにうるー。食費の足しにしたいし」

「妙な知恵付けたわね、アンタ」



 ようやく動物から人間に進化したのか、宿木も喜ぶわよ。そう嫌みの一つも言ってやろうとして、ナオミの声が遮った。



「……あのね澪ちゃん初音ちゃん」



 そこで言葉を切り、ナオミはいつものように穏やかに微笑んでいた。そう、いつもと全く同じようにそれは穏やかに。眉も目も口も寸分違わぬ位置に『静止』された笑顔に、私と初音の二人は凍り付き、勢い逃げ出すことも出来ず、あたかも断頭台に上る死刑囚の心持ちで、ナオミの台詞を聞いた。



「谷崎主任と同じ目に会いたいのね? そうなのね? うふふふふふふふ」

「「ぜ、全力でお断りいたします!」」





☆☆☆☆☆





「あんな怒らなくてもいいじゃないの」

「そりゃ怒るわよ。澪ちゃん、真面目に考えてよね」

「だからごめんってー」



 バベルの訓練室に向かう道すがら、私は謝り倒していた。ヌード撮れだなんて、おふざけにしても度が過ぎた。ちなみに初音は放課後すぐに椅子を蹴立て逃走し、後には盛大に埃だけが舞っていた。見事な状況判断、そして戦線離脱。さすが駄犬、だけど後で覚えとけあのバカ。



「ごめん」

「知らない」

「ごめんったらごめん」

「だから知らないっ」

「ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんー」

「知らないったら知らないっ!」

「ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん」

「知らないったら知らない知らない知らない知らない知らないー!」

「メールアドレスの@マークって何なのよっ!」」

「だから知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らないー!」



 両手で耳をふさいだナオミと、早口で謝り続ける私。
 日のかげる廊下を行き交うバベル職員達が何事かと振り返るのも気にせず、早足で先を行くナオミに声をかけ続け、あっという間に負荷訓練室【桐壺道場】の前。内容がどうであれ、しゃべりながらだと到着するのも速い。
 でも息つく間もなくしゃべり続けたせいか、互いにぜえぜえ肩で息をしてしゃがみ込んでしまう。
 私はしばらく壁に寄って息を整えた。先に立ち上がったナオミが、普段よりやや乱暴にドアを開けようとしたとき、廊下を見ながらふと呟いた。



「……アイツもう来てるかなあ。何が好きなのか、それとなく聞いてみないとなあ」



 この呟きを聞きつけて、ようやくナオミは私の方を向いてくれ、笑顔とまではいかないまでも渋面で答えてくれた。



「……そうよね。でも皆本さん、どういうのが好みなんだろうね」

「アイツの好みかあ」



 本当に、アイツの好みってどういうのだろう。
 学校で、バベルで、アイツはどんな物を使っていただろう。訓練の合間、どんな物を飲んで、食べていただろう。聞いてる音楽はなんだったろう。私生活で着ている服はどういうのだろう。好きな芸能人は誰だろう、クラスにはどんな友人がいるんだろう。打ち込めるような趣味は持ってるんだろうか。
 アイツのいろんな事が、私にはまるで分からない。



「……」



 この時、改めて実感した。私はアイツの事、何も知らないんだって。チームを組んで4ヶ月ちょっと、知ろうともしていなかったんだって。今、こんなに頭を悩ませているのが何よりの証拠。これまではそれで良かったかもしれない。でもこれから先はきっと、このままじゃいけない。



「……ま、分かんなければ調べればいいだけ、かな? んじゃ入ろうか」



 気合いを入れて、ナオミからドアノブを奪い取る。頭をもたげる悩みを吹き飛ばせるよう、一気呵成、私は扉を荒っぽく開けた。



「たのもー!」

「あら、いらっしゃい。澪ちゃんナオミちゃん」

「あの看板欲しいなら持ってけ。局長が泣くだろうけど」



 広い道場にバカ眼鏡だけでなく朧さんまでいて、大声出した言った気恥ずかしさで、つい入り口で立ち止まる。続いて入ろうとしてたナオミが背中にぶつかって、きゃと声を上げる。



「いらないわよ、あんな暑苦しい看板。……なあに、貧相なパン食べちゃって」

「昼飯食べてなかったんでな」



 そんなに忙しくなるような学校行事なんかあったっけ。私とナオミは互いに目を合わせる。



「澪ちゃん、そんな事言わないの。ほら皆本君、外寒かったでしょ。お茶入ったわよ」

「ありがとうございます。来る途中寒くて手もちょっとかじかんでたので、暖かいお茶はありがたいです」



 朧さんの淹れたお茶でアイツが惚けているのが、なぜかものすごく憎らしい。確かに朧さんのお茶は場を和ます秘密兵器としてバベル内では有名だけど。
 頭のもやもやが大きくなるみたいで嫌だったので、つい編んだ手袋を出してしまった。



「寒いんなら手袋あげるよわ。ほれ」

「スルガリュウグウウミウシ?」

「なんなの流行ってるのそれ?! どこからどう見ても手袋でしょうがっ!」

「でも、手を入れる所が・・・」

「そんなものやってみなけりゃわからないでしょっ!! たく。初音といいアンタといい、失礼なヤツらだわね」



 見せなきゃ良かったと手袋を鞄にしまう。全く頭にくるわ。朧さんとナオミの乾いた笑いだけが道場に響いて



「……皆本君、バベルの業務に時間取られてたのよ」

「皆本さん、業務でお忙しかったんですか?」



 場を取り繕うような朧さんの話に、ナオミがアタシの肩越しに問い返す。手袋はフォローも合いの手も入らずに流されて、なんかちょっとショックだ。



「そうなのよね。皆本君、学校にもバベルにも正式に復帰したから、貯まっていた書類を一気に片付けようって、それこそ一日中。学校のお昼休みも削って処理してくれててね。ご飯食べる時間なかったんですって」

「へぇ」



 情報操作の都合上、コイツはバベルの指揮官候補生として採用されていたという形になっているらしい。人目につかないところとか用意された場所でなら昼休みにバベルの書類をやったところでさほど問題はないんだろうけど、受験も近いってのにいかにも生真面目なコイツらしいことだ。



「ん? そういやアンタ、まだ学校に出てきてるの? 確か高校三年生はもう自由登校になってるんじゃなかった?」



 そうだ、この時期はもう出席してもしなくても良くなっているはずなんだけど



「12月はまだ登校だよ。ま、来年も登校するけどな」

「どして」

「今年は文化祭の襲撃事件があっただろ。あれで授業とかも遅れててね、受験指導込みで平日は登校の予定。勉強が遅れてる奴は休日も」

「……ご愁傷様」



 なんて言った物やら。ふと目をつきあわせたナオミがささやいた。



(ほら、皆本さんこんなに頑張ってくれてるんだよ?)



 まあ、そうかもね。
 コイツは自分の時間を削って、大事な受験勉強を割いてまでバベルに参加して『くれている』のだ。私の担当を引き受けたのだって、こいつから見れば相当なマイナスのはず。こうやって訓練に顔を出している時間など取れなくても全然おかしくないんだから。



「……やっぱりちゃんとお礼しなきゃね」



 私の呟きに、ナオミは左肘を脇にコンコン当ててクスクス笑う。なによその目は嫌らしいわね。初音といいナオミといい、おばちゃん化というかダブルフェイス化が進んでないかしら。



「あんた、パンだけで足りるの?」

「ん、バベルの売店売り切れだったんだよ。なんでも初音ちゃんが買い占めていったらしくてね」

「まったくあの娘は……」



 ダッシュして逃げていったくせにちゃっかりしてるんだから。
 今日のお昼だってさんざん食べただろうに、宿木が毎日のように特務エスパーになった意味が全然ねえって叫ぶわけだわ。稼いだ分全部食べてるらしいし。
 ホントあれでなんで太らなくて胸だけが育ってええいあんにゃろう。



「コンビニ弁当はあんまり食べる気にはならないし。パンですましてるって訳だ」

「そっか……。ん、そういう事情なら今度お弁当でも作ってきてあげようか?」



 自然に浮かんだ思いが口をついた。純粋な厚意で、お礼の気持ち。
 今は真冬だ、メニューを選べば夕方までだって持つだろう。なんならバベルの食堂を借りて作ったっていい。コイツはただでさえ一人暮らしで、今は受験だバベルだ治療だで忙しいんだし、私が手伝えば少しでも家事の負担を軽くしてあげられるかもしれない。
 だのに、なのに。全くコイツときたら青ざめた顔をして



「……何を企んでる」

「たくらんでねーわよっ!!」

「ぐあっ?!」



 あふれた思いが意志より先に体を動かす。
 超能力養成ギブス・星一徹君で鍛えあげた筋肉パワーでメガネ猿の背中にローキックをかますと、バカ眼鏡はくわえたパンと一緒に道場端のECMまで吹っ飛んでいった。なかなかの成果だわね。ん、星一徹君って筋力を鍛えるんだったっけか。まあこの際どうでもいいわ。



「だぁから! 昼ご飯抜くくらいに忙しそうだから、やぁぁぁさしいアタシが! 彼女いない歴イコール年齢なアンタに! お弁当の一つも作ってあげようかって! いってんのよわかったかこのメガネ!」

「ごめん、悪かった、僕が悪かった! だから一言ごとに殴るの止めろっ!!」

「アンタが! 泣くまで! 殴るのを! 止めないっ!!」

「み、澪ちゃんストップストップ?!」





☆☆☆☆☆





「いやほんとに悪かった。でも無理しなくていいぞ? お前だって休学してた期間の遅れを取り戻すので大変だろう」

「アタシの事じゃなくて、今はアンタの事でしょ」

「そうだけどさ」



 ついた埃を払いながら、バカ眼鏡が断りを寄越す。
 人の厚意は素直に受けなさいっての。わかってんのかしら、もうこんな機会千年経ったって訪れやしないのよ。大体あんた無理ってなによ、無理って。あたしにはまともなお弁当作れないとでも言いたいのか。
 悔しいことに、その通りなんだけどさ。



「そう言ってくれる気持ちだけで、十分ありがたいよ」

「皆本君、私にもお手伝しなくていいなんて言うのよ。気を遣いすぎよね」



 私の料理の腕はさておき、朧さんの言うとおりだ。怪我している時くらい、甘えればいいのだ。
 今はともかく、コイツは常日頃、朧さんには素直に甘えてる気がするけれど気にしない気にしない。なんでだか震える、固く握りしめた拳を押さえるんだ私。



「大体アンタ、まだ怪我治りきってはいないんでしょ。無理しないの」

「さっき余計悪化したけどな」

「えーと」



 皆の視線が痛い。特に隣のナオミの視線が。



「ま、悪化したのは冗談だけど賢木先生のお墨付きあるから大丈夫だよ」

「それもまた怪しい気がするけど……じゃなくって」



 いかにも平静そうなコイツの鼻っ面に、私はずいと指を突きつけた。 



「いーから言うこと聞きなさい。人の厚意を無にする気?」

「……そっか」



 何を納得したのか、視線を外してパンをもう一口かじった後、ゆっくり答えた。



「そうだな」



 あら今度は素直ね。肩すかしに戸惑いながら、コイツが安心したようにパンをパクつく様子を見る。最初からそう言えばいいのに。全く、お礼をするってのも楽じゃないわね。



「ありがとう、助かるよ。それじゃ楽しみにしてる」

「ま、任せなさいっての。あたしの作ったお弁当食べて、まだそんな余裕な発言が出来るか楽しみだわ。ほっぺ落ちても知らないから」



 虚勢を張って宣言する私に、バカ眼鏡は言った。



「へえ。いつもお菓子ばっかりつまんでるから、あんまり料理しないのかと思ってた」

「うっ」



 言葉に詰まり、耐えきれず目をそらす。はい、その通りです。つい見栄張ってやばいかなって、今自分でも思ってます。
 まあいいわ。出来ないなら出来るようになれば良いだけだし、言った以上はやらなきゃいけないし、そもそも料理は勝負って昔から言うし。
 たとえ大統領が相手でも料理勝負は受けて立たなきゃいけないのよ。



「まあともかく、楽しみにしてなさいバカ眼鏡! カカカカカカカカ!」

「……澪ちゃん、それちょっと違う」





☆☆☆☆☆





 翌日。早速準備と練習のために、私はナオミが入居する呉竹寮に出向いた。



「じゃあさっそく麻薬料理を」

「澪ちゃんそれも違う」



 冗談よ冗談。ナオミもホント固いわね。



「あら澪ちゃん、愛っていう麻薬で虜にするならOKなのよ?」

「ナオミ、今日作るメニューはなんだっけ」

「……シカトしてんじゃねーですよそこの女子中学生」



 ナオミの隣でくねくねしてる奈津子さんをやり過ごそうとして叶わず



「ごめん澪ちゃん、奈津子さんがどうしてもって……」

「という訳でよろしくね、澪ちゃん」



 良い笑顔で手をひらひらさせてるのが、そこはかとなく悔しい。



「はぁ……というかですね、なんで奈津子さんがいらっしゃるんですか? 今日は非番だって伺いましたけど……」

「そりゃあ澪ちゃんが皆本君のためにお弁当を作るだなんて面白、もとい大切なイベントを同じ呉竹寮に住んでて外せる訳がないでしょう」

「説明的且つ本音入りな台詞どうもありがとうございます」



 軽い目眩を覚える。まあ興味本位とは言え、料理はからっきしな私に教えてくれるんだ。奈津子さんにも感謝しよう。
 でもナオミの軽口にも少々呆れていた。相手がダブルフェイスなんだから、ちょっとでも話せばこういうことになるのはわかりきってるだろうに。ナオミのことだ、何の気ナシに話してしまったのを奈津子さんに確保されてしまったんだろうけれど。まあ口止めをしていなかった私が悪いことにした方が精神衛生上良さそうだし、いっそほたるさんがいなくて幸運だったと思おう。



「……動機はどうあれ、教えてくれるのはありがたいです。アイツの推薦試験の件も教えてくれると、もっとありがたかったですけど」

「あれ、知らなかったの? 私達も皆本君から聞いた訳じゃないけど……でもそっか、ごめんね」



 言葉とは裏腹に、何がそんなに嬉しいのか、奈津子さんはひらひらさせていた右手で私の頭を撫でる。撫でられた頭が、なぜかちょっぴりこそばゆかった。



「アタシだって入試の邪魔をしたい訳じゃないですし。事前に分かってるのなら、知りたいです」



 そう、アタシはなにかにつけアイツの事を知らなすぎる。だからこういう事になる。今までは気になりもしなかったけれど、これからはちゃんとしようと決めたのだから、アイツにも聞かなきゃいけないし



「だから、奈津子さんも何か見知った事があるのなら、教えて欲しいです」



 他の人にお願いもしなくちゃいけない。チームとして上手くやっていくためには、きっと必要な事だ。
 そう思っただけなのに、奈津子さんもナオミもまた嬉しそうに笑いあう。



「そうそう。年下は素直なのが一番よ」

「普段から素直になれるようにしてくれてればいいんですけれど」

「あー何よ? あたしナオミちゃんより料理上手いんだからねー」

「奈津子さん押しかけのくせして」

「ひどいわねー」



 口をとがらせて肩をすくませて、いかにも拗ねていますとアピールする奈津子さん。普段の行いって知ってるんだろうか。



「奈津子さんってほんとに料理上手なのよ」

「そうなの?」

「この格好見れば、料理出来る人かそうでないかくらいわかるでしょうに」

「……まあ確かに」



 セーターとジーンズの上にエプロンを着込んだだけのシンプルな姿だったけれど、確かに様になっていた。けど、目の当たりにしてさえ家庭的な奈津子さんというのは普段からはどうにも想像しづらいものだった。



「私は節約が趣味だからね、料理も自然と覚えたのよ」

「……意外です。奈津子さんよりほたるさんのが節約とか好きそうだし、寮とかにも入ってるぽいのに」

「ほたるはあれで案外派手好みなのよ、寮なんてさっさと出て行っちゃったわ。あの娘はホントいつもいつもあの大人しげな外見でいい男をお持ち帰りしてからに、だいたい騙される男も男よ。なによ上っ面しか見な」

「「……」」



 私とナオミの呆れた視線に我に返ったのか、大仰に咳払いを一つ。居住まいを正して緊張感たっぷりに、良い子は忘れなさいと奈津子さんは宣った。
 もう手遅れですと思いながらも、しっかりと形だけ返事をする。あること無いことバベルで吹聴される危険性を思えば安い物だ。



「ま、まあそれは横に置いておいて。いつまでも話してても進まないし、始めましょうか?」

「そうですね。澪ちゃん、はじめよっか」



 改めてよろしくお願いしますと二人に挨拶して、お弁当作りが始まった。奈津子さんが食材を取り出し始め、私とナオミも準備に取りかかる。呉竹寮は女子エスパー向けの寮で、キッチンは広い。女三人で作業していても、それなりにスペースもとれるのがありがたい。
 今日はオーソドックスなハンバーグや付け合わせのポテトサラダに焼き野菜のサラダって言うのを作りながら、基本を教えてもらうことになっている。



「じゃあ澪ちゃん、まずはお米研いで」

「洗剤で洗うとかベタなお約束はしないでいいからね?」

「いくら私でもそこまで物知らずじゃないですよ、奈津子さん」



 いくら初心者だからと言って、そこまでハードルを下げる必要もないと思うんだけど、基本は大事だしね。ようし、はりきっていくわよ。



「何回か研いで、水が透明になれば終わりだからね」

「はあい。お米を水に浸して一回切って……戻してかき回してサイコキネシス高速大回転と」

「ちょっと待って澪ちゃん!」



 ナオミががっしり肩を掴むが、ボールの中で数珠みたいにつながって、ものすごく早く動き回るお米はすぐには止まらない。熱量保存の法則万歳。
 ようやく止まったお米は、真円でつるつるぴかぴか。綺麗でいいじゃないと思ってたら、吟醸酒でも造る気かと奈津子さんにも怒られた。なんでだ。



「お米半分以上ないんだけど……」



 なによナオミ、その痛い子を見つめる視線は。



「……じゃ、じゃあ澪ちゃん。ジャガイモ茹でお願い出来る?」

「……わかりました」



 奈津子さんがお米研ぎはやってくれるそうで、かたや私は茹でるだけ。更にハードルが下がった気がするけれど、まあ良いわ。料理で仕込みは大切よね。基本よ基本。



「んじゃサイコキネシス使って分子加速してお湯を」

「じょ、蒸発したっ?!」

「澪ちゃん、ナチュラルに超能力使わないの!」

「えー?」



 超能力使うのは事前確認してからと二人に釘を刺された。便利なのに。仕方なしに私はガスを使う。いや仕方なくないからとは奈津子さんの弁。



「そうそう。ジャガイモはね、お水の時に入れておくと煮崩れしないのよ」

「そうなんですか?」



 奈津子さん曰く、手順一つで食感が大きく違ってくるそうだ。料理には、省いて良い手間と、いけない手間があるらしい。なにより美味しく食べてもらうには、手順を理解して、一つ一つの行程を出来るだけ丁寧に、しっかり段取ってやること。
 それが思いやりと愛情だと奈津子さんはアドバイスしてくれた。
 


「料理が得意ってホントだったのね……」


 
 テレパスのほたるさんがこの場にいないことを感謝しつつ、ジャガイモを鍋に入れ、ガスのスイッチをひねる。蒼く透き通った炎がつき、ホーローの鍋を温め、程なくしてしゅわしゅわ湯気が立ち始めた。



「じゃあ、この間にハンバーグの種を仕込みましょう」



 合い挽き肉、タマネギ、卵にパン粉、塩こしょうとナツメグと、調理台の上に所狭しと材料が並ぶ。ハンバーグって案外手がかかるのね。



「これはごく基本的な材料なの、澪ちゃん」

「へえ、これで?」

「そ。ハンバーグは刻んじゃえばいろんな材料を入れられるから。小さい子がいるような家だとニンジンとかピーマンをジューサーにかけて入れたりもするし」

「要は安くて体に良い物を入れやすいお料理なのよね。冷めても美味しいし、おかずの定番よ」

「そうなんですか。ふーん……体に良い物かあ……体に良い物ねえ」



 バカ眼鏡は目が悪いから、干しぶどうはいるわよね。確か体力回復にねばねばした物って言うからなめこ、怪我直すのに卵のカラ、煮干しもいるわね。後、打ち身には馬の肉とかどこかで聞いた気もする。ああ、後おなか壊さないように正露丸も必要かしら。



「あたしテレパスは持ってないけど、指折り数える澪ちゃんがものすごい事を考えていそうな気がしてならないわ」

「偶然ですね、私もです奈津子さん」

「ん、何か言ったナオミ?」



 考え込んでしまっていて、二人の言うことに耳を傾けていなかった。どうしたのと聞き返しても次行きましょう次、としか言わないからきっとたいしたことではなかったのだろう。
 なんでかタネはナオミが仕込んでくれるそうだ。練習したいのになあ。



「じゃあ澪ちゃん、タマネギの皮向いてくれる? 切ったらみじん切りの練習」

「はあい。タマネギは確かむいたり切ったりすると涙が出るのよね。なら目をつぶって空間認識能力で」

「ちょい待ち」



 奈津子さんががっつり肩を押さえて超能力禁止、と告げる。そうだったわね。お礼なんだから、なるべく手作りしなきゃ意味も無いものね。



「わかりました。じゃあ手でむきます」



 手元が不安だけれど、薄目でのぞき込むように茶色の皮に手をかけ、へたを包丁で切り落とすと、やっぱり目にしみる。
 


「あ、澪ちゃん。へたは切り落とさない方が良かったのよ」

「?」

「後でみじん切りするときに、へたがあるとばらけなくて便利だったんだけど」

「良くわかんないけど、最初に言ってくださいよう」

「ごめんごめん。じゃ、そのまま皮むいてくれる?」

「はあい」



 切り落とした断面から爪を立てて、そうっと茶色の皮をむく。次にちょっと青くて厚い皮をむいて、出てきた白い次の皮もむいて次もその次の皮もむいてむいてむいてむいて。



「ね、タマネギってどこまでが皮なの?」

「澪ちゃん……」



 わかんないから聞いてるのに、なによその顔は。二人してうわーとか言いたそうに口を開けて見つめてないでよね。失礼しちゃうわね、ホント泣きたいわ。もう涙出てるけど。



「オーケー分かったわ澪ちゃん、ならこの皮もむいて後は切るだけにしたニンニクとショウガをみじん切りにしてちょうだい」

「これなら失敗しようもないだろって言われてるみたいでちょっと腹が立つんですが」

「と、ともかくやってみようね。ね、澪ちゃん!」

「ナオミがそう言うならまあ……」


 二人が言うには、ショウガは薄切りにして、少しずつずらして重ねて、端から細く切る。さらに端から直角に細かく切っていく、と。ニンニクは縦半分に切って、芯を取る。切り口を下にして置いて、根元を切らないようにして薄切りにする。包丁を寝かせて横に二・三本切り目を入れ、端から切っていく、と。



「ねえナオミ」

「なあに?」

「手順が分からないと言うことが分かったわ」

「えーと……」

「こうなったらサイコキネシスと空間認識能力で立体的に」

「超能力で失敗ばかりだから止めてお願い」



 冗談だというのに、奈津子さんとナオミにぐっと腕をつかまれたのはなぜだろう。
 それから注意を受け続けながらも、遅くまで料理の特訓は続き、とっくり日も暮れ、どうにか合格点をもらえたときには二人はキッチンの床に突っ伏していた。私はまだまだやれるのに。謎だ。





☆☆☆☆☆





「ホントはアイツに『ヘイボーイ、ものすごい美少女がもったいなくもお弁当を作ってきてあげたわ。土下座しながら食べなさい』なんて軽く渡してやるつもりだったんだけど、さっきからなにかしら、この十三階段。改まってお弁当渡すのって、バカみたいにドキドキするわね」

「お礼お礼、頑張って澪ちゃん」



 お昼時、人の行き交う高三校舎。手元には、朝なんとかこしらえてきたお弁当が一つ。とっときの、ちょっといい紙袋に入れてある。
 ただでさえ高等部校舎を中三が歩くなんて人目を引く環境で、裸にして持って行くような勇気はさすがに無い。物怖じせずに楽しそうに隣を歩くナオミにはなんで二つじゃないのなんて言われたけれど、しつこいようだがLOVEではないからこれでいいのだ。



「でもよく考えてみれば、アイツお昼とか休み時間にこそ忙しいんだし、お弁当お昼に渡して良いのかしら」

「ん、無理にでも休んでもらう口実でいいんじゃないのかなあ。大事な時期なんだし、根詰めすぎると体に良くないと思うし」

「それもそっか」



 こないだ全開でフルボッコにした件はさておき。
 アイツに体を休めてもらうのは良い考えだ。改めて朧さんに確認したが、復帰以来、あの時だけでなくずっとあんな調子らしい。やることはいくらもあるって頑張るのは良いけれど、いつまでもそうではかえって私が不安だ。



「ホントなんでアイツのためにこんな頭使ってんのかしら。腹立ってきたわ」

「……だからお礼でしょ」

「そうだったわね」



 乾いた笑いで誤魔化しながらも、アタシは一歩一歩確実にアイツの教室に近づいていく。距離が縮まる度に体中から血の気が引いていって、鼓動がどんどん早くなっていく。そのうち心臓が飛び出すんじゃないかってくらい。



「我ながら柄じゃないわね……。手にこんなに汗かいてるし」

「ふふふ」



 ナオミは答えずただ笑うばかりで、どうしたのとも言ってくれない。手を後ろに組んで、私とは対照的にこの道のりを軽やかに楽しんでいる様だ。ナオミの考えていることは思い切り顔に出ていて問いただすまでもなく、それが私にはどうにも腹立たしい。こんな事なら『気の回らない』初音でも連れてくれば良かった。
 


「あ、あそこでしょ?」

「かもね」



 高等部三年五組。文化祭襲撃の時、アイツが撃たれた教室。二人で普通の人々を、パンドラの兵部を追い払った場所。あの事件だってつい最近のはずなのに、なぜかとても昔の事に思える。過ぎ去ってしまえば、あの事件にあまり現実感も無い。あの時は夕暮れ、今は真昼だけれど、間違いなく、この教室で起こったはずなのに。
 そんな場所に、今は安い青春ドラマみたいにお弁当抱えて向かっているのが、いっそ不思議だった。
 間近で深呼吸して、私はいよいよ覚悟した。



「いよーし……女は度胸よ。ナオミは援護! 」

「任務じゃないんだから。大丈夫、私はちゃんとここにいるよ」



 置いてけぼりにされても困るけど。そういやアイツと知り合って一番最初、ここに絶縁状を叩きつけにも来たっけ。あれだって、何ヶ月か前の話だった。あれからいろんな事があって、改めてこの教室のドアをくぐろうとしている。
 巡り合わせの不思議を感じながら、一拍置いて、手を取っ手にかける。いよいよと振るえる腕をどうにか押し止めて、ゆっくりと、でもしっかり扉を開ける。
 突然の闖入者に、お昼ご飯を取っていた先輩達が一斉に振り返る。気後れするのをこらえて、近くに陣取っていた人にアイツを呼んでくれとお願いした。
 だけど



「ん、皆本のヤツ? いないよ」

「「え”」」



 つい入り口で固まる私たち。出入りする先輩達が邪魔そうに避けて通っていく。



「佐藤、んな即答せんでも」

「いやほら、アイツ試験会場の下見とか言って早退したろ。週末は本番だし」

「だったっけか」

「だよ。えと、花宴さんだっけ」

「え、あ、はい! 花宴澪、ですけど……」



 なんで名前を知っているのかと、私の訝しげな態度を察したのだろう。文化祭事件以後、私とメガネのエピソードは有名なんだと教えてくれた。どうやら良い具合に勘違いした話が広まっているようだけれど、この場合教室を訪ねても不自然でないくらいには役に立つ。
 私をかばって自分が特務エスパーだと嘘の宣言をした(まるっきり嘘ではなかったのだけど)アイツがうんぬん。LOVEでは無いというのに、良いんだか悪いんだか。



「来てもらったのに悪いね、何か用なら伝えておこうか」

「あ、えと! いいんですいいんです、また来ますから! 行こナオミ! ありがとうございましたっ!!」

「ちょっと、澪ちゃん?」

「ほら行くよ」



 ナオミの手を引いて、お弁当を持ってきたなんてばれないうちにそそくさと撤退する。このお弁当は初音にでも食べさせるか。仕方ない、余らすよりはいい。でもなんでだか、お弁当袋は持ってきたときよりももっと重く感じる。



「今度からは連絡入れてきた方がいいんじゃない?」

「ん……でも驚かせたいしなあ」



 お弁当を作るとは言ったけれど、学校で渡すとも、昼に渡すとも、いつ渡すともアイツには伝えていない。お礼する側の事情を考えないでどうするのかと言えばそうだけれど、どうせなら喜んで欲しいのだ。それなら期待していないところに持って行った方が、いいんじゃないかと思うのだけれど、もしかすると単なる私のわがままだろうか。



「でもま、アイツも逃げやしないでしょ。何回か作れば料理も上手くなるし、多少遅れてもいいかな」

「そっか。澪ちゃんがいいなら、そうしよっか」

「しかし、初めて作ったのを初音に喰わせるのもったいないわね」

「初音ちゃん、美味しそうには食べてくれるんだろうけどね」

「三時間かけて作った物を三分で食べられちゃあ、たまんないわ」



 紙袋を持ち上げて、顔の前に持ってくる。右手にも左手にも、バンドエイドが特盛りだ。いちいち数える気にもならないし、アイツに見せつける気もないけれど、でも、やっぱり今日食べて欲しかったなって、ちょっと思う。
 これも私のわがままなのかな。



「どうなんだろ」



 一人ごちる。私にはやっぱりよく分からない。
 ちなみに初音は三分どころか三十秒で完食した。味分かるのかしら、作りがいの無いヤツ。





☆☆☆





 だけど、そのあとも。



「皆本? あいつなら先生に頼まれて教材取りに行ったよ。あいつ気に入られてるからなあ。いいんだか悪いんだか。
 用ならとりついでも」

「い、いえ結構です!」

「そう? ならいいけれど……」

「あの馬鹿眼鏡、一体どんだけ雑用押し付けられてんのよ。BABELだけじゃ飽き足らないっての?」

「まあ皆本さん、人がいいから」



 そんでもってさらに。



「昼がダメなら夜よ! BABELなら猫被ったりしないで実力行使も可だし!」

「って澪ちゃん、学校でも特に猫とか被ってないような」

「これでも努力してるの! とごめんくださーい! 朧さん、アイツは!?」

「皆本くん? 彼なら局長と用事でちょっと出ちゃってるわ。終わったらそのままとんぼ返りの予定だから日が変わる頃には帰ってくると思うけれど……
澪ちゃん? どうしてうずくまってるの?」

「あ、あのヤロウ……どこまでタイミングが悪いのよ」





☆☆☆





そして明けた次の日。
私は都合4度目となるお弁当作りをしていた。最初にやった頃よりいい作り方が何となくわかるようになってきたのはいいことなんだか悪いことなんだか。
ただそれとは別にわかったことがある。それは。



「あいつ、やっぱ顔広いんだ……」



クラスメイトに先生、BABELの人達。あいつのことを聞いた相手は皆「彼のことは良く知ってる」といった顔で私に返答してきた。
その上あの口振りからすると、彼があんな風に誰かの手伝いやらなにやらしているのはそう珍しいことではないらしい。



「私の知らないあいつの知り合いもいっぱいいるんだろうな」



例えばあいつの小学校とか中学校の頃の知り合い。あいつがエスパーだった頃BABELにいて、今はここにいない人。それ以外の繋がりでもいるだろう友人とか。
あとは――



「こ、こ、恋人とか?
いやいやいやあいつにんなもんいたわけないじゃないそーよきっとそーよ! 彼女いない歴=年齢でどーせ確定なんだから!
……なんか知らないけど取り乱しちゃったわ。そーよこんな慣れない事してるから変なこと考えちゃったのよ。
こんな面倒くさいことさっさと終わらせて、いつもの――って緊急コール?」



曰く、朝から激しく降る冬雨の影響で堤防が決壊するかもしれない、とプレコグチームが予知したらしい。キッチンの小窓から空を見上げて、溜息をつく。



「せめて出来上がってからコールして欲しかったな」



 フライパンを振るのを止め、私は指定された合流ポイントへと急いだ。顔を合わせたアイツにちょっとだけ申し訳なかったので、ポッキーを特別に三本あげたが、朝から甘いのはいらないそうだ。全く失礼な。
 結局その日はずっと雨の中作業していたせいか、帰りがけ私は熱を出した。大げさな局長の手配でバベルの医局に泊まっていくことになり、お弁当作りはまた出来なかった。熱は意外に高くなり、次の日まで引かなかった。薬で熟睡していた私がお昼に目を覚ますと、ベッド脇にすりリンゴとオレンジのヨーグルトに、メモが置いてあった。



「ゆっくり寝とけ、ね……。なんでアタシがアイツに世話されてるんだか」



 男のくせにやたら整ったアイツの字はすぐ分かる。世話するつもりが世話されて、全く情けないわとぼやきつつ、口に入れたヨーグルトはひんやり甘くて美味しかった。熱は夕方までには治り、その次の日、ようやく私はお弁当を持って行く事が出来た。体に気だるさは残っていたけれど、この前と比べれば緊張もせず、一人で素直に足を運べた。



「あ、いたいた」



 だけど。
 入り口から見えた、初めてと言ってもいいアイツの屈託無い笑顔が私を停止させた。釘付けになった私は動けない。息をするのさえ忘れ、しばらくして、つばを飲み込む。単にアイツが他のクラスメイトと、友達とバカをやっているだけなのに、私には、その光景が遠かった。とても、とても遠かった。教室と廊下。ドアを挟んだだけの空間が、現実感の無い、自分が決して立ち入ってはいけない場所に思えた。なんだろう。アイツはただ笑っているだけなのに。学校で、友人達と過ごす。それだけの、ごく普通の日常のはずなのに、なんでこんな風に思うんだろう。
 
 ただお弁当を渡すだけでいいのに、どうして私は動けないんだろう。
 
 手提げ袋を抱えて立ち尽くす私が目に入ったのか、アイツが席を立って近づく。だけど私は何も言えず何も出来ず、踵を返して自分の教室に駆け戻った。またお弁当を初音にあげて、ナオミからはなんで渡さなかったのかと聞かれ、私はもうそれだけで疲れてしまって、午後は寝て過ごした。
 その翌日は朝からどんよりした曇り空で、またお弁当を作ったけれど、木枯らしの吹く渡り廊下を越えるだけでも憂鬱だった。気も足もとても重かった。どうにかアイツのクラスにたどり着いたが、今日は推薦試験の日だと、この前も応対してくれた、佐藤という先輩が教えてくれた。そう言えば、そんな事を聞いていた気もする。駄目だなあ。溜息混じりに頭を下げて去ろうとすると、その先輩が私を引き留めた。



「ほらこれ、皆本の家の住所」

「……え」



 差し出されたのは走り書きのメモ。アイツと違って、男子らしい乱れた字だった。



「花宴さん、用事あるんでしょ。ここんとこ何度が来てくれてたし。アイツも真面目なくせに、肝心なときにタイミング悪いところあるからさあ、許してやってよ」

「あ、いえ。悪いのは私の方で……」

「そんなことないって。でもさ、ホント気を悪くしないでね? 皆本は落ち着いてるってか気の利かないヤツだけど、あれで、良いところは結構あるんだよ」



 そうやって、あれこれとアイツの『良いところ』を教えてくれた。昔からすごく真面目で頭良くて、その分融通が利かなくて不器用で、でもだからこそみんなから信用されてて、厳しいところもあるけれど、最後には仕方ないなと面倒も見てくれて。腹が立つこともあるけど、ホント人が良いんだよな、アイツ自身はなんでもないよって言うんだけど、と。
 この前の事件の時だってやり過ごそうと思えば出来たのに、それをしないのが皆本だって。



「花宴さんも恐かっただろうし、申し訳ないんだけど。なんていうか……あの時、俺たちみたいに傍観しなかっただろ、皆本。特務エスパーうんたらってのはさすがにやり過ぎだと思ったけど、でもあれが、うん、そうだよ。ああだから、きっと皆本は『いいヤツ』なんだよな。……って、なんでアイツのために必死に弁解してんだ俺」



 佐藤さんがバツ悪そうに頭をかきながら苦笑いしていると、クラスから声が上がった。



「こら佐藤、なに花宴さんナンパしてんだよ! 皆本に怒られっぞー」

「ナンパなんかしてねえっての! 大体俺はナオミちゃん派だ!」

「あー本人を目の前にして酷いわね佐藤君。花宴さん泣いちゃうわよ」



 女子の先輩が、突然私の肩を抱いて佐藤さんに抗議する。



「悪いわね、デリカシーのない奴らばっかりで」

「え、ええっと」

「腐れたお前が言うな。知ってる花宴さん、コイツ皆本がバベルに就職するって分かったら急にモーションかけんだぜ? 今まで宿木君最高!とか言って、全然そんな気無かったくせに。ひでえヤツだろ」

「いーじゃない。真面目で稼ぎが良くて仕事であまり家にいない旦那なんて最高よ?」

「なんて冷めた台詞」

「幻滅した、女の愛に幻滅した!」

「女ってものは奥深いのよ。ねえ、花宴さん?」

「嘘だ、花宴さんはお前みたいなスレた女にはならん! トイレにだって行かないんだい!!」

「あーあー、夢見るチェリー君はこれだから。もう情けないったら」

「いや、十分お前も情けないと思うぞ」

「……あは、あはは。あははははは」

「「「花宴さん?」」」



 突然笑い出した私に、先輩達はきょとんとしてる。



「ごめんなさい、でも、その。先輩達のやりとりがおかしくって……」



 昨日気後れしたのはなんだったんだろう。全く、我ながらバカだと思う。みんなアタシに気兼ねなんてしてない。ただそこにあるのは、あの時見た、当たり前の関係。どこにでもある友達づきあい。私の周りには無かった場所。バカやって、すねて、いじけて、怒って、そして笑って。アイツがいたのは、アイツがノーマルになってから過ごした世界は、こんな世界だったんだ。
 それが分かっただけで、私はとても嬉しくて



「それと、メモありがとうございます。連絡取りたかったんです、助かります!」



 先輩達にお礼をして、私はまたクラスに駆け戻る。途中廊下を走らないようにと注意されたけれど、はあいと返事をしながら走り抜ける。明日はようやくお弁当渡せそうだ、そう思うと足取りも軽かった。



「待ってなさいよ、バカ眼鏡!」





☆☆☆





「……で。アイツん家、どこ?」



 昨日とはうって変わって、今日は快晴。まばゆい新鮮な陽差しが起き出し始めた街を照らす爽やかな朝、対照的に私は盛大に道に迷っていた。頭を抱え、さ迷う身にすら清々しい朝日がいっそ憎らしい。



「私ってこんなに地図が読めない女だったのね。凹むわ」



 立ち止まり、ひんやりした電信柱で反省のポーズを取ってみても、吐く息が白いだけで特に解決にはならない。むかつく。
 パソコンで住所と道のりも確認したし、試験会場への電車を調べて、家を出そうな時間帯もチェックした。後は普段よりちょっと早起きをしてお弁当を作り、念のためプリントアウトした地図を持って行けば全く問題はないはずだった。
 しかし考えてみれば、家と学校の往復はともかく、小さい頃からどこへ行くにもバベルのヘリやら車やらばっかりで、自分で道を探して目的地に行った経験などほとんど無い。今更気づいてもしょうがないが、住宅地はどこも同じような風景で、ぐるぐる同じところを回ってしまっているのかもしれず、でもアイツの家にはたどり着けず、時間ばかり過ぎ気がはやる。



「ちょっと上空から位置確認したいけど……」



 いくら時間が早いとはいえ、任務以外で飛んで仮に見られでもしたら、大問題になってしまう。自分が高超度エスパーだと吹聴する様な行為だからだ。保安義務もあるし、なにより文化祭の時、私は低レベルエスパーだとシラをきり通したアイツを裏切る事になりかねない。



「迷路で迷ったときは右手を壁に添えれば出口まで着くって言うけど」



 多分一軒家をぐるぐるして終わりだし、そもそも街は迷路ではないともう一人の自分がささやく。その通りだわね。



「仕方ない、橋の方まで戻ってもっかい確認するか」



 そして来た道を戻ろうとしてまた迷い、終いには出勤する人を捕まえて道を教えてもらってようやく戻ろうとした橋にたどり着く。余裕があったはずの時間もすっかりなくなり、慣れない街を歩き回ったせいで足はすっかり棒みたいになって、橋のたもとでぐったり座り込む。



「やだ。もうやだ。ホントやだ。アイツん家わかんないし、寒いし、足だるいし。今から行っても、きっともう間に合わないし」



 マフラーに顔を埋め、情けない自分に気落ちする。抱え込んだ紙袋の中にある手製のお弁当を見つめても、出るのは溜息ばかり。アイツにちょっとお礼がしたいだけなのに、どうしてこうなるんだろう。どうして何も出来ないんだろう。似合わない事をするからかしら。局長か、もしかしたらあの兵部ってのが邪魔をしている気すらしてしまう。



「せっかくダブルフェイスにも好物とか聞いて、好きそうなの作ったのになあ……」



 アイツがまだ10歳くらいの頃の好みだから今は違うかもしれないけれど、それでも喜んでもらえればと一生懸命作ったのだ。この前よりは指を切る回数も減って、指に巻いたバンドエイドも少なくなった。何回も渡せなかった分、多少は上手く作れたんではないかと思うのに。



「あーもー止めた。うじうじしててもしょうがないじゃない! 別なやり方でお礼すればいーのよ! うん、そうしよう!!」



 かけ声と共に立ち上がり、私はお弁当箱を取り出す。作りたてのお弁当は、まだほのかに暖かさを残している。



「今日は初音もいないし、川の魚にでも食べさせてあげた方がよっぽど訳にたつわね。もったいないけど、大体それもこれも全部あのバカ眼鏡の」

「……僕がどうかしたか?」

「え?」



 お弁当を川に投げ込もうと右手を振りかぶりかけた体勢のまま、声のした方を振り向くと、いつものバカ眼鏡が、きょとんとした顔で立っていた。



「な、ななななんでアンタこんなところにいるのよ!? なにしてんの!?」

「ここは僕の地元で、これからそこの地下鉄乗って、試験に行くところだよ。お前こそなにしてんだ」



 簡潔で明瞭な返答と共に指さした方向には、私も乗ってきた地下鉄の駅がある。通り道だったのね、ここ。



「え、ええっとそりゃあ、その、あの……」

「あの?」

「だから、その、だからね」

「?」



 もそもそ背に隠したお弁当箱を戻しながら、混乱する私。何をしようにも、心の準備が出来てなかった。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 お礼をすればいいんだけど、お弁当を渡せばいいんだけど。
 焦るばかりで何も出来ず固まる自分を誤魔化そうと、普段のように声を荒げた。



「だーもーうっさい! 私がどこで何してようとどうでもいいでしょ、そんなの!」

「良い訳あるか。こんな朝早くからこんなところにいて、何か用事でもあったんじゃないのか?」

「だからどうだっていいでしょ、もう! アンタってホントタイミング悪いわね!」



 でもアイツにも、良いところはあるんだよ。先輩の言葉が頭に浮かぶ。そう。言いたい事はこんな事じゃないのに、口をついて出るのは非難する言葉ばかり。違う。今日コイツに言いたいのは、今日言わなきゃいけないのは、お礼の言葉なのに。ありがとうって言いたいのに。分かっているのに、態度にも言葉にも出せない。



「全く。……悪かったよ、ごめん」

「分かればいーのよ」



 肩をすくめた眼鏡が型どおりに謝ると、私はようやく納得した風に取り繕えた。



「……何もないならもう行くぞ。電車の時間もあるし」



 じゃあな、と手を振って足早に地下鉄へ向かう。すぐに階段を下り始めるアイツの背中を見て、私は焦れた。まだ言いたい事一つも言えてない。したいと、してあげたいと思った事を全然出来てない。思わず待ってと差し出した手は自然とサイコキネシスをふるい、強引に引き戻した。
 コートの首を引っ張られた格好の眼鏡は激しく咳き込みながら



「げほっ、がほっ。こら澪、軽々しく往来で超能力を使うんじゃない! そもそもリミッターはどうしたんだ!」



 一体何なんだと叫ぶのを無視して、私は眼鏡の眼前に、紙袋をつきだした。



「あげる」

「はい?」

「だから、あげる。……お昼休みにでも、食べて」



 そっぽ向いていたから、どういう顔をして受け取ったのはわからないけれど、ゆっくり袋を開けたアイツは得心したのか、苦笑いして



「こないだ言ってた弁当?」

「うん、まあ。遅くなったけどさ、今日、大事な試験なんでしょ」

「だな。そうか……うん。澪、ありがとうな」

「ありがとうなんて言わなくて良いわよ、これは……こないだのお礼だからさ。こっちこそ、その……ありがとう」

「そっか」



 大したことはしてないけどな、とバカ眼鏡は照れくさそうに笑う。お前からお礼なんて世界が終わるんじゃないか、とでも言うのかと思ったらそんなこともなく、ただもう一言ありがとうとだけ言い、もう時間だからと改めて地下鉄へと降りていく。後ろ姿に小さく、助けに来てくれて嬉しかった、と呟いたのが聞こえたのだろうか。別れ際、アイツはこっちをむいて。右手に紙袋を高く掲げた。



「頑張ってくるよ」



 そう言って、姿はすぐに見えなくなる。見送って、私はまた橋のたもとに座り込む。さっきより、もっと疲れてへとへとだけど、お弁当が無くなった以上に体も気持ちも随分と軽くなっていた。高い淡い冬空を見上げると、ビルの形に切り取られた雲の色が一層鮮やかに見えた。



「頑張れ」



 伝わるはずもないけれど、一人、空に向かって言い放った。





☆☆☆





「どーしたんだね皆本君、腹痛だって?」

「お前拾い食いでもしたんじゃねーのか。落ちたもんを喰うには三秒ルールってのがあってだな」

「皆本君、大丈夫?」



 バベル医局のベッドで腹を押さえて丸まったバカ眼鏡を、局長やほたるさんが見舞う。椅子に座って背中を向けた私は、頬杖をついて首をひねっていた。



「おかしいわね、一生懸命作ったのに……粉末にした正露丸がいけなかったのかしら。それとも馬肉? イソアワモチ?」

「……澪」

「なによ?」

「お前もう料理作るな」

「どういう意味よっ!」

「そのまんまの意味だバカっ!!」



 相も変わらず私たちのチームはぎすぎすしているのだった。





こんにちは、普通でない人々です。
ものすごーくお久しぶりです。
まだ続ける気があったのか、と突っ込まれるのを覚悟で新作を投稿いたしました。
合作陣としてはもうちょっとこう、ペースアップしたいのですがいかんともしがたく。
せめて読者様には楽しんでいただけたら、と願ってやみません。

読者の皆様には、ゆるーくゆるーくお待ちくださいませ。
ではでは。



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