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ベターハーフ! 第六話前編



「見られたからにはタダで返しませんわよ、お・きゃ・く・さ・ま」



肩に食い込む爪は現か幻か、叶う事なら幻であって欲しい。
しかし、伝わる痛みがこれは確かな現実なのだと僕に教えてくれる。
はたしてここは地獄の三丁目、あるいは黄泉路の花畑。
こと「衆合地獄」は邪でみだらな行為をしたものが堕ちる地獄とは
よくぞ言ったものだと古代の聖人達に思いを馳せること0.5秒。
眼前に控え戸口に立つは、ツインテールを逆立てた鬼一人。
これほどに無駄な超能力の使いどころもそうは在るまい、と思いを馳せる暇も無く
瞬く間に僕は引きずり込まれていった、冥土喫茶、もといメイド喫茶に。






−ベターハーフ! 6話−





修学旅行から2週間ほど経った現在、学内は随分と騒がしくなっていた。
日増しに賑やかさを増していくことに不思議を感じ、考えを巡らすこと数秒。
そして結論に辿り着いた僕は、頷きと納得の声を漏らす。



「なるほどね、後輩達が浮ついていたのは学園祭が近付いてたからか」



その呟きにクラスメートの数名から驚愕の視線を向けられたが、意識的に気にしないことに決めた。
いや、確かに学生の身で学内行事をすっかり忘れるとか、何処のボケ老人かと自分でも思うけど。
追求を避けるためにそそくさと席を立った僕は、職員室にクラス日報を届けに行くために教室を出る。
廊下を歩いていると、立ち話中の生徒達による学園祭の話題も自然と耳に入ってきた。
修学旅行が終わってすぐに、その準備が始まったのだが
行事は一気にすませてしまおう、とでもいう学校側の心積もりなのか。
それを裏付けるかのように中高合同、なので騒がしさも倍。
でもまあ、僕もこんな雰囲気が嫌いな訳じゃない。
どちらかと言えば、好ましいくらいだ。
クラス日報を届け終えた帰り、ついでとばかりに準備を見物しようと、違う学年の廊下を通り抜けていく事にした。
普段なら見慣れぬ乱入者は下級生達の目を引きもするのだろうけれど
皆が皆与えられた役割をこなすために奔走しているせいか、気兼ねなく祭り前独特の熱気を楽しむことが出来た。
占いの館、露店、お化け屋敷、部活の展示、クラスの出し物の練習。
様々な準備が重なり合ってごちゃごちゃと雑然に進められている。
下ごしらえからカレーを皆でわいわい言いながら創る、そんな雰囲気が僕の心を浮き立たせた。

目まぐるしく飛び込んでは出て行く男子達
きりきり舞いになりながら指示を飛ばす女子生徒
それを尻目に上手くさぼっている奴ら
共同作業にかこつけておしゃべりを楽しむ友人達
仕事の合間を見ては、進み具合を確認に来る先生達

昔の僕らと変わらない風景にいくらかのおかしさと懐かしさがこみ上げてくる。
高3になった僕は我慢しなくてはいけないのが、少しばかり寂しい。



「……そろそろ行くか」



頃合いだと足を本来の教室に向けたとき、振り向きざま誰かとぶつかった。
二の腕に感じた軽さと柔らかさに、反射的に相手が女性だと気付く。



「きゃっ?!」

「おっと、ごめん。大丈夫?」

「こっちこそ、すみません。なんともありませんから」



転ばせてしまったのはどうやら中等部の女子で
でも声をかける間もなく、彼女は軽く汚れを払うとすぐに駈けていってしまった。
差し出した手は宙をさまよい、所在を無くした手をついとポケットに戻す。
悪いコトしたなと彼女が走っていった廊下の先を見つめ
改めて戻ろうと踏み出した右足に、何かがつっかかった。



「ん? 落とし物か」



最近更新したばかりなのか、随分と真新しい生徒手帳だった。
表面には目立った汚れも無く、まだゴムカバーの匂いさえ残っている。
裏返して、ビニールのすかし部分を見てみれば、名前欄には『梅枝ナオミ』と記載されていた。
貼り付けられた写真から、幼さを残したままの笑顔がこちらを見詰め返している。
やはり中等部だ。三年、ってことは彼女は澪と同学年か。
一分とかからない逡巡を経て、拾った生徒手帳片手に僕は中等部校舎へと足を向けた。





☆☆☆





「こっちもやっぱり、随分騒がしいな」



バベルに復帰する際、澪に手紙を叩きつけてから訪れることもなかった中等部校舎でも、みんな学園祭の準備に追われていた。
大学受験を控えた僕ら高等部3年と違い、中等部3年はエスカレーター方式で進学出来るから
学園祭に向けていやがおうにも盛り上がっている。
手帳を返すにしても担任の先生に渡しても良かったのだが
転ばせてしまった事がどうも引け目に感じられて、僕はここまで届けに来た。
わざわざ中等部の校舎にやって来ているのは担当エスパーである澪の様子を見に来た、わけじゃない。
誰が好き好んで猛獣の檻に首を突っ込むようなことをするか。
まあともかくも、かつては過ごした校舎、隅々まで勝手知ったるなんとやら。
今度は邪魔にならないよう視界を広く持って注意深く歩いていると
窓を開け放しているわけでないのに廊下を一陣の風が通り抜けた。



「あれは……」



風は人、いや獣だった。
縮れ毛のロング、野性味溢れる雄叫びに隙の無い身のこなし。
何より口に加えたお魚と両手に握った赤い小箱が示すのは、旺盛な食欲。
全ての要素が、疑いなく『彼女』の存在を示している。犬神初音君だ。
そして、彼女がいるということは当然



「まてこら初音、クラスで試作品作るための食材くわえて逃げるんじゃねー!!」



続いて、上履き履いて駆けてく男子生徒はやはりというかなんというか宿木明君で。
普段すましげな顔を、今は引きつらせて叫んでいるのは専属コックだから
ではなく、保護者……じゃなくてまがりなりにもパートナーだからだろう。
そして更にそれに続き、すっかり僕の耳に馴染んだ声が響いた。
近頃とみに頭痛の種になっているその声の主もまた
ツインテールを振り乱しながら廊下を全速で走り抜けていく。



「どさくさに紛れてアタシのお菓子も持って行くなー!!」



廊下を走るなよ、いやその前に学校にお菓子持ってくるな。
そう言う間もなく、澪は僕の脇を駆けていった。
まさか中等部にいるとは思っていないせいだろう、見えてはいても意識の外だったに違いない。
気づいた様子も無く、元気よく初音君を追っかけている。



「ま、なんだかんだ上手くやれてるみたいで結構」



走り去るその後ろ姿に、いくらかの安堵を覚えた。
いつもお菓子を巡って、初音君といがみ合うのは勘弁して欲しいが
局長の提案もまんざら悪くはなかった、その証明には違いないのだから。
最終的な結果がどうなるかはまだまだ不透明だけども、遠ざかる彼らの靴音はバベルでの一件を思い起こさせた。





☆☆☆





「グリシャム大佐達の脱走が不問になった?」

「うむ。正確には不問になった、というのではなく
 あれは反エスパー団体『普通の人々』による誘拐であった、との報告書と証拠がコメリカ軍内部で受理されてね」

「いや、それは」



さすがに無理があるでしょう、と言いかけたところで局長がゆっくり振り向いた。
窓に入る西日を受け、元来堀の深い顔立ちに影が落ち、元々暗かった表情が益々苦々しい印象を強めている。
朧さんもまた表情を硬くし、バインダーをきつく抱きしめていた。



「……グリシャム大佐が不問になったのは、嬉しいですけどね」



あれだけの騒ぎを起こしたのだ。
特務エスパーすら出動させたバベルの見解としては、迷惑千万というのが正しいところだろう。
だけど、僕の大佐への印象は違っていた。
昔の事もコンパスの件もあるが
なによりメアリーが大佐を怒る様が、僕の大佐への印象を改めて深くしたからだ。
宥めるケンの言葉にも耳を貸さず、大佐を怒鳴りつけるメアリーのまっすぐで激しい感情は、思慕とすら言えた。
なんで自分にも話してくれなかったのか。
必要なことだったかもしれないが、なぜ最初から協力しろと言ってくれなかったのか。
それが悔しい、と。
大佐とメアリーを見て、僕と澪の間にそんな関係を築くことが出来るだろうかと繰り返し自問した。
だけどいくら繰り返しても明確な答えは出ず
もう一度だけでも直に会って、話をしたいと思うようになっていた。
様々な大佐の経験を、僕に聞かせて欲しかった。
その為にもグリシャム大佐が軍刑務所に入る事態が避けられて安堵したが、事態はそんな単純な話でない。



「あからさまな工作なのだけどもネ。
 グリシャム大佐からも問い合わせがあった。君たちバベルがやったことか、と……」

「もちろん、バベルの工作ではありません。
 そんな事をすれば私や局長の耳に入らないはずもありませんから」

「確かにそうでしょうけれど……。でも一体誰が、何のために?」



部屋を沈黙が支配する。
誰も知りようがない答えを出そうにも、暗闇に当てる光はもう落ちかけていて部屋の中には届かない。
局長は、身振りで僕に着席を促した。



「コメリカ軍相手にこれだけの仕掛けをするには
 高度な組織力と超度の高いエスパーが、それも複数必要だったはずなのだヨ」



いくばくか迷いの色が浮かんだ後、局長は意を決したように目線で朧さんに合図を送った。
朧さんは淀みなく、バインダーから資料を取り分け、僕に差し出した。
極秘の印字がなされたその資料には、初めて見聞きする単語が羅列されている。



「アーレ・ルギア……これって、確か中東で活動してるテログループ。
 ブラック・ファントム……パンドラ……他のは聞いた事無いな……」



そこに記された内容に、僕は息をする事すらも忘れて見入ってしまっていた。
エスパーによる犯罪組織の噂を聞いてはいたが、ここまで詳細な情報を知らされる事は無かったし
これほどの規模、これほどの活動があったとは全く想像の範囲を超えている。



「あまりに急激なエスパーの増加はノーマルとの対立を生み
 それが普通の人々に代表される反意となって表れ
 更には社会システムの不安定化を呼び寄せてしまっている」

「そして、それが力を持つ人々、つまりエスパーによるエスパーの為の結集や
 能力を利用してのテロ活動などを起こす原因にもなっています」



公表出来ないのも頷ける。
これを一般に流布しようものなら、それこそ潜在的に貯まったエスパーに対する『悪意』をすら表面化させてしまうだろう。
だが局長達が話す内容と僕に見せられた資料、そしてグリシャム大佐の一件が少し乖離してはいないか。
そう問いただそうと顔を上げると、待ちかまえていたかのように局長は居住まいを正し、告げた。



「今回の件でなにより問題であったのは」

「私たちバベルですら緊急的に対応した事態が、こういった組織に逐一監視され
 果てにはもみ消しすらされてしまったという事実なのです」



朧さんが続ける。
これはかなり危険な事態です、と。
お前達の動静は筒抜けで、我々でどうにでも出来るのだと宣言されたも同義で
だからこそグリシャム大佐も危機感を持っているのだと言う。



「ですから、私たちはある計画を実行に移す事にしました」



朧さんが先鞭をつけ、そして局長が続けた。



「前々から考えていた事ではあるのだけどもネ。
 この際バベル所属エスパーで、君たちの様な学生達を一つの学校に集めてしまおうかと考えているのだヨ」





☆☆☆





「最初はどうなるかと思ったけど」



事情はどうあれ今の様子を見る限りでは、きっと良い方向に向かうと思える。
そうでなければ、エスパー同士が集まった意味も無い。
もって生まれた能力ゆえ、どうしても高超度エスパーは周囲から弾かれがちだ。
だから溶け込めない、臆病になる。
普通の人たちと交わることが怖くなる。
そしてまた余計、孤立していく。
この悪循環を打破したい、局長の真摯な想いが底辺にはある。
単純なセキュリティ上の問題だけでは決してないのだ。



「……ちょっとだけうらやましいかもな」



僕が10歳の時、チームメイトや仲間はいなかった。
これは特に図抜けた僕の能力故ではあったけれど
同年代のエスパーといられるのがどれほど幸運なのか、今なら分かる。
気の置けない連中といられることが、どれだけ救いになることか。
きっと、澪達は今はそれをわかってはいないのだろう。
でも、あいつらの『今』を大事にしてやりたいと思ったからこそ、局長の提案にも僕は同意した。
自分本来の力を、高超度エスパーであることを隠さなければならない事に変わりはないけれど
それでもエスパーの仲間と、そしてノーマルのクラスメイト達と一緒に過ごせる経験は必ずプラスに働くだろうし
僕は彼女らをそう方向付けなければならない。
もしエスパーだけのクラスがあったとして、そこは幸せなのだろうけれど、きっと空しい場所だろうから。
いつか何のわだかまりもなく、皆が皆それぞれに楽しく過ごしてほしい。
そして、もし。そこに僕の居場所があったなら……。



「さすがに、考えが飛び過ぎか」



遠い夢を振り払ったとき、突然間近で誰かが甲高い声を上げた。



「ちょ、ちょっとそこどいてくださいー!」

「えっ?」



思索にふけっていた僕の目に飛び込んできたのは、落ちかかる本の波。



「避けてー!」



時すでに遅し。
言われた時には既に、脳天に勢いよく本が突き刺さっていた。





☆☆☆




「あててて」



倒れ込みそうになるのを片膝を付いて防ぎ、どうにか体勢を保つ。
痛みをぐっとこらえ、息を吐き出す。
反射的に閉じた目をゆっくり開け、見ればそこにあったのは秋空に浮かぶ雲みたいに純白の下着。
蝶ネクタイのプリントが可愛らしいね、って、え、え、え?!



「ご、ごめんなさい。大丈夫でしたか……?」



本を傾けたはずみに一緒に転んだのか、女の子が裏返ったスカートの痴態に気付きもせず僕に謝ってきた。
どうしよう、言うべきだろうか、言わないほうが良いのだろうか。
言ってもまずい気がするし、言わなかったらそれはそれでまずい。
いつまでも視線を落としてもいられず、僕は彼女の顔を見た。



「あ、君は」



ついさっきもぶつかって手帳を返そうと探していた、梅枝ナオミさんだった。
整った顔立ちと柔らかな雰囲気を纏い、可愛いと言うよりは綺麗といった形容が似合うかもしれない。
癖のない黒髪がさらりと肩口まで届き、所作一つでなびき良い香りを立てた。



「澪とは大違いだな……」



思わずそんな言葉が口をつく。
だけど何を勘違いしたのか、梅枝さんはくったくない笑みを浮かべた。
今更ながら僕は現在の状況に耐えられず、つと視線をそらした。



「あ、僕は大丈夫なんだけど……君が、その、さ」

「私ですか、私は大丈夫で……って、きゃあっ!!」



わざとらしく大きく体ごとそむけた動作に、何事かと思ったのだろう。
彼女は大あわてで足を閉じ、スカートを内股にかきこんだ。



「見たんですか、見たんですねっ?!」

「いや、見てない……って言ったら信じてくれる?」

「信じられませんっ!! あーん、もうお嫁いけない!」



耳どころか首筋まで真っ赤になり、怒りを湛えた涙目で僕を見据えるその姿には清純さが溢れていた。
責任取ってくださいねといわんばかりの抗議の意志を込めた目線に僕はどう返していいかわからず
散らばった本を片付けることも出来ず向かい合っていると、背後から聞こえてきたのはちんまりとした悪魔の叫び。



「中等部で何してる、この変態っ!!」

「うごぁっ?!」



後頭部直撃の跳び蹴りに、前頭部が勢いよくコンクリの廊下にご挨拶した。
打撲骨折とか脳挫傷とかの言葉を知ってますかこの野郎。



「ついに! ロリコンに! 走ったか! こ・の・馬鹿スケベ変態メガネっ!!」



そのままの勢いで背に馬乗りした襲撃者、はっきり言ってしまえば澪が
逆エビぞりを仕掛けて、ついでに流れるような動きで腕関節すら決めてきた。



「プリンセス脇固めっ!!」

「何処でこんな肉体言語をっ!?」

「サブミッションこそ王者の技よっ!!!」



ここんとこの筋力強化で付けた力を無駄に使いやがって。
てーか◎魔法峠なんだな、そうなんだな。漫画の読みすぎだコンチクショウ。



「つーか人聞きの悪いことを言うなっ!!
 それに俺は◎やたんじゃねえんだぞっ!!」



脇固めを抜けた所で、背後に回った澪がチョークスリーパー。



「用もないのに中等部に来てる時点で十分変態よっ!!」

「僕はこの子に生徒手帳を返しにきただけだっ!!」



どうにか首から手を外させた所にヘッドロック。



「ナオミの生徒手帳盗んだのか貴様ー!!」

「だから話を聞かんかい、このどアホっ!!」



力ずくで頭を抜いたかと思えばアメリカーナ。



「アホって言ったヤツがアホなのよっ!!!」

「それなら今のお前は二重にアホだっ!
 てか、えー加減にプロレス技自重せんかいっ!!!」



更にはアキレス腱固め、と地味に痛い技を喰らいながらも抵抗しまくる僕。
お前、何処のプロレス団体に入門する気なんだオイ。
そこにようやくというか、慌てた感じで救いの声がかけられた。



「ちょっと澪ちゃん、そこまでしなくても大丈夫だから?!」

「いいのよ、こいつには一回思い知らせとく必要があんのよっ!!」



梅枝さんの制止にもかかわらず、ますます澪の仕掛けはきつくなっていく。
手の筋を突いて抜け出そうともがいていると、梅枝さんの声がもう一段大きくなった。



「ね、ホントに! アタシもう怒ってないから! ね、ね!?」

「……ったく、もう。ナオミがそこまで言うんなら許してやるわ」



瞬間、僕の身体は痛みから解放された。



「良かったわね。最後に足4の字とかSTFとか掛けて肉骨粉にしてやろうと思ってたんだけど」



そこまでの事を僕は何もしていないぞ、と言いたくとも悲鳴を上げた身体からは荒い息しか出てこず、胸が弾んでいた。
廊下に突っ伏しどこか遠い感触で冷たさを味わっていると、梅枝さんが僕の肩を揺らした。



「ごめんなさいごめんなさい、大丈夫ですかっ?!」



大丈夫じゃないですと呟きながらも、しばらく立ち上がる気にはならなかった。
それに謝るべきは貴女ではなく、その後ろでふんぞり返ってる馬鹿者ですから。





☆☆☆





「もうちょっとで塗り終わりますから……」

「ありがとう。ごめんね、澪が迷惑かけて」



保険医さんもとうに帰ってしまい、夕日だけが差し込む保健室。
出血こそなかったけれど、筋を痛めたかもしれないと梅枝さんが僕の治療を買って出てくれていた。
薬の匂いが苦手な僕は病院には足が向かないのだけど、今は爽やかな果実の香りがほのかに香っていた。
恐らく、これは梅枝さんのシャンプーの香りだろう。
間近でそんな香りに当てられて気恥ずかしいからと断ったのだけれど
梅枝さんはそれを固辞した。
本当なら梅枝さんは僕に少しは怒りたいのかもしれないけれど、澪のプロレス技で気を抜かれてしまったのか
幾度か澪を見やりながらも、僕の腕や足に丁寧に薬を塗りこんでくれていた。
その様子に、梅枝さんの素養の良さを見た気がしていた。
そもそも自分のせいでもないのに、まるで我が事のように親身に心配をしてくれるのは、生来の性格故だろう。
そして僕に傷を負わせた当人はと言えば、少し離れたベッドに所に腰を下ろし
なぜかちらちらと、こちらを見ては一人ふて腐れている。
ふて腐れたいのはこちらだし、少しは手伝ったらどうだと言いかけて
僕の気持ちを代弁するかのように、宿木君の声が重なった。



「皆本さんも生傷が絶えないッスね」



廊下で討ち死にしてる僕を、保健室まで運んでくれたのは彼だった。
逃げ回る初音ちゃんを捕まえてから教室へと帰る途中だったらしい。
しみじみとした口調で、かつ心底といった態で宣う彼の側には
皆本さん『も』という言葉に重みを与え続ける存在である初音ちゃんが
口寂しいとばかり指を加え、こちらをじっと見つめている。



『早く終わらないかな』



僕には既にテレパシーもなにもないが、初音ちゃんが言いたいことは顔を見ればすぐに分かった。
さっさと切り上げて、犬神君の作る食事にありつきたいのだろう。
まあ澪達にしても文化祭の準備があるだろうし、僕も僕で用事も済んだしそんなに暇じゃない。



「……いつもの事だしね」

「なによ、人聞きが悪いわね。普段は別に何もしてないでしょ」



やっとしゃべったかと思えばこれだ。
日本海に向かったヘリの時とか、訓練の時とか
指折り数える気も無くなるほど何かされた記憶があるのは、いったいどういうことだろう。
こうして一応は、まあ、コミュニケーションの態を成しているだけでも、たいした進歩だと思いたい。
というか思いたい。思わせろ。思え僕。ファイトだ僕。



「まあいいよ。じゃあ行くけど、迷惑かけて悪かったね、梅枝さん」

「いえ、こちらこそ。どうもすみませんでした、皆本さん」



せめて澪の口から聞きたかった言葉だけどね。
そう思いながら教室に足を向けたとき、僕ははたと気づいた。



「あれ。そう言えば、なんで梅枝さんが僕を知ってるんだい?」

「なに、アンタ知らなかったの?」



逆に澪から質問を返される。
知らなかったのと言われても、何の事やら僕にはさっぱりだ。
宿木君と初音ちゃんもまた、澪と同じ様に意外という言葉を顔に貼り付けていた。



「ナオミは特務エスパーなのよ。
 初音達と一緒に転校してきたんだから、それだけでもわかりそうなもんだけど」



ああ、だからだったのか。
澪の行動や宿木君達の反応に納得し、改めて梅枝さんと視線を交わした。
恥じらいで顔が伏せられ、だけども彼女は敢然と立ち上がって僕に宣言した。



「……改めてまして。
 特務エスパー”ワイルドキャット”梅枝ナオミです。
 どうぞよろしくお願いします」





☆☆☆





「すごいな、各種テストの結果が澪とは段違いだ」



放課後、バベルに場所を移した僕らは超負荷環境訓練室に来ていた。
朧さんから貰った梅枝さんの資料に目を通し、舌を巻く。
超度6サイコキノ。それが彼女の能力だが、澪のように複数能力を保持している訳ではなかった。
だが、同じ材料を使った同じ料理であっても、仕上がりがまるで違っていたとでも言えばいいのだろうか。
超度は澪と変わらないはずなのに、正確性や連続性、持久力が全く違う。
サイコキネシスは力の収束が出来るか出来ないか、それを持続して制御できるかで結果は異なってくる。
澪はあれで最近格段の進歩をしたと考えていたのだが、上には上がいたって事か。



「ナオミちゃんは、能力発現後すぐにバベルで預かることになったんだけど
 あの性格でしょう。色んな事を吸収するのも早かったらしいわ」

「結構昔からバベルにいるんですか、梅枝さん」

「五年前からだから、皆本君のちょっと後くらいになるのかな。
 今は呉竹寮、バベルの女子寮ね。そこに入ってるわよ」



学校と同じように、所属エスパーを一カ所に集めている寮らしい。
セキュリティの兼ね合いもあるんだろうけど、悪い虫も付かないだろうし
機密を保持する点からもきっと良い手段なんだろう。
……ん、いや待てよ? 女子寮、なんだよな。



「朧さん、そこってもしかしてバベル所属の女性エスパーは大半が入寮していますか?」

「そうとも限らないわよ、澪ちゃんは実家だし。
 ダブルフェイスの二人も最初は入っていたけど、ほたるちゃんは二十歳になったらすぐに出て行ったしね」

「あの二人が寮にいたんだ……」



どおりで自己紹介をした後に、僕を見てはきょときょとしていた訳だ。
絶対に奈津子さんかほたるさん、もしくは二人が、梅枝さんが僕らの学校に転向することになった時点で
尾ひれつけて喋らなくとも良いことを喋って、喋らなきゃならないことを言っていないに違いない。
下手すると僕は澪をつけ回すストーカーくらいに思われていても、全く不思議は無い。



「あら、でも今日の《事件》でもナオミちゃん怒らなかったんでしょう?
 悪く思われてない証拠だわ」

「いや、そりゃ不可抗力ですから。
 澪みたいにいきなり蹴りを入れる方がどうかしてるんですよ」

「ふふ、澪ちゃんもお転婆ねえ」



後頭部への蹴りをお転婆の一言で済ましますか朧さん。
いつものように微笑む彼女を横目に、まだ傷む頭をさすってガラス越しに澪を見る。
澪と梅枝さんは特別製超能力養成ギブス【強靭の星】を装着して、件のちゃぶ台返しに挑戦している真っ最中。
以前澪は筋力でもってひっくり返してしまったちゃぶ台だけども、今回はそれすら出来ないように仕掛けを施した。
ギブスに仕込まれたECCM群に等しくサイコキネシスを浸透させ、機能を不活化しないとギブスは軟化しない。
収束と開放、その二つが同時に訓練できるのだが、その分エスパーにかかる負担も大きい。
3セット目に入った訓練で、澪の息はもう上がっているのに対して、梅枝さんはまだ余裕があるように見受けられる。
目を閉じて集中しきった彼女の顔を見つめ、不意に純白の下着が浮かぶ。



「いやいやいやいやいや。
 違う違う、そうじゃなくって」

「ふ〜ん、真っ白な下着ねえ」

「皆本君も大人になっちゃったのね……。
 奈津子姉さん悲しいわ。そんなに見たいのならアタシのをいっくらでも」

「いや、別に奈津子さんのを見たい訳じゃ……って、いつの間に入ってきたんですか!!」



タイミング良すぎです、てか遠隔透視能力とか精神感応使ってたな、奈津子さんとほたるさん。
ただでさえ気むずかしい澪を相手にしてるのだから、人格全否定な盗み読みは本当に勘弁してください。
ガラス越しで声届かないのが救いだけど、全く聞かれたらどうなる事やら……。



「ナオミー。皆本君がもう一回パンツ見たいってー」

「なんだったらブラもだってさー」

「指示用のマイク握ってそんなこと言うなそこの馬鹿女二人組っ!!」

「ま。皆本君もお盛んねえ」

「朧さんも余計な事言わないっ!!」



次の瞬間、あっさりとちゃぶ台をひっくり返す澪の雄姿を僕は見た。
わーい、やればできる子なんだなお前は。だからそんな目で此方を見ないで欲しい、怖いし。




☆☆☆





「この変態眼鏡が……」

「僕はその言葉に断固抗議したいぞ澪」



奈津子さんのおふざけの後、また一悶着あった。
強靱の星を付けたままに迫る澪の後ろに揺らめく炎が立っていたのは、きっと気のせいじゃない。
全く、肩で息をしていたのは演技だったのかお前。
恨み節を真正面からぶつけて見るが、澪はどこ吹く風だ。
このところの筋トレの成果(澪にカマされた時の為の備え)で僕も耐性が付いてきたのか
超度6で壁にめり込まされても身体が痛いくらいで済んではいる。
間に入った梅枝さんはおたおたするばかりだが、どうして下着を見られた彼女でなくて澪が怒っているのやら。
女の事は彼岸の彼方だとは誰が言ったか、僕にはやっぱり女性の心理は分かりそうもない。



「梅枝さんもごめんね、巻きこんじゃって」

「あ、いえ。そんな事ないです。……えと、それから」

「なに?」

「私の事は、ナオミでいいです。
 みんなにも、そう呼んで貰っていますから。
 名字だと、なにか慣れ無くって」

「そう。じゃ、そう呼ばせて貰うよ。
 ナオミ……ちゃん、でいいのかな?」

「はい」



無垢な笑顔を見せた彼女の頬は、少し紅潮しているようにも見えた。



「鼻の下伸ばしてんじゃないわよ、馬鹿眼鏡」



そこになんだかドクダミの声が重なった様にも思えるが、とりあえず流そう。
とにもかくにも僕に分かることと言えば、超能力のことくらいだ。
サイコキノとしては澪より梅枝さんが余程に優れているのだが、果たして彼女の担当官は一体どんな人物なんだろう?
難しい年頃の女の子をあそこまで育てるのは、どれだけの気遣いと精緻な計画、そして努力と忍耐がいったろうか。
梅枝さんの姿そのものは、少なからぬ僕への自戒でもある。
僕と澪は、まだまだ甘いのだ。グリシャム大佐の様になるには、まだまだ研鑽が必要だって事だ。
丁度良いとばかり傍らにいたダブルフェイスの二人に聞いてみた。



「ナオミちゃんの担当官、谷崎主任ってどんな人なんですか?」

「「…………」」



途端に顔を顰めて口を噤む二人。珍しい光景だった。
二人が何かを笑う様子を見た覚えさえあれ、苦虫を噛み潰したような表情はついぞ拝見したことはない。
彼女らの様子に目を白黒させていると、そこに響き渡る嬌声。



「L. O V E ラブリーナオミー!
 嗚呼、今日も君は輝いているよ!
 夏の太陽にも、冬の満月にも負けぬほどに!
 さぁ、遠慮する事は無い、訓練を終えたのなたら
 その心の渇きを癒すため私の胸に飛び込んでおいで!!」



うん、馬鹿がいた。
僕が抱いた、率直な感想である。
それはまごうことなき馬鹿であった、しかも中年の馬鹿。結構救いが無い。
とりあえず僕は、BABEL職員としての義務として警備員に通報をしようとした。
しかし、沈痛な表情でダブルフェイスがそれを押し留める。



「皆本君……アレが君が言ってたナオミの担当官、谷崎主任よ」

「――――――は?」



言葉に詰まる僕。いやそんな、またまた冗談キツイことを。
あんなロリコン気味エロ髭親父がナオミちゃんの担当官だなんてそんな馬鹿なことが 



「性格はともかくとして、能力はちゃんとしてるのよ?
 ほら、ナオミちゃんもその点だけは認めてるみたいだし・・・・ね、聞いてる?」 

「何気持ち悪いこと叫んでんだこのクサレ髭がーーーーーーっ!!!」

「ぐごはぁっ!!?」 



あるようだった。
ダブルフェイスの言葉もさる事ながら
本人が飛び蹴りかましてる姿で、僕は何となく納得できた。



「……て、ナオミちゃんが跳び蹴り」

「ナオミちゃん、特定の、とゆーか中年スケベオヤジのエロスを感じるとちょっとだけ性格が激しくなっちゃって……」

「実家がしつけに厳しかったらしくてさあ。時々暴発すんのよねー」



奈津子さんほたるさん、二人の言葉から察するに周囲がその性格を和らげようと努力したのは徒労に終わったらしい。



「ま、皆本君はまだ中年じゃないしー。
 大丈夫じゃない、たぶん?」

「……そっすか……」



奈津子さんの気遣うような言葉も、今の僕の耳には入らない。
実のところ、僕が打ちひしがれている理由は
谷崎主任とやらが蹴り飛ばされる瞬間に恍惚とした笑みを浮かべていたからではなく
またナオミちゃんの人が変わったかのような変貌ぶりを見たためでもない。
頭を抱えているのは、暴力をかまされる谷崎主任の姿と自分とを照らし合わせて
ああ確かに担当官なんだ、と一瞬でも思ってしまったせいであった。
殴られたり蹴られたりする姿が一番説得力感じるのってどーなんだろう?
その一点でだけならば、僕と谷崎主任は心の友と書いて心友とさえ呼べるかもしれない。
いや、呼びたくはないな絶対。



「あ、でも皆本君も襲ったりしなければ被害には遭わないから大丈夫よ?」

「いや朧さん、襲わないですから。
 まあ既に被害には遭ってますよ、実行犯は澪ですけどねー」

「あれはあんたが悪いんでしょ」

「不可抗力だと何遍言えば分かるんだ、お前は」

「頭の中でリフレインしてたくせに!!」



またしても澪は顔を真っ赤にしてこちらを睨み付ける。
まずい。僕の心臓はどこかの民が戦いに赴くドラムのように高らかになり始め、一瞬でピークに達し



「そんなにパンツ見たいんなら、夢の中で一生見とけこの変態っ!!」

「のぐはぁっ?!」



ダッシュで逃げようとしてかなわず。
やっぱりバベル指揮官って体力勝負なのね、と
遠慮無しフルパワーの圧力に遠くなる意識の底で僕はしみじみ感じ入っていた。






☆☆☆





「……知ってる天井だ」



見慣れた白塗りの天井が目に入って、僕は自分がどこにいるのか悟った。バベルの医務室だ。
無機質な白さは、いつまでも好きにはなれない。この薬くささも、だ。
今回は、気絶してからどれだけ時間が経ったのやら。
毎度毎度の事にうんざりしながらもゆっくり身体を起こすと、ほのかに漂った甘い香りに、ベッド脇の気配に気づいた。



「……澪。なにやってんだお前」

「なにやってんだ、とはご挨拶ね」



恐らくはナオミちゃんか、朧さんあたりに言われたんだろう。
視線を合わすまいとはしながらも、さすがに声は上ずって、気まずさがにじみ出ていた。
ナオミちゃん本人が怒るならともかくも、僕が澪にここまでされる謂われは無いと言えば無いのだから。



「そもそもアンタが悪いんだからね。たく、スケベでしゃーないんだから」



言い訳にもならない言い訳で口を尖らせる澪。
それきり僕らは黙り込んでしまって、部屋の蛍光灯がじーと音を立てるばかり。
カーテンは閉じられているが、隙間から見える外は暗く、すっかり夜のとばりが下りていた。
他のみんなは、もう帰宅しただろう。



「全く……。大体お前、僕がどう思っていたなんて、プロレス技かけてた時にいくらでもわかっただろ」

「……アンタ、あたしが読んでたとでも思ってるわけ?」

「違うのか?」

「違うわよっ!!」



がたんと激しい音が響き、パイプ椅子が弾かれ床に倒れた。
険しい顔で僕を見据えたかと思えば、澪は荒々しく足音を立て、部屋を出て行こうとドアノブに手をかけた。
だが、手をかけたまま、澪は呟いた。



「なんだってアンタは、いちいち言わなくて良いことを言うわけ?
 あたしの事嫌いなのは、もう十分わかってるわよ」



肩を寝かせた姿勢故だろうか。
元々あまり大きくもない澪の背中が、余計小さく映った。
言葉を待つ澪に、僕は自分の無神経さに改めて気づいた。



「……すまない。そうだよな、サイコメトラーが、なんでもかんでも読んでる訳じゃない」



わずか七年前、僕もそうだったように。
不用意な事を言った謝意と自戒を込めて、ツインテールのたなびく背中に告げた。



「見ないで居る幸せを、サイコメトラーが知らない訳がない。
 読まないようにしてることだって、たくさんあったよな」



近づくだけで避けられた。触るだけで恐れられた。だからこその矜持。
例えそれが相手にとって意味を成さなくても、自分が自分であろうとする為の。



「……ふん」



息を抜いたと同時に、澪の身体から堅さが取れた。
それを見てほっとするが、その心中は出来るだけ表さないようにしながら
代わりに、冗談を口にするような軽い感じで



「だけどお前さ、こんな痛めつけるくらいなら、読んでくれた方がありがたいんだけども」

「だから、あんたのは読まない様にしてんのよ」

「なんでだよ。こっちもこう何度も医務室送りになるのは勘弁してほしいんだけど、さ」

「そりゃ、それは、その、さ……。ああもう、どうでもいいじゃない。うっさいわねっ!!」



澪が逃げるようにして、今度こそ勢いよくドアを開けた。



「「「「「「「きゃぁぁぁぁぁっ?!」」」」」」」



奈津子さん、ほたるさん、局長に朧さん、ついでに犬神君に……君もか宿木君。
総勢七名が押し入れに詰めすぎた布団みたく飛び出てきた。
一番上にのっかてるのはナオミちゃん。
薄ら笑いを浮かべる皆に、固まる僕ら。



「あの」

「もしかして」

「「……聞いていました?」」

「あはははははは、聞いてないわよ? ねぇほたる、ナオミ」

「そうそう。たまたまよねえ、奈津子」

「ごめんなさい、澪ちゃんっ!」



ぷるぷると震える肩、俯きがちな顔、ゆらめくツインテール
どんな形相を浮かべているかは、蒼褪めた宿木君の顔を見れば想像に容易い。
そして、僕が静止の声をかけようとした瞬間



「ふざっけんなー!!!」



局所的に出現した暴風、吹き飛ぶ備品。
いくつもの壁を粉砕して、医務室が消し飛んだ。
とりあえずその日、僕は色んな意味でバベルにお泊まり確定と相成った。




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