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絶対可憐オペレーターズ 哀愁のカルボナーラ

 サン・マルコ広場を一望する“カフェ・カルボナーラ”―――

 絶世の美貌を持った間諜の女。その女が偶然すれ違った男、ボルサリーノの良く似合うマフィアの男に恋をする。

 2人は出会うと一瞬で燃えるような恋に落ちる。オープンテラスで見つめ合い、エスプレッソの薫りに誘われながら女は突然こう言うのだ。

「モンテヴェルデもロッシーニも退屈だわ…… ねぇ。あなたに恋をしても良い? 」

「僕の腕の中も案外退屈かもしれませんよ? ロッシーニ程では無いにしろ」

 男はボルサリーノの庇を下げながら答える―――――

 新月の夜、星空に打たれてカナル・グランデをゴンドラで下り、リアトレ橋のたもとで囁き合うような口づけを交わす。
 ベッドの上では狂おしい接吻で躰を焦がし、硝子細工を愛でる様に―――指先だけで互いの造形を確かめ逢う。


 ここで一行空けて、小鳥のさえずりで目を覚ます。


 シーツに包まれた私をやさしく抱きかかえると、彼がはね窓を開ける。
 差し込む眩しさに瞳を閉じると、彼は私の長い髪を掻きあげて耳朶を噛む。
 すると彼は私にこう囁きかける。

「僕は大切なものを失ってしまった……もう昨日の君に恋する事が出来ないなんて………… 」

 眼下に広がるマッジョーレ湖の水面には二人を祝福するように――――――



「ク……クサい。クサすぎる…… 」

 そこまで書いて一旦ペンを置いた。

 カラダをクネクネヒネリながら身悶える。

 手元に置いたお気に入りのカップ。ロナルドドッグと愉快な仲間達。その中でも特にお気に入りのキャラクター……トラをモチーフとしたそれが大きくプリントされたカップを手に取った。はちみつをたっぷり注いだホットミルクが喉と心を潤していく。
 座ったまま大きく伸びをすると、左右にカラダをヨジル事2度3度。ついでにブルルっとさらに身悶えする事1回。うら若き少女の心を持ったその女は再びペンを握った。

 少女の清純と恥じらいを隠しきれ無い純白レースの2つの隙間からは、大きな河の流れに沿うように染井吉野の並木が見えた。―――――春の訪れを待ち望むように。



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 絶対可憐オペレーターズ 〜 哀愁のカルボナーラ 〜

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 正面の壁一面に鏡が張り巡らされたスタジオ内部。体のラインを強調するようなセパレートのフィットネスーツに身を包む若いインストラクター。ヴィステップ、スクェアステップと、軽快なリズムに合わせて手を足を前に後ろに大きく振りあげる。ストイックに鍛え上げられた腹筋とは裏腹に、豊かな胸筋とその上を柔らかく包む脂肪が揺れ動く。スタジオ内には十数人の女性達が、インストラクターに呼応して爽やかに汗を流している。
 そんなスタジオの直ぐ隣では、大きなガラス張りからその内部が一望できる。敷き詰めた大きなマットの上では、男性諸氏が心ここにあらずと言った様子でストレッチに励んでいる。どうやら体をほぐすというよりも、鼻の下を伸ばすには効果的な様だ。
 そんな中、こちらでは一人の男がそんな輩に目もくれず、ドラゴンフラッグを優雅に駆って腹筋強化に励んでいる。次は下背部強化のデッドリフト、続いて大腿部をレッグエクステンションで。決して見栄を張ること無く、いつもの重さ、いつもの回数を淡々とこなしている。一通りのマシンをあしらいつつ、その男が最後にたどりついたベンチプレス。ベンチに横たわり、10回、20回と、黙々と上げ下げを繰り返す。

「どれ…… 」

 ウォーミングアップが終わったのだろうか、男は一瞬ニヤリと笑みを浮かべると、ベンチプレスの重量を追加する。再び横になると10回、20回。そして再び……
 それを繰り返す事数回。そうする内にジムの内部の全て視線がその男に注がれる。スタジオ内部でエアロビクスに励んでいた女性達や、傍らでストレッチに興じていた輩も皆注目する。その男の傍には屈強な男が2人。誰に頼まれたわけでも無くサポート役を買って出た。それが男性アスリートの不文律である。
 10回、20回…… カシャン…… サポートの男達の手を借りて、プレスとステイの触れる小さな金属音が鳴った。それを合図にその空間が拍手と歓声に包まれた。

 立ちあがった男は無言のままサポートを買ってくれた男達とハイタッチを交わす。

 その時、男の傍らに置かれた小さなピンクのポーチが震えだす。ストイックな筋肉男の持ち物にしては何ともミスマッチだ。男はポーチから携帯電話を取り出すと通話ボタンを押した。

「わかったわ。直ぐ掛け直す…… 」

 短く会話を済ますと軽く手を振り投げキッスで観衆に応える。日課のはずのクールダウン、柔軟体操もそこそこにジムを後にした。







 夕刻―――

 毎日決まった時刻になるとその旋律が流れる。世の中は不誠実に溢れ、誠実さを得ることは難しい―――それでも人は誠実さを求めて生きる。コメリカ人ロック歌手の奏でるピアノソロとそのメロディ。昭和の流行り歌が定時の終わりを告げる。

 ここは内務省特務機関 超能力支援研究局。通称バベルの司令塔。

 ブリッジ勤務のオペレーター達もまた一日の任務を終え、各々机の下からハンドバッグやらポーチを取り出し、いそいそとその時を待つ。

「金子さん。今夜から明日にかけてのプレコグ予知はどうなっているかしら? 」

「はい。特に大きな事件、事故等の予知は出ていません。通常のシフトで問題無いと思います」

 ブリッジの後方に構える先輩オペレーターの問いに、瓶底眼鏡でおなじみの金子蘭子は的確に答える。さらに自分の意見を一言添える事をも忘れない。一般社会であればまずまずの返答であろう。しかし、蘭子に質問を投げた先輩オペレーターはその鋼鉄の表情を崩すこと無く、長い髪をまとめたシュシュを左手で後ろに払いつつ、厳しい口調で答えた。

「問題があるか無いかは私が判断します。あなたは聞かれた事を適切に伝えるだけで良いの」

「し……失礼しました」

 各オペレーターのブースからは小さなため息や失笑が聞こえてくる。

「まぁまぁ、そんなに厳しくしなくっても…… 」

 ブリッジの中央にどかっと陣取り、腕を組んで仁王立っていた桐壺が助け舟を出した。

「局長。平時におけるここの指揮権は私にあります。それに如何なる時も気を引き締めていないと、有事の際に対応できません。ほんの小さな気の緩みが、大きなミスに繋がることだってあるんですよ! 」

 苦言を呈した女がクルリと椅子を回す。その鋭い視線が桐壺を斜に射抜く。脚の上下を組み替えると豊かな膨らみの前に腕をドンと交差する。ミニのタイトスカートとひざ丈までのロングブーツ、蒼い制服姿に包まれたダークブラウンのパンスト―――暴力的なフェロモンと共に内包された肢体が脈動する。脳髄を薫り立たせるさり気ない仕草も相まって、桐壺はしどろもどろになってしまう。

「いや……ほら……今の若い子達にはちょっと難しいかなぁ……なんて」

「局長。それ、セクハラ発言ですよ?! 私の年齢に何か御不満でも? 何でしたら柏木一尉に相談させていただきますが? 」

「い……いやそれだけは勘弁してください。お願いします。……ごほん。えぇ……つまり、オペレーターの諸君。末永クンの指導の元、日々研鑽してくれ給えよ。うん」

 あっ!急用が…… と言い残し、桐壺はその場を後にした。

「まぁいいわ。金子さんは以後気をつけて。それでは今夜は予定通りに金子さんと木下さんが待機シフトで、後の皆は上がって頂戴。お疲れ様」

 彼女のその言葉で皆一斉に席を立ち、各々ブリッジを後にした。

 バベルブリッジオペレータ 末永春香(すえなが・はるか)准尉
 バベルの司令塔に常駐し、日々そのシステム運用の一切を引き受ける。オペレーター達のリーダーとしてブリッジ後方に鎮座する。自らも数々のオペレーションをこなしながらも、後輩オペレーター達を時には叱咤しながら指導する。時に目立たない、影が薄い、出番が無い、そもそもそんな人いたっけ? 等と揶揄される事もあるが、それは彼女の仕事振りを直接知らない輩が騒ぎ立てる噂話に過ぎない。
 どんな時にも物怖じしない、そんな彼女の仕事振りは桐壺達―――上層部の人間達からは非常に……

 オペレーターの全員が席を立つのを見届けると、彼女自身も身の回りの書類を手早く始末する。スッと立ち上がると残る二人、蘭子と亜由美に『後はよろしく』と、手短にそれだけ告げてブリッジを後にした。



 堅苦しい制服を脱ぐと丁寧にハンガーに掛ける。大きく伸びをすると、鍛え上げたしなやかな肢体と、豊かな2つの膨らみが滑らかなシルエットを形づくる。周囲から視線を感じるが気にも止めない。だって更衣室じゃない。下着姿なんて当たり前でしょ。と。ここバベルにおいては、なぜか下着姿を晒すのはタブーとされている。超感覚者が目のやり場に困るのだろうか? 何か大人な事情もあるようだが、そんな規制に構うつもりは毛頭無い。が、下着姿を晒す事で満たされるような趣味も彼女は持ち合わせてはいない。手早くブラウスに袖を通した―――。

 軽くファンデを叩くと口元の紅を整える。『お先に……』同僚や後輩達と目を合わせる事も無く更衣室を後にした。エレベーターの下りのボタンを押す。

「先輩〜待ってください♪ 春香先輩〜 」

 長い廊下の向こうから、更衣室を慌てて飛び出して来た後輩に声を掛けられた。

「何か用かしら? 中村さん…… 」

 バベルブリッジオペレータ 中村知代(なかむら・ともよ)一曹
 バベルの司令塔に常駐し 以下略―――

「もう! つれない事言わないで下さいよ! 春香先輩〜」
「だから何なのよ。用事があるなら言って」
「だから今日のお昼にちゃんと言ったじゃないですかぁ〜。ほら。カルボナーラの美味しいお店を見つけたって! カリカリに香ばしいベーコンとたっぷりな生クリーム。そして極めつけに温泉タマゴが乗っかってるんですよ! 」

 知代は手にしたグルメ雑誌の1ページを春香の面前にかざしてみせる。これから訪れるであろう至福の時間に胸をときめかせ、半ば興奮気味に春香に詰め寄った。

「だから。それはホントのカルボナーラじゃ無いって言ったじゃない。それに…… 」
「まぁいいじゃないですか! ほら! 行きますよ先輩! どうせ予定なんて無いですよね! 」

『もぅ……』春香はため息まじりにそう呟く。あまり乗り気では無いのだが、程なく開いたエレベーターに半ば強引に連れ込まれた。







「……ごちそう様」

 食べかけのカルボナーラをそのままに、そっとフォークを置いた。

 東京都心から地下鉄に揺られる事小一時間、そこからしばし歩いた。後輩の知代に春香が連れて来られたのは、レンガ造りの歴史ある建物。開港からしばらく後の明治期に建設された物らしい。重厚な佇まいを醸し出しながらも、色とりどりにライトアップされている。元々は倉庫であったそれの内部は念入りに改装が施され、輸入小物が所狭しと陳列された雑貨店や、時代を先取りしたカジュアルウェアを扱う有名アパレルショップ。はたまた本来なら―――気の効く彼氏と小洒落たテーブルトークや、輝く夜景と海を眼前に甘いひと時を楽しむイタリアンレストランなどが軒を連ねている。

 春香は大きな窓からその夜景をちらりと見る。ネオンで輝く大きな観覧車やら、切ったメロンだかスイカにしか見えない帆船をモチーフとした大きなビル―――整然と護岸が整備された穏やかな海面は、夜の喧騒が写り込み無数の星の閃きとなって輝いている。その煌きの中、異質な赤い光とサイレンの群れが街中に散らばって行くのが見えた。

 グラスに残った酸味ばかりが鼻につく白ワインを一口だけ舐めた。

「ちょっとボーイさん? これ。下げていただけるかしら? 」

 黒いスラックスに糊の効いた白いYシャツ。襟なしのブラックベストと揃いのクロスタイ。如何にもな衣装に身を包んだ若いボーイはぎこちなく礼をすると、食べかけのプレートをその貧相な左腕に乗せた。

「ワインのお代りをお持ちいたしましょうか? 」

「エスプレッソを持って来てくださる? 」

 貧相なぼーやの、様になら無いハンドサービスとリップサービス。もううんざり。とばかりに軽く手を振ると春香は手短に答えた。

 もう一度軽く会釈をすると、ボーイはいそいそとバックヤードに消えていった。

「やっぱり先輩のお口には合いませんでしたか? 」

 知代が食事の手を一端止める。

「まぁ……悪くはないけどね。まぁこんなもんだろうなぁ? とは思ってたけど――― だから私以外のコ誘って行けば? って言ったじゃない」

 文句を言いつつも、春香は職場では決して見せる事の無い柔らかい笑顔で答える。

 すると知代はクリームの絡まったパスタの数本をフォークで巻きつける―――でもなく弄りながら、ため息交じりに答えた。

「だって……他のコって言ってもあの子達ってこうなんと言うか…… うまく溶け込めないんですよね。私」

 女3人集まれば派閥ができるとは言うが、どうやらこの知代もその当事者の様だ。
 一見仲睦まじく見えるブリッジオペレーター達であるが―――業務から一歩外に踏み出せば、至ってこんな調子であった。

「だって、私や先輩ってほら。ちゃんと国家公務員試験に合格して内務省に入省。その上でバベルに出向で来てるじゃないですかぁ? それに引き換えあの子達って…… なんだか馬鹿が移ると嫌だからプライベートでも一緒っていうのはチョット辛いんですよね」

「まぁ肯定も否定もしないわ。頑張って試験受けて…… でも所詮公務員なんだもの、上の決めた事に文句言っても始まらないわ…… 」

 先輩という立場から、あからさまな罵詈雑言は憚れる。それでも春香は使える語彙の中から精一杯に皮肉って知代に同意する。そんな春香の態度にそうだ。うん。と軽くうなずきながら、知代はさらに饒舌になる。

「頑張ってるのは認めなくも無いんですけどねぇ。でも個性の主張の仕方がこうエゲツないというかほら……あれ…… 」

「あぁ。アホ毛に瓶底眼鏡の2人組ね。確かにあんなベタな自己主張されると、周りはちょっと引いちゃうわよね」

 その時、突然鳴りだした携帯の着信音に春香は顔をしかめた。

 直ぐ傍にいたカップル達から、その雰囲気を壊してしまった報復が。あからさまな敵意に満ちた視線が容赦なく浴びせられていた。

「ちょっと何よいったい? って木下さん? 」

 一瞬、マナーモードに切り替えをしていなかった自分を後悔しつつも気持を切り換える。待機シフトで現在ブリッジに詰めている件のアホ毛娘、木下亜由美からの着信であった。業務に関する事か? とにかく、ここではマナー的にも守秘の観点からも会話はまずい。
 春香は携帯を片手に足早に店から飛び出すと、非常階段の踊り場に出た。夜の海風が、少しのアルコールで火照った身体に心地良い。改めて周囲に人が居ないか確認すると、携帯の着信ボタンを押した。

「末永よ。待機シフト御苦労様。木下さん。何か用? 」

「あ……はい。木下です。時間外に申し訳ありません末永先輩」

 なんで私にこんなにオドオドする必要があるのかしら? 普段はあの瓶底眼鏡娘とはしゃいでる癖に……理性ではそれはいけないと思いつつも、春香はさらに厳しい口調になってしまう。

「今、素敵なお店でディナーの最中なの。要件なら手短に言って! 」

「はっはい。本日夕刻、銀行強盗事件が発生しました。地下金庫に直接侵入して…… どうやらパンドラメンバーによる犯行のようです。犯人は未だ逃走中。既に現場にはザ・ダブルフェイスの2人が派遣され…… 」

「で、主要道路で大規模な検問を実施中ということね? 」

「え? ご存じだったんですか? 」

「馬鹿ね。さっきからパトカーのサイレンがうるさくてね。少し考えれば想像はつくわ」

「は……はい。流石は先輩ですね。それで、局長の指示で職員の現在位置を携帯のGPSで確認しました。これは内規…… 」

「内規は熟知しているし、知られて困るトコロになんて行きません。続けなさい木下三曹」

「は……はい失礼しました。それで、先輩の今居る地域にパンドラメンバーがまだ潜伏している可能性がありますので、もし発見した場合は本部に連絡を…… 」

「あなたにダメ押しされなくっても、パンドラメンバーを見かけたら緊急コールするわ。手配書の顔写真は全て頭に入ってますから御心配無く」

 こんな時、春香はつくづくバベルという組織の危うさを感じてしまう。巨額をつぎ込んで稼働するプレコグシグマで事前に事件を予知出来なかった事。それに犯人がパンドラなら、今頃とっくにテレポートやらPKを使って逃走してしまっているに違いない。それでも警視庁と連携し、大規模な検問を緊急配備していかにも万全な捜査はしましたが―――大人な事情が伺える。
 もっと効率良くエスパーを使えないものかしら? ふとそんな事を考えてしまう。確かにバベルに勤務するようになって、エスパー達の不自由さも感じる事はある。だがしかし、もっとこう組織として有効な使い方というものがあるはずだ。例えば―――――

「は……はい。よろしくお願いします。 あと……それと……その…… 」

 一瞬でそこまで思惟した時、件のアホ毛娘に妨げられる。

「何なのよ! 要件は手短に。毎日言ってるでしょ!? 」

 悪いとは感じながらも、春香はついつい言葉を荒げてしまう。

「はっ! はい。 その…… 私の事。アホ毛って呼ぶの止めてください 」

「はぁ? ちょっと…… 」

 手短に『失礼します』と告げると、亜由美はそのまま電話を切ってしまった。

『まったく…… アホ毛呼ばわりされるのが嫌なら、ジェルでも何でも付けて直しなさいよこのアホ毛っ娘…… 』

春香は携帯をたたむと小さくため息を付いた。





「先輩〜? 何だったんですかぁ? 」

 春香がテーブルに戻るともはや興が覚めたのか、知代も食べ掛けの皿にフォークをカチャンと置いた。

「何でもないわよ」

 そう呟くと、春香は手に持つ携帯電話をそっとテーブルの隅に置く。お行儀が悪いと思いつつも頬杖をつき、何気も無しに窓の外を眺める。
 大きな窓の外には大勢の人々が行きかっている。半ば観光地でありながら、公官庁やオフィスビル街が近い立地のせいからか、家路を急ぐサラリーマンやOL風の男女。週末という事もあり、待ち合わせた家族連れや恋人達も多い様だ――――――

「みんな氏ネば良いのに…… 」

 同じ様に窓の外を眺めていた知代がポツリと呟いた。

「ちょっ…… 知代! 何物騒な事言ってるのよ?! 」

 後輩の物々しい発言に、春香は一瞬たじろんでしまう。

「はぁ。私にも素敵な彼氏。現れないかなぁ? 」

 なんだそういう事か、合点がいった春香はそんな知代にフォローを入れる。

「まぁ焦る必要なんてないわよ…… 」

「先輩がそれ言っても説得力が…… 」

 あなたがソレを言う? 言っちゃうの? ねぇ? 同じような境遇で、5年後の自分を私に重ねて憐れんでるの? 私みたいに淋しい人生は嫌! 彼氏の居ないアラサー女は嫌! とか思ってるのね?!  春香はココロの中で知代を攻め立てる。まぁ、声を荒げて反論しても仕方が無い。だってホントの事だから――――――

「もう恋なんて懲り懲り。私は大人の恋愛がしたいのよ…… 」

「エスプレッソお待たせいたしました」

 先ほどとは違うボーイが持ってきたようだ。先ほどの貧相なぼーやとは比べるべくもない。鍛え上げた筋肉が白いシャツの向こうに伺える―――――

『恋をしていた頃もあったわね…… 』

 キュンと胸を締め付ける感覚。甘酸っぱい…… そして悲しい過去。春香が一人ごちたとき、

「あっ! 私にもエスプレッソを。それと本日のドルチェをひとつ」

 今日、この場に誘ってくれた後輩に水を差されてしまった。

「知代は色気より食い気じゃない」

 思い出してしまったそのコト。意識的に考えない様にしていたそのコト。

『まぁ。今日此処に誘われて来なかったら、思い出す事も無かったかなぁ? 』

 感謝を半分、脱力を半分。思い出した乙女の物語を再びココロの奥に封印しながら、かわいい後輩に恨み節をぶつけてみた。

「そんな事無いですよ! どっちも大事な事ですよ! 私ってほら欲張りだから…… あっ!見てくださいあそこのチョット良い男! 」

 知代の指さす窓の外。大勢の人々が行き交うそんな中、とりわけ異彩を放つ……そう。下賤な言い方をすればチョット良い男。背筋をピンと伸ばした有能なビジネスマン風の男。その身には、見る人が見れは一見でイタリー製のそれとわかる上等の生地、濃紺のチョークストライプスーツを身に纏う。糊のしっかり効いたボタンダウンが包む首筋は、明らかに日々の鍛錬を怠らない、ストイックなアスリートのものである。刈り上げた清潔感の溢れる頭髪。金色に染め上げられてはいるが、決して下品なものでは無い。むしろ気品の様なものすら感じられる。
 その男はアルミ製のアタッシュケースを小脇に抱え、その瞳を真っ直ぐに前を見据えて歩いて行く。瞳の奥には確かな信念を抱いているかのようにも見えた―――

「あんな感じのイイ男と運命の出会いがしたいなぁ…… 」

 知代がポツリと呟くが、春香の耳には届かない。既にその男の姿に目を奪われている。

 ふっと。春香は我に帰るとハンドバッグの財布から大急ぎで一万円札を取り出した。テーブルに置くと立ち上がる。

「ごめん。ちょっと急用を思い出したから…… 」

 手短にそう言い残し、春香は足早にレストランの外へと飛び出して行った。知代の呼ぶ声が、店内に虚しく響いていた―――――











 人に縁有り、縁に時有りと誰かに聞いた。
 そして人と人との出会いとは、“最高の出会い”と“最低の出会い”の2つに分けられる。これも誰かが言っていた。それは“必然の出会い”と“運命の出会い”と、言い換えられるのかもしれない。

 この場合はどうなのか? と問われれば、明らかに後者だろう―――



 その時私は―――――彼に抱かれていた。



 後期試験も無事終了し、3年生への進級条件もあっさりとクリアした。私の実力を持ってすれば造作も無い事だ。ゼミは4年生になってから。気の早い同期の連中は既に就職活動を始めたようだった。国家公務員志望の私はそんな活動を真面目にするつもりなんてさらさら無い。ただひたすらに、来るべき試験に備えて勉強に励む毎日である。
 青春真っ盛りな華の女子大生ともなれば、テニスサークルの一つにも入ってコートで汗を流すのが、正しいキャンパスライフ、休日の過ごし方なのかもしれない。でもサークルは、一年生の時に新歓コンパに一度だけ行って辞めた。なんだかあの強引に春めく雰囲気がどうにも耐えられなかったから。それ以来、休日はこうして自室で勉強したり、人には絶対に言えない秘密の遊びをするのが私のルール。自立した大人の女となるためには、超えるべきハードルは多いのだ。

 大人の女ともなれば、朝寝坊なんてあり得ない。例え休日であろうともいつもの様に起床して、自分と母さんの2人分の朝食をこしらえる。
 時間のかかるタマゴから取り掛かる。きっちり65℃のお湯に30分ほど漬ける。ただこれだけ。こんな時、温度の加減がばっちりな電磁調理器を使っていて嬉しくなる。待ってる間に洗顔を済ませてしまう。
 昨日の帰り、お気に入りのパン屋で並んで買ったバレットを、1センチ半程の厚さに切っていく。国産ガーリックを一粒剥いてナイフで2つに割る。パンの切り口にこすりつけるとバターを塗る。刻んだパセリを散らせば後は食べる直前にオーブントースターに放り込むだけ。
 オリーブオイルにバルサミコ酢とお塩を少々、隠し味にお醤油を数滴垂らすと良く混ぜる。千切ったサニーレタスにプチトマト。スライスしたキュウリとベビーコーンと一緒に良く和える。最後に上からパルミジャーノを沢山おろす。これが母さんと私のお気に入り。
 スープは昨夜の内から仕込んでおいた。皮を剥いて芯だけ取ったオニオンを、コンソメと一緒に真空調理のお鍋に入れる。一度沸騰したら火を止めて蓋をしておくだけで、朝になれば勝手に出来上がっている。温め直すとクタクタに良く煮えた玉ねぎを大きめに砕く。菜箸がスーっと入っていくこの快感だけは母さんにも譲れない。

 そうする内に母さんが起きてきた。既にメイクをバッチリ決めて着替えも済ましている。ツイード生地のテーラードジャケットと揃いのマーメイドスカート。胸元にはシルクでサテンボウタイのついたブラウスが品良く収まっている。両手には書類の束やらシステム手帳、小脇に経済誌を抱えながらダイニングの席に付く。
 それを合図に私はトースターのダイヤルをひねる。


 朝食を済ますとお互いお気に入りのカップで、はちみつをたっぷり注いだホットミルクを楽しむ。のどを潤す独特の温もりで心が落ち着いてゆくのを感じる…………何よりこれのお陰で朝からガーリックを食せるのだ。

 食器を手早くシンクに下げて、さてどうしたものか。天気も良いし先に洗濯をしようかな? そろそろシーツも洗いたいし……

 それまで黙って新聞を読んでいた母さんから突然それを渡された。家に籠ってばかりいないでたまには外に出なさい! って。良い男と素敵な出会いがあるかもよ?! と母さんはおどけてみせたっけ。

「結婚が女の幸せの全てじゃ無いって、教えてくれたのは母さんでしょ? 」

 それはそれ。恋は恋。イイ女になりたいんでしょ? と言われて私は口ごもる。そんな私を尻目に、じゃぁ行ってくるね♪ と手短に言い残して仕事に行ってしまった。

 と。再び玄関のドアが開き、母さんがにこやかにこう言い放った。

「サン・マルコ広場の様な素敵な出会いがあるかもよ? 」


 と。


 一瞬で全身の血液が沸騰する。

「しまった〜〜〜〜〜 」

 半ば奇声にも近い半狂乱状態で、私は自室に戻ると机の引き出しに手をかける。

 軽く引いてみる。有るべきはずの抵抗を感じない。やっぱり鍵が掛かってない。

 恐る恐る右下の一番大きな引き出しを開けてみる。ナンバリングされた私のノートが整然と並んでいた。


 やられた。


 思春期の頃からコツコツと書き連ねた大人の女になる為の秘密のノート。脳内で行われるイメージトレーニングという名の妄想ノート。私の秘密の遊び。季節の移ろいや淡い恋心を詠ったポエムやら、貧相なぼーやに突然告白された時の上手な対応の仕方。素敵な出会いetc……


 ちなみに件の広場は先日書きあげた最新作。

 絶世の美貌を持った間諜の女。その女が偶然すれ違った男、ボルサリーノの良く似合うマフィアの男に恋をする。



 クサイ。クサ過ぎる……途中まで読み返し、ふっと現実に戻ってきた。

 一体いつバレたのか。しかし見られたものは仕方が無いし、悔やんでどうにかなるものでも無い。いたってクールにやり過ごすのが大人の女性――――――?

 コーヒーを落として一息入れる。大きくため息をつくと、手にしたソレをじっと見つめてみた。確かに今日から長い春休み。特に予定もないし……

「もぅ。仕方ないなぁ…… 」

 面倒と自分の迂闊さと、母さんへの義理と何かへの期待がクォーターづつ。それでも覚悟を完了した私はいそいそと準備をし、マンションを出た。











「はぁ…… はぁ…… はぁ…… 」

『こんな事になるならスニーカー持ってくるんだった』

 春香はただひたすらに走り続けた。





 春香が煉瓦作りの建屋から飛び出すと、例の男の姿はもう見えなかった。しかし春香には何か確信めいたものがあるようだ。
 軽く手足を振りアキレス腱をしっかり伸ばす。人目を憚らず、脚を肩幅の倍に開いて鯛の蓮転を右左それぞれ3回づつ。そして軽くジャンプする事2度3度。
 ハンドバッグの皮のリードを伸ばすとタスキに掛ける。
 その異様さに集まったギャラリーに目もくれず、位置についてヨーイドン。しっかり発声すると一目散に走りはじめた。

 ローラーブレードに興じる若者達をなぎ倒して駆け抜ける。筋肉自慢が売りのミュージアムを、横目でチラリと見ながらその正面を駆け抜ける。通行人を掻き分けながら、無駄に立体な橋を渡ろうとしたとき、赤の回転灯が見えた。パトカーが止まっている。春香はバッグからバベルの身分証を取り出すと、検問中の警官に駆け寄った。

「はぁ…… はぁ…… わ…… バ…… 」

 突然走り込んできたOL風に、警官達はあからさまな不信感を抱いた様だ。

『たった一口舐めただけなのに…… 慣れないお酒のせいね…… 』

大きく3度の深呼吸で、ぴたりと呼気を整えた。

「内務省特務機関、超能力支援研究局、バベルの末永春香准尉です。パンドラメンバーはもう逮捕できましたか? 」

 バベルという単語に、警官達を取り巻く空気が一瞬で変わるのを春香は感じた。それでも春香は背筋をピンと伸ばし、身分証を警官に向かってピシャリと張った。

「まずはお疲れ様の一言があってもいいんじゃね? 俺達が誰の尻拭いしてると思ってんだよ?! 」

 年若い警官が前に進み出て、腕を組んで悪態をつく。
 ライトを振って検問中だった他の警官が、一旦停止させた運転手に「行っていいよ」とやる気無く答えると、車は早々に走り去った。それに呼応し数台の車が検問を受ける事も無く通過して行く。

 警官達が春香を取り囲む様に集まって来た。春香は警官達のただならぬ雰囲気に軽く尻ごみしそうになる。しかしここはあえて余裕の態度で左手の甲でシュシュを束ねた房を後ろに払う。

「誰が誰の尻拭いですって? 何で任務を実行するのか? その判断は上の仕事です。現場サイドは実直に任務を遂行するべきではありません事? 」

 警官達が一通り集まると春香はそう言い放った。

「俺達は普通の警官だぜ? 仮にエスパーを見つけたって何ができるってんだよ? 特に凶悪なパンドラ相手にさ! 」

「そうそう! 俺達はあんたらエスパーと違って普通なんだよ! そもそもあんたんトコロの予知装置とやらでしっかり見張っておきやがれ! 」

「人間様を超越したエスパー閣下には、週末に緊急配備された普通の警官の心の内なんてお察し頂けないんでしょうなぁ〜。 あっ! 超感覚でそんな感情は既にお見通しって事? その上でまだ俺達に働けって言う? エスパー様は鬼ですか? 神様ですかっ? 」

 警官達は躾の悪い中学生のような態度で春香ににじり寄る。

『この様子じゃ、成果“ゼロ”って感じね? 』

 警官達に聞こえないように小さく呟いた。

「バベルの職員全てがエスパーではありません。私はノーマルです。それにプレコグシグマは当たるも八卦。もともと精度は不安定なんです。そんなエスパー達をサポートするのが私達の任務では無くって? 」

 今度は大きな声で言い放つ。前者はホント。彼女は趣向も含めていたってノーマルだ。しかし後者に関しては思いは半分。確かにエスパー達をもっと効率良く……

「とにかく命令通りに任務を遂行して下さい。私は独自に追います」

『確かに、一方的に命令された所轄の連中じゃこんなものよね…… 』

 彼らの言い分も判らなくは無い。しかし彼らに同情している暇はもっと無い。

『誰かに捕まる前に―――――彼は私が捕まえる』

 春香は警官達を尻目に再び走りだした。

『彼から直接ちゃんと聞かないと…… 私はあの恋を終われ無いから――――― 』











 人に縁有り、縁に時有り―――――そしてやっぱりそれは“運命の出会い”だと思った。

 母さんに渡されたカードの会員権。駅前のビルに入っているスポーツクラブのものだった。受付でカードを渡すと、ジムの作法を手短に教わった。更衣室の場所とロッカーキーの保管の仕方。サウナとジャグジーは必ず水着を着用して利用する事。プールに入る前には準備運動を必ずして整髪料は必ず落として装飾品の類……
 どうやら私のカードはビッグ会員とかいうスペシャルランクのものらしい。朝でも深夜でも、スタジオレッスンもジムのマシンも好きに勝手にやれば良いらしい。ついでに併設する整骨院の場所を教えられた時は少しだけムカついた。

 パステルカラーで統一された更衣室で着替えを済ませ、いそいそとジムに向かってみる。整然と並んだマシンと、それを優雅に扱う会員達。その時、私は本日1回目の失敗をしたことを確信した。
 しかし、例えどんな状況に陥っても至って冷静にクールにキメル。それが大人のイイ女の絶対条件。少々のハプニングで冷静さを失ってはいけない。
 改めて室内を見渡してみる。小さなカウンターには、クラブロゴの大きく入ったウィンドブレーカーを羽織った――――生彩に欠ける如何にもバイト風の係が一人、やる気無さそうにぼーっとしてた。あんな輩に声を掛けるのは私のプライドが許さない。

 ジムに併設されたスタジオでは、“ダイエット・ヨガ”と題されたレッスンの真っ最中であるようだ。セレブなお姉さま方の肢体が、日常生活ではあり得ないポージングを極めている。ちなみに今やってるのがライオンのポーズ。実は少し前にちょっと興味があった。そして本を片手に自己流でやった事がある。ここでは割愛するが酷い目にあった。きっと中2病だったのだろう。うん。君子危うきに近寄らず。あれは無い。うん。

 いかにも勝手知ったる場所といった振りをしながら、自分に扱えそうなマシンを物色してみる。名前も効果も良く分からないマシンがずらりと並んでいる。んー困った。いよいよ途方に暮れそうになった時、マシンの向こうの窓一面に、エアロバイクとルームランナーが、ホントはトレッドミルと呼ぶらしい……が整然と並んでいるのが目に留まる。あれなら問題ないだろう。

 セレブなお姉さまや小太りなおじ様達が、優雅にランニングに励んでいる。ある者は目を瞑り黙々と、またある者は音楽プレーヤーを聞きながら走り続けている。なるほど音楽か。これは明日から私も真似してみよう。うん。
 私は颯爽とルームランナーに両の足を乗せる。窓越しの眼下には―――毎日使う、さほど大きくもない駅ロータリーが一望できた。
 はて? どうやって使うものやら…… スタートボタンとストップボタン。なにやら速度調整のダイヤルやらコース設定もあるようだ。よく判らないので、適当にコースのボタンを押してみる。足元の大きなベルトがゆっくりと動き出した。

 しばらくは余裕でこなしていた。なんだこんなものかと思ったのもつかの間、だんだんと速度が速くなる。なにやら傾斜も厳しくなっていく。そのうちいよいよ辛くなった。もう私には、急な坂道をダッシュしている様にしか思えない。なんだか喜んで遊んでるハムスターみたいだなぁ……なんて冷静な私が言っている。いや。もはやそんな場合では無い。今の私ははぁはぁ言いながら無様に機械に走らされてるひ弱なおネエちゃん。もう変なプライドも機械も止めてしまおう。正面の操作盤に手を伸ばす。

 ガクン。と台の傾斜がさらに厳しくなった。そのはずみで何やら適当なボタンを押してしまう。

 さらに傾斜と速度が厳しくなる。こんな時、慌てないで左右の手すりに掴まれば良いと教わったのは後日談。

 足がもつれる。クルリと体が反転し、前と後ろが逆になる。それでも私は器用に後ろ向きで走りつづける。私の異様さに、私は好奇の視線を一身に受ける。

『お願い〜 誰か止めて〜 』

 と。声を出す間もなく―――次の瞬間、どんな具合か私は宙を舞った。

 知らない天井と、知らない壁が私の視界をぐるぐるとまわる。

 それが“伸身の新月面”とか言う大技だと知ったのも後日談。その放物線が栄光への架け橋であったかどうかは――――――

 所詮運動嫌いで半引きこもりの私。そんな大技を見事に着地成功できるはずもない。私は来るであろう着地の衝撃に備えて身を固めてギュッと目を閉じた。


 来るべき衝撃を感じない。恐る恐る目を空けると、しなやかな2本の太い腕が―――――私のカラダを受け止めていた。


 “運命の出会い”とはこう言うものだろう。今こうして彼の瞳を見つめているだけで気持ちが高揚し、心拍が高まっていくのを感じる。彼の肌の温もりを私の体全体が感じている。

 触れ合う肌と肌。互いにうっすらと汗ばんだそれが混じり合い、今この瞬間、此処にしか存在し得ない儚く甘露の様な香水となって鼻腔をくすぐる。私の心拍が冬の8ビートから春の16ビートへとシフトアップする。心配そうに私を見つめる彼の瞳と、小ウサギみたいに丸まった私の瞳が交差する―――――。

 私は私を優しく包む、彼の上腕にスーッと左手の薬指を這わす。想像した以上にしなやかな弾力が、私の心をさらに弾ませる。じっと彼の瞳を見つめると……自然と声に成った。

「エアロバイクもルームランナーも退屈だわ…… ねぇ。あなたの上腕二等筋に恋しても良い? 」

「あたしの腕の中も案外退屈かもしれないわよ? トレッドミル程では無いにしろ」

 彼は抱えた私を立たせながらそう返した―――――


 “運命の出会い”とはこう言うものだろう。


 彼がおネエ言葉を発した事には直ぐに気が付いた。若干、予定のセリフとは違っていた。が、しかしそんなもの、事ここに至っては乙女の勇気の前ではいささかの問題にもなら無い。


 しかし次の瞬間。空間を支配した爆笑の渦に私は困惑した。


 確かに私は宙を舞った。だが、それがどれ程の事か? 確かにちょっと……いや、相当無様だった事に言い訳などしない。自分の非力さも受け止める。それが大人の女と言うものだ。そんな事よりも、今この瞬間。若い2人が運命の出会いをして、互いに瞬時に焦がした思いを確かめ合ったのだ。確かに、色気のあるセリフでは無かったけど……。だがしかしだ。称賛と喝さいと祝福の拍手の渦に飲み込まれるならいざ知らず。そんな2人を笑うとは何事だ。

 左手を腰に添えて胸を反る。セミロングの髪を右手で後ろに掻き上げながら、精一杯に澄ました顔で辺りを見回してみる。
 ルームランナーを颯爽と疾っていた小太りなおじ様達が次々吹き飛ばされる。エアロバイクを駆っていた優雅なマダムがマシンもろとも転倒する。ベンチプレスのサポート役、屈強なお兄様もずっこける。あっ。ベンチプレスに貧弱そうなぼーやが挟まれている。硝子を隔てたスタジオでは、ヨガのレッスン最中のセレブなお姉サマ方が、トラのポーズのまま固まっている……トラのポーズ…… トラの?

 いったい本日何回目の失敗なのか―――数えるのも馬鹿らしい。しかし私は本日最大の失敗を犯した事を確信した。恐る恐るそれを目視で確認すると、それが現実である事を認識し、同時に絶望した。

 人間とは失敗をする生き物だ。しかし、一度犯した失敗の根本原因を追及してカイゼンを行う。どこかの偉い人のセリフらしい。日本はそれで大きくなったんだ! と。確かそんな事を言っていたはずだ。つまり、私はこの部屋入った時、1つ目のミスを犯した事に気が付いた時、どうにか対応するべきだったのだ。

 流行りのフィットネスウェアに身を包む優雅なセレブ達。それとは対照的な私の出で立ち。高校を卒業して以来、運動らしい運動などした事が無い。何気なくチョイスしたTシャツは、ロナルドドッグと愉快な仲間達が勢ぞろい。豊かとは言えない私の胸の上で笑ってた。足元には、押し入れの奥をごそごそと漁って出てきたそれ。高校時代に使ってた野暮ったい事この上ない体育館シューズ。ご丁寧に甲の部分に名前が書いてある。左右並べればフルネームがバッチリ! 同じく発掘したエンジ色のジャージは、当時ハサミでザクザク切って、お手製のハーフパンツに大変身。だって流行ったんだもの。多少ジグザグしてたって、ほつれてたって、乙女の生脚をもってすれば恐れるものでもないんだもん……。しかし一番の問題はウエストのゴム。想像以上にその弾力を感じなかった。まぁ、腰ひもをキツク縛れば大丈夫だろう―――――――と。

 “最低の出会い”とはこう言うものだろう。

 つまり彼に抱きかかえられた時、ハーフパンツがズルリと下がり踝の所に丸まったのだ。当然に露わになった、私の恥じらいを優しく包む小さなトライアングル。それがよりにもよって……お気に入りのタイガーのキャラクター。どこでそんなショーツ買ったのよ?って。通販よ! だって可愛いかったんだもの! でも子供の頃から大好きだったこのタイガーの愛くるしい微笑みが、こんなに憎らしく思えた事は無い。

 精一杯に強がりを見せながら、ココロの中で大きく深呼吸する。こんな時にはまず落ち着く。舞の一つも舞ってしまえばバッチリ落ち着くはずであるが、生憎と優雅に舞える体勢では無い様だ。しかしそもそも日舞の一つもお稽古なんてしたことは無い。天井のシミの数でも数えてみるか? そうだ! 人という字を300人程飲み込めば……はっ! いけないけない。どんな時でも冷静にクールに。それが自立した大人の女というものだ―――。

 その時、私の面前でちょっと困った顔をしていた彼が、無言のまま私の前にひざまづく。おもむろに私のズボンを上げると腰ひもをしっかり結び直した。
 しかし、彼はそのまま私の脚を触わりはじめた。揉むように、捏ねるように、腿とふくらはぎを念入りに触れる。私の臀部を一通り捏ねまわした後、彼が言う。

「はい。バンザイして」

 彼の言葉に私は驚く程素直に従ってしまう。まるで幼稚園児の身体測定みたいじゃない……つづいて彼は私の脇腹から胸の付け根へと手を滑らす。

「ひゃんっ」

 脇の下を触れられた時、思わず出した自分の声に驚いた。私。こんな声出すんだ……

「あら。ごめんなさい。うふふっ」

 なんだか新しいおもちゃを手にした子供みたいな無邪気な顔で、彼は笑ってみせた。
 そして背中、肩、そして首筋と、彼の身体測定が続く。

「経験はあるの? 」

「え? あ……あの……高校生の時に先輩と……あっ! ほらっ! その……清らかな! ほらっ! 小指と小指が触れ合う程度!っていうか…… 」

 彼の直球ズバリな質問にしどろもどろになってしまう。

「まぁ。骨格はしっかりしてるし、無駄なモノも無いみたい。素材としては悪くないわね…… 」

 すると彼に手を引かれ、大きなマットのところに連れてこられた。

「じゃぁ早速横になって。大丈夫安心して。私がしっかり開発してアゲルカラ♪ 」

 私は激しく動揺する。

「え? ちょっ! こんなトコロでいきなりですか? 私、ココロの準備もまだ…… 」

 そんな私の戸惑いを余所に、私のカラダは彼の言う事をもう聞いている。
 私の鼓動が初夏の32ビートへとさらにシフトアップする。

「痛いのは最初だけ。大丈夫。直ぐ良くなるから〜♪ 」

 彼は私の肩に大きな手を置くと、耳元でそう囁いた―――――



「って! イタタタタ! 痛い 痛い! 痛〜〜〜〜〜〜〜〜 」

 未だ愉快な空間だった余韻を残すジムに、今度は私の悲鳴が響き渡る。

「正しい筋肉は正しい柔軟から。こんな痛み、上等なお肉を手に入れる喜びの前では、いささかの障害にもならないわ〜 」

 言葉にならないくらい、鈍い痛みに私のカラダは攻め立てられる。上体が折り曲げられて、腿に顔が大接近してる。そして今度はあり得ない角度までお股を大きく広げられる。

「大丈夫。私の錬筋術を伝授してあげる。あなたのその幼児体型も立派なグラマラスバディに変えてあげるわっ♪ 」

 そこまで来て、私はようやく私の発した言葉の意味を、彼がどう解釈したのか理解した。

 何か一芸に秀でた人というものは、人とは違う感性を持っている。どこかで聞いたそんな言葉を私は思い出していた。

 言葉にするのって難しい。今日一番の失敗だった。







 小鳥にさえずりが聞……なんだいつもの目覚まし時計か。

 布団から顔だけを出してみた。
 タイガーの笑顔が微笑ましい、いつもの目覚まし時計。
 こみあげてくる羞恥と八つ当たり。グーで殴りつけようとしてやっぱり止めた。左手を目一杯伸ばしてタイガーを布団の中に引きずり込むと指先でスイッチを押した。ギュっと抱きしめてみる―――

 全身の痛みは不思議と無かった。昨夜帰宅した頃は、特に下半身の痛み。まっすぐ歩けずガニ股になってえっちらおっちらしてた。そして母さんの帰宅を見届けるとすぐ寝てしまった。

 今は痛いどころか爽快でさえある。これが彼のマッサージのお陰なのかしら? 軽い足取りでダイニングに向かうと、既に母さんが起きていた。しかも朝食を作って。

 ……で、その朝食が今私の前に並んでいるのだが……。和食なのは良い。朝はパンが多いが、むしろ私はごはん党だもの。でも何で御赤飯なのかしら?

 母さんはただ微笑んでいた。

 激しく勘違いしているようだが、あえてスルーしてみる。それが大人の女だもの。フフフッ。


 週末だった事も手伝って、母さんを連れ出してデパートに来た。スポーツショップであれやこれやとグッズを買い求めた。母さんは根ほり葉ほり聞きはしなかった。ただ嬉しそうに一緒になって選んでくれた。

「こういうのも必要でしょ? 」

 そう言って流行りの服も沢山買ってくれた。時折ニヤリと笑ってみせる母さんの横顔が物凄く恥ずかしかった。もともとジムを勧めたのは母さんだもの。ここは甘えておこう。

 ただ、ランジェリーショップでゴージャス系かカワイイ系か、いざという時どちらが最適かを真剣に悩む母さんは全力を持って止めてみた。 悪ノリして薬局に直行する母さんも、一瞬躊躇した後に全身全霊を持って止めた。



 母と別れ、私がジムに行くと彼は悠々とエアロバイクを漕いでいた。隣の台に乗ってニコヤカに挨拶する私に驚いた顔をしていた。

 ふふふっ。私の変身した姿に驚いているな?

 過ちは即刻修正する。昨日学んだ人生の教訓を私は無駄にはしなかった。孫にも衣装。そんな事はわかっている。でも、背中に大きくVのラインの入ったフィットネススーツに身を包んだ時、私は少しだけ大人になれた気がした。

「昨日のハーフパンツも個性的で素敵だったのに…… 」

 彼の以外な言葉に驚いた。

「自分を隠さなくって良いのよ!? 」

 子供っぽさを見透かされたかしら? でもそう言って笑ってくれた彼に私は安心した。


 彼はエアロバイクだけやり遂げると、自分のメニューは中断して私につきっきりで教えてくれた。自分の錬筋術が自分以外に適用可能か興味津々らしい。
 とりあえず、今の私と彼を繋ぐもの。ただそれだけが嬉しくて、私は彼に勧められるままに、トレーニングに励む事を決意した。グラマラスなボディにしてあげる……って言われた事ももちろん魅力的だったけど。

 まずは準備運動をしっかりやる。声をだして1・2・3!と、彼は俄然やる気いっぱいだ。
 辺りを見れば、昨日私が醜態を曝してしまった会員達も沢山いる。私の姿を見つけて囁き合う雀達もいた。気恥ずかしさで縮こまる私。

「大丈夫。素敵なパンツだったわよ! どーんと構えなさい! 」

 そんな私に、励ましてるのか貶しているのかよく判らない檄を飛ばしてくれる。とびっきりの眩しい笑顔だった。
 えぇい。こうなったらやってやる。一度やると決めた以上、最後までやり遂げてみせる。

 彼と一緒に声を出して準備運動。ぐるぐると回る視界。鯛の蓮転がこんなに気持ちが良いなんて初めて知った。

 準備運動が終わるとマットに横になり、昨日と同じ地獄のストレッチだ。
 そこで、彼は一瞬真困った顔をした。しばしするとポンと手を打ち、手元のピンクのポーチからシュシュを取り出した。私の髪をまとめるとそのシュシュで留める。彼一番のお気に入りらしいが、私に似合うからくれるって。

 昨日は軽く幾つかのマシンについてレクチャーを受けただけだった。ストレッチを終えると、彼がトレーニングに対する心構えをまず講釈してくれた。

 毎日が無理なら無理してやらなくって良い。と言ってくれて少しホットした。

「でもその後が辛くなるわよ〜 」

 そう言って笑った後、一番大事な事を教えてくれた。

「筋肉は誰も裏切らない」って。

 そして彼に師事する間は他のトレーナーや、気さくなおじ様おば様達の間違ったやり方を教わるなとも言った。

 師事って……なんだか望む方向とどんどん逸脱していくのが少しだけ悲しかった。


 本格的なレッスンは今日からと言われていたが、私は正直彼の錬筋術を侮っていた。きっと精神論的な何かか、単調な繰り返しだと考えていた。

 彼から分厚いファイルを渡される。時折かわいいイラストを交えながら、全て彼の自筆でその理論が書かれていた。
 人体を複数の剛体として、そして各関節をジョイントとして拘束方程式を定義する。今度はそれを一般化座標で偏微分すると、剛体の個数×6のマトリックス、つまりヤコビアンが出来あがる。この時、ゼロをたくさん含んだスパースな行列になる。
 次は仮想仕事の原理を利用して、各関節に重ねて定義したバネ要素、その個々について運動方程式を立てていく。微小変位を仮定して云々―――――。先ほどのヤコビアンを含め、混合微分代数運動方程式を定義する。後は適切な境界条件を与えて、同時に各バネに変動を与える要因については、別にサブルーチンを用意して……時系列で数値積分していく。この計算を複数回実行し、遺伝的アルゴリズムに基づいて最適解を導き出す―――
 複雑怪奇な数式に半ば茫然としていると、それが私の運動方程式よ!と彼は自慢げに笑ってた

 でも理論は一度読めばそれで良いって言われてちょっとだけほっとした。、むしろ大切なのはオペレーション。日々変化する各種パラメータ。身長、体重から始まって、トレーニング前後の心拍数と血圧……そしてその日の天候や月の満ち引きまで。それを日々の実績と鑑みて、それらの値を複雑な数式に当て嵌めていくと、やるべきトレーニングの量とマシンの種類、それぞれの負荷と回数が一目了然となる。そのメニューをその日こなしきれなかった場合には、それを踏まえて次の日のメニューが変化する。

 なるほど。ここまでストイックに管理してこそ、あのしなやかな筋肉になるのだな……
 今日のメニューは彼が計算してくれていた。明日からは自分でやるようにって。でもなんで、ちょっと触ったくらいで3サイズや月のものまでわかっんだろう……。

 そして、彼の理論を実際計算するのはハンパぢゃ無いらしい。私はさらに頭を抱えて悩んでしまう。

「パソコンくらい家にあるでしょ? 表計算のマクロを組んであげたからソレ使いなさい」

 そう言った彼から1枚のCD−Rを渡された。

 その時の私は全く気が付かなかった。CD−Rの表に大きくプリントされた意匠を凝らしたロゴ。“P・A・N・D・O・R・A”の文字と意味を。











「はぁ…… はぁ…… はぁ…… 」

 春香はただひたすらに走り続けた。

 警官達と別れた後、しばらく走ると視界が開き、大きな公園に出た。

 公園は海に面して遊歩道が整備され、ベンチと街路灯、そして恋人達が等間隔で並んでいる。ある者は肩にもたれて囁き合い、またある者は淡い光の陰りを一つに重ねている。ここに集った無数の悲喜交々が今この瞬間を、互いの思いとその姿を永遠にするべく己が心にセピア色で露光していく。

 海の向こうに忙しくも儚く揺れ動くテールランプの大河が見えた。

 公園の奥には、かつて北太平洋航路でその名を覇した大きな船が係留されている。
 その船を見下ろす様に小高い丘がある。満開の染井吉野を見つけたとき、春香の想いは確信に変わった。

 立ち止まる。

 たすきに掛けたハンドバックを解き、スプリングコートを脱いだ。

 あの時も、温かく成りはじめた海風をここで感じた。

 ――――安っぽいノスタルジーに思わず自嘲してしまう。 

 自動販売機で冷たいコーヒーを買い、一息に溜飲する。

 10歩程先にあるカゴに缶を放った。

 乾いた音。

 小高い丘を見上げると、今度は歩きだす。

 失った時間を取り戻す様に一歩一歩ゆっくりと……

『あいつに聞かないと終われない。あの時――― 何で私を撃ったのか』











「はぁ…… はぁ…… はぁ…… 」

 自分の息づかいが聞こえる。
 はじめて覚えたあの頃、これは快楽では無く苦痛そのものだった。それでもそれが心の檻を突き動かし、少しずつ喜びに感じるようになった。
 ただひたすらにそれだけを黙々と続ける毎日。
日々成長し、その快楽を自分のものとしていく私に彼が喜びを感じてくれるから頑張れた―――――
 最初は彼の喜ぶ顔が見たかったから。でも気が付くと、私の体はその快楽を自ら求めるようになっていた―――――

 え〜っと。手元のメモを見ながら次のマシンを確認する。次のメニューはお尻をスタイリッシュにキープするアブダクター。そして豊かな膨らみのベースとなる、大胸筋を鍛えるペックデッキ。その後は……

「1・2・3」 「「はいっ」」 「1・2…… 」
 彼の指示に逢わせて発声し、緩急を付けてマシンを駆動する。

 自分で計算するようにとは言われたけれど、結局彼が付きっ切りで面倒を見てくれている。私には見た目の変化こそ感じないけれど、彼には見えるらしい。筋肉繊維の1本1本が日々成長していく様が。
 トレーニングはただ動かすだけでは駄目らしい。常に鍛える筋肉の繊維ひとつひとつをイメージしながらやる事が大事らしい。
 壊れやすい物でも触れる様に、彼の指先が私のソレを確認し続ける。彼のリードに従って、彼の触れるその先端だけに私は意識を集中する―――――



 彼は自分のトレーニングがあるから……いつも私が先にジムを上がる。ずっとそればかり。一緒に上がってそれを口実に食事にでも……

 肉体の強化とは裏腹に、中々進まぬ心の強化、その進展の不甲斐無さ。思わずため息を漏らす。

 更衣室を出て廊下の角を曲ったその時、突然全身に衝撃を受けて私は転倒した―――

 トレーニングはしているが、反射神経まではどうにもならない。ものの見事に転がった。フレアのスカートがめくり上がり、私の秘密が露わに…… 大丈夫。今日の私はスパッツを履いているから。だって着替えのショーツを持って来るの忘れたから―――

「いった〜い…… 」

「だ……大丈夫ですか? 」

 起き上がろうとする私にスッと手が差し伸べられる。何とも貧弱な二の腕。視線を上げると、いつだったかベンチプレスに挟まれていた貧相な兄ちゃんだった。

「すみません。前をちゃんと見て無くって。 失礼します」

 私は彼の手を借りずに立ち上がると、足早にその場を離れようとした。だって彼の目が異様だったから。恋愛経験に疎い私でもよく判った。あれは曲がり角でぶつかるお約束、あのベタ過ぎる運命な出会いを妄想している目だった。

「末永さんですよね? 最近頑張ってますね? 」

 さり気ない会話を装っているが、既に私の腕を掴んでいる。しかも私の名前までさり気にチェックしているなんて…… まぁ名前は以前シューズで披露してしまっているから仕方が無い…… 

「えぇ…… 最近喜びを覚えてしまって…… 」

 彼の貧弱な手を軽く振りほどきながら、当たり障りない会話を演じてみる。冗談じゃない。コレは無い。うん。絶対無い。

「あっ……あの!! 」

 何よこいつ? ここまで釣れない態度示してるのに何か?

「お……お願いがあるんです…… 」

 来た。来やがった。勢いで告白でもしようってのかしら? 私の汗と肢体の虜になったのかしら? 私は至って冷静に、自分で書きあげたマニュアルの1ページ、貧弱なボーヤに突然告白された場合の上手な対応の仕方を想い起こそうと……

「大鎌サンの事。 僕に教えて頂けませんか? 」

「はぁ? 」

 予想を斜め上に逝く展開に、私は間抜けな声を上げてしまった。きっと今この顔を鏡で見ていたら、一生もののトラウマだろう。

「最近彼と良く一緒に居るから…… 何でも良いんです! ほらっ! 好きな音楽とか食べ物とか! それに好みのタイプとか…… 」

『そっちかよ! 』心の中で激しく突っ込みをいれてみる。

「彼は至ってノーマルよ! 他の人を当たってみれば? 」

 無愛想にそれだけ言い残し、私はジムを後にした。背中で貧相なボーヤが何か喚いていたが全て無視した―――


 ふと。彼が実際そっちの趣味なのか不安になる。確かに彼はおネエ言葉を巧みに操るけれど……
 トレーニング中の彼は何と言うか、余人の介入できないようなオーラみたいなモノを纏って黙々とトレーニングに励んでいる。そんな彼の隙をみて、話しかけてくるのはどれも素敵なお姉さまばかり。そんなセレブ達から睨みの一つも受ける事もままあるが、それは私がアドバンテージを持っている証拠みたいなモノ。いつだって余裕の顔でスルーして来た。
 ベンチプレスのサポートに男性が付くのは毎度の事。彼もサポートにまわる事だって良くあるし…… あれは男性アスリート同士のテレパシー……ぢゃ無くてシンパシーだと思ってた。もしかして……彼ってやっぱりアブノーマルなのかしら? そう言えば、私は彼の事を何も知らない……ふと思う。

『そういえば、彼って仕事何してるのかしら? 』

 その逞しさから一見年上かと思ったが、時折みせるあどけなさ―――年齢的には私と大して変わるとは思えない。でも学生では無さそう。朝の早い時間、彼がキリリとしたスーツを纏っていたのを見た事があるから。でも、私がいつどんな時間にジムに行っても彼は居る……
 そういえばお手製のマクロもらったっけ。在宅でプログラマーとかしてるのかしら? 最近流行りのSOHOってやつかしら? だから日中はジムで好きに過ごしてて……

『まぁ、男性は多少ミステリアスな方が素敵だわ』

 抱いた疑問に適当な折り合いを見つけて、私は自分自身を納得させた。

 だがしかし、彼を見る瞳が増えていくのはまずい。そっちの趣味の有無に問わず、熱苦しい視線が増えるのも許せない。

 大きなため息を吐きながら家路を辿った。







「え? はっ! はい! 喜んで!! 」

 大きなマットの上でトレーニング後クールダウン。日課となったストレッチのその最中、相も変わらぬ地獄の中に天国が待っていた! 遠慮のエの字も無く、あり得ない角度に股を割られ、手をぎゅうぎゅう引っ張られているその時、それは彼から唐突に言われた――――

「よかったわ〜 最初上司を誘ったんだけど、興味が無いって断られちゃったのよ〜 」

「わ! 私は前から興味があって、一度行ってみたいと思ってたんですよ〜! 」

 いつもだったら、精一杯に作り笑顔を浮かべながら耐え続けるこの拷問も、今この瞬間、私は心の底から笑っていた。これってデートのお誘いですか? えぇ!拡大解釈でデートですよね! 咄嗟にちょっとだけ嘘つきました。でもこの嘘はついても良い嘘だと思ったから……。
 最初上司を誘ったって……それは聞かなかった事にしてみよう。うん。そうか、やっぱり会社員か何かだったのね? ほんの少しだけ燻っていた心のしこりも解消され、尚且つおデートに誘われてしまうなんて!
 あれからいろいろ悩んで考えて……結局、私からアプローチはできないままでいた。それが突然こんなに上手く転がりはじめるなんて〜。

「お礼に食事もご馳走してあげるわ〜 」

「いえっ! そんな! チケットだけも恐縮なのにそんな…… 」

 そんな私達の会話が聞こえたのだろうか? 毎日彼にアプローチを掛けながらも、ケンモホロロにあしらわれていたセレブなお姉サマ方の鋭い視線を感じる。ついでにあの貧相なボーヤの視線も。

「上手に甘えるのも良い女の嗜みよ♪ 」

「あの……なら甘えついでにお願いしても良いですか? 」

 私は思い切って彼にお願いしてみる事にした………












 小高い丘の麓から頭上の染井吉野を眺める。あいつはそのたもとに座っていた――――

 迂回して丘を登る。ハンドバッグから愛用のコルト・ガバメントを取り出して32ミリ弾を装填する。訓練はずっとしていたけれど、コレを実際に使う事など考えたくはなかった。

 春香は小高い丘の頂きに立つと、迷う事無く銃口を向けて言い放った。

「バベルの末永春香よ! 大人しく投降しなさい…… 大鎌さん…… 」

 その男、マッスル大鎌はやおら立ち上がると春香に向く。ただじっと春香を見上げた。

 海風になびく染井吉野の小さな花弁が2人の間に舞っていた。

「お願い…… 大人しく投降して…… 」

 春香は願いを込めるように歩みを進めた。コルトを握る両腕がズシリと重い。躰中に今まで感じた事のない感覚が駆け抜ける。脚が、背中が震え上がり、ギシギシと軋むような錯覚さえ感じる。

『お願い…… あなたは私が…… 』

 もう一歩を踏み出したその時、足元が震えて膝が折れる、大きく姿勢を崩した上身が前に加速する。咄嗟にそれを補正する様に足が前に出る。もつれた足が交互に大きく前に踏み出しさらに加速していく。染井吉野の根を春香のつま先が感じたその時、さらに姿勢を崩すと同時に春香の体は大きく宙を舞った。

 染井吉野の幹と枝と花々が、2回3回と視界をまわる。既視感に囚われる。

 ストン――――。

 感じるべき衝撃を感じない。

 恐る恐る春香が瞳を開けると、2本のしなやかな太い腕に抱かれていた。

 じっと見つめるマッスルの瞳に目を奪われたその時、自然と声になった。

「バベルも内務省も退屈なのよ…… ねぇ。なんで私を連れて行ってくれなかったの? 」

「パンドラも案外退屈かもしれないわよ? 内務省程では無いにしろ…… 」

 マッスルは腕に抱いた春香をそっと立たせた。

「相変わらず良い脱ぎっぷりねぇ? あなたの感性好きよ」

 先ほど、自分が転がった処に目をやる。丘の斜面にはコートにハンドバック、そして握り締めていたはずのコルトが点在している。ふと見上げた桜の枝に、スカートが引っかかっている。当然露わになった恥じらい。

 『キャー』の1つも悲鳴を上げるべきかもしれないが、何よ今さら感。いつだって、冷静に対応してきたじゃない。少しは大人の女になれたかしら?と。しかし冷静な気持ちとは裏腹に、心の檻を突き破る慟哭。気が付くと、春香はマッスルの太い首筋を抱きしめていた―――

「めっちゃ好きやったんやで! それなのになんや! われケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわせたろかーーー! 」

「ちょ……あんた関西出身だったの? 」

「うるさい! ウチの本気は関西弁だっちゃ! 」

 泣きじゃくる春香の肩を、マッスルはそっと抱き続けた――――











 ステージを所狭しと駆け巡る熱気と躍動する筋肉美。そして歓声。
 隣に座る彼の声援に合わせて、私も声を張り上げていた――――――

 筋肉自慢のミュージアム。熱狂する私を見て彼も喜んでくれた。

 その後、私のお願いで港内を周回するシーバスに乗った。春のうららかな陽気と海風が気持よかった。

 船着き場の直ぐ近くには小高い丘があり、3分咲きの染井吉野がみえた。

 いつか彼と満開の染井吉野を一緒に見たい。心の底からそう思った。



 しかし運命の歯車は刻一刻と進んでいた。



 彼に連れられ来られた小さなイタリアンレストラン。カルボナーラの美味しいお店なんだって。

 カロリーとか脂肪分とか大丈夫かしら? 折角トレーニングしてるのに……感じた疑問を彼にぶつけてみる。

「ここのはホントのカルボナーラだから大丈夫よ! 」

 目の前のカルボナーラを見て納得した。そっか、生クリームは入ってないんだ。カリカリのパンチェッタと卵黄。そしてたっぷりのパルミジャーノと黒コショウ。塩茹でしたの菜の花が、春の彩りを添えていた。
 卵黄の甘みとパルミジャーノの濃厚さが絡み逢う。そしてグラスに注がれた、アイスヴァインの芳醇な甘さが私の気持ちをさらに高揚させていく。

『上手に甘えるのも良い女の嗜みよ♪ 』

 彼のそんな言葉を思い出し、酔った勢いも手伝って思い切って――――カウンター席の隣に座る、彼の大きな肩にそっと寄り添ってみた。彼は私の肩をやさしく抱くと、高貴に香る甘いワインを口に含んだ――――

 この時間がずっと続けば……

 ふっと。彼の腕に付けられたブレスレットが目についた。トレーニングの時も欠かさず付けていたソレ。レザー地に大きな石、宝石とはちょっと違う意匠をこらしたソレ。彼に聞くとちょっと困った様な顔をしていた―――

「まぁ体質のせいかしら? これがないと困る場合もあるのよね…… 」

 ペースメーカーみたいなモノ? 詳しくは判らないけど、彼のトラウマに触れてしまった事は間違いないらしい。私はバックを開けると、幾つかあるソレを物色する。彼から貰った物では無い、今一番のお気に入りのシュシュを取り出すと、彼の腕を包むブレスレットにそっと被せた。

 彼はそんな私をみて微笑んでくれた―――



 その時、2人だけの静寂を打ち破るように突然店のドアが開いた。



 振り向くと数人の男達がどやどや店内に雪崩込んできた。男達の異様さと、その中に見知った顔を見つけて私はさらに驚愕する。ジムに居たあの貧相なボーヤ。

 大鎌さんがスッと立ち上がると、私を背に隠すように男達に向く。

「貧相なボーヤが何か様かしら? 悪いけどあなた私のタイプぢゃないのよね! そのお友達も含めてね! 」

 勝ち誇った顔で貧相なボーヤが前に踏み出した。

「悪いがお前のカラダに興味は無いんでね…… 今日、わざわざお前達をつけて来たのは別の理由からさ…… つまり、我々はどこにでも居る。こう言えば理解してもらえるかな? 」

「ちょっ! 大鎌さんに相手にされないからって何考えてるのよ! 訳わかんない! 普通じゃないよあんた達! 」

 彼らが何を話しているのか理解出来ない私が咄嗟に声を出した―――

「ふん。エスパーに加担する馬鹿な女め。お前も同罪だ! 我々は反エスパー組織普通の人々! つまり我々は普通だ! 」

 貧相ボーヤの手にはちっぽけな拳銃が握り締められていた。

 ―――普通の人々。時折ニュースや新聞で見聞きする過激な集団。ESP能力を過剰に敵視して、時に低超度のエスパー達を、一方的に力で弾圧したりといった事件を起こす過激な一団。

 ここまでのやり取りでハッと気が付く。もしかして大鎌さんがエスパーなの?


「我々はエスパーを人間とは認めない。つまり、お命頂戴という訳だ! パンドラのマッスル大鎌! 」

 中年男が前に出ると言い放った。取って付けたようなコック帽が滑稽だが、この状況で突っ込む余裕は当然無い。

 近くに居たボーイがそっと身を動かす。すぐさま普通の人々の数人が彼に群がる。肘で拳で彼をねじ伏せる。ボーイはその場にぐったりと横たわった。
 店内に居た数組みのカップルや店員が一か所に集められる。彼は私にその指示に従うように言うと、そのボーイの介抱を始めた。

「自分の置かれている状況が理解できないのか? やはりエスパーとは愚か者らしいな! 」

「それっぽっちの人数で私の相手になると思ってるの? 私も安く見られたものね…… 」

 すると彼は、私の不安を余所に悠々と服を脱ぎ出した。決して過度の飲酒で酩酊している状態、公共放送にゲストで呼ばれたどこかの教授が言ったブラックアウト……な訳では無い。スーツとスラックスを手ごろな椅子に掛ける。ノリの効いたYシャツを脱ぎ去ると、取り出したサングラスを掛ける。不謹慎とは思いつつ、レザーのパンツ一枚に包まれた彼の肉体美に思わず見とれてしまう―――

「ん〜 やっぱりこれだけだとサマにならないわね…… 」

 すると彼はぐったりとしたボーイから、化繊のベストとクロスタイをむしり取って自らの身に纏う。

「ちょっと違うけどまぁいいわ」

 そしてゆっくりと私に向かい、こう言った。

「残念だわ…… もうあなたのトレーニングにつきあってあげられないなんて…… 」

 今まで見た事が無い、―――とても悲しい顔をしていた。

「いい加減にしろ! 自分の置かれた状況がわかって…… 」


「フォォォ〜!!! 」


 気合一閃! 振り返るや否や、一気に間合いを詰めた彼の鉄拳が男の鳩尾に突き刺さる。

 そこからはあっと言う間だった。彼の鍛え上げられた肉体が、鋼鉄の様な拳で、鞭のようにしなる脚で、普通の人々を次々とねじ伏せていく。同士撃ちを恐れた普通の人々は、手にした拳銃を放つ間も無く制圧されていく。

「てめぇ〜 」

 最後の一人となった貧相なボーヤからは、先ほどまでの余裕の顔は伺えない。ぐぅとしばらく唸っていたが、いよいよ覚悟を決めたのか、手にした拳銃を床に放った。

「降参でいいのかしら? 」

「まさか……氏ネバもろともと言うやつさ…… 」

 懐から取り出したモノは、素人の私でも直ぐに判った。手榴弾――――

「これだから嫌いなのよ…… ノーマルは…… 」

 私はその場に座り込んだまま、ただ動けないままでいた。

 無言のまま、男は躊躇う事無く手榴弾のピンを抜いた。

 小さな放物線を描きながら、ゆっくりとピンが床に落ちていく――――床に触れた小さな音がしたその時、大鎌さんが振り向いた。シュシュと一緒にブレスレットを放り投げるのが見えた。

 彼の叫びと同時に、彼の下腹部が不思議な光を放った。


「ビ〜っクマグナ〜ム!!! 」


 そして私は意識を手放した。











 どれくらい時間がたっただろう?

 ただじっと春香を抱きしめていたマッスルの指先が、そっと春香の二の腕をなぞった。

「筋肉は誰も裏切らない…… ちゃんと続けてるみたいね…… 」

 春香は頬を流れる雫を拭いながら黙ってうなずいた。

「私の筋肉を愛するのはあなたの勝手。私もたぶん一生、あなたの筋肉を愛し続けるわ。でもそれを口に出すほど、春香も私も安くないわ…… あなたはまだまだ鍛え続ける。私もずっと鍛え続ける。それでいいじゃない…… 」

「馬鹿…… 」

 眼下に広がる水面には、かつて大洋を縦横無人に走り続けた汽船が、鍛え上げた鋼鉄の巨体をただじっと横たえていた―――


その時、2人の静寂は唐突に打ち破られた。


「春香先輩伏せて〜!! 」

「え? 知代? 」

 マッスルはその言葉に素早く反応する。

 春香を抱きかかえると、そのまま躰を横に飛ぶ。かばう様に抱きしめながら、桜の合間を横に転がっていく。
 その軌跡を追うように、パンっ。パンっ。パンっ。と、乾いた音が3度した。

 拳銃での連続射撃の場合、射線の方向を変えない連射、縦方向に照準を動かす事は容易い。しかし、射線を横にずらす動きには反応しにくいのがセオリーである。つまりこの場合はマッスルの様に身を低く、横に転がって避ける方法が最も堅実な方法である。

 小高い丘の麓には、狙撃者であろう警官がいた……

 マッスルは春香を木陰に下ろすと、手直に転がる拳大の石を拾いあげ、狙撃者に向けて真っ直ぐに射る。ギャっ!という短い悲鳴と共に、狙撃者はドサリとその場に崩れた。


 息を切らしながら知代が駆け寄って来た。

「ちょっ! 先輩! なんで警官に狙撃なんてされてるんですか? ってかさっきのチョット良い男? こんな処で逢引ですか? って?? 」

「あんた一体どうやってココまで…… 」

「ずっと後ついてきたんですよ! こんなに走ったのなんて初めてですよ〜 そしたら先輩が狙撃されそうになってるのが見えたからっ! 」


「そんな事よりも…… どうやら私は仕事の時間だわ…… 」

 マッスルは懐から取り出したサングラスを掛ける。

「フォォォォォ〜 」

 気合一閃。身に付けたスーツを引きちぎるように脱ぎ放った!
 引きちぎったシャツの下には、レザーのジャケットと揃いのタイが身につけられていた。

「げっ! お前はパンドラのマッスル大鎌?! って先輩となんで?! 」

「野暮な事は聞かないのお嬢さん! それよりもお客さん達が来たみたいよ! 」


 小高い丘の麓には、倒れた警官を取り囲む様に、いつの間にか集まったパトカーが数台あった。そして大きなサーチライトが灯される。

 春香がここに来る途中に遭遇した、検問中のはずの警官達がそこにはいた――――

 警官達はハンドスピーカーでがなり立てる。

「お勤め御苦労さん! バベルの末永さんだっけか? 」

「警告も無しに突然発砲するなんて、後で問題にさせてもらいますよ! 」

 精一杯の大きな厳しい口調で春香は答えた。

「パンドラエスパーと逢引する、バベルの准尉殿の方が問題だと思うけどねぇ? 」

「こ……これは…… 」

「まぁいい。 我々はどこにでも居る。こう言えば理解してもらえるかな? 」

 春香はその言葉に緊張する。かつて2人を別つきっかけとなった、自分にとって忌むべき組織―――

「春香、つまりそういう事よ」

 マッスルは春香の肩に手を置くと、自らの背にそっと導いた。

「我々は反エスパー組織普通の人々、エスパーもそれに汲みするノーマルも我々は認めない! 」

「しかし、こうもあっさり罠にかかってくれるとは思わなかったぜぇ〜 パンドラのマッスルさんよ! 」

「まったく。つまらない仕事、私の犯行にしないでよねぇ〜。銀行強盗はドラスティックかつ繊細に犯すのが美学なのよ〜。よりにもよってダイナマイトで爆破だなんて……。コレだから嫌なのよ。美学の無いノーマルって! 」

「それじゃぁ 今日の銀行強盗って…… 」

「そういう事。やつらはパンドラの犯罪をでっち上げて、私らをおびき出そうって魂胆よ。まだ何人か居るみたいだけど、この人数で私をどうにか出来ると本気で思ってるのかしら? 」

「これでもその減らず口が聞けるかな? 」

 次の瞬間、春香の耳に一瞬だけキーンと可聴範囲一杯の高い周波数の音が聞こえた。

 マッスルは額をピクリと動かすと、軽く舌打ちをした。

「奴ら、ECMを使ったわよ…… きっとパトカーにでも装備してるんだわ…… 」

「備えあれば憂い無し! 超能力さえ封じてしまえば貴様らエスパーなんぞ、ゴミ以下の存在なのだよ! 」

 マッスルは、春香と知代を自らの背に配しながら、一歩づつゆっくりと距離を取る。木陰に身を隠すと、2人だけに聞こえるように囁いた。

「春香、そしてお嬢ちゃんも一時休戦で良いかしら? 」

 2人はこくりと頷く。

「私のアルミケースに小型のECCMが入っているわ。あいつらは私が引きつけておくからその隙に…… 」

 春香が見上げる10歩ほど丘を上がった桜の麓に、そのアルミケースが置かれていた。

「知代。あなたのベレッタを貸して! 私が援護するから走るわよ! 」

 知代は慌てて自らのハンドバックを開けようとするのだが、手が足が、ワナワナと震えて叶わない。

 パシン―――――
 春香の両の手の平が、知代の頬に触れた。そのまま身体をぎゅっと抱きしめる。

「しっかりして知代。大丈夫。私がついているから…… 」

「先輩…… 」

 こくんと頷く知代のバックから、春香はベレッタを取り出した。


「パンドラのエスパーも、バベルの犬どもも皆氏ネ! 」

 複数の狂信者たる警官の手元から、無機質な小さな鉛の塊が容赦無く射かけられる。


「行くわよ。1・2・3… 」

「「はいっ!! 」」

 合図と共に飛び出したマッスルは、春香のコルトに走り寄る。

 援護に木陰から身を乗り出した春香のベレッタが乾いた音を立てる。

「ちょっと知代! これ銃心ずれてるじゃない! ちゃんと手入れしてるの? 」

「そんな事言ったって! オペレーターやってて銃撃戦するなんて考えた事も無かったですよ! 」

 木陰で両耳を塞ぎ、初めて感じる生命の危機に身を震わせながら知代が答える。こぼれ落ちそうな涙の雫を蓄えながら必死に堪えていた。

 次の瞬間、ピシリと小さな音した。細い鮮血が――――マッスルの上腕二等筋を伝わった。


 鮮血と共に脈動する肉体美に、春香は愛し続けた男の姿を見た。


 ぎゃっ!と小さな悲鳴を上げながら、普通の人々が一人、また一人と無力化されていく。マッスルの手にしたコルト・ガバメントは、自らのアイデンティティを存分に知らしめた。獲物を違える事なく、確実に拳銃を持つ手のみを打ち抜いていく―――――


「今よ! 知代!! 」

 春香の合図で2人は丘を駆け上がる。
 残り5歩のところで春香は再び振り返る。

「ここは私が! 知代はECCMをお願い! 」

 がくがくと震える両の腿を抑えながら、知代はさらに駆け上がる。

 春香のベレッタが乾いた音を立てる。銃心のズレを目測で修正し、今度は狙いを違える事無く、マッスル同様に手のみを射抜いていく。

 駆け上がった知代はアルミケースを掴み上げると、そのまま素早く木陰に身を隠した。すぐさまケースの蓋を空ける。
 オペレーターの名は伊達では無い、普段はブリッジでのオペレーションを主な任務としているが、この手の機器の使用方法については日々の訓練で熟知している。知代は震える手を堪えながら、ECCMの起動操作をこなすべく、ケースからノートPCを取り出してモニターをみる。どうやらPC内蔵タイプのECCMの様だ。既に起動済みでスタンバイ状態である。きっとデスクトップにでも置かれたショートカットを叩くだけで起動するはずであるのだが―――

「ちょ……ちょっと先輩! ログインのパスワードが掛かってますよこれ! きゃっ」

 木陰から顔を出した知代の前髪を、鉛の玉がかすめて飛んだ。心を砕く焦げた匂いと共に、ひらりと前髪の数本が舞う。

「春香! 早く! あれはまずいわっ!! 」

 既にコルトの弾丸を撃ち尽くしたマッスルが、木陰から春香に叫んだ。

 ベレッタの弾装を差し替えながら、マッスルの指さす丘の麓を見た春香は驚きを隠せない。

「120mm迫撃砲 RT ヘヴィハンマー…… なんであんな物まで! 」

 麓には、三脚様の台座に固定された力の御印が、今まさに凶暴な咆哮をあげんとその顎をこちらに見据えていた。

『あんなもの撃ちこまれたらひとたまりも無い…… 』

 春香の顔が恐怖の色に染まったその刹那。

「フォォォォーーーーーー!! 」

 マッスルが飛び出した。


 セオリー通りの回避行動を一切無視し、丘を真っ直ぐに駆け下りていく。

「駄目よ大鎌さん! 」

 その叫びに、マッスルは春香に顔向けた。鉛の玉がサングラスのフレームを打ち抜いて舞った。

 春香には、マッスルが一瞬だけ笑ったように見えた―――

 その微笑みに、春香ははっと気が付く。

「知代! ログインのパスワード! Carbonaraよ! 急いで!! 」

 知代は直ぐにキーを叩いてログインを行う。

 スタンバイ状態を解放された液晶モニターが鮮やかに発色する。

 PANDORAのロゴが輝くデスクトップ中央に、起動アイコンを見つけた。

 タッチパッドをスッと撫でる。もう手は震えていなかった。

 カーソルが中央のアイコンに重なった。

 二度叩く。

 PCのサイドから、ECCM特有の円形構造物がせり出して、駆動音が聞こえた。

 と同時にヘヴィハンマーが凶悪な咆哮を上げた―――――

 春香は自らに襲いかかる音速の塊を見た。―――――と同時にマッスルが振り向くのが見えた。

 彼の叫びと同時に、その下腹部が不思議な光を放った。

 春香は再び既視感に囚われた―――――


「ビ〜っクマグナ〜ム!!! 」


 そして春香は意識を手放した。











 瞳を開けると知らない天井が……いや。知っている。これは医務室の天井―――

 春香は気だるさの残る上身を起こした。喉の渇きを感じて辺りを見回わすと、枕もとにスポーツドリンクのペットボトルを見つけた。キャップを捻る手に力が入らない。大きく深呼吸してもう一度力を込めた。今度はさほどの力も要らずに開いた。枕元の電波時計を見てみる―――あれから3日程経っていた。春香はドリンクを一口だけ含み、ゆっくりと留飲した。
 そのまま記憶の整理をしようと試みる。確かあの時…… 少しずつ記憶と意識がクリアになっていくのを感じると、春香はここではっと気が付く。知代は? と。

 足元のスリッパを履き立ち上がると、仕切りのカーテンに手を掛ける。遠慮がちに隙間から隣のベットを覗いてみた。白い毛布に包まれた知代の横顔が、規則正しい寝息を立てているのを確認して春香は安心した。

 ぼーっとする頭を押さえながら、もう一口だけドリンクを飲んだ。

 改めて自分の躰を確認する。純白のブラウスは泥に汚れ、ストッキングは大きく伝線している。下着だけを残して汚れた衣服を脱ぐと、丸めて足元に放る。枕元に置かれた病衣の上着に袖を通した。ここまでの動作で躰中にどっと疲労感が溢れた。しかし意識を取り戻した以上こうしている訳にもいかない。病衣の合せを紐で縛る事もせず、豊かな膨らみを露わにしたままカーテンを引いた。


「お? 春香おねーサマお目覚めって ごわっ!? 」

 春香の予想通り、高超度エスパーであり、医師でもあるその男が執務席に座っていた。その反応に思わず顔をしかめる。医者の癖に、今さら女の下着姿位でなんで取り乱してるのよ?と。

「賢木クン? 何慌ててるのよ? 」

「いや! ほら! 春香ねーサン下着がほら! ブラとパンティが丸見えって! 」

「何よ?ボーヤでもあるまいし! それともプレイボーイって噂は伊達なのかしら? 」

 春香は左手を腰にあてがうと、右手の甲でシュシュを軽く払った。

 賢木は今にもずり落ちそうな椅子から立ち上がると、こほんとひと息。と、屈託のない笑顔で春香に答えた。

「いや〜 俺もマジで驚いたよ! なんたって鋼鉄のお姉さまと噂される春香ねえサンが、ホントに鋼鉄の塊になって担ぎこまれたんだから! 」

「そぅ……鋼鉄のお姉さまねぇ。ふぅ〜ん。そんな風に噂されてるんだ…… 」

「いやっ! ほら…… 仕事に対して真面目っていうか、そんな感じな意味で……」

 そんな噂になっていた事に若干の驚きを感じながら、賢木をジト目で見つめてみる。女癖で悪名高いこの男があたふたする様を見て、春香もまんざらでも無い様である。

 ここで気持ちを切り替えると、確認すべき事を切り出した。

「で? 教えてもらえる? あの後どうなったのか…… 」

 賢木は改めて席に着くとコーヒーを一口舐め、すこぶる真面目に答えた。

「マッスルの硬化能力のおかげで辺り一面大きな被害は無し。爆発直後に到着したAチームによって、犯行に及んだ普通の人々は全員逮捕…… 例によって横の繋がりが希薄な奴らだからなぁ…… その先の情報は大して得られなかったけど…… 」

「そう…… 」

「2回目なんだな……奴に助けられたの…… 」

透視たんだ…… 」

「まぁ…… 今回の件に関する事柄を幾つかピックアップして…… えぇっと、これは内規に基づく…… 」

「内規は熟知してるしあなたを責める気は無いわ…… あなたも辛い役回りね…… 」

「所詮は国家組織の構成員だからな……一応命令には従っておかねぇとな」

 賢木は一旦うつむくと顔を上げた。そして先ほどとはうって変わり微笑みながら答える。

「俺の方から局長にレポート出しておいたけど、明日にでも顔出しておくんだな。まぁ問題無いハズだ」

「そう……いろいろ借り作っちゃたわね。いずれ埋め合わせするわ…… 」

 気にするなよと小さくつぶやくと、賢木はデスクの隅に置かれた分厚いファイルを手に取った。

「そうそう!昨日バベルに怪しい者を名乗る2人組が、不審物を持ち込んでだなぁ、受付でザ・ダブルフェイスの2人と激しい銃撃戦の末に逃走するってちょっとした事件があったんだ」

「何よそれ? 正面受付から堂々と? ってそれが今の私に何か関係でもあるのかしら? 」

「で、不審物がコレだ」

 春香は渡されたファイルに既視感を覚える。

「一応、技術部と俺とで中身の調査はしたけど特に問題無いみたいだしな。局長の判断もあって、宛先の人物に届けるべきだ!と 」

「私に? 」

 春香は手にした分厚いファイルをぱらぱらとめくる。それはいつか彼に貰った錬筋術のマニュアル。時折かわいいイラストを交えながら彼の直筆でびっしりと新理論が書きこまれていた。そして1枚のDVDが添付されている。
 ペラペラとページをめくると一通の封書が挟まれていた。

「悪ぃ…… 一応読ませてもらった…… 」

 無言のまま、春香は便箋を取り出した。

 短く一言、

 『例のイタリアンレストランが都内で再開されていました』と。

 そして店の地図が描かれていた。


 その時、バベルの定時の終わりを告げるいつもの旋律が鳴り響いた。世の中は不誠実に溢れ、誠実さを得ることは難しい―――それでも人は誠実さを求めて生きる。コメリカ人ロック歌手の奏でるピアノソロとそのメロディ。


「つまり、奴なりのそういう事…… なんだと思う訳だ」

「そうかもね…… 」


 その時、医務室の入り口がガチャリと開き、一人の女性が駆け込んで来た。はぁはぁと息せき切らすその頭上には、チラリチラリとあほ毛が揺れる。


 どうやら春香達の硬化が解けた一報を、賢木がブリッジに入れていたようだ。

 亜由美は春香の顔を見るなりワーっと大粒の涙を流し泣きじゃくる。

「末永先輩! わたしっ わたし…… 」

「ちょ?! ちょっと木下さん? 何であなたが泣く必要があるのよ? 」

「私があんな業務連絡さえしなければ…… それに私がもっと早く気が付いて現場にAチームを…… 」

「あなたは自分に与えられた任務をちゃんとやってくれた。それだけで十分よ」

 しばし躊躇の後、春香は歩み寄り、小さく丸まった亜由美の身体を両腕でしっかりと抱きしめた。

「心配してくれてありがと」

 病衣の袖で、亜由美の涙をぬぐった。

「そうそう……カルボナーラの美味しいお店があるの。良かったら一緒に行かない?知代と……金子さんも誘ってあげるわ」

「はい…… 」

 小さく丸まった亜由美の身体を、春香はもう一度きつく抱きめた―――――






 もうしばらく休ませるからと賢木に促され、亜由美は退室した。


「まぁとにかく硬化の後遺症とか良くわからん事が沢山あるんだ。もうしばらく寝た方がいい」

今は無理しても寝ろ!と賢木は春香に睡眠薬を手渡した。

「そうそう!一応、脳派をモニターしたいから、これ付けといてな! 」

「何よこれ? 変なデザインね? まぁいいわ」

 春香は賢木に手渡された、2つの突起が付いたカチューシャ様のモノを頭に乗せ、再びベッドに戻った。

 どれくらいの時間がたっただろう。疲れ切っていたが寝る気にもならなかったので、睡眠薬は飲まずにただ横になっていた。

 不意に、賢木の声が春香の耳に入る。どうやら誰かと電話をしている様だ―――――


「いいか皆本! 聞いて驚くなよ! いや。むしろ驚け!

 あぁ? 合コンの誘いかって? いや。そんなにイージーな問題じゃねぇ……

 お前も聞いた事があるだろ? ほら。ブリッジの春香ねえサンのあの噂。

 気づいて無いのは本人のみ? むしろ狙ってやってるのかは俺にもわからんが……

 今、鬼つのカチューシャ付けて眠ってもらってる。

 間違いない! 俺がこの目で確認した!

 あのブラとパンティは黒地に黄色の縞模様! ラ○ちゃんだよ! ○ムちゃん!!」



 はだけた病衣をそのままに、春香はベッドから飛び出した。仕切りのカーテンを突き破り、鍛え上げた脚力によってに加速する。

 その姿、まさに翔ぶが如く―――

 しなやかなに伸びる右手から、電撃…… もといビンタが賢木の頬に向かって飛んだ。

「黄色地に黒の縞模様だっちゃ!! 」

 叩き込まれたビンタには、“今わの際までに捕えてみせる”という女の決意、昭和の恋が感じられた。



---------- 絶対可憐オペレーターズ 哀愁のカルボナーラ fin ----------

2009.6.9追記
ナミビア様から素晴らしい挿絵をいただきました。
http://gtyplus.main.jp/cgi-bin/gazou/imgf/0215-1244405857.jpg
こちらも合わせてご覧くださいませw
ナミビア様。素晴らしいイラストありがとうございました〜



オリくさい&長いお話を最後までお読みいただきましてありがとうございます。

と言う訳で、今回は“絶対可憐オペレーターズ”の“シリーズ第2作目”をお送りいたしました。

Q:オペレーターって誰よ?
A:アニメのオリキャラ達です。

いろいろ調べますと、オフィシャルでは6人のオペレーターのねぇチャン達が居るらしいです。
これからもこのシリーズで、ねぇチャン達をいじりたいなぁと考えております。

一応、シリーズ1作目の“蒼天の@@”を以下にリンクしておきます。
この話を読んで興味を持たれた方に、読んでいただけますと幸いです。


絶対可憐オペレーターズ 蒼天の@@ 前編
http://gtyplus.main.jp/cgi-bin/gty/read.cgi?no=10231

絶対可憐オペレーターズ 蒼天の@@ 中編
http://gtyplus.main.jp/cgi-bin/gty/read.cgi?no=10232

絶対可憐オペレーターズ 蒼天の@@ 後編
http://gtyplus.main.jp/cgi-bin/gty/read.cgi?no=10233


気が付けば、昨年の夏企画以来の投降となってしまいました。
ハードとソフトと筆まめさetc いろいろ問題があるのですが……

地道に書いていますので、皆様どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。


最後に、作品の構成や人員の配置、描写の稚拙や時系列の煩雑さetc……ツッコミやご意見頂けますと幸いです。




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