分解したキャブレターにキャブクリーナーを吹き付ける。黒くなった汚れが流されると、照明にメインジェットを透かしてみた。漏れてくる光が目に入ると、横島は口元を緩めた。
「先生、なにやってるでござるか?」
片目で覗き込んだメインジェットを退かすと、目の前に銀髪のシロが立っていた。
「掃除」
「自分の部屋の掃除はしないくせに?」
図星を突かれて思わず苦笑する。
「自分の部屋散らかっていても死にはしないだろ」
「まぁ汚くても死にはしないではござるが」
メインジェットをKTCのマイナスドライバーで慎重に組み込むと、ケイヒン製FCRホリゾンキャブレターをエンジンに取り付けた。
「キャブ詰まって失速したら、最悪振り落とされることだってあるんだぞ」
「それくらいで死ぬ先生ではないでござろう?」
「ギャグ補正が入っていればな」
くくっと笑いながら黒いタンクを取り付ける。
「楽屋ネタ、禁句に近いセリフでござるよ」
「いいんだよ、マニアック小説なんだから細かい所は飛ばして読むだろうから」
赤い疾風(かぜ)が吹き荒れ、一瞬のうちに横島は肉片と化した。
――― 終わり ―――
「始まってすぐに死ぬかと思った」
肉片から人へと戻ると、横島は冷汗ならぬ凝固し始めた血を拭った。
「フルパワー神通棍での空中コンボ……それを喰らって何事もなかったかのようにしている人が転倒で死ぬとは思えないでござるよ」
「まぁそりゃそうなんだけど、今回出番が無いからっつーて疾風になるこたぁねぇだろ」
鼻先に槍が掠めた。目線だけを上に向けると、それは天井から突き抜けていた。
「随分と耳がよろしいようですな」
そう呟くが、シロは顔を蒼くしたまま顔を左右に振った。
抜き足でバイクに近づきキーを回すとニュートラルの表示が光る。セルモーターを回すが、エンジンは掛からなかった。
「壊した?」
「ちゃうわい」
アクセルを少しだけ回し、再びセルモーターを回した。今度は長い時間回す。ナサートのチタンマフラーからくぐもった音が聞こえた。
「やっぱり壊れた?」
シロの声に応えるかのようにニヤリと笑うと、サイレンサーから爆音が響いた。あまりの音にシロは仰け反り倒れてしまった。
「キャブ掃除したからガソリン回ってないに決まってるだろ。キャブにガソリン行くまでセル回さないとだめなの」
アクセルを握り、タコメーターを見ながら三千回転で固定した。
「また五月蠅くなったのでは?」
「多分な。まぁコブラよりは静かだよ」
横に停めてあるコブラに目を向けると、苦笑した。
アクセルを呷り、回転を上げた。キャブレターが空気を吸い込む音が妙に目立った。
「なんか今までと別の音が」
「キャブの音。空気吸い込む音が聞こえるんだよ、エアクリの形状変えたからな」
水温計の針が動き出すと、キルスイッチを押した。
「濃いかなぁ〜と思ったけど、エアクリ変えたから丁度いいか」
タンクを軽く叩くと、キーを回しキルスイッチを押した。工具の上に置いていたウェスを手にすると、整備で汚れた車体を丁寧に拭いていった。
黒い車体は埃がついていると目立ちやすく、丁寧に拭いていった。
「えふえっくすふぉーぜろぜろあーる」
「お。アルファベットが読めるようになったか」
「なんて読むのでござる?」
タンデムシート下のカバーに記された文字を指差した。
「そのまんま、FX400R(エフエックスヨンヒャクアール)だ」
「どういう意味でござるか?」
「その昔、400CC4気筒バイクの火付け役となったバカ売れしたZ400FX(ゼットヨンヒャクエフエックス)というのがあってな。その名を借りて……売れるようにしたかったんだろ」
「そうなのでござるか?」
「たぶん」
自分に言い聞かせるように頷くと、横島は再びバイクを磨きだした。
「シンプルなようで、ごちゃごちゃしているでござるな。先生のバイクは」
「まぁエミさんのバイクと比べるとな。カウルついてないし」
「メカメカしいでござるよ」
「それがバイクの味ってやつよ」
白い歯をみせて笑うと、ウェスを放った。
「ウソをついてはいけないでござるよ」
「は? なんでよ」
ガレージを出ると、煙草を咥えた。
「えふえっくすの画像でござるよ。先生のバイクとはまるで違うでござるよ」
目の前にプリントアウトした用紙が差し出された。ネットからの画像であろう。粒子が粗く、多少ぼやけていた。
「よく調べたな、こんなの」
「あいてい化は現代人の必須科目でありますから」
ノーマルのFX400Rの画像を見て、自分のFXと見比べた。
「やっぱ俺のFXの方が、カッコいいな」
ニヤリと笑い煙草に火をつけた。シロは用紙を手にFXの側にいくと変わっている場所を探した。
「まずライトが違う」
「角目から丸目にしたからな」
「ハンドルの位置が違う」
「デイトナの削り出しセパハンにしてるから形状も違うぜ。それとステップな。セパハンバックステップ同時交換は常識だな」
「メーターの形が違う。」
「デジタルの速度計にしてタコと一体式にしたからな」
「前の部分がかなり違う」
「フロントって言えよ。フォークも変えたしブレーキも変えたからな」
「この金属管がキンキラになってる」
「マフラー。ナサートのチタン管になってるからな」
「変なシールが貼ってある」
「ネタつきてきたのかよ……NINJAステッカーな。カワサキ乗りなら常識だ」
「えーっと、えーっと」
FXの周りをくるくると回りながら、手に持った用紙と見比べた。
「一番目立つのがあるだろうが……」
灰を落としながら溜息をついた。
「分からないでござるよ」
半べそをかいたように訴えた。
「それはな」
FXを指差そうとすると、大きな音が近付いてきた。
「聞いたことない音だな、なんだこれ?」
音のする方に目をやると、異型ライトがみるみる間に近づいてくる。赤いその姿が見えたかと思うと、あっという間に目の前にいた。
「まるでワープだな」
赤いバイクに目を落とさず、乗っているライダーの胸を見た。
「ちわ、エミさん。またバイク買い換えたんですか?」
ヘルメットを脱ぎ長い髪を靡かせると、小笠原エミはスタンドを立てバイクから降りた。少し下げられた革ツナギのファスナーからは豊かさを象徴するかのような谷間が見えた。
「おたく今、胸だけで判断したでしょ。いいかげんそういうのやめたら?」
「胸だけで判断なんかするワケないじゃないっすか」
「そう?」
紫煙を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「乳、尻、太股! すべてを見てから判断したに決まってるじゃないスかっ!!!」
「よけいタチ悪いわ! おたく、視線だけでセクハラで訴えられるわよ」
「ひでー! どうせ訴えられるならせめてそれなりのことをやってから」
飛び掛るが空中にいるところをヘルメットで迎撃され叩き落されてしまう。
「小笠原殿、美神殿に用事であろう? さ、事務所の方へ」
「あら、悪いわね。そのゴミ、ちゃんと片付けておいてね」
「心得たでござる」
シロににっこりと笑いかけると、エミは事務所へと上がっていった。
「おい、こら」
「ごゆっくりでござる〜」
「こらってばよ」
「なんでござるか?」
「足どけろよ」
シロはようやく顔を踏みつけていた足を退かせた。
「お前、師匠に対してだな」
「そこに座るでござる」
立ち上がろうとした横島を一喝した。
「何いってるんだ?」
「座るでござる!」
あまりの剣幕に押されて、コンクリートの上に正座をした。
「いいでござるか! 先生は最近あまりにもセクハラがヒドいでござるよ」
「いやセクハラっつーったってだな」
「言い訳無用!」
弟子に説教されるという師匠という世にも滑稽なやりとりを、足が痺れるまで続けさせられた。
足の感覚が無くなったころに、ようやくシロから解放されFXへと体を引き摺っていった。
腕力だけでよじ登り、キーを回しセルスイッチを押した。そして汚れたコンクリートの上を転がり、ヘルメットが置いてある場所に辿り着くとそれを手にした。
シロは何かに納得するように頷くと、事務所へと上がっていった。
「教育の仕方間違えたかな」
少しだけ痺れが薄れた足で立ち上がると、薄氷を踏むかのような足取りでFXの元へといった。
軽くアクセルを捻り、回転を上げる。ガレージに音が反響して他の音は一切聞こえなかった。
「下品な音なワケ」
アクセルから手を離すと、小さな音が聞こえた。振り返ると、片耳を塞ぐようにしてエミが立っていた。
「仕事の話は終ったんスか?」
聞こえなかったふりをして、白いフルフェイスのヘルメットを被った。
「たんなる打ち合わせだからすぐに済むワケ」
「お疲れ様でした」
グラブを両手にはめると、FXに跨りスタンドを上げた。
「デスモセディチ買ったんスか?」
ガレージの前に停めてある赤いバイクの方を顎でしゃくってみせた。
「いいでしょ」
「いいっすね。俺には高くて買えないっすよ」
興味無さそうにいうと、エミは腕を組んで横島を見下ろした。
「まぁいつまでも令子の下で満足しているおたくには買えない代物よ」
挑発ともとれる言葉に、横島はヘルメットのシールドを開けエミを見上げた。
「ピートに相手されないからって、俺に当たらないでくださいよ。体が夜泣きするんだったら、いつでも相手しますよ」
完全なセクハラ発言ではあるが、飛び掛る素振りは見せなかった。フルフェイスの下で笑っているような態度である。
「アタシの相手を? 十年どころか百年、いや千年も一万年も早いわよ。出直してくるワケ」
「出直してって、ここはウチの事務所ですよ。出直してくるのはエミさんでは?」
涼しい顔をしているエミだが、かなり太い血管が浮き出ていた。
「おたくもいうようになったわね。令子と一緒で口だけは達者になってきたってワケ」
「自慢は“腕”の方でしてね。口使うのはあっちの時だけと決めていましてね」
ここまでくると完全な挑発である。
「使ったことない奴が言っても、カッコつかないわよ」
「お互い様でしょ。蜘蛛の巣張ってる人にはいわれたくないっすよ」
いつ切れてもおかしくないくらいに血管が膨れ上がったが、大きく呼吸して頭をゆっくりと振った。
「えらく挑発するわね、おたくらしくもない……ひょっとして、アレ羨ましいワケ?」
赤と白に彩られたドゥカティデスモセディチRRを指差した。
「んな事あるワケないじゃないスか」
「そう? クズ鉄屋に並んでいてもおかしくないモノに乗ってるからてっきりそうかと」
「税金対策で買ったモノと一緒にしないでくれます?」
「控除もできないスクラップに言われたくないワケ」
二人の間に火花が散った。例えではなく、霊力のぶつかり合いによるものであった。
『盛り上がっているところ申し訳ないのですが』
天井から声がした。人工幽霊である。聞こえてはいるが、お互いのバイク乗りのプライドがそれを許さなかった。
『先ほどのガソリンに引火しますよ』
その声を聞いて、二人は慌てて目線を逸らせた。ヘルメットの上から頭を掻くという古典的なことをした後、横島はギアを一速に入れた。
「ちょっと待つワケ」
手を顔の前に出し、行く手を阻んだ。
「なんスか?」
「オタク、この私にあれだけの暴言吐いておいて帰れると思ったわけ?」
「八つ当たりの矛先は別に向けてください。そういうのは、美神さんだけで十分です」
エミの目線が斜め45度の方を向いた。何か考えているらしい。しばらくそのままで考えていると、思わず頷いてしまう。令子の八つ当たりというのが何やら納得できたようだ。
「んじゃ、俺はこれで」
クラッチを緩めるが、またしてもエミの手がそれを遮った。
「それはそれで納得いったけど、“税金対策”というのは納得いかないワケよ」
「税金対策じゃないんスか? 800万以上で200馬力のバイクなんて、どこで乗るんスか」
「モトGPレプリカよ、それくらい当然なワケ」
「世界限定でしょ? 成金が買うだけじゃないスか」
「どう聞いても、貧乏人の僻みにしか聞こえないワケ」
「どうとでもとってください。直線でしか乗ることのできないバイクなんて意味ないっすから」
「乗れないとでも?」
「乗れるとでも?」
エミは悪霊に向かうときのような鋭い視線を向けるが、横島はあざ笑うかのように眉を歪めた。
「上等じゃない。そこまでいうなら勝負するワケ」
「勝負? 何を勝負するんスか? 直線ならそれに勝てるワケないし、ワインディングなら俺に勝てるわけないでしょ」
その言葉にエミは鼻で笑った。
「これにコーナーで勝てるっていうワケ? 大した自信ね」
「自信じゃないっす、“確信”です」
鋭い目のまま、エミは口元を緩めた。
「そこまで言うのなら、ワインディングで勝負しなさい」
「なんかくれます?」
「なにかってなによ?」
「そうですね……」
ギヤをニュートラルに入れると、クラッチから手を離しタンクの上に両肘を置いた。
「今度の合同の仕事、エミさんとウチと取り分6・4でしょ? 美神さんに内緒で8・2にしてください。余った二割は俺の取り分ということで。ほとんど俺が仕事するのに、危険手当安いんですよ」
「まぁ絶対に無いと思うけど、オタクが勝ったらそれでいいわ」
「よっしゃー! 改造申請出せるぞ」
すでに手に入れたといわんばかりに、大げさにガッツポーズをやってみせた。
「喜んでばかりいていいの?」
赤い口紅をひいた唇が裂けたように開いた。
「へ? だって負けないっすから」
「……負けたら、オタクの身体を貰うわ」
スタンドをかけ、ヘルメットを脱ぐと右ハンドルだけについているプレスミラーにヘルメットを掛けた。一気に飛び掛りたかったのだが、バイクを転倒させたくなかったし、ヘルメットが使えなくなるのは嫌だったらしい。
「呪いをかけて、文珠作成ロボットとして一生コキ使わせてもらうワケ」
かなり危ないセリフだが、飛び掛かられる前に相当な早口でまくし立てた。横島はミラーに掛けたヘルメットを再び被った。
「賭けの賞品が割りに合わないなぁ」
「負けないんでしょ?」
エミは見下すかのように挑発的な視線を向けた。
「いいですよ、受けましょう。その代わり場所と時間は俺が指定します」
「いいわよ」
ヘルメットの顎紐を締めると、クラッチを握りギアを一速に入れた。
「お互いに真昼間だと目立つバイクですからね、明日の早朝4時に、奥○○峠で」
「バイク乗りの聖地か……いいわよ、逃げたら負けとみなすわよ」
「逃げませんよ、臨時収入かかってますから」
ヘルメットの中で笑ってみせると、アクセルを開けた。
エミは事務所兼自宅に戻ると、玄関にブーツを放るように脱ぎ捨て、バイクに合わせた赤と白に彩られたアルパインスターのライディングスーツを脱いだ。下着姿のまま冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを手にするとキャップを開け口に含んだ。
どうやって痛めつけようかと、サディスティックな思考が頭の中を駆け巡る。姿見に映った自分の影が見えた。思った以上に凶悪な顔をしていたようだ。肌の黒さも相まってか、悪魔のようにも見えた。
だがその姿を見て、エミは思わず口元を歪に吊り上げた。
「あのエロガキ……どこで覗きやがった」
浅黒い肌に白いレースのパンツ。遠目から見ればまるで蜘蛛の巣のようであった。
東の空が薄っすらと明るくなっているが、西の空にはまだ星が見えていた。
僅かだが朝霧が立ち込める中、横島は煙草を咥えた。紫煙を吐き出すと、朝霧に混じって消えていく。切ったばかりのエンジンからキンキンという音が聞こえた。
「凄かった……あの肌に白のレースは似合い過ぎだ。おそらく下は透けてるだろうしな」
爽やかな早朝に似合わないセリフを吐くと、遠くから爆音が響いてきた。
「きたきたぁ〜、オカズがネギ背負ってやってきた」
かなり意味不明だが、早朝の峠には似合わないセリフであることに間違いなかった。異型デュアルライトが近づいてきて、横島の寸前で後輪を持ち上げるように止まった。
「チッ……避けたらハネたのに」
「朝から物騒なこと言わんでくださいよ」
苦笑しながら缶コーヒーを差し出した。エミは疑いながらも受け取ると、エンジンを切った。
スタンドを掛けバイクから降りると、ヘルメットを脱いだ。まとめていた黒髪が、赤と白に彩られた革ツナギの上に流れていった。
「たまには早起きも悪くないわね」
缶コーヒーのプルトップを開けた。
「でしょ」
「相手がおたくでなければね」
顔色をまったく変えないまま、口をつけた。横島はそれを見て、少しだけ笑ってみせた。
「で、勝負の方法は?」
「バイクバトル伝統の追いかけっこ。昇りと下りを一回ずつやって頭を換わる。勝敗は本人が納得するまでのデスマッチでどうです?」
「あきらかな負けと分かってても納得しない場合は?」
「負けたときの言い訳ですか?」
煙草を携帯灰皿に押し付けた。
「おたくはあのクソ女の弟子だからね、とてもじゃないけど負けを認めるようなことはしないんじゃないかってね」
冷ややかな視線を投げかけるが、横島は僅かに口元を緩めると空になった缶をゴミ箱に放った。
「入っていたらまぁまぁカッコよかったのにね」
ゴミ箱の縁に蹴られた空き缶を拾いゴミ箱の中に入れると、空き缶が放られた。エミが放ったそれは、見事な放物線を描きゴミ箱の中に入った。
「お互い様といいたいところですが、お互いにバイク乗りですからね」
「いうじゃない。小汚い格好じゃなければ、少しは様になってるワケ」
絶対的な負けを認めない。それはバイク乗りのプライドの問題だといいたいのである。どんなに言い訳をしても、当事者だけは分かっている。理論武装をして美麗字句を並べても、恥以外の何物でもないのだ。
「維持費だけで精一杯ですから、格好なんて気にしちゃいられませんよ」
黒い革パンツの両膝に巻かれている黒いガムテープをぽんと叩いた。確かにデスモセディチに合わせたエミの皮ツナギからすれば横島の格好は小汚いといわれても仕方なかった。
いつものGジャンにローラーブレード用の肘パッドをあて、黒い革パンツの膝下とアルパインスター製の黒いブーツには黒のガムテープで補修がなされていた。
「格好ではパワーは上がりませんからね。そっちと違って売るほどパワーありませんから」
いいながらFXに火を入れた。エミもデスモセディチに火をいれると、ヘルメットを被った。
「最初の一本は俺が先行しますね。エミさんここあまり知らないでしょうから」
FXに跨りミラーにかけていたアライ製の白いヘルメットを被ると、ギアを一速に入れた。ゆっくりと動き出すと、エミのデスモセディチもそれに従うように動き出す。
峠を下っていくが、ツーリングほどのゆっくりとしたペースで下っていった。かなりスローなペースである。横島は左手をハンドルから離していた。
下りが一度終り谷間の短い直線に差し掛かると、左ウィンカーを出し路肩に寄せた。エミもそれに従い止まると、後方を確認して右ウィンカーを出しUターンした。すぐに左ウィンカーに変えると、スタンドをかけFXから降り、エミの側にいった。
「下のUターン場所はここです。上はさっきのゴミ箱がある路側帯ですが、その手前の側溝がゴール地点ですね。側溝過ぎたら減速してください。下りはあの1コーナー過ぎたら減速です」
スモークシールドを開け、ヘルメットを近づけた。エミは言葉ではなく頷いて答えた。
「あ、そうそう。今日は蜘蛛の巣張っていないみたいっすね、赤フンとは気合入っているよなぁ」
FXに戻り跨るが、ヘルメットが揺れていた。おそらく笑っているのだろう。
エミはヘルメットの中で、軋むほどに歯を喰いしばっていた。図星だったようだ。正確には赤のTバックなのであるが、赤ふんといわれても仕方がない代物であった。
横島のFXのウィンカーが消えた。エミはギアを一速に入れ、アクセルを吹かした。
「おうおう、怒ってる怒ってる。予想通り予想通り♪」
ミラーでデスモセディチを確認すると、ギアを一速に入れウィンカーを右にだした。FXを牽制するかのような排気音が聞こえる。
アクセルを開け回転を上げると、クラッチを緩めた。エンジンのパワーがRKチェーンを伝いリアタイヤを回転させた。一瞬だけ空転すると、リアタイヤは暴れながら路面を捉え、アスファルトに黒い線を残しながらFXを加速させた。
僅かに遅れて、デスモセディチもクラッチを繋いだ。だがあまりのパワーのためにリアタイヤは空転し、前へと進んではくれなかった。舌打ちをしてアクセルを緩めると、デスモセディチは前輪を軽くしながら猛ダッシュをみせた。
時間にして1秒も経っていないはずであるが、横島のFXはすでに1コーナーへ向かっていた。
ほんの一瞬。ほんの一瞬だけブレーキランプがついたかと思うと、FXは消えるようにコーナーを曲がっていった。遅れてデスモセディチが1コーナーへと進入する。目の前にFXの姿はない。すでに次のブラインドコーナーへのアプローチに入っていた。
怒りと悔しさで頬を引きつらせながら、エミはアクセルを開けた。リアタイヤが激しく暴れ、前へと進んでくれない。その間にもFXへは先へと進んでいく。エミの怒りは頂点へと達していた。
ブラインドコーナーを抜けると僅かで唯一の直線。横島は一瞬だけ振り返り後ろを確認すると、次のコーナーのアプローチ体勢をとった。
上りのゴール地点手前からすでにアクセルを緩めゆっくりとUターンをすると、デスモセディチがようやく追いついてきた。
そんなワケはない。デスモセディチが上りでおいていかれるなんてありえない。不慣れなコースのためだ。と、自分に言い聞かせる。そうでもしないと、ある言葉が頭の中を過り心が折れそうになってしまうからだ。
上りと同じように、一度左にウィンカーが出されそれから右へと変わる。排気音が響くと、急勾配の下り坂をFXは滑るように駆け下りていった。
上りと違い、ブレーキランプは一瞬だけということはなかった。だが、違いはそれだけであった。上りと同じようにアクセルを開ける音が響くと、重力も加わりFXは鋭い加速を見せた。
ついていこうとエミも同じ地点までブレーキを堪えた。時速200キロオーバーのコーナリングを経験しているエミとしては時速60キロに満たないコーナーリングはそう怖いものではない。そうたかをくくっていたが、下り勾配とコーナーの角度を考えるとかなりの恐怖が頭を過る。200馬力を制御する高性能のブレーキはリアタイヤを持ち上げ、勾配と前傾ポジションは体を車体ごと前転させそうになる。
重量がそう変わらないはずのFXは苦も無くブレーキングを行っているはずなのに、なぜ?
湧き上がる負の感情を抑えるために、エミは奥歯を噛み締めた。
「脇が開いたり突っ張ったり……予定通り予定通り♪
少しペースを落としミラーに目をやると、横島はヘルメットの中の口元を緩めた。
一方、都内の美神除霊事務所では夜明け前にも関わらず、シロが窓を開け遠吠えしていた。
「朝からうっさいっ!!」
当然のことながら、隣のベッドのタマモが枕を投げつけ抗議を行った。
「お主は心配ではないのでござるか? もし先生が負けたのなら、先生は一生エミ殿の肉奴隷でござるよ」
確かに己の霊力と精神力を振絞り生産する文珠ではあるが、なんとなく意味は違う。タマモは眉間に皺を寄せるが、そのまま布団の上に寝転がった。
「美神さんにこにこしながらいってたわよ、2割上乗せだーーーって」
どうやら昨夜の話は令子に筒抜けだったようである。
「上乗せって……負けたらどうするでござるか!」
「絶対負けないってさ。『あの色黒バカ女、始まる前から負けって決まってるのに、ほんとバカよねぇ』って言ってたわよ」
「どういうことでござるか!?」
シロは窓から離れ、タマモのベットに飛び移った。
ライトが不要なほど明るくなってきたが、二台ともまだライトをつけていた。
横島先行の下りは、上りと同じような大差がつき、エミ先行の上りと下りは、接触寸前に迫られていた。
再び横島が先行へと変わる。勝負はすでについていたかのように思えたのだが、横島は何もいわずにUターンするとゆっくりとエミの前にでた。
FXのエンジンに一瞬目を向けると、エミの動きが止まった。
耐熱ブラックで自家塗装されたエンジンは、GPZ系のエンジンではなかった。車体と比べると新しいエンジンである。
スワップチューン?
古いバイクであった。どんなに改造しようと、所詮400CCは400CC。たいしたことはないと、思い込んでいた自分に憤りを感じる以上に、騙されたという思いが強くなった。
「おたく……それ、400じゃないワケ?」
FXの隣に並ぶとエンジンを見た後に顔を上げた。
「あぁ、これっすか? 6Rのエンジンっすよ、初期型なもんでキャブですけどね」
そういわれてキャブレターを見ると、ノーマルではなかった。
「……騙したわね」
「人聞き悪いなぁ、聞かなかったじゃないスか。それに6Rっつーたって、初期型ですから100馬力くらいっすよ。出ててもようやくそっちの“半分”を超えるくらいじゃないっすかね」
半分という言葉を強調した。
80年代中期のミドルクラスマシンであるFXと最新リッターマシンであるデスモセディチ。車格は違うが、年代のためか乾燥重量はほとんど変わりない。いくらチューニングをしたといっても基本設計にかなりの違いがあり、走る・曲がる・止まる、といった基本性能は最新型に適うわけはなかった。
同じ重量で半分の馬力、それなのについていけない。腕の差と考える他なかった。
だがエミは、それをあえて否定した。そうでもしないと折れかけている心が完全に折れてしまうからである。
「さてエミさんもコースに慣れてきただろうから、ペース上げますね」
スモークシールドに隠されて、横島の顔は確認できなかった。だが相手の顔色を伺う余裕は、すでにエミにはなかった。冷たい汗が皮ツナギの中で背中を伝っていくのを感じた。
ナサートのチタン管から轟音が響いた。デスモセディチもそれに負けない音をしているのだが、その音はエミの耳に届かない。キャブレターの特徴である吸気音がやけに目立ち、FXの音しか聞こえなかった。
いつウィンカーを出したのか分からなかった。リアタイヤが暴れ、白煙と共に蛇のように体を振りながらFXは加速していく。ほとんど機械的にエミもデスモセディチをスタートさせた。
1コーナー。1回目と同じように一瞬だけブレーキランプがつくと、横島が消えた。いや消えたように感じた。コーナーに差し掛かるたびに横島の姿が視界から、ふっと消えていく。
エミの心を完全にある言葉が支配した。
勝てない―――と。
ブレーキをリリースしながら、腰をシートからずらし加重を旋回方向へと向ける。膝とブーツがアスファルトに接触して抵抗を感じると、アクセルをじわりと開けた。バックミラーを確認すると、横島はヘルメットの中で口元を緩めた。
「だから最初から言ったじゃない。勝てないって」
強がりでもハッタリでもなかった。最初から確信していた。
FXとデスモセディチRR、その性能差は明らかである。だがスペックがすべてではない。横島はGSの仕事で、それを身をもって理解していた。
霊波をあらゆる形に変形でき、幻のアイテムといわれる文珠を精製し、その底知れぬ煩悩により無限に近い霊力をもつ人間が、GSとしては決して一流ではないのである。スペックとしては人類最高で、並みの神族や魔族では足元にも及ばないほどの霊能値をもっていても『二流』なのである。
スペックが全てであるのならば、自分は地上最強いや史上最強の霊能者であるはずなのだが、実際はそうではない。
ミスは連発、油断しまくり、セクハラ乱舞……それらだけが原因ではないのだが、身近な令子を筆頭に美智恵やエミ、唐巣神父や西条に至るまで自分より評価が高く有能なGSは掃いて捨てるほどいる。
本人ゆえに痛いほど自覚していた。スペックだけは全ては決まらない、状況次第でその差は簡単に埋まってしまう。
そのスペック差を埋めるための罠はすでに仕掛けてあり、エミは一つを除いては全てに掛かってしまい負けを認めてしまっていた。
横島の仕掛けた罠とは、この勝負自体である。
令子をして『始まる前から負け』とはまさに言葉通りの意味で、この勝負を挑まれた時点で罠に嵌っていたのだ。
そもそもFXを卑下した言葉を吐いたのはエミの方であるから自業自得ともいえるが、横島はそれを逆に利用したのだ。
FX対デスモセディチ。とてもではないが勝負にならない。だがプライドを揺さぶり、腕に自信があるようにいえば勝負を仕掛けてくる。強気な女性の扱い方は、上司で慣れている。挑発してプライドを揺さぶればのってしまうというわけだ。
アドバンテージは向こうにある。プライドの高さとそこが狙い目であった。その性能だけで勝つだろうと呷っておけば、そのスペックを曝け出すステージでの勝負はプライドの高さゆえに回避してくる。そしてワインディングでの勝負をを選ばせ、バイク乗りの聖地である奥○○峠を指定した。
そう。エミから勝負を挑ませるように仕向けて、実は自分に有利な場所での戦いに持ち込んでいたのである。
当然のことながら、令子は人工幽霊によりこの会話を聞いていた。それゆえに、始まる前から負けと言い切ったのである。尤も根拠はそれだけではなく、自分が経験してしまったからである。
同じように勝負をしたあげくに、負けたのである。自分より劣るエミが、自分が負けた相手に勝つワケはないと、結論づけたのはいうまでもない。ちなみに令子との勝負の賞品は、ガレージの無料使用である。コブラやポルシェが置いてあるガレージに、私物ともいえる工具を置きっぱなしにし整備が行えていたのはそのためであった。
令子はその性格もあり前日の会話だけで『横島の勝ち』と判断したが、横島の罠はそれだけではなかった。
まずこの場所、奥○○峠。
ここは勾配も急でカーブの屈曲率も高く、中低速コーナーが連続するコースである。高速コーナーは一つしかなく、ストレートも非常に短い。上り区間でも全開にできる時間は非常に短く、デスモセディチのパワーを全くといっていいほど生かせないのだ。
それに、対戦相手のエミは昔からの知り合いである。事務所のメンバーほどは詳しくないが、知らない仲ではない。今までどういうバイクに乗ってきて、どういう乗り方をしていたかくらいは理解していた。自分がバイクに乗るようになってからは、尚更である。
コーナーリングよりもパワー重視。溶けかかったサイドだがそれ以上に磨り減ったセンター部、そして削れていないブーツと革ツナギ。
それから導かれた結論は、エミは街乗りと湾岸最高速派である。低中速で急勾配は慣れていない。バイクの相性とあいまって苦手であると判断したのだ。
奥○○峠を選んだのはそれだけではない。都内からはかなり離れている。もう少し近い峠で似たような峠もあったのだが、あえてここを指定した。
バトルの前に長距離を走らせたかったのだ。デスモセディチ、いやドゥカティのレーシングレプリカの最大の特徴はエンジン形式などではない。その極端な前傾姿勢である。
国産にも数々のレーサーレプリカが存在し前傾姿勢であるが、ドゥカティはそれ以上にハンドル位置が低くシートやステップの位置が高い。当然のことながら腰や腕にかかる負担は大きく、長距離を走ってきたため中腰のままの体重移動を行う体力は戦う前からかなり削がれてしたのだ。人間腕が疲れてくると、脇が開いたり負担が掛からないように肘を伸ばしたりする。肘がそのような状態だと、ハンドルは自由に動かず、当然スムーズな動きをみせてくれない。ブレーキングと旋回時に、それはかなりの影響をみせる。下りならば尚更である。横島はそれをしっかりと下りの時に確認していた。
だが、それだけでは前半の余裕をみせた走りは演出できない。
実は横島は指定時間の1時間も前に来ていた。数回上りも下りも攻め、タイヤの状態を最適なものにしていたのだ。
オートバイのタイヤは車のタイヤと違い、平らではない。カーブを曲がる場合、車体を傾けて曲がっていく性質上そのような形をしているのだが、当然のことながらスピードを上げれば上げるほど同じカーブでも車体は傾いていく。つまりタイヤのサイドを使うのである。
普通に峠まで上ってきたエミ、前以てサイドまで温めていた横島。どちらがタイヤがグリップするか答えるまでもないであろう。
そしてバトルの寸前に、横島はあえてエミを怒らせた。これも罠である。
まともにスタートしては、馬力どころかトルクの差でデスモセディチの方が速い。だがどんな馬力も路面に伝わらなければ意味がないのだ。そこであえて怒らせ、ラフなアクセル操作をするように仕向けたのだ。
ちなみにパンツの色を当てたのは、霊能を使ったものでもない。簡単な推理であった。
昨夜事務所に来たときに、エミは革ツナギの胸元を開けていた。もちろん横島ほどの男が覗かないワケがない。しっかりとチェックしていた。そのとき見えたものは、白いレースのブラであった。
エミはGS業界の中でも、令子と並んでオシャレな女性である。人に見せる見せないなど関係なく、下着の上下が揃っていないということは考えられなかった。それゆえに、ブラに合わせた白いレースのパンツを着ていると思ったのだ。
そしてエミは昨夜と同じ赤と白のアルパインスターの特注革ツナギを着ている。オシャレなエミが色合いを考えないはずはない。それにもまして、当てられたせいもあり昨夜と似たようなものを着るはずはない。そうなると赤を着ている確率は高い。そして革ツナギの裏地は赤であった。自分を狙っていないエミとしては下着が目立たないようにするのは当然であろう。そう考えると、赤で間違いないと思ったのだ。それに形は、運動してもズレないもの。革ツナギを着ていては、パンツのズレは直し辛いし、ズレを直す仕草など見せるワケなどもない。ガードルなどは普段のエミの格好からすると考えられない。それにラインなどは見せたくもないであろう……そうすると、普段着ている服などから推測してTバックとなったワケである。
全てを客観的に見たすばらしい推理ではあるが、ある意味自分はエミの範疇に入っていないと認めている悲しい推理でもあった。
上りのUターン場所ですでに横島は待ち構えていた。完全に千切られ、エミは息も絶え絶えである。
目線は自然と下を向いていた。喉から出掛かった言葉が止まった。下を向いていたせいで、横島の膝とブーツが目に入ったのだ。
ガムテープを巻いていた理由が分かった。ガムテープが擦り切れ、露出したバンクセンサーとブーツ。鑢をかけたように綺麗に擦り切れたバックステップ。それがどれほどのコーナーリングを意味するものなのか、ようやく理解できた。
ウィンカーをつけずに、ゆっくりとFXは発進した。
もう負けだと分かっている。だが、まだ負けを認めてもらえない。
悔しさより怖さを感じた。熱いはずの汗が完全に冷たいものへと変わっていた。背中に寒気を感じると、全身が身震いした。
身震いだけでは済まなかった。
あまりに震え過ぎたせいもあって、体に異変を感じたのだ。
「ヤ、ヤバいかも」
エミはシールドの中で顔を青くした。
「最後の罠は必要なかったな」
Uターン時に完全に勝利を確信し、流すようなペースであったがエミはついてこなかった。
遠くでデスモセディチの排気音が聞こえていたが、その音はやがて止まった。
「転倒じゃないよな、コケた音はしなかったし」
FXを止め、シールドを開けると後ろを振り返った。すっかりと陽が昇ってしまった峠だが、FXのアイドリングの音しか聞こえなかった。
「まさか……」
Uターンして道を戻っていくと、路肩に止めてあるデスモセディチを見つけた。すぐ後ろにFXを止め、ヘルメットを脱ぎ辺りを見渡すがエミの姿は見えなかった。
「最後の罠、作動しちゃったかな?」
スタンドを立てFXから降りると、ミラーにヘルメットを掛けた。煙草を咥え火をつけると、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「一応、確認するか」
まだ長い煙草を携帯灰皿でもみ消し、路肩の奥の林へと足を進めた。数歩踏み込んだところで大きく息を吸った。
「エミさーーーーーーん! どこですかーーー?」
まだ薄暗い林に向かい声を張り上げた。
返事がない。苦笑してまた数歩進むと、また叫んだ。
「な、なんでもないワケ」
かなり奥の方から声が聞こえてきた。
「やっぱり罠に掛かっちゃったか」
横島の仕掛けた最後の罠。それはバトル前に渡したコーヒーであった。
コーヒーに何か入れたワケではない。普通の缶コーヒーである。だがそれはエミにとっては爆弾であったのだ。
昨夜バトルの約束をしたのは夜である。そして早朝バトル。移動時間を考えると、あまり時間はない。美容に気を使っているエミが、睡眠直前に食事を取るとは考えられない。徹夜をしてもいいのだが、コンディションを考えるとそれはベストとはいえない。
ほとんど令子と同じ性格のエミである。ぎりぎりまで寝ているであろうから、朝も食事はとってこないであろう。
夜、朝と食事を取らずに冷たい缶コーヒー。しかも丁寧なことに、熱い汗が冷たいものへと変化して体を冷した。
最後の罠、それは―――トイレリタイヤであった。
空きっ腹に利尿作用のあるコーヒーを飲まされれば、嫌でもトイレにいきたくなる。負けを認めないときは、それでリタイヤさせて強制的に負けを認めさせるという令子譲りの鬼の一手であった。
だが自分が仕掛けた手で何をしているか知っているとはいえ、知らないフリをしてやるのが情けというものである。
令子譲りの鬼の一手を使っているとはいえ、女性に対してそこまで非道にはなりきれなかった。
「エミさーん、どうかしました〜〜? どこにいますーーー?」
簡単に引き返しては、いかにも何をしていると知っているといっているようなものである。とりあえず叫んでみた。
「こっち来んなー あ? きゃーーーーーーーーーーーーーー!!」
大声が返ってきた瞬間に悲鳴が聞こえた。
この奥○○峠は、都内とはいえかなりの山奥である。この付近で熊がでたというニュースが頭の中を過った。
「エミさーん!!」
声のした方に駆け出すと、すぐにブーツが落ちていた。まず右。1メートルほど離れて左。そしてさらに2メートルほど先に革ツナギが放置されていた。
革ツナギでトイレは大変である。自分の罠の匠さに思わず頷いてしまうが、頭を振って我に返った。
それどころではない。エミからは返事がないのだ。
「エミさん!!」
叫ぶが何も返ってこない。革ツナギが放置されていた周辺を見渡すと、朝露以外の水気がある場所を発見した。水気が何なのかは、エミファンのために詳しくは伏せておく。
「湯気が……まだ新しい」
当然である。本人はサスペンスの主人公になりきっているつもりであるが、詳しい描写はあえてしない。出入り禁止になってしまうからだ。
作者の心配をよそに、横島は地べたに這いずり足跡を探した。あくまで足跡を追跡するためである。決してマニアックな趣味のためではない。
「この位置でお花を摘んでいたとすると、見えないようにこの木の陰でということだよな」
予測した位置に座り、そして立ち上がった。真後ろの木に腰が当り、バランスを崩した。
「と、と、とととととと」
中腰で後ろから押された形では、足を止めることはできなかった。
ふいに目の前が真っ暗になった。どうやら崖になっていたようだ。だが衝撃はあったものの、不思議なことに痛みはなかった。朝露を浴び湿った若草が、顔を撫でつけている。
これのおかげで助かったのか……感謝をするように若草に頭を預けた。
足跡を探していたときに鼻腔をくすぐった香りと、妙に生温かい朝露。
不思議な感覚に、思わず顔を上げた。
引力に負けていない見事な双丘が見える。その双丘は赤い生地で包まれていた。双丘の間から、探していた人物が顔を覗かせた。
鳥が鳴いている。
助けてくれた若草をもう一度じっくりと見てそれがなにかを確認すると、ゆっくりと顔を戻した。
ブラに負けないほど真っ赤な顔をしたエミが震えていた。
「いやああああああああああああああああああああ!!!!」
エミの悲鳴に、鳥たちが朝靄の消えた空へと飛び立っていった。
今日もいい天気になりそうだった。
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