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死んでも確実に生きられます(中編)

   
「あんな事件のあとだもの!
 仕方ないでしょ!?
 あれだけの霊波が動いたあとは、
 台風一過でザコはおとなしくしてるわ。
 一時的な現象で、
 しばらくすれば元に戻るけどね」

 それは、少し前に、美神さんのお母さんが口にした言葉です。
 あの後、美神さんも仕事を選んでいられなくなったのか、昔だったら断っていたような低額の依頼も引き受けるようになりました。
 『しばらくすれば元に戻る』と言われたとおり、また最近では昔のような悪霊退治も増えてきましたが……。
 でも、お金をあんまり持ってなさそうな依頼人さんも、まだまだ門前払いには出来ません。
 今日のお客様も、昔ならばサッサと唐巣神父のところを紹介して終わらせていたような、そんな風体の男の人でした。




    死んでも確実に生きられます(中編)
    
    ―― やってきた依頼人さん ――




 ワイシャツもヨレヨレで、ネクタイも少し曲がっていて。
 顔にも、無精ヒゲ……というより、これはヒゲの剃り残しでしょうか。
 見るからに、普通のサラリーマンではなさそうな人でした。
 彼は、私が出したお茶にいきなり手を出して、喉を潤してから、しゃべり始めました。

「あ、申し遅れました。
 私、こういうものです」

 いちいち頭を下げながら、美神さんと横島さんと私に一枚ずつ名刺を差し出す依頼人さん。
 受け取った名刺を見ると、やはり会社員ではなく、どこかの財団で研究をしている科学者さんのようです。財団名は難しい漢字の羅列で読めませんでしたが、ご本人の名前は、条奈三郎という比較的簡単な字でした。
 
「アポトーシス研究部門……?」

 私の隣でつぶやく横島さん。
 どうやら横島さんは、漢字じゃなくて片仮名の部分が気になったようです。

「アポトーシス……どこかで
 聞いたことがあるような……」

 首をかしげる横島さん。
 それから、パッと顔を明るくしました。

「あっ!
 かつて大ヒットしたアニメで、
 ロボット発進だか修理だかのシーンに
 そんな言葉が出てきてたぞ……」

 気のせいでしょうか、『かつて大ヒットしたアニメ』という言葉を口にする瞬間、横島さんは複雑な表情でした。
 そんな横島さんに向かって、呆れたような口調で美神さんが声をかけます。

「ロボットは関係ないでしょ。
 アポトーシスというのは……」

 美神さんは、依頼人の条奈さんの方に向き直ってから、言葉を続けました。

「細胞が死ぬこと……でしたよね?」

 私もビックリするくらい、美神さんは色々なことを知っています。知識をひけらかすようなことはしないから、美神さんの博識って、あまり知られてはいないようですが。
 おそらく、武力よりもむしろ智力を武器とする美神さんとしては、雑多な知識も必要なのでしょう。
 事務所の書棚には大きな百科事典もたくさん置いてありますが、それらは飾りではないのです。
 
「おや……ご存知ですか」

 条奈さんの口調にも、軽い驚きの響きがありました。
 彼は、横島さんが不思議そうな表情をしているのを見て、ひとつ頷いてから、説明し始めます。

「『細胞が死ぬ』と言ってしまうと
 ネガティブなイメージがあるかもしれませんが、
 アポトーシスは、むしろポジティブな細胞死です。
 そちらの男性が口にしたアニメは私も知っていますが、
 そこで発進や修理の場面で使われていたというのも、
 そのポジティブなイメージを利用したものでしょう」

 ネガティブだとかポジティブだとか、どうも抽象的な話ですね。
 でも、それは最初だけで、少しずつ具体的になっていくみたいです。

「皆さんがイメージしている細胞死は、
 いわゆる壊死のほうだと思います。
 ……いや『壊死』という言葉よりも
 『ネクローシス』と言ったほうが
 イメージしやすいかな?
 ネクロフィリア……は違うとしても、
 ネクロマンサーなんて言葉は、
 まさに皆さんの専門領域でしょう?
 ネクローシスの『ネクロ』も、
 それと同じ『ネクロ』ですよ」

 身近な単語が出てきて、なんだか、きちんと聞いた方がいいような感じになってきました。
 私たちの態度が変わったのを察したようで、条奈さんは、満足げに話を続けます。

「ネクローシスとアポトーシスは、
 形態学的にも異なるのですが、
 そんな話をしても仕方ないですね。
 ……ここで大切なのは、
 生体内での意義も違うということ。
 アポトーシスは、
 個体が生きていく上で
 プラスになるような細胞死です」

 生きていく上で死がプラスになる……?
 科学者さんのいうことは、私にはサッパリわかりません。
 しかし、この一時的な混乱は、条奈さんには想定の範囲内だったようです。

「皆さん……
 アヒルの水かきって、ご存知ですか?」

 水鳥の足を思い浮かべて、私は首を縦に振りました。

「あれは実は、胎児の形成段階では
 ……人間の手にもあるのです」
「えっ!?」
「それじゃ……まるで
 半魚人みたいじゃないっスか?」

 横島さんの反応に対して、条奈さんは微笑んでいます。

「そうでしょう?
 そのまま生まれてきては、
 人間としては困ります。
 だから、指と指との間の細胞が死ぬ。
 ……これがアポトーシスの典型として
 よく引き合いに出される例ですね」

 わかったような、わからないような。
 でも、条奈さんの話は、先に進んでしまいました。

「ただし、ひとくちに
 アポトーシスと言っても、
 そのスイッチの入り方によって
 いくつもの経路に別れていて……」

 ここで条奈さんは、私や横島さんの顔に浮かんだ困惑の色に気づいたようで、
 
「えーっと。
 すいません、
 いくつもの経路って言っても
 わからないですよね。
 ああ……そうだ、
 高校の生物の授業で
 『クエン酸回路』って習いましたよね?」

 と話しかけてきたのですが、横島さんは首を横に振っています。

「学校の授業なんて……
 ちゃんと聞いてないっスから!」
「高校で習ったことなんて
 ……もう覚えてないわ」

 あれ?
 博学だと思ってた美神さんまで、横島さんと同調していますよ?
 二人が否定したことで、条奈さんの視線が私に向けられました。

「……ごめんなさい。
 私、生物は選択してないですから」

 残念そうな条奈さん。
 それでも、彼は話を続けます。

「そうですか……。
 それじゃ、どう説明したらいいかな。
 まず……体の中の色々な出来事は、
 実は、小さなイベントの積み重ね。
 ……それは理解できますか?
 私の同僚は、他分野の方々には
 『ドミノ倒し』だって説明してましたけど……」
「あ!
 『風が吹けば桶屋が儲かる』
 ……みたいなものですね?」

 私の反応に、条奈さんは嬉しそうな顔をしました。

「ちょっと違うような気もしますが
 ……まあ、そうですね。
 ドミノの比喩や桶屋のことわざで
 理解してもらえるなら、それでいいです。
 ただ……生体内の反応経路を
 ドミノで例えるのは、私自身は
 ちょっと相応しくないと思うんですけどね。
 ……ドミノだと、
 進み始めたら止まらないし、
 止まったら終わりだし、
 分岐も難しいですから」

 口元に苦笑いを浮かべて、彼は説明を続けます。

「専門用語でも『上流』とか
 『下流』といった言葉を使うように、
 むしろ川の流れのほうが
 比喩として適切だと思うんですよ。
 そのほうが、
 支流への枝分かれだけじゃなくて、
 新しい流れの合流だって、
 イメージしやすいでしょうから。
 で……桃太郎の昔話を考えてみるんです。
 『上流』で桃を流した人がいるから、
 おばあさんが『下流』で
 桃を拾うことができて。
 その結果、桃太郎が……」
「……ストップ!」

 延々と続きそうな条奈さんの話を、美神さんが遮りました。

「条奈さん……あんた、
 依頼があって、うちへ来たんでしょ?
 生物学の講義はいいから、
 そろそろ本題に入ってくれないかしら?」


___________


「すいません、ついつい……」

 条奈さんはポケットからハンカチ――しわだらけのハンカチです――を取り出して、額の汗をぬぐいました。

「実は最近、私達の研究所に
 死んだ同僚の幽霊が出るんです。
 ……いや、まだ、あいつの幽霊だと
 ハッキリ決まったわけじゃありませんが、
 どうもタイミングや状況から考えて、
 そうなんじゃないかと」

 ポツリポツリと語り始めた条奈さん。
 彼の話によると、その亡くなられた同僚――出尾安彦さんという名前だそうです――が研究していたのが、アポトーシスと幽霊との関係。
 だから、条奈さんは、私達にアポトーシスの説明をしようとしたみたいです。

「霊能力の高い人々の脳内では
 一部の遺伝子が活性化されているのですが、
 それがアポトーシスを
 引き起こしたり抑制したりするんです。
 『霊力の高い人間の脳細胞が死ぬことには
  能動的な意味がある』
 と出尾は考えていて……」
「えっ!?
 霊力が高いと脳が死んじゃうんスか!?」

 ビックリして口を挟む横島さん。
 でも、条奈さんは、これを笑い飛ばしました。

「ひとつやふたつくらい脳細胞が死んでも、
 命に別状はありませんよ、大丈夫です」
「……そんなもんスか?」
「ええ。
 生物の面白いところでしてね。
 パッと見では
 害があるように見えるイベントも、
 実は生体にプラスだったりすることって、
 けっこうあるんですよ?
 わかりやすい例では……」

 風邪をひいたときの高熱。
 あれは風邪の菌やウイルスが私たちの体を苦しめているわけではなく、逆に、私たちの体が菌やウイルスなどを殺すためにやっていること。
 多くのウイルスは、実験室で培養する時だって、37度以下ではよく増えるけれど39度くらいになると死んでしまう。私たちの体は、この性質を利用している。
 条奈さんは、そんな説明をしてくれました。
 でも……。

「あの……条奈さん?
 また話が逸れているような気が……」

 私は、やんわりと指摘しました。
 美神さんの表情が変わってきたのに気づいたからです。
 
「あ、これは失礼」

 再び、額の汗をふく条奈さん。
 専門の話を始めると、熱が入ってしまうみたいです。
 ふと、ミニ四駆に高じていた横島さんたちの姿を思い出しました。
 男の人って、いくつになっても、どんな職業であっても、同じなんですね。そんなことを私が考えていたら、

「だいだい……今の話、
 ちゃんとつながってないわよ?」

 美神さんが口を挟みました。

「害があるようで実はプラス
 ……っていうのは、
 脳細胞が死ぬ説明としては変でしょ」
「ああ、すいません。
 肝心の部分が説明不足でした。
 ……それこそ、死んだ出尾の学説なんです」

 霊能力が高いのは、特別な遺伝子の働きのおかげ。
 でも同じ遺伝子が脳細胞のアポトーシスを引き起こす。
 これは、霊能力の副作用として脳や神経に負担がかかっているわけではなく、実は本来の機能なのではないか。
 脳細胞の死滅により霊能力者自身も死ぬことが、実は重要なのであって……。

「あれ?
 さっき……
 『脳細胞が死んでも、
  命に別状はありません』
 って言ってませんでしたっけ?」

 あまりに不思議に思って、つい私も、口を出してしまいました。
 条奈さんは、したり顔で頷いています。

「少しくらいなら大丈夫でも、
 一度にドッと死滅したら危険です。
 ……特に出尾は、そう考えていたようです」

 ここで苦笑いする条奈さん。

「どうも出尾は、
 細胞レベルの『死』と
 個体レベルの『死』とを
 同一視していたきらいがある。
 だから出尾の説も、
 私は信じていなかったのですがね。
 ……実験結果は、
 彼の学説を支持するものでした。
 しかし……その実験の途中で、
 彼は死んでしまったのです」


___________


 静かになりました。
 条奈さんは、ソファに深く座って、お茶をすすっています。
 用件を話し終わったつもりなのでしょうが……。

「その出尾って人が
 幽霊になったっていうなら……
 彼が死んだ状況を
 もっと詳しく聞かせてもらわないとね」

 と、続きを促す美神さん。
 そうです、むしろ話は、ここからがメインのはずです。
 条奈さんの話では、出尾さんという人がなんで死んだのか、サッパリわかりません。

「すいません。
 どうも口下手ですね、私は。
 自分がわかっていることを
 他の人もわかっていると思って
 しゃべってしまうようです。
 ……学者の悪癖なのでしょう。
 そうならないように
 気をつけているつもりなのですが……」

 条奈さんの悪いクセは、むしろ、話がすぐに逸れることじゃないでしょうか。
 そんな心配を私がしている間にも、条奈さんは、話を続けていました。

「出尾の実験は、
 幽霊を作り出すことでした」
「それって……人工幽霊っスか!?」

 横島さんが反応すると同時に、私は、天井を見上げてしまいました。
 この事務所の建物も、人工幽霊さんが管理してくれているからです。
 でも、視線を戻した私の目に入ってきたのは、首を横に振る条奈さんでした。

「いいえ。
 無から人工的に
 作り出そうというわけではありません。
 生物が死んで魂だけが現世に残る……
 そのシステムを科学的に解明して、
 確実に現世に留まれるように……
 つまり、確実に幽霊になれるようにする。
 ……それが出尾の研究であり、
 実験動物を使って、それを実行してみせたのです」

 ああ、ようやくわかりました。
 霊力が高いと脳が死ぬとか、その結果、霊能力者本人が死ぬとか。
 そんな話をしていたのは、死んだ結果として幽霊になるということだったんですね。

「『死んでも生きられます』……」
「そう、それです。
 出尾も、そんな言葉を口にしていました。
 ……インターネットで
 拾ってきた言葉だそうですが」

 私の小さなつぶやきを聞きとめて、条奈さんが頷きました。
 同時に、それまで考え込んでいた美神さんが、ゆっくりと口を開きます。

「……で。
 その出尾ってやつが、
 自分も幽霊になったわけね?」
「はい、おそらく。
 出尾が死んだときの状況は……」

 ようやく。
 条奈さんは、事件について語ってくれるのでした……。


___________


 遺伝子を人為的に操作した実験動物と、操作していない実験動物。
 その両方が死んだ後に、幽霊になるかどうかを霊体検知器で測定するというのが、出尾さんの実験だったそうです。
 残された実験記録によると、遺伝子操作した動物の幽霊化が確認できたとのこと。
 同行したGSさんの目にも、霊体がハッキリと見えたらしいです。彼は、その幽霊を除霊するために雇われていたのですが、どうも動物霊と相打ちになってしまったようで、皆が駆けつけたときには意識不明で倒れていました。
 そのGSさんは、やがて意識を取り戻しましたが、動物霊との戦いの部分は、記憶がゴッソリ抜け落ちている。
 そして、彼が気を失っていた間に……。
 出尾さんは、死んでしまったのでした。


___________


「出尾の手元には、
 走り書きのようなメモが残っていました。
 『動物たちの霊に殺されるくらいなら
  ……いっそ自分で死ぬ』
 って書いてありました」
「じゃあ……自殺なんですか?」

 条奈さんが語り終わったところで、私は、つい聞いてしまいました。
 彼は、悲しそうな顔で頷きます。

「ええ。
 実験動物を殺すための薬を、
 出尾は自分自身に注射したようです」
「でも……なんで……」

 その動物がなんだったのか、条奈さんの説明ではわかりませんでした。もしかすると、企業秘密のようなもので、研究の詳細は語れないのかもしれません。
 私たちも昔ネズミのネクロマンサーを相手にしたことがありますから、動物といえど侮れないのは実感しています。雇われたGSさんが引き分けてしまったくらいですから、よほど強かったのでしょう。
 でも……!
 手強い霊に襲われたなら、逃げればいいじゃないですか?
 それが無理だとしても、最後まで抵抗するべきじゃないですか?
 それなのに、自分の命を自分で断ってしまうなんて……。

「出尾は……
 日頃から厭世観が強いやつだったんです。
 世の中にも、研究職という仕事にも
 希望を見出せなかったようで……」

 私の思考を遮るかのように、条奈さんがポツリとつぶやきました。
 
「世の中はともかくとしても……
 この業界に絶望しているなら、
 他の仕事を探せばいいのに。
 ……私などは、そう思うのですがねえ。
 出尾は違ったようで……」

 と、続ける条奈さん。
 ちょっと雰囲気も沈み込みましたが、ここで、美神さんが再び口を挟みます。

「ちょっと待って。 
 それだと……
 その出尾さんの死は事故のようなもの?
 実験の失敗で出来た幽霊に襲われて、
 それがキッカケで自殺?」

 話が逸れないよう、がんばる美神さん。
 この依頼が出尾さんの幽霊の話である以上、死んだときの状況は、出来るかぎり明確にしておく必要があるのです。
 どんな未練で成仏できないのか、それが大切だからです。
 でも。

「……いいえ」

 条奈さんは、美神さんの言葉を否定しました。

「『実験の失敗』と言っては
 ……出尾が可哀想です。
 実験そのものは成功ですから」

 もちろん、100%の成功ではない。
 10匹処理で5匹処理の二倍の幽霊が作られたのは確かだとしても、それぞれ10匹と5匹とが幽霊になったという可能性だけでなく、例えば4匹と2匹だったという可能性もある。
 学説に合致するデータではあるが、まだ学説を証明するデータとは言えないのだ。
 ……というようなことを、条奈さんはブツブツ言っています。
 私には何のことやら理解できませんでしたが、どうもこれは独り言であって、私たちへの解説ではないようでした。
 それから条奈さんは、顔を上げて、再び続けます。

「ただし実験そのものじゃなくて、
 その後の対応は、完全に失敗。
 ……といったところですね」

 苦笑する条奈さんでしたが、それは一瞬だけでした。

「……というのが、
 当時の我々の判断だったのですが。
 もしかすると……『その後の対応』まで含めて
 出尾の計画どおりだったのかもしれないのです」


___________


 出尾さんは死んだけれど、出尾さんが提唱した学説は正しかった。
 そう判断して、条奈さんたちは、出尾さんの研究を引き継いだそうです。
 詳細な研究記録も残っていたし、一時的なサンプルの保管場所まで細かく記されていたので、苦労はしませんでした。

「……でも、
 そこに私は疑問を抱いたのです。
 『出尾って、ここまで
  几帳面なやつだったかな?』
 ……と」

 条奈さんから見た出尾さんは、むしろ個人プレーに走るタイプの研究者。
 長期保存するサンプルならばノートに書いておくとしても、すぐに手を加えるような、実験途中の物は、頭の中だけに記録していたはず。

「なんだか出尾らしくない。
 これでは、まるで、
 自分がいなくなることを
 事前に想定していたみたいだ。
 ……私は、そう感じました。
 しかも……出尾の研究ノートには
 他にも不自然な点があったのです」

 それは、同業の専門家だからこそ気づいた部分。
 ノートに記さずに、独自で秘密の研究をしていたのではないかという可能性。

「あいつがラボにいた時間を考えると、
 もっと多くの実験をやっていたはずなんですよ。
 ……いや、実際にノートにも色々と
 その成果が残っているんですが、
 動物実験を始める少し前の期間だけ、
 記載が減っているんです」

 その時期にやっていたのは、動物の遺伝子を操作するための薬などを用意する作業でした。
 そして、当時の出尾さんの様子を思い出した条奈さんは、他にも疑惑の種を見つけたのです。

「あの頃、出尾は……。
 実験に使う動物と人間との間で、
 対象の遺伝子がどれくらい違うか、
 遺伝子配列を比べ直していました。
 でも、ノートにもパソコンにも
 その痕跡が残っていない。
 まるで隠蔽工作をしたかのように、
 すっかり消えているのです」

 そこから条奈さんが導き出した結論は……。

「だから、私は、ふと思ってしまったのです、
 『もしかすると出尾は、
  動物の遺伝子操作因子と並行して、
  人間の遺伝子を操作する因子も
  こっそり作っていたのではないか?』
 ……と」


___________


「……ただし最初は、私も
 なぜ出尾がそんなことをしたのか、
 理由がわかりませんでした」

 もう一度お茶で喉を湿らせてから、条奈さんは、話し続けます。

「でも……しばらくして
 ラボで幽霊騒動が起きてから、
 恐ろしい可能性に思い至ったのです」

 ラボでの幽霊騒動。
 自分一人しかいないはずの深夜の研究室で、他の誰かがいるような気がする。奇妙な物音がする。
 そんな『気のせい』かもしれない怪談話だけではなく。
 誰も触っていないはずの実験器具が、いつのまにか置かれていた場所から移動していて。
 そのうちに『出尾の幽霊が研究を続けているんじゃないか』というウワサが立ったそうです。

「ラボの皆は、
 『自殺に追い込まれた出尾が
  成仏できなくて、ラボに来て
  研究を続けている』
 ……と考えているようです。
 でも……私の考えは違う!」

 条奈さんは、語気を強めました。

「『成仏できなくて』なんかじゃない。
 あいつは……きっと
 みずから望んで幽霊になったのです。
 おそらく致死性薬物を注射する前に、
 『人間の遺伝子を操作する因子』を
 自分自身に注射したんです。
 幽霊となって……
 『死んでも生きられます』を実践するために!」

 それから、フッと表情まで緩めて。
 最後に条奈さんは、まるで冗談のような感じでつぶやきました。

「『俺は人間をやめるぞーっ!』
 って、出尾が叫んだかどうか。
 ……それはわかりませんけどね」




(後編に続く)
   
   
前編は、こちらです;
http://gtyplus.main.jp/cgi-bin/gty/read.cgi?no=10301

後編も今晩中に投稿します。最後まで、よろしくお願いします。
   

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