「……参った……」
既に潰れていると思われる、シャッターの閉まった寂れた店舗の軒下。
とあるスーパーのチラシを握り締めた横島は、やむどころか激しさを増す一方の雨足を前に、ただ呆然とつぶやいた。
時刻は午後6時を少し回ったところ。真夏の今頃ならばまだ明るいはずだが、空を覆う雲はあまりの厚さに一切の光も漏らさず、さながら夜のような暗い影を地上に落としている。
そしてその雲は、今まさに大粒の――それこそ「バケツをひっくり返したような」という比喩表現そのままの――雨を、地上に降らせていた。
「ちっくしょー……昼はあんな、うだるぐらいに暑苦しく晴れてたのに……」
油断した。思いっきり油断しまくってた。
昼まで晴れていたからといって、それが一日中続くものだと根拠もなしに信じきっていた。
そんな横島が『夕立』という単語を思い出したのは、黒い雲が空を覆い始めた頃である。しかもそれは、わずか15分前。その時は既に外に出ており、しかも「即行で行って帰ってくれば大丈夫」などと傘も持たずに高を括っていたものだ。
そんな横島の手にあるスーパーのチラシには、6時〜7時のタイムセールの案内が載っていた。この機に久々のカップ麺でないマトモな食材を手に入れようと意気込んでいたのだが、現実はこれである。
「こー暗いと時間もわからんな……タイムセール終わるまでにやむかな?」
万年赤貧の横島は、腕時計などという洒落た装飾品は持っていない。時間を確認する手段のない横島は、タイムセール終了時刻までに目的地に到着できるかどうかの見通しを立てることができず、不安になっていた。
タイムセールを狙って買い物に出かけてきたのに、「結局間に合いませんでした」では話にならない。それでなくても、人気の品はタイムセールが始まればすぐに消えるものだ。こんなところでグズグズしていたら、よしんば雨がやんで間に合っても、大したものが手に入らなくなってしまうだろう。
「こーなったら濡れるの覚悟で飛び出すかな……」
雨足は非常に強く、もはや豪雨と呼んでも差し支えない。そんな中を傘も差さずに飛び出すのには、さすがに勇気が要る。
横島がそうするべきか否かの判断で葛藤していると――
「……横島さん?」
「え?」
突然横から声をかけられ、きょとんとして振り向いた。
「おキヌちゃん?」
そこにいたのは、ピンク色の可愛らしい傘を差した、ノースリーブの白いワンピースを着たおキヌだった。
『足りない50センチ 〜触れ合う距離感〜』
Presented by いしゅたる
「奇遇ですね。こんなところで会うなんて」
「そーだね。会うのは大抵、事務所か俺の部屋だから」
おキヌは横島と同じ軒下に来て、肩を並べつつ傘を閉じた。
ちなみにここは、事務所に近い場所である。そもそも横島の手にあるチラシ自体、事務所にあったものを拝借したものなのだ。
向かう先のスーパーも、自然と事務所の近所になる。
「あ」
と、おキヌが横島の手にあるそのチラシに気付いた。
「マルヤスさんのチラシ、横島さんが持ってたんですね」
マルヤスとは、横島が向かおうとしていたスーパーの店名である。おキヌは常連客として、そこの店長とは懇意にしていた。
そのおキヌの台詞に、横島はいささか、ばつが悪そうな表情になる。
「あ、ごめん。探した?」
「ええ、ちょっと。でも、それを持ってるってことは、横島さんもタイムセール狙いですか?」
「横島さん『も』なんて言うってことは、おキヌちゃんも?」
「はい」
これでもおキヌは、事務所の台所を預かる身である。その辺の専業主婦と同じように特売に目を光らせるのは、当然のことだろう。一人暮らしのくせして料理に無頓着な横島がタイムセールを狙うことの方が、珍しいのだ。
「それにしても、盛大に降られちゃいましたね」
「だなぁ。ここまで激しくなるとは思わなかった」
二人はそう言って、雨の降る景色に目を向けた。
目の前の雨足は、まるでスコールである。大粒の雨が大量にアスファルトを叩き、飛び散った飛沫が二人の足元にまで届くほどだ。
「傘、あまり意味ないですね」
おキヌはぼやきながら、ワンピースのスカート部分を少し持ち上げ、端をぎゅっと絞る。服にしみ込んでいた雨水が、ほっそりとした白い指の隙間からぽたぽたと落ちた。
「ないよりマシだよ」
彼女の言葉に返しつつも、横島の視線はおキヌの足に注目していた。スカートをたくし上げられ、その下にあった白いふとももが、わずかに見えているのだ。
「靴なんか、もうびしょびしょです」
「はは……そういや俺の靴も、中でグチョグチョ言ってるなぁ」
顔を上げたおキヌに、横島はとっさに視線を前に戻した。なんとなく、生足に注目していたことに気付かれるのが、気恥ずかしく思えたのだ。
「横島さんは傘持ってきてないんですか?」
「あー……」
おキヌの何気ない問いに、横島は答えづらそうに頬を掻いた。その様子を見て、おキヌは「仕方ないですね」とばかりに、くすっと苦笑を漏らした。
「だめですよ、横島さん。入道雲を見たら、とりあえず傘は用意しておかないと。夏の夕立って、激しくなること多いんですから」
「はは……今、身をもって体験してるところだよ」
苦笑で返す横島。その台詞が終わると同時、空が光った。
――轟音。
「きゃっ!」
稲光の後、一拍置いて響いてきたその音に、おキヌは思わず横島にしがみついた。
「お、おキヌちゃん?」
「あ……ご、ごめんなさい」
横島の呼びかけで我に返ったおキヌは、恥ずかしそうに顔を赤らめてその手を離した。
すぐに離れてしまったことに、横島は少し残念に思う。
(……あー、やーらかくてあったかかったなー……)
何が、とは言わない。だがまあ、純朴な彼女相手にそれを口にしてしまえば、完全に悪者であると横島は思っている。美神が相手なら、セクハラも単なる『いつも通りの過激なスキンシップ』で終わるだろうが。
そんな内心を誤魔化すかのように、横島は意地悪な笑みを浮かべ、口を開いた。
「光ってからそんなに間が空いてなかったな……近かったのかも」
光と音は速度が違う。ゆえに稲光とその音は、届く時間の落差によって、どれだけ離れているかがわかる。
続けて「次はここに落ちるんじゃないか?」などとのたまう横島のその言葉に、おキヌは眉をしかめた。
「そんな、怖いこと言わないでくださいよ」
「案外本当かもよ? 隊長が時間移動したとか」
「え?……って、そんなことあるわけないじゃないですか」
横島の言う隊長とは、美神美智恵のことである。おキヌは思わず目を丸くしたが、直後に時間移動を神魔が禁じていること、何よりそれをする理由がないことを思い出したのか、即座に苦笑と共に否定した。無論、横島は冗談で言っただけで、彼自身もそんなことがあるわけないと思っている。
そして、もう一度空が光った。今度は少し間を置き、ゴロゴロゴロ……とおとなしめな音が響いてきた。
「ちょっと遠くなりましたね」
「雨足も、ちょっとは弱くなったかな?」
「あまり変わってるようには見えませんけど」
確かにおキヌの言う通り、雨の勢いは相変わらずだ。
「…………」
「…………」
――ふと、言葉がとぎれる。
ごぉー……という激しい雨音が二人の前を過ぎていく。
周囲の迷惑も考えず、水溜りを弾き飛ばし盛大な飛沫を上げて通り過ぎる車。
横島のように傘を忘れたのか、「せめて頭だけでも」とばかりに手に持った鞄で防御を固め、駆けて行く人。
お互いの温かさを感じ取れる距離のまま、そんな景色を眺めては、また二人は顔を伏せた。
――随分と長いこと、ずっとそのままで隣り合っていた。
沈黙は、思ったよりも居心地の悪いものではなかった。
隣に立つ少女の横顔を見ても、その沈黙を気にした様子もない。彼女がそこにいる――ただそれだけで安らぎを感じる自分を自覚していた。
(こういうの、癒しオーラって言うのかな)
ついつい、そんなくだらないことを考えてしまう。
やがて、雨が地表を叩く音が少しだけ柔らかくなって、ほんの少し風が薙いだ。
湿気をたっぷり取り込んだ風は心地よくはなかったが、なんとなく嬉しく、反面、一抹の寂寥感も生まれた。
「雨、だいぶ弱まりましたね」
「そーだね」
おキヌのつぶやきに、気のない返事をする。傘を持っている彼女ならばもう出ても良い頃合だろうが、持っていない横島はそうはいかない。
隣の彼女は、自分の傘と目の前の雨に、交互に視線を向けていた。出て行くかどうか迷っているようである。その視線は、時たま盗み見るようにこちらに向けられた。
「……?」
その視線に訝しんでいると、わずかに頬を染めた彼女は不意に「よしっ」と決心したように小さくつぶやき、バサッと音を立てて傘を開いた。
どうやら、この軒下から出て行くようである。それを見た横島は、「これでお別れか」と若干寂しい思いを感じた。
と――不意に、横島の視界に影が差した。
「はい」
「……え?」
おキヌの言葉に、呆けた声を返す。彼女が自分の傘を、横島の頭上に差していた。
「おキヌちゃん?」
「せ……せっかく向かう先が同じなんですし、一緒に行きましょうよ。時間も、その……そんなに残ってないですし」
微妙にどもる彼女の頬は、わずかに上気している。だが横島は、そんな彼女の表情よりも、その形の良い唇から出てきた言葉の後半の方が、気にかかった。
「時間って……そんなに経ってるの?」
「あ、はい。えっと、6時……30分過ぎちゃってます」
「げ」
彼女が腕時計に目を落としつつ返してきた言葉に、横島は思わずうめいてしまった。
もう目的地に近いとはいえ、まだ最低でも5分はかかるだろう。買い物をする時間を含めて考えると、タイムセール終了の7時まで、もうそれほど余裕がない。
「えっと……それじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
そう言いながら、横島はおキヌから傘を受け取った。
背に腹は変えられない。それに美少女との相合傘など、男が夢見るシチュエーションの一つだ。気恥ずかしさはあるが、断る理由などありはしない。
受け取った傘を軒先に半分だけ出すと、軒端からこぼれ落ちる雨水がパラバラと乱暴な音を立て、傘を叩いた。
「入って」
「はい」
横島が促し、おキヌが傘の下に収まる。それに続いて横島も体の位置をずらして傘の下に入り、二人揃って一歩踏み出した。
が――
「「あっ……」」
二人同時に、その一歩目で声を上げる。おキヌの右肩と横島の左肩が、傘の下に入りきらずに雨に晒されてしまっていたからだ。
「傘……小さかったですかね」
「…………」
おキヌのつぶやきに、横島は答えなかった。肯定してしまえば、彼女に対して傘の小ささに文句を言うのと同義のような気がして、なんとなく言いたくなかった。
そして、答える代わりに傘をおキヌの方に傾ける。これでおキヌの肩はだいぶフォローできたが、代わりに横島の方が、腕と言わず肩と言わず、それどころか耳まで濡れてしまいそうなほどまで傘の外に出てしまった。
「よ、横島さん、私は大丈夫ですから……」
「いや、元々この傘はおキヌちゃんのものなんだし、入れてもらってる身で贅沢できないって。第一、肩だけとはいえ、女の子を濡れ鼠になんて出来ないよ」
「そんな……」
(本当は、もっと肩を寄せ合えばちっとはマシになるんだろーけどなー)
譲らない横島の言葉に、おキヌは困ったように表情を曇らせた。一方で横島は、胸中でそんなことを考える。
(ここでおキヌちゃんの肩を抱き寄せて、「ほらこうすれば大丈夫」なんて言いながら肩を密着……って、親父じゃないんだし、さすがに出来ないよなー。いや、んなこと出来たら役得もいーとこだけどさ)
考えるうち、照れ臭さで顔が熱くなるのを感じる。
普段なら考えるよりも早く、気持ち悪いぐらいの爽やかさでもって実行に移すことなのに、その相手がおキヌになった途端、女性に免疫のない初心な少年のように遠慮してしまう。
そういうプレイボーイ的な行動をしたくないわけではない。むしろやりたいとすら思っている。
だが――何故だろう。彼女に対してだけは、実行に移そうと思うことすらできない。
「…………」
自身の心に、何か腑に落ちないものを感じた。魚の小骨が歯に挟まっているような、もどかしい感覚。
掴み所がなくて、それゆえに掴めなくて、あるいは錯覚かもしれない不確かなもので、しかしあるような気がしてならない。そんな正体不明のモヤモヤとした感覚が、鎌首をもたげてきた。
(……ま、考えてても埒が明かねーか)
とりあえず、思考の海に沈みかけていた意識をあっさり浮上させる。
別に、今すぐ答えを出さなければならない疑問でもない。不快な感覚だったわけでもないし、そもそも難しいことを考えるのは苦手だ。
今はそれよりも先に済ませるべきことがある。
「じゃ、行くよおキヌちゃん」
「あ……はい」
横島はおキヌを促し、一歩進み出る。その歩調に合わせ、おキヌも一緒に一歩を踏み出した。
――頷いた彼女の声が幾分か精彩を欠いていたような気がしたのは、雨のせいだろうか――
ざあざあと、雨粒がアスファルトを叩く音が周囲に満ちる。
バラバラと、雨粒が乱暴に傘を叩く音が二人の耳を打つ。
隣を歩くおキヌの肩が、時たま横島の右腕に触れる。
左半身に感じる雨の冷たさとは対照的に、刹那に右腕に感じる彼女の体温。
同じ傘の下、触れるほど近くにいる彼女の存在感。
「…………」
「…………」
二人、一言も漏らさずただ黙々と歩を進める。先ほどと同じ沈黙が、今度はなぜか重く感じた。
そしてそんな空気の中、横島といえば――
(なんだっ!? なんだこの居心地の悪さはっ!?)
――内心で微妙に混乱していた。
(おキヌちゃんとの相合傘! 生身の美少女が触れるほど近くにっ! これに萌えねば男、否、漢にあらずってぐらいの嬉し恥ずかし青春の甘酸っぱい萌えシチュエーションだっつーに! なんでこんなに気まずくなっとるんやーっ!?)
内心で絶叫しても、こんな空気になっている原因にはとんと心当たりがない。
見れば、彼女はちらちらとこちらの左半身を見ている。明らかに、濡れているのを気にしているような様子だった。
「……あの、横島さん」
と――不意に、おキヌが遠慮がちに話し掛けて来た。
「ん?」
横島は、内心の動揺を悟られないよう、極力平静な声で返す。
「あの……その左肩……」
「ああ、大丈夫だから。心配することないって」
やっぱおキヌちゃんは優しいなーと思いつつ、安心させるように笑って返す。
しかし彼女は、幾分か表情を沈ませただけだった。彼女がその表情で小さくため息をつくと、重かった空気がさらに重くなった気がした。
(う……失敗したのかな、これは……?)
安心するどころか目に見えて消沈したおキヌの様子に、横島は内心で頭を抱える。
とはいえ、こうまで判り易い態度を取られると、さすがにその原因に見当がついた。おそらく、こちらの濡れた肩に気を遣いたいが、それをさせてもらえずに落ち込んでいる……といったところだろう。
だが――
(……って、そこまで気にするほどのことか?)
横島自身といえば、多少濡れたところで平気である。むしろ、彼女のおかげで体の半分は濡れずに済んでいるのだ。それだけでも、十分助けてもらっていると言える。
ゆえに横島からすれば、半分濡れているからといって、彼女が気に病まなければならない道理は無い。
それに、横島とて男としての矜持はある。おキヌを濡らさぬよう一度傘の位置を変えた手前、自分の為にそれを改めて修正することなど、できるはずもない。
(困ったなぁ……)
横島としても、おキヌと共有する空気がこんな風になるのは御免こうむりたい。しかし自分から動くわけにもいかず、ジレンマに陥っていた。
見れば、おキヌの方は、まだ時折こちらの方を盗み見ている。しかし目を合わそうとはしない。
さりげなく観察してみると、一歩を斜めに踏み出して少しだけこちらに近付き、頬をほんのりと染めてはまた離れるといったことを繰り返していた。
あるいはそれは、平衡感覚を失って真っ直ぐ歩けなくなってるようにも見える。
「おキヌちゃん、どう――」
どうしたの、と言い切る前に。
ざあぁぁぁ――ばしゃっ!
「きゃっ!」
二人のすぐ横を、雨水を弾き飛ばしながら車が走り抜けた。その際、タイヤが弾き飛ばした水溜りの水が、おキヌにかかった。それに驚いた彼女は、思わず横島の方に身を寄せた。
「――――っ!?」
まるで押し競饅頭をするかのように強く押し付けられる体。鼻腔に触れる、おキヌの髪の香り。突然襲ってきた『女の感触』に、横島は思わず声にならない声を上げてしまった。
一方、彼女の方は、そのままで硬直している。
――くっつき合ったまま、足を止めた二人。
ざあざあという雨の音。それが傘を叩くバラバラという音。
その中で、「とくん、とくん」とかすかに――しかししっかりと耳に届く音は、どこから響いてくるのか。
硬直した時間は、一瞬とも久遠とも思えた。
やがて――彼女はおもむろに、横島の腕を取った。
(え……)
突然のことに、横島は声を上げるのすら忘れて呆けた。
おキヌの白く柔らかい手が、自分の腕に絡んできている。少しだけ大胆な、肌の触れ合うスキンシップ。
だが――横島がその感触を味わう間もなく、彼女は次の瞬間には、そのままぐいぐいと引っ張り始めた。
横島は、引っ張られるがままに前に進む。改めて雨脚を見れば、その雨量はだいぶ少なくなっていた。
しかし、だからといって無視できるほどとも言えない。先導するおキヌは、当然のごとく傘から身をはみ出させ、瞬く間に肩を濡らせていっている。
「あのー……」
「…………」
横島が遠慮がちに声をかけるが、彼女は聞いた様子も無い。そのまま前だけを見据え、どんどんと先に進んで行く。
その表情は横島には見えないが、その耳がほんのりと赤いのは、果たして気のせいだろうか。
と――横島は、はたと気付いた。
(……って、いかんいかん。おキヌちゃんの肩を濡れたままにしちゃダメだろ)
そして、再び傘を傾けて彼女の肩をフォローしようとする。
だが、傘を持っている方の腕を取られているせいか上手く行かず、傘は無為に揺れるだけであった。その分、防げるはずだった雨粒に打たれ、濡れなくても良かった部分までもが濡れてしまった。
(だーっ! あかん、何やってんだ俺ーっ!)
濡らすまいとして、かえって濡らしてしまった。そんな失態を演じている自分を、内心で罵倒する。
しかし彼女は、「濡れるのなんて平気です」と言わんばかりに、歩調を緩める様子が無い。
――どうしたんだおキヌちゃん!――
いつもと様子の違う彼女に、思わずそう訊ねたくなる。しかしそんなことを考えている間にも、彼女の体はどんどんと濡れていく。
何を訊ねるにしても、まずは彼女を傘の下に入れることが最優先。そして、それをするには――
(……やっぱ、アレが一番手っ取り早いかなぁ……)
それに思い至り、たったそれだけでもなんとなく照れ臭くなった。
迷ったのは一瞬。濡れたままの左手で、ぽり、と一回頬を掻く。
そして――
「おキヌちゃん」
「……?」
意を決して呼びかけると、彼女はやっと歩調を緩め、横島の方に視線を向けた。
「傘持って」
「あ、はい……?」
横島がそう言うと、おキヌは怪訝な顔になりながらも素直に頷いて、左手で傘を受け取る。
そして横島は、空いた右手でおキヌの右肩に手を回し――
……ぐいっ。
「あっ……」
無言で、その肩を引き寄せた。
触れ合っていた二人の体が、更に密着度を増す。突然のことに、おキヌの目が丸くなり、小さく声を上げた。
彼女はすぐに何をされたかを悟り、その顔をゆっくりと桜色に染めていった。
「あ、あの、横島さん……」
「こ、こうすれば、濡れる面積も小さくなるからさ……」
「は、はい……」
右腕全体に、おキヌの左腕の温もりが感じられる。その柔らかさと温かさに、おキヌ同様に自分の顔まで赤くなっているのが、顔に感じる自分の体温でわかってしまった。
――まったく、なんだこの純情少年は。煩悩魔人の名が泣くぞ――
胸中でそんなことを言い、気恥ずかしさを誤魔化すかのように自身を罵倒する。もっとも、煩悩魔人などとゆー不名誉な二つ名を誇った覚えは微塵もないが。
そして、おキヌからもう一度傘を受け取り、自分達の真上に掲げる。今度はすっぽりと――などと都合良くはいかなかったが、それでも今までよりはだいぶマシになっていた。
ふと、おキヌの方を見ると、視線が合った。一瞬見つめ合い、揃ってクスッと微笑をこぼす。
「時間も押してるし、急ごうか」
「はい」
横島の言葉におキヌが頷いたが、あれほど強引に引っ張っていた先ほどと反し、彼女は少しも歩調を速める様子はなかった。しかし横島は、それを咎める気は起きず、そのまま彼女の歩調に合わせる。
正面を見れば、遥か遠くの空は既に雲が切れていた。その雲の切れ端はわずかに顔を覗かせている空と共に、見事な赤焼けに染まっている。
日は沈んだ直後なのか、その赤い空に夕日は見えない。
――もうすぐ、雨もあがる――
おそらくそう時間をかけることなく、あの晴れ間はここまで広がるだろう。そう思ったと同時、隣のおキヌが何事か小さくささやいたが、それが横島の耳に入ることはなかった。
雨が上がれば、多分この腕も放されてしまう。そう考えると、残念に思ってしまう自分がいた。
だが、夏はまだ続く。夕立の多いこの季節、また降られることもあるだろう。
(……今度、これよりも少し大きい傘を買っておこうかな)
――そう。二人で入っても、体を密着させれば濡れずに済む程度の傘を――
二人して肩を濡らしているこの状況を思えば、ついついそんな考えが脳裏をよぎる。
もし、二人の頭上にあるこの傘が、もう少し……そう、50センチほども広ければ、肩を抱き寄せた今の状態ならばすっぽり入るだろう。
と――
「おキヌちゃん。良かったら、スーパーで傘買っていかない?」
そんなことを考えていたら、自然とそんな言葉が口を突いて出てきた。
「あ、私も同じこと考えてました」
隣を歩く彼女は、突然の申し出に驚いた様子もなく、クスッと微笑を浮かべて同意してきた。
「そっか。んじゃ、ちょっと大きめのヤツを買おうよ」
「ええ。買っちゃいましょう」
会話が噛み合う。本当に同じこと考えていたんだなと、横島は内心で感心した。
「それじゃ、私が買いますね。ちょうどお金もありますし」
「いや、いいよ。それくらいだったら俺もあるし、そのくらいは甘えてよ」
おキヌの申し出に、横島はやんわりと断る。やはり、買い物で女性に代金を出してもらうのは、男としての甲斐性に関わるだろう。
頭の中で「ちょっと待て」とツッコミを入れる自分がいたような気がしたが、大して気にも留めずに会話を続ける。
「……ありがとうございます。でも、その気持ちだけでありがたいですから。やっぱり私が」
「いや、俺が買うから。ホントにいいよ」
譲らないおキヌに、横島も同様に返す。
「いえ、私が」
「だから俺が、さ」
「私が」
「俺が」
「…………」
「…………」
互いに譲らない。同じ言葉が何度も往復し、やがて二人は無言で睨み合った。
やがて――
「「ぷっ」」
二人同時に吹き出した。
「……一緒に買いましょうか?」
「そだな」
微笑み合い、二人は穏やかな雰囲気でスーパーへの道のりを歩いて行く。
正面に視線を戻してみれば、今の問答の間に雲が移動したのか、西の晴れ間がわずかに近付いていた。それに比例するかのように、傘を叩く雨の勢いも目に見えて減じてきている。
と――不意に、横島の足が意識せずに止まった。
完全に沈んでいたと思っていた夕日――よく見てみればそれは、もはやでこぼことした黒いシルエットとなっている遠くのビル群の上から、わずかに頭頂部だけを残していた。
横島はなんとなく、その夕日が申し訳なさそうに身を隠しているような気がして、思わず失笑を漏らした。
「もう、横島さんったら。ほら、時間無いですよ?」
そんな横島に、おキヌは焦れったいとばかりに、もう一度その腕を引っ張った。横島は引かれるままに再び歩き出し、そういえばタイムセールに急いでたんだっけ、と本来の目的を思い出した。
ちらりと、視線だけを夕日の方に戻す。
(……俺は大丈夫だから、さ)
そう。自分はもう、明日に向かっていける。
腕を引く少女のぬくもりを肌で感じながら、誰ともなしに胸中で語りかけた。
――後に二人は、相合い傘前提で傘を買ってしまったことに気付き、またもや一騒動あったのだが――
それはまた、別の話。
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