夕涼みの時間、姿の見えない忠夫さんを探し春香と一緒に境内を散策する。
まだまだ境内は明るいが、昼間の蝉たちは鳴りをひそめ、ヒグラシが鳴き始めている。
庭木や拝殿から落ちた影と、私の影が重なりまた過ぎる。
一歩歩くごとに日は西に傾いていき、石畳を歩いて本殿の入り口からゆっくり顔を出すと、二人を見つけた。
お義父さんと忠夫さんは、本殿のお掃除に精を出していた。
「ぶはー。手間かかりますねー」
「喋っているとますます差が開くよ、ほら磨いた磨いた」
元々神道は山や川と言った自然を神様に見立てるので、ごく簡単なご神体すら無い場合もあって、大概の場合本殿は小さく慎ましくて、うちも例外ではない。
(もちろん、権現造りなどと言った格式はきちんと決まっているらしい)
だけどきちんと掃除をしようと思えば、それはそれで手間だ。
随分と頑張っていたのか、磨き上げられた本殿の床は西日を照らし返す。
「もう、だらしないですよ」
「あ、おキヌちゃん」
「随分と綺麗にしたんですね」
声をかけると、二人が振り返る。
本殿の厳しく張り詰めた雰囲気も、今は二人が柔らかくしてくれている。
「先祖代々、毎日本殿の手入れを欠かしたことは無いからね。これも大事なお勤めさ」
「先祖代々ですか。じゃあ、三百年近くこれを? 」
ぞうきんをバケツで絞りながら、忠夫さんが尋ねる。
絞り方も随分慣れた物だけど、それでもまだお義父さんにはかなわないみたいだ。
「口伝で伝え聞いただけだがね」
「そうなると、おキヌちゃんが結界に入った後、建立してからずっと、ですか」
「そうなるね」
お義父さんは感慨深げに祭壇を、そして私を見る。
「私が結界に入ってから、ずっと…」
湿り気を帯び始めた風がすぅと通り、私は合わせるようにして本殿を見回した。
柱や床板、天井の梁、祭具や鏡、欄間。
あの時から、連綿として伝えられてきた社や祭具の数々。
春香が今ここにいる事以上に、不思議な気がした。
「ご神体がここにいるってのもおかしいけどね」
忠夫さんがくすくす笑う。
そう、私はこの氷室神社が祭っていた神そのものだった。
あの時の混乱のせいで神様にはなれなかったけど、忠夫さんがおキヌちゃんだからなあ、とか納得していたのは、なにか腹立たしいけど。
「いや、正確にはこの神社はね、御山を祭ってきたんだよ。いわれは失伝してしまってわからなかったんだけど、おキヌがいた山を祭っていた、と言う方がもしかしたら正しいのかもしれないね」
私のいた御山を。
お義父さんの言葉に、女華姫様の面影が蘇る。
あの日交わした約束が思い起こされ、空気が急に濃密さを増していく。
「女華姫様が、導師様と一緒に神社を建立してここの初代になったんだよな」
「ええ。導師様とお義父さん、そっくりだもんね」
「遠いご先祖様、か……。女華姫様はどんな方だった、おキヌ?」
「女華姫様は……」
どんな方だったろうか。
記憶を取り戻したとはいえ、江戸時代のことを全て思い出した訳じゃ無い。
だけど、かすかに残る記憶に思い浮かぶ女華姫様の姿は、決まって微笑んでいた。
あの時代に、身分など関係なく笑いかけてお友達にすらなってくれた、芯のある優しさを持った人だった。
「とても、とても女性らしくて。人の上に立つ身分だったからこそ、責任から逃げようとしないで、まっすぐ私を見つめてくれる。笑いかけてくれる。そんな人でしたよ」
ずっとお友達でいましょう。
おしゃまな武家のお姫様が、孤児の私にかけてくれた言葉、大切な約束。
私がああなるまで、ずっと変わらなかった友情、親愛。
「…氷室家の名前も、もしかしたらおキヌちゃんイメージしてつけたのかな」
「え? 」
忠夫さんが、ぽつり呟く。
「地底湖の中で氷漬けになってた訳だろ?」
「うん、そうだった…」
「そ。だから、氷室」
「確かに。初代様からもう十五代近く代を重ねた訳だが、この土地と社を必ず守っていくこと。これが、氷室神社の命題だったのだから」
溢れた想いが、胸一杯で言葉が詰まる。
私の命を、みんなのために。
暗い水の底で強く強く願った、大切な想い。
想いを受け取ってくれた女華姫様は、みんなは、ちゃんと覚えていてくれた。
だからこそ長い時間を経て、私をこの世に引戻してくれた。
「ずっと、私の事見守っていてくれたんだよね」
二人に微笑む。
みんなの想いが、この子に結晶しているんだ。
生まれたばかりの何も出来ない、でも暖かで確かな命は。
私だけじゃない、みんなが生み出した。
私は、深く心に刻む。
私の命も、この子の命も、自分たちだけの物じゃないのだから。
―――あなたが、本当にやっていけるの?
突然。
ワタシが囁き、心の澱が巻き上げられる。
底に沈殿していた澱は、澄かけた景色をたちまち濁らせる。
濁らせて、私の足下を揺さぶる。
私を包む女華姫様に見据えられて、たまらず顔をそらした。
「私、庭に行きます」
「え、おい。ちょっと」
引き留める忠夫さんの声にも振り向かずに、逃げるように本殿から出て行く。
表に出ると、息せき切って走る。
春香が驚いたように声を上げるまで走って、気づけば玉垣の外にいた。
御山を照らす日差しは随分弱くなって緑を深い色に変え、境内はすっかりヒグラシたちの寂しげな声に覆われていた。
☆☆☆
すっかり夜の帳も下りて、あたりを暗闇が包む。
なお濃い緑の香りと虫たちのささやき声の中、星のざわめきがわずかばかり地上に届いて、私たち親子三人を浮かび上がらせる。
私と忠夫さんそして春香は蚊帳の中で川の字になっていた。
二人の熱を感じて横になりながら、私は夕食の時の事を思い返す。
また早苗おねえちゃんと忠夫さんとで漫才があったのだけれど、お義父さんとお義母さんも、そして春香も笑っていた。
「忠夫さん、来てくれてよかった」
「ん?」
「来てくれてよかったって。そう思ったの」
「どういたしまして。こんなのでよければ、いつでも」
「ふふっ」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと実家に帰ってきてただけなのに。なにかその言い方、おかしいですよ」
「そうかな」
「そうよ」
隣の春香はすっかり寝入って起きる気配もない。
お父さんだってことがわかったのかどうなのか、笑ったように眠っている。
つと、体に比して大きいタオルケットを掛けなおす。
「この子も、久しぶりにお父さんに会えて嬉しそうでしたよ」
「そう、なのかな」
「そう、ですよ」
ちくりとまた、こびり付いた寂しさがうずく。
「おキヌちゃんは」
「えっ? 私? 」
「そう。おキヌちゃんは? 」
「私も、もちろん」
数瞬、間が空いて。
「嬉しかったですよ。お夕食、がんばったんですから」
「和風ステーキに鳥の唐揚げ、ぶりの照り焼き、筑前煮に、トマトとポテトのサラダに、冷や奴に、お吸い物に…。俺に大好物ばっかりだったもんね。ありがとう」
「どういたしまして」
仰向けになってお腹の上で指を絡ませて、私はどうにか言い終える。
嘘じゃないけど、嘘をついた。
お義母さんにも申し訳がないけれど、テーブルの彩りは私の迷い、戸惑いをごまかす物でもあったから。
こら美味い美味いって食べてくれる忠夫さんが胸に痛くて、後ろめたかった。
「……お昼もだけど、本殿でも」
忠夫さんが体を起こして、私に手を伸ばす。
春香を挟んで、暗がりで幾度かお互いの手を確かめ絡ませた。
暑い日が続くのに、忠夫さんの手の暖かさが、とても心地良く染みいる。
「悩みがあるなら話して、ごらんよ。これでも俺、ダンナだよ?」
「……ん」
やっぱり、わかっちゃうのか。
忠夫さんは、普段鈍感な様でいて実はとても鋭い。
心遣いがありがたくもあり、暗がりの天井を見つめながら考える。
話した方が良いのかどうか、それが忠夫さんの負担にならないのかどうか。
逡巡しても考えはまとまらず、押し黙ったまま時間ばかりが過ぎる。
その内、忠夫さんとつないだ手から染みこんだ暖かさが、心の澱を漉していって、ようやく私は口を開いた。
☆☆☆
「違和感、か…」
忠夫さんの返答はごく短いもので、それきり忠夫さんも黙り込む。
タバコでも吸おうとしたのか口元に指を寄せ無いことに気づき、うつぶせのまま目を閉じている。
「ええ。おかしいのかもしれないですけど…」
「なんとなくだけど、分かるよ。そういう記憶が無いんだから、不安になるのも当たり前だと思う」
「当たり前、なのかな」
虫たちのざわめきは一定のリズムで続く。
深い闇の向こうから、確かな音色を子守歌にと鳴いている。
忠夫さんが起き上がったかと思うと、あぐらをかいて座り直し、こちらを見た。
私も起きて正座して、うっすらした月明かりを浴びる忠夫さんを見つめ返す。
「俺は」
「俺、は?」
「おキヌちゃんになったことはないけど、このちちしりふとももはだいすきやー!」
「何を言ってるんですかっ!!」
飛びかかろうとした忠夫さんをゲンコで一発、慣れてしまったもので忠夫さんは勢いよく布団に突っ伏す。
「春香だっているし、ここ実家ですよ?! 少しは自重してください」
「久しぶりだから、って。いや、愛のある冗談でっ」
「冗談も年子もごめんです!」
ぐじぐじ言い続ける忠夫さんを放っておいて、私はまた横になる。
本当に、人が真面目に相談してるってのに。
なにか忠夫さんが言っているけど全部無視する。
しばらくそのままにしていれば良いのだ。
「俺はおキヌちゃんがおキヌちゃんだから好きなんやー」
本当にしばらくほおっておくと、忠夫さんのつぶやきが聞こえてきた。
まったく、この人はお調子者だ。
バカ、と言っても良い。
けれど、だけど、同じくらいにあけすけで、飾り気なくって、居心地が良くって。
大騒ぎはしても、結局側にいてくれる。
「もう。ちゃんと言い方考えてくださいよ」
私はふて寝を止めて、また起き上がる。
春香を起さないよう、声量には注意して、うつぶせになっている忠夫さんに言った。
「でも、それでいいんですか? 私、嫌な所だって一杯ありますよ」
私はよく良い奥さんだね、なんて言われる。
それは密かな自慢でもあるけれど、それ以上に否定する声も心の中で生まれてくる。
存外に嫉妬深くて忠夫さんの携帯の中を見たいと思ったり、細かいことにうるさかったり、抜けているせいか人をいらいらさせたりするのも、同じように私なのだ。
「…結婚生活なんて、我慢しなきゃならない事ばっかりだろ?」
忠夫さんもまた起き上がって、こちらに視線を寄越す。
笑顔を浮かべた忠夫さんの瞳の中に私がいた。
月明かりに照らされ、そよそよ夜風がさざめく。
「……もう、真面目に言ってるのに」
「……俺だって、真面目だよ」
「嘘」
「嘘じゃないさ」
「……私だって、我慢してることたくさんあるんですからねー」
「それなら、俺だって」
やれゴミの出し方であるとか、日頃の身だしなみであるとか、トイレの始末のしかたであるとか。
ひとしきり二人で文句を言い合った後に、可笑しくなって、声をひそめ笑う。
「……ふふふ」
「……あはははは」
穏やかな時間が過ぎて、月明かりがひときわ眩しく光る。
「ね。忠夫さん。さっきの言葉、もう一度聞かせて」
「さっきの?」
「……そう。さっきの、言葉」
忠夫さんは照れたように頬をかきながら、でもしっかり言ってくれた。
「……俺は。おキヌちゃんがおキヌちゃんだから好きなんだよ」
「お母さんがどういうものなのか、自分の子供をどう愛してやればいいかわかんないような、頼りない女でも?」
「うん」
「ちょっとしたことで焼き餅焼いて、細かいこと言って、お夕食抜いちゃったりしてても?」
「うん」
「嫌なところたくさんあって、我慢もいっぱいしなきゃいけなくても」
「うん」
力強く断言する忠夫さんの言葉が、私を満たしていってくれる。
「どうして…?」
「お母さんの記憶がなくたってさ。誰だって、持ってるものもあるだろうし、持ってないものもあると思う」
「ええ」
「だけど、おキヌちゃんは頑張ってるじゃんか。春香のために何がしてやれるか、懸命に考えてるじゃないか」
「それで、良いのかな…」
言葉を紡ぐ。
ずっとずっと、包み込まれていたかったから。
ぬくもりを感じていたかったから。
「おキヌちゃんのおかあさんもおとうさんも同じだったはずだよ。おキヌちゃんが覚えている子守唄だって、どんな気持ちで、歌ってくれたんだろうね」
「おかあさんの…気持ち…」
胸に手を当て考えようとした時、心にどこかの風景が流れ込んできて、世界が溶けていった。
☆☆☆
――――――おぎゃあ、おぎゃあ
「おお、よしよし。どうしただ」
優しげな、声。
どうやら、自分は背に担がれているらしかった。
目が良く見えない。
白っぽい視界。
体があやす様に左右に動く。
担いでくれているのは、女性のようだ。
背中の細さとやわらかさが、そう教えてくれる。
「おまえ、どうしたんだ」
農作業の手を休めて、男性が言う。
「いえ、この子がまた泣き出して。どうしたんだべ」
「最近は地震や日照りで不作続きだからな…。この子も不安なのかもしれねえ」
「死津喪比女、でしたか…。早く、領主様がなんとかしてくれるといいんだけれど」
「まあ、領主様は良い方だで。昨年の日照りの時も、年貢を減免してくださった。きっとなんとかしてくださる」
「そう、そうよね。」
「んだ。わしたちは、子供の為に頑張るしかねえ。また不作では、よく食わす事も出来なくなる」
「そうだべな……」
「もしそうなったら、地震で亡くなったばっちゃ達に会わす顔がないでよう」
「おぎゃあ、おぎゃあ」
いっそう激しく泣く私。
そうすると、抱えてくれていた女性は私を背中から胸に抱き変えた。
ぼんやりと見える顔。
「よしよし。お歌さ歌ってやるでな、機嫌をなおしてくれよ」
浮かび上がる、懐かしい様な、その顔は。
「おキヌ」
えっ。
言われた時、初めて気が付いた。
これは、私の記憶。
小さい小さい時の、かすかな記憶。
この2人は、おかあさん、おとうさん――。
「……この子の可愛さ限りない。山では木の数、萱の数。星の数よりまだ可愛、ねんねねんねや、おねんねや…・」
☆☆☆
視点が収束していく。
体を支えてくれていたのか、私は忠夫さんの腕の中にいた。
腕の中で、私は改めて想った。
お母さんの気持ちを。
苦しい中、泣く事と笑う事しか出来ない赤ん坊を育てていく時の、不安な気持ちに。
「私……」
そうなんだ。
不安じゃないはずなんて、ないんだ。
なにが一番、この子にとっていい事なのか、悩んで、失敗して。
きっと、手探りで。
でも、だからこそ。いっぱいの愛情を込めて、歌ってくれていたに違いないんだ。
おかあさんは、自分のお母さんにいろんなことを教わったのかもしれない。
教われなかったかもしれない。
それは、もう私にはわからない。
なら。
私の子供には、不安な気持ちを残す事が無いように精一杯、ぶつかっていくしかないんだ。
おかあさんが残してくれた、子守唄と一緒に。
支えてくれる、家族と。
たくさんの人たちと一緒に、前に。
みんなと一緒に、生きていくんだって。
忠夫さんを仰ぎ見る。
その顔はにこやかでいたずらで、忠夫さんがやったんだとすぐわかった。
「ずるいですよ。文珠を使うなんて」
「はは。高校時代の事を思い出してね。うまくいくかな、ってさ」
「もう。でも」
こつんと肩を一叩き。
許してあげますと、そっと忠夫さんの胸に頭を寄せた。
「ね」
「なに? 」
「思うの。私がみんなと一緒に成長していくのなら、それは忠夫さんも一緒。私と春香と、みんなとね」
忠夫さんの腕に、力がこもる。
腕の中で、目を閉じ、じっと暖かさを味わう。
抱きしめられるのは、なんでこうも心地良いのだろう。
「もちろん、ずっと。一緒にね。一緒に、親になっていこうよ」
「……ありがとう、忠夫さん」
☆☆☆
次の日。
庭木の水やりをしようと、日が昇って少し立った頃に外に出た。
麦わら帽子にワンピースで暑さをしのぎやすくして、取り巻きのホースを蛇口につなぎ引き出す。
氷室神社の庭は西から東にかけて長く延びていて、境内や周りにはケヤキ、松、銀杏なんかがそれこそ林立していて、その中で住居棟の手前の一面に代々の住職が植えた木々があった。
地面の保全のためだろうか、笹が林との境界にしげり、花散里や金木犀、花水木、榊、いろはもみじが育っていて、私は一つ一つホースで水を巻いた。
木漏れ日の下、私はそれぞれに違う木の音を楽しんでいると、忠夫さんが起き出してきた。
ちょうどいいとばかり、私は彼に声をかけた。
「ちょっといい?」
「なに、おキヌちゃん」
忠夫さんを見やりながらも水まきを続けると、シャンシャン音が鳴り続ける。
「御山に行きたいの。忠夫さんゆっくりしたいとは思うんだけど、行きたいところがあって。山菜採りとかもしたいんだけどね」
「いいけど、すぐに出るの?」
「朝ご飯食べてからでも良いですよ。準備します?」
「そうだね、食べて少ししてから行こうか」
これが最後とばかりにホースの吹き出し口の形を変えてまいてみれば、水の弧が虹を作り出した。
七色の虹が青空に映えて、急に水まきを止めるのが惜しくなって、あちこちまいていると忠夫さんがほら、と言って催促してきた。
私ははいと答えると、最後にひとまき、虹はきらめきを残して消えていった。
☆☆☆
山に入ってから随分時間が立って、日差しがどんどんきつさを増してくる。
空はとても澄み切って、見上げる坂の先には、今いる山々よりもなお高い入道雲がずんと誇らしげにそびえている。
時折吹き抜ける風は土のにおいと、うっそうとした青臭いにおいを運んでくる。
木々はその暑さを楽しむように、少しでも多くの日の恵みを受けようと、枝いっぱいに葉をつけ、私たちに涼を与えてくれていた。
常用樹が中心の森は雑然としているようで、一定の法則でなりたっている様にも見える。
私は氷室神社を眼下に確認すると、その小ささに歩いてきた距離を実感した。
普段見慣れた鳥居や社が今は自分の手のひらよりも小さい。
「だいじょうぶ、おキヌちゃん?」
「ええ」
「ふわ、強いなあ。さすがに三百年もいた山の歩き方は分かってる?」
「幽霊だったから、歩いてはいませんけどね」
「そりゃそうだ」
「このあたりの森も、ずっと私と一緒に育ったから……。友達みたいなものですけど」
私の声に合わせて風が通り抜け、葉がこすれあってカサカサ音を立てた。
枝がゆっくり横に揺れて、木漏れ日がうつろい、やがて収った。
「おかえりなさいとでも言ってるのかな」
「どうでしょうね」
御山は私に取って、とても縁の深い存在だ。
麓の村で生まれ育ち、その恵みを受けて育ち、女華姫様と知り合って、妖怪退治のため人身御供として結界に入り、山の生き物たちと過ごす内に時間から取り残されて、やがて忠夫さん達と巡り会った。
私の一生の大半は(というと、それこそほぼ全てになるのだけど)この御山との関わりで成り立っている。
慣れない山歩きで疲れの見える忠夫さんに後ろを守って貰って、山道というよりは獣道を少し歩き目的の場所にたどり着く。
「ほら、ここ」
「ここは……。あ!」
私が来たかったのは、忠夫さんと初めて出会ったあのがけ下。
とてもロマンチックな出会いでは無かったけれど(なにしろ私は彼を殺そうとしたのだ)。
「ここで、聞いて貰いたいことがあるの」
「俺に?」
「うん。記憶の中であった、おかあさんとおとうさんにも」
別に神社で言っても良かったけれど、なぜかここに来て言いたい気がした。
みんなに感謝を伝えるには、ここが一番良いと思ったから。
ガードレール脇の展開場所、御呂地村が見渡せる場所に立ち、胸一杯に息を吸い込んで叫んだ。
「おとうさーん、おかあさーん」
そして、忠夫さんに振り返って、また声を上げる。
「私は…今でも元気です。この前、娘が出来ました。優しい旦那様も、側にいてくれます。二人の顔も、名前も、知らないけれど。精一杯生きて。いつか二人に会えた時に胸を張れるように、頑張るから。私たちの子を、立派に育ててみせますから」
こだまして広がり、やがて溶けいき、列なる山の向こうに面影を見る。
高い高い空と入道雲に向かって最後に一言、あの背中を想って呟いた。
「見守っていて、ください」
ずうっとずうっと昔の事だけれど、だけど確かに、確かにここにいた私の両親に向けて。
この声が届けばいいと思いながら。
「ね、忠夫さん」
「なんだい?」
「私、もしまた子供が出来たらね。その子に、一番に言ってあげたい言葉があるの」
「…どんな言葉?」
焦らすようにして、間をおいて。
夏の盛り、彩り溢れた命きらめく御山で、私は忠夫さんに告げた。
「生まれてくれてありがとう。私がお母さんよ、って……」
「……そっか」
「そう。さ、じゃあ元気よく山菜採りに行きましょう! 今夜は山菜づくしですよ」
「美味しい物ばっかりになりそうだね」
「ええ!」
☆☆☆
日が落ちきらない内にと下山して、神社の境内へと歩を進めれば、幾重にも重なった葉がさくさく、と鳴る。
微風に身を任せ、梢の揺らめきが指揮棒となり、鳥たちの重唱を手繰り寄せている。
私と忠夫さんの二人で手にした山菜の数々から香る青々しさに、少しばかり咽そうになりながらも、正面の社を見据えた。
境内には、お義姉ちゃんが一人掃除にいそしんでいた。
戻ってきた私たちを見つめるお義姉ちゃんの表情は、柔らかくも暖かな笑顔で、自然私をも笑顔にさせる。
「頑張ろうか、おキヌちゃん」
「はい、頑張ります。忠夫さん」
せせらぎの音が、風の中に生まれたように思った。
瞬間、私の眼は瞬時に見開かれていた。
そして同じように驚く忠夫さんにもきっと見えているのだろう。
お帰りと告げるお義姉ちゃんの声の向こう側に、その人は、女華姫様は居たのだった。
―――よかったの、おキヌ
たったそれきり。
姿も声も、風が連れ去っていったようにしじまに消えた。
だけれども、私にはそれで十分で。
懐かしいその面影は、時を経て早苗お義姉ちゃんに受け継がれているのだから。
今を、そしてこれからを一緒に歩いていってくれる大切な人たちが、愛しい我が子が、いるのだから。
「私、やり遂げて見せます」
それは約束。
古い古い、かけがえのないお友達との、そして私を包んでくれる大切な家族との、大事な約束。
―――この子の可愛さ限りない。山では木の数、萱の数。星の数よりまだ可愛、ねんねねんねや、おねんねや―――
子守歌が心に響く。
この歌を歌える喜びを胸に、私はまた一歩を踏みしめ、歩き出した。
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