7210

この子の可愛さ限りない 前編



「・・・・・・この子の可愛さ限りない。山では木の数、萱の数。星の数よりまだ可愛、ねんねねんねや・・・」

春香は腕の中で子守歌に揺られるように、にこやかに笑みを浮かべている。
この歌はずっとずっと昔にどこかで覚えて、誰から教えて貰ったのかすら思い出すことは無い。
だけどあたしはちゃんと覚えていて、きっと春香もこの歌が好きなのだろう。
どんなにぐずっていても、歌を聴くと穏やかになる。

「おねんねや」

この子が生まれてから、ちょうど今日で三ヶ月になった。
腕にぐっとかかる重みは健やかな春香の成長と、慌ただしく流れた日々を実感させてくれる。
暖かく柔らかい、小さな体はこの先どこまで大きくなるのだろう?
絹糸の様な細い髪をすぃと撫でると春香が笑い、右に垂らし纏めた私の髪を幼い手で触れた。

「……あなたもその内、きっと綺麗な髪が生えてくるわよ」



―――この子の可愛さ限りない―――



「おーよしよし、春香。お母さんそっくりになるといいだなー」

「だぁ」

まだ春香には早苗お義姉ちゃんの言うことなど分かるはずもないのだけれど、タイミング良くうった相づちがおかしい。

「聡い子だべ」

「ふふ、偶然でしょ」

私は出産前後から、氷室の実家に里帰りをしていた。
お義父さんやお義母さんは孫可愛さか、出来るならずっといなさいなんて言ってばかりで、もしかすると帰ると言っても首を縦には振ってくれないかもしれない。
お義姉ちゃんは相変わらずおっかなびっくっりだけれど、春香を本当に可愛がってくれる。

「ほーら春香、つかまえてみるべー」

お義姉ちゃんがゆっくり動かす指を捕まえようとして、時折声を上げながら春香は手を伸ばす。
すると、いくらか動いて疲れたのだろう。
程なく胸元で目をぱちぱちさせ、小さな小さな口からは軽いあくびが立った。
まぶたが重たくなってきたのを見て、早苗お姉ちゃんがささやいた。

「んじゃ、オラは布団取ってくるだで。おキヌちゃんはそのまま、寝かしつけてな」

「お願いね」



☆☆☆



「ねんねねんねや…」

くうすうと、タオルケットがわずかに上下する。
夏の光を存分に吸い込んだタオルケットは、胸のすく良い香りがする。
張り替えたばかりのい草のにおい、赤ん坊特有の甘い匂いも一緒になって部屋に漂い香る。
春香はもうぐっすり夢の中で、起さないようやさしく胸を撫でる。
手や足も私のこぶしよりもなお小さくて、指はまだぎゅっと閉じている。
たまに私の指を忍ばせると握りかえし、伝わる力が命の息吹を感じさせて頼もしい。

「ふとん、持ってきただよ」

声と共にお義姉ちゃんがお布団を運び込む。
綿の敷き布団と籐シーツ、春香と色違いのタオルケットが一枚。
籐シーツはちょっと硬さがあるのだけど、熱を持たないから今夜みたいな暑い夜にはとても嬉しい。

「悪いわね」

「何、気にすんな。可愛い姪っ子だで」

「・・・ありがと」

「それにしても。春香が忠夫のヤツの血を引いてる、ってのが信じられんなー。まあ、おキヌちゃんに似たんだろうけど」

「もう。お義姉ちゃんたら」

お義姉ちゃんは、しきりに春香は美人だ美人だってそればかりで。
だけど私は、少し面映ゆい。
一ヶ月ほど前に初めて、春香を村に連れ出した時のことをふと思い出す。
御呂地村は、都会であればきっとうち捨てられる古屋でさえひなびた情緒で佇んで、普段着の人たちがあくせくもせず猫と一緒にゆっくりと歩いている、そんな場所だ。
そこには見知った顔がいて、軒先の埃を掃き、庭の手入れをし、道行く車の中には耕耘機が交じって走る。

「まあまあ、可愛らしい事」

「いい子だべ」

「あは、すうすう眠ってるー」

暖かい、優しい言葉をいくらも貰って、本当に嬉しかった。
周りの人たちがくれる祝福に、涙が出そうだった。
だけど。
その言葉が心からのものであるほど、嘘のないものであるほど、私の胸がうずいた。
春香が生まれてから、少しずつ大きくなって、言葉に押されるようにしてじわじわ胸の中に広がり沈んで、やがて澱となって貯まっていった感情があった。

「春香、どんどんおキヌちゃんに似てくるだな」

いつの間にか、お義姉ちゃんが枕元に腰を下ろしていた。
寝入った春香を起こさないよう、気を遣ってくれたのだろう。
私は胸を締め付ける感情を気取られないよう、春香の頬をつつきながらつぶやいた。
いや、つぶやこうとした時、お義姉ちゃんがいぶかしげに問いかけた。

「……どした?」

「え? なに、お義姉ちゃん」

「……そんな、泣いて」

泣いて、って。
言われて初めて、頬を冷たいモノが滑り落ちるているのに気づく。
拭おうとして手をかざしても、後から後から涙は堰を切った様に溢れでる。

「あれ…どうしたんだろ…。やだ、ちょっとごめん…」

箪笥からハンカチを引き出すと、目元に当てしばらく立ちつくす。
気を落ち着けるために深呼吸をして何度か、ようやくお義姉ちゃんに振り返る。

「ごめんね、急に。変だね、あたし」

お義姉ちゃんの隣に座り直し、春香の寝顔を見た。
安心しきって、起きる気配も無い。

「…大丈夫だか? もしかして育児で無理かかってただか?」

「ううん、そんなんのじゃないの。ホントに…」

お義姉ちゃんの言葉にも、私はただ分からないと返すしかない。
だって、本当にわからないのだから。

「きついのならオラ達がいる。寂しかったのなら帰ってもいいし、忠夫を呼んでもいいんだぞ?」

「…ありがとう」

お義姉ちゃんに言われて、改めて忠夫さんに会いたいと思う。
忠夫さんは春香が生まれて一週間と少しこちらに滞在してからは毎夕電話で話すだけで、顔を見せてはいないから。
GSというお仕事は忙しい、売れっ子になれば余計だ。
事情は理解出来るのだ、頭では。
だけど。
大きくなった春香を抱き上げて欲しい。
頭を撫でてやって欲しい。
声をかけてあげて欲しい。
そう思っていたのも、嘘じゃない。

「全く、忠夫のヤツこんな可愛い奥さんと娘をほったらかしにしてから。とっちめてやらんとな。お前には全然似てないぞーって、こづき回しながら言ってやっから」

「やだ、喧嘩しないでね。顔会わせるとそうなんだから」

「覗かれまくった昔の腹いせもしてやらんと、割にあわねんだけどな。おキヌちゃんの頼みなら仕方ねーか」

肩をすくめるお義姉ちゃんの仕草が可笑しくて、かすかに笑う。
お義姉ちゃんは安心したのか、私の頭に手を乗せ幾度か撫でて、こう言った。

「頑張れ」

その言葉を最後に早苗おねえちゃんは自分の部屋に戻り、部屋には春香と私だけになった。
改めて寝顔を見てから少し、電気を落し眠りにつこうと横になる。
日の恵みを受けた柔らかさが、乱れた心をほぐしてくれる。
春香の横でしばらくうとうとしていると、風が頬を撫でた。
蚊帳をかけて部屋の障子は開け放っているので、そのおかげか、夜風が部屋を通り抜けたのだ。
体を起して縁側に出て、涼しさを体に受ける。
心地よさが鼻先をかすめて、あっけらかんとした高い空に戻っていった。
見上げてみれば、眼に入るのは、今にも落ちてきそうな星の群れ。
空の隅々まで輝いていて、なんで空が明るくならないのだろうかと不思議に思う。



☆☆☆



夜も更けた頃、春香の声にふと私は浅い眠りから目覚める。
しきりにむずがって、どうしたのと抱きかかえた。
口元のよだれをふき取り体を直すと、機嫌を直したのかにっこり笑う。
桜色の肌着に白の前掛け姿が、月明かりにほのかに照らされ光る。
気づけば部屋には涼しいと言うよりは寒気が入り始めていて、引き戸を閉めようと私はまた縁側に出た。
煌々と星明かりに照らされ、大きな御山が昼と変わらずそびえている。
男性的な峰を小さな春香がぼんやり見つめ、程なく私に顔を向けた。

「どうしたの? 」

腕の中でそっと揺すり、問いかけた。
不思議そうな顔を春香がするので、部屋に戻りタオルケットを巻き付けると、もう一度縁側に座ってふたりで山を眺めた。
私が三百年を過ごした御山は変わらずそこにある。
この時間は、ともすれば朧にかすむ幻なのでは無いかとさえ思える。
だけれども、今自分は確かに娘と二人、ここにいる。
それは間違いなく現の出来事なのだ。

「私ね、あの御山にずっといたのよ」

聞かせるでもなく、つぶやく。
今の自分の境遇を、あの頃は想像もしなかった。
出来もしなかった。
御山に生きるみんなは本当に良い友達で、だけど、私は一人。
いつまでも、一人で。

「ぶ?」

「・・・どうしたの」

春香の鼻頭につぃと指を滑らせる。
忠夫さん達と最初にあったのは、どのあたりだったかな。
色の深さが違う山肌に視線を走らせていると、春香が笑った。

「ふふ、あなたに分かるのかしら」

薄絹の頭を撫でる。
春香の顔に浮かぶ笑顔に、私も、ふと笑顔になる。
可愛い。
この子は、なんて愛らしい。
本当に、この子は私の宝。
この子の為なら、なんだって出来る。
ルシオラさんの生まれ変わりだとか、そんな余計なことは、生まれたときに全部吹っ飛んだ。
お産の苦しみを乗り越え生まれた我が子を抱きしめた瞬間を、私は忘れない。
だけど。

おしめを変える時。
ミルクを吐き出した時。
体をふいてあげる時。
熱を出した時。
背中をさする時。
夜泣きする時。
春香を、胸に抱いている時。

春香が愛おしければ愛おしいほど、沈殿した澱をすくい上げられ掻き回され、感情の池は濁りを増す。
私はこの子に愛情を注いであげられるのだろうか。
これからずっと変わりなく、可愛がってあげられるのだろうか。
不意に春香を抱く手に力がこもる。
孤児だった私は、寺で育てられた。
昔の記憶はかすんでしまっているけれど、そこには同じように孤児となった子供達が大勢いて、私は年長者としてその子達の面倒を見ていた。
ひのめちゃんの面倒にしても、せわしい隊長さんよりもかえって私が見ていた時間が多いくらいだ。
でも、じゃあ今は?
自分の子供に、春香に愛情を注いであげられているのだろうか。
今の自分は、自分の知らない母親というものを演じてるだけで、それは的外れのあてずっぽうなんじゃないだろうか。
まるで見当違いな、愛情だと思いこんでいる身勝手なわがままを押しつけているだけじゃないんだろうか。
もしかすると、私はこの子を本当は愛していないのかもしれない。

「やだな…」

深いため息をついた時、胸元の春香がくしゃみをした。

「あ、寒くなって来たかな。部屋に戻ろうね、春香」

引き戸を閉めて、もう一度蚊帳の中で横になると、春香はすぐにうとうとし始める。

「・・・星の数よりまだ可愛い」

つと、子守唄が口をつく。
私の胸に、小さな小さな、痛みが走る。

「私、母親になりました・・・」

顔も名も知らない両親に話しかけても答えてくれる声は無く、気の早いコオロギがリリリと鳴くばかり。
風のそよぐ音や虫達のさざめきが遠くなっていく。
意識がだんだん世界を狭くしていって、もう春香の息しか聞えない。
子守歌をもう一度ささやくように歌う。
巡り巡る考えも徐々に薄れていって、やがて夜に溶けていった。



☆☆☆



「おキヌちゃん、そっち干してくれるかー? 」

「はぁーい」

翌朝、空はすっかり晴れ渡り日は勢いよくあたりを照らす。
木々の葉が日の光を一杯に受けようと隅々まで体を伸ばして、庭も山も、たくさんの緑であふれかえって、吸い込む空気にも、ほんの少し刺激的で爽やかな香りが溢れている。
私はせっかくのお日様を逃すまいと、洗濯場と庭を往復していた。
忠夫さんと二人きりの時とは違って、家族五人分ともなると量が多くて結構大変。
お義姉ちゃんと分担して、物干しに洗い上がった物から順番に持っていき端からかけていく。
慌ただしい中でも春香は赤ちゃん用の籠に収まって、機嫌良くしてくれている。

「いやーしかしよ、春香は手がかからねえな。友達の子なんて、夜泣きは酷いし食べたものはすぐ戻すし熱は出すし、大変だったらしいのに」

「そうなっちゃうと、確かに大変よね。春香はその点、大人しいっていうか」

「とっちゃでも面倒が見れるくらいだからな」

「お義姉ちゃんを育てたの、お義父さんでしょ」

「とっちゃ、なあ…」

お義姉ちゃんはなにやらぶつくさ呟いた。
見てみれば、男物のTシャツやパンツを掛けている。
別に触るのがイヤだと言うわけでもないのだろうけど、いかめしい顔つきで干していく様はあんまり楽しそうにも見えない。
お義父さん以外は全部女物だからどうしても隅に隠れるように吊されるし、ちょっとだけ気の毒だと思う。

「お義父さんにお義姉ちゃんの育児を聞いたら、なんて言うかな」

「よしてけれ、こっぱずかしい」

お義姉ちゃんの動きは、やや荒さを増す。
昔おしめを替えてやったなんて言われるのはごめんだと言いつつ、パンパン手で叩きしわを伸ばしていく。

「ふふ。お義父さんいい人だしね。春香がすくすく育ってるのは、いいおじいちゃんに恵まれたからかもね」

ね、と呼ぶと春香はだぁと声を上げる。

「あはは、春香は優しいだな」

「おじいちゃん、大好きだもんねー」

「今頃本堂でくしゃみしてるかもよ」

「そうかもね」

今頃は、お義父さんは朝のお勤めの時間だ。
生真面目なお義父さんはおじいちゃんと呼ばれてもなお、玉垣に囲まれたこの氷室神社の一切を取り仕切る。

「キヌー」

廊下の奥から、お義母さんが声を上げた。
なぜだろう、とても朗らかに笑っていた。

「お義母さん、どうしたの?」

「忠夫さんから電話よ。早く出てあげなさいな」

「え…あ、はい!」

昨日の事もあって、存外に嬉しい一言だった。
私はつっかけを脱ぎ、お義母さんに春香を、お義姉ちゃんに洗濯物を頼み、玄関近くの電話まで急ぐ。
氷室の家にあるのは今時珍しい黒電話で、ジリリリと力強い音が鳴る。
私はこの音が大好きだ。
なぜって、受話器の向こうで待ってくれている人の気持ちを伝えてくれるような気がするから。
ずしりと重い受話器を手にとって、耳に添えた。
ひんやり冷たい感触と一緒に聞えてきたのは、弾む忠夫さんの声。

「おはよ、おキヌちゃん」

「どうしたんです、こんな朝早く」

いつ聞いても元気で一杯な忠夫さんの声が、私の頬を自然とゆるませる。
つい人差し指を電話線に巻き付けてしまうのは、浮き立つ気持ちを抑える為だろうか。

「声が聞きたくなったから、ってのはダメ? 」

「・・・新婚じゃないんですよ、もう」

「はは。春香は元気にしてる?」

「ええ。こっちでのんびり、すくすく育ってますよ」

「そか。いや、ICPOから依頼のあった件が今日解決してさ。久しぶりに、二人の顔も見たくなったんで、今そっちに向かってるんだ」

「もうこっちに、ですか?」

「うん。多分昼までには着くと思うから、ご飯の用意とかしといてくれると助かる」

「分かりました。気をつけて来てくださいね」

「じゃ、また後で」

用件だけ伝え、忠夫さんは電話を切った。
もう少し話していたかったけれど、すぐ会えるのだからと自分を納得させて受話器を置く。
チン、と高い音がした。
そして、黒電話はまた次の電話を待つ。
どこかからか着信があれば、また力強くベルの音を鳴らすんだろう。
私もまた、お洗濯物が待つ庭にとって返した。
お義母さんは春香をあやしに庭を散策しているみたいで姿が見えなくなっていて、お義姉ちゃんが一人せっせと洗濯物を干していた。

「忠夫、何時に来るって?」

「お昼には着くって。急にどうしたんだろうね」

「おキヌちゃんのお乳が吸いたくなったんでねーか?」

「お、ちちっ?!」

思わず咳き込む。
抱えた洗濯物を落とさないようなんとかしのぐと、私は猛然と抗議の声を上げた。

「もう、やだ! 朝から何言ってるのよ」

お義姉ちゃんに険しい目線(少なくとも私はそのつもり)を送る。
それだけで済ませば良かったのだけど、言葉を続けたのが不味かった。

「忠夫さん、最近はちちしりふとももーとか叫んだり、お風呂を覗きに来たりしないんですからね。ちゃんとしてるんです」

そうすると、尻尾を捕まえたとばかりに早苗おねえちゃんはにやりと笑う。

「へえ〜。最近は、ねえ」

「え…! あ、その…」

意味に気づくけど、もう遅い。
私は罠に飛び込んでしまったのだ。
耳まで真っ赤になって、恥ずかしさのあまり硬直したあたしをお義姉ちゃんはニヤニヤ見つめて言う。

「ふふふ。じっくり教えていただきましょうか」

「いやー」

洗濯物をほっぽり出して逃げようとしても、悲しいかな洗濯物はこれで終わりだ。
結局お義母さんが帰ってくるまでお義姉ちゃんの追求は続いて、私はすっかりへとへとになってしまった。

「ま、忠夫が来てくれるんなら良かったでネエか」

お義母さんが戻ってくると満足したのか、それともバツが悪かったのか、お義姉ちゃんはそそくさ家に上がっていってしまう。
私はお義母さんから春香を預かると、やれやれとばかり縁側に座って空を見上げた。
日差しは強さを増して辺りの色を一層濃くして、入道雲は高く山の稜線すら越えてそびえて、それが空を広がりをより強調していた。

「お義姉ちゃんも忠夫さん来るっていうと、急に悪戯っぽくなるんだから…」

二人は親族になっても相変わらず漫才ばかりしている。
今でこそすきんしっぷなどと言うけど、早苗お義姉ちゃんの忠夫さんへのイメージは最低だったものだから、結婚する時は大変だった。
だけど、最近になってようやく認めてきてくれたのか、昔のように目くじら立てることはあまりない。
代わりに、お義姉ちゃんまでが忠夫さんっぽくなってきたのが頭痛の種だ。
普通、似てくるのは夫婦なはずなんだけど。



☆☆☆



お昼に半時ほど早い時間、太陽が中天に昇りきる前、甲高いエンジン音が聞えてきた。
忠夫さんの車はスポーツタイプで排気音や駆動音も結構うるさいから、この辺りでは余計響く。
祭事も特にない日には出入りする人は限られているし、車を寄せればすぐに分かる。
食卓の用意はもう済んでいる。
早速迎えに出ようとすると、なぜだかお義姉ちゃんもついてきた。

「ま、あんなやつでも可愛い妹のだんなだで。迎えにいってやっぺ」

「もう」

どんな時でも憎まれ口を忘れないのは、一体誰の影響だろうか。
一緒に玄関でサンダルを履き、駐車場への通り道でもある大鳥居の方に歩く。
日差しが強くて日傘があれば良かったかもと思うけれど、そこまでの距離でもない。
中途半端に浮いた手をぶらつかせると気が急いたか、つい早足になってしまい、お義姉ちゃんが私に待ってと声をかける。

「あ、ごめんなさい」

立ち止まり、つと小走りで駆けてくるお義姉ちゃんを見て、思う。
もしかして、忠夫さんは自分で来ようと思ったんじゃなくて、早苗お義姉ちゃんが呼んだんじゃないだろうか。

「ほらいくべ」

さっと追い越して、今度は先を進むお義姉ちゃんの後ろ姿は何も教えてはくれないけれど、私はそっと頭を下げた。

「うん、いこっか」

今度は一緒に、肩を並べて歩く。
木陰を選んで歩いて、程なく大鳥居が見えてきた。
この前塗り直したばかりの鳥居は日を受けて紅色に輝いて、青空と緑の中でどこか艶めかしい。
その袂、手水舎《ちょうずや》に人影があった。
忠夫さん、だ。
日差しが強かったせいか喉が渇いたのだろう、ひしゃくで水を飲んでいた。
遠目にもわかるくらいな無精髭を生やし、スーツにはよれが目立っている。
ただでさえ最近忙しい上に、GSは夜のお仕事。
きっと今日も徹夜明けだったのだろう。
それでも駆けつけてくれた忠夫さんがありがたく、感謝を込めて挨拶をしようとして、声が被さる。

「おかえりなさい、忠夫さ・・・」

「久しぶりだな、忠夫」

「おー早苗。会いたくもなかったけどなー」

「顔見せねーから、てっきり幽霊にやられたもんだとばっかり思ってただ」

「まさか。お前に泣きべそかかせてやるまでは死なねーよ」

「女の幽霊のケツ追いかけてどっかいっちまえばいーのに」

「お前の貧相なケツよりはマシそうだなあ」

私が挨拶するより早く視線を戦わせて、鼻白むこともなく二人は臨戦態勢に入る。
ホント、頭痛い。

「あああ…」

私、考えすぎだったのかしら。
全くもう、この二人変なところで仲いいんだから。
いつも私を置いてけぼりで、ああでもないこうでもないって楽しそうにやりあうのだ。
自分の奥さんが誰だったか、覚えてるのかしら。

「ほら、もう止めて。春香も待ってるんだからね」

「おキヌちゃん。いや、こいつがさ、あ、えと、その。……ただいま」

ようやく忠夫さんが、顔をこちらに向けてくれた。
気まずそうに後ろ頭に手を回して、ぼりぼりとかく。
昔から変わりない、何かごまかしたい時のポーズ。
ほっぽらかしたことを気にしているのかも知れないけど、お義姉ちゃんとやりあう姿に疲れは全然見えない。

「はい、お帰りなさい」

嬉しさで、つい手を引いて戻ろうとしたら、鳥居の向こうから仲が良いわねと穏やかな声がした。
お義母さんがここまで春香を抱いて連れてきてくれていた。
慌てて手を離すと、お義母さんは照れることないじゃないなんて笑う。
どうしてだろうか、お義母さんの前だと浮ついた気持ちをしているのが気恥ずかしい。

「おかえりなさい、忠夫さん」

「あ、どうもです。ただいま戻りました」

「ほら春香ちゃん、お父さんよ」

お義母さんが忠夫さんの手へ、そっと春香を移す。
まだ据わりの悪い首に腕を添えると、すっぽり胸に春香が収った。

「お、また大きくなったな春香ー」

嬉しそうに春香をあやす忠夫さんとは対照的に、みるみる春香の顔が崩れていく。

「おぎゃぁぁぁぁ」

「わっわ、あれ。春香、お父さんの顔覚えてないのか? 」

「あはは、知らない人がいると思ってびっくりしたんでしょ」

忠夫さんは困った顔で、なんとか泣きやめようとさすっているけど、効果は全然無い。

「でもここまで育ったんだからなー。親はなくともなんとやら、だべ」

「あんだとー」

また早苗お姉ちゃんと忠夫さん、二人の視線が交わる。
どことなく火花が散ったりしているように見えるのは、気のせいでは無いと思う。

「全く、二人とも大人気なく、怒ったりしないの」

「いや、でも早苗がだな」

「ほぎゃぁぁぁ」

いよいよぐずる春香を忠夫さんから私の胸元に、ばたばた動いて全身でむずがるのをだっこして落ち着かせる。
こうですよ、と春香が落ち着く抱き方を忠夫さんにしてみせる。
右腕を頭の支えに、胸元に少し寄せるようにしてそっと抱き上げた。
すると顔を見て落ち着いたのか、それとも本当に忠夫さんにびっくりしただけだったのか、春香はすぐ泣きやんだ。

「ふへー。やっぱり、母親は凄いよなあ。春香も春香で、顔がきっちり分かるんだ」

感心した風に、忠夫さんが言った。
母親。
母親、かあ…。
お義母さんみたいな。
アタシは、ちゃんとやれてるの?
忠夫さんの言葉はまるで熱せられた蒸気みたいにすぐ冷えて水滴となって落ち、私の中で波紋となって広がっていった。

「おめーの顔は分かっても泣くと思うけどなー」

「お前なあ…」

「はいはい、もうそこまでにしてください。忠夫さん、除霊作業が終わった後すぐでしょ? お風呂沸いてますから、とりあえず入ってきてくださいな。汗臭いと、春香に嫌われますよ?」

「そりゃ大変。これ以上娘にびっくりされたくはないもんな。すぐ入るよ」

「あーあー」

春香がまたむずがる。
どうしたんだろう。
お尻のあたりをもぞもぞしてる。

「あら、おしっこしちゃったのね。忠夫さん、私おむつを変えてきますから。部屋に上がって、用意しててください」

「わかったよ」

「春香、行こうか」

すると、ずっとにこにこ見ていたお義母さんが言った。

「おキヌは春香を見ておいで。忠夫さん、お食事も用意出来てますからね。とは言っても、おキヌが用意したものですけど」

「すみません、お義母さん」

あっと言う間もなく、お義母さんが忠夫さんをお風呂に引っ張っていってしまった。
早苗お義姉ちゃんと違って(本当の所お義姉ちゃんもそうかもしれないけれど)、今ではすっかりお義母さんとお義父さんは忠夫さんの事を気に入ってしまって、帰ってくる度あれこれ世話を焼きたがる。
最初はやっぱり、印象良くなかったみたいだけど、ね。
でもそれも、当たり前っていうか、連れて行かれちゃったのはちょっとだけ悔しいんだけど、私は嬉しくなる。
忠夫さんが来ると、すぐに雰囲気がぱぁって明るくなるから。
人が集まって、場が華やいでいく。
どんな人も、どんな形であれ、一緒になって楽しく、騒がしく。
それは、出会った昔から変わらない。



☆☆☆



「はい、これカボチャの煮付けです。後、こっちがアスパラの塩ゆで。マヨネーズありますから、トマトにも付けてくださいね。ショウガ焼きに豚肉のニラ巻なんかもありますけど」

「うわ、美味しそ。いやさー、一晩ぶっ続けの除霊だったからお腹空いちゃってたんだよねー。早速、頂きます」

畑で取れた夏野菜が食卓を彩る。
忠夫さんはいつもの調子でがっついて、勢いよくお皿のおかずが無くなっていく。
追加で作らなくちゃ駄目かしら。
隣に座ってゆっくり見ていたかったけれど、そんな暇もなさそうだ。
冷蔵庫から鮭を取り出し、用意しているとお義父さんが本殿から戻ってきた。

「はは、落ち着いて食べなさい」

きっとお義母さんから聞いたんだろう、お義父さんも食卓に腰を下ろす。
せっかく二人きりだったのに、もうちょっと気遣いをしてくれてもいいのに。
焼き色を見ながら鮭の表を返すと、食卓からは早速笑い声が立った。
久しぶりだね、お義父さんはそう声をかけると、どこから持ってきたのか冷えたビールを出し、早速忠夫さんにお酌をした。
苦い顔をしながらも断り切れない忠夫さんは、結局グラスに口をつけてしまう。
すだれ越しにそれを見て、お昼からダメですよって注意したけど珍しく意固地なお義父さんに聞く耳は無い。

「もう、二人してなんですか。忠夫さんも、ご飯食べてるのに」

「いいじゃないかね。息子が久しぶりに家に帰ってきたんだ。仕事も終わってるんだし、父親と一緒に酒を飲むくらいいいだろう」

「時間が問題だって言ってるんです。・・・ほら、鮭焼き上がりましたよ」

細長のお皿にのせ、焼き目の付いた皮を表にして差し出すと、忠夫さんは嬉しそうに箸を入れた。

「ま、ま。いいじゃない。お義父さんも深酒する訳じゃないからさ」

「そうさ。な、忠夫君。実はな・・・」

諦めたのかなんなのか、くいと空けると忠夫さんもねえと相づちを打つ。
二人の笑い方ったら無くて、食事を出してるあたしの事なんかすっかり忘れて盛り上がってる。
それが楽しそうで、余計憎らしい。
結局、後片付けをやりつつお台所から二人の楽しそうな声を聞いているだけになってしまう。
空いた皿から下げていき、水を張ったつけ置きシンクに入れて汚れを浮かす。
一段落して食卓を見ると、男二人は変わらず盛り上がっている。
屈託無い笑顔、久しぶりに聞いた忠夫さんの声に、ついついまあ今日くらいはいいのかなって気もしてきてしまう。
どうしてなんだろう。
私、早速みんなに忠夫さんを取られて、拗ねちゃってるのかな。
それとも、ただ甘いだけなのかな。

「仕方ない、か」

ぬか床を探って何本か茄子とキュウリを取り出し洗って、色よく盛りつける。
膳に乗せて運ぶのと同じに腰を下ろすと、今はこれだけと念押しをした。

「お義父さんはお勤めがあるんだし、忠夫さんも仕事明けであんまり深酒したら夜までぐっすりなんてなりかねませんから。春香だって、寂しがりますよ」

「えー」

忠夫さんの情けない顔ったら、無い。
ちょっとだけさっきの憂さを晴らせて胸がすく。

「仕方ない、この続きは夜ですね。お義父さん」

「そうだね、今はここまでにしておくか」

そんな事を言いながらも、グラスに残ったお酒を飲み干さずにあれこれ、いつまでも食卓を立とうとはしないのが子供っぽくて可笑しい。
喫茶店に良くいる、カップの底に何センチかコーヒーを残す勤め人みたい。

「で、二人はどんなお話ししてたんです?」

私も輪に入って、春香の事、最近の事、除霊の事、神社の事、他愛ない色んな事。
みんなして話に花を咲かせて、程よく酔いも冷めて来たろうかと言う頃にようやく、お義父さんが席を立った。

「じゃあ、忠夫君は少し休みたまえ。後で手伝いでもしてもらおうかな」

「はい、じゃそれまで横にならせてもらいます。おキヌちゃん、ありがと、美味しかったよ」

「お粗末様でした」

お皿を受け取り、つけ置きシンクに入れる。
ぬか漬けやお肉、お魚の匂いはちょっと洗った位じゃ落ちない。
春香が生まれてからは気にしすぎなのかもしれないけれど、石けんでささと洗い流すといくらかは匂いが軽くなった気がした。
綺麗になった手で急須に茶葉を入れ、軽くお湯をかけ蒸らすと緑茶の良い香りが立ち、じんわり鼻腔に染みこんでいく。

「はい、おいしーいお茶が入りましたよ」

「ありがと。はは、こりゃ美味しそうだ」

お互い湯飲みに口を付けゆったりとしていると、忠夫さんがつぶやいた。

「ね、春香は寝てるかな」

「春香なら、お義母さんがあやしてくれてると思うけど。お酒臭いのに春香抱く気ですか?」

そんなならお酒飲まなければいいのに、と抗議の視線を向けると忠夫さんは気まずそうに横を向いてしまう。
全く、この子供っぽさはいつになったら直るのやら。

「いや、お義父さんがお疲れ様、って勧めるもんだからさ。つい、ね」

「お義父さんは口実があればいいんですから・・・。忠夫さんが来ると、飲みたがるんですもん」

「女所帯だからね、俺が来ると飲みたくなるんだろ」

「そうかもしれないですけど。ほんと、お義父さんがお昼からお酒飲むなんて」

「今日は特に予定も入ってないから、本堂とかの掃除とか、本とか古文書の虫干しくらいしかやる事ないらしいし。そんな目くじら立てないでくれよ」

「目くじらなんか立ててないですよーだ」

やっぱり、忠夫さんがいてくれると嬉しい。
言葉一つ一つが瑞々しさを取り戻して、それが私の心を華やかにする。
沈んでいた気持ちも明るくなっていくよう。
大丈夫。
そう思った瞬間、目尻が熱くなるのが分かった。

「…あ」

心の底からわき出した感情が、澱を巻き上げ濁らせる。
一瞬目の前が暗くなり、忠夫さんがきょとんとこちらを見ていた。

「・・・おキヌちゃん?」

「え、あ。ごめんなさい。…ほら、忠夫さん休んでくださいな。疲れてるでしょ?」

「大丈夫だよ、二・三日の徹夜くらい、慣れてるからさ」

ほら、と力こぶを作って見せる忠夫さんの笑顔は晴れやかで、私は一層胸が苦しい。

「かもしれないですけど、お義父さんにも呼ばれていたでしょ? 少しはお布団で寝てください」

「・・・そっか。じゃあ、少しそうさせてもらうよ」

お茶を飲み干しもう一度ごちそうさまと手を合わせると忠夫さんは部屋に行き、ぽちょんとシンクに水が落ちて、それきり食卓からは音が消えた。
外はうるさいくらいに蝉が賑やかなはずなのに。
食卓に手を伸ばし頭を乗せ、ふうと深く息をつく。
嫌だな、もう。
忠夫さんも来てくれた、お義父さんもお義母さんも嬉しそうだ。
早苗お義姉ちゃんだって、あれで喧嘩を楽しんでるのだろうし、春香もすぐに慣れて笑うに違いない。
別に何がある訳じゃない。
今だって毎日幸せで、忙しくて、充実して、疲れもするけどそれが心地よくて。
時折感じるさざ波が、ずきずきして気になっているだけ。
でも少しづつ少しづつそれが大きくなっていくのは、なぜだろう。
それはお互い打ち消すことなく反射して、より大きくなっていくみたいで怖い。
母親を、きちんとやれている?
誰かが聞けば笑いそうな、だけど止めどない不安が心を少しずつ、でも確かに心を浸食していく。
自分自身への疑問。
母親である、自分への違和感。
大きくなっていく、気持ち。

―――私、頑張っているじゃない。

だけど、言葉は空しく上滑りしていく。
頑張れば頑張るほど、どんどんずり落ちていく蟻地獄の蟻みたいに。
忠夫さんに甘えようかとも思った。
さっきだって、口にすれば良かったのだ。
出来なかったのは、忠夫さんがお仕事を頑張ってくれているからだろうか。
一生懸命、家族のために、それこそ命がけなキツイ仕事をこなしている。
ただでさえ今は離れて暮らしているのだから、余計な心配をかけたくないと感じてしまう。
私に出来ることは、私が解決しないと。
そう、思ってしまう。

「しっかりしろ、キヌ」

ぐじぐじ考えていたって仕方ない。
春香の世話も、神社の雑務も、家事だってやる事は毎日たくさんあるんだから。
勢いを付けて立ち上がり、私は敢然と汚れ物に立ち向かっていった。


長くなってしまい、あれこれ問題があったので分割しました。
後半へどうぞー。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]