『それで始まっちゃった物語』
時の流れとは無常である。
例えどれほど願っても過去に遡ることは出来ない。
もっともこの事務所に関してはそういう奇跡をこなす人間がいるがそれは例外中の例外。
呆然とした表情を隠そうともせずに濡れた世界地図を眺めている横島忠夫もその一人だ。
今は色々な理由で時間遡行は禁止されているが、見られてはいけない場面を見られて口から魂出して震えているタマモは横島が時間を逆行出来る可能性を持っていることも、美神親子ならば雷の力を借りればある程度の時間移動が出来るということも知るはずがなかった。
知っていたら願っただろう。
好きなキツネうどんを一週間我慢してでも望んだだろう。
「私を昨日の夜まで戻して頂戴」と。
神族や魔族が禁止しているとかどうとか関係ない。
ことは乙女の尊厳の問題である。
とはいえこのまま呆然とした顔を突き合わせていても埒は開かない。
もっとも呆然の質は横島とタマモで微妙に違ったがそんなことはどうでもいい。
今は被害を最小限に抑えるのがタマモにとって最重要の課題なのだ。
場合によっては口封じの必要性もあるだろう。
そこまで覚悟を完了しニヤリと邪笑を浮かべたタマモに生命の危機を感じたか、それとも何か思うところがあったのか横島は「ふーっ」とやたらと重い息を吐く。
そのいかにも疲れたという様子にタマモの殺気は粉みじんに吹き飛んだ。
「な、なによ…」と問う声にも怯えが滲んでいる。
「まあなんつーかアレだ…」
どれだ?って言うかバカにするならハッキリしろ。
もういっそ一思いにやってくれとやさぐれるタマモに横島は彼女が思ってもいなかった温もりのこもった視線を向けた。
「…とにかく証拠を隠滅したい…違うか?」
「えっ…」
確かにさっきはそう思っていた。
その最初の一撃として目撃者を消そうとしていたというのに横島は理解のある台詞を吐く。
つまり…
「秘密を抱いて死んでくれるのね横島っ?!!」
「あほうっ! いきなり物騒なことを言ってるんじゃねー!! 俺が言っているのはそのシーツを何とかしたくはないかってことだ!」
「そ、それはそうだけど…」
しかしこっそり洗濯するにしても洗濯機を回せばおキヌに気づかれる。
それに手に触れた感触は水害被害がベッドのマットレスまで貫通していることを伝えてきている。
よくはわからないが事務所にある洗濯機はこんな大物を洗えそうには見えない。
状況は八方塞りのはずではないか。
横島にこの状況を改善できるとは思えないし、もし出来たとしても後からどんなことを言われるかわかったもんじゃない。
下手をすればセクハラされるかも。
タマモの表情から彼女の逡巡の意味を理解したのか横島はもう一度溜め息をついて窓の外に遠い視線を向ける。
「実は俺もな…ガキのころ寝小便してオカンにしこたま折檻されてなぁ…」
「そうなんだ…」
そうだろうそうだろう。
自分ですら失敗したのだから横島みたいなお馬鹿が失敗していないはずはないではないか。
どうやら邪な考えからタマモを助けようとしているわけではないらしい。
なんとなく親近感あるいは同族意識が芽生えてくる。
そうだ。この屈辱は体験したものだけが理解し合えるものなのだ。
言ってみれば二人は戦友。
同じ…じゃないけど布団を汚した仲間同士。
「だからお前の隠したいという気持ちは痛いほどわかる…」
ウンウンと頷く横島の顔が青いのは過去の折檻の恐怖が再現されているからなのだろうか。
なんとなく貰い泣きしそう。
ああ、だけど、今の自分にとってなんて優しい言葉だろう。
熱いものが胸の奥からこみ上げてきて少女はそれを抑えるかのように手を胸にそえる。
掌に伝わる鼓動は思いのほか早く頬も熱をもってくる。
湧き上がる衝動を抑えるなんて出来そうに無い。
今はこの感謝の気持ちを体で伝えようとタマモは両手を広げて横島に飛びついた。
「ありがと横島っ!!」
「ぬうっ!?」
避けられた。
壁に激突してぶつけた鼻が痛い。
じんわりと目に涙が浮かぶのは体の痛みか友に裏切られた心の痛みか。
「なんでよけるのよっ!!」
抗議の視線と声に横島は困ったように頬を掻くと、まるで「チキンだから鶏肉と一緒かと思った」と嫁の作った〇ーチキン入りの茶碗蒸しを食べさせられた夫の表情で今日三回目の溜め息を吐き出した。
「せめて下を取り替えてからにしてくれんか…」
「もう乾いているもん!」という抗議は乙女として封印することにした。
とりあえず速攻でシャワーを浴び、下を履き替え、脱いだものをスーパーのレジ袋に押し込んで弁当よろしく片手にぶら下げたタマモが屋根裏部屋に戻ってみると、横島は大地図が描かれたシーツを前に感心した様子で頷いていたりする。
途端にタマモは顔から火が噴きだした。
自ら買って出た共犯者に証拠を見せないわけにもいかないとは思うがやはり恥ずかしいものは恥ずかしい。
横島の目に大いなる憐憫と幾許かの畏怖が宿っているから尚更だ。
「な、なによ…」
「いやなぁ…」
シミジミと呟く横島の口を封じなきゃと思ったのは霊感か。
絶対きっと100パーセント確実にアイツはとんでもないことを口走る。
その確信はあったけど羞恥で焼きついた神経は思うように動いてくれない。
「タマモ…お前さ……意外と膀胱でかい?」
「なうっ!」と奇妙な悲鳴とともに仰け反るタマモに、だってなぁと肩をすくめて横島が目を向けたシーツの地図には五大陸はおろかムーやアトランティスなんかのロストワールドまでもが記載されていたりする。
小柄なタマモとその面積の広大さがどうにもマッチしない。
しかしこれははっきり言って横島の失言。
言葉の暴力に少女が涙を撒き散らして抗議の叫びを上げるのも当たり前だった。
「膀胱言うなぁぁぁぁぁ!! でかいとかも言うなあぁぁぁ!!」
「ば、ばか! 静かにしろ!! おキヌちゃんたちに気づかれるぞ!」
「ぐす…だ、だったら…でかいとか言うな…」
「あー。泣くな泣くな。すまんかった謝る。とにかく今はこれをなんとかしよう!」
「ぐす…でかくないもん……」
「よしよし…」
言いたいことはまだまだあるが子供をあやすように頭を撫でられて反論を封じられてしまえばタマモとて否応はなかった。
子供じゃないと振りほどくには目の前の世界地図の存在感は大きすぎる。
だからこそ今は証拠の速やかな隠滅が最優先なのである。
横島の暴言に対する落とし前は優先事項の二番目に格下げしても問題はあるまい。
タマモは賢いキツネなのだから。
さてとりあえずシーツを丸めて先ほどのレジ袋に放り込み、横島はよっこらせと掛け声をかけてベッドのマットレスを持ち上げた。
「それどうするの?」
「干さなきゃないだろう。なんとかおキヌちゃんたちの目を盗んで外に出さなきゃな」
「でもシーツとか洗ったらバレるんじゃない?」
事務所のお母さんでもある女子高生の少女は普段はトロいのにそういうところに目ざとい。
自分が知らないのに洗濯機が動いたことは必ず彼女に知れるだろう。
追求されては誤魔化しようがない。
何しろ自分は今まで家事の類をやったことがないのだから、突然思い立って洗濯しましたなんてあまりにも不自然だろう。
ああ、こんなことならちょっとぐらい手伝っておけばと思っても後の祭りである。
日頃の行いは大事なのだ。
「コインランドリーを使うさ」
聞きなれない言葉にキョトンと首を傾げるタマモに横島はコインランドリーを説明してやった。
説明が進むにつれタマモの表情に明るさが戻ってくるのは希望というものが見えてきた証拠だろう。
「ふむふむ…つまりは洗濯機を貸してくれるのね」
「そうだな。どうせ俺も洗濯物があるから丁度いいし」
「あ、そうなの?」
「ああ。だけど問題はこのマットレスだな。まあ干すだけだからここの屋上でもいいだろうけど」
横島の説明によればさしものコインランドリーもマットレスまでは対応していないとのことだ。
なんでも布団の類は自分で洗うとえらい事になるらしい。
また一つ賢くなったが原因を考えればちょっと情けない気持ちになるのも否めなかった。
どんよりと凹み始めたタマモに横島はよっせと掛け声をかけてマットレスを預ける。
重いけれどこの場合は仕方ないとタマモは凹む心を叱咤して、自分の背丈より大きいマットレスを抱えて歩き出した。
こういうのは男が持つもんじゃないかしら?と思わないでもないが、流石にマットレスを干す原因を考えるとそれは恥ずかしい。
嗅がれたら嫌だし、やっぱり申し訳ないので横島の先導に従ってひーひー言いながらも廊下に出る。
マットレスの陰になって前が見えないから横島の先導だけが頼りだった。
「あれ? 横島さん、タマモちゃんはまだ起きませんか?」
「お、おキヌちゃん?」
頼りの横島は斥候の役目を果してくれなかった。
いきなり階段を上がってきたおキヌと出くわしたのである。
軍隊なら降格ものだ。
タマモはマットレスの陰になっているからおキヌからは見えないが、それでもなんでマットレスを持ち出しているのかと追求されるとヤバイ。
マットレスの陰でダクダクと嫌な汗をかきはじめるタマモには気づかないまま、おキヌは頭の上に疑問符を浮かべて階段を見上げる。
横島の変わりにタマモを起こそうと彼女が階段を上がってきてしまえばゲームオーバー。
任務は失敗に終わる。
そんな一触即発の危機に咄嗟に動けたのは横島だった。
「おキヌちゃん逃げてっ!」
「へ?」
「塗りかべが出たっ! 俺が退治するから部屋に避難するんだ!」
以心伝心。
タマモは横島の意図を正確に把握する。
ここは一発フォローをしなくては。
「ぬり〜!!」
「ああっ! 塗りかべが吠えているっ! 早く逃げてっおキヌちゃん!!」
「は、はいっ!!」
大慌てで逃げ出すおキヌにすまんと目で謝って横島とタマモは屋上へと駆け上がり、マットレスを干す。
さらに返す刀で屋根裏部屋へと戻り、レジ袋を引っ掴むと電光石火の早業で階段を駆け下り一目散に外へと脱出した。
「ぜーーーっぜーーーーっ…う、うまく誤魔化せたかな?」
「ああ…大丈夫だろう」
「何しろおキヌちゃんだし」と失礼なことを考えながら、息を整える二人を初夏の太陽がジリジリと照らす。
このぶんならマットレスはすぐに乾くだろう。
一つの山場は越えた。
となると次の問題は手にしたレジ袋の中のブツをどうするかということだった。
「で、コインランドリーとやらはどこ?」
「俺のアパートの近くだ。俺の洗濯物をとって行けば丁度いいな」
「うん…そだね…」
横島の説明によればコインランドリーへ行くにはどのみちアパートの前を通らなきゃならないのだと言う。
しかも洗濯するにはお金が掛かるらしい。
突然のおキヌの登場でお小遣いの入った財布は屋根裏部屋に置きっぱなしにしてしまったタマモにとって横島が一緒に行ってくれなきゃ困るのである。
なにしろ自分は洗濯機の使い方を知らないのだ。
ここは是非とも横島に一緒に行ってもらわなければならなかった。
実際、コインランドリーに着いて見れば横島がアパートから大きく膨らんだ紙袋をとってきても大した時間のロスにはならなかった。。
ジュースなどの見慣れた自販機の他に見慣れない自販機、それに何台もの大型の洗濯機が物珍しく、キョロキョロと好奇心のままに周りを見ていたタマモは一瞬だけ自分の手にした危険物の存在を忘れた。
「タマモ。それよこせ」
「うん…」
言われるままにレジ袋を渡してからはっと我に返ったタマモの顔がたちまちのうちに青ざめる。
なんか今、ナチュラルに核爆弾並みの危険物を渡してしまったような…と気がついた時はすでに遅く、タマモのパンツはパジャマの下と一緒に洗濯機の中へと消えていくところだった。
「にゃあああっ! み、見るなぁぁぁ!!」
「へー。お前ってイチゴ柄なんか履くんだ」
「論評するなーーー! バカーーー!!」
叫んでももう手遅れ。
パンツは洗剤と水の渦へ飲み込まれた。
おのれ横島。
この金毛九尾にここまでの恥をかかせるとはと怒りの炎を目に宿し横島を睨みつければ、そこにはなんの照れもなく淡々とした表情で柔軟剤を投入している少年が居るばかり。
怒気をすかされ拍子抜けした途端に今度は羞恥心が沸き起こってタマモの顔を真っ赤に染める。
言葉なんか出そうに無い。
恥ずかしいのも恥ずかしいがなにもあんなに無関心でなくても良さそうなもんだ。
年頃の娘の恥ずかしい秘密を前にしてそんな冷静な態度をとるというのは失礼では無いのか。
ていうか少しぐらい照れろ。
煩悩はどこへ行った。
いや私のパンツに煩悩をぶつけられても困るけど、完全スルーってのはちょっと傷つくということもわかって欲しいものだ。
いやいや傷つく必要は無いんだろうけどっていうかなんだろうこの屈辱感。
あーーーーもう! わけわかんないし!
「おー。回ってる回ってる」
「へ?」
呑気な声に苛立ち始めた思考を中断させられてふと見れば、いつの間にか洗濯は終わっていて乾燥機の出番だったらしい。
丸いガラスの板越しに横島の服とか下着が回っている。
当然その中には自分のパンツもあった。
「にゃああぁっ! い、一緒に洗ったのっ?!」
「はぁ? 見てただろうが」
「そ、そうだけどっ!!」
「むー。もしかしてお前ってば『お父さんと一緒に下着を洗うのは嫌!』って世代か? だとしたらお父さんは悲しいぞ…」
「だ、誰が誰のお父さんよ!! ひいぃぃぃぃっ!!」
「今度はなんだよ?」
「か、絡まってますっ! 絡まってますよ横島っ!! パンツとパンツがっ!!」
「そりゃ一緒に洗濯したんだから絡むこともあるだろうさ」
「こ、こっ、こっこのケダモノっ!!」
「なんでパンツ同士が絡んだぐらいでケダモノ扱いされにゃならんのだ…」
「だ…だって…」
だってパンツですよ。
しかもお互い使用済みですよ。
恥ずかしいでしょ普通。
生々しいとか思いません?
思いなさいよ。
なんて思っても口に出せるはずもない。
ただアワアワと意味の無い言葉が出るばかり。
「んじゃお前のパンツだけ手洗いすればよかったのか?」
「へ、へへへへ、変態っ!!」
「今度は変態扱いかよ…」
悲しげな横島の言葉にタマモは仰け反る。
だって悲しいのはこっちじゃないか。
何が悲しくて失敗パンツを男に手洗いされにゃならんのだ。
どんな罰ゲームだそれは。
私がいったい何をしたって…したか…。
ああ…でも一言ぐらいは言い返しても…でも今日は立場弱いし。
「で…でもぉ…」
「そろそろ終わるぞ」
監視カメラの向こうに人が居たら頭痛を訴えかねない会話は乾燥が終了したことを告げる「ピーーーー」という電子音で打ち切りとなった。
横島は意外と手馴れた様子で洗濯物を取り出すと紙袋へと乱暴に詰め込む。
かなりの量があった洗濯物があらかた詰め込まれ、最後に残ったのは問題のブツだった。
「ほれ。お前のシーツ」
「あ…うん…ありがと…」
「んでこれが…」
「だから触るなあぁぁぁぁっ!!」
「なんで? 洗ったんだから汚くないだろう? むむ? それとも一回洗った程度では落ちないほど汚れていたとか?」
「あんたってばとことん失礼ねっ!!」
がおーと吠えて横島の手の中のイチゴの模様を奪い取る。
ちらっと目線だけを走らせて見たが、良かった、完全に綺麗になっていた。
しかもなんだかホカホカと暖かくて気持ち良さそうである。
「あ…なんか暖かくていい感じかも」
「履くか?」
「履くか!!」
でもちょっと履いてみたい気もするタマモだった。
その後は特にイベントもなく、無事に事務所に帰りついた二人は見事な連携を見せた。
屋上に干されたマットレスをこっそりと回収し、洗い立てのシーツを被せればもう朝の痕跡は微塵も残っていない。
朝、古の世界地図だったシーツは今は新雪の雪原の輝きを取り戻している。
困難を極めたミッションの達成に「ふえぇぇぇーーー」と安堵の息を吐いて崩れ落ちるタマモの頭を軽く撫でると、横島は何を言うでもなくいつもの気楽さそのままにアパートへと帰って行った。
美神が晩御飯もたからずに帰って行った横島に不審そうな顔をしたり、おキヌが「塗りかべはどうなりましたか?」なんて聞いてきたりもしたけど何とか無難に誤魔化すことが出来た。
こうしてタマモの激動の一日は静かな夜を向かえるはずだったのだが。
「なんだか居心地が悪いわね…」
屋根裏部屋に置かれた鏡の前で風呂上りの洗い髪を乾かしながらタマモは鏡に向かって呟いた。
どうにも先ほどから落ち着かない。
ふと隣で由緒正しい腰に手を当て方式でコップの牛乳を飲んでいるシロと目が合う。
特に会話は無かったが何だかパズルのピースが嵌まったような心地を感じたのはシロの背後に彼女の慕う少年の影が見えたからかもしれない。
「あ…そっか…」
そうなのだ。
あの時は放心していて横島が帰ったことにも気がつかなかったけれど、思い返してみればちゃんとお礼を言っていないではないか。
仮にも伝説の妖狐が人から恩を受けて、礼の一つもしないとなればあの偉大なゴンギツネ様に合わせる顔が無いというものだ。
とはいえ今更お礼を言うのも気恥ずかしい。
電話でとも考えたが電話の内容を聞かれたらかなりヤバイ事態になりそうである。
「やっぱ直接会って言うべきよね…」
何だかんだいっても助けてくれたのは事実だし、それに特にこれといって冷やかすようなこともなかった横島である。
だったらやっぱり直接会って恩返しの一つでもするのが狐の流儀だ。
こっそり匿名で恩返しをすると悲劇が待っているとかのゴンギツネ様が身をもって示してくれていたのだし。
思いついたら行動は迅速にと普段のものぐさはどこへやら、タマモはまだ乾ききってない髪の毛もそのままに外出着を取り出した。
「タマモ。どこかへ出かけるでござるか?」
「散歩…」
一言残して出かけるタマモが何ゆえ笑顔なのか、どうして窓から飛び出すのかがサッパリわからず、残されたシロは夜空を一目散に飛んでいく少女を呆気に取られながら見送った。
「横島いる?」
トントンとドアを開ければ中から気の抜けた返事がある。
幸いにもまだ寝ていなかったらしい。
確かにまだ深夜と呼ぶには早い時間ではあるのだから当然かもしれない。
実際、出てきた横島はまだ昼間と同じ姿だった。
突然のタマモの訪問に驚いたのか怪訝な顔でドア越しにタマモを見ている。
「どうした?」
かすかに声に警戒がある。
なんかちょっと腹が立った。
せっかくお礼に来たと言うのに警戒するとはどういうことよと問い詰めたかったがここはジッと我慢する。
文句はお礼の後でじっくりと言えばよいのだし。
「あのね…昼間のこと…ちゃんとお礼してなかったから…ありがとね」
横島は一瞬だけ驚きの表情を浮かべたがすぐに破顔した。
「気にするな」と言いながら頭に伸ばされた手をタマモはなんとか掻い潜る。
今撫でられたらここに来る途中で考えてきたお礼が無駄になりそうだったから。
「そ、それでね…ちょっと付き合って欲しいの…」
「は? 今から?」
「うん…」
今度は猜疑の表情を浮かべる横島。
そんなに私がお礼をするのは不自然なのかいっ!とかなりムカっと来たがガマンガマン。
とりあえず深呼吸をして落ち着くとタマモは横島の手を取りアパートの外へ連れ出した。
手を繋いだまま歩く二人が向かったのは近くの児童公園。
昼間はそれなりにご近所の奥様が集会場にしているここもこの時間ともなれば誰も居ない。
「こんなところに連れてきてどうする気だ?」
「別になにもしないわよ…」
だが横島は信じていない。
それどころか声が震えている。
多分、口封じをされると思っているのだろう。
ここに来るまでの間に何度も握った手を解こうとしては、その度にタマモに睨みつけられ膨れられてついつい流されるままに児童公園についてしまった。
本能が警鐘を鳴らしているけれど何だか今のタマモは妙な迫力に満ちていた。
ベンチに横島を無理矢理に座らせるとタマモはゆっくりと彼から離れ公園の中央に立つ。
静かに目を閉じ、精神を集中させて妖力を練り上げ、体中に力が漲るのを感じてタマモは舞うようにゆっくりとした動作で妖力を解放した。
彼女の体から放たれた妖力は無数の炎と光の粒子となり彼女を中心に花火のように広がっていく。
そこに現れたのはまさに幻想の光景。
夜の都会の人工的な冷たい光を打ち砕く温かい炎の舞。
打ち上げ花火のように天に昇り、そして散る火の玉。
銀河の星のように帯をなしてゆったりと流れる光の粒子。
一流の花火師さえ凌駕する光と炎の美がたった一人のために演じられている。
炎と光のシンフォニーは徐々に動きを増し、小さな塊が一つずつ少女の頭上に集まり一つ吸うたびに大きさを増し、二つ吸うたびに明るさを増してついにクライマックスを迎えた。
しだれ柳のように弾けて垂れ下がった一つ一つの火花が淡い光を放ちながらタマモの周りを回る。
それはまるで無数の蛍のようで。
たったひと夏を生きた蛍のようで。
だから横島は自分が立ち上がっていることも気がつかず、タマモが近寄ってきていることも気がつかずに消えていく一つ一つの光を見つめ続けた。
「どう? 私のお礼、気に入ってくれた? きゃっ!! ち、ちょっと!!」
全ての術を終え満面の笑みを浮かべて声をかけた途端いきなり横島に抱きすくめられてタマモは驚く。
なにもこんな直接的な感動の表現はないんじゃないと横島を振りほどこうとしてタマモは彼の体が震えているのに気がついた。
秘められた激情に抵抗する気力は失せ、ますますきつく抱きしめらたが不思議と不快感はわかない。
ただどうして彼が声を出さずに泣いているのか。
涙を流さずにそれでもなぜ泣いているのだと私はわかるのか。
それを知りたくて。
でも聞いてはいけないのだろうと。
少なくとも彼が自分から言い出すまでは聞くべきではないと。
そう思いなおして少女は目を閉じ、自分を抱きしめる少年の背にそっと手を回す。
光の消えた公園で月の光に照らされた小さな影がおずおずと背伸びする。
驚きの声を上げようとする唇を人差し指で優しく押さえ、小さな影はもう一度こんどはゆっくりと自分の想いを確かめるように背伸びした。
見守る月がその位置を僅かに変え、少しばかり背の伸びた二つの影は手を繋いだまま静かに公園を立ち去っていった。
次の日の朝。
夢見が良かったのかそれとも別な理由か照れくさそうな微笑みを浮かべながら目覚めた少女。
普段の寝起きは悪さはどこへやらとばかりに鼻歌を歌いながらベッドから降りようとしたタマモはそのまま石の彫像のように固まった。
そーっと手を伸ばすと伝わってくる感触はある事実を冷徹に告げてくる。
「な、な、な、ななな…なんでよぉぉぉぉぉ!!!」
見も世もあらぬとばかりに絶叫した少女が『夜に火遊びするとおねしょするよ』と言う言い伝えを知ったのはそれから一年後。
彼女の恋人が苦笑しながら教えてくれたのだそうな。
おしまい
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