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ベッド・ウエッテイングは突然に

『ベッド・ウエッテイングは突然に』



6月ともなれば夜明けは早い。
朝靄は静かに風にたなびき、新緑の木々に甘露水にも似た露を育む。
やがて陽光に照らされて消えるとはいえ、真横からの太陽に照らされた露の輝きはまさにこの時期この時間のみに許された至宝とも言える。
もっとも忙しい都会人にとって朝の美をゆるゆると鑑賞するなど贅沢な行いだ。
ましてや夜型の生活が日常のほとんどを占めるGSにとってこんな時間に寝ることはあっても起きることはまずない。

とはいえ一風変わったメンバーがいるここ美神令子除霊事務所においてはその限りではない。
何しろ朝の散歩を心より待ち望んでいる人狼の少女がいたり、現役女子高生でありながらメンバーの炊事洗濯家事上等の元幽霊がいたりするのだ。

しかし今日、誰よりも先に目覚めたのは人狼少女でもお母さん女子高生でもなく普段は怠惰に日常を過ごしているキツネの少女だった。

別に何か目的があって早起きしたわけではない。
ただ寝る前に水分を取りすぎただけである。
美神が持ってきた豆乳ジュース油風味とやらが妙にツボに入って一人で飲みまくったのだ。
1.5リットルのペットボトルを開け、まだもの欲しそうにしてるタマモを止めたのはおキヌだった。
「お腹壊しますよ」と優しく微笑んでタマモの手からやんわりとペットボトルを取り上げたおキヌはやはり事務所のお母さん。
彼女のおかげで幸いにもお腹は壊さなかったけどやはり不要な水分は出すのが生き物の宿命。
まあぶっちゃけて言えばトイレに起きたということなのである。


閉じかかる目を擦りながら「むにー」と意味不明の言葉を漏らしつつ、それでも横で寝ている相方を起こさないようにとそろそろとベッドから這い出して、頼りない足取りでドアへと向かう。
頭はまだ睡眠を欲して目を閉じようとしているし、体もまだ寝ていたいと運動神経がサボタージュを訴えるが下半身のごく一部から「いやそれ困りますねん。そろそろヤバイですねん。距離で言えばあと5cmですねん」と悲鳴混じりに訴えられては仕方ない。
放置して二度寝すればきっとそれは大水害へと発展する。
そんなことになればなんかもう色々なものを失ってしまうだろう。
少女としても妖怪としても。
睡魔に侵されて靄の掛かった思考の中でもそれだけは避けねばと叫ぶ声がある。
とりあえずその声に従った彼女の決断は正しいはずだった。


夜明けとはいえ閉め切られた事務所の中は真夜中の暗さを保っていたがもともと妖怪のタマモにとってはこの程度の闇など不自由はない。
だから夢遊病者のようにフラフラとした足取りは単に彼女の背中にのしかかる睡魔が手強いという証。
それでも乙女のプライドが彼女を魅惑の個室へと誘う。
危なっかしい足取りながら階段を降りて数歩歩けばそこが終着。
後は脱いで出して拭いて履いて帰って寝るだけの単純作業。
大脳が半分寝ていても問題なしのルーテイーンワーク。
幾百回と繰り返された日常の経験によってインプットされた手順には万に一つの抜かりなし。
さあ行こう。
ドアを開け。
焦らず慌てずパジャマを下ろそう。
ついでにパンツも膝の下。
そしてゆっくりと振り向いて。
文明が作り出した水の利器に腰掛けましょう。

「にやはぁっ!!」

作業手順が狂ったのは誰のせいなのか。
そんなことを考えるのは後回し。
座る時ふと感じた違和感はピチャリと言う水音と生のお尻に触れる冷たい感触で吹き飛んだ。
下半身の先ほどとは違う場所から送られてくる緊急警報は「なんまらしゃっこいべさ!!」と北海道弁。
急速に覚醒した意識が危機回避のマニュアルを起動して、タマモは今、自分の身に降りかかった不幸を正確に把握した。

洋式便器というのは便利である。
なにしろ座りながら用を足せる優れものではあるが、男にとっては一つ余計な工程を経なれければならない。
つまり小用のときは便座を上げるという工程だ。
終われば次の人のために便座を下げ、蓋を閉めるという工程までがトイレのマナー。
だかしかしここで一つ重大な過誤が発生する可能性がある。

一つは女所帯である美神令子除霊事務所において便座が上がるという事態はごく稀にしかないと言うこと。
さらに唯一便座を上げることが必要な横島は一人暮らしであるということ。
一つ一つは取るに足らないことではあるが、今回はそれが結合し劇的に化学変化を起こしたらしい。
つまり最後にトイレを使ったのが横島でしかも彼は普段自分のアパートでしているように便座を下げずに出てしまった。
これが昼間ならなんということもなく終わったのだろうが、生憎とタマモは寝惚けていてこの悪質なトラップに気がつかなかったのである。

急速に覚醒した意識が現状の把握を声高に叫んでいる。
とりあえず落ちたのが放出前で良かった。まさに不幸中の幸いと言ったところと安堵しつつタマモは自分の現状を客観的に観察することにした。
トラブルの対処は冷静さが必要なのだ。
ビークール ビークール。
ついでにお尻もクール。
情けなくって涙が出そう。
いけないいけない。今は泣いている場合ではない。

痛みがないところからすれば怪我はないようだ。
良かった。うん。これはプラス材料。
さて体はどんな塩梅かとふと見れば目の前にあるのは先ほど下ろした自分のパンツではないか。
イチゴ模様がクルクルと丸まって両膝にかかっているから間違いはない。

さて問題です。
なんでパンツが目の前にあるのでしょう。

答えは簡単、一目瞭然。
つまり落ちたのはお尻だけじゃなく太股ごと落ちたということ。
体はVの字になって便器に嵌まっている。
先ほど膝まで下ろしたパンツが目の前にあっても不思議は無い。
だって膝も目の前にあるのだから。

「あははは」と乾いた笑いが誰も居ない個室を虚ろに染めていく。
誰か居たらそれはそれで問題だけど。
確かに変態と紙一重の少年がバイトをしている事務所だが、いくら彼でもトイレまでは覗かない。
人工幽霊だってトイレの個室までモニターしていないのだから秘密は保たれるだろう。
とりあえずは一安心である。
後はこっそりと抜け出して何事もなかったと記憶から抹消すれば良いだけなのだ。

そうと決まれば善は急げだ。
いつまでもこんなバカな格好をしているわけにはいかない。
両手を壁につき「うんせ」と声を出さずに掛け声かけると言う離れ業を演じつつお尻と太股を引き抜こうとしてタマモは戦慄した。

少女のお尻があともう少し小さかったり。太股が細かったりすればぶっこ抜けたはずのトラップは神の悪戯か悪魔の仕業か、これ以上はないという完璧な密着度を持って彼女をその陶器と強化プラスチックの顎で咥え込んでいた。
なんど試しても抜けそうに無い。
むしろなんか吸い込まれるような気がする。
もがけばもがくほど深みに嵌まるその様はまさに水のアリ地獄。この場合はキツネ地獄。
悪戦苦闘すること約10分。
ついにタマモは自分のお尻と太股がこの魔物から逃れられないのだと悟らずにはいられなかった。
悲しみとお尻の冷たさがハーモニーとなって少女の涙腺を刺激する。
落ち着けタマモちゃん。
まだ万策が尽きたというわけではない。
そうだ。こうなったら発想の転換が必要なのだ。
昔から押しても駄目なら引いてみろと言うではないか。

この身はかの大妖怪の転生である。
トイレに嵌まって泣きましたなんて許せるだろうか許せない。
まっとうな方法で脱出できないならば妖怪として脱出する方法を考えろ。

考えろ。
全身全霊をこめて考えろ。
オッケー考えついた。

なんのことはない簡単な話だ。
今の自分のサイズだからジャストフイットしてしまっているのだ。
だったら化ければいいではないか。例えば子供とか。
とにかくサイズを変えればいいと思いつき念じようとして気がついた。

待てタマモちゃん…そもそも私はなんでこんな目にあっている?
というかここには何しに来た?

考えるまでも無いが、夜中にトイレに来る用事は一つしかない。
よほどの酔狂人でもないかぎり夜明けとともにトイレ掃除をしたいとは思わないだろう。
つまりはトイレをトイレとしてまっとうに使うべく自分はここに立ったのである。
それは今どうなっている?と恐る恐る体に探りを入れてみれば「やっと思い出してくれはりましたか。そろそろマジヤバイですねん。2cmですねん」と返答があった。
どうやらむき出しになったのと水のせいで冷えたのが堤防の強度を弱めたらしい。

ブルッと震えが下半身から体中をかけあがりタマモの念はあっという間に霧散した。
例え彼女が大妖怪の転生でも限界近い尿意を我慢しながら術を行使するなんて不可能に近い。
妖術とは精神集中を必要とすると言うのに、意識の半分は下半身に持っていかれている。気を抜くのは無理だ。抜けばたちどころに決壊する。

でも待つのよタマモちゃん。
どうせここはトイレじゃない。
だったら決壊してもいいんじゃないかしら?

いやいや待ちなさいタマモちゃん。
私の今の体勢を思い出して見るのよ。
体はV字に折れているのよ。
このまま発射すれば水流はどこに飛ぶと言うの?
下手をすれば顔面直撃って可能性も無きにしも非ず。
だってこんな体勢で発射した経験ってないんですもの。

考えれば考えるほどドツボに嵌まる。
タイムリミットは刻一刻と近づいてくると言うのに。
かわりに出てはいけないものが出ちゃいそうなのがますます悲しい。
頭の中で喧々囂々たる会議は続いているが結論なんか出そうに無い。

ああ…もうキツネのプライドも乙女の尊厳も打ち捨てちゃいましょうかしらんと涙で滲んだ目を擦り天井を見上げたタマモの耳にかすかな足音が響いてきた。

誰か来た。
間違いない。
良かった。助かる。

でも問題は誰が助けに来たかということだ。
今、事務所にいるメンバーはと言えばシロ、おキヌ、そして美神令子。
全員女性だ。
その点では一人を除いて問題は無い。
シロだけは勘弁である。
後でどんな言われ方をするかわかったもんじゃない。
シロはそんなことをからかうような娘じゃないことは知っているけれど、それでも彼女に弱みを見せたいなんて思わない。

ああ神様。
お願いします。
叶えてくれるなら三度のお揚げを二度に減らします。
ですから…ですからシロだけは止めてください。

必死の祈りが通じたのかドアの向こうからぼんやりと聞こえる足音はシロではない気配だ。
シロはガサツに見えて侍として修行してきたこともある身である。
あんなに露骨に下品な足音は立てない。

良かった。
神様は居てくれた。ありがとう神様。
感謝の祈りを込めて手を組んだのもつかの間、ピキリと音を立ててタマモが凍りついた。
ちょっと待て。ガサツな足音とは誰だ。
おキヌか。はたまた美神令子か。
違う。
この事務所にあんな足音を立てる人間は一人しか居ない。
今は居ないはずだがこの耳に間違いなんかない。
あのズボラな足音はこのトラップの原因、横島忠夫ではないか。
最悪だ。
よりにもよって男、しかもスケベと自分が認識している男にこんな醜態を見せることになるとは。
まずいなんてもんじゃない。
こんなマヌケに何もかも晒してしまっている場面を見られたら、もうお嫁に貰ってもらうしかないじゃないか。
でもいくら横島とて鍵がかかった個室に無理矢理入ってくるなんてことはないような…。

そこまで考えたところでタマモの思考は凍りついた。
思い返せば鍵なんかかけた覚えは無いわけで。
だって眠かったし、すぐに済むと思っていたしと言い訳しながら震えを押さえて見たドアにはやっぱり鍵なんかかかってない。
咄嗟に閉めようと手を伸ばしたものの全然まったく届かない。
そりゃそうだ。ドア鍵に手が届くくらいならこんな苦行に甘んじているはずがないではないか。

ならば足。
足ならどうだ。
太股は仰角65度ってな角度で上を向いてるが膝から下はフリーだ。
自由な部分をなんとか伸ばせば鍵に指が届くかもと伸ばしてみれば。

「うにゃうっ!!」

攣った。
足攣った。
痛い痛い。
もう泣きそう。ていうか泣けた。

しかも思わず出た悲鳴はドアの向こう側にも聞こえたらしい。
足音がピタリと止まっている。
もう一刻の猶予も無い。

どうするどうすれば…。
変化だ。それしかない。
トイレに合っても不自然じゃないものに変化すればいいのだ。
そしてそのままやり過ごしおキヌが来るまで耐えるのだ。

何がいいだろう。
なにか…なにかないか?
トイレにあって不自然じゃないもの…。

あった。
そうだ。便器に化ければいい。
便器ならトイレにあって当然だ。
むしろなくてはならないものだ。
どこの世界に便器の無いトイレというものが存在すると言うのだ。
それはもうトイレじゃない。
それは存在の自己否定。あるいはゼノンのパラドックス。
世界はそんな矛盾を許さない。
よし便器ならば不自然ではない。

そうと決まればもう迷いは無かった。
幸いというかあまりのピンチに堤防の決壊も一時おさまった今がチャンス。

完璧に便器に化けてみせる。
そのためには便器になりきれなければならない。
生半可な術じゃ駄目だ。
目指すは完璧。
見せてやろう。金毛九尾最高の変化の力を。
そこに一切の妥協も無く、本物を凌駕した最高の便器の姿を。
目を閉じ、刹那の可能性を求めて念を高める。
究極の術を完成させるために深く己の内面へと潜り込む。


──材料の構成を理解し
──作られた工程を模倣し
──つぎ込まれた労力を賞賛し
──便器が蓄えた経験を共有する


「ぐふうっ!!」

術の途中でタマモは盛大に吐血した。
そりゃあ便器の経験なんてものは受け止めることしかないわけで、そんなものを生身の思考で共有しようものならある特殊な性癖の人以外は大ダメージを受ける。
純真な心を微塵に砕いた衝撃は凄まじく、今まで色々とテンパって来たタマモの精神までもをいとも容易く押しつぶした。
ドアを開けた途端に盛大に鼻血を吹く少年の映像と場違いな小川のせせらぎをBGMに少女はとにかく意識を手放すことで悲しい現実から逃避することに成功したのだった。











目覚めればそこはいつものベッドの上だった。
あの恐怖のトイレではなく、鼻血を流す煩悩少年もいないいつもの屋根裏部屋。
隣を見ればシロはとっくに起きていたのかすでに姿は無い。
大方いつもの散歩だろう。


「夢…だったの?」

思わず安堵の溜め息が漏れる。
それにしてもなんというマヌケな夢だったのだろう。
トイレに嵌まって気絶する。
しかもそれを横島に見られたなんて、ヒドイにもほどがあるというものだ。
それにしてもなんでまたあんな夢を見たのか。
幻術のプロの妖狐としてはもう少しリアリティのある夢を見てもよさそうだと苦笑する。
夢は潜在意識の現われという説もあるが、だったら自分の潜在意識はいったい何を考えているのかと苦笑のままに下を見たタマモの顔から音をたてて血の気が引いていった。

寝汗とは違う感触を伝えてくるシーツ。
描いた覚えの無い世界地図。
手に触れたその冷たさがある真実を伝えてくる。
ブルブルと震える体を押さえつつ、そーっと毛布をめくってタマモはコトンと肩とか顎とか乙女のプライドとか色々なものを落としてしまった。

「……夢だけど……夢じゃなかったーーーー!!」

毛布を抱えてのた打ち回る少女と朝露にしてはちょいと量の多い謎の痕跡を、窓から差し込む朝の光は優しく照らしてくれたのだった。


おしまい


ども。犬雀です。
タマモちゃん実はアホの娘説 最終話(予定)。
でもあんまりアホの娘っぽくないかしらとか思ったり。
ではでは

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