本が落ちてきた。
それを私は拾い上げると、思わず記憶が転がってきた。
なので私は探ってみることにした。
記憶は遠い昔、とある異国の地での出来事。
国は文明開化甚だしく、新時代の兆しを迎えようとしていた。
首都では路地が煉瓦路に舗装され、街灯は夜に咽ぶ霧を照らしてくれた。
また大きな時計塔の鐘が鳴り響き、船が裂けた橋の間を通っていった。
そして、私がやって来ていた街の名はケンブリッジと呼ばれていた。
ある日、街は何事もなく静かに推移していた。
道では馬車が行き交い、花売りや新聞売りの少年少女が通り過ぎる雑踏の中に立っていた。
市場では様々な食料が陳列され、ざわめく人々で賑わうほどだった。
学生や教授らしき人物の歩く姿も多く見られ、学術都市たる趣が感じられた。
その街並みの中で私は聖書を手に携え、礼拝から帰る途中だった。
ある男と私は思いがけず出会ったのだ。
私は彼を見知っていた。
私の見たところ、その彼が馬車の通る地面の中心に突っ伏していた。
彼はすでにこの頃から探偵だったのだ。
もちろんその時は大学に通う学生であったが。
それだから私は声を掛けた。
彼も私を見知っていた。
私は彼に向かって微笑んだ。
続けて、何をしているのかと私は聞いた。
彼は興味なさそうに、私をあしらった。
しかし、彼が言う事が私には簡単な、ごく当たり前の事のように思えた。
だから私はそう言った。
すると彼は驚いた目つきで私を見るのだった。
私には彼の私を見つめる瞳が不思議でならなかった。
私には主がいる。
主の命令は絶対で、私は服従しなければならない。
私の最優先すべきは主なのである。
主は大学の教授を仮初めの姿としていた。
その関係によって、彼と私はまたすぐに出会う事となった。
彼は主と意気投合し、主は私と彼を引き合わせた。
そうして彼が私と一緒にいる時間は次第に増えていった。
私は彼のそばに付き添い、
また私は彼のために出かけ、頼まれたものを外から彼の元へと運んだ。
私は同じ事を何度も何度も繰り返した。
私にとっては造作もないこと。
だが、彼は私に感謝した。
私も笑顔で返した。
時に私は彼と余暇のひと時を過ごすことがあった。
紅茶を入れて、私は彼の話し相手、遊び相手になった。
彼は笑い、おどけた。
私はまた笑顔を作った。
こうして私が彼の助手をこなし始めて、何ヶ月かが過ぎ去ろうとしていた。
彼との生活がほとんど私の日常に化していた。
しかし事件は思いがけず、私に降り注いだ。
私は彼に誘われたのだ。
顔を少々、紅潮させて彼は私の返事を待っていた。
私は非常に理解、判断に苦しんだがそれを承諾した。
笑顔を見せて、私がさも喜んでいるように彼に解釈させるために。
繰り返して言うが、私にとって主の命令は絶対である。
私が逆らう事はまずない。
この時も私は、はるか以前に主の命を受けていた。
だから何のことはない、それが主と私の計画だった。
数日後の夜、私と彼は音楽会に赴いた。
私たちはタキシードとドレスに身をまとい、
劇場にたゆたう音の波に人々は酔いしれていた。
もちろん彼もだった。
訳の分からない光景に私はただ彼の隣で、静かに座って待っていた。
それだけなのに。
一体、どうしたことだろうか。
私は彼を見た。
おかしい。
私は舞台を見た。
おかしい。
私は音楽に耳を傾けた。
おかしい。
私が今まで、見ていた世界が違って見えてきた。
煌びやかな音が鳴り、拍手喝采。
劇場を出た後、私は彼に寄り添った。
私は異常だった。
長い間、彼といたせいなのか。
私は彼から離れたくなかった。
が、私にとって主の命令は絶対だった。
混濁する自我の中、私は彼に首飾りのお守りを渡し、唇を重ねた。
そして私は、命令通り彼を眠らせることに成功したのだ。
私と主は計画を成功させた。
彼が私の前で目覚めた。
私は主に従ったまでだ。
しかし私を見て、彼は驚きを隠せないでいた。
主の計画は最終段階に入り、私もそれを見守った。
だが、彼は黙っていなかった。
彼が抵抗しだすと、主と揉みくちゃになった。
私は主の命に従い、銃を撃ち放つ。
私が彼に渡した首飾りにめがけて。
それが爆発すると、私もろとも巻き込まれた。
主を助け出し、粉塵の中に私は姿を消した。
私を呼ぶ彼の叫び声を背に。
それから十数年後。
私は霧の街でまた彼と出会う事となった。
主が行方不明になったからだ。
私が頼りに出来るのは彼しかいなかった。
私は再び彼に微笑んだ。
けれど、探偵となっていた彼は私を疎んじ、冷たく顔を閉ざした。
どうしてかは私には理解できなかった。
そして、主が助かるまで彼の私に対する姿勢は変わる事はなかった。
しかしそれでも主が助かり、彼の別れ際、私はまた微笑んだ。
それを彼は私の方を振り返らず、立ち去っていった。
結果、私に一つの答えが出た。
その日、私は笑顔を捨てた。
後年、私は彼の友人による手記を目にした。
だが私にとって、単なる文字の羅列でしかなかった。
私は本を閉じた。
彼は未だに私の脳裏に残っている。
これからも私がそれを忘れる事はないだろう。
またふと彼の姿が浮かぶ。
私は急に目の前が歪んだ。
膝を落として、バランスを崩す。
こんなことは滅多にない。
あの時、私の首飾りとともに全てが砕け散っていった。
そして、私から多くのものが零れていった。
ああ、駄目だ。
私が笑う事はもう二度とない。
私の記憶はいつまでも消え去ることなく、無造作に置かれる。
そろそろ、活動停止時間だ。
主は私に糧を与え、去っていく。
私は瞳を閉じ、また静かに闇を迎えるのだった。
system shutdown. sleeping...
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