5906

【DS】略して入学



「御稲荷山タマ、です」

 こんな自己紹介で思い出すのは、去年入った高校の入学式。
 学校というものに興味を持ち、保護者にうるうる上目遣いを駆使してお願いし、生まれて始めて勉強というものに取り組んで、せんせーのコーハイになるでござるーと張り切る相棒と一緒に見事難関を突破して、遂に到達した桧舞台――で、初っ端にかましてしまったわけである。
 まだ人見知りが激しかったあの頃、慣れない制服に袖を通したばかりで緊張しまくっていた彼女は、「モ」の発音で躓いた。
 せめてそれが「タマオ」とか「タマヨ」等の発音違いだったらまだ多少は格好がついたのに、よりにもよって「タマ」である。
 その前に「おいなりさん」ってなんだよ、などとはツッコまないであげて欲しい。あの頃は彼女も若かったのだ。そーゆー事でひとつ。
 それでも「ナマモ」よりはマシよね、だってナマコみたいじゃない、と何度も何度も自分に言い聞かせた、あの夕焼けの通学路が忘れられない。
 で、懸命なる読者諸兄には容易に察しが着く通り、その日から一ヶ月間『タマちゃ〜ん♪』と呼ばれ続けた。

 以後、現在に至るまで登校拒否ぶっちぎり。




 




【狐娘は深く静かに潜入しながら倶楽部学習活動の夢を見るか――略して入学】




 




 ズシャアアァァァッ、と不可思議な音を立てて彼女は門の前に立った。
 仁王立ち。ブレザー。腕組み。ミニスカート。金髪。ニーソックス。まゆげ。完璧だ。
 極端といえばあまりにも極端にすぎるスカートの短さも、実際の高校生が学び舎に履いて行く確立がほぼ皆無なニーソックスも、実に実に完璧である。
 なにせこの日のために前もって横島のアパートに忍び込み、彼の夥しい蔵書の中からブレザー学生服に関する資料を掻き漁って来たのだ。完璧でないはずがない。
 万全を尽くしたという自負が、目の前の門を眺める彼女の視線に力を与えていた。
 かつての屈辱の日々以来、ひたすら避け続けてきたこの場所。ただただ忌避するばかりだったシチュエーション。
 だが、今。
 彼女は再びここに立った。立つ事が出来たのだ。最早恐れるものは何もない。
 ズシャッ、ズシャッ、とまたもや不可解な足音を立てながら、彼女は威風堂々とその門――高校の正門をくぐった。
 
「……タマモはやれば出来る子です……タマモはやれば出来る子なんです……」

 口の中で、頼もしい呪文を唱えながら。




 /




 さて、事の起こりは何だったのか。
 原因は何処にあったのか。
 長きに渡る登校拒否の果て、なし崩し的に高校中退とあいなったタマモだろうか。
 そんな彼女を前にして、追試補習の嵐をくぐり抜けた末、めでたく二年生への進級を果たし、浮かれに浮かれ、はゃぎにはしゃいでいたシロであろうか。
 とにもかくにも。
 シロがセーラー服のスカートをヒラヒラさせながら小躍りし、それを鼻の穴おっぴろげながら食い入るように熱視していた少年が、黒髪の少女が放った真空跳び膝蹴りを側頭部に食らって轟沈する。そんな、春の日。

「ん〜、学校紹介? 部活案内? ……興味ない」

 午前中に起こされた水商売のおねーさんの如く実に気だるげな声で答えたのは、寝起きなのか半透明というよりむしろ透明に近いベビードール姿のタマモであった。黒髪少女の胴回し回転蹴りが、再び少年のこめかみに突き刺さる。
 夜の仕事はさぞ辛かろう。お体にだけは気をつけてください。思わずそんな声をかけたくなる気だるい雰囲気がそこにはあった。有閑マダムもかくやという勢いだ。
 彼女の前に積み上げられたのは、学校案内のパンフレット。あまりにも哀しい経緯で中退者となってしまった彼女の為に、親心兄心姉心その他諸々を総動員して、事務所年長者三人が片っ端から掻き集めてきたブツである。
 今年の入学にはもう間に合わないが、編入という手だってあるじゃないか。何なら来年また受験したっていい。だってお前、あんなに入学したがってたじゃないか。そんな優しい想いがこもる品々なのだ。ちらほら男子校や幼稚園のパンフが混じっているのはご愛嬌。

「まぁ、そー言わないで。もしかしたら、気に入る学校があるかも知れないでしょ?」

 書類の保護者欄に名前を置く美神が、にこやかに言い勧める。今のタマモは、彼女の愛しい養い児。この子の為なら戸籍の偽造や教育委員会へ圧力をかける事など何でもない。コネと権力は濫用する為にあるのだから。

「な、見るだけ見ても罰は当たらんやろ?」

 さらに、ひん曲がった首の骨を直し損ねてえらい事になりつつある横島が、宥めるように労わるように投げかけたその言葉に、流石のタマモも渋々とパンフレットを一枚、文字通りテキトーに選んで覗き込む。と、その瞬間――

「――――ッ!?」

 目の前で星が瞬いた。運命の出会いだと思った。思わずパンフレットに熱烈なキスをかまし、そのまま結婚しようとすら思った。
 パンフレットを胸に抱き締めて小躍りしながら変化の術でウェディングドレスに着替え、式場の手配をする為に受話器を取り上げた所で正気に返った。なんて事だろう、ハンコを持っていない。これじゃ結婚は無理だ。いやいや、問題点はそうじゃなくて――ちっ、あやうく騙される所だった。これだから近頃のパンフには油断がならない。
 それはそうとして、確認のためもう一度パンフレットを覗き込む。
 再び走る衝撃。脳天を殴られたようなショック。ふと見上げるとシロが木槌を振り下ろした格好でこちらを見つめていた。なぜか涙目。ちょっと萌えた。
 自分で叩いておきながらしきりにこちらの“頭”を心配してくる相棒を宥めすかし、あらためてパンフレットに目を落とす。
 間違いない――

『おあげ部』

 まずはおキヌちゃんにハンコの作れる店を聞こう、と思った。
 苗字はもちろん「御稲荷山」だ。




 /




「どうだった?」
「コレで思いっきり叩いてみたけど、ダメでござった〜」
「手強いわねぇ」
「でもタマモちゃん、どうして突然……」
「春やからなぁ」




 /




 めでたく校門をくぐったタマモを出迎えたのは、満開に咲く桜の花。そしてノボリ。

「のぼり?」

 その通り、ノボリである。蒼い空と花散る桜の見下ろす中、まるで戦国時代かと見紛うばかりに数々のノボリが犇めき合っている。
 それらに染め抜かれし文字は『茶道部』『水泳部』『科学部』『演劇部』えとせとら、えとせとら。つまりよーするに、部活勧誘の旗印なのである。
 季節は春真っ盛り。部活勧誘の時期であった。

「この中に『おあげ部』が……私の仲間が……」

 そう、いるのだ、この中に。

 ――ぽっちゃり体型の太田和美が。

 ――色白で小柄な三浦友利が。

 ――三つ編みの似合う田辺真澄が。

 学校案内の部活紹介に載っていた部長+副部長+会計の三人を始め、その他の名も無き部員達を含む『おあげ部』のメンバー達がタマモを待っているのだ。
 あぁ、思えば辛い道程だった。孤独な闘いの連続だった。
 周囲の者達は誰一人としておあげの素晴らしさ、崇高さを理解できず、あのおキヌまでもが“えいよーのばらんす”なる理屈を振りかざして彼女のおあげライフを否定する。無理解と偏見で出来た暗闇の中に、彼女は頭まで沈められながら生きてきたのだ。
 だがしかし、誤解だけはしないで欲しい。それでもタマモは、おキヌの事が好きだった。むしろ大好きだ。こないだアイスおごってくれたし。その意味では、美神さんもかなり好きだ。美神さんと出掛けた時は、頻繁に良いものをご馳走してもらえる。先日の回らないお寿司屋は味覚の新境地だった。嗚呼、ウニの軍艦巻き万歳。ハイル、コハダ。そうすると、横島はどうだろう。結構いいヤツ。財布は頼りにならないけど、遊びに関してはエキスパート。あいつと遊ぶのは楽しい。うん、嫌いじゃないな。ふと、シロの事を思う。子供だし、単純。だがいい所もいっぱいある。自分のために、死ぬような思いをしてまで薬を取って来てくれた時は、ちょっとだけ泣いてしまった。嘘、いっぱい泣いた。お前は群れの仲間だ、そう言ってくれたのが嬉しかった。それに意外と可愛い所も知ってる。特に幸せそうに寝てる所とか、もうたまらない。温かい日に薄着で昼寝してるのを見たりするとこー思わずシャツの裾をめくりあげてそのすべすべなおなかを――

「はっ!?」

 ついうっかり開けてはいけない扉を開きかけたタマモは、顔をプルプルと振る事で頬に溜まった謎の熱とついでに白日夢の残滓を振り払った。小さく「でも、ちょっといいかも……」などと聞こえてきた囁きが、自分の声そっくりだったのは気のせいとゆー事にする。するったらする。してください。
 そう、おあげ部だ。おあげ部なのである。自分はおあげ部について考えていたのだ。決して相棒の底抜けにあどけない笑顔を思い起こしそのみみたぶを甘噛みしてやりたいなんていやいや……と、とにもかくにも、おあげ部なのである。うん。
 おあげ部。あぁ、おあげ部。いったいどんな部活だろう。
 きっと素敵な所に決まってるけど。
 毎月の会報を発行したりするのだろうか。
 年二回の研究論文発表会には、ぜひとも参加したい。
 実力的にはインターハイも狙えるはずだ。
 甲子園だって夢じゃない。
 助け合い支え合いながら団体戦を勝ち抜くのだ。
 泥だらけになって練習した後、真っ黒に汚れた顔で笑い合うのはどんなに素敵な気分だろう。
 夢が膨らむ。希望が膨らむ。胸が膨らむ。でも現実の胸は膨らまない。オゥ、ガッデム。でもいいの。だって私には、おあげ部があるんだから。
 幸せな想像に、いつの間にかスキップを踏んでいる。断続的にひるがえるスカートの裾に、周囲の男子生徒の視線が釘付けなのも気にならない。
 おあげ部、それは見果てぬ夢。だがその夢は今、タマモの手が届く先に実在しているのだ。
 おあげを食べ、おあげを語り、またおあげを食べ、おあげに笑い、更におあげを食べ、おあげに泣き、またまたおあげを食べ、おあげに生きる――そんな夢。
 さぁ、乙女よ。いざ行かん。世界がタマモを待っているのだ。
 夢あふるる未来に向けて、今その第一歩に――

「あ、あのっ、ちょっとそこのニーソな君!」

 ――第一歩に、いきなり待ったをかけられた。




 /




「あら? タマモはどこ行ったのかしら?」
「あの、美神さん、これ……」
「これは……横島クン、タマモを追うわよ!」
「合点承知」
「待ってください、これを!」
「おキヌちゃん、何これ?」
「追跡にサングラスと変装は必須です」
「………」
「………」
「必須、なんです」
「………」
「………」




 /




 タマモは困っていた。とてもとても困っていた。

「き、き、き、き、き、ききききき……」

 何に困っているかといえば、声をかけてきたかと思えばいきなりカ行二段目の信奉者になってしまった面前の男子生徒にだ。

「きききききききききッ」

 笑ってるのかな、とも思ったがどうも違うようだ。男子生徒はタマモを見ている。激しく見ている。目が真っ赤だ。おまけに血走っている。目薬を注せばいいのに、とタマモは思った。

「き、き、ききききき!!」
「おさる?」
「違うッ! き、君はまさかもしかしてあるいはひょっとすると新入生!?」
「そーだけど」

 さらっと嘘をつくタマモ。流石は狐。
 比べて男子生徒の方は、もう見るからにいっぱいいっぱいである。
 そして今にも死にそうなほど息を荒げてタマモの全身――主にスカートとニーソックスの狭間――を舐観した彼は、おもむろに懐から一枚の紙を引っ張り出してこう言い放った。

「サインください!!」
「いーわよ」

 やはりあっさり風味なタマモ。舞台女優のように馴れた手つきで自分の名前を書き始め、ふと思いとどまる。あれ、サイン色紙に名前欄なんてあったっけ?





『相撲部・入部届』





「その手に乗るかああぁぁぁぁッ!!」
 
 選手希望の欄に「御稲荷山タマ」まで書いた入部届を引き裂いて、力いっぱい地面に叩きつけた。狐火で灰に出来ないのがもどかしい。

「あぁあぁ、なんて事を!?」

 慌ててセロハンテープを取り出した男子生徒の姿に一抹の不安を覚えつつ、ダッシュでその場を後にする。アレ、後で有効だったりしないわよね?
 やがて男子生徒の姿が見えない所まで辿りつき、タマモはホッと胸を撫で下ろした。
 ふと、剣呑な気配を感じて周りを窺う。

「うわぁ……」

 前庭で部活の勧誘をしていた生徒、その全てがタマモを見ていた。
 皆、同じ視線でタマモを凝視している。見覚えある種類の眼光。

 あれは、獲物を狙う獣の目だ――そう理解した瞬間、タマモは全力で駆け出していた。




 /




「いないわねぇ、タマモ……」
「あの〜、美神さん?」
「なに?」
「俺ってついこの間まで、現役の高校生だったじゃないスか? ですからブレザーでも着てりゃ、怪しまれずにこの中を捜し回れるんじゃ……」
「な、なによぅ。アタシ一人でこんな、サングラスにほっかむりなんてカッコしてろっていうの?」
「いや、そしたら俺一人で捜して来ますから」
「………」
「………」
「………」
「……それだと寂しいんですね?」
「……ウン」




 /




 来た。
 肌に感じる明確な殺気。
 振り向いたら捕まるし立ち止まっていても捕まるしこのまま隠れていても捕まる。
 敏捷性は兎も角、長期戦にでもなったら負けは必至。こちらは単騎、相手は集団なのだから。
 妖術を使って逃げるのは簡単だが、それは駄目。少々立場が複雑なこの身の上。人前で妖怪としての力は使わないと、美神さんに約束したのだ。破るとお小遣いが減って、キツネうどんの買い食いが出来なくなってしまうのだ。
 数瞬で決断を下したタマモは、隠れていた掃除用ロッカーから飛び出して走り出した。

「いたぞ!!」
「どうかぜひとも科学部に!!」
「いや、我らが演劇部にこそ!!」
「君も茶道部で青春の血と汗を流してみないか!!」
「ええい。あの娘っこはワシら、ちくわ部のもんじゃあ!!」
「むしろ俺の個人マネージャーに!!」
「水泳部でその限りなく抵抗が少なそーな肉体を生かしてみよう!!」
「触手愛好会!! 触手愛好会を何卒宜しくお願いします!!」

 好き勝手な事をほざきながら追いすがってくる、思春期と発情期を足して2で割ったような男子生徒の群れ。どいつもこいつもこのままタマモが交番に駆け込めばお縄は必至の有り様で、タマモは各高校に交番が常設されていない事を心から残念に思った。何せ、各部活の部員がそれぞれの部活動をアピールする格好とパフォーマンスで勧誘しながら追いかけて来るのだ。サッカー部やバスケ部はドリブルしながら、茶道部は抹茶を掻き回しながら、演劇部はスポットライトを振り回しつつ。水泳部に至っては、描写するのも憚られた。タマモ、思わず絶叫。

「あんたら、その勧誘方法に疑問はないのおおぉぉッ!?」

 それでも足を止めないタマモだったが、広い場所に走り出て四方八方から包囲されるのは愚の極みなのは承知していた。校舎の壁に沿って走り、追手の行動範囲を制限しながら状況を分析する。
 いったい今、何が起きているのか。自分の行動に何か落ち度があったのか。
 学校紹介のパンフレットで、『おあげ部』を見つけた。即座に編入と入部を決めた。だが編入には手続きと時間が掛かる。どうせいずれ編入するのだからと、ひと足先に入部届を書きにきた。何処かおかしな所があるだろうか。
 そうだ、おかしい事はない。いやおかしいような気もするが、致命的ではないはずだ。いやいや致命的におかしい事は事実だが、まあ絶望的ではないような気はする。という事で納得しておく事にしよう。するのだ。しなさい、私。よし、した。おっけー。
 それにしてもわけが分からないのは、あの群体となって押し寄せてくる勧誘員達の勢いだ。いったい何が彼らをそこまで駆り立てているのか。
 かつては傾城の妖と呼ばれた自分だが、今の状態がそれと同義であるとは考えられない。
 そもそも美女麗人の基準はその時代その国その文化その人それぞれなのである。萌えのツボが人によって違うのと同じだ。そりゃもー、メイドさんだったりシッポだったり。つまり変化でその時代のスタンダードな美女に化け、「私はあなたの理想的美人ですよー」という幻惑を振りまいてこその傾城なのである。ナイチチ萌えは巨乳に萌えない。両方好きなら、そりゃただのおっぱい好きだ。つまりそーゆー事である。

「くっ、考えをまとめてる暇もないわね」

 気がつけば、前方に曲がり角が迫っていた。校舎の壁がそこで途切れ、狭い裏庭が横向きに広がっている。このま曲がらずに直進すれば、民家と学校の敷地を隔てるフェンスへの激突は免れない。だが、コーナリングでスピードを落せば追手に追いつかれる事も事実。

「シロっ、私に力を貸して!」

 推進出力をカーブ直前で零にし、靴の裏に摩擦熱を感じながらスノボのように横滑りで地面を滑走する。慣性のみで数秒前進。身体の向きを進行方向とキッチリ90度の角度に曲げた為、面前の壁によって灰色一面になっていた視界が開けるその瞬間に、再び脚部の力をフル開放。人間ブレーキングドリフトで校舎の角をほぼ無減速のまま直角に曲がる事に成功し、また爆裂ダッシュ。
 シロとの散歩で培った経験が、今ここで生きていた。あの文字通り生死をかけたスタンピート・マラソンに、よもや感謝する日が来るとは思わなかったが。そういえば、なんで自分はあいつの散歩に付き合うようになったんだっけ。放っておけば、勝手に横島と二人で出掛けて行くのに。惚れた弱み。いや違う。違うはず。認めたら負けだ。

「そっちは行き止まりじゃぞー!! 観念して入部届にサインせぇーい!!」

 声の響きから察するに、彼我の距離はぐんぐん縮まってきている。しかも地の利は敵側にあるとなっては、少しでも速度を落とせばアウト。ここが正念場だ。
 ――見えた。
 前方に展開する高さ4メートル強の高さを持った、細長い建物。その傍らには横並びに置かれた、何台かの通学チャリ。ここに部室棟があるのは遠目に確認済みだ。

「てぇぇーいっ!」

 全速前進のまま強く地面を蹴り、飛ぶと言うよりも跳ねるといった感覚に近い動きを体現する。宙に踏み出された一歩は、確実にチャリの荷台に乗っかった。勢いは絶対に殺さない。前傾姿勢を保ったまま、全力で荷台を垂直に蹴りつける。反動のため、蹴り飛ばされたチャリが吹っ飛んで倒れた。だが、跳んでしまえばもうチャリには用は無い。タマモの身体は既に、次に来るべき衝撃に備えて姿勢制御の段階に入っていた。ここで一旦全身から力を抜き、重力と慣性に身を任せる。その二つがちょうど釣り合い、言わば空中静止状態になった瞬間、タマモの手はコンクリの屋根を捉えていた。

「行けるっ!」

 刹那。全身の筋肉繊維を限界まで酷使して、一気に身体を屋根の上に引き上げた。勢いのまま前転しそうになるのをどうにか堪え、高々と聳え立つ部室棟の上で仁王立ちになり、腰に手を当てて地上を這いずる有象無象共を睥睨する。ハン、人間がゴミのようね。
 追手の連中は、何ていうか唖然としてタマモを見上げていた。

「ふふん♪ どうやらもう、手も足も出ないようね」
「いやその……なんてゆーか見えてるんですけど、ピンクのシマシマが」

 わたわたわた。
 あわててスカートを抑えてしゃがみこみ、視線の集中砲火をシャットアウト。
 地上ではそれを指摘してくれた佐伯敏博くん(16)が、周囲から鉄拳の集中砲火を受けて儚い青春を散らしていた。正直が美徳だなんて、いったい誰が言ったんだろう。

「とゆー事で! もういい加減諦めてよ! てゆーか、まず今見た映像を忘れなさいっ!」
「せめてっ! 入部してくれないなら、せめてその慎ましい胸の中で死なせてください!!」
「誰の胸が慎ましいかぁっ!!」
「同じくっ! その艶やかな膝枕で旅路の最期を向かえさせてくれれば本望です!!」
「ドやかましいっ!! アシュタロスが復活してサンバ踊ったって、あんた達なんかに胸も太腿も貸さないわよっ!!」
「おぉ、ちょっと待っておくれ、ニーソの姫君。もしくはレディ・ピンクストライプ。それはあまりといったらあまりに冷たく情け容赦の無いレスポンス。愛が足りないよ、愛が」
「ンなもん最初っから無いわっ!! つーか忘れろって言ったでしょおおぉぉぉぉッ!!」

 獲物を獲り逃がした追手の集団は、既に半ば目的を見失いつつあった。あるいは素直になりつつあった。要するに、ぶっちゃけていた。それはもーダイレクトすぎるほどに。
 タマモの額に、みしりと音を立てて十字の血管が浮かぶ。

「じゃあ二の腕でっ! 一説に拠れば女子の二の腕は胸と同じ柔らかさだそうでっ!!」
「ワシはうなじでっ! ポニテ少女のうなじを堪能しながら死ぬ事が出来たならそりゃーもうっ!!」
「〜〜〜〜ッッ!!」

 燃やす。コイツらぜってー燃やし尽くす。
 怒り心頭に達したタマモが、思わず保護者との約束も忘れて危険な決断を実行に移さんとしたその時、彼女をして戦慄せしめるに足る光景がその網膜に割り込んできた。
 誰が気を利かせたものか、梯子を担いで運んでくる数人の生徒。

 ――なんて事。これじゃ自分からトラバサミに足を突っ込んだ狐じゃない!?

 タマモが愕然としている間に、部室棟の壁に数脚の梯子が架けられ、あれよあれよと登ってくる男子生徒の群れ、群れ、群れ。
 逃げようにも飛び降りるには些か危険な高さであるし、地上にだって男子生徒が犇いているのだ。
 逃げ場無し、まさに絶体絶命。袋の狐。

「へへへ……もう逃がさねえ……」
「安心せぃ、寝技には自信があるけえのぉ……」
「茶道部、千年の夢を今こそ……」
「しょ、初心者なんで安全運転でお願いします……」
「ちくわ部の真髄、今こそ見せちゃるぜよ……」

 狭い屋根の上、謎の言葉を吐き零しながらじりじりと迫ってくる男子生徒達。怖い。問答無用で怖い。生存本能が警鐘をガンガン鳴らす。もはやホラーだ。
 特に血走った目つきがもう尋常じゃなく、何だかとっても身の危険がデンジャラス。

「ダ、ダメぇ……私には……私にはシ」

 涙目で自らの両肩を抱き締め震え脅えつつ、タマモが何かとてつもない事を口走ろうとしたまさにその瞬間――それは、彼女の視界の片隅に飛び込んで来た。

「よかったら見てってくださーい」
「楽しい部活でーす」
「あ、パンフどーぞー」

 校舎脇の、目立たない場所に設置されたブース。地味ではあるが丁寧な作りのノボリ。ぽっちゃり体型の太田和美。色白で小柄な三浦友利。三つ編みの似合う田辺真澄。その他の名も無き部員達。

 今、そこに、タマモの目の前に。
 
 居るのだ、仲間が。

 在るのだ――『おあげ部』が!!!

「み、み、見つけたぁッ!」

 歓喜の叫びと同時に変化で背中に翼を生やし、大空へと舞い上がる。

「待ちなさい、タマモ!!」
「タマモー、色々と丸見えやぞー」

 妙に聞き覚えのある声がしたような気がしたが、そんな些細な事なんてこの瞬間にはどうでもいい。妖術を使う様を人に見られたってかまわない。今そこにおあげ部があるんだ。仲間達がいるんだ。それよりも大切な事なんてあるもんか。キツネうどんは横島にたかろう。
 上昇。飛翔。急降下。彼我の距離を一刹那で縮め、仲間達の元へといざダイヴ。
 あぁ、おめでとう、私。ありがとう、世界。私は今、幸福の絶頂にいます。
 ほら、近付いてくる。着陸目標地点のブースが、見る見る大きくなってくる。
 陣地を形成する長机。
 目を丸くした部員達の顔。
 そして誇らしげに大きく部の名前を染め抜いたノボリ――ッ!?

 ずべっしゃあぁああぁあぁぁぁぁッッ!!!

 非常に痛そうな擬音を立てつつ顔面から錐揉み墜落したタマモは、勢いを殺さないまま水切りの石のように地面を2回3回とバウンドし、そのまま全身で地面を掘削しながら数十メートルを滑走した挙句に、つい数十分ほど前に見上げた校門脇の桜の根っこに天地逆さまの体勢で激突してようやく停止した。要するに逃避行の挙句、一周して戻って来たわけである。
 衝撃で散った大量の花吹雪が、薄紅色の布団となって少女の身体を優しく覆い尽くす。
 死んだ。あれは死んだ。容赦なく死んだ。周囲にいた生徒達が一様に顔を青くした。
 だが流石は妖狐と言うべきか、思いきりピンクのストライプを絶賛大公開しつつ上下逆さまになっていたタマモは、頭部にでっかいタンコブをくっつけただけで勢い良くがばちょと起き上がると、先ほど視認した衝撃的な事実を確認する。





『おさげ部』





 ――タマモは、力尽きた。




 /




「いやー、『おさげ部』だったとはなー」
「まさか、パンフレットにミスプリがあったなんてねー」

 あっはっはーとお気楽に、しかし何かを必死で取り繕うかのように笑う美神と横島。何てゆーか、必死だ。背筋と後頭部には冷や汗がびっしり。

「それにしても、小鳩ちゃんの写真が飾ってある上に、“ご本尊”とはねぇ」
「あれにはビックリしたわー。小鳩ちゃん、知らないんでしょうねー」

 とにもかくにも事態を収拾し――どうやったかは聞かないのが吉。カネとコネ、権力と暴力は秘してこその華なのだ――ぐすぐすと鼻を赤くして泣きじゃくるタマモを回収して帰路についたのは良いものの、一向に泣き止まない少女にどうにもこうにも手を焼いている現状だった。泣く子と地頭には誰も勝てぬ。
 いくら「ばうわ&かにゃこ」ペアで時代を席捲した二人とて、このどうしようもなくおいたわしい空気を払拭するには力不足が否めない。だって本当にどうしようもないし。
 とにかく、まずは泣き止ませよう。ひとまず落ち着かせるのだ。この状況で落ち着いてしまったらますます悲愴になるだけのような気もするが、冷静にならねば事態の打開は出来ない。そうだ、ふぉろーだ。ふぉろーするのだ。しっかりしろ俺。ふぁいとよアタシ。欲しがりません勝つまでは。何をだ。

「さ、元気出して帰りましょ。おキヌちゃんも待ってるでしょうし」
「シロもメチャクチャ心配してたぞぉ」

 俯いてすんすんと鼻を鳴らすばかりだったタマモが、ピクリと反応する。ナインテールがぴょこんと嬉しそうにひと跳ねし、次の瞬間にはうなじから首元まで真っ赤っかに染まった。ち、違うんだからっ。私とシロは、まだそんなんじゃないんだから。いやいや、『まだ』とかそういう問題じゃなくて。違うの。違うはずなのよっ。
 タマモの内面的葛藤は知る由も泣く、いざ勝機見たりと美神と横島、ここぞとばかりに畳み掛ける。
 明日の為のそのいち。泣いた子供は食べ物で釣れ。

「そうだ! 今日の夕食はおキヌちゃんに頼んで、油揚げ尽くしにして貰いましょう」
「よーし、オヤツにはタマモの好きな『首領兵・紅い狐』も放出しちゃうぞぉ。罠に掛かって血まみれになりながらも牙を剥く、侠気溢れる狐のイラストがお気に入りだって言ってたじゃないか」

 古来より伝えられし伝統の教えが功を奏したか、それともその前の心配されてる云々が効いたのか、しゃくりあげていたタマモの肩の震えが止まり、小さな小さな声で口を開く。

「美神さん、横島……」
「うん、何?」
「あのね、私ね……」
「何だ、言ってみ?」
「……集合写真で全員が弁髪だったから、おかしいとは思ってたの」
「…………………」
「…………………」

 鼻をすする伝説の九尾狐様を前に、稀代のGS二人は文珠も使わずにシンクロした。気付けよ、おい。

「ま、あれよねっ!」

 この何とも言えない空気を切り替える為か、美神がことさら威勢の良い声をあげる。

「どうせ最初から編入は無理だったんだし、未練が残らなかったのは良かったんじゃない?」

 どうせ最初から? いぶかしむ表情のタマモに、横島が「ほれ」と件のパンフレットを差し出した。タマモの元婚約者であったパンフレットだ。本人としては抹殺したい過去の証拠物件なのであるが、ホレホレと促されて仕方なく覗き込み――そして愕然とする。

 そこにあったのは、

 燦然と輝く、

 『男子校』――の三文字。

「そんな……じゃ、じゃあ私は……いったい何の為に散々追い回されて……」
「ピンクのシマシマをご開帳して」
「横島クン、シャラップ」
「イェッサー」

 びしっと敬礼。

「まぁ、男子校にミニスカニーソの女子新入生が入ってくればなぁ。そりゃ、自分ンとこの部に獲得したくもなるわな」
「その場合、ニーソって重要なの?」
「再優先事項です」

 世界の真理であるがごとくきっぱりと断言され、美神は思わず空を振り仰ぐ。あぁ、思春期のオスガキってわけ分かんない。
 とうとう屍化したタマモを丁稚に背負わせ、自分は肉体から抜け落ちて浮遊する狐娘の魂を捉まえつつ、美神は深々と溜息をついた。




 /




「ねぇ、美神さん」
「ん、なーに?」

 横島の背に揺られるタマモの囁くようなか細い声に、美神は自分でも驚くような優しい声を返した。

「やっぱり私、高校に行きたい」
「男子校にか?」
「違うわよ。去年入った、あの高校。シロの後輩になるの」
「俺の後輩でもあるわけだがな」

 夕焼けを背景に、タマモが顔を上げて美神を振り返る。逆光になっていても、美神には不思議とその表情がはっきりと読み取れた。子供っぽいその笑い方が、存外似合っている。

「……でも、いいの? 嫌な思い出があるんじゃない?」
「うん。やりたいこと、出来たから。だから、大丈夫」

 タマモは夕焼けの空を見上げた。

 おあげ部は無かったけれど。

 求めていたものは、幻だったけれど。

 でも、あの時に見た夢は、本当だったから。

 だから。




















 奇跡のような部活があった。
 ある高校の一年生が立ち上げたその部活が、僅か数年で打ち立てた驚くべき成果の数々を、誰もが驚嘆と共に絶賛した。
 毎月の会報を発行する事から始まったその活動は、やがてインターハイの常連となるに至り、年二回の研究論文発表会には学会すらも注目し、甲子園の切符すら手に入れ、遂には文部大臣賞の授与に至る。部員同士が助け合い支え合いながら団体戦を勝ち抜いていくその姿は、部活動かくあるべしと言い称えられた。

 その、夢のような部活の名は――


[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]