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【DS】空気、読んでよねっ。

「空気、読んでよねっ」














 桜の季節は、風が濃密である。
 味はピーチ味。触感はどろり濃厚で、色はピンク。効果はもちろん睡眠導入。
 道行く人々の顔は寝起きのぼんやりとした時間帯のように、どこか気だるく眠そうだ。
 風は、しかし、新しい季節を告げる存在でもあった。
 春風が吹く。だから春になる。
 季節が移り変わり、真っ白なノートのように綺麗になれば、人々も新しい物語を刻みはじめる。例えば、一人の少女がどこかの高校に入学するというふうに。
 物語の惹句には、人が意識しようがしまいが関係なく風が関わっているのであり、風が吹くから物語が始まるのである。
 そして、春の風は走らない。
 走るというより、軽やかにスキップするという感覚。
 ゆるやかに、
 優雅に、
 歌うように駆ける。
 そのとき、春風のいたずらで、少女のスカートが少しだけふわりと浮いた。
 体育館から出てきたばかりの少女は、とっさに制服のスカートを押さえた。顔には一瞬だけ羞恥の表情が浮かんだが、それよりも間抜けに鼻を伸ばした男子生徒たちを威嚇するように、怒りの表情をつくった。男子生徒たちは少女の矮躯に似合わない迫力に気おされて、クモの子を散らすように去っていった。
 少女の名前はタマモという。
 タマモは妖狐である。甚大な妖力をもった妖怪であるが、見た目はかわいらしい少女にしか見えない。変身能力は狐の十八番であり、人間の姿を真似るくらいたやすいのだろう。妖力を感知する能力の無い一般生徒からみれば、タマモはごくごく普通の少女であり、ちょっとだけ変わっているところといえば、尻尾のような短い髪がちょうど九つほど分岐していることである。えびテールかポニーテイルの一種のような髪型といえばわかりやすいだろうか。その髪は綺麗な黄金色をしており、つやつやと光を反射していた。
「前途、多難……」
 タマモは言った。そして、ほっと一息ついた。
 そのタメイキは入学式が終わった安心感のためというより、面倒臭いことが終わってせいせいしたというふうに見える。入学式における校長の話は三十分以上の長さを誇るものだった。内容があるように見えて実はスカスカの寒天のような中身しか伴っていないというのがおおかたの評価のようで、パチンコ玉のようにぞろぞろと体育館をでてきた少年少女たちの顔は一様に暗い。
 ただ一人例外がいた。
「なんでござるか。せっかく学校に行けるのにおぬしは楽しくないでござるか」
 いきなり時代錯誤な武士言葉で、タマモに話しかけたのは、彼女といっしょに入学しにきたシロという名前の少女だった。彼女のファッションは飛びぬけて異様である。真っ白な長髪に、紅いメッシュが入っており、一発で高校即退場になりそうな不良スタイルだった。しかし、シロもまたタマモと同じく妖怪であり、その奇抜に見えるファッションセンスも実は生まれながらのものなのである。
 少し変わった二人組に注がれる視線は、興味と好奇心を足して二で割ったような奇妙な重圧があった。
 その重圧に押しつぶされて憂鬱そうに顔を伏せるタマモ。一方で、シロのほうはまったく気にしておらず、楽しそうににこにこと笑っている。
 シロは人狼族なため、習性が犬なのだ。犬は群れるのが楽しいので、機嫌が良いのは当たり前といえば当たり前のことなのである。タマモの機嫌が悪いのも同じく生来的なもので、基本的に群れることを好まない狐としては、人が多すぎる学校という場所はあまり好ましくないということなのだろう。
「あんた、本当に楽しそうね」
「そりゃ、楽しいでござるよ。学校がどんなところか知りたかったでござる。タマモは楽しくないでござるか」
「わたしはできるなら、来たくなかったわ。なんでこんなに人が多いところに長時間縛られなきゃいけないわけ? あんただってそうでしょ。ずっと椅子に座りっぱなしなのよ。走りまわるのが大好きなあんたに耐えられる?」
「う。でも体育という科目があるらしいし、見聞を広めることはいい修行になるでござる」
「それは否定しないけれど、わたしは半強制なのよね」
「横島先生たちは、おぬしの将来を心配したのでござるよ。ここを平穏無事に卒業できれば、こそこそ隠れて暮らさずにすむ手はずになっていると聞いたでござる」
「余計なおせっかいなのよ」
「群れの仲間の心配をするのは、当然でござる」
「……いい性格してるわ、あんた」
 と、そこで。
 不意に生じた違和感に、タマモは振り返って後ろを見た。
 雑多な人ごみの中に混じる不協和音を探るように、全感覚を鋭敏にしている。
「どうしたでござる?」
「なんか、うまくいえないけれど、『また』見られていると感じたわ。三日ぐらい前からたびたび感じてるんだけど」
「拙者は何も感じなかったでござるが」
「気のせい……、かもしれない」
「小心ものでござるなぁ。拙者、どんな敵が来ようとも正々堂々迎え撃つだけでござる。そういうこそこそとこちらを観察するやつがいたとしても、無視すればいいだけの話でござるよ」
「バカね、シロ。短絡的に攻撃してくるよりずっと怖いじゃない」
「だから、小心ものというのでござる」
「うっさい!」タマモが吼えた。「嗅覚の鈍い犬っころって救えないわね。耳鼻科行ってきたら?」
「拙者を侮辱する気でござるか!」
「ほら、すぐに怒る。嗅覚だけじゃなくて、頭も鈍いんじゃない」
「おぬし、そこになおれーっ!」
 シロは霊波刀を手から出し、タマモの目の前に突きつけた。
 火がついたら、とまらないのはタマモも同じらしく、両の手から狐火を生じさせて、シロを睨んでいる。
「上等! あとでべそかいて謝ってきても絶対許さないからね」

 そんなこんなで、タマモとシロは殴り合いの喧嘩をはじめてしまい、その死闘は三時間近くも続き、学校どころか町内のありとあらゆるものをぶった斬り、燃やしつくし、結果としては両者引き分けとあいなったのである。



 美神心霊事務所にて――。
 ぼろぼろの姿で力なく帰宅した二人は、とりあえず別々の部屋で治療を受けていた。
「おまえらも本当飽きないよなぁ……」
 横島は絆創膏をシロの頬に張りながら言った。痛みで顔を歪ませながらも、どこか嬉しそうなシロ。尻尾もぱたぱたと勢いがよかった。
「あのバカ女が悪いのでござる」
「というか、おまえもどうせタマモの挑発にのったんだろ」
「いや……、その、そんなことはないで、ござる、よ」
 小声で答えるところがいかにも怪しかった。横島は何も言わずにジト目をつくる。無言のままに視線だけで糾弾されるほうがよっぽど堪えたらしく、シロはうるうると涙目になった。
「先生も拙者が悪いというのでござるか」
「ちょ、ちょっと待て。な、泣くな。それぐらいで」
「しかし、拙者、先生にまで信頼されてないのが哀しいのでござるよ」
「し、信頼してる。信頼してるから」
「ほんとでござるか」
 シロは横島の胸に弾丸のようなスピードで飛びこんだ。
 そのまま、ぱああああっとお花が咲いたような笑顔になるのは、いましがたの涙が嘘であったことの証左であった。
 横島も悪い気分はしないのだが、やや対象年齢からはずれるらしくその顔には困惑が混ざっている。
「おまえってほんと、調子いいやつだよな」
「あ、そういえば。先生」シロはいきなり声をだした。「ちょっといいでござるか」
「ん。なんだ?」
「タマモのやつが、なんか変なことを言っておったのでござる。誰かに見られている感覚があるとか……」
「あいつは神経質な性格だからなぁ。自意識過剰なんだろ」
「でも、犬神は感覚が鋭いでござるから」
「おまえも犬神じゃないか。タマモだけが気づいておまえが気づかないことがあるのか?」
「い、いや。そんなことはないと思うのでござるが……」
 朝の出来事からもわかるように、シロは自分の嗅覚に対して自負の心を抱いており、そうであるがゆえに横島への応答は歯切れが悪かった。
「なにか感じたのか?」
「いや、拙者自身はなにも感じなかったのでござるが、あいつが……、タマモが不安そうな顔をしていたので、少し気にかかるのでござるよ」
「ふうん。心配なのか」
「ち、違うのでござる。ただ……、えーっと、その、そう! あいつがもし危険にさらされているとなると、拙者たちも危険だということになるのでござる。今のうちに危険を消しておけば、群れ全体の安全にも資するのでござるよ」
「心配なんだろ」
「だから、違うでござるぅ〜!」
「いいぜ」横島は言った。「最近、でかい事件がなくて暇してたんでな」
「ありがとうでござるよぉ!」
 ぱたぱたぱた。シロの尻尾が元気よく動いた。
「はっはっは。合法的に女子高生とお友達になれる機会なんてそうそうないからな」
「せ、先生。浮気はよくないでござる」



 一方、タマモのほうはというと、おキヌによってヒーリングを受けていた。
 ソファーの上に寝そべった状態のタマモに、優しくおキヌが手を添えているという状態である。
「……いたい」
「大丈夫?」
「あいつ、ぜんぜん手加減なしなんだもの。いつでも全力全開って感じで、パワーセーブという考えがないみたい」
「そこがシロちゃんのいいところなんじゃない」
「空気を読まないやつは嫌い」
「えっと、空気って読めるの?」
 おキヌはきょとんとした表情で、小首をかしげた。イリオモテヤマネコも真っ青な天然っぷりであった。
 しかし、いちいちつっこむ気力もないタマモはダウナーに答えを返す。
「なにいってるの。空気って、雰囲気のことよ。雰囲気」
「ああ、空気を読むって、以心伝心のことなのね」
「そっちのほうが難しい言葉だと思う」
「でもね、タマモちゃん」おキヌは優しい声をだした。「空気はどこにでもあって、透明で、当たり前すぎるから、伝わらないほうが自然なんじゃないかな?」
「それぐらいわかってほしいんだけど」
「言葉にしたほうがわかりやすいし」
「そんなの恥ずかしいじゃない」
「秘めた想いっていうのも綺麗だと思うけどね」
 おキヌは憂いを帯びた瞳で、壁を見つめた。視線の先には横島たちがいる部屋がある。
 空気が読める人なら、その意味するところがわかるだろう。
「ん……また」
 突然、タマモが顔をあげた。
「どうしたの?」
「誰かに見られている感覚がしたのよね」
「誰かにって?」
「誰かには誰かによ。誰かまではわからない。どんな人物かもわからない」
「でも、ここは雑霊とかは入ってこれない結界が張ってあるし、誰かに見られているというのはおかしくないかしら」
 部屋の中を見渡すタマモ。
 長方形の部屋の中には二つほど押し開くタイプの小窓がついており、そこから階下を覗いた。
 誰もいない。
「気のせいと思いたいけど、なんか変な感じ。ねっとりとした視線を感じる気がする」
「もしかして、す、ストーカーだったりして」
 おキヌは震えた声で言った。
「ストーカーって、粘着質発揮して主に異性の行動を監視したりする人間のことだったわね。でも、なんで? わたしを観察して何がしたいわけ」
「だって、タマモちゃんかわいいじゃない。誰かが好きになっちゃったのかもしれないわ」
「あ? 好きって何よ。ばっかじゃない」
 耳たぶまで真っ赤にして、タマモはおキヌの言葉を全否定した。
「タマモちゃんって、男の子から見れば、魅力的な女の子なんだからね。気をつけたほうがいいかもしれない。美神さんに相談しようか?」
「すぐにそうやって干渉する。もういい」
 肩をいからせて、おおまた歩きでタマモは部屋を出ていった。おキヌは心配そうにその後姿を見つめていた。





 それから数日後。
 タマモは、いい具合に白けていた。
「なんだかなぁ。遊園地とかのようなおもしろさは、さすがにないわね」
「そりゃ当然でござるよ。勉学とは修行でござる。修行とは苦しいもの。苦しみの中から自己を律する心を得てこそ、修行は完成するのでござる」
「そういやあんたさ」
 気の抜けた話題転換だった。シロは自分の言葉が届いていないことにイラっとしたのか、不機嫌そうに応える。
「なんでござるか」
「部活とかどうすんの」
「部活でござるか。実は決めかねているでござる。野球部、剣道部、サッカー、バスケット。主に運動部から誘いがきているでござるな」
「そりゃ、あんだけ派手にやったらそうなるわよね」
 話は二日前に遡る。
 その日、入学して初めての体育の授業があったのだが、その授業内容はオーソドックスな短距離走だった。そのとき、タマモは自分の能力をずいぶん抑えて、人間の平均値よりやや上程度の速さで走ったのだが、シロは思いっきり全力全開で走ったのである。
 人浪の身体能力は人間と比べてみれば、大人と五歳児ほどに違う。
 その単純な速度も、当然のことながらオリンピック記録を少しばかりぶっちぎっているという前代未聞のものだったため、現在シロは時の人となっているのである。
「いやはや、困ったでござるよ」
 嬉しそうな声だった。
「あんたほんとうにお気楽ね。もう少し自分を抑えたほうが人間社会ではうまくやっていけるのよ」
「はんっ。嫉妬でござるか。狐らしいといえば狐らしいでござるか」
「あ、ん、で、す、って」
 怒りのあまりに日本語が崩壊していた。いつもはここで燃え上がってしまうところなのだろうが、今回は少しばかり違った。震えていた拳をおさめ、抑揚の無い顔になる。
「もういいわ。あんたはあんたらしくやってれば」
「どうしたのでござるか。また見られているという感覚がついてまわっているのでござるか」
「……」
 タマモは応えない。応えない理由は、言葉に出されないのでわからない。
 タマモの心境を例示列挙してみる。
 例えば、彼女は一人でこの案件を解決しようとしている。
 例えば、彼女はシロのことを信用していない。あるいは信用していないわけではないが、巻き込みたくないと思っている。
 例えば、彼女は不安のあまり沈黙せざるをえなかった。
 例えば、彼女は今このときも正体不明の存在を感知しようとしている。
 例えば――。
 考えるより先にシロは、タマモに顔を近づけた。
「いったい、どうしたでござるか。お主らしくない」
「いや、たいしたことじゃない。注目されるのと見られている感覚って、やっぱり違うのかなって考えてたの」
「んん?」
「注目は衆人環視というか不特定多数のものから寄せられる視線。わたしが感じている視線は、特定の誰かによるもの。それはまちがいない」
「だから?」
「気持ちが悪いじゃない」
「そうでござるか。拙者がタマモの立場だったとしても、なにも感じないと思うのでござるが。気にしすぎでござるよ」
「けれど、この『視線』を感じるようになったのは、一番初めにこの学校に来たとき、入学式の三日ぐらい前の日よ。その日、わたしとあんたは、下見にこの学校に来たわね。だから、『視線』に因果が近いのはこの学校ということになる。この学校の誰かがわたしを見ていると考えると、原因と結果がはっきりしていて、気のせいとはいえない気がするの」
「慣れない場所だから、複数の視線がまざりあって、それで見られていると感じるのではござらんか」
「特定のっていったでしょ。わたしに向けられた視線だから、おそらくあんたには感知できないのよ。あんたもわたしも犬神だからわかるでしょう。視線には力と方向性があるの。確か、ここの学校の教科書には『ベクトル』とか書いてあったけれど、そんな感じよ。すごく特殊で強い力を感じる。そして矢印の向きはほとんどずっとわたしに向いている」
「目のある方向に視線が固定されているのは当然の道理でござるからな。言わんとしていることはわかるでござるよ」
 いわゆる視点の問題である。
 人間に限らず、人狼であっても、妖狐であっても、およそ意思のある存在はその意思ゆえに視座が固定されている。私が私であるという意思が私が私ではないという不等号を許さない。だから、視点は意思によって限定される。
 しかし、観念は問題の解決には役に立たない。
 タマモは首を振った。あきらめたのだろうか。シロは不安そうにタマモを見つめる。
 三秒後、タマモとシロの視線が交差。
「わたしは――」
 タマモの唇が開かれた。視線は矢のようにまっすぐにシロを射抜いていた。決意のあらわれだった。
「その『視線』の先に誰がいるのか知りたい」
「知ってどうするでござるか」
「そんなの決まってるじゃない」タマモは腕をまっすぐ突き出した。拳は硬く握られている。「優しく撫で撫でして、なんでわたしを見ているのか聞く」
「きわめて、お、穏便な方法でござるな」
 シロは少しばかり後退した。タマモの気合の入りかたは恐ろしく、こういってはなんだが般若のようになっていた。タマモのかわいらしい顔立ちが台無しである。周りの生徒達も、洗剤をつけたときの油汚れのように、さっと引いていた。
「それで、拙者はどうすればよいのでござるか」
「何もしないでもいいわ。『視線』が混線するとわかりにくいのは確かだもの。あんたの視線が混ざると辿るのが難しくなる」
「そうでござるか。しかし、それではいざというときにひとりで対処しなければならんことに……」
「大丈夫よ。その『視線』だけど、どうも悪意はなさそうなのよね。だったらもっとストレートにこっち来ればいいのにって思って、数日間待ってたんだけど、どうやらあちらから動くつもりはないらしいし、こちらから動くしかない」
「どうやって調べるでござるか」
「それはね――」
 タマモは一瞬呼吸を止めた。何かを言おうとしたシロの口を、右手で制止し、そのままゆっくりと歩きだした。
 ゆっくりと、歩く。
 ゆっくり。
 茂みに向かって――。
 歩く。
 タマモは仁王立ちのまま茂みに向かって声をあげた。
「で、どうして、当の昔に高校卒業しているあんたたちがいるのかしら」
 タマモが腕を組みながら、茂みの中の人影に声をかけた。
 人影その一、横島という名前の男にとてもよく似たほうが答えた。
「こちらスネーク。無事潜入に成功した。大佐、応答してくれ。あ、君、気にしないでくれ。俺は今、ステルスミッションに取り組んでいる最中なんだ」
「で、そちらの言い訳は」
 人影その二、こちらは長髪の美女である。
 その顔は少しばかり汗ばんでいる。
「宇宙人がいないか観察しているのよ。いい。この世界にはいろんな未知の生命体がいたり、いなかったりするの。だからワレワレのような黒服の組織が必要なのよ。あ、これ以上は秘密だからダメよ。教えてあげない」
「ふうん……」
 タマモはじーっと二人を見つめた。
 タールのようなどろっとした視線に、二人の不審人物はだらだらと汗を流す。
 そして、ついに人影その二が叫んだ。
「だーっ! もう、わかったわよ。おキヌちゃんに頼まれたの。あなたの身に危険が迫ってるって言われたから来たのよ」
「迫ってないけど」
「それでも、あなたの後見人なんだから、とりあえず不審な動きがないかチェックしにきて当然でしょ」
「そりゃ、どうも」
 タマモはクールに答えを返す。
 横島と令子がおもむろに立ち上がった。もはや隠れている意味はない。
「それで、なにか不審人物は見つかったの」
 タマモが聞いた。
「いいえ、特にいなかったみたい。そもそもあなたに見つけられないような忍者みたいな人、そうそう簡単に見つけられるわけないわ」
「そう。まあ、そりゃそうよね」
 タマモは組んでいた腕をほどいた。落胆の声ではなかった。最初からそれぐらいはわかっていたという表情だ。
 彼女は斜め後ろにいたシロに振り返った。声には出さず、そのまま待つ。得心し、すぐにシロはタマモたちがいる近くまで寄ってきた。
「先生。来てくれて嬉しいでござるよーっ!」
「ああ、わかったわかった」
 横島が頭をかいた。
 わずかに怒りのこもった視線が、令子から発せられる。単なる嫉妬と断定するにはあまりにも微妙な感情である。タマモは特に気にせず、そのまま淡々とした口調で話し始めた。
「とりあえず、こんなふうに特定していくことは可能よ。『視線』自体が空気のように透明でも、想いにはイメージがあるのだから、それを隠しきることはできない、はず」
「はずって、なんでござるか。ずいぶん微妙な言い方でござるな」
 シロはさりげに横島と腕をからめながら言う。
「いままでに感じたことのないタイプの視線だから、よくわからないの。敵意とかのほうが慣れているから。ともかく横島たちは帰ってて。さっきシロにも言ったことなんだけど、わたしに向けられた『視線』が少ないほど特定がしやすいから」
「わかったわ。今のままではまったく役に立たないことははっきりしたし、わたしと横島くんは、とりあえず一度、家に帰って対策を練り直してきましょう。二人は独自に調査してちょうだい。ただし、無理だけはしないこと。それだけは約束して」
「わかった……」
 タマモは正面から見て、二十度ほど顔を下に傾けた。要するに少しうつむいたのである。
 周りの空気が少し変わり、ざわざわと騒がしい声とともに男どもが振り返る。哀愁を漂わせる少女がまとう空気は男にとってはフェロモンのようなものだ。もちろん、ごく少数のいけない趣味をもった少女たちの胸を高鳴らせるものでもあったが。しかしその姿は蠱惑的というよりも、どこかしら不安定さを思わせるものだった。そういった崩れた形に人はごく自然に惹かれる。壊れてしまいそうだから、壊れないように守りたくなるのかもしれない。
「さーて、では拙者はタマモの索敵の邪魔にならんように、部活をいろいろと覗いてみようと思うでござる」
 シロはひらひらと手を振って、去っていった。横島と令子はしばらくの間、霊波に乱れがないか丹念に調べていたようだったが、学校の中には異常がないとわかり、事務所のほうへ帰っていった。
 タマモは一人になった。
「どうしようかなぁ……」
 気の抜けた声を出す。頬をぽりぽりとかいて、ぼんやりと景色に視線を這わせる。周りにはいろいろな部活の勧誘がおこなわれていて、タマモを勧誘しようとしている男たちも何人かいるようだったが、実際に声をかけるものは、現在のところいない。後ろのほうへちらりと視線をやると、やはり心配なのか隠れている横島と令子の姿があったが、タマモは無視することに決めたようだ。
「言わないことが美徳かもね」
 人数は多かった。ラッシュ時の電車の中ほどには混雑していないが、それでも大きな市場のような喧騒がある。
 視線は混線し、タマモへの視線も少なからずあるのだが彼女自身はそれに気づかない振りをしている。人間に興味がまったくないというわけではないのだろうが、とりあえず今はずっと遠くを眺望し、『視線』を探っているようだ。
 しかし、彼女は感知できない。
「あ、あの……」
 不意に、タマモの背後から声がかけられた。タマモがゆっくりと振り返る。
 いつでも距離を取れるように、右足にわずかに力をいれて、半身の姿勢でとまった。そのまま、斜め下から見上げて、声の主を観察する。
 男だった。正確にいえば、男子生徒でありこの学校の生徒である。肩から大きなポラロイドカメラを吊り下げている。
 優男タイプで、身長は高いほうだが声が小さく全体の印象としては小さく見える。もっとも客観的に言えば、タマモのほうがだいぶん身長的には負けている。男女のバランスでいえば、『お似合い』と呼べる範疇には入るだろう。
「なに?」
 タマモが感情のこもらない声で答えた。
「あ、いや……、君、新入生だよね」
「そうだけど」
 タマモの言葉に、男はほっとしたようだ。
「僕は吉川っていって、写真部の部長やってるんだけど、よかったら入部してみない?」
「なんで、わたしに声をかけたの?」
 宝石のような瞳が、吉川という名前の男をじっと見据えていた。
「え、なんでって……、今は勧誘の時期だからだけど」
「つまり片っ端から、声をかけているってわけね」
「うん。そうだね」
「ということは、別にわたしでなくてもよい。入部するのはわたしではなくて他の誰かでもよいってこと?」
「なんだか寂しそうだったから」
「ナンパしてんの?」
「あ、いや違うんだ。ただ、ほんとよかったら、覗いていくだけでもいいからね」
 タマモは小さく呼吸する。
「わかった。考えとくから」
「それでさ。もうひとつだけお願いがあるんだけど」
「なに?」
「写真一枚とっていいかな」
「そうやってみんなに声をかけてるの?」
「そういう、わけじゃないけれど」
「まあ、好きにして」
 男は破顔して、カメラを握った。角度を調節し、ベストショットを狙っている。数歩近づき、止まる。
 タマモの顔が少しずつ桜色に染まっていった。
「表情がすこし硬いかな」
「もともとこんな顔よ」
「リラックスして。自然な顔が一番いい顔なんだからね」
「そんなこと言われても無理よ」
 向けられたカメラはどことなく、銃口に似ている。タマモは身体を硬くしてしまって、顔もこわばっていた。
 そのとき。
 再び、春風が故意にいたずら心を発揮し、タマモのスカートをまくりあげた。
 わきゃ、と驚いた声をあげ、顔を真っ赤にするタマモ。その瞬間、カメラのフラッシュが光った。
「な、な……、なんてときに撮るのよ!」
「あ、大丈夫。大丈夫だよ。上半身しか撮ってないからね。今のはすごくいい顔だったよ。そのときの、空気みたいなのが伝わってくるベストな一枚になると思うよ。ほら」
 その場で現像された写真を、男は気前よく渡してくれた。
 恥ずかしそうに下を向くタマモの写真。
 桜の花びらがタマモを包み込むように、舞っており、どことなく幻想的ですらある一枚だ。
「あ、ありがと……」
 それから、吉川と名乗る男は笑顔のまま、去っていった。しばらく呆然とその後姿を追うタマモ。
「今のって――」
 続く言葉は。
 なんだったのだろう?
 それとも、最低?
 タマモは丁寧に咀嚼するように口に手を当てて、なにやら考えをめぐらしている。
 数秒後。
「なんか変。学校って」
 学校のせいにした。



 それからさらに、旅人のようにぶらぶらとタマモは歩いていた。
 すると、向こう側からやってきた男に再び声をかけられた。
「あー、君」
「また、勧誘?」
「そうそう。美術部どうかな。実は今、モデルになってくれる人を探しているんだけど。君みたいなかわいい子が入ってくれるとみんなのモチベーションがうなぎの滝のぼりになると思うんだけどな。どうかな、どうかな?」
「軽薄そうなセリフ……」
「軽薄そうじゃなくて、俺は軽薄なんだ」
 男はにっこり笑って、断言した。あまつさえ、タマモの白い手をさりげなく握ったりしている。
「……えろ」
 小声でタマモはつぶやく。
 視線はずっと地面に向けられたままで表情は読めない。
 男は軽く微笑んでいた。
 軽率にも。
「え? ああ、エロいのは否定しないよ。でも、それは人間のサガってやつじゃないかな。神様だって言ってるじゃないか。産めよ。増やせよって。そうそう、君の連れの女の子、あの子も健康的でかわいいよね。シロちゃんっていうんだっけ、すごいよねぇ、あの子。実をいうとさ。君を勧誘すれば、あの子ももれなくついてくるんじゃないかって緊急会議が開かれたわけ。俺達って頭いいからさぁ。将を射るためにはまず馬をっていうの? あはは、あ、誤解しないでね。君が馬だっていうんじゃないん――」
「も、え、ろ」
 男はもえた。燃えたのか萌えたのかはこの際どちらでもよかった。
 とりあえず、自称美術部員を名乗る男は、タマモの視界から消えた。



 夕方になるとさすがに人が減ってくる。行きかう人々の顔も少しだけたそがれていて、昼のような元気がない。そう思っていたら、いきなりすこぶる元気がよろしい生徒がタマモに声をかけてきた。というよりも、それはもう突進に近い。筋肉のカタマリのようだった。ものすごい球体の体型でおよそ人間とは思えなかった。
 栗の妖怪かもしれない。
「鈴木だ。よろしく」
 さすがに気おされてしまい、タマモは二の句がつげない。本能的に三歩後ろに下がってしまい、たじたじとなっている。
「……なに?」
「単刀直入に言おう。君、水泳部に入らんかね」
「入らんかねって、いきなり言われても……」
「私は水泳が好きだ」
 いきなり男が高らかに宣言する。
「諸君、私は水泳が好きだ。諸君、私は水泳が好きだ。諸君、私は水泳が大好きだ……(中略)……クロールが好きだ。平泳ぎが好きだ。バタフライが好きだ。立ち泳ぎが好きだ。……(中略)……よろしい、ならば、水泳だ!!……(中略)……(中略)……(以下、全部省略)」
 タマモは鈴木と名乗る男が演説に熱を入れる中、気づかれないようにそっと立ち去った。
 男の視線はすでにタマモからはずれている。



 下校時間になって、タマモはシロと合流した。
「どうでござった?」
「別に」
「なにやらピンとくる『視線』はなかったでござるか?」
「そうね。話しかけてこないレベルの人間は違うと断言してもいいかもしれない。そんな弱い視線じゃないからね。単なる好意や興味や好奇心、そういった類とも違って、もう少し具体的に、なんといったらいいか……カタチがあるように思う」
「空気みたいな『視線』なのにでござるか」
「空気だって圧縮したら、カタチになるじゃない。見えないだけで、力はそこに存在する。それと同じことだと思う」
「それで、話しかけてきた人のなかに、それらしい人物はいたのでござるか?」
「うーん……、一人それっぽいのがいたかなぁ……」
 タマモの声は小さくなっていった。
「誰でござる?」
 シロがすかさず尋ねた。タマモは首を振った。
「話しかけられたのは三人。写真部の吉川、美術部の部員A、水泳部の鈴木」
「それで、誰なのでござる?」
「知らないわよ。そんなの」
「さっきは一人それっぽいのが、とか言ってたでござる。数十秒前のことも覚えておらんのか」
 タマモはムスっと膨れた。焼いている途中のシュークリームのような膨れ方だ。
「だって、他種族の気持ちなんて簡単にわかるわけないでしょ」
「いやー、拙者、先生の気持ちはわかりまくっておるでござるが」
「色ボケしているだけ。知ったような気分になっているだけでしょ」
「それは聞き捨てならんでござる。拙者と先生との間には、師弟よりも硬い絆が結ばれておるのでござる」
 硬い絆とはいったいどういうことを指すのだろうか。
 タマモは、ふんと鼻をならした。
「はいはい。もう勝手にして……よ」
「ん。どうしたでござる。また、『視線』が?」
「し、静かに」
 息を潜めるタマモ。何かを感じ取ろうとしている。
「三人の中の誰なのでござるか?」
「そうか。やっぱりあのとき、何か変だと思ってたけれど!」
 タマモはその場からいきなり走り出した。風のように速く、ほとんどの人間は目で追うことすらできていない。
 一陣の風が吹き抜けたかのような速さ。
 シロもまた後を追う。昇降口で上履きに履き替えるのももどかしかったらしく、タマモは、靴のまま、屋上へと跳躍した。
 ふわりと浮き上がり、空中で姿勢を制御する。
「どうしたでござるか。いきなりすぎるでござるよ」
「ようやく……」タマモが言った。「ようやく、『視線』が誰からきているのかわかったの」
「わかったでござるか」
「ええ、気づいたら、そいつはずっと近くにいて、わたしを観察していたわ。その距離は近すぎることもなく遠すぎることもなく絶妙だった。これを見て、シロ」
 タマモが差し出したのは、今日彼女がもらった一枚の写真だった。
 ちょうど腰から上の、タマモの恥ずかしがっている表情が撮れている貴重な一枚だ。
「この写真は?」
「写真部の部長さんに撮ってもらったの」
「では、その方が、『視線』の主でござるか?」
「いいえ。違うわ。だいたい人間じゃ無理だって最初からわかりきってるじゃない。そいつは人間じゃないのよ。この写真の中に映ってるわ。しっかりとね」
 シロが写真を見つめる。そこには人間どころか妖怪の類も映っていない。
 背景には、舞い散る桜の花が映っているが。
「しかし、幽霊の類だとすると、結界が張ってある事務所にどうやって侵入したのでござるか」
「わたしにくっついてでしょうね。事務所は選択的に透過させることもある。そうじゃないと不便だし、人間にとっても危険ってことになるでしょ」
「ま、まさかっ」シロは驚きに目を見開き、じりじりと後退する。「タマモ……おぬし」
「ん。なに?」
「エキノコックスに寄生されとるのではあるまいな!」
 どがしゃ、とその場でずっこけるタマモ。
 一応、解説すると、エキノコックスとは狐に寄生するタイプの虫である。人間にも経口感染することがあるので、よい子は注意しよう。
「んなわけあるかっ!」
 タマモはべそをかいて、反論した。
 さすがにエキノコックス持ちは、少女として耐えられないらしい。
「違うわよ。そんなんじゃなくてね……。ほら、この写真、桜が舞っているでしょ」
「舞っておるのは当然ではござらんか。春なのでござるから。春に桜が咲くのは当然でござる」
「当然。そう、当然すぎる。だから気づきにくいんだけど――」
 そろそろしびれを切らしたらしい。
「いったい正体は誰なのでござる」
「ほら、この写真をよーく見て。おかしいところがない?」
 シロがじーっと写真を見つめる。
 二十秒ほど経過。
 しかし、わからないのか無言のままだ。
 タマモはトントンと写真をついた。
「この写真の桜の花びら、私を中心に舞っているのよ」
「ん。確かにそうでござるな……」
「つまり、私という小さな存在を取り巻くように、風が起こったといえる。こんな不自然なことがありうる? 人間サイズの矮小なわたしに風が螺旋を描くなんて、物理的にまったくありえないとはいいきれないけれど、かなり変よ」
「なるほど、そういうことでござるか」
 そこで、シロも気づいたようだ。
 ようやく、『視線』の先に誰がいるのかわかったらしい。やれやれ、である。
「つまり、あなたが犯人よっ」
 びしりと人差し指がある人物を指定する。
 その方向には、その先には。
 シロがいた。
「せ、拙者でござるか。いやしかし、先生の家にあったものすごーく古い、ポートピアなんたらというゲームでは確かに、そういうこともあったでござるが、拙者は無実でござる。拙者は何もしてないでござるよ」
「ちがーう。あんたじゃなくて。ほら、どうせ見てるんでしょ。でてきなさい」
 ここまで、みたい。
 やむをえませんよね。
 せっかく今まで、空気らしく空気のように観察してきたというのに。
 仮に空気を読む人間がいたとしても、登場した三人の部員の名前が、それぞれ観察しうる程度にしかわからなかったこと。それとともに、私の思考がほんのわずかに漏れでたときにしか異和は生じなかったはず。空気を読む。小説のように空気を読む人がいたとしても、行間に存在する私を感知できる者はほんのわずかだろう。
 かなりわかりやすく行動したつもりではあるが、それでも二割程度かもしれない。
 もっとも、私は確実なことしか観察してこなかった。例えば、タマモの気持ちもシロの気持ちも、蓋然性の高い感情を『推測』する場合を除いては、外形的に観察しうる行動しか見てこなかったはずだ。
 私の正体がばれてしまったのは、単純にタマモの索敵能力が優れているということなんでしょう。
 やっぱり、タマモは私が見こんだとおり、すごいパワーを持った妖狐でした。
 そして、頭がよい。
 しかたがないので、『私』は声をささやきます。
 密度を濃くすれば、私の姿を感知することもおそらくは可能だと思う。
「はーい。はじめまして」
「……ちっさ」
 シロちゃんはそういうけれど、見えるだけのパワーの凝集をするには、ちょうど二十センチ程度のサイズにするしかないのだ。
 しょうがないのだ。
 う〜ん。今まで硬い言葉で思考してきたせいか、どうも、原型に戻すのが難しいぞ。
 ぷに〜ん。えへっ。しょうがないよね。ぷにぷに。
 よーし、だいぶん崩れてきた気がする。
「あんたは空気の精霊ね」
 タマモちゃんがクールな口調で問いただしてきます。
 ものすごーく針が刺さるような口調で、私はぞくぞくとした快感が背中あたりをかけあがってくるのを感じました。
「そ〜です。エア子っていいます。よろしくタマモちゃん」
「あんた、わたしにつきまとって、どういうつもり?」
「はい。はっきりいって、好きになってしまったのでございます。ぷにぷに」
「意味が、よくわからないのですけれど」
「好き好き好きっ。好き好き好きってことなんですけど」
「あんた、どう見ても女の子でしょうが」
「ははは。空気に性別があるわけないじゃないですか」
「どーして、わたしに好意を抱いたわけ?」
「つ ん で れ」
「は?」
「ツンデレっぽいじゃないですか。その一見したところ刃物のようにツンツンしたところとか、気に入らないことがあると燃やしちゃうところとか。でもでもっ。ちょっとしたことで弱気になっちゃうところとか、もう最高。なんというか恋闘力数、五十三万って感じですよぉ。ぷに〜ん。もっともツンデレというカテゴリーで単純に分けちゃうのは、あんまり好きじゃないんですけどね。その言葉は伝達にとって、もっとも簡易であるから、いましょうがなく使用しているだけです。もともと空気である私とあなたがたとは論理のレベルが違うから、すべてをありのまま伝えることは無理なんですよぉ」
「はぁ、そうなの」
 タマモちゃんは少しだけ呆れ顔です。たとえようもない空気をかもしだしちゃってます。
「そうなのですよぉ」
「あのさ。できれば、始終見つめられていると、気疲れしちゃうんでやめてくれない?」
「あうー。わかりました。どっちにしろ私は同じ場所にはとどまっていられませんからね。季節が移り変われば、どこかに去るものですから。でも最後のお願いに、撫で撫でして欲しいです」
 瞳で訴えてみます。
 きらきら。瞳。きらきら。
 タマモちゃんは髪を指ですいてから、ふう、と息を漏らしました。
「しかたないわね。いいわ」
「わーい」
 ここぞとばかりに私はタマモちゃんの胸の中に飛び込みます。ふにんふにん。
 顔をうずめたりします。文句ありますか。空気ですから問題なしなはずです。
 あれれ。なんだかタマモちゃんの顔がひきつっているように見えるのはなんででしょう。ま、気のせい。気のせい。
 私はひたすらうずめます。ぐにぐにします。全身全霊かけています。
「あ、ひゃあ。ちょ、ちょっと、なにもぐりこんでるの」
「なんのためのこのサイズだと思ってるんですか。ロマンなのです。ロマンなのです。シロちゃんも優しく見守ってくれています。添いとげましょう。いろいろと添い遂げてしまいましょう」
「し、シロ、助けてっ」
「いやぁ。こういうとき、どんな顔をすればいいのかわからないでござる……」
 他人事のようにシロちゃんは言いました。それは正しいのです。なぜなら、まごうことなき他人事なのですから。
 だから私は言いました。
「笑えばいいと思うよ」
「はははは……」
 シロちゃんの場合、それはひきつった笑いでした。
「こ、このっ。いい加減にして」
 油断していたら、タマモちゃんに、がしりと捕まれてしまいました。
 もちろん、私を本当の意味で捕まえることなんて不可能に近いのですけれど、タマモちゃんの柔らかな肉感が伝わって、ちょっぴり快感だったりします。
 調教されちゃうんでしょうか、私。わくわくします。どきどきします。
 胸のあたりから、きゅるーんという音が伝わってくるのがわかります。
「こんなもんでいいでしょ……」
 がっかりです。げっそりです。
 がっかりしたのは私で、げっそりしているのはタマモちゃんです。
 タマモちゃんは身体の芯から疲れきっているみたいでした。しょうがない。ここらでやめとくしかないみたいです。あまりにもタマモちゃんの迷惑になるのは本意ではないのです。だったらさっさと姿を現せよといわれるかもしれませんけれど、そこはそれ、乙女心が邪魔してしまって、なかなか気持ちをストレートに伝えきれないのでした。
 ふわーり、と後退して、私は二人から距離をとります。
 タマモちゃんと視線が交わり、幸福な気持ちでいっぱいになるのを感じました。
 しかし『視線』が交わることは、終わりをも意味しているのだけれども。
「では、タマモちゃん。あなたに祝福の風を送ります」
 風は少女の始まりにふさわしい。
 深呼吸。
 甘い微笑み。
 充満する力。
 揺らぐように存在し、
 戯れるように存在し、
 疾駆するように、去っていく。
 移動することが、生きること。
 止まることは死んでしまうことだから。
 移り変わり、変更していく。
 身体も、精神も、なにもかも。
 分散し、拡散し、集合し、偏在する。
 それが私だ。
 私はあなたに言葉を与える。
 世界中の私たちが呼応していた。
「入学おめでとう」
 言葉が放たれた瞬間、そこに私はいない。
 私が消え去ったとき、タマモちゃんが何を言ったのかもわからない。
 だから、ここから先の言葉は推測でしかなく、確実なことは何ひとついえることではない。
 その言葉は虚構であり、価値などないと言うことはたやすいだろう。
 しかし、あえて私は想像してみる。そうすることが楽しい。誰かと共感している、つながっていると感じることのすべての原基は、そこから始まるのだろうから。

 空気を読もうと、私は思った。
 
初めての投稿です。
初めての登校とかけているわけではありませんが、よろしくお願いします。

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