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「恋について語るときにわたし達の語ること」

「昔ね、女の子は恋をするのが普通だと思ってた。小学校の頃よ。誰が好き、誰が素敵。
 そんな話で盛り上がってる友達の中で、恋をするのが義務みたいに考えてた」

 話題はいつのまにか共通の知人の話になっていた。
 閉店後のテーブル。
 彼女は酔いつぶれて眠る女の子にショールを掛けて、私が運んだジンをストレートのまま
傾ける。

「お兄ちゃんが好きって思ったのは、そんな頃。馬鹿みたいよね。義務で恋する相手を
 探してたんだから」

「ふふふ、でもわかります。私もそんな頃ありましたし」

 彼女ほどアルコールに耐性のない私は、魔法の手にカクテルをシェイクさせる。
 指をならせばファミリアが運んでくるグラス、浅黄色が注がれていく。

「しっかりした年上で格好良くて、いつも優しくて。お金持ち。心の中の王子様だった。
 ……ずっとね」

 私の知る『彼女のお兄ちゃん』は、それに女たらしで、という形容詞が追加される。

「今もなんですか?」

 少し意地悪な言葉を選んだのは彼女の表情があまりに純粋だったから。
 お酒の魔法にかかった彼女は、真剣に少しの沈黙を置いた後、

「お兄ちゃんはね。優しいの。いつもあたしが傷つかないように幸せになるように守って
 くれる。考えてくれる。大好きだわ……だからちょっかい出してくるあんたなんか嫌いよ?」
と、軽く怒りの視線を私に向けた。けれど微笑む口元。

「私は、美神さんが好きですよ?」

 彼女に感情をぶつけられるのはとても光栄な気がしたのだ。
 年齢だけで言うなら4つも年下。
 だけど、大学院で6年間学生だったわたしからすると、2年も早く社会に出て業界一と
いう評価を得ている社会人の先輩。

「あんたねぇ。もう、調子狂うわ」

 出会いはあんまり良くなかったかな。
 話題の人を挟んだ三角関係のように出会って、仕事関係でも私の未熟さで対立した。

「魔女ですから」

 グラスの中のオリーブを口に含むと拡がる苦み。
 ジンとベルモットを追いかけさせる。

「そっちはどうなのよ」

「私は……んー、恋なら何度か」

 唇に指をあてて微笑んだら、彼女は横を向いて眉をしかめて舌を出した。

「なによそれ。……大学生のお兄ちゃん、かっこよかった?」

「素敵でしたよ。ラグビー部でライトウイング。オカルトの研究ではヘルシング教授の
 未完成論文を正式に引き継いで博士号を取って、学籍を置いたままICPOの捜査官。
 東洋的な甘いマスクに堪能な口説き文句」

「あはは、全然誉めてないわよ」

 空のグラスを鳴らす彼女へと、シュタインヘーガーを呼び寄せる。
 オレンジ色の陶器が少しくぐもった音を立てた。

「じゃあ、そうですね。優しくてキスが上手いんです」

 勢い良く注がれるグラス。
 アルコールの強い匂い。

「ふうん」

 拗ねる彼女は可愛いと思う。
 私は軽く微笑んで、テーブルクロスにアルコールが染み込む前に言葉を足しておく。

「……そういう評判でしたよ?」

 ほっとした視線。
 彼女は本当に今でも『お兄ちゃん』を大切にしているのだろう。

「それで、好きだったのね?」

 テーブルの上に頬をつけて、上目使いに私を見つめる。
 間に置かれたショットグラスが輪郭を歪ませて。
 少し乱れた髪を手で押さえていた。

「ええ。向うで日本語で話せる数少ない相手でしたから」

 そのままの姿で頬を膨らませる。
 きつくなる視線。 
 はぐらかしは通用させてくれないらしい。

「恋してました」

 マティニをドライに振り、紅くなる頬を誤魔化す。
 してやったりと笑う彼女の表情は邪悪なほどに。

「研究に行き詰まって塞ぎこんだ私を連れ出してくれたり。魔術体系に関しての研究で
 徹夜につき合わせたり」

 marine.とネイティブの発音で彼は私を呼んでいた。
 からかうように。
 私は何度も発音を訂正して。
 それが二人のシグナルみたいに、軽い口喧嘩。

「恩人だし、パートナーみたいに思ってました。一方的にですけど」

「ふうん」

「同邦の連帯感が、恋に変わるなんてありふれた話じゃないですか」

 五年以上前。
 キャンパスであの人を見かけるたびにその視界の中に飛び込んでいた私。
 ありふれた話を求めて。
 ありふれた話なんて滅多に無いという事を知らされた。

「結局はもてもての先輩に憧れるだけの後輩。そのうち先輩は卒業しちゃって、私は研究が
 恋人の日々ですよ」

「あんた、男受けしそうなのにね」

「美神さん程じゃないですよ?」

 彼女との会話はテニスゲームみたいで面白い。
 気を抜くと鋭角なリターンが来るのだ。

「あたしは。ダメだなー。最近色恋と遠いわ」

 ポイントを取ったみたいなので追撃をしてみる事にした。

「彼、はどうなんですか?」

 彼女に一番近い位置に居る男の子。
 名前を出さなくたって思い浮かぶのは同じ顔。

「どうなんだろ」

 吐息して、テーブルに頬を置く。
 子供っぽい仕種は彼に対する心理そのものなのかもしれない。

「年下の男の子は放っておくと奪われちゃうものですよ」

「誰によ」

「そうですね、彼女とか」

 安らかな寝顔の少女に目を向ける。
 痛い所だったのか、美神さんは本格的に吐息した。

「あるいはシロちゃん?クラスメイトとか後輩さん?」

 思い当たるのだろう。うめきと吐息の中間の声を出して眉間に皺を寄せる。

「詳しいわね」

「結構、この店を使ってくれるんですよ?女の子を連れて行ける店を他に知らないって
 言ってましたけど」

 あれは、後輩の女の子の誕生日だったかな。
 家庭の事情でちゃんとお祝いをしたことが無かった、という彼女のためにと企画された
パーティは、彼女自身の希望で二人きりの密やかなものになった。
 学校の友達の尾行を振り切れなかったとやらで、結局どんちゃん騒ぎになってしまった
のだけれど。

「あたしを誘うことなんかないのに」

「美神さんから誘ってあげればいいじゃないですか」

「ここに?」

 頷いたら、彼女は再び頬を膨らませる。

「やーよ。あいつ絶対、アンタに飛び掛るもの」

「あんなの社交辞令じゃないですか」

 店に入るなり手を取って来るのは彼だけじゃない。
 愛してるという言葉を親愛にも敬愛にも使う男の人は少ないわけではないのだ。

「下心を隠さないでいてくれるんだから、フェアですよ。彼は」

「嘘が下手なだけだわ、正直者って訳じゃないし」

「もう、素直じゃないですね。本当に」

 なによ。と小さく呟いて、体を起こした彼女はグラスのジンを流し込んだ。

「いいのよ。素直になっても誰も幸せになんないんだから」

 かつて、わたしが美神さんと出会った時。
 彼女は彼を丁稚と呼んでいた。
 今でも、時々『あたしの丁稚』と言っている。

「きっと、美神さんは幸せになれますよ」

 所有格を宣言するほどに、彼女の心を占めている男の子。
 少しイライラするほどに互いに惹かれあっているこの二人が上手く行かない理由は、
少なくない。

「どーだろ。……泣かせたくないしね」

 眠ったままの女の子。
 美神さんの一番近くにいる彼女も理由の一つ。

「弱気ですね?」

「かもね。……素直になるのが良い場合と悪い場合があるのよ。あたしは、そういうの
 見極めるのが下手だから」

 だから、と美神さんは言葉を重ねる。

「本当に素直な子たちの邪魔したくないわ」

「嘘つき」

「いいの。嘘が悪いことだとは限らないでしょ?それにこの子達が幸せになる方が、あたし
 多分本当に嬉しいわよ」

 優しい微笑みは普段の彼女からは想像もつかない。

「もっと我侭になっても許されますよ、美神さんは」

「あたしにそんな事言うの、あんたぐらいじゃない?」

「わたし、我侭ですから。魔女ですもの……年下の男の子に惹かれてる自分を否定したり
 しないくらいには」

 半分の冗談。
 半分の本当。
 出会い方が違えばきっと、わたしはきっとあの男の子を好きになっていただろう。
 そう思えるくらい、彼は魅力的なのだから。

「あんたはお兄ちゃんがいいんじゃないの?」

「あれは"昔の恋"です。あの人は恋をするには充分だけど、愛する人には足りないわ」

「ひっどいわねー、この性悪女。……わかるけどさ」

 最後のジンがグラスに注がれる。
 けして低くないアルコール分は彼女にきちんと染み渡っているらしい。

「もう恋だけじゃ、ダメなのよね」

 言葉と一緒に漏らした吐息は嬉しそうで、少しだけつらそうだった。

「贅沢になっちゃいましたね、わたし達」

「贅沢の果てが、アレじゃ報われないケドネ」

 鳴らしたグラスは高い音を響かせて。
 贅沢者たちの喉に流れ込んでいくのだった。

(アメフトとラグビー混同を修正……失礼いたしました)

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