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魔界転生  −末−

まるで何かを求めるように、ゆらり、と伸ばしたおキヌの手が伸びる。
シロはそれを斬るでもなく、薙ぎ払うでもなく、力なく、ただ払い除けた。
剣の使い手にあるまじき所作では、およそ紙一枚ですら切ることは出来ない。
そのことを誰よりも知っているはずのシロには、己の切っ先の行方がわからなかった。

上体を開き、淡く光りながら宙を泳ぐ霊波刀は、まるで吸い込まれるかのように、おキヌへと向かっていく。
白く細い首筋に触れ、刃先がゆっくりと沈んでいく。
己の言うことを聞かぬ右手には、肉を斬る感触も、骨を断つ衝撃も伝わってこない。
まるで、絹ごしの豆腐でも切ったかのように、すっと横に滑ったまま通り抜けた。

「・・・あ、ああ―――――」

なにが起きたのか、咄嗟には理解できないシロは、まるで呆けたような声を漏らす。
脇を固めていたはずのタマモが、手にした狐火を放り出す様を横目で見ても、それが何を意味するのか理解出来ず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

「おキヌちゃんっ!!」

ほとんど悲鳴に近いタマモの甲高い声を聞いて、シロはようやくに自分が何をしてしまったのか悟った。

「お、おキヌどのっ!!」

タマモと共に、急ぎ駆け寄ろうと一歩足を踏み出した次の瞬間、二人は硬直して足を止める。
風が凪ぎ、再び凍りついたような静けさが張り詰める中、春の訪れと共に露と消える椿のように、おキヌの首がぽとり、と落ちた。



「い、痛っーーーい!」

眼前で起きた、あまりの惨劇に周章狼狽する妖怪二人をよそに、おキヌの場違いな悲鳴が上げる。
固い地面の上にごろりと転がり、落ちた拍子に顔面を強打したおキヌが、少し涙目になりながら見上げている。

「もう、シロちゃんったらひどいんだから・・・」

「も、申し訳ござら・・・ぬ」

おでこを赤く腫らし、頬にうっすらと土をつけたおキヌの抗議に、シロはつい生返事をしてしまう。
その声の様子はとても、たった今自分が切り落とした生首がしゃべっているものとは、間近に聞いていても信じられなかった。

「あーあ、やられちゃったな」

まるで、試合にでも負けたかのように明るく話すおキヌの口ぶりは、およそ死に瀕している者の声ではない。
見事なまでに綺麗に切断された首筋からは、一滴の血も流れ出ることはなく、ただただ横になっているばかりだった。
背後に控える、主を失った巫女服姿の胴体もまた、純白の衣を朱に染めることもなく、ちょうど正座をするような格好で佇んでいる。
その様を見て、やはりおキヌはもう人間でないのだということを、シロは否応無しに思い知らされたのだった。

シロはがくり、と膝から崩れ落ちると、今だ固い腕を精一杯伸ばし、横たわるおキヌの首を拾い上げる。
ぶるぶると震える指で、頬についた汚れをそっと拭うと、自らの胸に押し当てて掻き抱いた。

「ちょ、ちょっと、シロちゃん!?」

「赦してくだされ! 赦してくだされ! 赦して――」

ぐっ、と抱きしめられて戸惑うおキヌだったが、赦しを請うシロの声に口をつぐむ。
春の野山に響き渡るシロの慟哭に混じり、タマモの嗚咽も聞こえてくる。
手があれば、二人の頭を撫でてあげるのに、とおキヌは思ったが、その手はもう二度と動かすことは出来ない。
おキヌは静かに目を細め、きつく抱きしめられたまま、二人の、女と少女の涙に濡れるにまかせていた。



どのくらい経ったのだろうか。
狂ったように、なおも赦しを請い続けるシロの腕の中から、おキヌはそっと声をかける。

「―――ね、シロちゃん、もう、そんなに泣かないで」

「でも―――でも・・・」

「私は大丈夫だから。ね?」

年ではもう追い越されたはずのシロを、まるで子供を宥めるようにおキヌが語りかける。
その言葉に導かれるまま、シロはゆっくりと身を起こし、ぐっ、と涙を拭う。
赤く潤んだ目から、また一筋、涙が落ちて流れた。

「二人には悪いことしちゃったけど、多分、これでよかったのよ。だから、そんなに自分を責めないで」

首だけになったおキヌは、どこか晴れ晴れとした表情で話す。
事実、これでもう誰かを――人間を殺さなくて済むかと思うと、死ぬことよりも、安堵する気持ちのほうでいっぱいだった。

いかに捕食のためとはいえ、無意識のうちの出来事とはいえ、自分が人を殺し、食べていたことに誰よりも深く悩んでいたのは、おキヌその人に他ならない。
そのことを悔いて死のうと思っても、人ならぬ身の自分に、自らを殺す手段のあるはずもない。
ゆえに、おキヌは他の誰か、自分を滅ぼすだけの力を持つ誰かに、自分の退治を依頼するより他なかったのである。
それが無事に実を結んだ今、目的を果たせることの喜びのほうが、おキヌにとってははるかに大きかったのだ。

「それにしても、シロちゃんもずいぶん強くなったね―――」

素直に感心するおキヌの言葉に、シロはぴくり、と反応する。

「さすが、横島さんの一番弟子ね」

「そんなことはないでござるっ!!」

おキヌの口から出た横島の名前に、シロは急に声を荒げる。
今まで忘れていた、いや、忘れるように努めていた、そもそもの原因となった男の名を耳にして、シロの胸にどす黒い感情が沸き上がる。

「拙者は―――拙者は先生のことが許せないでござる!」

「シロちゃん・・・」

「先生さえあんなことをしなければ、おキヌどのがこんな―――」

シロは歯を食いしばり、何もない虚空を睨みつける。
仮に恨みに思うとしても、その相手はもうこの世にはいない。

「ねえ、シロちゃん、そんなこと言わないで。横島さんを許してあげて」

「しかし―――」

なおも表情を崩さないシロを見上げ、肩越しに背後の空を見る。
傾いた太陽は山の稜線の彼方に去り、絹雲が赤白く照らされている。
もう、いつまでもこうしている時間は残されてはいない。

「―――じゃあ、ほんのちょっとだけ本当のことを話してあげる」



「シロちゃん、ルシオラさんのことは知ってる?」

「生前、先生が惚れたとかいう魔族のおなごでござるな。でも、それが―――」

それがどうしたというのか、おキヌの口から、他ならぬ女の名前が出てきて、シロはより一層不快な面持ちになる。
横島の名だけでも聞きたくないのに、さらに他の女のことなど、尚更であった。

「細かいことはいちいち話さないけど、死んでしまったルシオラさんは、もしかしたら横島さんの子供として生まれ変われるかもしれなかったの。ここまではいい?」

「拙者にはよくわからぬでござるが、どうもそのようでござるな」

「横島さんも複雑な気持ちだったとは思うけど、それでも、ルシオラさんを幸せにしてあげられるようにしたい、って言ってたわ」

「なるほど。しかし、それとおキヌどのと何の関係が?」

「―――あのあと、私と横島さんが付き合ってたのは知ってる?」

「それはまあ―――薄々とでござるが」

当時の自分の気持ちを思い出し、シロは中途半端な顔つきで答える。
やっぱりばれてたのね、とおキヌは照れくさそうに笑った。
もう何年も前の話なのに、こそこそと隠れて付き合っていた日々が、つい昨日の事のように思い出された。

「でね、私が死んじゃったあのときなんだけど・・・出来ちゃってたのよ」

「何がでござる?」

「何がって、その・・・ルシオラさんが」

朴念仁みたいなシロの問いに、おキヌは恥ずかしがって小さな声で答える。
反対に、問い詰めるシロの声は大きくなるばかりだった。

「ルシオラどのということは・・・も、もしかして!?」

「そう、赤ちゃんよ」

「あ、赤ちゃんでござるかっ!?」

「もう、恥ずかしいからそんな大きな声で言わないで」

日暮れ間近の、他の誰一人として聞く者とてない山の中なのに、おキヌは顔を真っ赤にして抗議する。
恥ずかしさのあまり、このまま消えていってしまいそうだった。

「・・・いやあ、先生とおキヌどのが付き合っているだろうとは思ってごさったが、まさかそんな深い仲になっていようとは」

思いもよらぬおキヌの告白に、シロは驚きの声を漏らす。
子供じゃあるまいし、あんた何言ってんのよ、と刺すタマモのつっこみも、さして耳には届いていなかった。

「私が死んだだけだったら、もしかしたら横島さんはまだ大丈夫だったかもしれないの。たとえばシロちゃんとかタマモちゃんとか美神さんとか、あるいは他の誰かと結婚して子供が生まれれば、ね」

「そ、そんなこと・・・」

「でも、ルシオラさんは私と一緒に死んじゃったから、もう二度と復活するのは無理になっちゃったのよ」

「―――――」

「だから、たぶん、横島さんはあんなことしたんだと思う。私と―――私を通じて生まれてくるはずだったルシオラさんに会いたい一心で、ね」

あの日、ビルの屋上に描かれた稚拙な魔方陣によって呼び出され、再会したときのことを、おキヌはそっと振り返る。
横島の、今にも泣き出しそうな顔、嬉しそうな顔、そのあとの恐怖に駆られて後ずさりするときの顔。そして、足を踏み外し、落ちていくときの顔。
その顔の一つ一つが、今まで自分の手に掛かって死んだ犠牲者たちのそれに重なって見えた。
あんなことさえなければ、こんなことにはならなかったのに、幾度となくそう思い、悲しみに深く沈む。

けれども、おキヌには横島を恨む気持ちは毛頭ない。
不幸にしてこのような結果にはなったけれども、横島の自分に、そしてルシオラに会いたいという思いには偽りはなかったからだ。
女は男に深く愛されれば、一生孤独に悩むことはない、どこかの小説で読んだ一節が、何故かふと思い出された。
かくも大きな犠牲を払った事の動機が、愛でなければつまらなさ過ぎる。

「しかし―――それで、おキヌどのはいいのでござるか!? こんなことで一生を終えてしまって、恨みには思わないのでござるかっ!?」

あまつさえ、魔物にさせられてしまって、とは言わなかった。
それでも、おキヌには伝わっているに違いない。

「残念、といえば残念だけどね。でも、しかたがないのよ」

「そ、そんなことはござらぬっ!!」

「人は皆、自分の思い通りに生きていくことはなかなか出来ないのよ。事故や怪我なんかで、不充分なままで死んじゃった人なんて沢山いる。それはシロちゃんも沢山見てきたでしょう?」

予期せぬ出来事で死んでしまう、あるいは殺されてしまうなどして、成仏できずに現世にさ迷う悪霊は数多くいる。
それらを祓うGSとして、もっとも身近に接してきたのがおキヌであり、シロたちであった。

「私たち、もともとは命なんて持ってなかった。だから、消えてなくなるのは生まれる前に戻るだけなの。だから・・・」

そう言っておキヌは、満足そうににっこりと笑った。
シロには、もうそれ以上、何も言う言葉は残されてはいなかった。



夜半を過ぎ、満天の星明かりの下に、ぼんやりと二つの影が映る。

「シロ―――」

微動だにせず、ひた寄せる冷気から守るかのように抱き続けるシロに、それまで傍にいたタマモが声を掛ける。
事あるごとに名を呼ばれていたシロは、その度に身体をびくっ、と震わせるが、それでも動こうとはしない。

「シロ!」

それまでは一度だけであきらめていたタマモが、今度ばかりは語を強めて呼び直す。

「なんでござる・・・」

「もう、いいでしょう?」

「まだ、もう少しだけ・・・」

駄々をこねる子供のようなシロの返事に、タマモはいらだつ様子も見せず、ゆっくりとした口調で諭す。

「あんたがずっとそうやってたら、おキヌちゃんはいつまでも死ねないわよ?」

「いやでござる・・・ おキヌどのはまだ死んでなど・・・」

そう呟いて、僅かに腕の囲みを緩める。
シロの腕の中には、目を閉じて穏やかな表情のおキヌの首があった。
あれ以来、おキヌは二度と口を開くことも、目を開けることもなかった。無論、寝息を立てているわけでもない。
ただじっと、安らかな死顔のままで抱かれていた。

傍らに座していたおキヌの身体は、もうとっくの昔に渇ききり、灰と化して霧散して消えた。
夜になって吹いた風に蒔かれ、もはや後を追うことは誰にも不可能だった。
だが、それでもなお、おキヌは滅んではいない。

「おキヌどの・・・」

幾度となく名前を呼びかけるが、やはりおキヌは応えようとはしない。
今にも目を開けて、優しく自分の名を呼びそうに見えるが、囲みを解かれた首は、早くも乾き始めていた。

「赦してくだされ」

シロは最後の赦しを請うと、おキヌの首をそっ、と地面の上に置いて立ち上がる。
いっそ、抱いたまま一緒に焼かれたいとも願ったが、それをおキヌが許すはずもない。
ふらふらと傍に立つのを見届け、タマモが小さな狐火を放った。
狐火が触れると同時に、おキヌの首は青白い炎を上げて燃え上がる。
熱くもない炎の向こうに消えていく様を、二人はじっと立ち尽くしたまま、燃え尽きるまで眺めていた。



輪廻転生を思わせる朝陽を前に、シロとタマモは御呂地岳の山道を下山する。
眼下にかかる朝霧に向かい、ゆっくりと降りていく。

「ねえ、シロ」

「なんでござる」

「あんたは、これからどうするの?」

「これから、でござるか・・・」

何ともないタマモの問いかけに、シロは答えに窮する。
はたしてこれから自分がどうするのか、考えてさえいなかった。

「・・・いかが致そうかの」

「あんたには帰る家があるんだし、それでいいじゃない」

素っ気なく言うタマモだが、今はなんともありがたかった。
家に帰ってもいい、そう言われてはじめて、帰る事を許された気がしたからだ。
しかし、同時に不安が心を過ぎる。

「・・・お主はどうするのでござる?」

世を捨て、帰る家も家族もいないはずのタマモはどうするのか、その恐れが口をついて出た。
見透かすようなその声に、タマモは思わず苦笑いする。
露と消えるのは、サル関白だけで充分だ。

「そんなことはしないわよ―――そうね、東京に行こうかと思うわ」

「東京?」

「会って話をしないとね」

「―――ああ、そうでござるな」

そう言われて、シロはかつて皆が一緒に住んでいた事務所のことを思い出す。
おキヌはおキヌなりに気遣って、知らせることのないように頼んではいたが、いつまでも蚊帳の外に置いておくという訳にもいかない。
誰かが行って、見て聞いて手を下したことを伝える必要があった。

「しかし、そうなるとお主には荷が重たかろう?」

今もまだ、中学生くらいの姿のままのタマモを見遣り、シロが思ったことを口にする。
人づてに、かなり荒れた生活を送っていると聞く相手では、さすがにタマモだけでは分が悪い。

「わ、私一人で充分だってば」

「いやいや、まだまだお子様の女狐には、美神どのの相手は無理でござるよ」

「ふんだ! いくら大人になったからって、馬鹿犬なんかの助けなんかいらないわよ!」

「拙者は犬ではなく、狼でござる!」

「なによっ!」

「やるでござるかっ!」

他愛もない理由で始めたケンカに、唸り声を上げて睨み合っていた二人だが、ふと、

 (まあまあ、ふたりとも)

と、仲をとりなすおキヌの声が聞こえたような気がして、思わず笑い出してしまった。
あまりにおかしくて、二人とも涙を流して笑いながら、山道を駆け降りていく。


行く先の太陽はすでに山の稜線を離れ、朝露も霧も、もうすっかりと晴れ上がっていた。
ちょうど一ヶ月あまりかかった舞台劇ですが、これにて終幕と相成りました。
相変わらずクセの強い作品で恐縮ですが、御読み戴けたら幸いに存じます。
どうもありがとうございました。

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