『ヒュプノスな午後』
昼も過ぎて怠惰を身に纏い起きだして来たタマモが部屋に入った時、そこには奇妙な光景が広がっていた。
令子は明日は買い物とやらで出かけるとは聞いていた。それは問題ない。
問題なのはバイトも無いのにやってきた横島の足元で寝ているシロ。
それに窓際でチュンチュンと歌っているおキヌである。
シロが横島に懐いているのは知っている。
だけど今のシロの姿はどうだろう。
なぜソファーがあるのにまるで愛玩犬よろしく横島の足元で丸くなって寝ていなきゃならんのか?
もしやついに人狼のプライドなんぞ捨て去ったのか?
それは妖怪としてどうなのだろうか?
さらにおキヌちゃん。
ピョンピョンと跳ねながらチュンチュン鳴いているのはどういう芸風なのだろう?
いや…確かに可愛いといえば可愛い。
羽のつもりなのだろうけどパタパタと手を振っているなんてマニアの人が見たら涎で溺死しかねない破壊力だ。
だけどタマモが知っているおキヌはそういうキャラじゃないはずだったのに。
タマモの頭上に浮かんだ疑問符の大群がふわふわと風に乗って部屋に漂う。
それに気がついたのか横島が振り向いてタマモにニヤリと笑いかけた。
目にはかすかに勝者の優越と敗者への労わりの色がある。
「なによ!」
「んー。別にー」
別にと口では言いながら表情は変わっていない。
それがますますタマモの勘に触った。
「言いたいことがあるなら言えばいいでしょ!」
「いやな…幻術って大したこと無いなーと思ってな」
「な?!」
今、何を言いやがったこの野郎とタマモの毛が逆立つ。
なにしろ彼女は妖狐である。
狐と言えば化かす。これは世の真理。
それを「大したこと無い」と言いやがったのだ。
これが許せるはずがあろうか、否、あるまい。
「どういう意味よ!」
「古本屋で買った本を見ながら試しにちょっとやってみたんだが結構上手くいってなぁ…」
横島がユラリと立ち上がるとタマモに向けて手を突き出した。
手の先で揺れるは糸で吊るされた五円玉。
思わず目をこらしてその意味不明な物体を見つめるタマモの脳に沁み込むような低い声音。
「…お前は猫だ。猫になるのだ…」
所謂ところの催眠術。それもかなりベタな方法。
だが横島の霊能のせいなのか意外と効果は高そうだ。
なにしろタマモの脳裏にはすでにニヤンゴロニャンと甘える子猫の画像が舞っていたりする。
いけない…このままではいけない…とにかくいけない。
だって化かすは狐の得意技。
耐えねば…なんとしても耐えねばと必死に唇を噛むタマモ。
口の中に広がった血の味が彼女の意識を研ぎ澄ます。
「そんな術なんて効くわけないでしょ!!」
歯を食いしばり顔を洗おうとする右手をなんとか押さえて高笑いする横島を睨みつける狐の少女。
負けてたまるか! こんなチープな催眠術にかかってたまるか。
見ていて全国の狐たち。私に力を!!
「本物の幻術を見せてやるわ!!」
タマモの髪の毛が逆巻き、霊気が部屋を駆け巡る。
圧倒的ともいえる霊気の奔流に勝ち誇っていて不意を突かれた横島が耐えれるはずもなく、彼は自らのアイデンティティを失った。
だが彼も曲がりなりにも霊能者。
崩れ落ち、床に転がり、蛇のようにのたうちながら落ちていたボールペンを咥えて自分の肩に突き刺した。
「くっ! 危ないところだったニョロ!」
とは言うもののさすがは伝説の妖狐の幻術、思いっきり効いていた。
これ以上ないってぐらい横島は蛇だった。
さて蛇と狐、どっちが強いと言われれば自然界は厳しいもので、毒があれば蛇の勝ち。
そうでなけりゃ狐の勝ち。
だけど横島に毒などあるはずもなく、ニヤーと笑いながら舌舐めづりして横島に近づいたタマモの右手が風を切る。
「猫パンチ! 猫パンチ!!」
「ぬおっ! ぐふっ! おまっ! 実は効いてっ!」
ついでに両足もミニスカから太股とかパンツが見えているなんて気にせずに風を裂く。
獲物を狩るのに手加減は無用なのだ。
「猫キック! 猫キック!!」
「ぐほうっ! うげっ!!」
「トドメにゃ! 猫シャイニング・ウイザード!!」
「ぐはあぁぁぁっ!!」
あんまり猫っぽくない大技の前についに横島の命運は尽きたかと思われ、タマモが勝利を確信したまさにその一瞬、ニョロリと転がりながらも身を起こした横島の両眼が光った。
「俺は負けんニョロ!!」
昔から蛇の視線には魔力があると言われている。
さらに横島は曲がりなりにも霊能者、その相乗効果が予想外に強かったのがタマモにとっては痛恨の計算外。
「な、なににしたのよケロケロ!?」
何をしたかなんて聞くまでも無いだろう。
ケロケロ鳴くような生き物は大抵はカエルと相場が決まっている。
そしてカエルは蛇の大好物。
横島がニョロニョロと舌なめずりしながら近づいてこられてタマモは思わず固まった。
まさに蛇に睨まれたカエル状態。
哀れこのまま天敵に飲み込まれるかタマモ!と息を飲んで見守る一羽のスズメと愛玩犬。
だがタマモとて伝説の妖狐。
例え今にも跳ねそうにしゃがみこんでしまったとはいえ、妖狐のプライドは簡単には折れたりしない。
ここで屈するものか!と必死に妖力練り上げて目の前に迫った蛇をにらみつけた。
しかし横島もコレを読んでいたのだろう。
もう一度、蛇と霊能者と煩悩の力を乗せた眼力がカウンター気味にすれ違い、二人は同時に倒れた。
もっとも一人はもともと倒れていたけれど。
今度は二人とも声が無い。
ていうかパタパタと二人してもがいている。
よくよく見ればパタパタという擬音よりはピチピチと言うほうが的確だろう。
二人の顔色がどんどん青から土気色に変わっていくのは呼吸困難か。
しばらくピチピチピッチともがいていた二人だが、目を合わせて頷き合うと同時に妖力と霊力を開放した。
「ぜーっ…ぜーっ…あほう! 魚にされたら陸じゃ死んじまうだろうがイナゴ!!」
「わ、私だって死にかけたわよトノサマバッタ!!」
「だいたいフナってなんじゃイナゴ!!」
「あんたこそアンコウってなによ! 水圧が足りなくて危なく口とかお尻とかからヒロインとして出しちゃいけないものが出そうになったわよっトノサマバッタ!!」
ついに脊椎動物から一足飛びに昆虫にまで落ちた両者。
なんとなくタマモのほうが強そうだけど虫は虫。
しかも草食。
どこぞのゲームじゃあるまいし、イナゴとトノサマバッタがガチンコするなどありえない。
だったら価値の問題かと言えばイナゴよりトノサマバッタの方が偉そうだった。
だって殿様だもん。
「ふっふっふっ。どうやら最後は私の勝ちのようねトノサマバッタ」
「くっ…イナゴとて食えば美味いのにイナゴ…」
がっくりと肩を落す横島と勝ち誇るタマモ。
二人は忘れていた。
彼らより食物連鎖の中で上位にいる生き物がここには生息していたことを。
バッサバッサとの羽音に振り向く二人の前に降り立つは一羽のスズメと一匹の愛玩犬。
ニッコリと二つの笑顔がそれぞれの獲物に襲い掛かる。
「ちょっ! おキヌちゃん! 痛いっ! 痛いってイナゴっ!!」
「シロっ! 止めてっ! 齧らないでトノサマバッタ!!」
「チュン♪ チュン♪」
「わん♪ わん♪」
「ああああっ! それはミミズちゃうねんイナゴっ!!」
「きゃああっ! 痛いってばぁぁぁ!! 変なとこ触るなぁトノサマバッタ!!」
こうして大自然の摂理の前に美神令子除霊事務所はバッタとイナゴの断末魔が響き渡り、しばらくして不気味な静寂へと包まれていったのであった。
「ただいまー、あー、疲れたー。休日に買い物なんて行くものじゃないわねー」
両手に買い物袋をいっぱい下げていては説得力のない台詞を吐きながら令子が応接室のドアを開け、そのままの姿勢で顎を落す。
息も絶え絶えの横島とタマモが半裸で転がっていたり、その横でおキヌが嬉しそうにチュンチュンと飛び跳ねていたり、シロが遊びに飽きた愛玩犬のように足で首筋を掻いてるなんてのを一目見て状況が理解できるほど彼女は非常識ではないのだ。
判らないことは人に聞くのが一番。
特にこんな修羅場なんだがマヌケなんだかわからない場面なら躊躇するいわれはない。
「あ、あの…人工幽霊…いったいなにがあったの?」
『さあ? 私にもよくわかりませんショウリョウバッタ』
手から落ちた買い物袋の中で高級地鶏卵の割れる音が響く美神令子除霊事務所は、今にも飛び跳ねそうにプルプルと震えたそうな。
おしまい
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