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魔界転生  −後−

御呂地村より逃げ帰ってから数日、犬塚シロは家から外に出ようとはしなかった。
こじんまりとした門も雨戸も閉ざし、まんじりともしない日々を過ごしていた。

あの日、自分はおキヌの影に怯え、無様な姿を晒して逃げてしまった。
由緒ある犬塚の家を、誇り高き人狼の名を汚してしまった。
微かに漏れる薄日が室内をぼんやりと照らす中、シロは板張りの床に座したまま、拭っては沸き起こる自責の念に苛まされていた。

ふと、思い詰めた顔をして、右手に霊波刀を形成する。
ぼんやりと青白く光る刃先は鋭く、切っ先がシロを妖しく誘う。
このまま腹を切って、あるいは喉を突いて果ててしまおうか、幾度となくそう思いながらも出来ずにいた。
やがて念が乱れ、ぶれ始めた霊波刀は霧散して消えてしまう。
そのことが、更に己を責めたてていた。

昼か暮かもわからない頃、閉ざされた戸が、がたがたと音を立てた。
シロはわずかに身を固くするが、座ったままで戸口をじっと見つめている。
その声が恐れている相手のものではないことに、詰めた息を静かに吐いた。

「ふう、やっと開いたわ」

開けるのに少々コツのいる引き戸に閉口しながら、狐の少女が姿を現す。

「なによまったく。暗いわねぇ」

だらしなく靴を脱ぎ捨てたタマモは、断わりもする前にずかずかと上がり、シロの前を横切って雨戸へと手を掛ける。
何を、とシロが止める間もなく、タマモは滑るようにして次々と雨戸を開いていった。
急に差し込んだうららかな春の日差しは、まるで真夏のように暑く感じられた。

「これでよし、と」

最後の戸を開き終わると、タマモは満足げに手を叩き、粗末な庭から空を眺める。
夜半に降った雨のせいか、まばらに絹雲の浮く青空は澄みわたり、芽吹く前の山肌がはっきりと見える。
ほんの少し肌寒い風の中を、雲雀が春を告げて舞い上がっていった。

「こんな天気の良い日にわざわざ引き篭もっているなんて、あんたらしくないわよ」

くるり、と室内に降り返ったタマモが、あきれ果てたような声を掛ける。
努めて昔と同じように、ちょっと小馬鹿にしたような顔をしてみせるが、生憎とシロは顔を向けようとはしない。
板の間に正座する姿勢を崩そうともしないまま、開け放たれた戸をじっと見つめていた。

「やれやれ―――」

頑ななシロの態度に、タマモは肩をすくめながら言った。

「そんなに心配しなくても、おキヌちゃんはここまでやって来ないわよ」

「―――!!」

半分ほどしか届かぬ陽の影の中、ようやくに反応を示したシロが目を見開いて凝視してくるが、タマモは立ったままで受け止める。
射殺すような視線は容赦なくタマモを貫くが、傍目には動ずる素振りも見えなかった。
気まぐれに強く吹いた一陣の風が、土間のほこりをふっ、と巻き上げた。
喉をつく不快感に、タマモは軽く咽び込む。

「―――ちょっと水を一杯もらうわよ」

こほこほ、と乾いた咳をして、タマモが無防備な背中を晒したとき、音も立てずにシロが襲いかかった。

「うぐっ!?」

何をする、と言おうとした声は、首の付け根をわし掴みに締め上げられたせいで、くぐもった空気音を立てるだけだった。

「これ以上、拙者を愚弄するというのなら、たとえお主でも許さぬ」

タマモの白く細い首に、シロの指が徐々に食い込んでいく。
以前はたいして変わらぬ背丈だったものが、今では頭一つ抜けている。
水平に伸ばした腕からぶら下がるタマモの足は、かろうじて爪先立ちで付いているだけだった。
こちらからは顔の見えぬタマモの首筋は、始めのうちは赤く、やがて、青白く変わり始めている。

不意に輪を狭める指の力が緩むと、タマモの身体はどさり、と床に崩れ落ちた。
涙を流して激しく咳き込むタマモの様子を、シロは様々な感情の篭った色の目をして見下ろしていた。

「・・・あ、あんた、ずいぶんと・・・えげつない・・・真似を・・・するように・・・なった・・・じゃない」

タマモは途切れ途切れに抗議の声を上げるが、シロは取り合おうとはしない。
仁王立ちになったまま、まだ幾分怒気を含んだ、それでも努めて冷静になろうとしている声で問い詰める。

「お主、いったい何を企んでいる?」

「何も、企んでなんかいないわよ」

「嘘を申すな。”あれ”はいったい何でござる?」

「だから、さっきも言ったじゃない―――」

シロが無意識に避けた者の名を、タマモは事も無げに言う。

「おキヌちゃんよ」

まるで、親しい友人でも紹介するかのようなタマモの口ぶりに、シロはついに堪えきれなくなって声を荒げた。
両の手を、血がにじむほどに握り締めていなければ、今度こそタマモの首を捻り切ってしまいかねない勢いだった。

「そんなはずがあるかっ!! いかに幽霊になったとはいえ、おキヌどのが、おキヌどのが―――」

先日、御呂地村で見た”あれ”の姿を思い出し、シロは肩を震わせる。
己の明敏な嗅覚が感じ取った、ある一つの事実。
その事実を、シロはどうしても受け入れることが出来なかったのだ。

「おキヌどのが人を食らうなど、あろうはずがござらぬっ!!」

まるで、忌まわしき悪霊を祓うかのように、シロは肩を震わせながら吼えた。



「シロ」

シロの怒気をまともに受け、乱れた髪を直しながらタマモが声を掛けると、シロはじろり、と睨んだ。

「あんたはひとつ思い違いをしているわ」

「何をでござる?」

「あれは間違いなく、おキヌちゃん本人よ。でもね、幽霊なんかじゃないわ」

「ならば、なんだと言うのでござる? まさか、生きている人間だ、などと言うつもりでもあるまい?」

おキヌは生きているはずがない、自らにそう言い聞かせるようにシロは聞き返す。
その様に、タマモは残念そうに頭を振った。

「もちろん人間じゃないわ。今のおキヌちゃんは、そう・・・」

適当な語を思い浮かべるために、ほんの一拍、間を空けた。

「―――魔物よ」



六年前、極々僅かな隙を悪霊に襲われ、おキヌは死んだ。
その魂は安らかなる成仏を果たし、その遺体も荼毘に付された。
数奇な運命をたどった彼女は、無事に輪廻の輪に加わり、いつかまた生まれ変わって、再び人としての生を歩む旅に出るだろう。
確かにその生涯は短か過ぎたとも言えるが、それでも、精一杯生きたという充実感に溢れていた。

だが、残された者の命運は、些か様相を異にする。
無防備であったおキヌを守れなかった、という後悔の念は、互いを、そして自らを激しく責め、大いなる禍根を残していた。
彼らは、表面上は立ち直ったかに見えたが、零れ落ちた水は盆に帰ることはなく、ふとしたことで度々傷口を開かせた。
もともと彼らと関わりの薄かったタマモは、そんな事務所の様相を嫌い、ある日を境に彼らの前から姿を消した。
あとはもう、糸の解けた織物のように、瓦解するのは時間の問題だった。

「おキヌどのがいてくれたら・・・」

改めて思い起こされた苦い過去に、シロは誰に言うでもなく呟きを漏らす。
そして、その呟きを聞き逃すタマモではなかった。

「そう、あの時は誰もがそう思ったはずよ。あんたや、私も含めてね」

「―――」

「もちろん、そんなことが叶うはずもないわ。でもね、それを実現しようとした馬鹿がいたのよ」

「それは―――」

誰でござる、と言おうとして、シロは口を噤んだ。
改めて口に出すまでもなく、そんなことをしようとするのは一人しかいない。

「反魂の術を使って、おキヌちゃんを生き返らせることが出来たのは、もしかしたら他にもいたかもしれない。でも、そんなことをすることが出来たのは、横島以外には誰もいないはずよ」

タマモは侮蔑の表情を浮かべて吐き捨てる。

「私だって、アイツの気持ちがわからないわけじゃないの。長くもない間に、立て続けに恋人を二人も失ってしまうなんて、どんなに悲惨だったかと思うわ」

今度は、同情するような目でタマモは振り返る。
まだ大人になる前の、多感な思春期に相次いで大事な恋人を死なせてしまった悲しみ。
自分の至らなさを、美神の不手際を責める横島の慟哭は、見ているほうが痛ましい気持ちにさせられた。
それがために、横島をして反魂の術を使う暴挙に狩り立てたのだろうとは理解していた。
無論、横島にはある程度の勝算があったにはちがいない。
かつて、幽霊だったおキヌは生き返ることが出来たし、なにより自分には文珠がある。
人間として生き返らせることは無理でも、幽霊としてならさほど難しくはない、そう目論んでいたのかもしれない。

だが、その結果は無残なものであった。
魂も肉体もなく、生半可な知識と技能で行われた術は、元より成功するはずがなかった。
かろうじておキヌの魂を呼び出すことは出来たが、それを憑かせる依り代を用意する覚悟もなく、あえなく変異させてしまう。
数々の伝承と同じように、反魂の術に失敗したおキヌは、邪悪な魔物として復活させられることとなってしまったのだ。

「結局、今回の事を引き起こしたのは、全部あの馬鹿のせいってわけよ。もっとも、当の本人はさっさと死んじゃって逃げ出しちゃったけどね」

タマモは肩を竦めてみせるが、すぐにシロを見据えて語を続ける。

「だから、おキヌちゃんを退治するには、あんたの力を借りるしかないのよ!」



タマモの指弾を、あたかも我が事のように受けとめて沈黙していたシロだったが、やがて、小さな声で口を開く。

「・・・仮にお主の言うことが本当だとして、どうしておキヌどのはああなってしまったのでござる? 見た目は―――見た目は何も変わらぬというのに」

先日の光景を思い出してか、震える声で、探るように問いかける。
あるいは、理性をなくして暴れ回る怪物であれば、こんなにも怯えなくて済んだのかもしれない。
しかし、あの時聞いたおキヌは生前と同じく、優しく、慈愛に満ちた彼女そのものだったのだ。

「詳しいことはわからないわ。横島を通じて受けた魔族の霊基のせいとも、死津喪比女とか言う妖怪の影響とも言うけど、本当のところはよくわかっていないの。でも、そんなことはどうでもいいの!」

消え入る声で話すシロを叱咤するかのように、タマモは言葉を強めて言う。

「要は、あんたと私でおキヌちゃんを殺さなきゃいけないって事よ! いい? わかった!?」

何時の間にか板張りの床にへたり込んで、俯いたままのシロを、逆に見下ろすようにしてタマモが叫ぶ。
それでもなお、いつになく歯切れの悪いシロは、縋り付く目で顔を上げる。

「・・・なぜ、拙者でなくてはならないのでござる? 拙者でなくても、他に誰か・・・そう、たとえば美神どのとか」

「・・・もし、どうしてもあんたが嫌だと言うのなら、美神さんにお願いするわよ。彼女なら、あんたみたいにくずくず文句も言わず、二つ返事で引き受けてくれるから楽だし、間違いもないわ」

そうは言うものの、その後で我が身に降りかかるだろう事を思い、タマモは薄笑いを浮かべた。
命と引き換えにならば、確かに話は楽だ。

「でもね、なるべくならそれは避けてほしい、って頼まれているのよ」

「誰に?」

深く考えもせず、つい口をついて出た相槌の言葉を、シロはあらためて反芻する。
先程から、ぼんやりと感じていたが明確になっていなかった疑問が、たちまちのうちに形となって現れた。

「・・・タマモ、お主、いったい誰に頼まれてこのようなことをしているのでござる? 拙者達の元を離れ、世を捨てたお主が、いったい誰の依頼で動いているというのでござるか?」

「そんなの、判りきったことじゃない」

「いったい誰でござる!? 美神どのとの接触を避け、お主や拙者とも接点があり、先生の死の真相を知り、おキヌどののことも熟知して、それを殺させようとする人物など、どこにもいるはずが―――!」

不意に答えを見つけたシロは、驚愕して目を見張る。

「まさか、いや、まさか、そんな―――」

「そうよ。今回のことを私に頼んできたのは―――」

タマモは穏やかな口調で頷き返す。

「おキヌちゃん自身よ」
タマモが告げる真相、如何だったでしょうか?
シロの感情の表現が難しいのですが、とりあえずこんなところで。

さてさて、この舞台劇も次で終幕です。
はたしてうまくまとまるかどうか・・・実に不安です(笑)

[mente]

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