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すぐそばの幸福



人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。

                              ドストエフスキー






金が無いのは首が無いのと同じ、などとはよくも言ったものだ。
横島忠夫、十七歳。
今まさに生死の淵に立っております。






最近雨続きで仕事が無いからってしばらく事務所に顔出してなかったのが運の尽き。
いつの間にやら電車代も無くなりどうにか水だけで過ごしていたのだが、それとうとう限界のようだ。
人間何も食わんとほんとに動けなくなるらしい。
こんなことなら見栄張ってないで素直に事務所に行くなりご飯に誘ってくれた小鳩ちゃんの誘いを受けるんだった。


…今日で何日目だったろうか食べ物を口に入れなかったのは。
いつもだったら金が無くても事務所いきゃおキヌちゃんがなんか食べさせてくれたし、最近はシロが朝飯を作ってくれることもあった。
まあ、肉オンリーなのと腹ごなしのフルマラソンが無ければなお良いんだが…。
それがこの雨のせいで事務所に行く用事はできないし、シロも散歩に来ない。
この状態になるとシロの散歩でさえ懐かしく思えるから不思議だ。


思えば最近の俺はとことんついてない。
この前は事務所に行ってトイレに入ったらシロが先にはいってて、その現場を美神さんに見つかり半日ほどしばかれた。
あのときの美神さんは修羅の如し相貌。この世に降りし人の形をした魔物。
最初は一緒になって怒っていたおキヌちゃんが止めに入るほどの「お仕置き」だった。
「ごめんなさい、俺はロリじゃありません…」。
俺が言えたのはこの言葉だけだった
その後のシロといったら顔を真っ赤にし顔を合わせようとはしない。
何とか謝り倒して許してもらったんだが、やっぱり俺への態度が余所余所しい。
「先生にはやはり責任をとっていただくしか…」と時折つぶやいているところを見るとやはり制裁が待っているのだろうか…。


それにその前にもタマモを怒らせてしまった。
これもやはり事務所でタマモが大事にとっておいたカップきつねうどんを食べてしまったのだ。
なんでもそのきつねうどんは期間限定販売のもので今では手に入れることはできないらしい。
俺がそれを食べたのを見つけた瞬間彼女の焔は俺を見事に焼きつかせた。
幸いというかなんと言うかまだ油揚げには一口しか手を出していなかったので、消し炭にされることは許された。
カップを俺から取り返すと「せっかく大事に食べようと思ったのに…。ああ、こんなにかじられてる…」といいつつ残った油揚げを咀嚼していた。
そのときのタマモの顔がやけに赤かったから、きっと凄く怒っていたのだろう。
このときもやはり何とか謝り倒して許してもらったんだが、一杯800円の幻のきつねうどんを奢ってやることになってしまった。


美神さんにはいつものとおりことなのだがシャワーシーンを覗こうと思って壁を這っていたら、上から鉄球が降ってきた。
工事現場で使うような馬鹿でかい奴だ。
それが上から降ってくるなんてさすがの俺も予想外。
哀れな俺は黒い鉄塊に潰されてしまった。
その後誰も助けに来てくんねーし…、ふふ、俺にはもう味方はいないんだな…。
何とか脱出した後またしても謝り倒して許してもらったんだが、次に買い物に行くときの荷物持ちをするよう言われた。
もちろん無給なんだぜ…


おキヌちゃんはこの三度の出来事を知られて、それに呆れられてしまっているようだ。
いつもの和やかなムードではなく獲物を狙う肉食獣のような顔で見られることがしばしば。
彼女は女性誌を見ながら「やっぱりわたしも…もっと…が…気をつけなくちゃ…」と言ってるのが聞こえてくる。
こっそり聞いてるので全容は聞き取れないが恐らく、「やっぱりわたしも注意しないと。もっと横島さんが何かしないか気をつけなくちゃ…」と言ってるに違いない。
ああ、おキヌちゃんにまで嫌われたら俺はいったいどうすればええんや…。


他にも例を挙げればきりが無いのだが、愛子とか魔鈴さんとか冥子ちゃんだとかを困らせた覚えがある。
確かに俺が悪いこともあったがそればかりではない。
偶然と言う偶然が連鎖し、俺と言う人間に不幸が降り注いでいるような気がしてならない。
まったく俺って言う人間はどうしてこんなにも不幸な星の下に生きてきたんだろうか?

いかん、頭を使うとさらに意識が霞んでくる…
もはや指の一本も動かすことが困難になってきた。
とりあえずどこかに助けを求めねば。
しかし、この電話までの距離が遠い…。

なんとか最後の力を振り絞り、かけたのは事務所の電話番号。
おキヌちゃんかシロが出れば助けくれるはず…
そう考えた俺の耳に最後の絶望がやって来た。
コール音がしない。
何でだろう…。
俺が霞みゆく意識の中で見たのは、机の上から舞い降りた電力会社からの通知書だった…。




*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   




意識が蘇る…。
生きている、と実感した後まず気がついたのは匂いだ。
何か食べ物匂いととてもやさしい香り…
まるで幼き日に感じた母の温もりを想い出させる、女性の香り。
目をゆっくり開ける。
最初に視界を捉えたものは綺麗になっている部屋、そして長いつややかな黒髪。
どうにか体を起こし声をかけようと思ったのだが上手く持ち上がらない。
どうやら俺の体はかなり弱っていたようだ。
俺が意識を取り戻したのに気づいたらしく、彼女は俺に近づいてきた。

「大丈夫ですか横島さん?」

「うん、大丈夫だよ。おキヌちゃん」

おキヌちゃんは私服にエプロンを着てこちらを覗き込んでいた。
その顔には心配していますという気持ちがあふれ出てて、見ているだけで申し訳なく感じてしまう。

「にしても何でおキヌちゃんここにいるの?」

「それは…最近横島さん事務所に来ないしお給料日前だからちょっと心配になったんです。それで来てみたら横島さんが倒れてたから凄い驚いたんですよ」

「そっか、迷惑かけちゃったね」

ほんまに申し訳ない。
こんな良い娘に心配させてしまうなんて…
俺って奴は…はぁ。

「迷惑なんてそんなこと無いですよ。それで横島さんたら凄い大きなお腹の虫鳴らすから、お腹すいたんだと思って今ご飯作ってますよ」

「うう、ありがとね…」

「ちょっと待っててくださいね、もうすぐできますから」

おキヌちゃんは台所に戻ると再び調理を始めた。
すぐできるという言葉通り、そこからはとてもいい匂いがしてきて、それは俺の食欲をどんどん刺激していった。
てきぱきと準備を済ませると机の上はおキヌちゃんらしい家庭的な料理が広がっていた。

「できましたよ。いっぱい食べてくださいね」

「いただきます!」

とりあえず何でもいいから口に入れる。
およそ五日ぶりの食料だ。
俺の胃は際限なく栄養の補充を求めていた。
そんな俺の食べっぷりをちょっとだけ呆れたような笑顔で見ている彼女。
本当におキヌちゃんが居て良かった…





「ほんと助かったよ。おキヌちゃんが来てくれなきゃ絶対餓死してた」

「もう、横島さんたら、気をつけてくださいね?さっきは本当にびっくりしたんですから」

食事が終わり、俺たちは二人で談笑していた。
どうやら最近はこんなことが無かったために俺を発見したときはたいそう驚いたらしい。
確かにここまで酷いのは今まででも二回くらいしかなかったかな?

「でも、今回ばかりはもう駄目かと思ったよ。おキヌちゃん俺のこと怒ってただろ?だから来てくれないんじゃないかなぁって思っててさ」

「そんな…別に私怒ってなんかいませんよ?」

「でもさ、この間なんか言ってたでしょ。俺に気をつけようとか」

「あ、あれは…。えと、シロちゃんとかタマモちゃんとか美神さんが横島さんにアプロー「せんせーーーい!!」きゃ!」

それは突然の襲撃だった。
おキヌちゃんが何か言おうとしゃべり始めた所にシロが扉を開け俺に突進してきた。

「せんせい!会いたかったでござるよ!」

「だああぁあーー!!わかったから顔なめるなーーー!!」

俺の顔を舐めまわすシロをどかすとその奥には傘を持ったタマモも控えていた。
その表情は呆れた表情、恐らくシロのことをだ。

「何やってんのよ馬鹿犬」

「うるさい!女狐!これは拙者と先生の師弟のスキンシップでござる」

「ええい!俺はそんなスキンシップ認めておらんわい!」

「そんなー、先生」

「横島、馬鹿犬のことはほって置いて約束のきつねうどん食べに行こう」

「すまんタマモ、まだ給料日前だから勘弁してくれ…」

「先生そんことより散歩に行くでござるよ」

「この雨の中をか?」

「馬鹿犬!きつねうどんをそんなこととは何よ!」

何だこの惨状は。
いきなり来たと思ったら急に二人して喧嘩始めて、怒鳴りあうとは。
ああ、良く見るとおキヌちゃんが笑ってるけど笑ってない!
これはやばいぞ。
おキヌちゃんがあの顔のときは本気でキレル十秒前だ。
どうにかしなければ…

「よし、みんな!どこか行こうぜ」

「散歩でござるか!?」

「違う散歩じゃなくて、どこでもいいからどっかだよ。デパートでも何でもいいからさ」

「横島お金持ってないんでしょ」

「それはそうなんだが…」

「お金なら私が出しておきますから、足りないもの買いましょうか。調味料とかもう無いみたいですし」

「うう、すまないねぇおキヌちゃん」

どうやら、三人の気をそらすことには成功したようだ。
おキヌちゃんの怒りは収まったみたいだし、二人も喧嘩はやめた。
しかしなんだってこんなに俺ががんばんなくちゃいけない破目になるんだ?

「買い物買い物、先生と買い物♪」

「シロちょっとは落ち着きなさいよ、一緒にいる私が恥ずかしいじゃない」

「ふん、貴様には先生と一緒いるこの喜びがわからないでござるよ」

「ああもう二人とも喧嘩はやめてくれ。おキヌちゃんかばん持つよ」

「はい、ありがとうございます」

天気は雨。
正直出掛けるにはちょっと不快になるほどの降水量。
普通の人間なら、家に引きこもっているだろう。
それを何で俺は金も無いのに買い物に出かけんと行かんのだろうか。
やっぱり俺って不幸?

「せんせーい早く行くでござる」

「ちょっと、水がはねてるわよ!」

「シロちゃん服が汚れちゃうからゆっくり行きましょう」


…まあ、ええかたまにはこんなのも。

















なぜいつも遠くへばかりいこうとするのか?


見よ、よきものは身近にあるのを。


ただ幸福のつかみかたを学べばよいのだ。


幸福はいつも目の前にあるのだ。
 
ゲーテ












「…何よ。これじゃ私が出にくいじゃない…」









  了。
知らない間に幸せは身近にあるものです。
彼はそれに気づかないだけ、なんでしょうね。

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