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魔界転生  −前−

奥多摩から秩父に連なる山々の、さらにその奥に、人狼の里はある。
二千メートル級の山を中心とにして、周囲を円弧状に伸びる二本の沢に囲まれた地形は、結界を張って村を隠すのにも都合が良い。
片方の沢を一つ隔てれば、観光登山の名勝地としても名高い山があるが、こちらのほうへ足を踏み入れる者はほとんどいない。
人里に近付き過ぎず、遠過ぎず、それでいて三国が接する要衝でもあり、隠れ里としては絶好の地であった。

里を出て、もう一方の沢を渡ると、昔ながらの集落がある。
古来、甲斐より秩父へ向かう街道筋にあたり、かつては関所が置かれていたこともあり、山間ながらもそれなりの賑わいをみせてもいた。
現在は少し下った沢沿いに国道が走るようになり、処の者以外にここを訪れる人は少ない。

その、のどかで静かな集落に、ただ一軒だけある食堂。
タバコ屋も兼ねた、この古びた食堂に、久方ぶりの珍しい客が訪れていた。

「今頃、急に訪ねてくるなんて、どういう風の吹きまわしでござるか―――」

犬塚シロは、皿に盛られた熱々のおでんを口にしながら、ちゃぶ台の向こうに座る旧来の友人に話しかける。
このあたりでは、おでんといえば串に刺したこんにゃくにゆず味噌をかけたのが主流で、冬になるとそこここで食される。
再会を祝うのならば、軽く酒でも酌み交わしてもよいのだろうが、生憎とそういう気分ではない。

「お主がいなくなってから―――いろいろと大変だったのでござるよ」

あの日、おキヌが死んでしまった後のこと。
いつのまにか、タマモが姿を消してしまっていたこと。
すっかり心を閉ざしてしまった美神から、人狼の里へ帰るように言い渡されたこと。
そして―――

様々な思い、恨み辛みが、まるで堰を切ったように口をついて出る。
あれから、ずいぶんと時が経って、すっかり忘れて立ち直ったつもりでいたのが、それは嘘だったことを思い知らされた。
言っても詮無き事とは知りながら、つらつらと取り留めのない事が流れ落ちる。
武士にあるまじき醜態、と心の奥で自嘲するが、わかっていてなおも止めようがなかった。

謂れなき非難にも近いシロの愚痴を、タマモは涼しい顔をして聞き流す。
そのま黙々ときつねうどんを啜っていたが、やがて最後のつゆを飲み干すと、静かに置いて口を開く。

「―――横島は?」

感情の篭らないタマモの問いかけに、シロはぎくり、とする。
その話題は出来ることなら触れたくない、けれども決してそうは出来ない事柄だった。

「先生は―――」

俯きがちに応えようとするシロは、言葉に詰まる。
あのとき、おキヌが死んで、一年ほどが過ぎたときに起きた悲劇。
無常とも言える運命のはかなさに、悲懐に震える思いだった。

「―――亡くなり申した」

除霊中の事故ではなく、まして事件でもない。
およそ、交通事故とも呼べないくらいの出来事において、横島忠夫は実にあっけなく、その短い生涯を閉じたのである。

「そうらしいわね」

事も無げなタマモの声に、シロははっ、として顔を上げる。

「タマモッ! それを知っているなら、どうして―――」

「もう五年も前に横島が死んだこと、そして、その原因とやらも人づてには聞いているわよ。でも、それを自分で確かめたわけじゃあないのよね」

そう言ってタマモは、空になった丼をとなりのちゃぶ台に寄せ、肩肘をついて、ぽそっ、と呟いた。

「そっか。やっぱり死んじゃったんだ・・・」

タマモが窓の外に向ける視線に、前に座るシロの姿は映っていなかった。



それほど長くもない間、二人は何も言わず、目も合わさぬまま、静かに向かい合っている。
あるいは、このまま日が落ちるまでそうしていたかもしれないが、たばこを買いに来た客が開いた扉が、その沈黙を破った。

「―――それで、拙者に何をしろ、と?」

努めて平静になろうとし、それでもなお、怒気が触れる声色でシロは尋ねた。
今まで音沙汰のなかったタマモが、まさか古い傷を抉るためだけに来たはずはない。
もっと他の何か、関わりたくもないような用件を持ってきたのに違いない。
その短い問いかけに、タマモははじめてシロに気がついたかのように、顔を上げる。

「―――ふうん、いいカンしてるじゃない」

「そうでなければ、お主がわざわざ来ることもなかろうに」

「馬鹿犬も年を取って、少しは大人になったということかしらね?」

「馬鹿でも何でもかまわぬから、さっさと済ませてはくれぬか? 拙者にもいろいろと用事があるのでな」

かつて、屋根裏部屋で同居していた頃のように、軽い憎まれ口を叩いてみせるが、シロはかつてのように噛み付いてこようとはしない。
ほんのごく僅か、眉がぴくり、と動いたのが、かろうじて二人の間を繋ぎとめているだけだった。

「―――あんた、変わったわね」

「お主が変わらなさ過ぎるのでござるよ」

タマモはじっとシロを見つめていたが、過ぎ去った歳月は取り戻しようがないことを悟り、小さく息を吐き、傍らのポーチを手に取る。
よく似合う、可愛らしいデザインのポーチの中から、小さな紙片を取り出し、シロへ突き出す。
それは、折りたたまれた新聞紙の切り抜きで、ニ段ほどの小さな記事が載っていた。

「これはまた―――ずいぶんと古そうにござるな」

少し日に焼け、ごわつく手触りの紙を丁寧に広げ、ざっと目を通す。
そこに書いてあるのは、何の変哲もない、どこかの山で遭難したと見られる、とある行方不明者を伝える記事だった。

「そんなには古くないわ。雨に濡れたからそうなっちゃったけど、まだ二年も経っていないわ」

そう言いながらタマモは、似たような大きさの、もう少し新しめの切り抜きを取り出す。
広げて見ればこちらも同じ、行方不明になった人間に関する、極々小さな扱いの記事だった。
その二つの記事が伝えることは明白だが、それの意味するところがわからない。
まさか、何の関係もないこの人間を探せ、と言うわけでもあるまい。

「そっちのほうは去年の夏に出たものよ。そして、これが―――」

三度タマモはポーチの中を探り、今度は切り抜きではなく、四つに折られた地方紙の一面を取り出して、広げた。
写真入りで大きく伝える記事によれば、またも登山客の中から帰らぬ者が出たということ、ここ数年同じような事が相次いでいること、そして、捜索にもかかわらず、生存者はおろか、遺体でさえも一切発見されていないということだった。
紙面の上に書いてある日付は、まだほんの一月前の出来事だった。

「ううむ、これは知らなんだ」

鼻の頭を指で掻いて、シロは唸る。
普段、外界とは隔たれた里で暮らしているせいか、世の中の動きには、つとに疎くなってしまっていた。
時たまに人里に降りてきて、ちょっと新聞なりテレビなどを見るのが関の山だったからだ。

「―――しかし、何故これを拙者に?」

シロは、さっきからついて離れない疑問を口にする。
なるほど、この三つの事件―――なのかどうかも疑わしいが、それらが何らかの関連がありそうなのは見て取れる。
しかし、それは人間の、警察にでも任せておけば良い。
何も好き好んで、自分たち妖が関わる必要はない。
まして、自分たちとの関わりも捨てたはずのタマモが関わるべき事とは思えなかった。

「シロ。もう一度、よく読んでみて」

自分の問いには答えず、そう促すタマモの声に不満を抱きながらも、もう一度大きな記事を最初から読み直す。
まもなく、シロの目はとある地名の文字を捉え、小さく、あっ、と声を上げた。

そこには、今なお忘れがたい因縁を持つ地、御呂地村の名が書かれていた。
『爽やかハートフル』な短編連作の二話目です。
いきなり横島が死んじゃったことになってますが、彼の出番がないのは、このシリーズのお約束みたいなものです。
今回は二人だけではなく、サブとしてタマモも登場してますが、私的にはわりと重要な役どころだったり・・・
ま、最近、何故かタマモ比率が高くなっていますので、単にその影響なだけかもしれませんが(笑)

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