事務所のお風呂が壊れた。それは突然あっけなく、原因も分からずじまい。このままでは今晩の入浴は無理だった。
「どーするのでござるか?」
「んー、ママの所を借りるか、あとは銭湯か……」
「銭湯って何?」
タマモが出した一言がきっかけとなり、ひとまず修理は後回しにして、横島を除く事務所の面々は銭湯に行く事になった。しかしこのご時世、銭湯は経営が苦しいらしく、事務所の周りにはないのが現状。仕方なく、四人は一番近場にある銭湯へ向かったのだった。
入り口を通り、お金を払って、脱衣所で服を脱ぎ、裸に。持ってきた石鹸とシャンプーと手ぬぐいを持って、浴場に入る。目の前に広がる富士山の絵に、大きな湯船。水色のタイルに覆われる浴場は湯気が立ち込めていた。
はてさて、ここで何が起こるのやら。
Die-Sentoh!
「うわあ、大きな風呂でござるな!」
でっかい浴槽を目の当たりにしてシロのしっぽが踊っている。
「シロちゃん、タオルタオル」
「ん?」
素っ裸の仁王立ち。発展途上のやや筋肉質な裸体を包み隠さず、浴場の入り口に堂々と立つその姿は何か神々しい。
「なにやってんのよ、さっさと中に入りなさい」
美神がシロを小突き、押しやって入った。他の二人もそそくさと入る。三人ともタオルを身体に巻いていた。
「はしゃぎすぎなのよ、あんた」
シロの横を通り過ぎながら、タマモがちくりと一言。
「初めてでござるからな、大きな風呂に入るのも、みんなと一緒に入るのも!」
だが本日のシロはちょっぴりテンションが高いようで、ちょっとの皮肉もへっちゃらだった。
「では、さっそく湯船に……!」
「待ちなさい」
美神は駆け出すシロの腕をとっさに掴んだ。その勢いでシロの足は前にすべり、しりもちをつく。
「あたたた……」
「入るのは身体を洗ってからよ。他の人も入るんだから、マナーは守りなさい」
「……はあい」
美神は洗い場の蛇口をひねって、洗面器にお湯を出す。シャワーで身体を流し、髪を十分濡らすと、頭をやや持ち上げ、長い髪を下に垂らした。湯を張った洗面器が二つ。その片方にシャンプーをあけて、薄めた。それを髪に馴染ませながらもう一方を使い、よく洗い落とす。最後にトリートメントとリンス。髪を纏め上げると、キヌに呼びかけた。
「おキヌちゃん、背中洗ってくれる?」
「いいですよ」
キヌが後ろに回り、彼女は濡れた髪を肩の前に下ろす。するとうなじから腰まで、背中が露わになった。滑らかな曲線を描き、中心を骨のくぼみが弓なりに通っている。
「じゃあ、洗いますねー」
折りたたんだ手ぬぐいで軽快にこすってゆく。上がって下がって、下がって上がって、肌を行き来する。キヌは美神の後ろ姿を泡で塗りたくり、そして洗い流した。つるつるになった背中は同性の彼女でも見惚れてしまいそうだ。
「ん、ありがと」
「いいえ」
美神は持ってきた石鹸で手ぬぐいを泡立てて、身体の前を洗い出す。柔らかな肌に真っ白な泡がまとわりつき、すっと撫でられてゆく。始めに足やお腹、次に腕やわきの下へと滑らせていった。胸は鎖骨の辺りから下へ。谷間に落ちていく泡がへそのラインに流れる。胸下は仕方ないので手で持ち上げながら、もう片方の手を伸ばして洗った。
「…………」
彼女の手の動きで形の変わるそれの柔らかさとボリュームを、キヌは凝視しつつ、自分を顧みた。
「どうしたの?」
「……なんでもありません」
瞬間、キヌの目に一条の涙が光り輝いたとか輝かなかったとか。彼女もお椀型でそこそこある方なのだが対して、むこうはボウル型で形が良い上に手が沈むほどの質量がある。見比べたのが間違いだった。
またその横では、シロとタマモが洗いながらしゃべくっている。
「ちっちゃいでござるなあ、タマモは」
「なにいってるの、あんたもじゃない」
「拙者のはしょうらいゆーぼーだと、先生が申してくださった!」
シロは胸を張って得意満面に威張った。タマモはそれを聞いてあきれ返っていた。彼女たちを見て、キヌは胸に両手を当て、サイズを確認して思う。まだ頑張れる、と。瞳は元の輝きを取り戻したようだった。
さて、みんなして綺麗になって、今度こそ湯船へ。家風呂よりか少しばかし熱めの湯の中に裸体を沈める。浴槽が広々としているので、普段感じられない開放感があった。
「ふう」
「気持ちいいですねえ」
「そうねえ。こうしてくつろげるのなら、たまに来るのもいいかもね」
美神とキヌは肩までどっぷり浸かって、温まる。だらしなく湯船の中で身体を伸ばす美神。キヌは壁に寄りかかってくつろいでいた。タマモは熱さに慣れていないのか、ふにゃらと半分のぼせながら、首まで浸かり気持ち良さそうにしている。その内、猫なで声でも聞こえてきそうだ。完全にのぼせないか、心配であるが。
「あははは!」
三人は突然、水しぶきを顔に浴びる。何事かと思ったら、シロが泳いでいた。犬かきでじたばた手足があわただしく動き、湯船の中で暴れている。立ち止まると全身を勢いよく震わせ、水を切った。へそを軸に、彼女の華奢な身体が白銀の髪とともに揺れる。上半身から下半身に引き締まった曲線は捻じれ、お尻のラインが見えた。この為に出来るくびれの弛みが妙な魅力を漂わせる。さらに彼女はぷるぷると水しぶきを飛ばすので、美神たちはまた水を喰らう羽目になった。
「いやあ、楽しいでござるなあ、こう広いと」
しかし、さすがに泳ぐにはこの浴槽は狭すぎる。
「ちょっとシロ、あんたねえ……」
たぱたぱと水が滴りながら、美神の血管が十字になって額に浮かび上がった。眉がひくひく震え、今にも爆発しそう。だったが。
「なにやってるのよ! というか泳ぐな!」
先に怒ったのはタマモだった。出鼻をくじかれ、美神の口が空を泳ぐ。
「だってー」
「プールじゃないんだからダメに決まってるじゃない」
「けどー」
「うるさい! 場所を考えなさいよ、場所を! まったくそういうことに少しは頭が回せないの?」
「なんだと、今のは聞き捨てならんでござるぞ!」
一触即発。しかし、このやかましい状況に彼女が黙っているわけがなかった。
「ちょっと二人とも、大人しくしてくれないかしら……じゃなきゃ、怖いわよ?」
美神が二人に向けた笑顔、には棘が刺さりすぎて二人が怖気づくほどの迫力に満ちていた。
「いっ、はい……」
「……もうしないでござる」
怒られて懲りたのか、二人とも素直に湯船に浸かりなおした。それでもシロはまだふくれっ面だった。彼女は黙り込んで身体を沈めるが、やはり動きたくてうずうずしている。あげく、中に潜って拗ねてしまった。ぶくぶくと吐き出される泡は割れては消え、割れては消え。
「まったく」
「それにしても……いるの、私たちだけですね」
キヌが言う。今日が珍しいだけなのか、ここら一帯の利用客が偏っているのか、良く分からないがともかく、さきほど出て行った老婆を最後にこの銭湯の女湯には件の四人だけが残った。
「いいじゃない、貸切みたいで。のんびりできるわ」
しゅるりと髪を纏めていたタオルを解き、美神は水面に顔を残して体を大の字にした。
髪の毛が扇状に広がって、水中に漂う。力を抜いて、身体の芯まで柔らかくなりそうだ。けれど、キヌは隣で見ていた。彼女がのんべんだらりと時を過ごす間も、僅かながら浮かび上がる双丘をその目でしっかと。潮の満ち引きがあって、呼吸をするたびに沈んだり浮かんだりしている。しかし、それよりもなにも驚いたのは。
「ちゃんと浮くんだ」
の、一点に尽きた。キヌだって水中で浮遊しているが、ここまでぷっかりと浮き上がるのは見たことがなかった。彼女は深い深いため息を吐く。理由など考えるのも野暮だ。
もくもくと湯気が浴場に充満している。四人以外、人のいなくなった女湯は静かだった。壁の向こう側の男湯からは、風呂桶の当たる音が響いてくる。話し声がかすかに聞こえたり、湯の流れる音も事細かに聞こえた。少なくともこちらよりは賑やかである。
しばらくすると、女湯入り口のガラス戸が動いた。誰か入ってくる。
「あら……あんたたち、なんでいるワケ?」
白いタオルに巻かれた褐色の肌。シャンプー類の入ったプラスチックの桶を腕に抱え、小笠原エミはやや驚いた顔を見せた。
「それはこっちが聞きたいわ」
美神はつまらなそうな表情で聞き返した。
「べ、別にいいじゃない。銭湯に入ろうと入らないと私の自由なワケ」
「怪しいわね。ほんとの理由は何?」
「え、それはその……ほ、ほらあれ。その、家のお風呂が壊れて……」
『うわあ、大きなお風呂ですねえ、神父』
『ははは。そういえば銭湯は初めてだったかな、ピートくん』
男湯から聞こえてくる会話、そして聞きなれた声。エミの取り繕った言葉は一瞬にして、嘘と化した。あっという間に女湯は微妙な空気に包まれる。凍りついて赤面するエミ、ただ苦笑いするほかないおキヌ。シロとタマモは茹だっている。
「はんっ、なんだ。そういう事なの」
これみよがしに美神はせせら笑う。
「う、うるさいわね! ほっといてくれる?」
「それにしては、随分と用意がいいみたいだけど?」
「そんなことないワケ! 私は断じてタイガーがピートに電話してたのを盗聴して、急いで駆けつけたワケじゃないんだから!」
「……したんですね」
「そうよ!」
やぶへびもやぶへび、どうやったらここまで自爆できるのか、キヌには不思議で仕方なかった。エミはまたも凍りつくとすぐさま、涙目になって口を開いた。
「ええ、そうよ! 先回りしてここに来たわ! で、湯上りの冷めた手を白い息で暖めながら、街灯の下でピートが出てくるのを待つのよ。しばらくして、湯上りほかほかのピートが中から出てきて、偶然居合わせたように振舞うの! 何が悪いワケ?」
「全部よ、全部。この色ボケ女」
「あんたに言われたかないわよ、万年ボディコン!」
「あのう、これから来るの人たちの迷惑になりますから、二人ともここは穏便に……」
開き直りもここまで来ると、凄いわけだが。キヌのおかげで水入りとなって、二人は睨みあい、お互いそっぽ向くと不可侵条約を無言のうちに締結し終える。エミは洗い場の蛇口をひねり、身体を巻いていたタオルを解いた。美神はどっぷりと湯船に浸かり、蕩けた目つきで天井をまた仰ぎ見る。
エミは波がかった真っ黒な髪ごと湯を頭から被った。美神に負けず劣らずの肢体に水が弾ける。その褐色の肌は降り注ぐ透明な液体を身に纏い、潤いを得た。何度か身体を湯に打たせてから、髪を洗い、全身も洗う。浅黒い肌には白い泡が目立った。泡に包まれると、下着を身に付けているような錯覚にも陥る。ただの石鹸の泡だというのに。胸や尻を取り囲うそれの凶悪さといったら、横島など即ノックアウトだろう。だが、泡は泡。エミがまた身体に湯を被ると綺麗さっぱり跡形もなく消え去ってしまった。
彼女は髪をかきあげて、余分な水を払う。と、同時に首と肩も何度か左右に振る。その度に同方向へ揺れる二つの振り子。肉感的な振動が、そのボリュームの豊かさを物語っていた。それが終わると、澄まし顔で湯船に近づき、美神の所からは出来るだけ離れて入浴する。
「あつつ……」
そう、それはエミが熱がりながら、長い足を何とか湯の中に入れた時であった。
『あ、こんばんは、横島さん』
『あれ、ピートじゃねえか。それに神父まで……いったいどうして』
男湯にあの男がやって来たのは。
「よ、横島クン?」
のんびりとくつろいでいた美神は突然、冷や水を被せられたように目を見開いて、上半身を起こした。壁の向こうで三人の会話が賑やかに続いている。
「なに、一緒じゃなかったワケ?」
湯船に足を跨いだまま、エミは美神に聞く。
「来てたら、こんなゆっくりしてられないわよ」
「ですよねえ……どうします?」
キヌも心配そうに壁を見上げて、聞いてくる。
銭湯というこの場において、あの男は危険すぎた。こちらに美神たちがいると気付けば、どんな手段を使ってでもその光景を見に来ようとするだろう。彼にとっては理想郷。秘密の花園がここにあるのだ。
「どうもこうも早く帰るわよっ、おキヌちゃん」
美神があわただしく、立ち上がったので水面が揺れた。先ほどから潜り遊びと息継ぎを繰り返していたシロはその異変に気付き、顔を水面に浮き上がらせる。
「どーしたんでござるか?」
「今ね、向こうに横島さんが……」
「先生が!」
ざばっとシロは急に立ち上がった。向こうに先生がいる。今日は日中、雨だった(もっとも夜になってから止んだ)ので、散歩に行けていない。それもあって、シロの思考はいつになく、めまぐるしく動いた。
彼女はある一つの記憶を思い出す。今は亡き父と一緒の風呂のこと。父は背中を流し、頭を洗ってくれた。シロも父の背中を洗った。お互いにっこり笑いあい、風呂場に笑い声が響く。またある時、山奥の温泉へ村総出で出かけたときのこと。それはそれは楽しいひと時。みんなで風呂に入りあい、洗いっこする。指をくわえてじっと見ていると、父の仲間が口にした一言。
「お、シロ坊も裸の付き合いしたいか?」
「裸の付き合い、でござるか!」
「おうさ、武士なら一度はするもんだ」
武士なら一度はする、裸の付き合い。武士なら。この言葉が響き、幼いシロは喜んで参加したのだった。
そして今、壁の向こう側には師匠がいる。弟子たるシロは武士として、また師弟関係を結ぶものとして、その背中を流すべきだと考えたのだった。
「拙者、行かねば!」
「ど、どこへ?」
「むろん、先生の所でござる!」
「なっ?」
美神は焦った。
「いきなりなに言い出すのよっ、私たちは向こうに入っちゃいけないのよ? 分かってるの?」
「もちろん、この壁を飛び越えていくのでござる」
「そんな事、誰も聞いてないわよ!」
じたばたじたばた。美神に取り押さえられ、シロは身動きが取れない。
「やだ、行くでござる。先生と裸の付き合いをするのでござるー!」
すると、シロのこの叫びを聞いたやいなや、あの女の眼が鋭く光り輝いた。
「その手があったわーっ!!」
突如、エミが声を張り上げて、握り拳を震わせる。
「そうよ、そうだわ! あんな回りくどい事考えなくても、こんな壁乗り越えちゃえば、向こうにピートがいるのよね。最高のスキンシップなワケ!」
かつてアルキメデスが浮力の原理をひらめいて走り回った時のごとく、このまま全裸で壁を上りかねない勢いに駆られる女がここにいた。彼女は嬉々としてシロの手を握り締め、袂に引き寄せた。
「ありがとう、感謝するわ! 犬の…えーと、あなた名前なんだっけ」
「シロでござる。それと拙者は犬でなくおおかみ……」
「そう! じゃあ早速行くわよ、この壁の向こうへ!」
「ちょっと待ちなさいよ、この変態女!」
突如、美神は湯船の縁に置いてあった自分のタオルを、エミにめがけて思い切りぶつけてやった。べち、と水を含んだタオル独特の鈍い音と共にエミの顔が埋まった。
「ちょっとなんなワケ、令子。邪魔しないでくれる?」
シロから手を離し、タオルを床に叩きつけて青筋立てるエミ。
「さっきから聞いてりゃ……あんた常識ってもんがないの?」
「んなもん、最初からありゃしないワケ。それにおたくの口から常識どうこうなんて言葉が出てくるとヘドが出るわ。まあ、人様に見られる度胸の無い女がどんなにわめこうと聞こえないワケ」
「なんですってえ!」
あっかんべえとエミはベロ出して、美神をけしかける。もちろん煽られた彼女は大噴火。握り締める拳に力が入る入る。それを見ていて、心中穏やかでないのはキヌ。慌てふためき、止めに入るもしかし。
「ちょっと二人ともここは穏便に……」
「おキヌちゃん!」
「は、はい!」
「タマモと一緒に、シロを取り押さえなさい。分かった?」
一説によれば、鬼の形相だったそうな。さすがの菩薩観音もおののくほどで、その命には逆らえぬほどだった。湯船にいた菩薩と九尾の狐は顔を見合わせ、お互いに確認した。長いものには巻かれるしかないと。
かくして、何がなんだかわけの分からないまま、攻防戦が始まる。
壁めがけ、背を向けて走り出したエミを美神は追いかけ、キヌとタマモはまだ湯船の中にとどまっていたシロをあわてて取り押さえた。美神は先回りして、エミの前に立ちはだかる。標的を目の前にし、睨みつけるように美神は微笑む。
「さあて、どうしてくれようかしら?」
行く手を阻まれたエミ。しかし、口元は軽く緩んだ笑みを漏らしていた。
「ごめんね、シロちゃん」
「まったく……よくモノ考えて行動しなさいよね?」
一方湯船の中では、キヌに羽交い絞めにされ、な、とシロが声を出していた。気付けば両足も、タマモが絡み付いている。身動きがとれず、自分を取り押さえる二人の顔をシロは見やった。
「なにするんでござるか、二人とも。おキヌどの、放してくだされ!」
「うん、そうしたいのは山々なんだけど……さっきの聞いてたでしょう?」
苦笑いしながら、キヌは抵抗するシロの背中を胸に引き寄せて押さえつける。
「美神さんには逆らえない、あんたも分かってるでしょ。シロ」
「そうでなのでござるがタマモ、この向こうには先生がいるのでござる。拙者、弟子の身としてはいてもたっても……」
「それは分かるけど」
「なら、足を放すでござる!」
「だから駄目なのよ、シロちゃん」
諌めるキヌの腕に力が入る。二人の束縛から逃れようとじたばたするシロの力が強大で抑えるのにも一苦労だ。気を抜けば、すぐにでも破られそうだった。
シロは身体全体を動かすが、手足が押さえられているので思うように動けずにいた。彼女たちの手から逃げようとするが、胴体だけがむなしく揺れる。彼女はまだまだ発展途上の身体を、きゅっと引き締まった腰の辺りから前後左右に大きく動かしたがなしのつぶてだった。ただヘソのラインと腰の線が良く動いただけである。
もはや為す術のなくなったシロ。だがしかし、彼女の目は決して諦めてなどはいなかったのだ。
「こうなったら、力づくでも行かせてもらうでござる!」
「力づくでも止めてやるわ!」
美神はやる気満々の表情で、エミへとにじり寄っていく。一糸纏わぬ身体を臆面もなくさらけ出し、美神の玉の肌はまばゆいばかりである。もっとも頭に血が上り、そんなことを気にする暇もなかったわけなのだが。悠然と近づく彼女に、エミは後ずさりもせずにただ平然と待っていた。
「随分と諦めがいいのね」
「諦め? 何の話かさっぱりなワケ」
不敵な笑いを見せ付けて、また挑発する。神経を逆撫でるには十分だった。
「それはそうと、令子」
「なによ」
「おたく、ちょっと太ったんじゃない?」
「はあ?」
美神があっけに取られた表情を見せた瞬間、さっと後ろへと回り込んだ。
「ほらほら、この辺とか」
エミの腕が美神の身体を滑り、手が胸を包み込んだ。指先は先端に触れ、手の平は噛み締めるがごとく、ゆっくりと力が入り、弄くりたおすこと、二度三度。可愛らしい悲鳴が銭湯中に響き渡るにはそう時間が掛からなかった。
「なにすんのよ、ちょっと。止め……」
「ああ、くやしい……じゃない。こんなんだから、恥ずかしくなるのも当たり前ってワケね」
ふかふかと柔らかい弾力が手に伝わる。美しい球体の形はぐにぐに荒らされ続け、甘い吐息が漏れていく。
「止めろって言ってんのよ!」
鋭い肘鉄がエミの腹部をいきなり襲う。喰らった余波で身体のバランスを崩し、よろけそうになったと思うと、美神に足元をすくわれ、天を仰いだ。同時にタイル張りの床に大きく尻と頭をぶつけてしまった。
「あたたた……」
「地獄に落ちて、死ね! この……っ」
耳まで顔を真っ赤にした美神はエミに痛がる暇も与えず、シャワーの温度を熱湯にして、蛇口を捻った。だが熱湯が降り注ぐすんでの所で、エミは素早く起き上がって事なきを得た。シャワーは火傷しそうな熱い湯気を出しながら、音を立てている。
「あ、危ないじゃない、火傷したらどーするワケ!」
「うっさいわよ、このレズ魔! もう生きて帰さないから覚悟なさい!」
怒り心頭の美神。しかし、エミの表情にはまだ余裕が見え隠れしているのだった。
さて、湯船では均衡が破られようとしている。シロは全神経をある場所へ集中させた。しっぽ、それは彼女にとって身体の一部である。その気になれば、自在に動かす事も可能なのだ。彼女を取り押さえるキヌとタマモはそれを見落としていた。完全な盲点となったしっぽはまさしく最後の手段である。シロは標的をタマモに定め、気付かれぬようにタマモの顔にしっぽを垂らして、鼻元をくすぐった。
しっぽの小刻みな振動がタマモの鼻をむずがらせ、くしゃみへと誘う。へっち、と可愛く彼女の声が出た時、きつく足を押さえていた力が緩んだ隙を見計らって、シロは力任せに足の束縛を振り解いた。
「しまった!」
「ふはははは、まだまだ詰めが甘いでござるな!」
シロはキヌを背負ったまま、宙へと舞った。空高く二人は銭湯の空間を飛ぶ。キヌは振り落とされないなよう、シロの首回りにしっかり抱きついていた。
「助けてー!?」
「おキヌどの、しばらくご辛抱くだされ!」
するとシロは、身を翻らせて一回転させた。その反動で背中のキヌの身体が悲鳴と共に、ぐるりと目の前にやってきたのでシロはそれを見事に受け止める。そして人ひとり分の重量をものともせず、彼女はなんなく着地した。
「ふう、大丈夫でござるか?」
「ええ……なんとか」
安心も束の間、ただならぬ気配がシロに降り注ぐ。次の瞬間、火柱が彼女めがけて迫ってきた。さすがにキヌを下ろす時間もなく、抱きかかえたままで再び飛び上がった。
「逃がさないわよ、シロ!」
「タマモ!」
火柱はタマモの狐火だった。彼女はシロを差し押さえんとばかりに、狐火を畳み掛ける。次々と襲い掛かる炎の群れにシロはただ防戦一方だった。キヌを抱えているせいで、応戦も難しい。自慢の脚力と素早さをもって不規則に動き、相手に予測させないようにするのが精一杯だった。
一方、抱きかかえられているキヌはというと。
「ねえ、シロちゃん」
「すまぬ、おキヌどの。もうしばらくの辛抱を!」
「そんなあ……」
願いはむなしく。もはや彼女はシロにお姫様抱っこされながら、声を弱々しくする他ないのだった。
「くそ!」
美神は声を荒げて、髪を揺らした。先ほどからエミに攻撃を途切れなく仕掛けているのにも拘らず、それらがことごとく避けられていた。桶やタライを飛び交わせ、幾度となく拳を彼女めがけて打ち込み、挙句の果てには二段蹴り、回し蹴り、中段上段下段とコンビネーションを決めているのにすべて見透かされたように、紙一重のところでかわされる。
身体は汗がにじみ始めていた。急激に動いたために胸で大きく呼吸をする。運動神経が良いとはいえ、美神は武道家ではない。早々にケリをつけなければ、先に彼女の方が滅入ってしまうのは明らかであった。
「ほらほら、鬼さん。手の鳴る方へー」
「このお……!」
エミはいまだ美神を嘲笑い、挑発する。
おかしい。美神の脳裏に違和感が走った。どうもエミの術中にはまっているような気がしてならない。過剰なまでの挑発、横島まがいのセクハラ、そして今もこうして防御に徹しきって、攻撃を仕掛けてこない。まるで力を貯めているかのようだ。
「まさか」
「そう、これで三十秒なワケ!」
時すでに遅し。エミはこの瞬間を待っていたのだ。彼女は壁の向こうに待っている男を襲うために、その障害となる美神を、自らの必殺技で葬り去ろうとしているのだ。
「しまった!」
「もう遅いわ、霊体撃滅……」
もう駄目だ、と美神は身構えた瞬間、奇跡は起こった。
タマモの狐火を辛うじてしのいでいたシロは限界を迎えていた。なにせキヌ一人を抱えて、これまで逃げ切っていたのだから驚きである。それに加えて、不規則な動作もこなしていたわけであるからますます感嘆せざるを得ない。
とはいえ、火事場の馬鹿力ともいうべき緊張感が長続きするわけでもなく、その緩みが一瞬にして押し寄せてきたのだ。
それは壁を蹴って、床へ着地しようとしていた瞬間だった。美神たちが洗い場の周りをぐるぐる攻防を繰り広げながら、境目の壁とは反対側の壁の方まで来ていて、シロはその壁を蹴り、すぐ下の床へ降りて、また空中へ飛び上がろうとしていた。だが、ここで彼女は目測を誤った。着地点がエミの頭上だったのだ。
降下している最中に気付いたのでもう遅い。体勢を立て直さねば、と本能が動いたのか、そのままエミの頭上に足を乗せ、踏み蹴った。しかし、その先の着地点も運悪く美神の頭上で、また同じことを繰り返す羽目になった。
その結果、シロは身体のバランスを崩し、抱きかかえられていたキヌは境目の壁の方へ、勢い良く斜めに放り上げられた。
「きゃー!?」
「おキヌどのー!」
「……波っ!?」
またシロに蹴られたエミはのけぞるように身体を斜めに浮かせ、何がなんだか分からぬままに必殺技である霊体撃滅波を放つ。そして、それはキヌと同じ方向をめがけて飛んでいった。
そして同じ頃、男湯では。
「やめましょうよ、横島さん」
「止めてくれるな、ピート。あれは確かに美神さんの声だった!」
男のロマンを求めて、一人果敢にも壁をよじ登る猛者がいた。名を横島忠夫と言った。
「ピートくん、風呂は肩まで浸かって百数えるのがオツなのだよお……」
「そんな悠長な事言ってないで、先生も手伝ってください!」
日頃の労働に相当疲れているのか、どっぷりとのぼせきっている唐巣。もはや頭まで茹で上がり、湯船の中でふらふらになっていた。
「ふはははは、もうすぐ、もうすぐだ! 美神さんの裸、美神さんの裸……!」
例によって、己の欲望がためにバイタリティが十割増しくらいになっている横島の高笑いが銭湯中に響き渡り、そして間もなく出口に差し掛かろうとした矢先であった。
壁に突然ヒビが入り、衝撃波が走る。するとそこだけ大津波が襲ったように壁が粉砕され、さらには屋根までもが吹っ飛んだ。爆発にも似た轟音を立てて、それらの破片が飛び散らかってゆく。突如起こった惨事に横島たち以外の客はすぐさま脱衣所の方へと避難した。横島は粉塵に紛れて、空に舞い上がる。
「ぐわーっ!?」
「横島さん?」
「おお、星が綺麗だなあ」
天井がなくなり、空が見える。夜の墨には白墨の星が散りばめられていた。それをのんきに見上げる唐巣。しばらく空の景色に酔いしれ、首を落とすと横島が瓦礫と共に床に叩きつけられていた。
「いててて……」
幸い、怪我はなく腰を強く打ったようだった。さほど痛みがないから瓦礫には運良く、当たらずに済んだらしい。しかし、体が妙に重い。さらに彼の視界は暗いままだった。仰向けになったはず彼の頬はなにやら柔らかいものに挟まされている。そして顔面もなにやらもじゃもじゃしたものとこれまた柔らかいものでうずめられていた。おまけになんだかいい香りのする石鹸の匂いまで。
「んん?」
異変に気付いた横島は顔をどうにかそこから抜け出させた。すると目の前には。
少し火照った肌色の太ももがあった。凄く柔らかくて、しっとりとぷにぷにしている。そしてふと上を見上げると滑らかに曲線を描く、くびれときれいなおへそがあって、さらに上には形の整った美しいお椀型が揃っていて、さらにさらに上には……。
「お、キヌちゃ……ん?」
真っ赤に染め上がった少女の顔と烏の濡れ羽色をした長髪が垂れていた。彼女もまた、崩れた壁の瓦礫と一緒に男湯へ落ちたのだった。そして間もなく横島と目が合った後、光速の鉄拳流星群が彼に降り注ぎ、彼女の涙声がこだましたのである。
こうして騒動はひとまず終わりを告げた。
いや、これで終わりではなかった。
「せんせー!! ご無事でござるかー!」
半壊した壁の向こうからシロが泣きながら、血まみれで気絶する横島の元へ擦り寄ってくれば、
「まあ、ピート、来てたのねえ♪」
「げ、エミさん……」
エミが嬉々として、ピートに飛びつこうとする。
「待て、こら」
だが、美神がエミの後ろ髪を引っ張って、残された壁の後へ引きずり込み、鈍い音を鳴らせた。再び彼女の顔が向こうから出てくると、
「大丈夫、もう安心して。邪魔者は始末しておいたから。悪かったわね」
それはもうまことしやかに爽快な笑みを見せ、凄みを利かせた。
「先生」
「……なんだね、ピートくん」
風呂から上がってのぼせた頭も冷めたのか、唐巣も目の前に広がる有様に開いた口が塞がらない。
「どうしましょうか」
「どうしようもないのじゃないかね……」
「ですよね」
お互い顔を見合わせて、頭を抱えずにはいられなかった。
「あーもう、結局なんだったのよ!」
そして、タマモが天井に叫ぶ。無理もない、彼女は巻き込まれただけで実害も何も負ってはいないが、この状況では怒ること以外に何が出来ようか。
壊れかけの銭湯にさまざまな感情が錯綜し、渦巻いている。確かなことは彼女らが来た事で、銭湯は多大な被害を被り、横島は一瞬の恩恵を受ける事が出来たのだった。もちろん、出入り禁止を食らったのは言うまでもない。
そしてこの日、銭湯の湯気は夜空に浮かび続け、絶える事はなかったという。
どちら様にも難儀な一晩であった。
終わり
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