それは、ほんの一瞬の出来事だった。
不用意な地下鉄工事の影響で地脈が変わり、周辺の悪霊たちを吸い寄せてしまっている古い雑居ビルの中で、美神除霊事務所の面々は大規模な除霊作業を行っていた。
ネクロマンサーの笛によって、ビルの中に巣食う霊団をおキヌが浄化している間、他の四人が群がる悪霊を退治する。
慈悲の気持ちをこめて、一心に笛を吹くおキヌは無防備ではあったが、四方を固めるメンバーは水をも漏らさぬ構えで、ひとつたりとも近寄らせるようなことはない。
やがて、おキヌが霊団を浄化し終わった後、美神が地脈の流れを矯正し、それで依頼は完了する、はずであった。
雲霞の如く押し寄せる霊団も大部分が昇天し、大きな山場は越えていた。
笛を吹き続けているおキヌはもとより、美神を始めとする他のメンバーにも疲労の色は浮かんでいたが、そこは歴戦の強者揃い、気を緩めるような無様な真似はしない。
神経を研ぎ澄まし、数の少なくなった霊たちの動きを注視する。
絶えず辺りを窺い、決して死角をつくらぬように互いの視線を交錯させ―――――それが離れた。
そのほんの僅かな隙を、それこそ狙ったものではなく、様々な偶然がもたらした道を、一体の霊がすり抜ける。
およそ人を傷つけることなど出来そうにない子供の霊は、まっすぐにおキヌの元へと向かっていった。
自分のほうへ向かってくる霊に気付いたおキヌは、そのあどけない顔にごく僅かだが躊躇し、それが致命傷となった。
かろうじて顔を背けたおキヌの右目の付近に、精一杯伸ばした子供の手が突き刺さり、抉る。
それでもなお、口を離さずにいた笛を吹き鳴らし、子供の霊は成仏して果てた。
「おキヌどのっ!!」
異変にいち早く気付いたシロが唸るような悲鳴を上げ、冷たい床に倒れこむおキヌの元へと駆け寄った。
自ら崩した陣形の横から、この隙に乗じようとする悪霊が数体間を詰めてくるが、荒々しく振り下ろされた霊波刀によって、瞬く間に消滅した。
「しっかり! しっかりするでござるっ!!」
痛みすら感じる間もなく視界の半分を失っていたおキヌは、自分の頭を抱きかかえるシロの声に、ようやく自分に起こったことに気がついた。
「大したことはござらぬ、傷は浅いでござるから・・・」
自分に言い聞かせるように、そう繰り返しつぶやくシロの手を、大量の赤い血と脳漿が容赦なく濡らす。
一滴、また一滴と、失われた右目からは止めどなく血が溢れ、おキヌの顔は見る間に白く、冷たくなっていく。
もはや、誰の目にもおキヌが助からないことは明白だった。
だが、それを認めることなど出来ないシロは、懇願するかのようにおキヌの傷口を舐め、口元を赤く染めていく。
朦朧とする意識の中、おキヌは信じられないくらいに重い自分の腕を上げ、そっとシロの頭を撫でる。
「・・・大丈夫よ・・・シロちゃん」
もはや声を発せているのかどうかもわからなかったが、それでもなお言葉を紡ぐ。
「・・・死んでも・・・生きら・・・れる・・・から・・・ね」
最後の力を振り絞ってやさしくそう告げると、血の気を失った白い顔で力なく笑い、やがて静かに目を閉じた。
身体の感覚はとうになく、シロの頭に添えていた手も、するりと脇に落ちた。
魂の糸の切れる間際、音も光も感じられないが、他の皆も、あの人も、自分の元へと駆け寄ってくる気配がする。
そのことだけが、心残りとなった。
魔界転生
春まだ遠い信濃路を、ただ、ぶらぶらと歩く。
口先だけの年末を終え、いつにも増してらしくない正月を過ごしたあと、何故だか急に山が見たくなった。
そう思うと居ても立ってもいられず、いつもの電車を飛び降り、反対側のホームへ歩きながら上司へと電話を入れる。
別に理由なんかどうでもいい。
風邪だろうと、ウィルスだろうと、親戚の叔母の娘の隣のハトコのピーヨコちゃんが危篤だろうと、思いつくなら何でも良かった。
有給休暇は消化しきれないほどある。
たまの一日ぐらい、さぼってみてもいいじゃないか。
苦笑いする上司の声を切り、携帯の電源を落とすと、普段足を踏み入れたことのないホームへと上がる。
定期券以外の切符も持たず、ホームに停まっている、八時ちょうど発の特急電車へと乗り込んだ。
今日これからどうするか、ドアが閉まってから考えればいいことだ。
途中でローカル線に乗り換え、見知らぬ駅で降りた。
どうしてここで降りようと思ったのかはわからない。
ただなんとなく、窓から見る風景に惹かれるものがあった。
無愛想な駅員の居る窓口で清算し、改札の外へと出ると、古びたバスが一台待ち構えていた。
今となっては貴重な板張り床のバスには、先客は誰もいない。
ほんの少し躊躇したが、思い切ってステップを昇り、席に腰を下ろすと、それを合図のように走り出す。
アナウンスもないバスの行き先は、御呂地という、名前を聞いたこともない所だった。
一時間ほど乗ったところでバスを降り、山間の道をのんびりと歩いていく。
今年は暖冬のせいか、雪が降った様子もなく、奥の山々がうっすらと白くかぶっているのが前方に見えるだけだった。
さすがに山の空気は冷たいが、幸いに風もなく、葉を枯らしたブナの枝はぴくりとも動かず、微かにスギの木々がゆらゆらと細い枝を揺らしている。
人の気配も車もなく、穏やかな小春日和の陽の下での散策は、陳腐な表現だが、都会のストレスに疲れた心が洗われるようだ。
こんなところをスーツ姿で歩いているのは場違いも良いところだが、それほど上まで行かなければ大丈夫だろう。
あまり遅くならないうちに下へ戻って、日帰りの温泉でも探して入っていこう、そんなことをぼんやりと考えていた頃だった。
少しきつい上り道を越えると、展望を妨げていた杉林が切れ、雄大な景色が目の前に広がった。
青く澄んだ空に、刷毛で梳いたような絹雲が走り、白く輝く岩山は大きく、そしてたくましくそびえ立つ。
まるで絵画のような美しい光景に目を奪われ、つい足を止めた。
馴れぬ山道を歩く疲れもあってか、かなり長い間、ぼんやりと景色を眺めていたが、さすがにそろそろ行かないと具合が悪い。
この先へ行くのはあきらめて今来た道を戻ろうか、それともこの先に行くほうが近いのか、そう考えあぐねていると、こちらへ近寄ってくる人影が見えた。
ちょうどいい、あの人に聞いてどっちにするか決めようと思い、思わず息を呑んだ。
地元の神社の娘だろうか、白妙に朱袴を纏った少女が、たおやかに、しずしずと歩いてくる。
いわゆる巫女装束だが、正月の初詣の際に多く目にしたアルバイトの少女たちなどでは決してなく、清らかで凛とした風情があった。
少し藍がかった黒髪は豊かで、つややかで美しく、空の青さと相俟って、実に見事な調和を描いていた。
軽く会釈して通りすぎる彼女を、つい声を掛けるのも忘れて、道なりに消えるまで見送っていたが、はっとして後を追いかけた。
「あのー、すいません」
岩陰にカーブする道にいるはずの彼女に、なんとも間抜けな声をかけながら駆け寄っていく。
こんな山の中で、それもスーツを着た見知らぬ男が追い掛けてくるのは、なんとも不審な光景だろうが、こちらとしてはやむを得ない。
精一杯爽やかに話して、道を教えてもらわねばならなかった。
「この先の村までは、あとどのくらいで―――」
そう言おうとしたが、軽く上げた右手と共に空振りに終わった。
カーブを曲がった下り坂の先には人影はなく、返事をしてくれるものもいない。
はて、どこか横道にそれたのか、そう思って振り向くと、今駆け下りてきたばかりの道の上に立つ、巫女の姿があった。
「あれ?」
追い抜くはずなどないのに、どうして彼女が後ろにいるんだろう。
何か腑に落ちないものを感じたが、今は道を聞くのが先決だった。
こんな格好で山に登り、遭難したとあってはなさけないことこのうえない。
今さらだが、仕事をさぼったことへの後ろめたさを感じてきて、少々弱気にもなっていた。
「すみません、ちょっとうかがいたいのですが―――」
普段の営業でも口にしないほどの丁寧さで話しかけると、彼女が少し微笑んだような気がした。
顔にかかる髪のせいか、右半分は陰に隠れて見えないが、いかにも温和で優しそうな笑顔だった。
これなら、彼女と一緒に下へ降りていくのもいいな、と邪な下心が出てきたとき、ふっと辺りに漂う匂いが鼻をついた。
それは、この場にはあまりにも似つかわしくない、なんとも言えない不愉快な悪臭で、何かが腐ったような匂いだった。
はじめは温泉に湧く硫黄の匂いかと思ったが、それにしては今まで全く気がつかなかったのが変だ。
辺りを見渡してみても、動物はおろか、鳥の死骸さえも見当たらない。
もしかして自分が、と思い、慌てて服の袖を嗅いでみるが、今朝のシャンプーの残り香と汗の匂いがするだけで、他に変な匂いはしない、はずだ。
すると残るのは―――そう思い至った時、急に強い一陣の風が吹いた。
突然のいたずら風に、彼女の長い髪が天を突くように巻き上がり、隠れていた顔の半分が露わになった。
まさか
まさか、そんなことが―――
見てはいけないもの、知られてはいけないものを見られた彼女は、それでも相好を崩したまま歩み寄る。
瞬間、純白の袂をはためかせて右手を上げたかと思うと、何かが光り、少し遅れて彼女の姿がぐらり、と揺れた。
それっきりもう、何も動くものはない。
あの匂いでさえも、どこかへ消え去ってしまっていた。
風は止み、地に足をつけたまま横倒しになる彼女は、やはり清らかで美しく、優しそうな笑みをたたえたままだった。
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