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バレンタインカード・ホワイト










 あの頃はまだ、チョコレートを贈るなんて習慣はなかったのよ。










 雪に閉ざされたその洋館へ到り着いた時、彼女の同僚でもあった青年士官は半分ばかり凍り付いていた。
 彼だからそんなになっても何とか到り着けた様なものだ。たとえ軍人であっても「普通の」それだったなら、おそらく途中で行き倒れていただろう。

「自分は……大尉殿の無謀な行軍命令によって、このまま凍死させられるのだと思いました……」
「やーねえー。せっかくの休暇だから、不二子、別荘にご招待したんじゃない」

 先にその洋館に来ていて出迎えた彼女は、気まずげに笑いながら、真っ白だった彼を館の中へと入れる。
 彼女も彼同様、この積雪と吹雪の中をここまで到り着ける者だった。

「まずは、ゆっくり暖まりなさい。私は何かくつろげる服を用意して来るわ。その格好じゃさすがに窮屈よ」
「大尉殿、蕾見男爵家の屋敷ってこんな所にもあったのですね」

 暖炉の前で少し血の気を取り戻した軍服姿の彼は、生真面目そうな動作で辺りを見回しながら、呟く様に言う。
 すると、その場を離れようとしていた彼女が彼の元へと戻り、不満の声を発した。

「軍務中以外は“大尉殿”じゃないでしょお? 兵部中尉?」
「えっ……」
「いつも言ってるじゃない、不二子って呼んでちょうだいって」

 傍らで頬を膨らます彼女に、彼は狼狽を見せる。
 困り顔を浮かべた青年士官は、少年のあどけなさを多く残していた。

「しかし……その……不二子…さん」

 おずおずと呼び直した彼に満足そうな笑みを浮かべると、彼女は再び客用の服を取りに向かう。





 彼女の用意した少しゆったりした衣類に彼が袖を通す間、彼女は一緒に持って来たレコードをプレーヤーに掛ける。
 ブツッという音がしてしばらく後、雑音の少ない陽気な感じの演奏が辺りに響き始めた。
 どことなく聞き覚えのあるメロディに彼が微かなハミングを合わせると、彼女はにっこり笑いながら更に彼のハミングに合わせて口ずさむ。
 彼女の接近に気付き、彼は顔を上げる。彼女は着替えやレコードの他にも、色々と持って来ていた。
 その中には、果実酒とグラスもある。
 こんな時期だけど、これはずっと前からここの地下にあったものよ。密造酒とかじゃないわ。そう言いながら二個のグラスに注いで行った。

「しかし、自分は未成年ですし、それに……やはり非常時に軍人がこうした贅沢は」
「私も未成年よー? 先に軍に入ったから私の方が少しだけ先輩で上官だけど、不二子、ホントは君と殆ど年変わんないんだから。それに、今日はお祝いなんだからね。君の正式入隊祝い」

 そう言いながら彼女はグラスを掲げる。雰囲気に呑まれ、同じくグラスを掲げて乾杯を交わす彼。
 さすがに、僅かに並んだ料理の皿は、時局に応じた質素なものだった。
 雪の中の別荘に料理人などいなくて、彼女一人で作ったからというのもあっただろうが。





「今日はね、もう一つ、イベントがあるの」

 ボトルがなくなりかけた頃、彼女がそう切り出した。
 その言葉に彼は首を傾げる。この時期に行事の心当たりはない。
 節分、旧正月、どれも当てはまらない様に思える。怪訝な顔のままの彼に彼女は続けて尋ねた。

「今日は、何月何日だか知ってる?」
「はい。本日は、2月……14日、であります」
「そうっ」

 少し緊張して答えた彼に頷き掛けると、彼女は果実酒を持って来たバスケットから、一枚の封筒を取り出した。

「はい」

 その封筒を両手に持って、テーブル向かいの彼へと差し出す。彼は、反射的に封筒を受け取り、ますます首を傾げた。
 手触りと重量から、封筒の中には一枚だけ厚手のカードの様なものが入っていると分かる。

「これは……もしかして、指令?」

 彼が真剣な顔で尋ねると、彼女は笑いながら首を横に振り、開けてみるよう促す。
 封筒の中には、手書きのグリーティングカードが入っていた。声に出して読まないでね、不二子も恥ずかしいから。文面を目で追う彼にそう頼む彼女。
 読み終えて彼は目線を上げ、彼女を見すえる。文面の内容より、送られた意図が分からない表情だった。
 彼はその疑問を口に出す。

「これは?」
「今日、2月14日はね、男の子と女の子がカードを贈り合う日なの」
「は? ……そんな行事、自分は聞いた事ありませんが」
「そうね、日本ではあまり聞かないわねー。でも、ヨーロッパやコメリカなんかじゃみんなやってるのよ? 不二子ね、これ気に入ったからずっとやってみたかったんだけど、なかなか送る相手いなくて」
「って、て――敵国の風習、敵性文化じゃありませんか、大尉っ!?」

 耳にした固有名詞に彼は、顔色を変えて気色ばむ。

「不二子」

 だが彼女は、自分の名前を繰り返す事で呼び方が戻ったのを咎めた後、にんまり笑って彼にこう尋ね返した。

「ねえ兵部クン、さっきからこの部屋に流れてる音楽、何かしら?」

 しばらく耳をすませた後、彼は息を呑む。
 レコードからは陽気な演奏が――A列車で行こう、ムーンライト・セレナーデ、スウィングジャズの数々が。
 先程からずっと。
 街中で――家の中からでも、こんなものが流れていたら、数分以内に憲兵が踏み込んで来る事だろう。

「こんな雪山まで、敵性文化の取り締まりになんて誰も来ないわ。それこそ八甲田山の二の舞よ」
「そ、そういう問題ではなく……わ、我々は帝国軍人です。国が一丸となって米英に立ち向かっている時、このような」
「兵部クン」

 彼の言葉をさえぎって、彼女は静かな口調で呼びかけた。

「守りたい何かを守る事と、それ以外の何かを憎む事は別なの。例え国中が敵を憎んでいようと私達超能力者は絶対にそれを忘れては駄目。私達は、憎しみだけで破壊し、殺す事が出来るのだから」

 沈黙が流れる。レコードからの音楽も止んでいた。
 彼女はプレーヤーへ歩いて行くと、レコードを取り替え、再び針を落とす。
 今度は掠れた声の女性ボーカルがピアノと共に流れ始めた。やはり英語の歌だった。

彼女の求めるままに。
彼女の必要とするままに。

「ねえ、踊らない?」

 そう言って彼女が手を差し伸べて来た時、彼は再び狼狽した。

「いや、僕は……自分は、そういうのはまったく分かりま…」
「大丈夫よ、私に合わせて動けばいいだけ」

 彼は立ち上がり、恐る恐る彼女へと近付いた。
 ゆっくりとした動きでチークが始められてから、しばらく経って、彼女がふいに口を開く。

「改めて……超能力部隊への正式編入おめでとう、兵部クン。ここだけの話、配属審査でも君がトップだった」
「いえ、大尉…不二子さんの、ご指導ご鞭撻の賜物であります」
「違うわ。君の力、君の努力……君が、まっすぐ前を見て歩いて来たから」

 少し意味を掴みかねたのか、チークしながら彼がその言葉を繰り返す。

「前を?」
「そう。君はいつだってずっと前を見ている。そして、そこにたどり着けるって信じている。頑ななまでに」
「自分の超能力で、多くの人の役に立つ事が出来ると。多くの人を守れると。だから……」

 不安なのよ。
 まっすぐ手の届かない前を見続けて、それ以外の何も見えなくなってしまうんじゃないかって。
 そして、どこかで迷ってしまうんじゃないかって。

「だから、忘れないでいて。あなたは、どこへだって行けるし何にだってなれるんだって」

 カードにそう書いた通り。
 あなたには無数の道が広がっているのだから。たくさんの世界に囲まれているのだから、それを見失わないで。

「ねえ、不二子、贈り合う日って言ったわよね。だから君もきっと書いてね……不二子に読ませて」





 もう一度、私達が二人で、この場所でバレンタインデーを迎える事はなかった。
 戦局が悪化し、超能力部隊が休暇を取ったり国内を自由に移動したりする事は出来なくなり、再び二人がこの別荘に揃ったのは「あの訣別の日」だったから。
 終戦後、私が超能力支援研究局を設立し、ノーマルの敵となった彼との戦いに備えて眠る間に、この国でも2月14日は「女の子がチョコを送る日」として広まっていた。
 彼からのカードは、ついに貰えなかった。





 廊下の壁に残った弾と血の痕を前に、彼女はしばし佇みながらチョコレートの粒を口に運ぶ。
 時は戻せないから。だから不二子、一人でこれ食べちゃうわね。
 手元のチョコレートがなくなると、ぺろりと指先を舐めてから踵を返す。
 もうすぐここに、あなたの大好きな女の子とあなたの大嫌いな男の子がやって来るわ。不二子、頑張ってその子達をくっつけちゃうの。
 私にも、守りたい世界が、見ている未来があるから。あなたとは違う形で。
 一度だけ足を止めて、彼女は窓から外を見下ろす。
 一面の銀世界の中、先端にドリルのついた車両と、その前をよろよろと進む大人一人と子供三人のシルエットはすぐ近くまで来ていた。



  【 E N D 】
 ギリギリで当日セーフ。
 急に書きたくなって思いついたのを書いてみました。
 色々とでっちあげてばっかりな話ですが、原作と食い違ってる箇所は……ない……と、思いますが……(滝汗)。

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