美神令子は悩んでいた。
リビングのテーブルの上に置かれた綺麗にラッピングされた箱と、それよりやや歪な包みの箱。腕組みをしてそれを睨みつけるようにしていたかと思えば、うろうろとテーブルの周りを忙しなく歩き回る。眉間に深い皺を入れ、途方に暮れた顔をしたかと思えば、意識がどこか遠くのお花畑に旅立ったかのような至福の表情を浮かべたりしている。
彼女にとって幸いだったのは、ここは彼女のマンションであり、周りに誰も居ないという事であった。
これが仮に事務所だったとしよう。周りに誰かいないとしても、常に人工幽霊の目が光っている。
『どうなされましたか、美神オーナー。ご気分でも優れないのですか?』
と、突っ込みを入れられるだけでなく、場合によっては他の人間(人外も含む)に密告されてしまう恐れもある。
だが令子は、人工幽霊がいないからここを選んだのではない。事務所だと都合が悪いからこの場所を選んでいたのだ。
そう、今日は二月十四日バレンタインDAYである。柄にもなく手作りチョコなるものを作ってみたのだ。
今頃は事務所の女性陣で和気藹々とチョコを作っているのだろうが、その中に混じる程令子は素直ではない。自分も渡したい気持ちは十二分にあるのだが、他の女の子が見ている前で堂々と渡すほど度胸もない。
「なにドギマギしてんのよ、私は。印よシ・ル・シ!」
印を渡すのに、わざわざ手作りにする必要があるのだろうか?
いやそれ以前に、ここまで緊張する必要なんぞありゃしない……と、突っ込んでくれる人もここにはいなかったのが彼女の不幸(幸い)であった。
「たぶんあのバカの事だから、こんなの渡したら……“それはもぉ誘ってるんですねーーー!”と飛び掛ってきて、んで私が“こんバカタレ!!!”―――に間違いないわ。ヘタすると、一発の突っ込みじゃ効かないかも」
伊達にお互いを熟知しいるワケではない。おそらくその予想は正しいであろう。
「そういえば、アイツ意外な対応されるとアドリブ効かないから結構弱いのよね……どうせ飛び掛ってくるんだから、その時に“そうよ”なぁ〜んて応えたら、緊張しまくってどう対処していいか判らないでしょうね」
令子はニヤリと笑い、自分の考えを確信した。
「さて、そうと決まれば出掛けなきゃ。あのバカそろそろ事務所に来る頃だし♪」
ちょっとしたイベントで、なんの変りもない日常……令子はそう考えていた。
運命の歯車というものは、どこにでも転がっている。
そして日常というものは、簡単に崩れ去るものである。
高校三年の二月というもは、普通卒業を控え登校は無いものである。
それが例え赤点ギリギリであろうと、卒業のための単位を取ってさえいれば誰であろうと自主登校なのである。
二月十四日バレンタインDAY―――学校に行ったところで、収穫は無く殺意しか沸いてこないと判断した横島は登校しなかった。しかし卒業を控えた彼を待っていた女性はかなりいたという事を、朴念仁の彼は知るよしもなかった。小学生の頃から成長というものを感じさせない男である。
「事務所にいけば少なくとも三つは貰えるからな。美神さんからは……あんまり期待しない方がいいな。変に期待すると、去年みたいにえらい目に遭うからなぁ」
そう呟きながら事務所へと歩む男、横島忠夫。
彼も日常というものが、いつまでも続くと思っていた。
人生の歯車は、いつでも狂い始めるという事を今の彼は知るよしもなかった。
事務所に横島が辿り着くと、目の前には去年の友、地獄を共に潜り抜けた戦友がいた。あくまで去年のこの日だけである。
だからといって二人の間に奇妙な友情や腐じょ(略)が騒ぎ出すようなものは、一ナノグラムも存在するワケはないのだ。
「何しにきやがった、似非紳士」
「ご挨拶だな。お隣さんに挨拶にくるのに、君の許可が必要かね?」
横島は殺気を放った視線を浴びせるが、それ以上の事はしない。
民主主義、いや格差社会の痛みを知る彼としては、それを見せ付けられるのをヨシとしなかった。さすがの彼も、令子へのセクハラの代償以外では“懲りる”という事を学習したようである。
ここで騒いでも仕方ない、いやヘタすると血の涙を流す事態にもなりかねない。そう考え横島は、一瞥くれると事務所へと入ろうとした。
「あ、横島さ〜〜〜〜〜ん」
上空から魔女の宅配……もとい現代の魔女・魔鈴めぐみが箒に乗り横島の前へと現れた。
「去年は大変ご迷惑をお掛けしました。これお詫びの気持ちです」
箒から降りる時に、長いスカートからストッキングに包まれた白い足と白い別の何かが見えたのはサービスなのであろうか。だがいくら横島でも、お詫びという言葉を言われたからには、さすがにダイブする気は起きなかった。ましては西条の目の前である。すぐに斬りかかられるか、銀の銃弾をフルオートで浴びてしまう。
「すんません。ありがとうございます」
サービス付で貰ったチョコレート、お詫びとはいえ横島には二重の喜びであった。感謝しつつ大事にポケットの中に仕舞おうとしたが、魔鈴はそれを止めた。
「あ、この場で食べてくれませんか?横島さん、たくさん貰いそうだから」
にっこりと微笑みながら魔鈴がそういうと、横島は慌てて包みを解くと中のチョコレートを口の中に放り込んだ。
「ちょ、ちょっと魔鈴君。僕もいるんだけど」
慌てた様子で西条が魔鈴を呼び止める。
「あ、西条先輩いたんですか?」
かなり嫌そうな顔で魔鈴は振り返った。その表情は、本気と書いて『マジ』である。
「い、いたんですかって君ねぇ」
「冗談ですよ先輩。はい、先輩にも」
冗談といった割りには、かなり投げやりな態度で西条にも小箱を放った。そう渡したのではない、放ったのだ。
「先輩も、この場で食べちゃってください。他の人に恨まれたくありませんから」
なんなんだこの差は―――と思いつつも西条もチョコレートを口に入れた。
「ま、魔鈴さん……なんかこのチョコ……ちょっと変った味がするんですけど」
「はい。めぐみ特製の“今夜はあなたとハネムーン、
十月十日が楽しみねスペシャル”です♪」
「な、なんスか。それは?」
そう言葉を発した横島だが、急に湧き上がった激情に鼻を押さえかなり苦しんでいる。
「まさに、名前通りの新婚さんのためのチョコレートですよ」
屈託の無い笑顔を見せると、箒を持つ逆の手でおいでおいでをしている。フラフラと魔鈴の下へと歩みだす横島だが、鼻先にチクリとした痛みを感じ少しだけ正気に戻った。
「何をしとるか、貴様」
かなり赤みのさした顔で、西条が聖剣ジャスティスを横島の鼻先に突き出している。
「チッ……ところで先輩。先輩も何か体調に変化ありませんか?」
舌打ちをした後に、再び笑顔を浮かべ西条の方を向いた。
「いや特に変わった事は」
「そうですか?随分とお顔の血色が宜しいようですけど」
「そういえば……顔が少し熱いな」
「なら成功ね♪」
満面の笑みを浮かべると、魔鈴は箒に乗り上空へと上がっていった。
「せんぱ〜い、そのチョコの名は『あなたはこれで用済みよ♪別名“逆バイ○グラ”』です。私とオカルトGメン女性職員の勇士(間違いにあらず)一同からで〜す」
「こらーーー!待ちたまえ魔鈴くーーーーーん!!!!!」
西条の叫びを嘲笑うかのように、上空をクルリと回り魔鈴は飛び去っていった。
「そんな危ないものは、横島君にこそ渡したまえーーーーーー!!!」
普段だったら西条のそういう態度には激しく突っ込みを入れる横島だが、魔鈴の特性チョコの影響はそれどころではなかった。とりあえず西条の方を注目し、血液の流れと精神を制御する。
彼の頭の中では西条と唐巣神父それにピートが、ブーメランパンツ一丁でオイル塗れになりながらもリンボーダンスを興じている。
さすがに目の前に見本があると、リアルに想像できるのであろう。吐き気が込み上げてきつつも、どうにか熱い滾りは沈静化へと向かっていく。
そして一息つくだけの余裕がでてくると横島は、泣き叫んでいる西条を当然の如く無視して事務所の中へと入っていった。
「ち〜っす」
『おはようございます横島さん、皆さんすでにお待ちかねですよ』
天井に向かい右手を上げると、人工幽霊がすぐに応えた。
横島は魔鈴に貰ったチョコレートの影響などすでに忘れて、リビングへと向かう足も軽やかに階段を駆け昇った。
その頃西条は―――オカルトGメンの事務所のトイレへ駆け込むと、コメカミに血管を浮かべて奇声と気合を入れ何やらがんばっていた。もちろんその後、美智恵から放水されたのは言うまでもない。
「おっはよーございまーす♪」
横島がかなり明るくリビングへと入っていくと、それ以上の明るさ&殺気で彼を向かい入れる女性達。
横島は器用にも明るさだけ受け取り、内心喜びまくっている。この微妙な空気を読み取れないというのは完全な致命傷である。それが無ければ彼自身の野望など簡単に叶ってしまうだろうに……
「おっはよーでござるよ先生♪」
事前にジャンケンでもしていたのであろう。殺気の割りには何事も無く先鋒のシロが、横島の前へと歩を進めた。
いつもの態度と違い、かなりしおらしい。普通の状態であるのであれば、横島も少しばかり顔を赤らめたであろうが、生憎と魔鈴の攻撃を受けたばかりなためにかなり鈍感になっていた(当社比1.5倍)
「ぷれぜんとふお湯〜でござる」
捧げるように横島に手渡すと、期待した目で横島をじっと見ている。
「ひょっとして、今食えってか?」
「よく分かったでござるな」
「まぁ……なんとなくな」
綺麗に包装されている箱を開け、中に入っているチョコレートを手にすると口に運んだ。
「ありがとなシロ……」
最初、感謝するように笑顔を返していた横島だが、次第にその顔が歪んでくる。
「お、お前……これ、なんだ?」
顔が青くなり、そして自然と真っ赤に染まっていく。体の芯がどんどん熱くなってきているのが、自分でも嫌という程分かってきた。
「血夜虎冷斗でござるよ。馬蓮汰印弟意に捧げるものでござろう?馬蓮汰印弟意……それは古代中国の武道家・馬蓮(紀元前300年?〜紀元前235年?)の弟子・汰印(?〜紀元前212年)が尊敬する師匠が病床のおり送った物とされ、それにより馬蓮は難病を克服。それに由来される由緒正しき儀式でござる」
「どこの民○書房だーーーーーーーーーーーっ!!!」
「○明書房ではないでござるよ、ちゃんと厄珍殿に聞いたでござるよ」
必殺と書いて必ず殺す―――横島は心に固く誓った。
「……で、このちょっと生臭いのはなんだ?」
「血夜虎冷斗でござるよ」
「だから、材料はなんだと聞いてるんだ」
「拙者先生には元気になってもらいたい故、ちゃんと正式に“すっぽん”の生血を丸一匹分使用したでござる」
変なもの入れるなーーーーっ!と叫びたい所であったがあまりにも純粋無垢な目を向けられたため、かわいい弟子をそれ以上追及する気にはなれなかった。
とりあえず後日、落ち着いたところでシロには訳を話して二人して厄珍をシバきにいこう……鼻の奥に込み上げてくるものを堪えながら、横島はシロの頭を撫でとりあえず礼の代わりにした。
嬉しそうに目を細めるシロであったが、シロを押しのけて今度はタマモが横島の前へと歩み寄る。
「はい、これ……勘違いしないでよ、義理なんだからね、義理」
最近美神さんに似てきたよなぁ〜と、とんでもない勘違いをしながら横島はそれを受け取る。もちろんといってはなんだが、タマモの目がすでに何かを物語っていた。
「ありがとな……で、お前もここで食えっていうんだろ」
「分かってるんならさっさと食べてよ」
ちょっとだけ顔を赤く染めながらタマモが言うと、横島は包みを開けた。
「あの……タマモさんや」
「な、なによ」
「これって……」
「だから言ってるでしょ、義理よ、義・理!!」
「いや……義理は分かるんだけど、義理の前の『仏血』ってのはなんですか?」
義理の前に仏血―――それすなわち
仏血義理。
「どこぞのゾッキーですか、あんたは?」
「え、違うの?お菓子屋のパート従業員の園田幸恵さん(三十二歳子供四人、元・
夜舞狐セクシーフォックス親衛隊長)が教えてくれたんだけど」
「誰やねんそれ」
「だから園田幸恵さん」
「本当にいたらどうすんだよ!」
とりあえず本作の中にはいる人らしい……同姓同名の人いたらスイマセン。
「まぁ細かい事はいいじゃないの、早く食べてみてよ」
そう言われると、横島は素直に言葉に従いチョコレートを口にした。
意外と言ってはなんだが、まともなチョコレートであった。中からトロリとした液体が口の中に広がり、少しだけアルコールの風味が漂う。
「お、大人風だな。ウィスキーか?」
「違うわ、ハブと赤マムシのスペシャルブレンド酒のユン○ル割りよ」
「なんじゃそりゃーーーーーーーーー!!!」
「だから園田幸恵さん(三十二歳子供四人、元・
夜舞狐セクシーフォックス親衛隊長)が」
「それは、もぉえぇっちゅーんじゃ!!」
「とにかく園田さんがね、旦那と大喧嘩して離婚寸前になった時に、これ食べさせて仲直りしたんだって。あんたとはいつも喧嘩ばかりしてるから、今日くらいは仲良くしようかと思ってさ」
タマモが拗ねるようにそっぽを向くと、横島もこれ以上怒る気にはなれずに頭を掻いた。
「そうか、すまんかったな……で、なんで園田さんは仲直りできたんだ?」
横島の謝罪を素直に聞き入れたのか、タマモは横島の方を振り返りにっこりと笑った。
「四人目ができたんだって」
悪気がないのは分かっている。おそらく伝聞の意味は理解してないだろう。だが、このとあるものの滾りはどうしてくれる。青春の熱い滾りはどこに向けたらいいのか……鼻の奥のモノは堪えていたが、代わりに耳血がでてきたようである。
そろそろヤバいかもしれない、目の前が赤く染まってきている。だが純情可憐な乙女たちに、いろんな意味でいろんなモノを暴露するワケにもいかず、横島は耐えていた。
「はい、横島さん……大丈夫ですか?」
ちょっと(かなり)異常な横島の姿を、おキヌは心配そうに伺っている。
今更心配するんだったら、事前にちゃんとチェックしといてくれ―――という考えは横島の頭にはすでに無い。元から思考が苦手な頭のうえ、現段階では思考することさえ難しくなってきている。
だが突っ込みだけは忘れていないのは、芸人の性なのであろう。
「大丈夫だよ、おキヌちゃん。いつもありがとね〜おキヌちゃんはいい娘なのね〜」
口調がヒャクメになっているが、本人はまったく気にしていない。おキヌから箱を受け取ると、包みを開け中のチョコレートを口にした。
鼻は押さえた。だが今度は視界が真っ赤に歪んでいる。どうやら目から噴出してきたようだ。
「最近横島さんお疲れのようでしたから、弓さんと魔理さんと私の三人共同で材料仕入れちゃいました♪」
弓さんと魔理ちゃんがこれと同じものを?っつー事はこれを雪之丞とタイガーが?
あいつらがこんなもん食った日にゃ〜……許せん!天が許しても俺が許さん!!!
―――等という事を考える余裕は今の横島にはなかった。
「……で、おキヌちゃんは何を入れたのかな?」
床とお友達になりながら、横島は理性と冷静さを振り絞った。
「えーっと……オットセイとトドのエキスです」
罪は無い。おキヌちゃんに罪はないんやーーーー!!
弓さんも魔理ちゃんも悪くはない。悪いのは女性週刊誌の広告とバカどもやーーーーー!!
バカども―――それ即ち雪之丞とタイガーの事である。人はそれを八つ当たりという。
脳細胞の隅の方でそう考えてはいるものの、いかんせん体はそれにまったくといっていい程ついてきてはくれない。
頭部の血管が激しく脈を打ち、腰から下がピクピクと痙攣を起こし始めている。かなりヤバい、いや絶対にヤバい。
だが痙攣しているのは横島である。誰もが令子の折檻の現場を毎日のように見ているため、そう悲惨な状態だという事は一片も思うワケなどなかった。
「随分と賑やかね」
痙攣している横島を見ても、冷静に一言で済ませる人物がいた。美神美智恵その人である。
まぁ横島の痙攣なんぞ、この事務所では毎日のように繰り返される日常であり、誰もが何も気にするワケもなかった。
「に〜に、に〜に」
美智恵の腕に抱かれていたひのめが、竹串に何かついた物を振り回して横島を呼んでいる。(幼児に竹串なんぞ持たせてはいけません。大変危険です)
ひのめの声で痙攣を収めると、横島は立ち上がった。条件反射か、それともDNAが美神家の女性に逆らえないのかは定かでないが、足をカクカクと微妙に震わせながらも、ひのめの元へと行く。
「よーちま、はい」
丈串を横島に差し出すひのめ。その先には何かついていた。
「た、隊長……これ……」
「あ、これ?ひのめからのプレゼントよ。私が作ってるのを見てマネしたがってね」
「いや、そうじゃなくて……これ」
横島は、ひのめが差し出した竹串の先を指差しながら冷汗を流した。
「ひのめちゃんの初めてのプレゼントですか〜?」
「羨ましいでござるな〜」
「心して受け取りなさいよ、横島」
女性陣は微笑ましくそういうが、横島は未だに冷汗を滝のように流し続けている。
「大丈夫よ、ひのめが“これ”って指差したものを、チョコレートフォンデュにしただけだから」
そういってにっこりと微笑む美智恵。だが横島の冷汗は止まらない。
「なんか足ついてますよ……これ」
横島の目には、血の涙でなく普通の涙が浮かんでいる。ついでにひのめのつぶらな瞳にも薄っすらと光るものが溢れようとしていた。
「あわわわわわわわわわわ!!!ありがと〜ね、ひのめちゃん。これ美味しいなぁ〜、うん美味しい♪」
バリバリと竹串ごと砕いて食べている。口の端からは、足と思えるものがピロピロと動いているのはご愛嬌だ。
その姿を見てひのめは、両手をばたつかせながら全身で喜びを表している。
「で、隊長……これ中身なんだったんです?」
顔で笑って心で泣いて、ついでに目には光もの。モグモグと口を動かしながら、横島は美智恵に聞いた。
「ヤモリの黒焼きよ」
なんでそんなもんが一般家庭の台所にあるんやーーーーーーーー!!!!と突っ込みたいのだが、ここで騒げばまたしてもひのめの機嫌を損ねてしまう。
それに“美神家だから!”というフレーズが頭の中に交響曲第五番のメロディにのせて流れてきている。もう、諦めるしかない。
「はい、これは私からね」
諦めついでに、『毒を食らえばそれまでよ』という諺までもが頭の中に響く。
判っています。判ってました。やってやろうじゃないのよお客さん。
「ありがとうございます、押忍!」
もうすでに、人格は崩壊しかかっているかもしれない。
礼をいうと、横島は美智恵から手渡された箱を開け、チョコレートを一気に食べた。
意外といっては意外でまともであった。それはすでに色々な物を食べ過ぎたせいで、味覚がバカになっているせいかもしれない。
「美味いっス。苦味が効いてるビターチョコなんて、さすが隊長!大人の味っすね」
「え、ビター?横島君のはミルクチョコだったんだけど」
美智恵が首を傾げるのを見て、横島も同様に首を傾げる。
「きゃははははははははははは」
東南アジア某国の某噴水ライオンの如く吹き出る青春の滾り。某噴水ライオンとの違いは、口からでなく鼻から出ていて、出るものは水でなく血であったのはご愛嬌だ。横島の特殊パフォーマンスに、ひのめは大喜びである。
「な、なんじゃこりゃーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
大量の自らの血液を両手で掬い、右手を振るわせる。ホワイトジーンズでなかったのが、残念なところだ。
美智恵は冷静にバックの中を探って、ティッシュを取り出すのでもなく携帯電話を取り出すのでもなく、小箱を一つ取り出した。
「ごめ〜ん、横島君。それ来週公彦さんに渡す分だったわ」
テヘっと舌をペロっとだし、おでこを右手で叩いてみせる。本人はかわいこぶっている様であるが、もしかしたら悪意があったのかもしれない。
「で、中身はなんだったんですか?」
未だに鼻血を出し続ける横島に代わり、おキヌが尋ねた。
「南米産ウルトラガラナ、バイア○ラ塗し、題して『三人目は男の子ね、ア・ナ・タ♪』」
まだ作る気だったんですか?と突っ込みを入れる愚者……いや勇者はここには存在しない。
勇者のうちの一人は、現在血の海(自家製)で痙攣を起こしている。
「おっはよう♪」
もう一人の勇者が登場した。いつものボディコンに白いジャケットを羽織り、令子が現れた。
「どうしたの……って、きったないわねぇ」
痙攣している勇者はいつもの事とスルーされ、大量の鼻血の方にしか目がいっていない。
「チョコレートの食べ過ぎみたいよ」
トドメを刺したアンタがいうか!!という突っ込みは、勇者は存在しているが事情を把握してないために入るワケはない。
「ふ、ふ〜ん……食べ過ぎね」
呆れたような目で見下ろすが、その顔には井桁が三つばかり浮き出て、ジャケットのポケットに入れている手が少しだけ強く握られた。
「やぁ令子ちゃん、おはよう」
おそらくトイレの窓から令子が来たのを確認したのであろう、西条が水を滴らせながら事務所に現れた。
「おはようございます、西条さん」
各々が西条に挨拶する中、美智恵だけが舌打をすると眉を歪ませた。
令子は血の海で痙攣している横島に一瞥くれると、力を入れた手とは反対側のポケットから箱を取り出した。
「はい、西条さん」
微笑みを西条へと向けるが、三つの井桁は未だ浮き出たままである。
「やぁ、いつもすまないね令子ちゃん」
満面の笑みを令子へと返し、勝ち誇った目を横島へと向けた。
「み、美神さん!俺は?俺には??」
先程まで痙攣していた人物とは思えない動きで令子へと迫る。
「なんでアンタにあげなくちゃいけないのよ。私は……って去年と同じセリフ言われたい?」
縋る横島に蔑んだ目を向け、視線と言葉で一瞬にして黙らせる。
横島は暫くの間、首を項垂れていたがズルズルとその場で崩れていった。
「まぁ当然よね、あれだけ血を流せば……普通は死んでるわ」
呆れたようにタマモは言うと、首を振った。 鼻血による失血死とは、横島らしいといえばらしいが冗談にしてはキツすぎる。
「さすがの横島君も貧血のようね。今日は彼、仕事できそうもないからアパートまで送ってあげたら?」
ポケットの膨らみに、いやそれより天邪鬼な娘に気付いている美智恵は、我が娘に助け舟を出す。
「ちょ、先生!今の横島君を令子ちゃんに送らせるなんて危な過ぎ……」
魔鈴のチョコレートの効力を知る西条は必死になって美智恵に食い下がろうとするが、美智恵は西条の言葉を遮る魔法の言葉を立て続けにぶつけた。
「泌尿器科。役立たず。粗大ゴミ。トイレ専用。無用の長物……」
美智恵の魔法(呪い)の言葉が、槍のようにグサグサと西条を突き刺していく。
「まだ若いのに……無様ね」
蔑みの目で愛弟子を見下ろすと、愛弟子は血の涙を流しながら窓ガラスを突き破り、夕陽に向かい走り去ってしまった。
「た、隊長……今のはやり過ぎでは」
さすがに哀れに感じたのか、おキヌがフォローを入れようとしたのだが、美智恵は深い溜息をつきおキヌの肩を両手でがっしりと掴んだ。
「おキヌちゃん!“来る者拒まず”も度を過ぎると、オカルトGメンやGS協会を揺るがす問題になっちゃうのよ」
しかしそれは西条だけでなく横島もでは?という疑問があったが、横島は未だにサクランボであるがゆえ、西条のような実害を出していない。しかもその苦情を受け付けているのは、上司である美智恵なのだ。
切実で切羽詰った美智恵のあまりにも真剣な目に、おキヌは首を縦に振るしかなかった。
「で、令子。早く送ってあげなさい」
割れた窓ガラスを誰に弁償させようか考えていた令子であったが、美智恵の言葉でようやく貧血で倒れている横島に目を向けた。
「な、なんで私が」
「従業員の健康管理も雇用主の仕事でしょ?誰も車までアンタが運べっていってるワケじゃないわよ。シロちゃん、おキヌちゃん、車まで手伝ってあげてね」
美智恵の言葉に従い、シロとおキヌで倒れている横島に肩を貸し、車へと運んだ。
「ついでにポケットの中のもの渡しちゃいなさいね、意地張って後悔しても知らないわよ」
令子の耳元でそっと呟くと、令子の顔が見る間に赤く染まっていった。
車庫の中のポルシェまではシロとおキヌに運んでもらったが、アパートに着くまでに意識は戻るだろうという理由で、令子自らが二人の同乗を断った。
その理由はあくまで建前で、本当はチョコレートを渡す姿を見られたくないからである。
十分も走ると横島のアパートに着いた。一応揺すってみると、横島はかなりダルそうな表情を令子の方へと向けたが、返事はなかった。
「ほら、着いたわよ。歩ける?」
そう言葉をかけると、横島は頭を抱えながらゆっくりと車から降り、一礼するとアパートの階段を頼りない足取りで昇っていった。
結局チョコレートは渡せず仕舞い。ハンドルにかけていた指が忙しなく動き出す。
「ママに言われなくても分かってるわよ。後悔なんかするもんですか……印よ、シ・ル・シ」
目を閉じ自分にそう言い聞かせると、ポケットに手を入れ変形した箱を確認する。
覚悟を決めたように目を開けると、ドアを乱暴に開けると一歩一歩踏みしめるように力強く歩いていく。
横島の部屋の前に着くと、二、三度呼吸をし、それから大きく息を吸った。
「横島君、忘れ物よ。ちょっといいかしら」
ドアをノックすると、奥からか細い声が聞こえてきた。
「開いてますよ〜〜〜〜〜〜」
拳を強く握り、自分に気合を入れると令子はドアを開けた。
相変わらず汚い部屋の奥の万年床の中から、横島は顔だけを入り口へ向けている。
「忘れ物ってなんスかぁ?もう起きるのもダルいんスけど」
「張り合いないわね。せっかくアンタに渡そうとチョコ持ってきたんだけど」
ポケットの中から変形した箱を取り出し、右手で振ってみせた。
途端に横島の顔に赤みが差し、顔色が正常に戻っていく。
それと同時に、布団から玄関までの数メートルを一気にル○ンダイブ。どんな筋力をしていれば可能なのか、世の中は科学では説明できない事が沢山あるとだけ言っておこう。
「それはもぉ誘ってるんですねーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
ほら予想通り―――令子は思わず目を閉じると勝ち誇ったように口の端を緩めると、前もって準備していた言葉を口にした。
「そうよ」
「では、遠慮なく〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♪」
「あ……あれ??」
数ヶ月後・・・・
「喉渇いたーーーーー」
「はいはい、ただいま〜〜〜〜」
「お茶は嫌〜〜〜〜、紅茶にして」
「はいはい、すぐにお持ちします」
「肩凝ったぁ〜〜〜〜〜〜〜」
「はいはい、すぐに」
自分の椅子ではなく、令子はソファに寝そべるように座ったまま横島に命令をだしている。
それに逆らう様子もなく、横島は走り回っている。
それはいつもの日常でいて、どこかしら違った風景。
過去の日常は消え去り、新しい日常が繰り広げられている。
「アンタ分かってるでしょうね。一年よ、一年!!アンタのせいで、一年もお金が稼げないのよ!!」
「アンタ、私の人生設計ムチャクチャにしちゃったんだから、その分しっかりと働いて返しなさいよ!!」
三白眼で睨みつけながら令子が強く怒鳴るが、誰もその言葉を信じることはない。
新たな日常となった風景を、事務所の三人娘たちは呆れたように、そして羨ましそうに微笑みながら眺めている。
それは少し目立つようになってきたお腹を、愛しそうに撫でる彼女の左手の薬指に銀のリングが質素ながらも誇らしげに光っているからなのであろう。
―――おしまい―――
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