「〜〜〜♪ 〜〜♪ 〜〜〜〜♪」
鼻歌を歌いながら、私はゆっくりと鍋の中身をかき回します。
私の気持ちをいっぱい込めて、ゆっくり、ゆっくりと気持ちが馴染みますようにとかき回します。
今日は二月十三日。明日は二月十四日。
私が生き返って、初めて迎えるバレンタインデー。
鍋の中身は、当然のように溶かしたチョコレート。背後のテーブルには、形も大きさも様々な型を並べてあります。
唐巣神父にピートさん、タイガーさんに雪之丞さん。鬼道先生、西条さん、カオスさん、厄珍さん。
いつもお世話になっている人たちにあげる、一年に一度の感謝の気持ち。
丸型、四角型、三角型、星型……たくさん並ぶその型は、みんなにあげる感謝の形。
でも……その沢山の型の中でも一番大きいハート型は、たった一つ。
「チョコと一緒に届ける気持ち……か」
弓さんから聞いた、バレンタインデーの本当の意味。
私はその言葉を繰り返しながら、自分の心に問いかけました。
『月が届ける気持ち』
初めてバレンタインデーのことを知ったのは、私がまだ幽霊だった頃のことでした。
いつものように商店街にお買い物をしに行ったら、いつの間にやらそこかしこに『バレンタイン』の文字が飾られていて、何のことかわからなくて首を傾げたものです。
『あのぉ……』
「ん? おキヌちゃんじゃないかい。どーしたんだい?」
私が声をかけたのは、いつもお世話になっているスーパーマルヤスの店長さん。
お金が足りなかった時も、「おキヌちゃんなら、そこらの生きてる奴よりよっぽど信用できる」って笑ってツケにしてくれる、とっても優しいおじさんです。
『そこに書いてある“ばれんたいん”ってなんですか?』
マルヤスさんの店内も、外と同じように飾り付けされた一角がありました。綺麗に梱包されたお菓子……確か、南蛮のお菓子の“ちょこれーと”というのが並んでます。
「ああ、おキヌちゃんは江戸時代の生まれだったんだっけ?」
『はい』
「バレンタインデーってーのは、一年に一度……二月十四日だ。女の子が男の子にチョコレートをあげる日なんだよ」
私の問いに、おじさんは苦笑しながら教えてくれました。
『ふえ〜、そうなんですかぁ』
「ああ。おキヌちゃんなら、あのガキ……横島っつったか? あいつにあげりゃいーんじゃねーか?」
『そうですねー』
おじさんの言葉に頷いて、私はチョコレートをあげた時の横島さんの様子を想像しました。
……うん、いつもお腹空かせてるから、きっと喜んでくれる。
チョコレートを受け取ってくれて、「ありがとう、おキヌちゃん」って言って笑顔を向けてくれる。
でしたら……
『でしたら、私もそこの“ちょこれーと”を一つ……』
「ちょっと待ったおキヌちゃん」
『ふぇ?』
横島さんに喜んでもらうために、棚に並んだチョコレートに向かった私。
でも、そんな私を、おじさんは制止しました。
「おキヌちゃん、こーゆーのは、手作りの方がいいもんなんだよ」
『そーなんですか?』
「ああ。……ま、店長としては、そこに並んでるのを買うよう勧めるのが正しいんだろうけど……おキヌちゃん、いい子だからな」
『ふえ〜、ありがとうございます。……あの、それでその“ちょこれーと”って、どうやって作るんですか?』
「ああ、それはだね……」
それから、私はおじさんからチョコレートの作り方を教えてもらいました。
もっとも――それからしばらく、二月十四日。
この時のバレンタインは、美神さんに付いて行って厄珍堂にお買い物に行った時に、あの生きているチョコレートを作っている現場に遭遇しちゃって……そのままあの騒動になっちゃったんですけど。
結局横島さんにチョコを渡しそびれちゃって、次こそはって思ったんですよね。
……でも当時の私は、二月十四日のバレンタインデーを、『横島さんにチョコレートをご馳走してあげる日』としか認識してませんでした。
私がそう誤認していることは、周りの誰も気付いていなかったみたいで。
当然、私自身で気付けるわけもなくて。
その間違いは修正されることなく――私は、次のバレンタインデーを迎えることになりました。
その次のバレンタインデーは、手作りのチョコを何事もなくちゃんと用意できました。
『でも、なんでチョコなんでしょう?』
梱包まで一通り出来上がってから、私はふと疑問に思いました。今更ですけど。
別に、手作りの食べ物をご馳走してあげるなら、チョコじゃなくてもいいと思うんですが。たとえば、お料理とか。
……あ、でも、お料理でしたらいつも作ってあげてますよね。やっぱり一年に一度しかない日ですから、いつもと違うものの方がいいんでしょう。
それにしたって、なんでチョコ?
それでも私の疑問は晴れることはなく、結局気になって、事務所で朝刊を読んでいる美神さんに聞きました。
『美神さーん』
「ん? どうしたのおキヌちゃん?」
『今日ってバレンタインデーですよね?』
「そーよ。おキヌちゃん、あの馬鹿にあげるんでしょ? さっき包んでた手作りチョコ」
『はい♪ ……あの、聞いていいですか?』
「何?」
『なんでチョコなんでしょーか?』
「ああ、それね」
私の質問に、美神さんは呆れたようなため息をつきました。
……私、何か変なこと聞いたんでしょうか?
「ああ、おキヌちゃんのことじゃないわよ」
美神さんはそう言って、ひらひらと手を振りました。……すごいです。何も言ってないのに、私の考えてることがわかるなんて。美神さんって、実はちょーのーりょくしゃですか?
「別に、バレンタインデーだからってチョコである必要はないのよ。欧米だと、チョコ以外にもバラや宝石ってのも一般的だしね。日本でチョコ一色なのは、何十年か昔の菓子企業の陰謀が原因で、特に深い意味はないわ」
『ふぇ〜、そーなんですか』
「そーなの。ま、元が菓子屋の親父の悪巧みってのが気に入らないけど、チョコ一つで男が喜ぶなら安いもんじゃない? 私は、そんな少女趣味なイベントには参加しないけどね」
そんなことを言っている美神さんだけど、私は知ってます。その机の中に、プレゼント用に梱包したチョコがあるのを。
美神さんも、今年は横島さんにチョコを食べさせてあげるんですね。横島さん育ち盛りですから、きっと喜んでくれますよ。
……でも、ちゃんと渡せるのでしょうか? 私、そこだけが心配です。美神さん、横島さんの前だと、なぜか思ってることと正反対のこと言っちゃってばかりですし。
こういうの、天邪鬼って言うんですよね。
「さて、と。それじゃおキヌちゃん、出かけるわよ。準備はできてる?」
『あ、はい。大丈夫ですよー』
読んでた朝刊をたたんで、美神さんが立ち上がりました。私は、歩き出す美神さんの後ろに続きます。
それにしても、お菓子屋さんのいんぼーですか。よくわかりませんけど、それって悪いことなんでしょうか?
……あまり関係ないかもしれません。横島さんが喜んでくれるなら、私はそれで満足ですから。
その後、お出かけの帰りに横島さんの学校に行ったら、横島さんがチョコを貰ったってことで、なぜか大騒ぎになってました。
私より先に、誰かから貰ってた……それを考えると、もしかしたら私の用意したチョコは食べきれなくなるんじゃないかなって思って、不安になっちゃいました。結局貰ってくれたので、杞憂に終わったんですが。
実はその時、私の胸はちくりと痛んでたんです。私はその理由が、本当にその不安だけだったんだと信じて疑ってませんでした。
……ちなみに美神さんは、結局チョコは渡さなかったみたいです。
そして、三度目のバレンタインデー。
その二日前、恒例のご近所浮遊霊親睦会に行く時、私は途中で材料のチョコレートをお買い物して行きました。
『ん? おキヌちゃん、その袋の中身はなんじゃい?』
ご近所浮遊霊のお爺さんの一人が、私の持ってたマルヤスさんのビニール袋を見て、そう訊ねてきました。
『あ、これはですねー』
その質問に答えながら、私はビニール袋の中身を見せました。
明痔の板チョコ、ココア、生クリームにココナッツ。
『チョコレートの材料です』
『ああ、そういや明後日はバレンタインじゃったのー』
『はい♪ お料理も結構覚えましたので、今年は“とりゅふ”ってゆーのに挑戦してみようかと思いました』
『手作りチョコかー。ええのー』
そう言って、お爺さんは生前を思い出したのか、懐かしそうに目を細めました。
『ほう、バレンタインチョコかい?』
そこに、横からお婆さんが会話に入ってきました。
『あたしが生きてて若かった頃は、バレンタインデーなんて習慣はなかったもんだけどねぇ……やっぱ、あの横島って子にあげるのかい?』
『はい♪ きっと、喜んでくれますよね?』
『ふぇっふぇっふぇっ……そうだねぇ。おキヌちゃんの手作りチョコが貰えるなんて、あの子も幸せもんだよ。おお、そうだおキヌちゃん。バレンタインデーってのは、ハート型のチョコが定番だそうだよ?』
『え? そうなんですか?』
お婆さんの言葉に、私は思わず目を丸くしちゃいました。
『おお、そうじゃのう。おキヌちゃんが横島の小僧にあげるんじゃったら、ハート型以外にないわい』
と、お爺さんがお婆さんの尻馬に乗って、私にハート型を勧めてきました。
そして――
『そうじゃ、そうじゃ』
『やはりそれが王道ってもんじゃのう』
『いやむしろ、今までハート型じゃなかったってことの方がおかしいんだって』
『はっはっはっ。ボスも年頃の女の子だってことかい』
『え? え? え?』
いつの間にか周りに集まって会話を聞いていた人たち、果てはジェームズ伝次郎さんや石神様まで、やいのやいのと騒ぎ立ててきました。
そして、私はなし崩し的に、横島さんにハート型の手作りチョコをあげることになっちゃいました。
『…………生クリームとかココナッツとか、せっかく買ったのに余っちゃいそうですねー』
私は、それだけが心配でした。
……その後、出来上がったチョコを横島さんに渡したんですが。
あの人、せっかくのチョコをご飯のおかずにしようとしたんで、しょーがないから何かご馳走してあげようと、食材を買いに行ったんですよね。
いくら私でも、これだけ長く現代で暮らしていれば、チョコがご飯のおかずとして食べるものじゃないってことぐらいわかります。
そういえば、小鳩さんが来たのはその時でしたね。
私だけが知ってると思ってた、横島さんのいいところ――それをあんなに短い間に見つけられちゃって、なんかちょっと悔しかったのを覚えてます。
結局、チョコをハート型にしたからって、何か特別違うことが起きたわけでもありませんでした。
…………でも。
なぜでしょう? ハート型のチョコを渡すその瞬間、私の心はいつもより高鳴ってたような気がしました。
そして――死津喪比女の事件があって、私が生き返って。
記憶を取り戻して、また美神さんや横島さんと一緒にいられるようになって。
今から迎える、四度目のバレンタイン。
生き返ってからは、初めてのバレンタイン。
今まで特に意識してなかったこの日が、女の子にとって本当に特別な一日だって知ったのは……ちょうど、一週間前になります。
「…………?」
「どうしたんですの、氷室さん?」
昼休み。
教室でお弁当を食べていた私は、食べる手を止めて教室の中をぐるりと見回しました。
一緒にお弁当を食べていた弓さんと一文字さんは、そんな私の行動に疑問を持って聞いてきました。
「いえ……」
曖昧に答えながら、私が見るのはクラスメイトの一人。編み物をしているその姿は、どことなく嬉しそう。
他にも、スィーツのレシピ本を読む子、頬をほんのりと染めて会話を交わす子たち。それらを見る私の視線を追った弓さんと一文字さんは、「あの人たちがどうしたの?」といった視線を私に向けました。
「気のせいかもしれませんけど……なんとなく、教室の雰囲気がいつもと違う気がしません?」
「あー……そーゆーことか」
私の疑問に、一文字さんは呆れたようなため息をついて、椅子の背もたれに肘をつきました。
「ま、もーすぐバレンタインだからな」
「皆さん、待ち遠しいって感じですわね。仏教徒の私には、伴天連(バテレン)のイベントなんて関係ないですけど」
すまし顔で答える弓さん。だけど一文字さんは、そんな弓さんの言葉を聞いて、ニタ〜っと嫌らしく笑いました。
「……な、なんですの?」
「い〜や? 去年のクリスマスにちゃっかり参加しといて、今更言う台詞かって思ってね〜?」
「あ……っ!」
意地悪く言う一文字さんに、弓さんは顔を真っ赤にして、慌てて自分の口を押さえました。……押さえたところで、出ちゃった言葉はもう戻せないんですけどね?
あ、でも……クリスマスといえば。
「そういえばお二人とも、あの時に雪之丞さんやタイガーさんと、結構仲良くなってましたよね。あの人たちにチョコあげるんですか?」
「「う……」」
私の質問に、二人とも言葉を詰まらせました。
……私、何か変なこと聞いたのでしょうか?
「どうしたんですか?」
「な、なんでもありませんわ!」
「そ、そーだよ! なんでもねーよ! お、おキヌちゃんはどうなんだよ!?」
「私ですか? もちろんあげますよ」
「「…………」」
聞かれたので答えたのですが、なぜか二人とも顔を真っ赤にしてます。
「……氷室さん、よく素面であっさり答えられますわね……」
どういうことでしょうか? チョコあげるのはそんなに恥ずかしいことなんでしょうか?
「あげるのは……やっぱ、あの横島って奴か?」
「はい♪ あ、それと今年は、日ごろお世話になってる男の人全員にも配ろうかと思ってるんです」
「あー……義理も欠かさないってか。さすがおキヌちゃんだなー」
「で、本命の方は横島さんに、ですわね」
「はい。義理も――」
大切ですよね、と言いかけた私ですが、弓さんの言葉にちょっと引っかかりを覚えました。
「――弓さん、ほんめーって何ですか?」
「「……………………は?」」
私の質問に、弓さんだけじゃなくて、一文字さんまで目を点にしちゃいました。
「えーと……氷室さん?」
「はい?」
弓さんが、こめかみを押さえながら、私に訊ねてきました。
「つかぬことを聞きますが……あなたは、バレンタインデーをどういう日だと解釈してるのですか?」
「女性が男性に、チョコをご馳走してあげる日じゃないんですか?」
「……誰だよ、おキヌちゃんに中途半端な知識を植え付けたのは……」
私の答えが気に入らなかったのか、一文字さんは呆れ顔でつぶやきました。
「氷室さん……それは残念ながら、満点の回答ではありません」
「そーなんですか?」
「はい」
きょとんと返す私に、弓さんは短く答えて頷きました。
「バレンタインデーというのは、女性が特別に想いを寄せる男性に対し、チョコと一緒にその想いを届けるイベントです」
「想い……ですか?」
「はい。たとえ普段は秘して口に出すことのできない想いでも、イベントという後押しがあれば相手に届けることができる。既に想い通じている仲であっても、チョコと一緒に改めて想いを届ければ、気持ちの確認ができる。これは、そういうイベントなのです」
「はぁ……」
弓さんが説明してくれますが、私はよくわからずに生返事をしてしまいます。『秘して口に出すことのできない想い』『想い通じている仲』……その『想い』というのが、よくわかりません。
「ま、よーするに、チョコ渡して告白すりゃーいいってこった」
「その説明も砕けすぎだと思いますけど?」
簡潔に説明しなおす一文字さんに、弓さんはじとりとした視線を向けました。
告白……唐巣神父がたまに聞いている『ざんげ』とかいうもののことでしょうか?
それから私たちは、何度も話題を変えながら雑談に興じていて、気が付けばお昼休みは終わってしまいました。
ともあれ、理解できないままでは、ご親切に説明してくれたお二人に悪いです。私はお二人の言葉を、この後何度も頭の中で反芻しました。
「はぁ……」
そして――私は今、窓を開けて夜空に浮かぶお月様を見上げています。……窓から入ってくる二月の夜風が、ちょっと冷たいですけど。
ため息が漏れるのは、考えがまとまらないから。あれからずっと、弓さんたちの言う『想い』というのを考えてみたのですが――結局、よくわからないままです。
「特別に想いを寄せる男性……かぁ」
私が横島さんに向ける気持ち。それは確かに、他の男性に向けるのとは違います。
特別と言えば特別なのでしょう。美神さんや他のみんなに向ける『好き』と横島さんに向ける『好き』は、どこか違うような気がします。
横島さんが女性にだらしない態度を取っている時とか、何故かモヤモヤとした気持ちになって邪魔したくなっちゃうのも、その違いが原因なのかもしれません。
けど私は、その違いが何なのかわかりません。その気持ちを表現する言葉を知りません。
「……明日、ですね」
思い返すのは、ここ最近の教室の……いえ、学校の雰囲気。
明日という日が近付くにつれ、そわそわとした落ち着きのない雰囲気が、日増しに強くなっていきます。
あの人たちは、弓さんが言ってたような『想い』というのを知っているのでしょうか?
誰かに届けたい『想い』を持っているのでしょうか?
私にはわかりません。
わかりません……けど。
「……きっと私も……そわそわしてる」
つぶやいて、私は枕元に置いておいたハート型の包みに視線を向けます。
――なぜでしょう?
弓さんが教えてくれたように、横島さんのことを考えながら作ったチョコレート。
それを明日、横島さんに渡すんだって思ったら……なんだか、気持ちが落ち着かなくなっちゃいました。
視線をお月様に戻します――今の時間はもう真夜中。いつもだったら寝ている時間。
けど落ち着かない私は目が冴えちゃって、寝付けずにこうしてお月様を見上げています。
「月……横島さんは、あそこに行ったんですよね」
それは、つい最近のこと。あんなところで魔族が活動していたのも、月神族という方々がいたことも驚きましたが、それにも増して、人類の科学力が月に届くほどまで発達していたのも驚きました。
考えてみれば、私の生まれ育った江戸時代と現代とは、何もかもが違います。
それはまるで――別の世界のよう。
別のような世界。私の知らない年中行事。
でも300年の時を越えて生き返った私は、そんな世界に生きている。そして、そんな世界に馴染みつつある。
なら、いずれ……今はわからないことも。
「……わかるようになるんでしょうか?」
問いかけても、お月様は答えてくれません。ただ、たおやかな光で夜の闇を優しく照らすだけです。
月の事件が終わってから、私は興味を持って、お月様に関係した資料に目を通しました。
地球の衛星。太陽の光を反射して輝く天体。地球の重力は月を地球の近くに繋ぎ止め、月の重力の影響は潮汐のみならず私たち生物にまで及んでいるそうです。
「お月様も地球も……片方だけでは、存在できないんですね」
だからこそ、人は古来から飽きることなくお月様を見上げていたのでしょうか。
だからこそ、あそこに手が届くように科学技術を発展させてきたのでしょうか。
今は解体されたソ連のルナ計画。コメリカのアポロ計画。アポロ11号とニール・アームストロング船長。
そして……月から見た地球の写真。
写真で見る地球は、はっとするほど青く綺麗で、まるで宝石みたいに輝いて見えました。
月の上に立って、手を伸ばせば届くような――そんな写真。
でも、実際に月の上で手を伸ばしても、地球は掴めないでしょう。
「……お月様はどんな気持ちで地球を見ているんでしょうか? 付かず離れず、近からず遠からず。でも、ずっと一緒に過ごしてる」
それはまるで、連れ添う夫婦のようで。でも、壁を作って近付こうともしない人たちのようでもあって。
「って、脱線しちゃいましたね」
明日はどうやって横島さんにチョコを渡しましょう? どんな顔して横島さんにチョコを渡しましょう?
弓さんの言っていた、『チョコと一緒に届ける想い』……私は結局、わからないままでしたけど。
「くしゅんっ」
……いけない。ちょっと冷えちゃったかしら。ちょっと、体が震えちゃってます。
さすがに、二月の夜風は体に悪いですね。風邪引かないうちに、窓閉めちゃいましょう。
私はお月様に別れを告げると、窓を閉めてお布団をかぶりました。
夜風に冷えた体には、お布団のぬくもりは余計に心地良く感じます。今度こそ眠れると思い、私はそのまま目を閉じました。
結局、わからないままでしたけど――横島さん、明日は私の『想い』、受け取ってくれますよね……?
……それから私は、すぐに眠りの縁へと落ちて行きました。
――で、翌日ですが。
「真夜中に窓開けて月を見てた? 何月だと思ってるのよ?」
枕元に立つ美神さんは、そう言って呆れ顔になってます。
うう……頭が痛い……鼻が詰まる……体がだるい……
結局、完全に風邪を引いちゃいました……今日はバレンタイン当日だっていうのに……
「まったくもう……世話の焼ける子ね。それで、これ? 横島クンにあげるチョコって」
「は、はい……うう、ごべんばばい……」
「いいわよ、そんなの」
詰まった鼻のせいでうまく発音できない私に、美神さんは私のチョコを片手に、ひらひらと手を振ります。
本当は自分の手で渡したかったんですけど……横島さんに風邪移っちゃったら大変ですし、残念ですけど今年は我慢します……うう。
ピピッ。
くわえていた体温計が、小さな電子音を響かせて計測終了を告げました。
美神さんは体温計を手に取り、私の口から引き抜きます。代わりに、濡れタオルを私の額に乗せてくれました。
「まだだいぶ熱があるわね……仕事のことはいいから、二、三日休んでて」
「すびばせん……」
言いながら部屋を出て行く美神さんに謝りながら、私はティッシュを取って鼻をかみます。
ぱたんと扉が閉じられ、部屋には私一人になっちゃいました。
お布団を手で引いて、顔を隠します。
……失敗しちゃったなぁ……生き返って初めてのバレンタインなのに、こんなことになっちゃって……
そりゃそうですよね。二月の真夜中に窓を開けて夜風に当たり続けてれば、風邪引いちゃうのも当然ですよね……うう、私ってなんてお馬鹿さんなんでしょう……
「……ちゃんと、届くかなぁ……」
不安なのは、チョコのこと。
美神さんに頼んだことだし、チョコが横島さんの手に届くこと自体は心配してません。
問題は、『チョコに込めた気持ち』っていうのが、ちゃんと横島さんに伝わるか。
「でも……そんなの、わかりませんよね……」
もしかすると、直接渡す方が伝わりやすいものなのかもしれません。
そもそも、私がチョコに込めた気持ちって、自分でもよくわかってない曖昧なものですし……ああ、考えれば考えるほどに、伝わらないような気がしてきました。
とりあえず、風邪が治ったら聞いてみましょう。……あ、でも、どういう聞き方しましょうか? 気持ちは伝わりましたか……って聞いても、自分でわからない気持ちのこと聞いてもしょうがないですし……
と――
ズズゥン……!
「……!?」
なんか物凄い音と地響きが、外から響いてきました。
……何かあったんでしょうか?
私は身を起こし、窓を開けて外に顔を出しました。
「な……何事です!?」
「おキヌちゃん」
外にいた美神さんに訊ね、返ってきた答えは――まあ、なんと言いましょうか……とりあえず、物騒な台詞だったので割愛しちゃいますけど。
はぁ……横島さんって本当に、トラブルメーカーってやつなんですね。
しょうがないなぁ……横島さん、大丈夫でしょうか? 何があったかわかりませんけど、美神さんもあんな状態で頼れそうにないし、無理してでも私が探しに行くしかないみたいです。
私はいつも通りに動かない体に鞭打って、急ぎ着替えると外に飛び出して行きました。
その後――私は無事、ドブ川で泥まみれになっている横島さんと西条さんを見つけて、保護することができました。
無理したおかげで風邪をこじらせちゃって、私はしばらくベッドから出ることはできませんでしたが……「おキヌちゃんのお陰で助かった」って横島さんが言ってくれたのは、気恥ずかしかったけど嬉しかったです。
まあ、その姿は……NBC防護服でしたっけ? 細菌とかの災害で着る、あの変な服でしたけど。
こんなバレンタインもありかなって思っちゃったのは、ちょっと秘密です。
――また来年頑張りましょう。うん。
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