4770

男と女 -Un Homme Et Une Femme-

霧がかった淡い白壁の向こうに、波の音が聞こえる。



ベスパは朝露に濡れる木々の隙間から、目の前に広がる景色をじっと眺めている。
寄せる波はまだ穏やかだったが、低く垂れこめた雲が背後の山に覆いかかる。
あちらこちらの山の筋から、薄い雲が湧き出しているかのようにも見えた。
起きぬけに見た天気予報では、この先の沖合いに前線が停滞しているとのことで、空が泣き出すのも時間の問題だった。
下から吹き上げる湿った風に煽られ、羽の濡れた妖蜂が足元を重たそうに飛びまわるが、ベスパはそれを気に止めようともしない。

山はまだ色気づいていないが、素肌に受ける風は、どこかしら春の気配を感じさせる。

「ん〜〜〜〜〜!」

ベスパは頭の上で手を組み、あくびをかみ殺して大きく伸びをする。
ひんやりとした空気を胸いっぱいに吸い、じりじりとするような感触を味わうと、ようやくすっきりと目が覚めた。

「さて、と」

どんよりとした天気とは裏腹に、いつになく爽やかな気分になったベスパは、湿る草を踏みしめて引き返す。
雨の日以外は日課となっている朝の散歩のおかげで、道なき道がうっすらと出来ていた。





ものの数分もしないうちにシイの森を抜けると、木立の中に建つ我が家が見えてくる。
ここでちょっと足を止め、ぼんやりと家を眺めるのも、ベスパにとってはいつものことだった。

アーリーアメリカン調の別荘は、流行りのツーバイフォー建築などではなく、昔ながらの工法で建てられているため、維持するのにちょっと手間がかかるが、慣れてしまえばどうということもない。
さすがに年期のためか、当初は真っ白だったはずの木壁も少しくすんできているが、痛んでいるというわけでもない。
手が空いたときに、白いペンキで塗り直してみようかとも思うのだが、魔族の隠れ家として考えると少し気が引ける。
別に人の目を盗んで潜伏しているわけでもないのだが、それはまあ、気分というものだった。

二階建ての別荘は部屋数も多く、一人で住むには広すぎる。
普段なら一階だけで用は足りてしまい、わざわざ二階の部屋を使う必要もない。
あの日以来、決して使われることのない部屋のカーテンは閉ざされたままで、今でも見るたびに少し胸が痛くなる。
それでも、今日は角の部屋のカーテンが開いているのを見て、ベスパの口元は自然と綻びるのだった。

木戸の横に立てられたスチール製のメールボックスに、新聞と何通かの手紙が届いていた。
家を囲む白い板柵は、暇をみて自分で作ったものだが、仕上げが雑になってしまったためか、少々立て付けが悪い。
新聞と手紙を小脇に抱え、後ろ手に勢いをつけて戸を閉めると、バタン、と大きな音が響き渡る。
その音に、玄関の脇に巣を作っている妖蜂たちが、いったい何事かと顔を覗かせていた。

玄関を開けて中に入ると、部屋の奥から、タッタッタッ、と駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。

「おはよ、ポチ」

いつものように素っ気ない挨拶をかけるが、声をかけられたほうは朝からやけに上機嫌で、まるで飛びかかるようにベスパにしがみついてきた。

「あっ、こら。やめなってば」

軽くたしなめるベスパに構わず、しっかりと抱きついてきて鼻を鳴らす。
そのこそばゆさについ笑みが零れるが、あまり聞き分けのないスキンシップは躾にもよくない。

「もうっ! いいかげんにしな!」

少し強い口調で叱られると、ポチはたちまち、しゅん、となってすごすごと引き返したかと思うと、リビングのソファの上で丸くなってしまった。
気落ちしているようにも、不貞寝しているようにも見えるその様子に、ベスパはつい噴き出してしまう。

「まったく、いったい誰に似たんだか・・・」

「・・・悪かったね」

「おや、ヨコシマ。おはよ」

いつのまにか階段を降りてきていたのか、半目を開けた横島がそこに立っていた。
ベスパよりもゆっくりと、それでも普段よりは早起きな横島はまだ眠たそうで、ぼさぼさな頭も梳かしていない。
それでも、その声が不機嫌そうなのは、ただ眠いからだけではなかった。

「朝っぱらからひどい顔だねぇ。シャワーでも浴びてしゃきっとしな、しゃきっと」

「・・・ん」

横島はまだ何か言いたそうではあったが、ここはとりあえずベスパの勧めに従うことにした。

「あ〜、眠ぃ・・・」

あくびを隠そうともせず、だらしない格好でずるずるとシャワールームへ向かう横島を見届け、ベスパは朝食の支度に取りかかるのだった。





男のシャワーなぞ、たいして時間のかかるものでもないが、横島が上がってくる頃には用意が整っていた。

「ほら。もう出来てるよ」

バスタオルで髪を拭きながら来る横島に、ベスパは席につくようにと促す。
がらんとしたダイニングの広いテーブルの上には、その場所を持て余すかのように二人分だけの朝食が並んでいる。
椅子につこうとした横島がちらり、と目を向けると、部屋の隅でポチも朝食にありついていた。

「なあ、ベスパ」

「なんだい」

「何であいつの名前が”ポチ”なんだ?」

「おや、妬いているのかい?」

「んなことあるかよ。前からずっと言おうと思っていたんだけどさ」

朝食のパンにかぶりつきながら、横島が文句を垂れる。
小ぶりのバゲットに、ゴルゴンゾーラ・チーズと、アーモンドやヘーゼルナッツの蜂蜜漬けを挟んだ一品は横島の大のお気に入りだが、今朝はゆっくり味わう気分ではない。
ちなみにこの蜂蜜は市販の品などではなく、ベスパ自慢のお手製だった。

「あいつにゃ似合わねぇだろ、”ポチ”って名前はよ」

一口かじったバゲットで指し示した拍子に、パンに挟んだナッツがひょい、と飛んでいった。
自分の分はあっという間に食べ終えてしまい、物足りなさそうにこちらをじっと見ていたポチは、やった!とばかりに駆け寄って、落ちたナッツを口に入れる。
それでもまだ名残惜しいのか、フローリングの床に点々とついた蜂蜜をぺろぺろと舐める始末だった。

「あ〜、もう、しょうがないねぇ、ポチは」

「だ、か、ら!」

「だって、仕方がないじゃないか。この家に住むペットは”ポチ”って名前になるのが決まりなんだよ」

「誰が決めたんだよ、そんなこと」

横島はさも不服そうに頬を膨らませる。
ポチは、もう少しちょうだい、ときらきらと輝く目で訴えてくるが、それを無視するかのようにそっぽを向いて、残りのバゲットを一息にむしゃむしゃと食べる。
これが小さい猫でもあれば心が動いただろうが、およそ50kg以上もありそうなバーニーズ・マウンテンが相手では、とてもそんな気になれなかった。
そんな”初代ポチ”の大人気ない様子を、ベスパはからかうような目を向けて眺めていた。





朝食のあとは、特に何をするでもなくリビングでのんびりと佇んでいる。
目当てのものもないテレビをぼんやりと見て過ごしたり、気が向けばベスパととりとめのないおしゃべりをしてみたり、そうでなければ静かに本などを読んで午前中を過ごすのが常だった。
横島を知る友人たちが口を揃えるように、普段は忙しない、というよりも、いらち、と言ったほうがしっくりするぐらいの貧乏性だったが、この家にいるときばかりはそれもなりを潜めていた。

何がきっかけかはわからないが、いつも連絡もよこさないままにふらり、とやってきては、何日か滞在してまた帰っていく。
あるときなど、たまたまベスパが所用で出掛けていて、ついに会えずじまいに終わり、そのまま帰っていったこともあったらしい。
どこへ行くでも、何をしようというでもない横島のことを疑問に思うこともあるが、あえて何も言わずにそのまま好きにさせていた。

ベスパは今朝届いていた手紙をじっくりと読み、横島は何冊かの雑誌に移り気な目を通している。
時折、紙が擦れる、かさりとした音を立てる以外には、互いに声を掛けることもしない。
広々としたリビングの中には、好きな本を読みふける図書館のような、ゆるやかに張り詰めた静寂が漂っていた。

まどろみながらソファの下で臥せていたポチが、むくりと頭を上げる。
軽くウェーブがかかる毛に覆われた顔を窓に向け、鼻をひくひくと動かす。
大きくて人懐こそうな視線の先に、白く濁る空から落ちてくるものが映っていた。
じっと空を見つめるポチの仕草につられ、自然と二人も顔を上げた。

「降ってきたね」

「みたいだな」

返事を考えあぐねていた手紙を脇に置き、窓の外を見遣る。
ひとつ、ふたつと垂れていた走りの粒も、瞬く間に涙雨となって木々の葉を濡らす。
名も知らぬ迂闊な一羽の鳥が、羽根の露をはたいて森の奥へと逃げていくのが見えた。

吹き込んで床を濡らすほどでもないが、やわく吹く風がカーテンを膨らませる。
少し肌寒さを感じる海風も、ポチにとっては恵みの風なのだろう。
風の通り道に身をずらし、気持ちよさそうに目を細めていた。





ベスパは、ようやくに返事を書き上げた手紙を置き、かけていた眼鏡を外す。
本来、純粋な魔族であるベスパには眼鏡なぞ必要もないのだが、なんというか、ちょっとした雰囲気づくりのようなものだった。
切れ長の目元を指で押さえ、二度、三度と軽く揉むと、近くに寄った焦点が切り替わる。
テーブルの上の手紙を手に取り、もう一度ざっと見返すと、丁寧に折り畳んで封筒にしまう。
相当な達筆で、一息に宛て名を書き上げてしまうと、途端にどっと疲れが押し寄せてきた。
キャップを閉めたペンを放るように転がし、仰け反るようにしてソファに身を投げた。

そのままじっと、綻びかけた天井のしみを眺めていると、すっ、と視界の脇に人影が差す。
何、と問うまでもなく、横島は両手に持ったコーヒーの一つをテーブルのレースの上に置き、空いているソファの隣に腰掛けた。
そのカップは、普段ベスパが使っているバラをあしらった白磁ではなく、横島がどこぞで買ってきたマグカップで、無粋なまでに分厚くて重い。
中に入っている黒い液体は、コーヒーと称するのは色ばかりの、これまたどこで買ってくるのかわからないインスタント・コーヒーだった。
横島はどうということもなく飲んでいるが、ベスパは僅かに顔をしかめて一口すすり、そのままレースの上に戻す。

「なあ、ちょっと外へ行かないかい?」

一緒に持ってきていた雑誌のページをめくる手を止め、横島が顔を上げる。
驚いたことに、もうすでにカップの中身は半分ほどまで減っていた。

「この雨の中をか?」

「大丈夫、もうすぐ止むよ」

ほら、とベスパは窓のほうを指し示す。
確かに、雨の音はほとんど聞こえないほどに小さくなり、幾分空も明るくなってきていた。

「それに、こいつも出さないといけないし」

そう言いながら、先程書き上げた封筒を手に取り、ひらひらと仰ぐ。
もちろん、宛て名を見せるような迂闊な真似はしない。
横島はじっと、誘う封筒の動きを見つめていたが、やがて雑誌をぱたり、と閉じて立ち上がる。

「―――そうするか」

じゃ、車を出しておくから、と言ってガレージへ向かうベスパの動きに、それまで熟睡していたかのようだったポチが、むくりと頭を上げた。





切り立った高台を切り開いた道路を、ベスパの運転する車が走る。
高低の激しい、うねうねとした道を軽快に行く様は、相当古い形式に見える車にしては驚きでもあった。

傍目からはわからないが、この車は見た目通りの乗用車ではない。
外見こそワーゲン・ビートルを模してはいるが、その正体はベスパに仕える魔物、ちょうど逆天号のような兵鬼に属するものだった。
魔物とはいっても、別に人に危害を加えるわけでもなく、交通法規を守って安全運転を心がける気立ての良いやつだが、その燃料が何かは未だに横島は知らなかった。

フロントガラスを叩く雨粒は小さくなり、ゆるくワイパーを動かすだけで事足りた。
ほんの少し窓を開けると、雨上がりの心地良い匂いが車内に入りこむ。
後部座席にしっかりと陣を張るポチは、右に左にとカーブする道も気にせずに、またも軽い寝息を立てていた。
濡れたアスファルトの水を切るタイヤの音の他に、広くもない車内に聞こえる音はなかった。
時節外れの、平日の、しかも天気の悪い日の道を往来する車も他になく、街に行くまでのあいだを、ただ沈黙だけが支配していた。





しばらく走らせたところで、ベスパは急にハンドルを切る。
海へと張り出す崖と崖の間をつらぬくトンネルの間に、隠しているかのような狭い横道が走り、傾斜する坂道を、ビートルはぶつぶつと文句を言いながら走る。
切り通しの木々の隙間を、ループするように登っていくと、行き止まりのところに一軒のレストランが建っている。

左右のドアを開けて降り、横島が助手席のシートを少しずらすと、さも当然のようにポチがするり、と抜け出してきた。
なんとなくその態度に腹が立ち、横島は足で蹴るまねをしてみせるが、ポチはさして慌てずも吠えもせず、ただ、ふん、と鼻を鳴らすのみだった。
時たまに来る自分よりも馴染みの、いつも一緒にいる間柄とはいえ、仮にも魔族の体内に乗り込んで平然と熟睡できる神経は、さすがとしか言いようがなかった。

はじめて見るレストランはまだ開店して間もない様子で、古い別荘を改装したと思われる外観の様子は新しく、こざっぱりとしていた。
先を行くベスパについて、ちょっとした階段を上がると、古木に新しく焼き入れされた看板が目に止まる。
その「注文の多い料理店」という但し書きを見て、横島が軽く吹き出してしまうと、ドアに手を掛けたベスパが怪訝そうな顔をして振り返ってきた。
横島とて、宮沢賢治の童話ぐらい知っているが、よりにもよって”山猫亭”とは。
性質の悪い化け猫に騙されて、自分とベスパがあえなく食べられる様を想像し、もう一度声を潜めて笑った。

ドアを開けると、名前の由来となった古い映画のポスターが出迎える。
ゆったりとしたニーノ・ロータの曲が流れる店内を抜け、海に面したテラス席に座る。
店内には客もまばらで、海から吹き上げる風が冷たいこの時期には、他に座る者もいなかったが、ポチを連れているとなればしかたがない。

ランチタイムはとうに過ぎているし、それほど腹が空いているわけでもないので、コーヒーとデザートを頼む。
横島は、ガラスのカップにビター・チョコレートを入れ、ミルクとエスプレッソを注いだマロッキーノ。
ベスパは、エスプレッソに荒めの砂糖を沈ませ、グラッパを垂らすカフェ・コレット。
デザートはビスコッティにカンノーロといったところか。

「おいおい、車で来てるのに」

「これぐらいなら平気さ。 ・・・でも、ま、帰りはあんたに運転してもらうさ」

「マジかよ」

ベスパはそれには応えず、小さなデミタス・カップをキュッ、と飲み干した。
エスプレッソの苦味とザラメの甘さ、度数の高いグラッパがのどを通り、お腹の中を刺激する。
二杯目は、ごく普通のエスプレッソと、ステアの長いグラスに注がれたグラッパが仲良く並んでいた。





ぽつぽつと街灯もつき始めた頃、横島は帰りの車を走らせる。
免許は持っているが、あまり運転する機会はなく、久方ぶりにハンドルを握るが、大方は”ハービー”が受け持ってくれるので安心だった。

雨はすっかり上がっていたが、結局、雲は晴れることはなく、オレンジ色の光が差し込むことはない。
ぼんやりと横目で海を眺めていた横島が、何気なくぽつり、とつぶやいた。

「・・・俺、結婚するんだ」

ちょっとした近況を報告するかのような口ぶりを、ベスパはシートに持たれかかったままで聞き流す。
あの後、二杯、三杯と結構なほどにグラスを並べていたが、酔っているというわけでもない。

「忘れたわけじゃないんだ」

力む様子もなく、言葉を紡ぐ。
まるで、口から漏れる言葉に真実が宿っているかのように。

「ただ、一人でいるのは、もう・・・な」

そう言って横島は助手席をちらり、と見る。
残される女は、何の感慨もないように思えた。
ベスパはじっと黙ったまま、対向車のいない路面をじっと眺めるばかりだった。
しばらく走った後、数少ない信号で止まったとき、ようやくベスパが口を開く。

「子供は、どうするんだい?」

「ああ、それはもう話してある。前世がどうあれ、ありのままに受け入れてくれると言ってくれている。だけど・・・」

ふっ、と横島は軽く笑う。

「たぶん、生まれてこないんじゃないかな」

それを受けてベスパも口元を歪ませる。

「姉さんも意地っ張りだからな」

「だよな」

恋敵が転生して千年待った以上、彼女もそうするに違いないはずだった。
生きて、死んで、生まれ変わる。なんとも馬鹿馬鹿しい選択だった。

「とりあえず、おめでとう、と言っておくよ」

「・・・ありがとう」

それで、おしまいだった。





「これでよし、と」

途中に見かけた郵便局のポストへ手紙を投函し、ベスパは路肩に停めたビートルへと戻る。
日本ではない、いや、地上の何処でもない住所に、いったいどうやって届くのかいつも疑問だったが、右側のドアを開けて乗り込む頃には、もう頭の中から手紙のことは消えていた。
手を離れた以上、これから起きることは自分には関係ないし、隣の男にも関係はない。
この先どうなるか、そんなことは誰にもわからないのだから。

「さあてポチ、家に帰ろうか」

どこかすっきりとした顔で話すベスパに、横島はきょとん、とした表情を返す。

「それは俺に言ってるのかい? それともコイツに?」

「そんなの決まっているじゃないか、なあ?」

二人は首を回して後部座席を覗き込む。
おみやげのビスコッティを食べ尽くしたポチが、我が意を得たり、とばかりに一声吠えた。
ダーバーダー、ダバダバダ、ダバダバダ・・・(挨拶)

バレンタインなのにちょっとビターな短編です。
あの家を舞台にして、またちょっと書いてみたりしました。実は結構時間がかかっていたりするのですが・・・(笑)

デコレーションはイタリア趣味なのに元ネタはフランス映画、というのがチグハグで、ちょっと雰囲気を損ねるかもしれません。
でも、イメージはやっぱりあのテーマ曲しか浮かばないんだよなぁ。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]