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二月十五日、晴れ


こういった日は冬日和というのだろうか。
外はまだまだ寒さが凍みるのだけれど、窓の内側、教室には暖かい日が差し込んでくる。
窓が寒風を隔ててくれるおかげで、私たちはぽかぽかしたお日様の恵みにだけあずかれる。
高く上ったお日様は、しかしその恵みをクラス全てに分けてくれるわけではなく、光を感じてあったかいと思えるのは窓際の二、三列に過ぎない。
冬とはいえ東京の学校は特別暖房を入れるわけでもないし、膝掛けや肩掛けだけではしのぎきれない時もある。
皆も窓際に机を寄せて、少しでもその恩恵にあずかろうと穏やかながら必死な戦いを繰り広げたばかりだった。


〜二月十五日、晴れ〜


席の配置も決まって皆がそれぞれにお食事を始めた頃、私もお弁当袋をひもときながら、陽光きらめく空を見上げた。
夏とは違って水彩の様な柔らかい水色をした空には雲一つ無くて、お昼を食べるにもとても気持ちが良い。
幸い私の席が窓に近いところにあるので席取りに苦労はしなかったけれど、ただ、いつもいつもそう日が入る訳でもないし、寒い時には寧ろ廊下側に行きたくなるので、痛し痒し、と言った所だ。
事実机を囲む弓さん魔理さんは、寒いときには私の机は避けている。
みんなこういう所はちゃっかりしてるというか、現金だなあとちょっとだけ思う。
でも、別に場所がどこであれ、気の置けない友人とのおしゃべりが、お昼の格別の楽しみであるには違いなかった。

「・・・でね、横島さんがパソコンいじって妙な請求されるされないとかで、美神さん怒っちゃって」

「あーそれなんだっけか、ワンクリック詐欺とか言うヤツだろ? サイトを開いたり、ボタン押したら一発でお金頂きますっていうあれ」

魔理さんはどこかで見知った事なのか、すらすらとどうすれば良い、と教えてくれた。
結局の所、クレジットカードなんかの情報を伝えていなければ、無視していて構わないらしい。
ボタン一つで即請求、なのだからそんな暇もないだろう。
自宅にパソコンが無いことも分かるし、事務所でついつい覗いてしまった気持ちはわからない事もないのだけれど、横島さんの節操の無さには時折呆れさせられる。
そもそもいかがわしいサイトに行かなければそんなボタン自体がありはしないのだ。
対抗戦の時もそう。
上手く行ったから良かったけれど《覗》なんて文珠、普通だったら絶対に許さない。
死んでいたときには、生きている人の感情、生きていくための本能に根ざした行動が分からなかったせいで、横島さんに甘くなっていた反動もあるのだろうけれど。

「あの方らしいと言えば、らしいですわね。美神お姉様に迷惑かけて」

「横島さん、変なところばっかり見るんですもん。たまには良い薬です」

ついつい手に力がこもる。
カボチャの煮付けを掴もうとして割ってしまって、膝の上に置いた弁当箱が揺れた。
もう、こんなもやもやするのも上手に炊けた煮付けを落としそうになるのも、みんな横島さんのせいだ。
口を尖らせた私がよほど可笑しいのか、二人は声を抑えもせず笑っている。
面白くない私は、白いご飯の上に飛んだ黄色いカボチャをつまんで口に運んだ。

「そんな怒らなくてもいーじゃんか、男なんだし」

「怒ってって言うか・・・。横島さん、だらしないんですもん」

魔理さんは達観したようなさばさばした口調で言うのだけれど、タイガーさんもそうなんだろうか。
横島さんは男性の中でもきっと特別だと思いたいけれど、美神さんのお風呂を覗くのもそう、こっそりパソコンでエッチなとこをまわるのもそう。
魔理がそれを許容できるのに自分がそうでないのは、私と横島さんが恋人同士ではないからだろうか。

「あらあら。その様子だと、バレンタインのチョコは取りやめになさるの?」

「え、バレンタイン?」

「忘れてただろ、おキヌちゃん」

私のふて腐れた様子に二人は確認がてらからかいの種を蒔いたのだろう、言われてみてはたと気づく。
バレンタインデーは、もう目の前に迫っていたのだった。

「そう言えば・・・」

ついお箸を舐める行儀悪をしてしまって、慌てて口から離す。
朧にお弁当を見つめながら、今までのバレンタインデーを思い返す。
初めての時、その次も、そのまた次も、習わしだからと深く考えずに渡していた。
あげた途端に横島さんがチョコをおかずにご飯を食べようとして、慌てて食材を買い出しに出たのも幽霊時代の良い思い出。
あの頃はただ、横島さんにいつものような笑顔を浮かべながらたくさん食べてもらえれば、それだけでとても嬉しかった。
美神さんがチロルチョコみたいな小さいのあげても、小鳩さんがきらびやかな梱包でハート型のを渡しても、愛子さんがどこか素っ気なく、でもしっかり渡していても、また来年も美味しいチョコレートをあげようって思えた。
だけど、だけれど。
生き返ってから一年と少し、かしましい女子校で親友達を見つけてから、私は随分と耳年増にもなったし、バレンタインデーが持つ意味も知ってしまっていた。
同じ年頃の、私たち位の女の子なら誰もが胸に密やかな期待を込めて、その日を待つ。
きっと今年こそは、また今年も、これからもずっと、色んな想いを、色んな形のチョコに込めて。
それだけじゃなくって。
もう私は、めまぐるしく揺れ動く感情を取り戻してしまっていた。
体を突き動かす、押さえがたい熱い血の巡り。
自分の気持ち、そこから逃れる術は私はもう持っていない。

「バレンタインデー、かあ・・・」

本当の意味でバレンタインデーを迎えるのは、初めての事。
毎年必ず訪れるその日が、現実味無く捉え所の無いもののように思えてならなかった。


☆☆☆


バレンタインという日は、想いを抱いた女性にとって特別な日である。
その昔、戦争を遂行するためローマ皇帝が従軍する兵士に対して結婚禁止令を布告した。
だが、布告に逆らって兵士達の為に結婚を取り行ったバレンティヌスというキリスト教の司祭がいた。
皇帝の怒りを買い処刑されたその人を、人々は愛の象徴として聖バレンタインと呼び、偲び祈念した日が2月14日、バレンタインデーの由来と言われている。
想い人に想いを伝えられる喜び、想われる喜び、想いを交わしあう喜び。
神の御前で夫婦となることを許された二人の心はきっと温かく、お互いを慈しみしっかりと交わったことだろう。
一般的に広まったのはそれからずっと先、14世紀ほどになってからの事だが、この日は想う人を持つ女性にとっては、とても大切な日になったのだ。


☆☆☆


学校からの帰りがけ、区民図書館に寄って手にした本を、ベッドの上に放り出す。
バレンタインの由来を改めて知って、私は深いため息をついた。

「想い合う二人、かあ・・・」

そもそも横島さんと私の間柄って、一体どういうものなんだろう。
じっくり考えようと体を投げ出し、ベッドに沈み込む。
タマモちゃんもシロちゃんも美神さんも、今日はいない。
自分の為だけに全てを使えるこの静けさが、とてもありがたかった。
仰向けになって、つと、少し低い天井が視界を埋める。
昔の建築らしい、がっしりした作りがそうさせているのだ。
ここは渋鯖男爵、つまり旧華族が建てた家だ。
だけど貴族という立場にあった人の本宅にしては肩すかしを感じるほどに、華美な装飾は見られない。
むしろ住む家として十分に機能的であり、住人が快適に過ごすための工夫が随所に見られる。
事実私はここに居候して、不便を感じたことは一度もない。
そして過度ではないが、男爵の粋を示すのだろう小洒落た作りも鏤められている。
居間や書斎、応接室にはきちんと絨毯が敷き詰められ、足下の感触がふわふわ心地よい。
幅広の通路にはライトグリーンで蔓草模様の壁紙が一面に張られ、目に程よい心地よさを与え、穏やかだ。
窓枠は二重構造で寒さを防ぐようになっているし、開け放せば良く風が通る。
造りにしても石造りで全てを固めている訳ではない、むしろ木を使っているところが多いから湿気などにも強い。
カーテンは薄網の純白のレースで統一され、夕暮れ時に日がかげると暖かみをたたえて美しく、窓辺に座ってお茶を楽しむのが私の贅沢にもなっている。
シャワー室はただ一つ華美と言っていい例外だろう、だけどそれすらシンプルかつスマートな体裁を保っている。
一面大理石のタイル張り、洋風のバスタブに瀟洒なシャワーラインに金箔がしてあり、湯気が部屋に満ちると輪郭が甘くなった視界に部材のきらめきが程よく溶け込んで、とても贅沢な気分を醸す。
人工幽霊一号を生み出す研究に没頭した渋鯖男爵は子供が無かったという。
それは象牙の塔に籠もっていたせいもあるだろうし、なにより人嫌いだったからだと美神さんに聞いた覚えがある。
だけど私は、居候として人工幽霊一号と一緒に暮らしている私には、どうしてもそうは思えない。
旧華族とはいえ、一人で暮らすにはどう考えても十分に過ぎる。
贅沢と言っても良い。
いや、贅沢ではないのだろう、この家全体に、人を包み込む優しさと思いやりが溢れているのだ。
ここで暮らす人に、出来るだけ心地よく暮らして貰おうという細やかな心遣いが見て取れる。

「きっと、いや絶対。渋鯖男爵には想う人がいた」

証左などあろうはずもないけれど、私はそう確信する。
70年ほども前、一人この家に暮らした男爵は、その人を想い、その人との未来を想い、だけど果たせなかったのでは無いだろうか。
だからこそ、人工幽霊一号という『息子』を残したのではないかと、私は思う。
研究成果を残したかっただけでは、それこそこの家の存在が説明出来ないから。
私の勝手な解釈に過ぎない。
でも想いは形として確かに残って、今私と共にある。
ロマンティストに過ぎるかもしれないけれど、いつだってこの家を守ってくれる人工幽霊一号の真摯な性格は、男爵の生き写しなのだとも想う。

「私は、横島さんの事をどう想ってる・・・?」

想いを馳せて、私はミニマムな二人の関係にまた思考を戻す。
そうだ、今の間柄が問題なんじゃない。
私が、彼をどう想っているのか、どうしたいのか、それが大事なんだ。
バレンティヌスに祝福を与えて貰ったローマの恋人達は、渋鯖男爵は、その想い人は、果たしてお互いをどう想っていたのだろう。
少なくとも、現在の関係に怯えて歩みを止める臆病者でなかった事だけは確かだ。
だからこそ、互いが互いに寄り添って強く結びついたのだろう。

「まぶし…」

西日がレースを燃え上がらせる。
窓を開け放し、今日一日の勤めを終えた太陽が最後とばかりにありったけの暖かさをくれる時間、私は空を眺めた。
心地よい、というには幾分冷たい風が頬を撫でる。
空は一面のオレンジに染まり、徐々に家々の向こう側へと押し出されていく。
この営みはずうっと昔から、ローマも江戸も、昭和も、そして現代も繰り返されて、今に続いている。
同じ空の下にいる私が、彼らと同じ事が出来ないはずはない。
そう自分を勇気づけ、思い返す。

「これからも私はずっと、ずっと彼といたい? 側にいてほしい?」

自分への問いかけ、私は頬杖をつくと目を伏せた。
自然、軽いため息をつく。
大蛇村での出会いから今までの思い出が、次々浮かび過ぎゆく。
幽霊として過ごした事務所での生活、死津喪比女との戦い、そして生き返ってから。
横島さんを殺そうと岩を落し、海岸で焼き餅を焼き、クリスマスのプレゼントを贈ってもらって、味見も出来ないお料理を美味しい美味しいと食べてくれ、時にはお買い物に付き合ってもくれた。
死津喪比女の復活で、私は二度死ぬはずだった。
でも命を賭けて戦い、そして救ってくれた。
躊躇する私の背中を押して、この世に戻してくれた。
生き返ってからも日向に陰に、私を支え続けてくれた。

「ほら。おキヌちゃんがいてよかっただろ?」

幽霊で無くなって役立たずになったと思いこんでいた私へかけてくれたあの言葉は、今でも私の宝物だ。
別に意識はしていないのかもしれない。
横島さんには、それが当たり前なのかもしれない。
小鳩さんも言っていた。
どれだけ激しい事件に巻き込まれても、どれだけ自分が酷い怪我を負っても、どれだけ心配をかけてしまっても、大騒ぎをしはするけれどそれだけで。
いつだって横島さんは側にいた。
いてくれた。
そこにいてくれる。
それだけで、どれだけ安心出来たか。
どれだけ救われたか。
どれだけ、嬉しかったろうか。

「私・・・やっぱり、横島さんが好き。大好き。側にいて、欲しい」

言い終えて、胸が苦しくなる。
誰が見ている訳でも無いのに首筋まで真っ赤になって熱く、心臓がどきどき跳ね上がって止まらない。
ベッドに飛び込んでごろごろ、ようやく枕に顔を埋めて止まる。

「はあ・・・」

遠い昔、恋人達の為に命を賭けたという、バレンティヌス司祭とはどんな人だったのだろう。
皇帝の命に逆らってまで、しかも自分の想いでは無い、言ってみれば他人の想いを成就させて上げるために命をすら賭けたのだ。
私は唐巣神父を思い出してしまったのだけれど、果たしてバレンティヌス司祭が若い頃にやんちゃをして破門された様な、跳ね返りの人だったのかは分からない。
分かるのは、バレンティヌス司祭自身が込めた想いがどれほど真摯で真剣で、大切な貴重なものであったのかという事だけだ。
二度とは会えないかもしれない。
これきりなのかも知れない。
だからこそ思い合う二人を神様の名において結びつけて上げることに、バレンティヌス司祭は意義を見いだしたのだろう。
先人の想いは少しばかり形を変えながらも今に伝わって残り、今なお私たちをときめかせる。
ならば、私も自分の想いに素直になって伝えてみるのも、きっと悪くないのだろう。

「横島さんが、私の気持ちを分かってない・・・事は無いよね。好き、とは言ったんだけどな…」
 
もーこうなったらおキヌちゃんで行こう、とか。
あの館での戦いの時には、それはそれで通じたはずなのだ。

「『もーこうなったら』!? 『で』『行こう』!?」

「ああ! また余計なことを口に出していた!?」

痴話喧嘩が始まる前に敵方が現れて、それでうやむやになっちゃったんだけど。
横島さんは、私の事をどう想ってるのかな。 
わかりやすいといえばわかりやすいんだけど、奥底の気持ちまで見える訳じゃない。
それとも、やっぱり美神さんが好き、なんだろうか。
横島さんが事務所に入ったのは、美神さんに惹かれての事。
美神さんには、よく飛びかかったりも覗きもする。
それは良くないことだし、美神さんに折檻されるのも当然だ。
私も別にされたいって訳じゃないし、してほしくはない。
だけど、だけれど。
いつかの会話が、頭をよぎる。

「そんな…横島さんはみんながいうような――人かも、しれませんけど…その、だけど…」

「むしろ、なんで氷室さんみたいな人に好意をもたれて、あの人が何もしないのかしら?」

「…大切に思われている、とか…」

「そういえば、以前に『おキヌちゃんにセクハラしたら洒落ですまない』っていってたっけ…」

「あ、それだそれ! 横島さんはきっとおキヌちゃんを大切に想っているってやつだな! それだ!」

「……けど、シャワーを覗こうとしたんでしょ」

「………」

「あ、それはきっと、私以外の人が、その…」

「…わたしらは欲情対象でおキヌちゃんはなーんもなしか。――どう思う?」

「微妙なところですね」

最後に、魔理さんが呟いた言葉が喉にささったまま、ちくりと痛みを発し続けていた。

「――大切にって、『妹みたいに』ってやつかもよ?」

妹。
なんて残酷な言葉だろう。
一番近しい、そして一番遠い存在。
どれだけ想い続けようとも、ずっと並んで歩き続けることは許されない。
初めての、二回目の、その次の、ずっとずっとチョコを贈っても、それは単に親愛を示す以上の物に決してなりはしない。

「そうよ、このままじゃあ」

いつまで経っても同じ事の繰り返し。
もう、食べてもらえるだけでは駄目。
送るからにはしっかりと、こちらの想いに気づいて貰いたい。
はしたないのかもしれないけれど、それが何よりの私の願いだ。
意志なんだ。
起き上がり、今度は枕元のぬいぐるみを抱きしめた。
夏祭りの射的で、戯れ言にこれが欲しいと言ったときに、横島さんが取ってくれた。
大きめでピンクのウサギ(こっそりピョコちゃんなんて名付けている)は、あれ以来私の寝室を守っている。

「どうしようかなあ・・・。素直にチョコを贈っても、美味しかったよってだけで終わりそうだもんなあ」

チョコを贈ったところで、またうやむやになってしまうかもしれない。
想いを込めれば、なんていうのは通じないのは分かってる。
ちゃんと相手を見据えてしっかりと伝えなければいけないのだ。
気持ちの敏を察してくれる人なら(鋭いときには限りなく鋭いのだけれど)良いのだけれど、それなら普段お食事を出しているときに気づいてくれたって良い。
好きでやっている事で、下心がある訳じゃないけど、たまにはそう思ったりもするし。
ああもう、イヤだ。
気持ちをこね回してしまうのは、私が単に拗ねているだけなのだろうか。
それともやっぱり、私は横島さんにちょっと怒ってるんだろうか。
数こそ少なかれ、あの人はちゃんとした想いがこもったチョコを貰うんだろう。
こめられた想いには気づいているのかもしれない。
だけど彼は自分がもてるだなんて、微塵も考えてない。
だから無邪気に喜んで、きっとそれだけなのだ。
それが万事に通じている。
ワンクリック詐欺なんていう、誰でも分かるような引っかけにすら引っかかってしまう、どこか間の悪い、意識が抜けている所には全く注意が行かないのだ。
引っかかった原因がエッチな写真を見たいっていうのも、女の人にだらしないからだ。

「・・・私そんな人が好きなのよね」

ピョコが息苦しくなるくらいに抱き締め上げて、一転頬を思い切りつねり上げる。
全くこうして考えてみると、横島さんって甲斐性無しだよね。
そんな人にこれだけ気持ちをかき回されてるのも、あたしだけど。
苦労するかもなんて思ったりもするけれど、やっぱり横島さんが横島さんであるから、私は彼を好きなのだ。
いつも近くにいて、ずっと一緒に仕事をして、時に頼もしい兄であり、やんちゃな弟であり、気の置けない友人であり、そして、そして、出来ることなら近しく側に腰を下ろし、その肩に甘えていたい人だから。

「ごめんね、ピョコ」

つねった頬を撫でてあげ、元の位置に置いてあげた。
その顔は酷くいじけているようにも見えた。
とばっちりを受けたのが悲しかったのだろうか。
気を落ち着けようと深呼吸をして、思い当たる。
ほんの少し、懲らしめてあげてもいいのかもしれない。
そうよ、私を、ピョコを、こんな気持ちにさせた《罰》を上げたって、悪くはないだろう。
横島さんに、今回の件も含めて注意を促して、ちょっぴりやりこめてやる、良い方法はないだろうか?
枕を握りしめて少し、私ははたと気づく。

「あ、そうだ」

横島さんがたまに注意力が足りていないのなら、"あの"仕掛けはどうだろう。
魔理さんがバレンタインの話の中で、冗談めかして言ったアイデア。
横島さんのだらしなさをちょっとだけ逆手に取った、引っかけ。
思い浮かんだキーワードに私は笑みを形作る。
うん、これだ。
ただ贈るだけでは、こちらも面白くないし、たまには彼を驚かせてやりたい。
嫌みに取られちゃうかもしれないけれど、いつもお食事を作りに行っているのんびりとした家庭人ではないのだと、彼に知ってもらいたい。
こういう事は、普段の行いが物を言う。
真面目な自分をつまらないと思わなくも無いが、この時ばかりは感謝したくなった。
深く静かに、だけど確実に任務を遂行するのに障害は少ない程、良い。


☆☆☆


当日、準備を万端終えて後は渡すだけ、そう思っていた。
だけど、この時私は痛感した。

「作っちゃったけど…準備はしちゃったんだけど…渡して大丈夫かなあ…?」

昨日の勢いはどこへやら。
ローマの恋人がどうとか、渋鯖男爵がどうだろうかというセンチな考えは全部吹っ飛んで、右へ左への大騒ぎになっていた。
私は絶対、戦いには向いていないのだ。
努めて平静を装うとしてもドキドキは収らないし、足はがくがくして震えが止まらない。
やたらに喉が渇いて仕方なくてお水を何杯も、結局お食事の用意がありますからとお台所に引っ込むのがやっとで横島さんの顔を見ることも出来なかった。
体調は良さそうか、気分はどうだろうか、それとなくバレンタインデーの話題を振っておくべきだったろうか。
鍋をかき回しつつやり残したことがあまりに多いように思えてならず、かといって居間に出て行くこともならず、気を静めるためにあれこれ一生懸命に作っていたら図らずも豪勢な夕食になってしまって苦笑いする。

「喜んでもらえるかな・・・。喜んでくれたら、いいなあ」

自分の臆病さ加減にほとほと呆れて、給仕しようといくつかお皿を抱えたとき、不思議と震えが止まった。
そうか、もう逃げ場所はないんだ。
後は、本当に自分次第。

「いよし」

ちょとだけ時間をおいて落ち着かせたミートローフの香ばしさを胸一杯に吸い込んで、私はいざ戦場へと向かう。
だけど、それは皇帝に命令されたからじゃあ、無い。


☆☆☆


「はい、バレンタインのチョコレートです。一昨日みたいなうっかりしたことをしないよう、注意書きを同封してますから。ちゃんと確かめて開けてくださいね」

私の言葉に、彼は苦笑いをしていた。
事務所での夕食後、シロちゃんが渡すのに合わせて箱詰めしたチョコを差し出した。
落ち着いたと思ったのもつかの間、内心はもう跳ねっぱなしだった。

(ホントに、心臓が飛び出しちゃいそう…! ここで待ってくださいって言うのも出来るけど…手を差し出してるのが精一杯で、引っ込めるのも出来ないよ…)

泣きたいほどに恥ずかしい想いをこらえて、どうにか渡したチョコレート。
私のチョコは、砕いたナッツを絡めて、香り付けにほんの少しブランデーを入れた一口サイズ。
シロちゃんはいつの間に用意したのか、特大ハート型のチョコを誇らしげに差し出している。
美神さんはそれを横目につとめて冷静に《新聞を逆さにして》読んでいて、タマモちゃんは本当に興味が無いようで、狐になってソファーの上で食後のうたた寝を楽しんでいる。
内容が見劣りしているとは想っていないけれど、愛弟子からの胸一杯程もあるハート型チョコと見比べて、彼はどう思っただろう。
もっと大きい物をくれてもいいのに、くらいは感じてもらえたろうか。
雇い主からチョコをもらえずだだをこねて見せ、仕方ないわねとチロルチョコくらいのかけらをひとつまみ美神さんが差し出した後、私たちにありがとうと、無邪気に喜ぶ姿は微笑ましくもあり、焦れったいものでもあり、どちらにせよ私をどきどき、ヤキモキさせる。
今日という日でさえ普段と変わらない彼に、私からの一撃は通用するだろうか、不安が胸を浸食していった。
どうしたものだろうか、でも顔に出してはいけないと笑顔を作るとそれを自身への返答だと受け取ったのだろうか、彼はまたありがとうと言った。
どういたしまして、私は言葉だけの返答をした。


☆☆☆


「横島さんもう開けちゃったかな、ひょっとしてお家に行けば持って帰れるかな…」

全てが終わって皆が寝静まった夜、ベッドの上で私は枕で頭を押さえて突っ伏していた。
顔が真っ赤だなんてレベルじゃない。
息をするのもくるしいくらいに、感情が高ぶって寝付けそうもない。
渡す事が出来て嬉しかったのはほんの一瞬。
不安に押しつぶされそうで、胸が穴でも開いたみたいに冷たくて、同時に血が体全体を駆けめぐって騒がしい、不思議な感じがした。
夕食での事を思い返す度、ずきんずきんと手足に痛みが走って、これが夢なんかじゃないってイヤでも知らしめていた。
注意書きは、きちんと書き添えた。

《この箱を開けると大変な事になりますから、どんな大変な事が起きるか、よーく考えてから開けてくださいね》

ただ、どういう《大変な事》が起きるかは書いてないのだし、食べ物なんだから開けてしまうのが当たり前。
横島さんは、エッチなHPを見ていたので私がちょっと怒ってると思うくらいだろうし、そう思わざるを得ない。
だって、それはこれも計算した悪戯、いや仕掛けなのだから。

「あーもーどうしよう…魔理さん助けてよ…」

今頃はタイガーさんとデートの最中だろう親友を言い腐す。
聞えるはずもないのに。
例え聞えたところで、余裕の笑みが返ってくるだけだろうけれど。

「時間が止まっちゃえばいいのに…」

出来ようはずもない愚痴をこぼす。
一歩踏み出すのは自分で決めたことだろうに。
全く弱くてずるくて情けない。

「横島さんの事、言ってられないな。私」

箱を開けたら、横島さんはどんな顔をするのだろう。
腕組みなんかして考え込んだりするかな。
あのメッセージを、見たのなら。

『この箱を開けたと同時に、氷室キヌを恋人とする事に同意したと見なします。もし異議がある場合は、後日、本人に直接申し立ててください・・・』


☆☆☆


「大丈夫、しっかり気を持てば横島さんの顔を見る事だって出来る」

右に左に、通路に誰もいないことを確かめる。
私は書斎のドアノブを握りしめて、幾度か深呼吸をし集中していた。

「目が腫れぼったいけど、それはパウダーでごまかしたし・・・」

昨日の夜、考えあぐねて気づけば朝だった。
起きたときの気だるさを覚えている。
目に涙を貯めてしまっていたのだろう、あんまり見せたくは無い顔になってしまっていた。

「もう踏み出したんだから、後は勇気。それしかない、のよ、ね・・・」

不安が頭をもたげる。
怒ってもう口をきいてくれなくなったりしちゃうかな。
嫌な女なんだと、軽蔑されちゃうかな。
それとも、それとも。

「ああ、もうダメダメ。こういうのは、思い切りが大事」

もう一度深呼吸して、ノブを握った手に力を入れる。
や、と勢いよく開けた扉の先に、彼を見つけた。
バンダナにジーンズの、いつもの格好で。
例えそれがとても遠くにいても、どれだけの人混みに紛れていても、不思議と見分けることが出来る。
すぐに分かる。
今日はほど近く、なおさら間違いようもなく。
横島さんは、昨日と同じに晴れ渡った外を見ていた。
彼の身には、陽光が降り注いでいる。

「あ、あの!」

たまらず私は声をかけた。
ようやく気づいたのか、彼はゆっくりとこちらを振り返る。

―駄目

思わず顔を伏せてしまって、ぎゅっと胸元で手を握りしめる。
心臓の鼓動を、両の手で感じる。

「あの、さ」

横島さんが言った。
声に惹かれて、ゆっくり私は顔を上げていく。
その時。
そう、その時。
彼の顔に浮かんでいたのは―


二日前ですが、ちとタイミングを見て投稿させていただきました。
二人のというよりはおキヌのヴァレンタインですが、さて皆様にはどのように映りましたでしょうか。

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