約千年前 大江山山中 深夜
しとしとと雨が降っている。
茅葺の屋敷の屋根が水を吸って重たげに傾いでいる。
縁側から緑深い山中を眺めながら、男が独り、手酌で酒を飲んでいた。
男は眼前の光景よりも、もっとずっと遠くを見据えているように見える。
男の膝を枕にして、透き通るような肌の美しい女が幸せそうに寝息を立てている。
ふと、灯明皿の明かりがふらと、風もないのに不自然に揺れた。
男が一瞬明かりに目を移し、再度徳利を置いた縁側に目を戻すと、そこには狩衣を着た独りの老人が座っていた。
「・・・・・鬼の肝を冷やすものではない。ちゃんと玄関から入って来い、安倍清明。」
「ふん、天下の酒呑童子ともあろう男が肝の小さい・・。」
老人はその年齢にそぐわぬよく通る声で男を揶揄すると、どこから取り出したのか自分の徳利に手酌しだした。
「お前は遠慮ってものを知らぬか、清明。」
「何だ、肝が小さい上に狭量か?」
今に女子に疎まれるぞ、といって杯を美味そうに飲み干した。
「やれやれ。陰陽寮の天文博士のお前が、天朝の怨敵に何用だ?」
「・・・童子。都から距離を置け。」
杯から口を離した清明は射抜くような鋭い眼光で男を見据える。
酒呑童子は口元に運ぼうとした手を一瞬止め、そしてゆっくりと杯を飲み干した。
「朝廷はお前の討伐を決定した。源頼光と四天王がお前の首を取りに来る。」
「お前ならともかく。人間の武将を俺に寄越すのか?朝廷も焼きがまわったな。」
「どうやったのかは知らぬがな。墨江の古い神が味方についている。いくらお前でも危ういぞ。
なまじ頼光を退けたとて、その後は―――」
俺が来ねばならなくなる、そう、老人は言った。
「清明。そもそも力ある豪族を退けるため大江山に我等を置いたのは朝廷ぞ。
時代が変わり、氏の力関係が変わったとて、約定を違えたものの都合に振り回されるのは性に合わん。
清明、俺はな、鬼だぞ。」
「『鬼は言葉を違えぬ』か。お前、死ぬぞ・・・。」
清明の言葉には答えず、酒呑童子は己が膝頭に目を遣る。
そこでは娘であり、女である茨木童子が心地よさそうに眠っている。
「・・・俺は独りではない。俺を慕って方々の国から集まった鬼たちがここには住んでいる。
奴らにはほかに居場所がないのだ、清明。
お前には分かろうが。
尋常でない生まれをしたばかりに、追われるものどもの心が。
我等は好んで鬼に生まれてきたわけではない。
だが、人が我等の異能を恐れ、我等を排除しようと言うのなら、俺は引くわけには行かぬ。」
酒呑童子は声を荒げもしなければ、杯を零す様なこともしなかった。
ただ静かに、怒っていたのだ。
清明はそんな鬼の姿を、悲しげに見つめていた。
そして懐に手を伸ばし、何かを取り出す。
「・・・・・何の真似だ?」
酒呑童子の前に一枚の呪符が差し出されている。
「これを持て。そうすれば人の刃でお前が死ぬることはない。」
安倍清明の行為に、しかし酒呑童子は大きな溜息を吐く。
「清明、やめろ。お前は人で俺は鬼だ。」
情けは無用だ、きっぱりと言い放った。
「・・・では、お前の姫に持たせておけ。気休めぐらいにはなるだろう。」
う・・ん、と艶っぽい身じろぎをして、茨木童子が目を覚ます。
酒呑童子は茨木童子が身を起こせるように、体勢を変える。
「・・・あの助平野郎。」
その一瞬の間に、老人は縁側から姿を消していた。
起き上がった茨木童子の深い胸の谷間に、一枚の符を挟み込んで。
「うおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
「っひええええええッ!!」
とてつもない妖気に裏打ちされた尋常でないスピードから繰り出される攻撃を、横島は辛くも凌いでいた。
しかし、相手は平安の世から蘇えりし日本最悪の妖怪のひとり。
人の姿をしているとは言え、すぐに横島は追い詰められる。
「も、文珠ッ!!」
「遅いッ!!」
横島が掌に生み出した虎の子の文珠はしかし、鬼の刃によって即座に弾き飛ばされてしまう。
「横島君ッ!!」
慌てて美神たちが駆け寄る。しかしその瞬間、酒呑童子は刀を握らぬ片腕だけを鬼の腕に変じ、爪の一撃を繰り出す。
たったの一振りによって、美神たちと横島の間には、地殻が覗きそうなほどの深い溝が生じたのだった。
「横島以外のものに容赦する気はねぇ。」
先に死にてぇなら別だがな、そういって酒呑童子は腕を人のそれに戻す。
美神は舌打ちし、ほんの一瞬思案した後、横島に向かって言ったのだった。
「じゃ、そういうことで。」
「この薄情者ぉおおおおおおッ!!」
「手前に余所見してる暇はねえぞッ!!」
鬼の剛剣が横島に振り下ろされる。
横島は日本刀だけでは追いつかず、片手に霊派刀を最大出力にし、なんとかその斬撃を捌く。
「流石先生でござる。あれほどの剣豪を相手に切り合えるとは・・・。」
シロが横島にやや贔屓目の感想を述べる。
しかし歴戦のプロの評価はそれとは違った。
「拙いわね。なんとか文珠を使わないと、横島君には決定打がない。」
「それ以前に、あれほどの剣戟にそう長く耐えられるとは思えん。
なんとかしないと先にへばるのは横島君だぞ。」
二人のプロが固唾を飲んで見守る中、横島の霊派刀が無残にも酒呑童子の一撃に切り崩されるッ!
「まずい。思ったよりもへばるのが早いッ!!」
「サ、サイキックソーサーッ!!」
「甘いッ!!」
「横島君ッ!!」
展開された霊気の盾を粉々に粉砕し、鬼の剣は横島の胴を完全に薙いでいた。
「・・・・・・な、何だと・・・!?」
しかし鬼の刃は横島の胴を切断できてはいなかった。
酒呑童子にほんの一瞬生まれた隙。
横島はその一瞬を見逃さなかった。
「チェストぉぉぉぉぉッ!!」
「ぬおぉあッ!!」
千年前、童子の首を切り落とした日本刀―髭切りが、鬼の胸に深々と突き立っていた。
「・・・はん、見事だ、横島」
そういって嗤うと、鬼は膝からその場に崩れたのだった。
「いってぇぇぇぇぇぇ・・・・。」
横島が地面に転がって呻いている。
西条は横島のもとに駆け寄り、そして何がしかを地面から拾い上げる。
それは、初めに酒呑童子に弾かれた文珠であった。
「抜け目ないと言うか何と言うか・・・。」
文珠には「鈍」の一文字が光り輝いていた。
「弾かれたと見せて、酒呑童子の刀をなまくらに変えていたとはね。」
まったく本当に霊力とは関係ない次元の能力だな、と西条は呆れて見せた。
「う、うるせぇ。と、とりあえず胴体は繋がってるけど、い、痛くて死にそうなんじゃ・・・。」
「あ〜、これは間違いなく折れているでござるな。内臓も二つ三つ潰れている様な・・・。」
「いやぁぁぁぁぁ、言わないでッ!!現状を聞くと不思議と痛みが増してきたような・・・。」
「馬鹿やってないで文珠を使いなさい。おキヌちゃん、そのバカにヒーリングをお願い。
私と西条さんは―――」
後始末をつけないと、そう言って美神は歩を進めた。
まっすぐに青い空を見つめる、横たわる鬼のもとに。
「み、美神さん、そいつを――――」
どうするつもりですか、と言ったつもりだった。
しかし重傷により横島の意識は遠のき、叫ぶシロとおキヌの言葉も聞こえなくなっていった。
ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ・・・・・・。
次に横島が目を覚ましたときには、彼は集中治療室のベッドに横になっていた。
染み一つない白い天井が真っ先に目に入る。
見やれば横島の腕の至るところにチューブが刺さっていて、ドラマなんかでみる心電図がモニターに写っている。
やっと目を覚ましたんやね。
横島の眠っていたベッドの傍らに、どこかで見たはずの絶世の美女が腰掛けていた。
横島の目には不思議に涙が溜まり、頬を伝って流れる。
もう大丈夫。手術は成功したってお医者も言ってはったわ。
あんたには世話になったからね。
うちの人があんたを殺したんじゃ夢見が悪いやんか。
よかった。
そう言って、女は横島の頬にキスをした。
そしたら、そろそろ行くわ。
うちら、二人でどっか静かな所で暮らすことにしてん。
あんたも、身体がようなったら遊びに来てね。
女が席を立つと、横島は初めて入り口に一人の男がもたれ掛かっていた事に気付いた。
男は一言も話さず、ただ去り際にほんの少しだけ手を振って、そして病室を出て行った。
女も連れ立って病室を後にする。
また来るわ、そう言って女は病室の引き戸を閉めた。
ほんの少しだけ、女の残り香が漂っていたが、それも横島が再びまどろみに落ち、目を覚ますと消えていた。
横島が深い眠りに落ちている間に、彼は一般病棟に移された。
その後横島が目を覚ますまで彼の傍らの花瓶には毎日新鮮な花が活けてあったが、誰が置いていったものかは誰にも分からなかった。
(終)
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