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白き心、風のごとく 後編


「実はね……」
ただいま帰りましたー、と元気よく挨拶をするおキヌに、令子は少しだけ煩わしさを覚えながらも、淡々と、シロが今日、里に帰ることを伝えた。
「えっ、そ、そんな」
令子に告げられ、おキヌは一瞬、突然フラッシュを浴びせかけられたような衝撃を覚え、わずかによろける。急に仕事が入ったのかとばかり思っていただけに、ショックはひとしおだった。
「なにぶん急な話なもんで、こっちも困ってはいるんだけどね」
令子は、デスクの上に頬杖をついて陰鬱そうな顔でいう。

 事務所の中にその事をつげに来た長老の姿はない。
 折角東京の街に来たのじゃから、少しばかり散歩をしてくると、出かけてしまったのだ。
 おキヌやタマモの質問攻めから難を逃れようと言う狙いもあったのだろう。
 相手がいなければ文句の一つもいいようがない。
「何でですか!?」
一秒、二秒と思考の停止していたおキヌであったが、正気に返ると学生かばんをソファーの上に投げ捨てて、令子に詰め寄る。
 短いながらも、穏やかな正確の彼女からは想像のつかない激しい言葉に、さしもの令子も圧倒されかけるが、何とか持ち直して話を始める。
「お見合いだって。つまるところ、結婚話が持ち上がったって言う事。私はまだ早いんじゃないかって、反対したんだけど、長老は人狼の一族の掟だからって譲らないのよ」
左腕を胸の前に横たえ、頬杖をついた右手の指を、せわしなく動かす令子。
「そりゃね、漸くGS見習として使えるようになってきたところだから、どうにか引き止めたいとは思ったけどさ。長老は全部承知した上で、それでもなお連れて帰るって言うのよ。そこまで言われて、わたしたちに引き止める理由は、ね」
間をおかずに、やや早口なのは、情緒が不安定な証だろう。
 もっとも、付き合いの浅い人間なら気がつかないほどの、わずかな変化でしかなかったが、長い付き合いのおキヌは当然気がついていた。
「そんなの関係ないじゃないですか、理由はどうあれ、今、シロちゃんはうちの、美神除霊事務所の家族じゃないですかっ、それなのに美神さんは」
それでもいささか乱暴な物言いになったのは、やはりおキヌ本人も動揺しているからだろう。
「じゃあ、人狼族を敵に回してでも家でシロを引き取れって言うの?」
おキヌにつられて、令子もわめきかけるが、自らを落ち着かせるように眉間を押さえ、
「話はそんなに単純じゃないのよ。おキヌちゃんだって、人狼族の窮地は知っているでしょう。何より、GSとして、私達の都合だけで人間社会と人狼族との対立軸を作るような真似は出来ないのよ。それに結婚したとしても、暫くして落ち着いたら、GSの試験も受けさせるって言うし、仕事をするのも認めるって言ってるから、そのうちこっちにだって顔出せるわけだし。一緒に暮してたシロがいなくなって寂しい気持ちも分けるけどさ、ここは快く送り出してあげるのがいいんじゃないかなと、私は思うんだけどね」
勤めて落ち着いた口調で話を続ける。
 だがおキヌは、
「そんな、言い訳がましいことを聞きたいわけじゃありません!」
仕方がないとしか聞こえない令子の言い回しに、苛立ちを募らせ、両手で思い切りデスクを叩く。
 一輪挿しの花瓶が振動で倒れ、デスクの上の書類をぬらすが、そんなことは二人とも構いはしなかった。
「やっぱり、納得は出来ないか。確かに、私だって素直に納得できる話じゃないけどさ」
「違いますよ」
「何よ、なにが違うって言うの?」
美神は、おキヌの言わんとしていることが、なんとなく解り、それだけに語気を荒立て、激しくにらむ。
 おキヌも、臆すことなく睨み返す。
 
 肝心要、最も重要であろう人物の名前が、出てこないことにおキヌは激しい憤りを感じていた。
 たった一言でこの話は消えていたかもしれない。
 令子はそれを、見合い話を持ってきた長老に伝えなかった。
 ずるい。純粋におキヌはそう感じた。
 自分の思いを明かさず、それでいてライバルを追い落とそうとするそのやり方が。
 同じ女として、怒りを感じてしまうほどに。
「このまま、シロちゃんをお嫁に行かせるって言うんなら、私は美神さんを一生軽蔑しますからっ!」
おキヌは、しばらく令子とにらみ合っていたが、処置なし、と思ったのかぷいっとそっぽを向き、投げ置いた学生カバンを拾うと、そのまま事務室を出て行ってしまった。
「あーそう、もういいわ、勝手になさい!」
美神は、おキヌの後姿に、感情に任せて言い捨てると、そのままデスクの上に突っ伏す。
「おキヌちゃん。私だって、言われなくともわかってはいるのよ、わかっては。……あーあ、私ってこんなやな女だったのか」
弱弱しく漏らすことばに、涙色が混ざる。こぼれた水で腕がぬれる感覚すら、苦に感じない。

 彼女は、強い女だった。格好いい女であり、激しい女であり、男勝りのやり手であった。
 でも、寂しがり屋で、優柔不断で、怖がりで、そんな弱い女でもあった。
 両極端、それが美神令子という女の本性だろう。ゆえに、自分の気持ちにすら素直になれないままできたのだ。
 そして、また素直になれない。
 素直になれないまま、時間は流れ、また流れていく。
 別たれた心を、理解しつつなおまた。
「潮時だってことぐらい、解ってるわよ、あのバカの顔見てれば、けど、けどさ……」
暫くそのまま、起き上がらなかった。


 おキヌは乱暴に学生カバンを机の上に投げおくと、その身をポーンとベットの上に、うつぶせに投げ出した。
 令子の言い分には、さしものおキヌも怒りを表さざるを得ない。
 だが、同時に、痛いほどわかってしまった自分もいた。
 あの美神であっても横島とシロの関係には気がついている。
 それでいてなお横島と言う単語を話の中に持ち出さなかったのは、美神自身が、横島の事をいまだ諦めていないと言うほかなかった。
 いや、諦めていない、というのは正確ではない、とおキヌは思う。
 踏ん切りがついていないのだ。何より、かつての自分自身の気持ちに対する踏ん切りが。
 
 だがおキヌは、違った。
 シロの思いが、ただ好きだからデートいしたいとか、いっしょに居たいとか、そういう次元は既に超えていること、ずっと先の事を見据えて、真剣な思いを横島にぶつけきっている事を感じ取った、その時から。
 飾らず、彩らず、偽らない。
 ありのままの自分を受け入れてもらおうと必死であったシロを見た、その時から。
 なんとなく、覚悟していた。
 
 そして。
 横島の、シロに向けられる眼差しが、妹か、年の離れた幼馴染か妹に向けられるような、優しい眼差しから、愛情の溢れた眼差しへと変化ていく。かつて見た事のある、掛け替えのないものへと向けられた、眼差しへと。 
 決して自分には向けてくれない眼差しを、シロに向けていた。

 それでようやく、おキヌは、一歩だけ前に進めた。
 
 無論、おキヌとて女の子、いつも清らかで優しい気持ちでいられるわけがない。
 最初のころは、うちに湧いた気持ちはいかんともし難く、時に横島やシロに冷ややかにあたり、余所余所しい態度を取ったこともある。
 反対に、まだチャンスがあるかもしれないと、シロの隙を突いて、それとなしに横島に迫ってみた事、甲斐甲斐しく世話をしてやった事ももある。
 
 だが、いかに冷たくされ様と、恨みがましい視線を向けられようと、やさしくされ様と世話されようと、横島は、二度とおキヌへとなびく事はなかった。
 
 あるいは、おキヌはどこかで知っていたのかもしれない。
 横島の気持ちが自分へと向う事は、もう既になかったのだと。
 だからこそ、足掻いて、縋って、なお引き止めたいともがいたのかもしれない。
 それほどに、横島が好きだったのだ。 

 暫くそんな日々が続いて、おキヌはついに横島のあの顔を見る。
 すると、冷たい視線を浴びせる事も、余所余所しくする事も、シロから横島を奪おうとすることも、つらくてつらくて仕方がなくなってしまった自分がいた。
 おキヌは、シロのことが嫌いなわけではない。
 むしろ、大事な家族であった。大好きな妹分であった。信頼に足る仲間であった。
 横島も、恋愛対象であると言う以前に、仲間であり、掛け替えのない家族になっていた。
 大切な家族を苦しめる事など、おキヌが望もうはずがなく。
 
 おキヌは一人布団へ潜ってたっぷりと泣いた。
 泣き疲れて眠りに着いてもまだ泣いた。
 一滴に涙も出てこなくなるまで、泣き明かした。
 涙と共に、横島への思いを、綺麗に洗いながすかのように。
 
 泣いて泣いて泣き尽して、次の朝には、すっきりとした笑みを浮かべていた。
 少しはれぼったい目をしているのは仕方のない事だろう。
 大事な家族を笑顔で迎えられるように。
 大事な二人の幸せを、笑顔で祈れるように。
 ただそれだけを思って、笑った。

 一歩だけ、前に進んだのだ。

 そして今。
 おキヌは、自分のするべき事をしようと思った。
 シロがなにを思っているのかは知らない。
 もしかしたら、横島への思いが揺らぐ何かがあって、やけになっているだけかもしれない。
 ならば自分がシロの気持ちを支えてあげよう。
 
 大事な妹が、こんな事で不幸になってたまるものか。
 大事な兄を苦しめてなるものか。
  
 ぎゅっと、決意を秘めて拳を握ったおキヌは、ベットから跳ね起きると、その足でまずはシロのいるであろう、屋根裏部屋へと走った。

 
 トントントン、と階段を駆け上がってくる足音。
 この軽さからしておキヌちゃんだな、とタマモは判断し、胸のうちで泣いているシロをやんわりと起こす。
「何でござろうか?」
シロは慌てて涙で汚れた顔を拭う。
 泣いている姿など、ライバルであるおキヌには見せたくはなかったし、仲間としても見せたくはなかった。
「大方、行かないでっていう話でしょう?気持ちは分かるけど、ね」
一方タマモはやや冷めた顔で、おキヌの到着を待つ。
 根本で折り合わなければ、いくら引きとめようとも無駄な話だと、タマモは思っている。
 シロは既に腹を括っている。悲しいほどの決意を持って。
 それを覆させるだけのものがあるのか、答えは残念ながらNOである。
 おキヌは、涙を流して別れを惜しむだろう。出て行くなと縋るであろうが、それだけである。
 結局、同じ男を狙う女として、ライバルが減るに越した事はないのだから。
 タマモはその事を責めているわけでも、貶しているわけでもない。
 それだけ横島の事が本気だ、と言うだけの事。
 同じ女としてその女心を責めるはずもなかった。
 
 足音は次第に近くなり、数秒後にはらしくもなく髪を振り乱したおキヌの姿があった。
「おキヌちゃん?」
タマモは必死げなおキヌの顔を見て、あれ、と思った。
 てっきり、涙を流して別れを惜しむのかとばかり思っていたからだ。
 しかし、その顔は別れを惜しもうとする人間の顔ではない。
 何か、強烈な決意を秘めている、そんな強い顔だった。
「美神さんの口から聞いたわ」
手すりに捕まりつつ、おキヌが口を開く。
「見合いの事にござるか。急な別れとなったでござるが、拙者」
シロは、衣をただして床に正座すると、別れを告げるべく頭をたれる。
「シロちゃん」
だが、おキヌはそれをぴしゃりと遮った。
 そしてシロに歩み寄ると、自らもかがんで、ぐっと手を握り、胸に押し付けるようにする。
 心臓の鼓動が、シロの手にもはっきりと伝わり、
「何でござる?引き止めてくれようと言うお心遣いは感謝するでござるが」
少し驚き、目をむく。
 おキヌはその驚き見開かれた目をじっと見て、
「一つだけ聞くね。横島さんの事、好き?」
はっきりとした口ぶりで、尋ねる。
「それは、まあ師匠としては、確かに好いてござるが、男としては、どうでござろうかな」
シロはちらりと視線をはずし、心うちを見せないようにしながら、蚊の鳴くような声で答えた。
「シロちゃん!はぐらかさないで」
おキヌは、そっぽを向いたシロの顔をぐぐっと覗き込み、今度はきつめに問い質す。
 何がなんでもはっきりさせておかなければならないという意思が、シロの赤い瞳に容赦なく突き刺さる。 
「去り行く身の拙者が口にする事にござらぬ。立つ鳥、跡を濁さずというでござろう?おキヌ殿はおキヌ殿のお心を大事にしてくだされ」
それでも、シロは、気を使ったつもりなのだろう、やはり本音を漏らそうとはしなかったが、言葉の端々に深い悔恨の色を覗かせていると、おキヌは見抜いた。
 これじゃいけない、とおキヌは、自らの秘めた思いを口にすることを、決意し、
「シロちゃん。私も横島さんの事、好きだったわ」
ふとやわらかい笑みを浮かべる。
「やはり、そうでござるか。おキヌ殿とあらば、先生のこと、安心して」
「勘違いしないで。私は好きだったって、言ってるの」
「は?」
シロは、理解できない、といった顔をして、尋ね返す。
「私は、横島さんの事が好きだった。だからシロちゃんが横島とデートに出かけたり、横島さんのところに遊びに行ったりするのがとっても羨ましかったし、妬んだりもしたわ。その事でシロちゃんに冷たく当たったりした事もあったけど、あの時はごめんね」
「いや、拙者謝られるようなことなど、何一つ」
「でも、私、横島さんの事、諦めたの」
さっぱりとした笑みで、言い切るおキヌに、
「なぜでござる?おキヌ殿とて、先生の事が好きなのでござろう?まさか、拙者のために」
シロは、疑問をぬぐいきれなかった。
 おキヌの思いは、若草色のような、清廉な気持ちであったとはいえ、簡単にあきらめられるほど弱い想いではなかったはずだ。
 自分のために身を引こうというのなら、お門違いも甚だしい、やめてくだされ、そう口にしようとした。
 おキヌは、それを悟ったのか、小さく首を横に振る。
「違うわ。あきらめたのはもっと、ずっと前。横島さんが、シロちゃんに優しい眼差しを、向けてたときなんだ」
「先生はいつも、優しかったでござるが」
「あれ、わからないかな?鈍感なところは横島さんにそっくり。でも、次にあったときは、シロちゃんにもきっとわかるわ」
おキヌは、握り締めた手に更なる力を込めて、言う。
「ともかく、私は、シロちゃんと横島さんののこと応援するって決めたの。二人とも大切な家族なんだから。二人が幸せになれますようにって。それなのに、シロちゃんたら、もう諦めちゃうの?」
「……いや、拙者」
シロの脳裏にはまだ横島の言葉に対するわだかまりが残っている。素直に否定できない。
「横島さんになに言われたかなんて知らないけど、それぐらいで諦められちゃうような、簡単な想いだったの?」
シロは、おキヌに問いただされて、暫く恥じ入ったように俯いていたが、やがてぶんぶん、と首を横に振る。
「せ、拙者は、先生…いや、横島殿のことが好きにござる、離れたくないでござる。拙者の生涯において、ただ一人の方と、心に決めているでござる」
「よし。だったら、こんなところで泣いてる場合じゃないわよね?」
おキヌは握った手を引っ張って、無理やりシロを立たせる。
「行ってらっしゃい、シロちゃん」
そしてシロの背中をぽん、と軽く押してあげた。暖かな手のぬくもりは、記憶のはるか片隅にある、亡き母の暖かなぬくもりに似た、やわらかくて、やさしいぬくもりだった。
 シロは知らず知らずのうちにあふれてくる涙を、ぎゅっとぬぐう。
 涙は、禁物。せっかく決意したものが、鈍る。
 何より、おキヌの気持ちを、裏切る。
「おキヌ殿、かたじけない!」
シロは、振り返ってぺこりと頭を下げると、まとめてあった荷物を引っ担いで、後は一切振り返ることなく、一気に階段を駆け下りていった。


「シロっ、どこへ行く気?支度は終わったの」
階段を最後まで駆け下りようと言うその時、鋭い声が、シロを呼び止めた。
 聞きなれた、凛とした声に、シロは無意識に足を止めて、声の主を見る。
 令子の顔には、明らかな怒りと嫉妬が浮き彫りにされている。
 仕事の上で見せる顔でも、普段見せる姉のような顔でもない。
 女としての本性を、シロにぶつけていた。ある意味、シロを同じ女として認めた、ということだろう。
「横島殿の下へいくでござる」
シロは、その怒りと嫉妬を真正面から受け止めなお澱みなく言った。
 おキヌやタマモにもらった心が、今、しっかりと自分を後押ししてくれている。
「何の為に?わざわざ別れの挨拶でもしてくるのかしら?」 
令子は意地悪く言う。
 内心のじゅくじゅくした気持ちを、隠そうともせず。
「いや。はっきりと拙者の気持ちを伝える為に、いくでござるよ」
「あの馬鹿が、あんたなんかを本気で相手にすると思っているの?行っても後悔するだけじゃないの」
「たとえ後悔するだけだとしても、ここで諦めるわけには行かないでござる。たとえ美神殿の気持ちを踏みにじる真似になろうとも」
「私の気持ち?」
令子の眉が、ぴくりと上がる。
「美神殿が、横島殿を好いておられるのはよく知っているでござるから」
「それでもなお、か。あんた、マジなのね」
「本気にござる」
「この私に喧嘩売って、ただで済むと思っているの?」
「ただで済まずとも、諦めぬ。諦めたくないのでござる」
刺しつ刺されつの凄まじい気迫の応酬。
 シロは前身総毛立つような思いをしながらも決して引こうとしなかった。
 そして令子もまた、このまま引かない、とシロは思っていたが。
「ふぅ……まさか飼い犬に手をかまれるとは思わなかったわ」
不意に肩の力を抜くと、そのまま壁に体を預けて、一息つく令子。
 波立った気配が一気に凪いでいく感覚を、シロは覚えた。
「狼にござる」
気が抜けながらも、そこだけは訂正する。
「言葉のあやよ。やれやれ、わかっちゃいたのよ、あんたらのことはさ。わたしの諦めが悪かっただけってのもね」
令子は、こつん、こつんとかかとで壁を蹴りながら、告白する。
「たしかにね、悔しいけどあいつの事が嫌いじゃないってのは確かよ。前世の記憶だとかなんだとかいろいろあるし、馬鹿だけどほうって置けないって言うかさ、何ていうか、結局頼ってばっかりだった」
「美神殿……」
「逃がしたくなかった。そばにいてほしかった。あいつがいるだけで、私は、多分満ち足りてた。あいつの気持ちを無視してでも、今の関係が続けばいい、なんて、子供みたいなこと、考えてた。けど、もういいわ。横島君はあんたにあげる。正直、ちょっと重かったし、ね」
「重かった?」
「ルシオラの事とかさ」
「先生が愛しておられたという、方にござるな」
「そ、そのルシオラの事。シロ、一つだけ話して置くけど」
「知っているでござる。横島殿の子は、ルシオラ殿の転生、なのでござろう?」
「聞いてたの。でも知ってて気にならない?本気で愛してた女の子を生んでくれって言われた時」
「気にならぬ、と言えば嘘にござろう。拙者とて女、拙者のことだけを見てほしいとも思うでござる。しかし、その事を含めてなお、拙者は先生が好きなのでござるよ。それに美神殿が気にしておられるのは、本当はそのことではないのでござろう?」
「多分、ね」
令子は、やや顔を俯かせる。
(死んだ女に白旗上げたなんて、ねぇ、言えないわよ、そんなこと)
二、三度ゆっくり瞬きをして、感慨にふける令子。
 シロはあせる気持ちを感じつつも、黙ってその姿を見届ける。
 ルシオラ。横島忠夫を愛した、女。
 魔族。いや違う。女だ。シロや令子と同じ女。
 ルシオラは、いつまでも横島の中にいる、という。
 令子には耐えられなかった。
 嫉妬、懺悔、後悔、いろいろな思いはあるにしろ、令子には、ルシオラのいる横島に愛を告げることが、出来なかった。
 自分はどうか、とシロは考える。嫉妬はある。
 しかし、命すらかけた大恋愛は、横島という命を残したことで一気に昇華され、次の時間へと受け渡された、今の時間の中では終わったことなのだと、思うのだ。
 そして横島も自分も一歩進んだ先にいる。新しく積み上げた時間の結果として今の思いがある。
 だから、これからも二人で進みたい。
 理論のすり替えかもしれないとシロは思ったが、そうする、と改めて誓った。
 
 令子は、軽く息を吐いて、ぐっと顔を上げた。
 いつもの、姉貴肌の令子に戻っていた。
「さあ、行ってらっしゃい!あの馬鹿がごねる様なら尻の一つも蹴っ飛ばしてやれ!それぐらいしないとあの馬鹿、踏ん切りがつきゃしないんだから」
ばしぃん、と、思い切りシロの肩を叩いた。
「美神殿」
肩のじぃんとしびれる感覚すら、シロには心地よかった。
 シロを送り出す、その行為自体が、自分なりのけりのつけ方だ、と令子は考えたのかもしれない。
「それとこれ、餞別よ。どーせ金なんか持っちゃいないんだから」
シロは令子の差し出してくれた現金の束(200万はくだらない!!)を受け取りながら、
「美神殿がちゃんと給金を下さらないからでござろう?」
からかってみせる。
「何よ、私がけちだとでも言いたいわけ?」
「あれ、違ったでござるか?」
おどけるシロに、怒鳴る美神。いつもの調子、とはたからみれば思うのであろうが、少しだけ、違った。 
「あーそれともうひとつ、横島の奴に、あんたクビって、言っておいてくれる?」
「え?」
いきなりの解雇通知に、驚きを通り過ぎて、呆れるシロ。
 だが、令子の言葉は、決して嫌がらせなどではなかった。
「一丁前の他人の男に、いつまでも丁稚させてるわけにも行かないでしょうが。今回の件がなくとも、そろそろ、とは思ってたのよ。あいつの実力なら、すぐにでも食うに困らないぐらいは稼げるだろうから、安心しなさい。
 あんたの退職金は後であんたの銀行講座に振りこんで置くわ。一応、事務所のひとつぐらいは構えられるぐらいはあるから、後はしっかりやんなさい、二人でね」
やはり横島の退職金はないのか、とシロは思ったが、それでこそ美神令子、と思ってしまう自分が、可笑しかった。だから可笑しいついでに、
「美神殿……風邪にござるか?」
「なんで」
「だって、美神殿がお金をケチらないなんて……病気としか思えんでござるから!」
もう少しだけ、茶化すことにした。
「何ですって!このクソ犬、さっさと出てけ!」
「あはははは、じゃ、行って来るでござる!」
シロは、怒鳴り散らす令子から逃げるようにはしりながら、ちらりと振り返って手を振った。まるで遊びにでも行くかのように。
「あの子ったら、こんなときにまで気を使うなんてね」
美神はそれを見送ると、泣き顔で笑った。 

「あれでよかったの、美神?」
「タマモか。あれ、おキヌちゃんも?」
階段から降りてくる声に、頭を上げて振り向くとそこにはタマモとおキヌの姿。
「よく、諦めつきましたね」
「なにが?」
「横島さんのこと」
「誰があんなやつのこと・・・・・・・なあんて、いまさら言ってもしょうがないか。……さぁて、馬鹿も犬っころもいなくなったし、今日は仕事も全部キャンセルね!私はちょっと出かけてくるから、二人もこれでぱぁっとやんなさい、じゃね!」
美神はおキヌにカードを手渡し、んー、と一つ背伸びをすると、そのままガレージの方へと歩いていった。
「どこへ行くのかしら」
「美智恵のところかな。もしかしたら西条のところかも。西条としちゃ、ちょっと悔しいだろうけどね。さ、おキヌちゃん、私達もどっか出かけよーよ。美神がただで奢ってくれるなんて滅多にないんだし。デジャブーランドなんか良くない?」
「そうね。折角だし、いっぱい遊んでこようか?」
おキヌは、タマモの、少しだけ、ほんの少しだけ陰りのあるお誘いに、笑顔で答えた。



 
 じゃり。

 横島の背後に、アスファルトを踏みしめる足袋の音がする。
「誰だ?」
横島は振り返る事もなく誰何した。
 自分に意識が向けられていると言う事だけは直ぐに気がつく。
 背中を抜けて胃のあたりにしくしくと感じる嫌な気配。
 それを殺気と称するか殺意と称するか敵意と称するか、そんなことはどうでも良かったが、とにかく自分に対して向けられていると言う事だけはよく理解できた。
 体が勝手にそう判断している、と言い換えてもいい。
 シロのとこで神経過敏になっていた分、気が付き易かったというのもあるだろう。
「GSの横島忠夫だな?」
小声ながらよく通る声が横島の鼓膜を振るわせる。
 日本人らしい平坦な声であったが、横島にはいやという程よく聞こえる。
 やはり、神経が過敏になっている。
「いや、違うよ」
横島は一瞬だけ足を止めたが、再び歩き出しながら言う。
 恐怖は、確かに感じている。
 横島のビビリ症は、まだ完全に癒えているわけではない。
 しかし、それを表に出さなくても済む程度には、場数を踏んでいた。
「違うとは?貴様は横島だろう?」
意思の主は、茶化されたと思ったのか若干声を荒げる。
 気の短い男だな、と横島は思いながら、
「GSじゃない。まだ見習いなんだ」
そっけなく答えた。皮肉にすら、聞こえたかもしれない。
「半人前と言う事か?」
アスファルトと足袋のこすりあう音が、更に近づいてくる。
「半人前どころか、使いっ走り扱いってところかな。で、何の用があるんだ?人狼の兄さん」
「む、気配だけで見破るとは」
「あ、いや、カーブミラーに尻尾が写っただけなんだけどな、ほらあれ」
感心する人狼に、横島はわざわざ自分たちの姿が映し出されたカーブミラーを指差して説明する。
 着流しに袴、脇に差した大小と、人狼最大の特徴である、尻尾。
「なんだ、あれは鏡でござるか」
人狼は、拍子抜けしたのか、少し口調が軽くなる。
「拙者、人狼が一族の一人、犬田八郎丸と申す者」
横島の四五歩後ろをついて歩きながら、名を名乗る。
「犬田さん、ね。俺の名前は知っているみたいだから、名乗る必要はないわな。で、シロに用があるのか?それとも、俺に用か。だったら後にしてくれ。今急いでいるんでな」
「用件はただ一つにござるゆえ、そう時間はとらせぬよ。むしろ、急ぐ必要がなくなる」
横島に尋ねられ、犬田は腰にした刀に手を掛け、鯉口を切る。
「と」
横島はその仕草を感じて、くわっと目を見開くとわずかに後ろを見る。
「と?」
犬田は、思わず次の言葉を待ち、後悔した。

「通り魔ああああああ!!」

横島の悲鳴じみた叫びに、あたりにいた通行人が一斉に振り向き、

『わぁぁぁぁぁぁぁぁ』

近代日本にあるまじき危機管理の自覚を持って、逃げ惑う。
「ちっ、違う、拙者はただ、横島殿と立会いを所望しておるだけに…」

「同じようなもんだろがっ!おまわりさぁん、こっちです、こいつこいつ、こいつ銃刀法違反んんん!!!」

「ど、何処だ。じょうだんじゃないでござる、誇り高き人狼の者が官憲の世話になるなどとあっては死んでも死にきれぬ!って、おい、ちょっと待て!」
横島の言葉の乗せられて、あたりを見渡すが、お巡りさん等いなかった。
 いかに日本の警察が優秀?であったにしても、近くに居ない限りこれほど早く駆けつけられるわけがないのである。だがそれを知らない犬田は見事に引っかかり。
 
「戦略的撤退いいいいぃぃぃぃぃぃぃ・・・・・・・」

横島はおよそ人間とは思えないほどの超人的スピードで、逃げ出していた。
「ま、まてい、逃さぬぞ!」
だが、犬田は腐っても人狼、人間如きの逃げ足に劣るわけがなかった。
 くんくん、と鼻をひくつかせると、猛然と横島を追いかけて。

「捕まえたでござ……ぬお代わり身!!」
横島の上着を着たマネキンを引っつかむ。
 してやられたと歯噛みする間もなく、慌ててにおいを追い、自身ありげに笑む。
「ふん、逃げ足がいかに速かろうと、拙者ら人狼の鼻は誤魔化せぬわ。こっちにござる!」
犬田の向いた先には、半ば住人を失った、古ぼけたビルが建っていた。


においを追って屋上まで来ると、そこには遠くの空を眺めながら黄昏ている横島の姿があった。
「なぜに逃げたか?答えよ!」
犬田は憤怒を織り交ぜつつ、横島に詰問する。愚弄された、彼はそう思っていた。
 肩は怒り、両の目は血走っている。
「馬鹿すかあんたは。あんなところでヤッパ振り回されちゃ迷惑なんだよ。あんた一人のせいで人狼族があたり構わず刀を振り回すような狂気じみた集団だと思われたらどーするつもりだよ?」
怒る犬田に対し、横島は些か呆れた風に言いかえす。
「ぬ、我らは狂人じみてなどおらぬわ!」
「あんたらの常識がこちら側の常識とは限らん、って言っているんだ。今の人間社会じゃ決闘どころか、その腰にした代物を持ち歩く行為そのものが犯罪行為なんだよ。だから、わざわざこんな人目のつかないと所にまで連れてきてやったんだろうが。もっとも、それが本身だって気がついた人間なんぞ、いやしないだろうけど、抜いたら流石にばれる可能性が高い」
「ふ、む。横島殿の言葉、大筋では理解した。確かに、人と我らの考えには違える面も多々あろう。面倒をかけたようにござるな」
犬田は、自分の非を理解し、横島が間接的にであれ自分を助けてくれた事も理解したらしい。
 折り目正しく、頭を下げる。
「アンタの為じゃない」
横島は、自分まで痛い目で見られるのがヤで逃げた、などとは口が裂けても言えず、とりあえず適当に誤魔化す。 
「それより、どういうことだい?俺と立ち合いたい、って?」
「拙者、この度犬塚シロと見合いをいたすことと相成った」
「み、見合い?」
横島は犬田の唐突な言葉に、耳を疑う。
「左様にござる」
犬田はあくまで慇懃に、対応する。
「お、お見合いっつったって、即結婚とかそういう問題じゃないよな?あいつにだって断る権利はあるわけだし」
「それは人の場合にござろう?人狼族において見合いとはすなわち、婚姻のための引き合わせという意味合いが強いでござる。何より、里の女子に見合いを断ることなど出来ぬ。そういうしきたりゆえにな」
「で、あんたは懇切丁寧そのことを俺に伝えに来ただけか?違うんだろうな。俺に何をしろと」
横島の顔が、驚きから別のものへと変わる。
 それがどういうことなのか、犬田にはいまいち理解できなかった。
 否、理解する気など毛頭ない。
「何、至極簡単なこと。シロめを説得していただきたいだけのことにござる」
いささか語気を強めながら、犬田。
 頼み事というより、脅迫に近い。
「里へ帰ってさっさと結婚しちまえってか?」
「その通りにござる」
「やなこった、といったら、腰にしたもん抜き放つんだろうなぁ」
「御意」
 瞬間、犬田の刀が閃光を放ちながら鞘走る。
 青白い輝きが、手すりにもたれていた横島の首めがけて突き進む。
 だが、横島も心得たもので、地を這うようにして横に回りこむと、すぐさま栄光の手をもって、その抜き打ちを叩き落す。

叩き落された刃はコンクリートの床へ一寸ばかりめり込み、

「絡め手や不意打ちは俺の十八番だからな。当然、対処法だって弁えてらぁ」

叩き落した刃は、犬田ののど元へと突きつけられていた。
 
 たった一合。
 
 それですべてが決まったことに、犬田は愕然とする。
「つ、強い」
「シロに比べりゃずいぶんと遅いし、なにより馬鹿正直で丁寧するんだよ」
横島は栄光の手を引っ込めながら、忠告までしてみせる。
「本気で殺るつもりなら、闇にまぎれるぐらいしないとな。もっとも、人狼の者にそんなことは出来やしないんだろうけど」

「ふぁっはっはっはっは。見事、見事じゃ、横島殿。里で十指に入る使い手を赤子のように捻りおったか。やはり、大した仁にござったな」
そのとき、いずこから現れたのか、長老が二人の間に割ってはいり、ぱちぱちと手をたたいてみせる。
「長老、どうしてここに。手出しは無用、と申し上げたはず?」
「手出しも何も、決着はついておろうに。久しいな、横島殿」
犬田の言葉を軽く流し、横島へ向き直る長老。
「その節はどーも。で、あんたもシロに見合いしろって言う口かい」
横島は挨拶もそこそこに、貫き通すような鋭い視線を長老へと向ける。
 横島は怒っていた。
 シロを連れ帰ろうとする長老たちに対してもそうであったが、何より自分の愚かさに、軽薄さに対して。
 もう少しまじめな男だったら、もう少し考えてからしゃべる頭があったら、シロを怒らせることも、悲しい顔をさせることもなかったのだろうと。
 そんな、素っ裸の感情がそのまま目に乗り移っていた。
「そうじゃよ。すでに美神殿とシロにはその旨伝えておる」
「じゃあ何で、こいつをけしかけるような真似をしたんだよ?」
「後顧の憂いを断つため、では、いかぬかな」
長老は、つぃ、と横島から離れつつ、言う。
「俺を殺して、諦めさせようってのか?」
「殺すわけではない。ただ、人狼のメスはより強きものに惹かれるものゆえにな、この犬田がおぬし以上の兵であるとなれば、シロも素直になつき従おうと、思うたわけよ」
「なるほど。その考えからいくと、俺は間違ってもシロに惚れられない、ってことになるな」
「何ゆえ」
横島は、薄ら笑いを浮かべながら、長老と、犬田の後ろに、目線を移す。
「本人に、聞けばいいさ」
 そこには、息を切らせ、肩で息をする、シロの姿があった。

「拙者の知ってる先生は、馬鹿でスケベでいい加減で、貧乏性の渋ちんで、その上根性なしの節操なしにござる。おまけに場の空気も読めずに、うっかり口を滑らす癖まであるという、とんでもはずかしー男にござる」
シロは、自分の知る限りの横島を、淡々と語る。
「シロか。何しに参った。別れの挨拶は済んだか」
長老は、ギロリ、とシロをにらみつけた。
 犬田はそれを見て、ひれ伏すだろうと思ったが、シロはその視線を平然と、受け流す。
「けど、誰よりも勇気があって、やさしい人で」
「止めよ」
先の言葉が読めたか、犬田が威嚇するが。
「やめぬでござるよ。切りたくば、切られればよろしい。裏切り者というのなら、裏切り者で結構。
 拙者は、そんな横島殿が好きにござる。美神どのよりも、おキヌちゃんよりも、タマモよりも。拙者の一生涯において、横島殿ただ一人と思えるほどに」
シロは、何の臆面もなく、言い切った。犬田の顔が怒りで真っ赤に燃え上がり、犬歯をむき出しにするが、相手にすらしない。ただ、横島の、いつの間にか浮かべた、優しい微笑を見つめかえす。
「シロ……」
横島はシロの告白を聞いて、内心、飛び上がりたいほど嬉しかったが、顔には出さなかった。
 むしろ、くるりと顔をなでて笑みを消すと、全く真逆な言葉を吐き捨てる。
「あのなぁ、ガキのお前に告白されたって、うれしくねーよ、ぜんぜん。むしろ迷惑だ。なによりお前のせいでこんな厄介ごとに巻き込まれたわけだし。ったく、お前は俺に迷惑かけることしか知らんのか?」
「うそつき」
道化る横島に、シロが言う。
「うそじゃねぇよ」
「うそつき!!」
シロは、横島の手をとり、やさしく包み込む。
 見る間に、シロの手のひらを伝って、赤い血があふれる。
 手のひらの皮を突き破り、肉が裂けるほど、横島の拳は強く握り締められていた。
 心の中のソロへの思いが、硬く硬く込められるかのように。
「ば、ばか、これはだな、ちょっと料理なんぞをして手を切っちまっただけで」
「先生はそんな不器用じゃないでござろうが。馬鹿だけど」 
「ああ、馬鹿だよ」
横島は、口にしながら、どんどん瞳を暗くしていく。
 幸せになってほしい、と思う。
 今なら、わかる。自分はシロに惚れているのだ。誰よりも、この犬田なんかより遥かに。 
 そばにいたい。笑ってほしい。一緒に飯を食って、どこかにでかけて、一緒に寝て、それだけで十分なほど。
 だから。
「だからおれは、お前なんかきらいだ。さっさと嫁にいっちめー」 
吐きたくもない言葉を、口にする。幸せにするために。
 自己不振の塊のような男。だからこその、言葉。
「馬鹿!」
シロは、怒鳴った。
「やかましい!」
横島の怒鳴り返す。
「馬鹿!」
繰り返す。
「しつこい!」
繰り返す。
「馬鹿!」
繰り返す。
「いいかげんに」
「ばか!馬鹿、大馬鹿、すけべ!根性なし!貧乏人!けち!」
繰り返し、罵る。
「しやがれ!くそ犬が!」
「犬でもいい!犬でもいいから!……そんな悲しい顔、しないでくだされ」
シロが、泣いた。
 横島が、怖い。怖いくらいに悲しい。腹のそこからぞわぞわとしたものがわきあがってくるいやな感覚に、身震いする。
 このまま横島が溶けてなくなってしまうと、本気で思った。
「こ、こら泣くな、みっともないだろが」
泣かすつもりなどなかった横島が、慌てふためく。
「拙者がきらいなら、きらいでいいから。付き合いたくないならそれでもいいから、だから、わらってよぉ、やだよぉ、そんな先生、やだよぉ、そんな悲しい顔、やでござるよぉ!」
横島の胸にしがみついて、恥も外聞もなく喚き散らすシロ。
 告白のことなど、どうでも良かった。
 ただ、自分のせいで横島の優しい笑みが失われるのが、ただ、ただ怖かった。
 愛している。誰よりも。

 だから。自分がいるから悲しいのなら、さよならしてもいいと、シロは、思った。
 
 お互いの心は、今はっきりと繋がっている。
 いかに鈍感な横島でも、分かり過ぎるほど。
 言葉はうそつきだ。真実はなかなか語ってくれないと言うけれど。
 本当の言葉は、真実を教えてくれるらしい。

「俺は、ほんとーに馬鹿、だよなぁ……」
 頭をバリバリとかきながら、ぼやく。
 分かっていたのだ。こうなることぐらいは。
 勇気が足りない。根性が足りない。覚悟が足りない。力が足りない。知性も足りない。理性も金も足りない。
 足りないもの尽くしの自分。
 こんな馬鹿には、人を愛する資格などないのだと思っていた自分。
 
 でも、肌に感じる温かみが、風に流れる香りが。零れた吐息すら。
 何よりも、いとおしい。

 いとおしさが、全身を焼ききり、心の中のわだかまりも、燃やし尽くす。
 紅い炎に映された蛍が、祝福するようにくるりくるりと空を舞う。


『ばかね、ほんと』 


「ああ、馬鹿だよ、ほんと」  
横島は、それきり黙って、シロをやさしく、包み込むように抱きしめた。
 

「ふう、こりゃ、いかん」
長老は、横島に抱きしめられて、顔を真っ赤にしているシロを見ながら、ため息混じりに言う。
「いかんいかん。こりゃ、どーしようもない。もしやと思って試しては見たが、やはり時すでに遅しよ」
だが、ため息を漏らしている割には、妙に明るい。
「おぬしじゃ、無理」
「はっ?」
急に話を振られた犬田が、ぽかんと口を開ける。
「じゃからおぬしじゃ、無理。あきらめよ」
「どういうことにござる?」
「あの二人を引き裂くことなど、出来ぬ」
「されど、人狼族の掟は掟にござろう。女子は里にて嫁ぐ、長年守られてきた掟にござる。それを破りし者には」
「死、あるのみ、か。されば、今ここでシロのやつを殺してみせよ」
長老は、さ、今なら出来るじゃろう、と、促す。
 促され、犬田は侮られまいと、愛刀の柄を握りなおしたが、だがしかし、犬田は、足の指一つ動かせなかった。
 シロを抱きしめたままの横島の眼光が、犬田を貫き通したのだ。
 すさまじい意志が、犬田の神経を蹂躙し、それだけで犬田は腰を抜かしかけた。
 シロが異変に気がつきわずかに顔を上げるが、横島はほほえんで、頭をなでる。
(ああ、そうか。おキヌ殿の言葉、ようやく……)
横島の微笑みが、暖かく、やさしく、そして強い…雄の顔に見えた。

「この拙者が、たかが一睨みで腰を引くとは」
犬田は、震える尾を隠そうともせずに、言った。
「あれもまた、横島殿ということよ。ひとたび腹を据えれば、己が命すら厭わぬ。愛し愛されることを知り、其れを守らんと欲す、雄の顔よ」
「今、一太刀浴びせておったら、拙者は、なますのごとく切り殺されたでござろうな」
「それすらも、叶わぬよ。いや、それほど浅い男であったら、こんな苦労は……いや、なんでもない。
 さて、犬田よ。わしは横島殿にもうひとつ二つ、話があるゆえな。先に帰るがいい」
犬田は、長老の言葉にひとつ小さくうなづくと、一瞬、名残惜しげにシロを見た。
 シロはその視線に気がついたが、あえて振り返ることも、声をかける事もしない。横島もまた同じだった。
「ご両名には、大変失礼致した」
犬田は、二人に軽く頭を下げると、後はそのまま消えた。

 長老は、いまだ離れようとしない横島とシロの元へつかつかと歩み寄ると、にやり、と笑う。
 堀の深い、威厳ある面構えからは想像も出来ない、愛嬌のある笑みだった。
 まるでこうなることを望んでいたかのような顔に、横島は苦笑いを浮かべる。
「とんでもない爺さんだな」
「ほっほっほ、何とでもいえ。わしだっていろいろ大変なのじゃ」
「どういうことにござる?」
二人の会話が理解できず、シロは小さく首を傾げる。
「お前は知らんでいい。これは大人の会話なのだ」
「そういうこと」
横島と長老は、顔を見合わせ、呵呵大笑する。
「何でござるか、二人して拙者をのけ者にしようと言うのでござるか?」
「怒るな怒るな」
長老は、髯を扱きながら、シロをなだめ、
「では、な。わしも去ろうとするか。それとな、横島殿」
「あん?」
「祝言はわが里にて執り行うでな」
長老の、半ば茶化したような言葉に、茶化されてると知りつつも横島は慌てる。
「い、いや、その、その件につきましては、まだちょっとまっていただけないかと」
「えー!」
シロは、猛然と抗議するが、横島は、
「だってなおまえ、俺まだまともな稼ぎがあるわけでもねーし、第一あの美神さんがなんていうか」
必死に言い訳を探しつつ、どうにかごまかそうとする。
「そのことに関しては心配ござらぬ。拙者ら二人とも、クビだから」
「クビ?」
「解雇、もしくはリストラとも言うでござるな」
目を点にする横島に、詳しく説明してあげるシロ。
「うぇぇぇぇえ?ど、どないしよ、明日からどうやってくっていけちゅうんじゃぁ?貯金なんぞ一銭もねーし、今月の家賃だってまだ払ってねーんだぞ!退職金なんてぜってーもらえんだろし、うああああ、どーなーいーしーよー」
(あー、どーせこんなことだろうと思ったでござるが、やっぱり、情けないでござるな〜)
シロは苦悶する横島を見ながら半ば呆れ、やっぱり犬田殿に嫁いだほうが良かったかなと、一瞬考えもしたが、
(でも、大丈夫。横島殿も拙者も、もう一人じゃないんだから)
「あはははは、情けないでござるな〜。拙者なんかクビになったってこんなに元気♪」
素直に、笑った。
 それで、十分、心からそう思える自分に気がつきより大きな声で笑った。
「あーあ、お前は能天気でいいよ」
横島は、呆れたような、うらやましいような顔をすると、不意に腹の辺りをなでた。

くぅうう。

「あはは、腹の虫が鳴いているでござる」
まさに間近にいるシロには、自分のことのように。

くぅうううぐう。

「あっはっはっは、お前もだろが」
「い、いや、その、これはその」
いかに愛する人にとはいえ、腹の虫のやつを聞かれて、シロは顔を真っ赤にする。
「いまさらそれぐらいで照れるなよ。お互いこれからいやんなるほど聞くんだろしさ。とりあえず、飯にしよか。後のことは、また後で考えりゃいいや」
横島は、ぽんぽん、とシロの頭をたたくと、会心の笑みを浮かべ。
「そうでござるな。ゆっくり、歩いてゆけばいいでござるな」
シロもつられて、さわやかでやさしい風のように笑んだ。
 後編、辛うじて完結です。
 
 内容の浅さがにじむ点も多々あり、見苦しいかと思いますが、なんとか赦していただきたいです。

 本当はもう少しいろいろ織り込むつもり(たとえば令子に貰ったお金の件とか、人狼一族で何があったか、など)だったのですが、全体的な雰囲気を損ないそうなため削除しました。けど、かえって言葉足らずになっているかも。
 
 まだまだ精進あるのみ、ですね。
 
 最後に。
 つたない拙作にコメントを下さった、とおり様 ししぃ様、ちくわぶさま、akiさまに謝意を。

 読者様は神様です。

 

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