21558

のつぼ=カンタービレ

『のつぼ=カンタービレ』




「スペペ茸っすか?」

「ええ…」

相変わらず散らかっている横島の部屋で、居心地が悪そうにもじもじと手にした缶コーヒーを玩んでいるのはGSにして料理店のオーナー。
現代の魔女 魔鈴めぐみ。
もともと清潔好きな彼女にとってこの男臭さが沁み込んだ部屋はやはり肌に合わないらしく、勧められた座布団から微妙に腰を浮かせている。
横島だってバカではない。
彼女のような美女が訪ねてくると前もって知っていたなら、拙いなりに掃除の一つもしていただろうが、突然前触れも無く尋ねてこられてはそれも叶わない。
せめても気持ちとして珍しくも買い置きしていた缶コーヒーを差し出すだけだ。

「それを一緒に採りに行って欲しいってことっすよね」

「はい。日本では珍しいキノコなんですが、とある伝手で生えている場所がわかったもので…前から一回調理してみたいなと思っていたんですよ」

魔鈴の説明によれば魔法料理の材料としてもかなり高級なものらしい。
それをどうしてもクリスマスのディナーに使ってみたいのだと彼女は力説する。
もちろん横島はこんな美女に頼まれて嫌と言えるような男じゃない。
ましてや事務所の月給に匹敵する日当を提示されたのだから断るという選択肢など端から存在するはずもなかった。

「でもどうして俺なんすか?」

「山…とは言っても登山とかそういうのじゃないんですけど、やっぱり一人だと怖いものでして…」

少女のように頬を染め、体を縮める魔鈴の姿はなんだか自分と同年代のように見え、横島は心の中で「萌え」と呟いた。
年上のお姉さんのはにかむ姿にまた一つ属性が目覚めたらしい。
だけど彼女の言うのももっともだった。
秋と冬の丁度境目のこの時期の山は危険が多い。
GSであるとは言っても、その除霊スタイルから荒事とは程遠い彼女の白い手を見れば一人でキノコ採りに行くのは不安で仕方ないのだろう。
ちょっとした邪霊、妖怪の類は何とか出来ても冬眠し損ねたクマにでも出会えば、そのままお弁当としてお持ち帰りされてしまいかねない。
それにしてもなぜ自分を選ぶのか?
こんな大事な食材の確保のためのパートナーに俺を選ぶということはもしかしたらこの美人のお姉さんは俺に気があるのか?実はキノコ採りとは口実で遠まわしなデートの誘いなのでは…

「あ、それはありません。横島さんってこういうの慣れているし荷物とかいっぱいもてそうだからですよ」

「止めてっ! 心を読まないでっ!!」

口に出した覚えは無かったがあっさりと否定する魔鈴。
さすがは魔女。人の心を読むなどお手の物。

「顔に書いてますけど」

慌てて鏡を見たが鼻の下を伸ばしたニヤケ面があるだけで、文字などどこにも書かれてなかった。








彼女の箒で空を飛ぶこと数時間。
いい加減、凍りそうになりながらも横島が持ちこたえたのは防寒着越しでもわかる美女のスタイルを堪能していたからだ。
途中で落ちないようにと腰に回していた手がより掴みやすそうな膨らみを求めて移動しては、パラシュート無しでのスカイダイビングをさせられそうになったことは何度かあったものの何とか無事に魔鈴の言う目的地にたどり着くことができた。

「ここは?」

「廃村ですね」

確かにあちこちに見えるのは人の手を失ったものばかり。
雑草に覆われた畑の跡。
崩れかけた家。
腐り始めた橋などこの村が打ち捨てられたものであるとまざまざと見せ付けてくれる。
かつては雑貨屋だったのか手近にある一軒の前には今は見ることもなくなった鋳造のポストが蔓草に絡まれて傾いている。

「間違いないです。人を嫌うスペペ茸はこういう場所に生えるんですよ」

「はあ…」

「えーと…あぜ道の脇ってどの辺かしら?」

「あの辺りじゃないっすか?」

前の夜にでも降ったのか薄っすら積もった雪に覆われ、少し盛り上がっている場所を横島が示す。確かに彼が言うとおりかっては畑だったと思しき平たい場所の横をその盛り上がりは真っ直ぐに奥へと続いていた。

「あ、そうです! あそこにあります!」

スペペ茸とやらがよくわからない横島を放り出し、よほど目的の物が見つかって嬉しかったのか魔鈴は大好きなお菓子を見つけた子供のように走り出した。
それが彼女をとてつもない窮地に陥れることになるとも知らずに。



ところで読者諸兄は「野壷」というものを知っておられるだろうか。
まだ高度経済成長が地方まで行き届かなかった昭和の時代、畑の横には人が生産する有機肥料を貯めておく穴があった。
地面に穴を掘り、簡易な木の板で蓋をしたそれを人は「野壷」と呼んだ。
だがこの野壷。
雪が降ると凶悪なトラップに変貌すると言う極悪な能力を隠し持っていた。
表面に溜まった水が凍り、そこに雪が積もってしまえば地面との見分けがほとんどつかない落とし穴へと変身するのである。
その破壊力は内在する臭気とともに凄まじく、犠牲者を圧倒的な臭気で一瞬で気絶に追い込み、しかも凶悪な精神的ダメージもおまけしてくれると言うまさに死のトラップ。
その記憶は四半世紀たっても時々フラッシュバックを引き起こす。
それが野壷の真の恐ろしさである。
落ちた本人が言うのだから間違いない。



さて放棄されたこの廃村にはそんな凶悪無比なトラップがまだ現役で残っていたである。

先を走る魔鈴の姿が一瞬で掻き消え、驚いた横島が走り寄ってみると雑草の中で彼女のトレードマークの帽子が彼の膝ぐらいのところで頼りなげに揺れている。
「魔鈴さん!?」と声を上げた瞬間に鼻腔を蹂躙する圧倒的な臭気に横島はむせた。
臭気は鼻や喉だけでなく目にも容赦なく攻撃をくわえてくるようで、まるで催涙ガスでもくらったかのように目から夥しい涙が溢れてくる。
涙でかすむ視界の中、魔鈴の帽子がユラユラと揺れながら徐々に沈んでいくのが見え、原因はわからぬものの彼女の身によからぬことが起きたことだけは理解できた。

「魔鈴さん返事してください!」

返答が無いことが余計に横島を焦らせる。
もはや逡巡している暇は無いと横島は必死に目を開け、魔鈴を飲み込んでいく泥の中へと手を突っ込み、手探りで彼女の胸を確認すると沸きあがった煩悩を力に変え、ぐったりとしている彼女を一気に引き上げた。

よほど力が入ったのか二人はそのまま畑へと一メートルほど転げ落ちたが、横島が人を抱えながら受身をとるという離れ業をこなしたおかげでそれほどのダメージは受けなかった。
ほっと一息ついた途端に鼻を襲う異臭に一瞬飛びそうになる意識を必死に繋ぎとめ、横島は白目剥いて気絶している魔鈴の頬をペチペチと叩こうとして手を止める。
神様も彼女の美貌を汚すことを嫌ったのか奇跡的に一滴の飛沫もついていない彼女の頬を自分が汚すのはどうにも気が引ける。
仕方なく路傍で枯れていたヨモギを折り取ってそれで彼女の白い頬をツンツンとしてみれば、「うーーーーーん」とやたら苦しそうながらも反応があり横島は安堵した。
命には別状がなかったことだけでも幸いだろう。

「とにかくなんとかしなきゃなあ…」

言ってはみたもののここは廃村。
廃屋はあっても人家などない。
川の水で体と衣服を洗おうにも、ところどころ凍った川の水は相応に冷たいだろう。
着替えも火もない自分たちにとって助けになるとは思えない。
かといってこのまま東京に帰るというのはあまりに魔鈴が気の毒すぎる。
こういうときに頼みになる文珠は在庫切れだ。
まさかキノコ採りで文珠が必要になるとは思っていなかったのだから今更悔やんでも仕方ない。

「なんとか火だけでも熾せれば…」

未成年の横島はマッチもライターも持っていないが、魔女の魔鈴なら発火の術ぐらい仕えるかも知れない。
なにか燃やすものが無いかと辺りを見回す横島の耳に奇妙な音が聞こえてくる。
はっきりとは聞こえなかったが、木が軋む様な、小さな子供の歌声のようなその音は廃村の中心あたりから響いてきた。

誰も居ないはずの村の中で途切れ途切れに聞こえる音。
それが歌うように誘うように横島を招く。
良くないものの気配なのか、はたまた違うのか横島には区別がつかない。
誘われてみるべきかどうかと考えこむが、後ろで魔鈴の「けほけほ」と咳き込む声が聞こえたことで迷うのをやめた。
ここに留まったところで状況はよくはならないのだ。
仮に妖怪の類がいたとしても話が通じないとも限らないではないか。

そして横島は気絶しながら「けほけほ」と咽ている魔鈴を背負うと、音が聞こえた方へと歩き出す。
どこかで森へ帰るカラスが鳴いたような気がした。






途切れ途切れに聞こえる音に誘われて横島がたどり着いたのは一軒の廃屋だった。
ここに来るまで見てきた廃屋は朽ちて崩れていたが不思議なことにこの家だけは原型を保っていた。
それでも人の住んでいる気配はない。
外れかけた門扉が風に揺れてキイキイと軋んだ音を立てているだけである。

「なんだ…この音か…」

種が割れてしまえばなんてことはなかった。
だが天の助けか壊れかけた門扉の向こうにある廃屋は廃屋とはいえ他の建物よりも随分とマシに見える。
念のためにと何度か戸口で中に声をかけてみたが反応は無い。
やはり廃屋で間違いはないようである。
風さえしのげれば古材にはことかかない廃村のこと。
火を熾すことも出来るだろうと横島は軋む引き戸を開けて中へと入り込んだ。

もう日も落ちかけている山の中の廃屋ゆえに中は相当暗いかと思いきや、天窓があるのか赤く色づいた日の光が差し込んで思いのほか明るい。
誘われるように見渡せば玄関だと思って自分が立っていたのはむき出しの土の上。
奥には上りがまちがある。
おキヌでも居たならここが昔の農家によく見られた土間という場所だと教えてくれただろうが、都会人の横島にはよくわからなかった。
それでもいくら廃屋とはいえ、今の自分たちの姿のまま屋内に踏み込むよりは心理的に楽である。
とりあえず土の床に背負っていた魔鈴を横たえ何か無いかと見回せば、土間の片隅にほどよく干されていた藁束がいくつか置いてあることに気がついた。
手にしてみれば干草独特の香りが舞い上がり、一瞬だけ自分たちの体からのぼる異臭を忘れさせてくれる。

とりあえずいくつかの藁束を抱えてまだ気絶している魔鈴のところに戻ると彼女の体についた汚れを擦り落す。
服の中にまで沁み込んだものは洗濯しない限りは無理だろうが、それでも大まかな汚れを落せただけでも良しとせねばならない。
火も着替えもないのだから、服を脱がせるわけにはいかなかった。

「くそっ! 俺はなんで女物の服を持ってこんかったんやっ!! そうすれば合法的に美女の生着替えをこの手でっ!!」

今更、嘆いても遅い。
というか普通の常識では女性の着替え一式を持って歩いている方が異常だが、目先の煩悩に目が眩んでいる横島にとっては世間の常識は自分の非常識である。
ギリギリと歯噛みしながらも残った藁で自分の泥を落とし、少しだけ余裕が出たところでもう一度辺りを見回す。

「とにかく火だけでも熾さなきゃ…ん?」

一段高くなっている上りがまちの奥、部屋の中央には四角く区切られた場所がある。
それが囲炉裏と呼ばれる場所だということぐらい横島でも知っていた。
もっともその上にぶら下がっているのが自在鉤というものだということまではわからなかったが、今は囲炉裏があるだけで充分だった。
ちょっと外に出れば燃やすものはいくらでもある。

「でもマッチもライターも…そっか霊波刀で擦れば火ぐらいは熾せるかも…」

それが駄目でも魔鈴なら何とかできるかもと思いながら、あがってみれば囲炉裏の横にはほどよく切りそろえられ小さく積まれた薪の束があった。
その横には親切なことに燃えやすそうな柴、それに古めかしい徳用マッチが置いてある。
試しに一本擦ってみたらくっきりとオレンジ色の輝きを放ちながらマッチは燃え上がった。

「お。ラッキー!」

ここまであれば横島にとって囲炉裏に火を熾すなど簡単なこと。
伊達に美神に色々と引っ張りまわされているわけではない。
アウトドアの技能は同年代の男を遥かに凌駕している。
屋外での焚き火よりよっぽど楽と言うものだ。

パチパチと木の爆ぜる音が落ち着き始め、もう消えてしまうことはないだろうと思った横島はまだ気絶したまま、藁に包まってまるで出来損ないの蓑虫になっている魔鈴を抱きかかえると火のそばに寝かせる。
これで少なくとも寒さはしのげるはずだが、いつまでも異臭のこびりついた服を着せているわけにもいかない。
熱に晒されればまた異臭が酷くなるのは目に見えていた。

「ちょっと探検しますか…」

誰にとも無く呟くと横島は奥の間へ続く戸へと向かった。








それから10分ほどして横島が両手に一杯なにかを抱えて戻ってくると、魔鈴が「けほけほ」と咳き込みながら意識を取り戻しはじめていた。

「う………」

意識が戻った拍子にまた息を吸い込んだのか激しく咽る魔鈴に横島は手にしていた荷物を放り捨てて一目散に駆け寄ると背中を軽く叩いてやる。
なんどか叩いているうちに彼女の頭もはっきりしてきたのだろう。
弱々しく自分を見つめている彼女と目があった。

「あの…横島さん…ここは?」

「えーと…壊れた家の中っす」

「あの…私…どうしたんですか?」

どうやらあまりのショックに記憶がとんだらしい。
まあ当然だろう。
魔鈴めぐみは美女である。
その美貌を目当てに来店する客は多い。
地元の商店街では密かに「めぐみちゃんフアンクラブ」なるものが結成され、彼女を口説こうとした不埒な客が三角頭巾の黒集団に襲われ、後日夢の島で粗大ゴミに土下座し続けているところを発見されたという噂もあるぐらいだ。
そんな美女にとって「野壷に嵌まりました」なんて出来事は記憶に残すだけでも辛かろう。
ここで彼女に真実を告げることが正しいかどうかなんて横島でなくても悩む。

「あー…んー…」

「?」

「魔鈴さんは野壷に落ち…「いやぁぁぁぁぁ!! 聞きたくないぃぃぃ!!」 …ぬおっ!」

「嘘ですよね!? 夢ですよね!?」

やはり記憶からは完全に抹消し切れなかったか取り乱す魔鈴。
だがここまで言ってしまっては誤魔化すのはかえって精神衛生上良くない。
それにどう言葉で誤魔化そうとしても、蓑虫よろしく身に纏った藁の下の服にはあの痕跡がまざまざと残っていて異臭を放っているのだ。

「残念ながら…」

「嘘よぉぉぉぉ! ほ、本当の私は今頃、おこたの中で番茶飲みながら「どうぶつ驚天動地」を見ているはずなのーーーー!!」

「ああああ…魔鈴さんが美神さんみたいに壊れていく…って今はそれどこじゃないっす! 魔鈴さんこれに着替えてっ!」

「はえ?」

横島が手渡したのは季節外れの浴衣が二着。
紫色に菊をあしらったものと水色に楓の葉を散らせたもの。
両方とも古い作りではあるが、よほど大切にしまわれていたのか汚れているというわけではない。
この時期に浴衣なんて寒そうだけど、少なくとも蓑虫なんかよりは遥かにマシである。

「いくらなんでもその格好は気の毒すぎますから…」

目を逸らす横島に疑問の視線を投げかけつつ自分の体を眺め、蓑虫か出来損ないの子泣きじじぃのような姿を見てしまえば彼女に逃げ場は無かった。
もう現実を ─現実と言うにはあまりに残酷ではあるが─ 受け入れるしかなくなった彼女の頭ががくりと落ち、口から漏れた力の無い返答が宙に溶けていく。

「………はい……」

萎れた蓑虫と言うのもラブリーだった。







部屋の隅で着替える魔鈴に背を向け、正座した膝を血が出てもおかしくないほど渾身の力で握り締めながら何かの衝動に耐える横島。
文珠があれば迷わず『鏡』か『覗』をつかっただろう。
今振り向けば文珠の一個ぐらい楽に作れる煩悩が溜まるのは間違いないが、それは所謂卵とニワトリ。
こっそり振り向こうとすれば、薪が唸りを上げて飛んできて頬を掠めていくから必死に耐えているのだ。
横島のそばに落ちている薪は4本。
だんだん精度が上がってきている弾丸は次こそ確実に頭に突き刺さるだろう。さすがにまだ命は惜しかった。
やがてそんな拷問にも似た時間も終わりがくる。
衣擦れの音が止み、「ほふう」と重たい溜め息の後に魔鈴が着替えが終わったと告げてきた。
色々な無念をかみ殺し、血の涙を流しつつ振り向いた横島の目が驚きのまま見開かれて固まる。
そこには普段の魔女ルックとはまったく印象の違う和風美女が恥ずかしげに佇んでいた。

「………もしかして変ですか?」

「似合ってるっすよ! すっげー綺麗ですっ!」

「そ、そうですか…」

浴衣姿を人前に晒したことなど滅多に無い彼女にとってこの一言は素直に嬉しかった。
知らずに押さえた頬が熱い。
その熱がまたさらに頬に血を上らせる。
今、口を開いたら上ずった声が出そうで折角の横島の賞賛に対してお礼の言葉も出てこない。
無言の時間。
ただ古い家の軋む音が子供の笑い声のように囲炉裏を挟んで立ち尽くす男女の間を通り抜けていく。
黙っていれば心臓の鼓動が高まるのさえ聞かれそうで魔鈴がそっと胸を押さえた時、耐え切れなくなったか横島が沈黙を破った。

「あ…あの…」

「は、はひっ!」

やっぱり上ずった。
そのことがまた心臓に急活動を強いる。

「なんでしょうか?」

「いや…あのですね…浴衣の下って下着をつけないって本当ですか?」

五本目の薪は横島の眉間に着弾した。





とりあえず浴衣に着替えてやっと二人は落ち着きを取り戻し始めた。
まだ体からほんのりと異臭が漂ってくる気もするが、それでもあんな服を着続けるよりマシである。
こんな忘れられた廃村で贅沢言っても仕方ない。
それにしても廃村なのにこんな浴衣なんてどこから調達したのかの方が魔鈴には気になった。
もしかして文珠で作り出したものだとしたら、いつ何時消えてなくなるか知れたもんじゃない。

「……こんなのどこにあったんですか?」

「それが奥の箪笥に入っていたんですよ…」

「横島さん…ついに空き巣に…」

「だーーーーっ! 違います! ちゃんと呼んでみたし窓から外も見たけどこの家にも村にも人っ子一人いないんすよ! だからこれはきっと前の住人が置いていったものです!」

「そ、そうですか……そうですね。ありがたく使わせてもらいましょう…」

「本当は風呂とかも沸かせればいいんですけど…」

「さすがにそれは贅沢かと…」

「いえ…風呂はあったんですけど…」

「ではなにが?」

「水か出ないんですよ…ポンプは見つけたんだけどなー」

「ポンプですか?」

「ええ。こう手でレバーをギッコンバッタンする奴っす。前にテレビで見た時は威勢良く水が出ていたんですけど…」

「呼び水はしました?」

「呼び水ですか?」

「ええ。手押しポンプは最初にポンプの頭に少しだけ水を入れないと駄目なんですよ…」

魔鈴に促され台所に行ってみて言われるままに近くの瓶に残っていた水を柄杓でポンプの頭に注ぎ、レバーを動かしてみれば確かに水がこんこんと溢れ出す。
これならお風呂も何とかなりそうだ。

「へー。知らんかった…よく知ってましたね魔鈴さん」

「そうですか? 私が子供の頃は珍しくも無かったですけど……って…あの…なんかその私を見る目が凄く気になるんですが…?」

「実は魔鈴さんって結構年とってませんか? 魔女だから若く見えるとか?」

「そ、そんなことないですっ!!」

「そもさん!!」

「せ、せっぱ!」

「カレーライスやシチューを食べる時に使うのは?!」

「さじ!」

「ズボンを固定する皮製の道具は?!」

「バンド!」

「Bといえば?!」

「29!」

「欲しがりません!」

「勝つまでは!」


微妙な沈黙が辺りを覆う。
なんとも気まずい空気に冬眠を忘れたカマドウマが慌てて逃げ出し、横島が「ふー」と大きく息を吐くと肩をすくめた。

「………………………………やっぱり…」

「な、なにがやっぱりなんですかぁぁぁ!?」

「いや…いいんすよ…俺…誰にも言いませんから…」

「違うの! 私は子供の頃、お婆ちゃん子で! それでいつもお婆ちゃんから昔の話を聞かされていたからつい!」

「あー。はいはい…」

「お願いっ! 信じてー!!」

「安心してください! 魔鈴さんが実は戦中派でも俺はかまわんです。見た目若くて美人だと言うことが全てやないですか!」

「戦中派って昭和一桁?! ち、違いますってば!」

「そんなことより水が出たからには風呂を沸かしませんか? この横が風呂場みたいですよ」

「すでにそんなこと扱いですかっ!? ああああ…なんだかどんどん既成事実になっていくぅ…………ってお風呂?」

「ええ…さすがにお互いこのままじゃまずいでしょ? 洗濯もしなきゃ無いし」

「そ、そうですね」

「大丈夫っすよ! ちゃんと労わりますから!」

「ひえぇ! なんかナチュラルにめちゃくちゃ年上扱いされてるぅ!」

「んじゃ準備しますから囲炉裏で暖まっててください…」

「あうう…違うのに……」

ぐったりと肩を落とす魔鈴を先ほどのカマドウマが物陰から優しく見守っていた。








寒い時の風呂とは実に良いものだ。
体は勿論、心まで温めてくれる。
まさに風呂は文化の極みと言っても過言ではない。

そして今、薄幸の美女が一人、湯船に鼻までつかっていた。
口もとでブクブクと泡が立っているのが子供っぽい。
昔風の風呂とはいえ五右衛門風呂のように直接釜を温めるものじゃなく、二つある釜の一つで沸かしたお湯をもう片方に移すというタイプなので湯加減も熱くなりすぎることもなく、湯気越しに格子の窓から見える美しい冬の星座を堪能することが出来る。
これが温泉の風呂場なら鼻歌の一つも出て不思議ではない。
にも関わらず彼女は文字通り湯船の中で浮き沈みを繰り返していた。

「……魔鈴さーん。洗濯終わりましたー」

「は、はびっ! ぶがごほげほっ!」

湯の中に口をつけたまま返事をしようとすれば人間の構造上当然咽る。
今の彼女のように。

「大丈夫っすか!」

「大丈夫でふ!」

格子窓の向こうで慌てる横島にこっちも慌てて何でもないと伝えると安堵の気配が伝わってきた。

「湯加減はどうですかー?」

「いいですー」

「んじゃ洗濯物干してきますー」

「はーい」

横島の足音が遠ざかり、魔鈴は再び湯に沈んだ。
解いた髪が湯の中で漂うのをぼんやりと目で追いながら、複雑な思いを泡にして吐き出してみる。

そもそもだ。
自分の下着を他人に、しかも年下の男の子に洗ってもらうなんて、彼女にしてみれば穴があったら埋まってしまいたいぐらいに恥ずかしいのだ。
穴はなかったからかわりに湯に沈んでみたがそれでどうなると言うわけでもない。
恥ずかしいものは恥ずかしい。
考えるだけでのぼせそうになる。

「これって凄いことですよねぇ…」

確かに考えてみれば年頃になってからウン年、魔女として、GSとして一人立ちするために死に物狂いで突き進んできたのである。
こうも無防備に誰かに面倒をかけるなんてことは無かった。

「でも……」

この空気の心地よさは何だろう。
今までの人生に後悔は無い。魔女にもなれた。店も持てた。経営も順調だ。
でも今感じているような、まるで幼子が親に甘えるような心地よさから離れて久しい。
間違っていたとは思わないが、何かを忘れていたような気がしてくる。
誰かに頼り頼られ ─人はそれを弱さと言うかもしれないけど─ 信頼している相手に全てを委ねることで得られる安息。
それは子供のときの遠い思い出かも知れないけど、それでも確かに彼女の人生の一部だったに違いない。
それを教えてくれたのは他界した祖母だった。
そう言えば祖母が暮らしていたのもこんな田舎だった気がする。

「お婆ちゃん…」

思わず口に出た言葉が胸に沁み、どういうわけかかすかな痛みを伴って彼女の脳に戻ってくる。

「そういえば……なんで横島さんは覗きに来ないのかしら?」

確か以前、西条が言っていた。
「横島君が覗きをすると言うのは物理的な法則なのだそうだ」と。
意味はよくわからなかったが何となくそういうものかと納得したのである。
確かに普段の横島を知るならば彼が覗きをしないとは信じられない。
なのに横島は覗きより洗濯を選んだのである。
素直にありがたいが心がささくれ立つのも事実だった。
先ほどの誘導尋問めいた会話が湯気の向こうにフラッシュバックする。
途端に心を怒りの炎が駆け巡り、彼女は拳を握り締めて立ち上がった。

「もしかして本気で私をお婆ちゃん扱いしてるとか!」

「違いますよ」

「あ、なら良いんですけど………へ?」

格子窓越しに見つめあう目と目。
格子窓の外の目は固まる魔鈴を上から下へと眺め、胸の辺りで二、三秒留まり、そして唐突に消えた。

「へ? へ?」

「しまった…ついうっかり返事を…」

「やっぱ覗いていたんですかぁぁぁ!!」

「違います! 洗濯物を干し終えたと報告に来たついでに…」

「ついでになんですかっ!!」

「覗いてましたっ!」

「ばかものー!!」

「かんにんやー!」

やはり物理法則は間違っていなかったのだった。









「むーーーーーーー」

「いやもうマジすんません…」

湯上り浴衣姿の男女が囲炉裏に向かい合っている光景はまるで何かの寸劇のようにも見える。
背景の心理描写が青筋立てて仁王立ちするレッサーパンダと土下座するハムスターでなければ恋愛劇にも見えるだろうが、実際は抗議する痴漢被害者と土下座して許しを請う痴漢の図である。
色気のないこと夥しい。

「むーーーーーー」

「本当にすんませんしたっ!」

「くーーーーーー」

「許してください………え?」

顔を上げてみればお腹を押さえて真っ赤になっている魔鈴が居る。
どうやら今のは彼女の腹の虫の抗議だったらしい。

「あ、あの! これは!」

「あ、そうそう。さっき下の川でイワナを獲ってきたんすよ。食いませんか?」

「イワナですか? 釣竿も無いのに?」

「ああ…この時期だと石の下で寝てますから、川の中の石に別な石を叩きつけると気絶して浮いてくるんですよ」

「へえー。そうなんですか」

「それで許してはもらえんですか?」

「そうですね…特別に許してあげます……」

囲炉裏の周りに木の枝に刺したイワナを並べてみれば、すぐに香ばしい匂いが家の中に立ち込める。
まだ初冬のこの時期、イワナは丸々と太っていかにもおいしそうだった。
正座して待つことしばし、横島が串焼きの一本を手に取り、確かめてから魔鈴へと手渡す。
フワリと立ち込める匂いに誘われて彼女のお腹がまた「くー」と鳴る。
魔鈴がどれほど大人の女性でも、ここまで恥をかいてしまえば怖いものなど無いという心境になる。
もう体裁など構ってられるか。
どうせ下着は洗われるわ、裸は見られるわと一生分の恥をかきまくったのだ。
今更、腹の虫が鳴ったところで東京タワーの天辺に割り箸を一本立てただけみたいなもんだ。
それにお婆ちゃんも言っていたじゃないか「旅の恥はかき捨て」と。
やはり先人の知恵は偉大なのだ。うんうん。

「ぷっ!」

「え?」

悲しき自己欺瞞を繰り広げていた魔鈴が気がつけば、こちらを見て横島が笑いをこらえていたりする。
もしやまた何か恥をかきましたか私?と冷や汗が背中を流れるがとんと思い当たる節が無かった。

「いやー。魔鈴さんって魚食うとき目を閉じるんですねー」

「は?」

言われて見れば考え事をしてたから目を閉じていたかも知れない。
彼女の小さい時からの癖だった。その方が思考に集中できるのだけど、昔も祖母にもよく笑われたものだった。

「あ、あのですね…これは別に魚に夢中だったとか、その方が味わいが深くなるとかじゃなくてですね…」

「いや…可愛いかったっすよ」

「な!?…………もう知りません!」

自分から目を逸らし、手の中の魚をハムハムと食べる魔鈴を横島は微笑みながら見守っている。
まるで年齢が逆転したかのように感じられて彼女はますます焦った。
イワナの味なんかとうにわからなくなっていた。



「さて…これからどうしましょうか」

お腹がくちくなれば大抵の悩みは消えるものだ。
とりあえず今日の前半の出来事は水に流して…というか記憶の片隅に厳重に封印することにして魔鈴は最後のイワナを齧っている横島に話しかける。
とは言ってもこんなテレビもラジオもない田舎の廃屋。
することなんか限られている。
後は「寝る」しかない。

見れば横島も同じ事を考えたのか微妙に読みにくい表情をしていた。
強いて言えばトラバサミの上に置かれた生肉を前に躊躇しているタヌキに似ている。
なにやら彼女には理解しにくい葛藤があるのだろう。
ならばここは一つ今日一日で失った年上のお姉さんの尊厳を取り戻す時と魔鈴は気合を入れる。

「ごほん…じゃあもう寝ますか?」

何気ない一言がもたらした効果は絶大だった。
横島がいきなり血を吹き上げたのである。
そこに至って彼女は今の自分の発言が失言に属する台詞であると気がついた。
途端に顔に血が上る。
幸いにも鼻血は出なかったがかわりに涙腺が切れそうだった。

「あ! い、いへ! そんな意味ではないでし!」

弁明は見事にかんだ。
それにもし「どんな意味ですか?」と返されたらどうするつもりだ自分!と理性の一部が自分に突っ込みを入れてくる。
もう収拾なんかつきそうにない。
彼女に出来ることは跳ね上がった心臓と出来損ないのエレベーターのように行ったり来たりしている血流をなだめるだけ。
耳まで真っ赤になって下を向く美女と後頭部をトントンと叩きながら堪える少年を囲炉裏の炎が優しく照らす。

「実は…」

「はい…」

「布団が一組しか見つからなかったんです…」

「ええええええっ!」

「にもかかわらずどういうわけか枕は二つ…」

「ひいぃぃぃっ!」

悪夢だった。
まるで誰かが何かの意図を持っているかのようにおあつらえ向きの品が出てくる。
これは世界の呪いだろうか。あるいは宇宙意志の陰謀だろうかと考えてそんなはずは無いと思いなおした。
世界や宇宙意志とか言われる存在がそんなに暇なわけはないだろう。
考えてみればこんな廃屋にまだ着れる浴衣や使える布団が残っていることの方が不自然だ。
まさか何かの罠?と表情を真剣なものにする魔鈴に機嫌を損ねたと勘違いして横島が慌てる。

「あ…心配しないで下さい。俺はここで火の番をしてますから」

「え?」

「いやー。だってまさか魔鈴さんと同じ布団に寝るわけにはいかんでしょ?」

「本音は?」

「寝たいですともっ! こんな美人と一つ布団で朝までヌクヌク。 もしかしたら勢いで乳の片っ方ぐらい揉めるかも知れないじゃないですかっ!」

「あ…血の涙………って揉ませませんよ!!」

「んじゃ先っぽを見るだけでもっ!!」

「それはもっと駄目っ!!」

「だったら俺にどーしろとっ!!」

「私が火の番をしてますから横島さんが寝てください!」

「それは駄目です…だって魔鈴さんは今日、色々と大変だったじゃないですか…野壷とか…」

「うわーーーーーーーん! 思い出させたー!!」

「すんません! とにかく火の番は俺がしますし、なにもしませんから遠慮しないで寝てください!!」

出来たてホヤホヤのトラウマをほじくり出されてしまえば、彼女に抵抗する気力が残ろうはずもない。
気力を使い果たした魔鈴を有耶無耶のうちに用意された布団へと誘うと横島は囲炉裏の反対側で座り込み火に新たな薪をくべはじめた。




薄手の煎餅布団に包まり、横島の方へと向けた背中ごしにパチパチと木の爆ぜる音を聞いていると心が安らいでいく気がする。
しかし睡魔は一向に訪れない。
精神的にも肉体的にも疲れているにも関わらず、意識は針のように研ぎ澄まされている。
横島の気配は囲炉裏の反対側から動いていない。
寝ているわけではないというのは時折聞こえてくる念仏めいた呟きから明らかだった。
何を言っているのかとさらに神経を耳に集中してみれば、横島は必死に素数を数えているらしかった。
彼なりに「なにもしない」という約束を守ろうとしているのだろう。
実際に横島が邪な行動を起こしたとしても何とかする自信はあったが、それでも大事にしてもらえるとは嬉しいものだった。
考えてみれば今日は一日、横島の世話になりっぱなしである。
横島に気づかれないように布団の中で指折り数えてみる。

自分が汚れることも厭わず〇〇(都合により記憶から抹消中)から引き上げてくれた。
下着の洗濯までさせた。
着る物を探してきてくれた。
風呂も沸かしてくれた。
魚を獲ってきてくれた。

あげくに今は火の番までしてくれている。
ここまでされればもうどっちが年上だかわからない。

(実は意外とフェミニスト…ってことかしら?)

ふと西条ならどうだろうと考えてみる。
彼なら自分を〇〇(都合により記憶から抹消中)から助けてくれるだろうか。

(それ以前に西条先輩がキノコ採りに来てくれるとは思えないし…)

魔鈴にとっても新しい発見だったが、横島には雑草のような生活能力がある。
貧乏なのと美神のところでの過酷なバイトから身についたものだとしても、こういう時には頼りになる。
西条なら〇〇(都合により記憶から抹消中)から助けるまではしてくれるだろう。
だがその後はきっと人を呼んで着替えを待たせたりするに違いなかった。
それは確かに大人の対処だが同時に寂しくもある。
横島には何もない。
何も無いからこそ一生懸命、体を張って自分を労わってくれたのだ。
確かに風呂を覗くようなスケベ心もあるだろうが、それだけのために自分を世話してくれたとは思えない。
もしそうなら今、横島の数える素数が万の大台に乗るはずはない。

既製品のブランド服よりも手作りのマフラーの方が心に響く時もある。
プロのマッサージよりも子供の肩叩きの方が癒される場合もある。

そして今、浴衣一枚で煎餅布団に包まってるという無防備な状態で男と一つ部屋にいながら彼女は間違いなく安らいでいた。

「へーくしょい!!」

「え?」

「あ…すんません。起こしちゃいましたか?」

「…あの…もしかして寒いんじゃないですか?」

「なんの大丈夫っすから!」

とは言うものの鼻水を啜りながらだから強がりにしか見えない。
考えるまでもなく今の横島は自分と同じ浴衣一枚という格好なのだ。
いくら火のそばにいるとはいえ寒くないはずはない。
それもこれも自分を〇〇(都合により記憶抹消中)から救い出し、ここに運び込んだためである。
そんな彼を見捨てるなんて例え自分が魔女だとしても最悪ではないか。

「…横島さんもこっちに来ません?」

「…………それはもしかして大人の階段へのお誘いですかっ!?」

「違いますっ! 変なことをしたら下を引っこ抜きますからね!」

「舌を?!」

「いいえ…下を…ふふふふ」

美女との同衾、しかも相手の了承つきを拒むような横島ではない。
とは言え下を引っこ抜かれるのは嫌なのか寒さとは違う震えに身を委ねながら、魔女としての片鱗を見せた魔鈴の横におずおずと潜り込とすぐに背中を向けて今度は円周率を計算し始めた。

元々狭い一人分の布団。
体が触れ合わない方がどうかしている。
ピッタリと合わさった背中から互いの鼓動が伝わってくる。
どちらともなく早くなる鼓動のリズム。
動いたら何かの均衡が崩れるような気がして二人とも身動きできない中、ただ鼓動だけがせわしなくペースを速めていった。
背中に感じる女体の柔らかさから呼び覚まされる煩悩を必死に抑える少年と、意外と逞しい少年の背中とその熱に目覚めかけるなにかを一生懸命押さえ込もうと悪戦苦闘する美女。

二人を見守るかのような廃屋の軋み音をBGMに夜はふけて行く。

そして翌朝、目の下に盛大に隈を作った少年と美女が布団の上で向かい合ったまま精神的に消耗しきった姿で正座していたりするのだった。






横島が洗濯したものはすっかり乾いていた。
身につけてみればまだ完全に汚れは落ちていなかったし、干し方も悪かったのか皺くちゃだったけどどうせ二度と着る予定のない服である。
ようは帰るまでもてばいいのだ。

土間を抜け外に出て山の空気を肺一杯に吸い込むと寝不足の頭が一気に目覚める気がする。
先に外に出た横島が自分の箒を持ってきたのを受け取って二人は一夜の宿となった廃屋をもう一度振り返った。

明るいところで見た廃屋にも他の場所にもやはり人の気配はない。
ただ壊れかけた木戸が風に揺れてキイキイと鳴るだけである。

もう一度廃屋に頭を下げ二人は顔を見合わせる。
どちらからともなく笑い声が漏れた。
しばらく楽しそうに笑いあった二人だが不意に魔鈴が赤く染まった頬に手を添えると訴えるような視線を向けてきた。

「あの…昨日のことは内緒にしてくださいね」

なにもなかったとはいえ年頃の男女が同衾したとは世間体が悪すぎる。
ましてや自分は年上だから尚更だ。
それになにもなかったというのもまた考えようによっては恥ずかしい。
女性の心理とは複雑なのである。
無論、横島にはそんなことはわからない。
空気の読めなさは折り紙つきだ。

「大丈夫ですって! 魔鈴さんが野壷に落ちたなんて言いません!…………どうしましたか?」

「…………それもありましたか…」

がっくりと膝をつく魔鈴と「え?他になにが?」ととことん空気の読めない横島を笑うかのようにカラスが鳴き、なんとも気まずい沈黙に陥った二人の耳にどこからともなく小さな声が聞こえてきた。
見渡しても人の姿はない。
不思議な声は次第にはっきりとした抑揚を伴ってあたりに広がっていく。


アリガトウ

アリガトウ

最後ニ暮ラシテクレテ アリガトウ



驚く二人の前で声はだんだんと高くなり、歌うような響きとともに廃村へと流れていく。
そしてそれと同時に目の前の廃屋が静かに崩れ始めた。



ボクハ
ワタシハ

モウ眠ルケド

ダケド キット…



「家鳴………」

「家鳴?」

「ええ…西洋ではブラウニー…住居に住む妖精です。そうですか…昨日のアレは家鳴が用意してくれていたんですか…」

打ち捨てられた廃屋に一晩とはいえ人が暮らせるだけのものが用意されていた。
それは奇跡ではなくこの妖精の仕業だったらしい。
あまりにかすかだったので気づかなかった家鳴の気配は、途切れるような声とともにどんどん小さくなっていく。



イツカ キット…

ココニ…ミンナ戻ッテクル…



「大切に住まれた家は家鳴が憑くといいます。そしてそこに住む人たちをこっそりと助けると…」

「じゃあ…あの浴衣も布団も…」

「そうですね。家鳴が用意してくれたんでしょうね…。もともと妖精は感知しにくいんですけど…きっととても弱っていたんでしょうね…」



待ッテイル…

ズット ズット 待ッテイル…

ダッテ…コ…コハ…

………ト…………ダカラ…



最後の言葉が終わるとともに家鳴の棲んでいた家はサラサラと白い灰のように消えていった。
後に残されたのは一枚の古ぼけた木の板。
おそらくこの家の根太の一部だろう。
長い年月で磨り減った板にかすかに浮かぶ模様がまるで夕餉の団欒を楽しむ家族の姿に見える。

こうしてたった一枚の痕跡だけを残して、廃村となった後も、打ち捨てられた後も、ずっと家人を待ち続けた家鳴は風に消えた。


魔鈴は薄汚れた板を拾うと大切な宝物のように優しく胸に抱く。
かすかに残る霊気を伝ってこの家とそこに住んでいた人の歴史が家鳴の思い出とともに彼女の中に流れ込んでくる。
人の温もり。
何気ない日常の中の喜び。
贅沢もなく、貧しくてもただ互いを労わり合うことを幸福と言えた時代。
家鳴の残したものが忘れかけたものを思い出させてくれる。
走って走って走り抜いて…そして立ち止まって振り返ることの意味を伝えてくれる。
立ち止まった時、振り返った時、そこに笑っていてくれる人のいることのなんと幸せなことか。
何気なく支えてくれる手のなんと暖かいことか。
帰る場所のあることがどれほど素晴らしいことか。

そんな想いを託され彼女は静かに涙を流した。
ふと誰かに肩を叩かれ、振り向けば自分を見て顔を真っ赤にしている横島がいる。
彼と目があった時、自分の中で何かが変わった気がした。


板を抱き、無言のまま涙を零す魔鈴を横島は素直に綺麗と思った。
思い出す昨日の一日。
色々な体験が頭の中をフラッシュバックする。
不思議と鼻血は出そうにない。それが自分でも不思議だった。
気がつけば自分でも知らないうちに彼女の肩に手を置いていた。






グシグシと子供のように鼻を擦ると魔鈴はいきなり横島の手を掴んだ。

「さあ! 帰りましょう!」

「え? もういいんすか?」

「ええ。この子も家に連れて行きますから!」

一枚の板を胸にニッコリと笑う彼女がとても眩しくて横島は目をそむけた。
昨夜の布団の中よりも激しくなる鼓動に戸惑う彼の前に箒が差し出される。

「しっかり掴まっていてくださいね」

「しっかりですか?」

「しっかりです。 もうギューってぐらいにしっかりと」

「おっぱいとかもギュッと? 一番、掴まりやすいんですけど!」

「あははーそこは3年早いですっ! さあ乗ってください!」


何かを吹っ切ったかのようにいきなりテンションの変わった魔鈴に戸惑う横島を乗せ、箒は一気にまだ朝靄の残る空へと飛び出した。
だんだんと小さくなる廃村の上で魔鈴は自分にしがみついている少年に背中越しに微笑みかける。

「また春になったら来ましょうね」

「そうっすね…今度はみんなで来るのもいいかも…」

「むーーーーー」

「え?」

「しりません!」

弾丸のように飛び出す箒から少年の悲鳴がドップラー効果とともに響き渡たる。
やがてそれも消え、再び山奥の忘れられた村は静寂に包まれていった。











魔鈴の店は料理も素晴らしいが、インテリアもなかなかに凝っている。
ここを訪れる客は美人店主が目当てだったり、純粋に料理を求めたりと様々だがこの店全体が作り出す独特の空気を好む客も多い。

そんな店の一角に古びた木の板が置かれている。
なんとも場違いなそれを見て密かに眉を顰める客も多いが、ほとんどの客は何の変哲もないはずの薄汚れた板から目を離せなくなると言う。

そして彼らは皆一様に一つの言葉を思い出し、ある者は微笑み、ある者は密かに涙を拭うのだ。



その言葉は………………故郷と言う。







おしまい




ども。犬雀です。
えーと…まあこんな感じで(どんな?)
家鳴=ブラウニーは犬の勝手な設定です。こういう場面に合う妖怪がうまく見つからなくて苦し紛れに作りました。
ではでは

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]