美神除霊事務所から徒歩20分あまり。
事務所周辺のオフィスビル街とその先にある中所得者層、いわゆる『猫の額ほど』の広さの家の立ち並ぶ住宅街とのほぼ中間点に、都営の公園があった。
東京ドーム三つ分に少しかける程度の広さを有し、都心部では数少ない、遊歩道のある林があったり、立ち入り自由な青々と芝生の茂る広場があったり、少ないながらも枝振りのいい桜や梅の並木もある。
時刻は午前九時を半ば回ったあたり。
朝の日差しが昼の日差しへと変化し、温かみをましてくる時間帯である。
平日の昼間だけに二人のほかに人の気配などは極々少なく、まして若い世代の姿など欠片もない。
漸く青みを帯びてきた芝生の上にも、真鯉や錦鯉が優雅に泳ぐ、30uほどの池の辺にも、高さ五メートルあまりの、蒼いブーメランと黄色の滑り台と緑色噴水が合わさったような、奇妙な形のモニュメント―――創作費うん百万円というのだから、よほどすばらしいものなのだろう―――にも。
かわりに、普段はまじまじと見ることも少ない、雀やホオジロなどの小鳥の姿や、反対に嫌と言うほど見かける鳩や烏の姿がちらほらと見かけられる。
そんな閑散とした公園内だけに、樹齢五十年余りを迎える、蕾のだいぶ大きくなったソメイヨシノの並木を眺めている若い二人連れの姿が、妙に目立っていた。
毎年マスコミに取り上げられる某有名公園の桜並木ほど立派ではないし、本数も少ないが、それでも満開のじきには鮮やかにして儚げな光景を作り出すであろう桜の幹に手を置く、二人連れの片割れ。
袖や襟首が解れ(こういうデザインなのだろうと思うが)、臍も丸出しの白いTシャツにカットジーンズという、些か寒げな格好の細身の美少女が、ゆらゆらと尻尾を振りながら、
「今しばらくすれば満開にござろうか?」
傍らに立つ青年に尋ねた。
頭頂と前髪は鮮やかな赤、側、後頭部から太腿あたりまで延ばした部分はまさに純白という、いささか風変わりな髪の色をしたその少女の名は、犬塚シロという。
変わった髪色も生えた尻尾も当たり前である。
彼女はただの人間ではなく、人狼という種族の少女であった。
「そうだな。このあたりだと大体三月末あたりが開花の時期だから。あと一週間ぐらいで咲き始めるんじゃないかとおもうけど」
男は少女とは違い、上着のポケットに深々と手を突っ込んで、身をちぢこませていた。
早春にしてはいささか強力な寒気団のために、寒いと感じるには十分すぎるほど、冷え込んでいたのだ。
青年の名は横島忠夫。
年がら年中GパンにGジャン、ボサボサの髪を纏めるように赤いバンダナを巻くというスタイルを殆ど崩さない。このファッションスタイルに深いこだわりがあるのか、といえばそうでもない。
生来のずぼらさと、何より丈夫で比較的安いというメリットからである。
さすがに今日は、厚手のパーカーをがっちり着込んでいるが。
「花が咲いたら、またゆっくり見にくるか」
横島は満開の桜をイメージしたのか、わずかに頬をほころばせながら、待ち遠しそうに言う。
普段はお茶らけとセクハラしか考えていないような、いい加減なやつという印象が強い男なのだが、今は少しだけ大人びて見えた。
いや、これもまた横島と言う男の素顔の一つなのだろう。少年期から青年の時を経て、少しずつ覗かせるようになった、男としての素顔。
「いいでござるな。拙者、毎年けっこう楽しみにしてるのでござるよ」
元気に咲けよ、とばかりにばかりにぽんぽん、と幹をたたくシロ。
硬い幹ではあるが、目を覚ましていると言う感覚が伝わってくるような気が、シロにはした。
「お前の場合花より団子って気もするけどな。そういえば、里には桜は無いのか?」
横島は、ふと疑問に思ったのだろう、シロに尋ねる。
「山桜ならば多少は見受けられるでござるが、これほど見事な桜は無いのでござる」
「ふうん」
「でも毎年花見の宴はやるでござるよ。里の皆が長老の屋敷に集まって、猪肉の燻製や鹿鍋などを突付きながら酒盛りをするのでござる。もっとも拙者は子供だったゆえに、酒は飲めなかったでござるが、それでも楽しかったでござる」
「そういえば俺もガキのころにはそういうの行ったことあったな。あんときゃ銀ちゃんと二人で桜の木に登って遊んでて、あとで親父達にえらく怒られたよ」
「そのころからやんちゃだったのでござるな、先生は」
「まーな。銀ちゃんと二人であほな事ばっかりやってたな。二人で自転車転がして山いって遊んで迷子になったり、二人で一日中ミニ四駆いじりまわしたりな・・・」
横島は饒舌に、子供のころの話を話し始める。どうでもいいような、取り止めのない話であるが、シロは、幸せそうに聞き入っていた。
シロと横島が、事務所近くの公園や商店街を二人仲良く歩いている姿は、ここ数ヶ月ではよく見かけられる光景であった。
年末年始の休みを利用して里へ帰省したシロが、年明け月半ば、成人式が行なわれた後あたりになって漸く帰ってきたときのこと。
普段のシロなら真っ先に横島のところに飛んで行き、子犬の如く甘えているはずなのだが、その時に限っては横島にじゃれつく事もなく、さっさと天井裏の自分の部屋に引っ込んでしまった。
何事かとばかりに皆で様子をうかがうと、一人ベットの上に座り込んで、なにやら思い悩んでいる様子。
だが、能天気な気質のあるシロの事だ、二、三日もすればまた直ぐにいつもの迷惑なぐらいの元気を取り戻すに違いないと、事務所の仲間達も横島も思い、暫くはそうっとしておく事になったのだが。
横島達の予想に反して、シロの思い悩む日々は一週間、二週間と続いた。
次第に事務所の中はまるで灯火が消えたかのように暗くなり、元祖天然能天気煩悩魔人横島が、日課である雇い主の入浴の参詣を忘れてしまったほどであったというから、シロの落ち込み様ががいかほどのものであったかが伺えるだろう。
シロがこれほど悩むなどよほど事なのだろうと、身元引受人、つまりは保護者、親がわりともいえる美神が、幾度か、何があったのか聞き出そうとしたが、シロは口を噤んで一向に話そうとはしなかった。
そんな、くらーい雰囲気の日々が暫く続き、月も変わって二月のあたまあたりからか。
いかなる心境の変化があったのかは定かではないが、シロは暇を見つけては横島を誘い出すようになった。
散歩と称したフルマラソンもしくは地獄の競歩、のほうではない。
二人ぶらぶらと街並みを散策したり。
公園に出かけたり。
ショッピングモールや近所の商店街へ買い物に出かけたり。
週末や時間が空いたときなどは美術館やら博物館やら映画館へ足を運ぶこともあった。
金が無い時は横島の家に入り浸ってビデヲを見たりもした。
シロ曰く、社会勉強の一環で横島には付き添いを頼んでいるだけだ、という事であったが、真の理由が別のところにあるのは、明白であった。
しかし、事務所の面々は、シロの社会勉強と称するものを、概ね歓迎した。
陰鬱な顔なシロの顔と顔を突き合わせるのには、はほとほと参っていたからだ。
横島一人を人身御供にする事で、彼女が元気になるなら、・・・若干名嫉妬の色を交えていたとはいえ、易いものであると考えたらしい。
これが後々、大きな禍根を残す事になるのだが。
横島も、めんどくさいだなんだと言いながらも、よくシロに付き合った。
高校も卒業して一年足らず、相変わらずGS助手に甘んじていた横島は、学校に行かなくてもいいぶん、時間が余っていたというのもある(余った時間をGSとしての知識や教養を高める為に使う、などと言う殊勝な考えは、殆ど持ちあわせていない)。
しかしそれ以上に、横島はシロという人狼の弟子にとことん甘くて弱かった。
シロの頼み事を断るなどと言う発想自体、持ち合わせているか怪しい。
もっともこの男の場合女子供にはだれかれ構わず優しい、と言うところもあるから、なんとも言い難いのではあるが。
唯一の難点といえば、出かけるたびに感じる美神やおキヌの痛い視線であるが、それとてシロのお誘いを断るほどのものではなかったし、人というのは面白いもので、苦痛も与えつづけられると、そのうち慣れてくる。
今現在に至っては、そんなににらまんでもええやん、ぐらいにしか思っていなかった。
鈍感も時には多少の利点がある、ということだ。
話は、公園の二人へと戻る。
「先生、寒いでござるか?」
シロは、悩ましげな視線を向けながら、やたらと寒げな顔をする横島の左腕に腕を絡める。
あまりに自然で、それでいてじゃれていると言う雰囲気ではない。
傍から見れば極普通のアベック(原作者はこういっているし・・)である。
「そりゃさむいわ。しっかし、お前はんな格好でよく平気だな?腹壊さないか?」
「拙者幼少の頃より鍛えてござるから、この程度の寒さはへっちゃらでござる」
心配そうに尋ねる横島に小さく力こぶをつくりながら満面の笑みで答えるシロ。
愛らしい笑みであった。寒さに参った横島ですら思わず誘われ、笑ってしまうほどに。
いつから、シロの笑みを愛らしいと感じているのだろう、横島はふとそんなことを思ったが、直ぐに止めた。
「ま、犬が寒さで縮こまるってのも変な話だけどな」
いつものように軽口を叩くためだ。
そんな関係が、今の自分たちだと横島は思っている。
「狼だもん!」
シロは、いつものように、狼族としての矜持をはっきりと示す。
師匠のほんの戯れの言葉であったとしても、犬とそしられる事だけは、断固許さない。それが人狼という種族であった。
「じょーだんだよ、冗談。そんなに怒る事無いだろがったく、いつまでたっても餓鬼だな、お前は。そんなんだから彼氏の一人も出来ねーんだぞ?」
横島は苦笑いを浮かべつつ言う。
「先生、それってどうゆうことでござる??」
だがシロは、機嫌が直るどころか、ぎっと目を吊り上げる。
「あん?」
今日に限ってやけに噛み付いてくるな、と横島。
絡めていた腕を外し、横島の前に回る込むと、じいと横島の目を見つめた。
やけに真剣な顔をするシロに、一瞬怪訝な顔をしたが、たまには虫の居所の悪い日もあるのだろうと、それほどにきはとめない。自分が致命的な一言を言ったことなど露にも考えていなかった。
「なんだよ。折角俺が付きあってやってるんだぞ、そんな顔するんじゃね―よ」
投げやりに、と言う訳ではないが、少しばかり面倒くさげに、言う。
シロは横島を見つめるルビーような赤い瞳に僅かに涙を溜める。
何か縋るような怒っているような、そんな目であった。
「お、おい、どうした?何か悪いこといったか?なぁ、シロ?」
ここで漸く、シロの様子がおかしいときがついた横島が、おたおたしながら慰めの言葉を捜す。
しかしこういうときに限って適当な言葉というものはなかなかに見つからないもの。
横島のような鈍感で、女付き合いの少ない男なら尚更の事だった。
西条のやつなら腐るほど歯の浮いたような台詞が湧くんだろうが、と頭の片隅で考え、少しだけ羨ましく思いつつ、
「な、なぁ、何か話してくれよ?じゃなきゃわからんだろ?な?」
もはやパニック寸前の横島。
こっちが泣きてーよ、と思い始めた時。
「先生は、拙者に仕方なく付き合って下さっているのでござるか?」
シロが漸く口を聞いた。恐る恐る、だが、強い意志をもって。
「い、いや、べつに、仕方なくってわけじゃないぞさっきのは言葉のあやってやつで」
横島はシロの強い意思を感じ取ったのだろう、横島なりに真剣に考えて言葉を紡ぐ。
「拙者は、先生の弟子にござるか?」
「おう、あたりめーだろうが。誰がなんと言おうと、お前は俺の弟子だ!ずーっとな」
横島は再びシロの頭をくしゃくしゃと撫でてやりながら、自身たっぷりに言った。
「ずーっと弟子、でござるか」
横島はそれでシロが納得すると思ったのだろう、しかし横島の予想とは裏腹に、シロの顔はより沈んでいく。
「なんだよ、どーした?お前すこしへんだぞ?」
「な、なんでもないでござる!拙者、先に帰るでござるから、先生はゆっくり帰ってきてくだされ!」
困り果てた顔をしている横島にシロは突然喚くようにいい、ぎゅぎゅっと右手で目をこすると、全速力で事務所の方へ向って走っていってしまった。
「お、おい。シロ、ちょっと待てよ?なぁ、おーい・・・・なんだってんだ・・・」
置いてけぼりを食らった横島は、近くに転がっていた石ころを蹴飛ばすと、毒づく。
蹴り飛ばした石ころは、徘徊していた野良犬に直撃。
横島が、噛み後だらけにされてから帰路につくのは、それから一時間あまり後の事であった。
「……ただいまでござる」
元気なく帰宅の挨拶をしたシロは、かなり落ち込んでいた。
事務所のドアを開くと、来客があることにも気がつかぬまま、そそくさといつも横島が座っているソファーへと足を運ぶが、
「漸く帰ってきおったか。まっておったぞ」
そこで、長老に呼び止められた。無論、見事な禿頭に立派な白ヒゲを蓄えた、人狼の里の長老殿である。
「………!!!」
シロの顔に、驚きと恐れが浮かび、僅かにたたらを踏む。
「お帰り、シロ」
そして美神。こちらはいつもに無く覇気がなかった。
全体的にどんよりと落ち込んだ雰囲気を顔しだしている。
まるで誰かに別れを告げられたような、そんな悲しげな顔であった。
師に似て些か鈍いところがあるシロでも、一体なにが話し合われたか、推察できてしまう。
ああ、ついにくるべきときが来たのだな、そんな心境であった。
「せ、先生はまだでござるかな?拙者ちょっと迎えに言ってくるでござるよ」
とりあえず、逃げよう、そう考えたシロは、すぐさま踵を返し、事務所を飛び出していこうとする。
長老には些か強引なところがあるとシロは知っていたし、里の掟は絶対と教え込まれている。
一度従えば最後である事は、百も承知していた。
「まてい!」
ドアノブに手をかけたところで、凄まじい気の篭った長老の静止の言葉が、シロの体をしびれさせた。
老いたりとはいえ里随一の実力者と目される長老の、たっぷりと霊気の篭った言葉である。
ただの呼び声というより、言霊に近い。
いくら強いとはいえ若輩もいいところのシロに、逆らえる道理は無かった。
「まず、こちらに来て座れ。美神殿から大切な話があるそうじゃ」
重々しい長老の言葉を前にして、シロは夢遊病者の如く、ふらふらと円卓の傍までくると、そのまま床に正座し、床に頭をつけるようにして頭を下げる。
それが重要な話をされるときの目上の者に対する礼儀であるのと同時に、今の美神とは目をあわせられないという気分の表れでもあった。
「本当に言うの?」
「お願いいたす」
美神は、最後の抵抗とばかりに長老へ、哀れんだ瞳を向けるが、長老はそんな視線などものともせずに、言った。
「わかったわよ。シロ。あなたのお見合いが決まったそうよ。うちとしては反対する理由もないから、快く、とはいかないけど送り出す事に決めました」
僅かに時を置いて、美神が苦々しく、だがきっぱりと告げる。
シロはやはりそうか、と思い、ぎゅっと拳を握り締める。
「犬田の家の三男坊が、おぬしを娶りたいというておる。あやつのことはおぬしもよく知っておろう。やや朴訥のきらいはあるが、真面目で実直な男じゃ、悪い話ではあるまい」
「し、しかし拙者は」
「長老がいうには、早々に里へ連れて帰りたいということだけど、とりあえずおキヌちゃんとかにも話をしなくっちゃだし、とにかく荷物だけは纏めておきなさい」
美神は、シロの言葉を無理やりさえぎって、話を続ける。
可憐ともいえるその顔に、明らかに苦汁が混じっているが、それを悟らせまいと、シロから視線を逸らす美神。
「み、美神殿は、止めてくださらぬのでござるか?」
「人狼には人狼の考え方があるのはシロ自身、重々承知しているのでしょう?それに長老のたってのお話となれば、こちらの都合で無碍には出来ないのよ。シロがいなくなるのは戦力的にかなり痛いけどね」
違う、そうじゃないと思いながらも、美神は最後までシロに顔を合わせることはなく。
「長老、拙者は、お断りいたす旨をお伝えしたではござらぬか」
美神と話しても埒はあかない、と思ったシロは、思い切って長老へと話し相手を切り替える。
口の中がからっからに乾き、手足に震えがきた。
里にいた頃は、大人たちに、とくに長老に口答えするなど、考えられなかった。
里の女はただ粛々と、男を立て、父親や夫、一族の長の話を聞き入れ、付き従う事が美徳とされたし、それが当たり前の事とであると徹底して躾られている。
身なりこそ男のようにして育てられたと言えど、だ。
女が男に逆らうなど、滅相もないというわけだ。時代遅れも甚だしいことではあるが、そうやって何百年も血脈を保ってきたのだから、今更簡単には変えられる物ではない。
その長年続いた風潮に、あえて逆らおうというのだから、よほどの覚悟であった。
場合によっては、この場で斬り合いを演じる事も、シロは覚悟した。
「横島殿のことを思うておる、とは確かに聞いた」
長老はそのシロの覚悟を受けてか、まずは咎める事もなく、話を進める。
本来ならば一喝して終わるところを思いとどまったのは、シロの覚悟もあろうが、やはり美神への体面もあった。
狭量な男、傲慢な男と思われるのは、先々を考えても些か憚られたし、何より身内の恥を晒す事になる。
ここは粛々と諭したほうが賢い。
「なればっ」
「じゃが、横島殿にはおぬしを娶る気があるのか?美神殿が言うには、横島殿にその気などはまったくない、横島殿がおぬしのようなものを相手にしようはずもない、ということじゃが」
長老の口振りに、美神がそこまで言ってないでしょうが、と抗議の視線を向けるが、長老は当然無視した。
無視されることで令子も、結果論として、言っている事に大差はないと気がついてしまった。令子は長老に、横島がシロを女としてみているとは思えない、とはっきり言ってしまっていたのだ。
シロは、長老の斬って捨てるような物言いに、そんなことはない、と即答し様として、言葉に詰まった。
先ほど公園での話が頭をよぎる。
『そんなことだから彼氏の一人も出来ないんだぞ』
『シロは俺の可愛い弟子だ、ずっとな』
(やはり先生は、拙者を女として見てくださっては、おらぬやもしれん)
シロは、泣きたくなったが、止めた。
泣いたら尚更惨めになるし、自分は侍だ、人前でおいそれと涙を流すものではないという強い意志がある。
今までならば、たとえ横島が振り向いてくれなくとも、ただ思っていられればそれだけで我慢できたしそれなりに幸せだった。
年頃の女である、当然、振り向いて欲しい気持ちもあるが、横島は優柔不断でその上スケベな男だし、人間社会においてはまだ大人になりきれてはいない年頃。
無理に迫っては今の関係が壊れてしまうかもしれないという恐れもある。
だから決着は、横島が人間社会の一員として、一人前になってから、そう心に決めていた。
だが、正月に里に帰ってから、そんな慎ましやかな思いは一気に消し飛んだ。
御見合い話、つまるところ結婚の話である。
結婚などまだまだ先の事、と思い込んでいたシロにとって、凄まじい衝撃であったのは間違いない。
だが、人狼の一族においては、女は初潮を迎えた時点で成人として扱う。ストレートに言うならば、結婚させられる、ということだ。
このままでは、横島を思っていることすら許されぬ状況になることぐらいは、十分すぎるほどわかっていた。
それでも、美神たちのことを考えてぐっと耐えた。
愛情表現の違いこそあれど、美神も、おキヌも横島を本気で慕っているのは一目瞭然。
世話になっている二人にその思いを断ち切らせるのは、切羽詰っているとはいえ、気が引けた。
だが、それも半月で限界であった。
自分から横島への思いを断ち切るなどもはや出来ぬ、と思い至ったのだ。
それほど横島に対する愛情の念は深かく、強い。
最初は、父や兄に対する思慕の情であったかもしれない。
父をなくした寂しさ哀しさを横島を慕う事で紛らわせていたのかもしれない。しかし時を経て今は違うと言い切れる。
横島を男として、愛している自分がいる。
思い至ったその日から、シロは積極果敢に横島へのアプローチを開始した。
事あるごとにデートに誘い、暇さえあれば纏わりつき、時に横島の部屋へ押しかけて食事を作ってやったり、部屋を掃除してやったりもした。
空いた時間は徹底して横島の為につぎ込んだ。
自分を無理やり偽る事も変える事もなく、ありのままの自分をさらけ出しつづけた。
一週間目にはタマモが、シロの気持ちに気がついた。
シロが、女として横島を射止めようとしている事を。
タマモは、その時がくれば美神やおキヌではなく、シロの事を応援してあげようと決めていたから、全面的にバックアップした。
代われる仕事は積極的に代わってやり、横島の傍に居易くする様、美神たちを巧みにコントロールした。
この私がここまでしてやるんだから、落とさなかったら承知しないからね、とシロに告げてもいる。
一月後には、おキヌの目線がどこかよそよそしくなり始めた。
彼女もまたシロの本気度に気が付いたのだろう、そして横島が自分には見せない顔をシロに見せ始めた事にも、気がついてしまったのだ。
おキヌは戸惑い悲しみ迷い泣き、最後には友人である弓や一文字にも相談したが、結局、二人の中を引き裂こうまでには至らなかったようだ。
彼女は、優しすぎ、横島は鈍感すぎたというわけである。
ちなみにこの件により、おキヌの友人二人の横島に対する評価は、一気に地獄の六丁目まで落ち込んだことを記しておく。
その評価ですら単なる押し付けにしか過ぎないのだが。
二月経った頃には、ついに美神が露骨にいやな顔をし始めた。
仕事のときわざわざ二人の持ち場を離したり、出かける予定が入っているときに限って横島に適当な仕事を押し付けたりもし始めた。
はじめの頃は、シロが積極的に外に出かけることを歓迎し、横島がボディガードとしてついていくなら安心ね、などと能天気に考え、こっそりと横島の給料に色をつけたりもした。
シロが美神の事務所に預けられあのはGSになるためというよりは、人狼の一族と人間社会との橋渡し役という面の方が大きい。
だから、いろいろなところを見学し、見聞を広めることも大切な仕事なのである。
しかし、おキヌの態度が変わり始め、六道冥子やら小笠原エミやらから、
『最近あの二人付き合い始めたの〜?』
とか、
『ふん、あんなに扱き使われた揚句褒美の一つも与えられなきゃ、横島とはいえ千年の恋も冷めるわけ、ほんと、馬鹿な女』
などといわれたら、さすがの美神でも焦る。
いや、本人は間違っても焦ったなどとは認めないだろう、認められるなら、嫌がらせなどという回りくどい事はせず、持ち前の独占欲を発揮して強制的に婚約なり結婚なり同棲なりをするはずである。
そうなれば、いかなシロとて手出しは出来まいし、横島に逃げる統べなどありはしない。
だが結局、独占欲以上に強烈無比な意地っ張りと、かつての横島の恋人への羨望と嫉妬が邪魔をして、自分が横島に惚れているという事実を自分自身にすら誤魔化しつづけ、少しばかりの嫌がらせをして二人の仲を邪魔する事ぐらいしか出来なかった、というわけだ。
美神の嫌がらせや、おキヌの冷たい視線を前にしても、シロは止まらなかった。
もはや他人の目など気にしてはいられない。
横島との逢瀬は、瞬く間に三月近くに及んだ。
だが、徹底した尽くし様とは裏腹に、自分の口から、決して思いを告げることはなかったし、最後の一線を超えるどころか、キスをせがむ仕草すら見せなかった。
スキンシップの顔なめすら、見事に断ったのだから、相当なものだろう。
横島の口から、自分への思いを聞き出すことで、この恋に決着をつけようと言う気持ちは何よりも強かった。
是であるにしろ、非であるにしろ、横島の口から聞いた言葉ならば、納得できる。
横島は、無理に気持ちを押し付けるような自分に、よく付き合ってくれた。
時折愚痴りながらも、いつも楽しそうに笑ってくれた。
いろんなものを見て回って、いろんな事を教えてくれた。
学校の勉強など碌に出来ないくせに妙なところで博識だったりする横島に感心したりもした。
美術展で、裸婦画に興奮するお馬鹿振りを見て、やきもちを焼いたりもした。
ラブロマンスものの映画を見に行って、二人して仲良く途中で寝ちゃったりもした。
自分の作った手料理を、美味いといって食べてくれた。
肉ばかり出していたら、流石にもう肉はくえん、たまには魚も野菜も食べたい、などといっていたが。
掃除をしてあげたら、有り難うと言って頭を撫でてくれた。
秘蔵のお宝を『わざと』台無しにしてえらく怒られはしたが。
最近は、今度はどこへ行く?などと誘ってくれるようになった。
時折、ちょっとばかりはしゃぎすぎて、いい加減にしろ、と怒られることもあったが、そんなことすら嬉しかった。
二人でいるだけで、楽しい。
二人でいるだけで、嬉しい。
二人でいる時間がたまらなくいとおしい。
きっと横島も自分と同じように、思ってくれている。
先生はてれやさんだから、きっと上手く口に出せないだけなのだ。
けれど。
それは自分の願望でしかなかったのかもしれない、とシロは思う。
横島の目から見れば自分は所詮子供にしか過ぎず、優しい横島はそんな子供の我が侭に付き合ってくれていただけなんじゃないだろうか。
本当は、おキヌのような清楚で優しい女の子や、美神のような、凛とした大人の女性の方が好きなのではないか。
がさつで、飽きっぽくて、男っぽくて、女らしさなど余りない自分では、横島を引き止めておく事など到底出来やしないのではないか。
横島に、会いたい。
会って話が聞きたかった。
今すぐにでも本当の気持ちを、聞きたかった。
あの言葉は、ただの照れ隠しなのだと、思いたかった。
思いは強烈にシロの心を締め付けて、苦しさすら憶える。
幼き日に感じた、熱病の中でうなされるような苦しさとはぜんぜん違う。
ただ切なくただ狂おしく、苦しい。
「シロよ、おぬしももう子供ではないのだ。叶いもしないとわかっておるならば、きっぱりと断ち切りることも自分のためじゃぞ?それに横島殿とて、おぬしを思うておらぬとするならば、おぬしの思いは迷惑以外の何物にもあらぬじゃろう。今ならば若かりし日の楽しき恋であった、と心に留める事も出来ようが、これ以上は苦しみばかりを背負う事になるぞ。それは互いの為にも、世話になった美神殿やおキヌ殿、タマモ殿の為にもならぬ・・・わかるな?」
長老は、シロの思いを知ってか知らずか、シロの両肩に優しくてをおくと、絶妙な間で諭し始めた。
心が散り散りに乱れきったシロであったが、長老の言葉に押され、僅かに冷静さを取り戻す。
確かに長老の言い分にも一理ある。
今の、自分の強い思いは、一歩間違えば、横島や、美神たちや、世話になっている長老への恨み辛みへと変わっていきかねない。
このまま分かれねばならぬ定めが覆えらないのなら、そのような暗い気持ちは背負っていきたくはなかった。
ここでの思い出はあくまで軽やかで優しく、楽しいものばかりだ。
それを最後の最後で、壊してしまうのは、あまりに惜しい。
たとえ、一族や長老の身勝手な申し出の為であっても。
「・・・承知いたしたでござる、お心遣い感謝するでござる」
シロは、悲しいぐらい、真っ直ぐな心の持ち主だった。
真っ直ぐなことは決して間違いではない。間違いではないが、それゆえに人の心を深く抉ることもある。
今の美神がそうだった。
シロが、礼に倣って頭を下げる姿を見て、美神は居た堪れなくなった。
しかし、ある意味自分も一口かんでいるだけに、逃げるわけにもいかないし、引き止めるにも言葉が足りない。
ただ、寂しげな目でシロの、ぺたりと垂れた尻尾を見つめるのが精一杯であった。
「わかったならば、早々に荷をまとめてくるがよい。さすれば、今の心の乱れも多少は落ち着くじゃろ。そのような、悲しみに満ちた顔を、別れの際に、皆に見せたくはなかろうしな」
長老は、シロの肩から手を離すと、急げよ、と短く継げた。
タマモはここ最近の日課であるコンビニへの買出しを済ませて、自分の部屋へと戻ってきた。
小ぶりの買い物袋の中身はもちろん大好きなお稲荷さんと、おキヌに影響されてなんとなくはまってしまった少女マンガの雑誌である。
昔の少女漫画のような、子供じみた恋愛話ではなく、女の子の心理描写を徹底して描きこんだ現代ドラマ風の作品が、タマモの好奇心を引き付けたらしい。
あの美智恵にまで、コミックを買って欲しいとせがんだというから、その好奇心も相当なものなのだろう。
戦利品を片手に、ふんふふんふふーん、と軽やかに鼻歌を歌いながら、屋根裏部屋の階段を上がると、数少ない自分の手荷物を、ベットの上に並べているシロの姿が目に入った。
数着の衣装と、武士の魂である日本刀(銃刀法違反)、ホワイトデーに横島からもらった、ドナルドドックのぬいぐるみ。
これはただ事ではないぞ、と思ったタマモは、手にした買い物袋を自分のベットの上に放り投げて、シロに駆け寄る。
「何で荷物なんか纏めてるのよあんたは、何があったの?美神になんか嫌がらせでもされた?それとも横島の奴ににフラれたって言うんじゃないでしょうね?」
かみつかんばかりの勢いで捲くし立てるタマモに、シロはのっそりとその視線を向ける。
「タマモか。拙者、里の男衆の一人と見合いをする事になったでござる。先ほど長老殿と美神殿にお会いして、美神殿の口から申し付けられたでござる」
「見合いィ?そんなの当然断ったのよね?ていうか、何で美神の口からそんなことを」
風呂敷を押しのけて、シロの前へ回るタマモ。激しい憤りを感じつつ、尋ねる。
まさか美神がそんなことを承諾するなどとは、夢にも思わなかっただけに、憤りはいっそう高まる。
これだから人間ってやつは、と思った。
「いや。お受け致すことにした。ゆえにこうして荷物を纏めているでござるよ。今日中にはここを経つ事になるゆえ……今まで世話になったでござるな」
タマモの剣幕に対し、シロはさっぱりとしたものだった。
もはや諦めもついたとでも言いたいのか、
「まあ、拙者ほどのいい女を、男衆が見逃すはずもなかった、ということでござろう」
と弱弱しい笑みを浮かべて言う。強がりにすらなっていない。
「あんたっ、それでいいの?男どもの言いなりになって大人しく嫁にいくようなタマじゃないでしょ、あんたは。それより、横島にはこの事話したの?あいつはどこよ?」
タマモはだれよりもシロの気持ちを知っていると思っていただけに、どんどん語気も激しくなる。
「落ち着けタマモ。そう騒いでは美神殿に感付かれる。先生とは、今朝散歩に出かけた公園で別れてそれきりにござる。先生も、こんな我が侭な娘に突き合わされる事がなくなって、清々するでござろうよ」
「シロ、あんた横島になに言われたの?それともこの期に及んで美神やおキヌちゃんに気を使ってるの?あの二人だって、シロがどれだけ横島のことを真剣に考えてるか、仲間としてよく知っているはずだし、同じ男を狙うライバルである以上奪われる覚悟ぐらいあるはずよ?遠慮なんかする必要ないじゃない?」
「違うでござる、拙者とて、拙者とてそれぐらいの事は承知しているでござるよ」
シロは、ぎゅっとシロの胸倉を掴む。
「なれど、なれど先生が、拙者を・・・あうぅ、うぐっ、ぐっ」
そして、そのまま胸倉を掴んだ手の上に顔を押し付けて、感極まったのか、泣く。
決して泣き声が下に漏れぬよう、必死の形相で声を抑えながら。
それはシロの、美神に対する優しさだったのかもしれないし、意地だったのかもしれない。
とにかく、泣いている姿を誰にも見せたくはなかった。
横島の次に大事な相棒である、タマモ以外には。
(この馬鹿犬、何て悲しい泣き方するのよ?!横島の奴なに考えてるの、シロにこんな泣き方させるなんて、それでも男なの!このままシロのこと見捨てて放り出すようなら、全力で焼き殺してやる!!)
タマモは胸倉を掴むシロの手を優しく解いて、ぐっとシロを胸元へ抱き寄せ、優しく頭を撫でてやる。
シロは、タマモにがっしりとしがみ付いて、子供のように、ただひたすら、泣いた。
「まさか東京の公園にあれほど野良犬どもがいるとはな・・・一応文珠で消毒とかしておいたから、狂犬病の心配とかはないだろうが・・・」
横島は、シロと分かれ公園で野良犬どもと格闘した後、ボロボロになった服を着替えるべくいったん自宅へと帰っていた。
部屋を見まわせば、以前のように薄汚れてはおらず、こざっぱりとして清潔感を漂わせている。
シロがちょくちょく顔を出しては、少しずつ整理整頓してくれたおかげだった。
服などもきちんと押入れの中に区分けして整理されていたし、万年床であった布団も最近はきちんと上げ下げするようになった。それもこれも、シロのおかげだろう。
あれほど散らかっていたごみだってちゃんとごみ箱へ捨てて、週始めにごみだししている。
「世話してやってるつもりが、今じゃ逆にこっちが世話になってんだからせわないよなー」
横島は、小さく微笑むと、押入れの中から変えのGパンとシャツを取り出す。
似たような服が他にも数着、きちんと折り重ねて並べられている。
「こいつは、ま、後で適当に繕って置けばいいか。捨てるにゃまだ勿体ねーし」
脱いだ服を適当に洗濯籠―――古物屋で適当に買って来た使い古しの安物である―――の中に放り込み、出した服に袖を通し、ズボンを穿く。
そして、もういい加減使い込んで皮がずいぶんと擦り切れたベルトを通しながら、涙を流しながら走り去ってしまったシロのことを思う。
「あいつは俺の弟子で、あいつにとっちゃ兄貴みて―なもんで、だからあいつは俺に世話してくれたり、散歩に誘ったりしてくるんじゃないかとおもうんだがなー。親父さんを無くした悲しみや、里から離れてる寂しさを紛らわすようなもんもあるだろうし」
いずれはきちんと好きな男を見つけて、そっちへと向っていくのだろう、横島は漠然とそんなことを考えていた。
「あいつの為を思ったら、俺みたいなのにいつまでもじゃれ付いてねーで、もっときちっとした奴をもつけたほうがいいに決まってるしなー。それに俺は」
美神やおキヌの事が、と口に出そうとしたところで、ふと思考が止まる。
自分は本当に美神令子やおキヌに惚れているのだろうか。
「俺は、どう思ってんだろうか?確かに美神さんの事は嫌いじゃないわな。もともとあの人の体目当てでGS助手なんてヤクザな仕事おっぱじめたわけだし。おキヌちゃんだって美人だし清楚だし可愛いし、あんな女の子と付き合えたらいいなとは思うが……」
付き合えたらいいなとは思うが、それ以上思考が進んでいかない自分に横島は気がついた。
そしてふと思う。
あの二人は俺の恋愛対象から外れているんじゃなかろうか、と。
はっきり言ってしまうならば、恋愛対象というより、家族や同志、という感覚の方がずっと強くなっている。
姉や妹に対する存在感を、二人に感じているのだ。
だから告白する事も、そこから先の事も、全く想像できなかった。
むしろ、きっぱりと手を出してはいけないものとして考えている自分に、
「俺はもしかしたら不能になったのか、こ、この若さでEDなのか?」
と激しく混乱する。
ちなみに、覗きやちょっとしたセクハラは、スキンシップのようなものなので、罪悪感など微塵も感じていない。
それでこそ横島なのだが、何か間違っている気はする。
横島がこういう思考を持つに至った原因はなんだろうか。
やはり、二年半あまりという時を経ても横島の慟哭が二人の頭から決して消える事がなかった、ということが、大きかったのかもしれない。
選択肢の無い選択と、三つの選択肢の選択が、美神とおキヌの頭の中では一つの出来事として収まっているのかもしれない。
自分たちの世界とルシオラ。決定的な場面において選択をした自分たち。
自分達ふたりと、ルシオラ。踏み込む前に踏み込まれてしまった自分たち。
あの時選ばれ、選ばれなかったと言う事が、自覚があったにしろ無かったにしろ、二人になかなか乗り越えられない負い目や引け目と言う壁を作り出していたのは間違いない。
横島も、本能的に二人の醸すその壁を感じとっていたのだろう。
馬鹿で鈍感なくせに妙なところで聡い。
結果として、恋愛対象からわずかばかり離れた。
その点で、シロは二人とは一線を画していた。
確かに非常に横島に近い位置にはいた。
だがシロは、横島とルシオラの関係を知らない。
正確に言うならば、横島自身からそれとなく話を聞いてはいるが、横島の慟哭はしらなかった。
横島が哀しい恋をして、それが悲しい別れに『終わった』としか知らない。
美神のおキヌの中では終わらず、シロの中では終わったこと、それが横島とルシオラの関係で。
極めて微妙な差でしかない。
あと数年もすれば、美神たちもまたルシオラの事を過去の話として胸に仕舞う事も出来るだろうから。
だが、今はそれが決定的な差となっている。
しがらみのないシロは、ルシオラ同様、美神たちを追い越して、一歩、横島の中に踏み込んだ。
ふと見渡せば、そこかしこにシロの気配を覚える。
シロの座っている座布団、シロの好きなDVD。
お揃いのマグカップにはシロの名前と自分の名前がしっかりと刻んであって。
今横島の胸の中には、かつて愛した女と同じぐらいに、シロとの時間が刻まれている。
それは恋愛と呼ぶにはあまりに稚拙かもしれない。
何より横島自身に、シロと付き合っているという自覚が無かった。
師匠と弟子、兄と妹、そんな関係だと割り切っていた。
もしくは、そうあらねばならないと、勝手に思っていただけかもしれない。
「Gジャン、どこ仕舞ったっけな、そういえば」
不意に、薄ら寒さを覚え替えのGジャンを探す。
しかしどこに仕舞ったのか思い出せない。
それもそのはず、片付けたのは横島でなく、シロだった。
「お、あったあった。ったくあの馬鹿、こんな奥に仕舞いこみやがって」
Gジャンに腕を通しつつ、ぼやき、シロが一生懸命服をたたんでいる姿を思い浮かべる。
決して上手いとはいえないけれど、一生懸命さだけは伝わってくる。
それが当たり前の光景に感じつつあった事も。
「とにかく、事務所へ行くか。あいつをあのまんま放っておくわけにもいかんしな」
横島は、コタツの上に投げ置いていた財布を、Gパンの前ポケットにねじ入れ、部屋を出た。
自分の伝えるべき言葉に、いまだ迷いながら。
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