『雪山惨禍』
シロを眠らせ シロの上に雪降りつむ
タマモ眠らせ タマモの上に雪降りつむ
「わーーーー! 寝るなお前ら! 寝たら死ぬぞーーー!!」
「いちめんのきつねうどん いちめんのきつねうどん いちめんのきつねうどん ところにより月見そば…」
「しっかりしろタマモっ! それは幻覚だっ!」
「うーさーぎーおいしい やーきーにーく 子ブタ おーいしい とーんかーつー」
「だーーーーー! シロもこっちに戻ってこんかぁぁぁぁあ!!」
ビシビシビシと響き渡るはビンタの音。
これもまたお約束。
三人は冬山遭難の真っ最中だった。
そもそも簡単な仕事だったはずである。
相手は雪山に出るという雪女。
出合った者全てを凍らせてしまうという雪の妖魔。
命さえも、心さえも凍らせる恐ろしい魔物だが、美神令子除霊事務所のメンバー相手にとっては小物に過ぎない。
なにしろ過去に倒したこともある。それも雪女をさらに凍らせるという反則的な方法で。
しかも今回は横島がいる。
彼の能力である文珠を使えば液体窒素などの大掛かりな仕掛けなど必要ない。
ポイと一発。
それだけで一瞬にして絶対零度に近いブリザードを引き起こすことが可能だった。
絶対の勝算。
それが油断だったのかもしれない。
気がつけば横島が文珠を投げるよりも早く、雪山の寒さにイライラを募らせていたタマモが「氷の妖怪なら溶かせばいい」と狐火を全力放射。
そして引き起こされた表層雪崩はタマモとシロ、ついでに助けに飛びでた横島を巻き込んで山を一気に崩れ落ちた。
咄嗟に『凍』を『護』に切り替えた横島の機転は誉められるべきだろう。
だが雪崩の持つ物理的な破壊力からは護れても、雪と氷のもたらす冷気までは防げない。
結局、横島が二人を掘り出した時には文珠のせいで氷塊にすり潰されることこそ無かったが、適度に凍り始めてヤバ目の夢を見ている二人の獣娘が出来上がっていたということである。
さて掘り出されてもまだ「いちめんのきつねうどん」だの「わすれがたきー すきやきー」なんてブツブツ言っている二人をなんとかしなければならない。
雪山での遭難は致死率が高い。
充分な装備をしていても危険なのに、雪崩のせいで背負っていたリュックは消え、食料もテントもない。
しかも天候は吹雪へと変わり始めている。
こんな装備でビバークなんて不可能だ。
かといってここに居たら数時間後には氷キツネと氷オオカミを抱いた雪像が出来上がるだけだろう。
せめて吹雪だけでも避けねばと必死に目を凝らしてみれば、天の助けか山の神の導きか少しはなれた山肌にぽっかりと洞穴が口を開けているのが見えた。
「行くぞお前ら! 頼むから起きてくれっ!」
「あははははははははははははははははははははははははははは」
「うひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
「だーーーーーーーっ! 正気に戻れ貴様等あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
再び鳴り響くビンタの音が雪雲のせいで暗くなり始めた山麓に響き渡った。
「いくらなんでもこれはないんじゃないかしら!」
「まだ頬っぺたがジンジンするでござるよ…」
そこいらから取ってきた氷の固まりを頬に当てて二人は抗議する。
まるでリンゴのように赤く膨らんだ頬っぺたは触れば温かそうな気もするが、いかに助かるためとはいえ顔の形を変えられそうになったとなれば乙女として文句の一つもでるというものだ。
「んじゃあのままあそこに放置しておけってか?」
「そうは言ってないけど…もう少しやりようが…」
「活を入れるなら他の方法も…」
「過ぎたことをグチグチ言うな…とにかく吹雪が収まったらここから出るぞ!」
洞窟の中にまで吹雪は吹き込んでこない。
風を防ぐというだけでも生存率はあがる。
ここにこんな洞窟があったとは幸運だった。
だがその幸運も時間と共に磨り減っていく。
まず問題は食料だ。
冷気は予想以上に体からエネルギーを奪う。
どれほど厚着をしていてもカロリーを補給できなければ長持ちはしない。
そして唯一、身を守るはずの防寒着も雪に埋もれていたせいかしっとりと濡れている。
今はまだ体温で濡れたままだが、気温が下がれば凍りはじめるのは間違いない。
そうなればまた体力を奪われる。
まさに死への悪循環。
それは目の前の二人が人外であったとしても逃れられそうにはないものだ。
「とりあえず美神さんたちは無事だったから救援が来るまで持ちこたえないと…」
「無事でござったか?」
「ああ…巻き込まれる前にチラッと見たが雪崩のルートから外れていた」
正確に言えば横島もその安全地帯に居たのだから間違いは無い。
彼が雪崩に巻き込まれたのは獣娘たちを救おうと無謀にも雪崩に飛び込んだ結果である。
「文珠でなんとかならない?」
「うーん…あと一個しかないんだよなー。これは本当にヤバイ時までとっておきたいし…」
相変わらず外は吹雪である。
当然、救援は出ていない。
災害救助で最重要なのは「二次被害を出さない」ということである。
一人を救うのに夏山で四人。冬山ならその倍。
搬送する距離が長ければ人数は指数関数的に増大していく。
ヘリを使えばその限りではないが吹雪の斜面でホバリングするなど神業でもなければ無理だ。
救助隊は一か八かで動けるようなものではない。
だから彼らに出来ることは救助隊が動けるようになるまでなんとか粘り、そしていち早く自分たちの位置を特定してもらうことである。
文珠はそのためにとっておきたい。
『煙』とか『光』とかを込めれば発炎筒代わりにもなる。
今や唯一の命綱となった文珠をおさめる横島にタマモがしょんぼりとした様子で近づいてきた。
さすがにプライドの高い彼女もこの危機が自分の短慮によるものだと言うことを認めているし後悔もしてもいた。
「あの…ごめん…」
「ん?」
「いや…あのね…わたしのせいで…」
しゅんと肩を落すキツネ少女に横島は困ったような笑顔を見せた。
自分がもっと早く行動していればとの思いが彼にもある。
そしてそれはシロも同様だった。
「あー。気にするな…」
「まあタマモもわざとやったわけじゃないでござるからなぁ…」
「うん…あの…ありがと…」
下を向いたままのタマモの頭をグシグシと撫でると横島はことさらに大きな声で話題を変えて見せた。
反省は後でも出来る。
今は生き残ることが先決。
ネガティブな思考は生きる気力を奪いかねない。
「さて…それはともかくなんとか火でも起こせないかな?」
「燃やすものがないでござるしなぁ…」
「せめて服だけでも乾かせればなぁ…」
雪に埋もれ、しかも吹雪の中を歩いたせいで服は既にびしょ濡れだ。
防水加工とは言っても限度があるのだ。
そんな服をこのまま着続けていてはますます体温を奪われる。
寒気に当てられて凍るにせよ、体温で乾いて気化するにせよ熱は奪われていくのだ。
だが生憎と着替えの類は無い。
さてどうしたものかと首を捻っている横島の横ではキツネ少女が爛々と目を輝かせていたりする。
「私が乾かすっ!」
「は?」
「ふっふっふっ…タマモちゃんの特技を忘れたのかしら? この金毛九尾、火を使わせたら右に出るものはないわ!」
「でも…服、燃えちまわないか?」
妖魔をも焼き尽くす、さらには雪崩まで引き起こすほどの熱量を受ければ服など一瞬で灰になるだろう。
ここで防寒服まで失うのは願い下げだ。
「ちゃんとセーブするわよ!」
「んじゃ頼むか…」
自信満々、腰に手を当てて胸を反らせるタマモの様子には躊躇いは無い。
ならばここは彼女に託すのが正解だろう。
濡れたままにしておけば確実に体力を消耗するのは間違いないのだし。
「はいはい。それじゃあみんな服を脱いでそこにおいて!」
「ぬ、ぬぐんでござるか?」
「一人ずつだと妖力の無駄使いでしょ! いっきにまとめてやったほうがいいじゃない」
「まあそうだな…」
タマモの言うことに一理あることを認めて、横島たちは防寒着とその下のセーターを脱ぐと下着一枚の姿になる。
途端に冷気が肌を刺し、シロの尻尾が逆立った。
体温維持のため表皮はなんとしても表面積を少なくしようと収縮し、血流は生命維持の根幹部分へと優先的に流される。
それゆえに目の前に灰色のスポーツブラに同系色のパンツを履いた人狼の少女とか、ちょっと大人を意識したかのような控えめのフリルのついた桃色のブラとスキャンティのキツネ少女を見たはずなのに横島は平静を装っていれたのである。
鼻や伸縮自在な人体の一部に回す血流など今は無いのだ。
タマモが小さく積まれた防寒衣類の前に立つと唇に指を当てる。
そーっと深呼吸しているのは火力を調整するために精神を集中しているのだとわかるから横島もシロも無言で見つめている。
やがて準備が出来たかタマモが動いた。
「んじゃやるね………………くちゅん!!」
「本当に取り返しのつかないことをしてしまいました」
「……………」
「……………」
「このタマモ…深く反省しておりまするゆえ、寛大な処罰を是非に、是非にーーーー!!」
正座して額を地にこすり付けんばかりに平謝りする少女のプルプルと震えるお尻を横島は無感動な目で追っている。
彼女の後ろには黒い灰が山になっている。
ぶっちゃけ化学繊維は良く燃える。
くしゃみとともに放たれた狐火の火力もまた強かったのだろう。
本当に一瞬で横島たちの衣類は無残な姿へと変貌した。
もはやデッドーゾーンを示すメーターは大きく振り切れた。
すでに凍死までのカウントダウンに入ったと言ってもいいだろう。
あれほどの寒さがそれほど感じられなくなっているのがその証拠だ。
「こりゃ本格的にやばいな…」
溜め息とともに漏れた声に土下座したままのタマモのお尻がプルッと反応する。
相変わらず小刻みに震えているのは寒さのせいだけではないだろう。
何しろ空気が重すぎた。
「なんか寒さもあんまし感じなくなってきたでござるなぁ…」
プルッ
「そういや知っているかシロ…凍死した人って裸で見つかることも多いらしいぞ…」
「ほほう…それはまたなぜでござるか?」
「感覚がおかしくなって寒さを暖かく感じるそうだ…」
プルプル
「もうすぐでござるなぁ…」
「そうだなぁ…吹雪の音も聞こえなくなってきたしなぁ…」
プルプルプルプル
「拙者にはヘリコプターの音が聞こえてきたでござるよ…」
「ああ…俺もだ…って待て! マジでヘリが来ているぞ!」
確かに耳を澄ませばパタパタと聞こえるのはローター音。
いつの間にか吹雪は止み、救援隊がヘリで捜索を開始していたらしい。
「助かる」と思えば反応は早い。
すでに下着だけの姿とはいえヘリに発見してもらうぐらいなら、氷点下の洞窟の外に出るぐらいへのカッパだ。
そのための文珠もある。
生存のために一縷の希望を胸に三人は洞窟の外へと走り出した。
出てみれば空には雲の切れ間から覗く陽光を受けて銀色に輝くヘリが居る。
だが生憎と機首は横島たちと反対の方を向いている。
このままでは見落とされる可能性が高い。
「くそっ! 行っちまう! そうだ文珠で!」
今こそ最後の切り札を使うときと文珠を握る横島の手に縋りつくタマモ。
冷え切って氷みたいだけれど、ぽにゅっとした胸の感触が腕に優しくまとわりついて、危なく体内の血の配分が変わりそうになった横島をウルウルと下から見上げる真剣な瞳があった。
「待って横島! 私にやらせて!」
「タマモ?」
「お願い! ここは私にさっきの汚名挽回を!」
「あ…ああ…」
思わず勢いに押されて渡された文珠を受け取るとタマモはニッコリと笑い、次の瞬間その目を真剣なものに変える。
「いくわよ!」
全てを賭けた少女の叫びとともに文珠は発動した。
嫌な予感が無かったかと言えば嘘になる。
そもそも汚名を挽回するという時点で失敗は確定だった。
言霊とはなかなかに侮れない。
ましてやそれを使ったのが大妖怪の転生なのだから尚更だろう。
「重ね重ねの失態…本当になんとお詫びしてよいやら…」
「文珠がカップうどんに…」
「ああ…俺もまさかこんな展開になるとは…そもそもどんな文字を込めたんだか…」
再び土下座するタマモの前には見慣れたインスタント食品が一個だけぽつねんと置かれている。
横島とタマモの霊力が追い詰められたこの極限状況で変な風に作用したのか、文珠はカップうどんへと化けていた。
「いやー…単に目立つように『赤』ってこめただけなんだけどさ。ほら私がキツネじゃない? だから『赤い〇ツネ』になっちゃったみたいなー。あはははは…………」
乾いた笑い声とともに冷えていく視線と重くなる空気がタマモを押しつぶす。
言えない…間違っても文珠発動の瞬間に邪念が入ったなんてとても正直に言えない。
頭を上げていられないほどのプレッシャーにタマモはまた冷え切った地面に額を押し当てた。
「はい…心の底から反省してますので許してください…」
「とにかくコレを食おう! 少しはマシになるはずだ!」
「では公平にじゃんけんで決めようではござらんか…。揚げ、麺、汁ということでちょうど三人分でござろう」
「私はお揚げっ!「お前に選択権はないっ! 残り物で充分だっ!」 ひどっ!」
自業自得とはいえあんまりの仕打ちに固まるタマモをチラッと気の毒そうに見るだけは見てシロと横島は命がけのじゃんけんを始めた。
心理的な駆け引きから反則スレスレの高等技術。
さらには二重の極みまで駆使したじゃんけんは、鮮やかな右クロスがカウンターで決まり横島の勝利で終わった。
「んじゃ俺が麺ね」
「拙者は揚げを」
「ううっ…汁…汁…しるうぅぅぅぅ…」
泣き伏せているタマモに残った二人が「ちょっとは分けてやろうかなー」なんて考える。
しかしここでシロは思い当たった。
カップうどんにはお湯が必要である。
だがここにはお湯はない。
水というか氷ならいくらでもある。
火は…まあタマモがいるからなんとかなるだろう。
問題は氷を溶かしてお湯にする器だった。
「お湯はどうするんでござるか?」と首を傾げるシロに横島はニヤリと笑うと、まだ萎びたままのタマモを指差した。
「あれを使う…」
「へ?」
師匠の笑みに良くないものを感じてまた尻尾が逆立つシロだった。
「なんで私のブラが必要なのよっ!」
「これでお湯をわかすんだ!」
「燃えるでしょっ!」
「タマモ…日本古来の食の技に紙の鍋で料理するという技法があるのを知っているか?」
「え?」
「燃えないんでござるか?」
「ああ…紙の燃焼点は紙質にもよるが350℃以上。だが水の沸点は100℃。この差を利用して素材を煮込むんだ」
「そ、それで何で私のブラなのよっ!? だいたいブラなら水が漏るでしょうがっ!」
当然の抗議を横島は鼻で笑い飛ばす。
その目に良からぬ光を見てタマモは怯んだ。
よくはわからないが地雷を踏んだような気がする。
「知っているぞタマモ…いやさっき気がついたと言うべきか…」
「な、なにかな…」
「お前のブラにはパッドが入っているなっ!」
「あうっ!」
「確かに布は水を通す。だがパッドを二枚も重ねてカップに入れれば湯が沸くぐらいの時間は持つはず!」
「だったらシロでもいいじゃないっ!」
「拙者は生でござるからなー。それにスポーツブラでござるし…」
「というわけだタマモ…」
「いやっ! 来ないでっ! 来るなぁァァ!」
「揚げを少し食ってもいいぞ…」
「…………ちゃんと返してよね…」
こうして起死回生の器が出来上がる。
カップの中に上げ底グッズを二枚重ね、その中に横島が鳥肌たてながらとってきた氷柱を入れてタマモが最小火力で下から炙るという、ある意味極限の湯沸かし器が三人の命を繋ぐ唯一の希望だった。
当然のことだがタマモの胸は生のままである。
キツネに戻ればよいのだろうがそれでは火が吹けない。
仕方が無いとはいえ泣きたくなる。
さすがに同性として生乳を男の前で晒させるのは気の毒とシロがタマモの背後に回り、手ブラで彼女の秘密を隠し、横島がギュッと目を閉じて氷の入ったブラの紐を持ってタマモの前に立つという、客観的に見れば泣きそうになる光景が洞窟の中で繰り広げられている。
先ほどの失敗が骨身に沁みたか、今度はタマモの火力調整にも問題は無い。
ブラの表面は焦げ始めたが、完全に燃え始めるということはなさそうだった。
己の身を犠牲に持ち主を救おうとするお気に入りのブラの忠節に心の中で詫びるタマモの耳にシロの吐息がかかる。
それが妙にくすぐったい。
「…ふっ…」
「なに?」と目だけを動かして問えば、勝ち誇った顔のシロがいた。
「………拙者の勝ちでござるな…」
「なにおっ!」
「あほっ! 気を散らすなっ!」
注意はちょっとだけ遅かった。
「さて…ブラはおろか俺のパンツと毛も失われたわけだが…」
「海より深く反省しております。仏の顔も三度と申します…ここは一つ三度目のお許しをいただきたく…」
「……今回は拙者も悪かったでござるので…」
土下座する獣娘の尻尾とお尻がプルプルと震えている。
その前に立つ横島はかろうじて守った股間を手で隠すという体勢のせいか怒るに怒れないといった風情だった。
確かにこんな格好でどれほど真剣に説教をしようが説得力などかけらもない。
「とにかくこのままでは死ぬ。ぜってー死ぬ。なんか燃やすもんはないか?!」
あるなら最初から燃やしている。
というかさっきから燃やしてはいけないものばかりを燃やしている三人だった。
それでももしかしたらと期待を込めて辺りを見回す。
ここに至って三人はやっとこの洞窟が意外に奥行きがあることに気がついた。
「そういえばこの奥はどうなっているんでござろうか?」
「ああそうだな行ってみるか…」
下着姿のシロを先頭にさすがに生乳のままでウロウロと歩き回るのを嫌がったタマモがキツネに戻って続き、その後ろに寒気のためにすっかり縮んだ部分を手で隠しながら横島が続く。
こういう場面での定番。
冬眠中の熊でも居ればしめたもの。
とりあえずカロリーと毛皮は確保できる。
熊には災難には違いないが、弱肉強食もまた自然の掟。
そして今、横島たちには動物愛護にかまけているような余裕は無い。
シロの霊波刀の光を頼りに奥に進むにつれ、次第に気温が高くなってくる。
それでもまだ氷点下には違いないが、少なくとも良い傾向が見えてきたことは間違いなかった。
50mほども進んで見れば、仄かに湯気の気配がある。
シロが駆け出し、すでに限界に来ていた横島がブラブラさせながらタマモを飛び越え、頭上の越えられたときにチラッと目に入った振り子のような物体を必死に記憶から抹消しながらタマモも走り出した。
記憶してしまったら稲荷寿司が食えなくなる。
ほどなくして三人の前に開けた空洞とその真ん中で湯気を上げている泉が現れた。
所謂ところの温泉である。
その大きさは6畳ほどで白く濁ったお湯が見るだけで幸せになれそうな湯気を上げていた。
「先生! これでなんとか暖がとれるでござるな!」
「おおっ! 天はまだ俺たちを見捨てて無かったな!」
コレに浸かれば当面の危機は回避できる。
濁ったお湯にそっと手を差し込んで見れば熱すぎるということもない。
ここで体を温めながら救援を待つより他に生還の道はなさそうだった。
だがすでに真っ裸に近い横島と違ってシロもタマモも躊躇する。
命が掛かっているとはいえ混浴。
しかも相手は煩悩大王。
命は助かっても別の危険が増大しそうな気がしてならない。
シロもまだ心の準備が出来てない。
幸いと言うか今まで横島の本能は生存に集中していたからこそ、ほとんど裸同然でも何とか身は守れていたのだ。
しかし風呂に入るとなれば全裸である。
お湯によって弛緩して全身に行き渡った血流がよからぬ場所に集まらないとも限らないではないか。
とりあえず人の姿に戻って手ブラで慎ましく胸を隠しつつタマモは一応抗議してみる。
とはいえ抗議が聞き届けられるとは思えなかった。
「これに入るの? 混浴ってこと?」
「贅沢言うな! 裸を見られるのが嫌なら獣の姿になればいいだろう」
「そ、そうでござるな…」
とりあえずいきなりの混浴は恥ずかしいとシロタマは獣の姿に戻り、先に入っている横島の様子をうかがってみれば、今までの寒さに比べて天国のようなお湯の感触に首までつかって蕩け始めたアホ面が見えた。
躊躇う気持ちは一瞬で消し飛び、二匹は顔を見合わせて駆け出すと「とうっ」とばかりに白く濁ったお湯へと身を躍らせる。
誤算だったのはお湯が濁っていたことだろう。
しかも自分たちは獣の姿でサイズは小さくなっていた。
そして風呂には座って入るものという先入観があった。
だから実は水深が横島の首まであって彼が立ったまま湯につかっていたなど思いもしなかった。
結果として二匹は盛大に溺れた。
呆気に取られている横島の目の前でジタバタジタバタともがく水柱が二つ。
やがて自分たちが犬掻きなら泳げることを思い出したか水柱は落ち着き始め、横島が安堵の息を吐いた時にはプカーと浮かぶ二匹の獣が居たりした。
泳ぎが出来る人でも咄嗟に時には泳ぎを忘れることがあるという生きた…もとい死にかけてる見本である。
「お前らーーーーー! 雪山で溺死すんなぁぁぁ!!」
幸いにも目の前に浮いたので救助は楽だった。
「後は救助隊を待つだけだなぁ…」
のへらーと緊張感の欠片もない顔で湯につかっている横島の頭には二匹の獣が乗っていた。
ただ乗っているだけではない。
寒さに震えつつ乗っていた。
温泉の上とはいえ外気は氷点下、なまじ体が濡れたぶんだけ毛皮を着ていようとも寒さがこたえる。
だがまた溺れるのはごめんだった。
一度溺れた経験が底の見えない湯につかることを躊躇わせているのである。
とはいえ寒い。さっきりよりも寒い。
震える自分たちとは裏腹に横島のなんと幸せそうなことか。
「入りゃいいだろ? 気をつけていれば溺れないだろうし…」
横島の言うこともわかるが一度しみこんだ恐怖感はそう容易く抜けるものではない。
さっきから自分の頭の上でそーっと前足を湯につけ慌てて引っ込めるということを繰り返しているキツネとオオカミの姿に横島のコメカミを鈍痛が襲う。
元々考えることは苦手なのだ。
ならば行動あるのみと横島は頭上の二匹の襟首を掴むと「キーキー」と抵抗する二匹を湯船に放り込んだ。
再びジタバタと水柱が上がったがそれでも今度は心の準備が出来たせいか不細工な犬掻きで必死に横島に縋りつく二匹。
だがキツネやオオカミの構造上、縋りつくにはちと前足の形に無理があった。
となれば結論は一つ。
示し合わせたわけではないが同時に人の姿に戻る二匹。
しかし湯船は思いのほか深く、それでもまだ口と鼻が湯に沈む。
慌てて抱きつくのは横島の腕しかなかった。
「ちょっと待てお前ら! さすがに生はヤバイ!」
例え普段はお子様扱いしていても美少女が生で抱きついてくると言う、他の男が見れば血の涙を流して羨ましがる攻撃に耐えられるほど横島は聖人ではない。
熱に弛緩した体の中を血液が上へ下へと大移動。
さっきとは別な意味で死の危険が生まれた。具体的には失血死。
「離れろ頼むからっ!」
「いやっ!」
「足がつかないでござるっ!」
「だーっ! このままでは俺の理性がっ!」
もともとしつけ糸並みに切れやすい横島の理性は今や風前の灯だった。
だが神はいる。
たとえどれほどの窮地でも生還する人はいるものだ。
「おーい。誰か居るのか?」
「へ?」
「お?」
「え?」
「居たら返事しろー」
洞窟の入り口から聞こえるのは救助隊の声。
よく聞けば他にも人の話し声がする。
「ここにいるぞー! 三人とも無事だー」
とりあえず失血死の危機から逃れようと横島は温泉を飛び出すと入り口目掛けて一目散に走り出した。
彼らの返事を聞いたのか救助隊の安堵の声が洞窟に響き渡る。
「見つけました! 要救助者三名無事に確保です!」
「助かったーーー!!」
寒さもなんのその命が助かった歓喜に満たされ洞窟を飛び出した三人の前には装備に身を固めた救助隊が笑顔で立っていて…………そのままの表情でいきなり血を吹き上げてバタバタと倒れていった。
天高く昇るはそれぞれの鼻から吹き出る熱い血汐。
気圧が低いから飛ぶこと飛ぶこと。
「ど、どうしたの?」
「さあ?」
首を傾げるシロタマと横島の耳に弱々しい救助隊の声が…。
「あはは…ピンク色で金色で…」
「尻尾らぶりー…」
「ああああああああ…要救助者が増えていくーーー!」
『どうした! 救助隊応答せよ!』
「メーデー! メーデー! 出血多量者続出です! メーデー!!」
そこに至ってやっとシロタマは自分の姿に気がついた。
嬉しさのあまり横島に抱きついたままの姿で出てきていたことがこの惨劇の原因だと。
「にゃぁあああああ! 見られたーーー!」
「先生以外の殿方にぃぃぃ!!」
「早く隠せっ!」
羞恥のあまり錯乱する二人の美少女を必死になだめる横島。
だが彼の決断はちょっとだけ遅かった。
九死に一生を得たはずの彼らを覆いつくす死神の羽。
濃密な死の気配にギクギクと振り向けばやたらと晴れやかな顔をした令子が立っていた。
「ふーーーーーーーーーーーーーーーーん…裸で何していたのあんたたち?」
「美神さん!」
「人が心配して高い金払ってヘリまでチャーターしてみれば…裸でねぇ…ここはアレ? 裸で温めあおうっていうセオリー? まさかねぇ…」
「いや…これは…」
「んー…なにかなー?」
ヤバイ…凍死、溺死、失血死と幾多の危機を乗り越えてきた三人の前に立ちふさがる最後の死神。
目と表情のギャップがリアルに死亡フラグっぽい。
助かる方法はただ一つ。
幾多の危機を乗り越え、同じ風呂に入った三人は咄嗟に目だけで意志を通わせる。
「さあ…言いたいことがあるなら言ったんさいな…」
死神が神通棍に霊波を漲らせる。
もはや迷っている暇はない。
残像さえ残る素早さで横島は令子の前に土下座した。
勿論それだけで許しもらえるはずは無い。
今はただこの死の気配に満ちた空気をかき消すことだけが全てだった。
得たりや応とばかりにシロがタマモが獣の姿に戻って横島の肩にとび乗る。
謝るかと思いきや、いきなり意味不明な組体操もどきを見せられて戸惑う令子の一瞬の隙をついて三人の生死を賭けた技が雪山に炸裂した。
『ケルベロスっ!!』
「あははは……いい度胸ね…」
その後に起こった惨劇は救助隊の記録にも残って無いので詳しくは伝わっていない。
ただ街へと向かう救急車の中で、全身打撲で魘されながらも『やっぱりあそこはキングギドラが正解だったのではないか?』と不毛な論争を続ける患者たちがいたという話が伝わったのみである。
おしまい
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