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冬の雨、帰り道にて


雨なんて嫌よ、寒いし。
うちの所長は、そう言っては仕事をキャンセルするのが日常茶飯事だ。
特に冬場は濡れるだけじゃ済まないから、余程のことが無い限りは受けないわよ、と。
人はそれを殿様商売と言うのだろうけど、所長は体が資本のGSであるのだから、多少はわがまま言ってもいいはずよと笑い飛ばす。
さほどに太い心と細やかな気配りがあれば雨だろうと関係ないだろうと私などは思うのだけれど、そこは見えている世界が違うらしい。

「冬の雨だって、悪い物じゃないんだけれどな」

一人呟く。
雨にも色々な種類がある。
いつも降るのは冷たい雨、それとは違い稀には暖かい雨も降る。
霧雨、小雨、時雨雨、梅雨、驟雨、呼び名だってこんなにある。
場所によってはお天気雨を狐の嫁入りなんて呼ぶこともあるそうだ。
雨の日にだって、きっと良いことはあるのに。
誰の言葉か忘れたけれど、私たちが雨をこんなにも細かく呼び分けるのは、無関心ではいられないからに違いない。
それは別に嫌いでは無い証拠、本当に嫌いならば人は無関心を通り越して頭から追い出してしまうだろうから。
雨はとても身近だから、どれだけ小面憎かろうとも離れ逃げてしまうことは出来ない。
このたくさんの呼び名は、せめてサァサァ音が街を覆う時間を、濃淡の薄くなった景色を名付けることで、人が雨を取り込んでやろうとした精一杯の証拠なのかもしれない。

緑雨、芽吹く命に滋養を与える雨。
夕立、ひとときの涼をくれる雨。
秋雨、季節の変わりを知らせる雨。
そして、冬。
氷雨、それは単に冷たい雨じゃない。潤いを与えてくれる雨だ。
春よりは小粒で、夏よりは大人しく、秋よりは華やかでない雨だけれど、すぅと大きく息を吸い込めば、体に元気が蘇る。
鼻から肺へ取り込んだ湿りは血に乗って全身を巡り、やがて体中に満ちるのだ。
雨が振り続くモノクロームの街を歩くとき、誰もが下を向いて急いでいる。
もったいないなあ、と私は足を止めて見やる。
もうちょっとだけ速度をゆるめ、わずかばかり丸まった背を張ってやれば、雨はきっと恵みを与えてくれる。
街路樹すら葉を落としきって枝ばかりの姿が寒々しいけれど、根は春に備えて染みこむ雨が捉えた栄養を蓄え続けている。

冬の雨は独特。周りの人で例えるなら、隊長がぴったりだ。
今でこそ良いママさんだけれど、アシュタロス戦で見せた厳しさとそれを支えていた愛情は、冬の雨と言うに足る。
だから私は雨傘のつばの先に、軒下で雨宿りをしているあの人を見つけた時に、思わずくるんと一回りさせたのだろう。
アスファルトを流れ行く雨にそって、でも踏み入れないようにしながら、チャプ・ピチャ・ポチャ、足音を確かめて歩く。

近くに来たなら、つばをそっと下げて、すぐには分からないように顔を浅く隠すのだ。
制服のコートは他の学校と代わり映えしないから、たとい黒髪が目に入っても少し躊躇するだろう。
軒下の彼は、ハンカチで体を拭っている。
私はすっと前を通り過ぎてちょっと、初めて気づいたように振り返る。
雨傘を下げてにこやかに挨拶をして、身振りで誘う。
ありがとう、彼は手を前にかざし、すぃと隣に来た。
雨を狭い布地の下でやり過ごしながら、私たちは一緒に歩いて事務所に帰る。
雨嫌いな所長は、今日も仕事をキャンセルするのだろうか。
口元に笑みを湛えつつ、私はささやいた。

「冬の雨はとてもしたたかで、優しいんだから」

互い片方の肩を濡らしつつ、坂を上っていく。
雨は道の傾斜にそって、側溝に流れ歩みを遮ることは無かった。
http://gtyplus.main.jp/log/old96/old96055.html

「雨の日曜、事務所にて」はこちら。


雨の日にも楽しいことはあるってことですよ。ええ。

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