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夢見る館




 古い洋館が在るとしよう。

それは、高層ビル立ち並ぶ都心の一角。
その場所だけ、時代に取り残されたかのようにポツンと寂しく洋館は残っている。
住むものは無く管理者も居ない、その洋館の窓ガラスは心無い子供の悪戯により全て割られているに違いない。
雨により煉瓦を固めた泥が溶け出し、強風の度、カタカタと揺れた煉瓦が音を立てようになっているだろう。

それでもその洋館はまだ、その場所に在るのだ。

 長い時を生き、長い時を経て、
いつしか人は、その洋館に名前をつける。

 ただ一言。


   幽霊屋敷――と、







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       〜 夢見る館 〜

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 ――ぎぃっと、錆付いた蝶番が耳障りな音を奏で、その扉は内側から開かれた。

「それじゃあ、行ってくるよ。」

 その扉の向こうより出てきたのは、学生服をびしっと着込んだ横島忠夫で、普段の彼からは想像し難い覇気がその顔には浮かんでいた。

「ぅ〜
 ……いってらっしゃい。」

 続いて、そんな彼を送り出すかのよう、ボサボサの髪をそのままに美神令子が姿を現す。とは言っても、彼女はあくまで扉の内側。今、横島が出てきた館の中からの見送りである。
彼女は誰が見ても一目瞭然な寝起き顔で、かったるそうに手をひらひらと振って見せた。
それに対し横島も実に元気に手を振って返し、パタパタぶんぶんと手を振り合う二人。

「……って、いつまでやらせんじゃい!
 さっさと学校へ行けぇぇ!!」
「行ってらっしゃいのキスがま――ごべはぁっ?!」

 激しい打撃音と共に、美神の鉄拳を顔面に受けた横島は、表通りまで転がる、が無傷。
すぐさま起き上がると、これ以上、美神の逆鱗に触れぬように一目散に学校へ向かい走り去った。

「よーやく行ったか、あのバカチンは……
 さて、寝よ寝よ。」
「あ、美神さ――じゃない、お母さん。おはようございます。」

 走り去る横島の後姿が見えなくなったのを確認し、再び館内へと戻ろうとしたところで、二階からの階段を降りて来たおキヌが美神へ朝の挨拶をする。

「ん、おはよ……。
 じゃ、もう一度寝なおすから、気をつけてね。」

 よほど眠たいのか、欠伸をかみ殺しながら言う美神の姿に、おキヌは苦笑を浮かべると無駄だと思いながらも口を開いた。

「もー、お母さんもこれを機に、生活習慣を改めたらどうですか?
 ほら、早起きは三文の得って言うじゃないですか。」
「三文くらいじゃ、朝のこの一時とは釣り合わないわよ。
 ったく、なんで私がこんな事を……」

 だが、おキヌは知っている。
彼女がこの仕事を引き受けた時、選択肢は少なくとも二つあったという事を。
そして、よりお金の掛からないこの方法を彼女自身が選んだという事を。
けれども、寝起きで不機嫌な美神を前に、それを口にする程、おキヌも愚かではない。
だから、彼女は相変らず苦笑を浮かべたままで――と、はっとおキヌの双眼が、何かに気づいて見開かれた。

「って、横島さん。もう先に出ちゃったんですか?」

 口出た言葉は確認。けれども、それが既に確定事項だという事をおキヌは知っていたはずだ。
美神が玄関の所に居た時点で、それに気づくべきだったのだ。
何故なら、『父親の見送りは母親のお仕事』。
おキヌは己の迂闊さを呪った。

「横島ぁ?
 ああ、今しがた学校に――」
「ええっ?!
 ま、待ってください、横島さはーん!!」

 ばたばたと音を立て、美神の横をすり抜け玄関より駆け出して行くおキヌ。
美神は、その彼女の様を、相変らずの寝ぼけ眼でぼーっと見つめながら、

 ――やっぱ、彼女をママにしたほうが……
  いや、でも、そんな事をしたら、横島のバカは毎晩おキヌちゃんに襲い掛かるだろうし、
  そんな事になったら……

 やはり、この配役に間違いは無いはずだ。
ともあれ、彼女の朝の役割はこれにて終わった。
美神は、再び寝直す為に己の寝室へと消えていった。





 事の次第を説明するには、少しばかり時を遡る必要がある。
そう、それは、四日前に、美神除霊事務所に任せられた一つの依頼。
内容は『都心部に明治より残る洋館を除霊して欲しい』と言うもの。
バブルは弾けたといえど、そこは高層ビル立ち並ぶ東京のど真ん中で、当然、その報酬額はかなりの物だった。
そんな依頼を彼女が断るわけも無く、早速次の日に訪れた現場。
愛車を飛ばし、ナビに従いたどり着いたその場所には、確かに、かなり古びた洋館があった。
左右のみならず、背後まで、三方を高層ビルに囲まれながら、それでもその時代錯誤な建物は、今尚朽ちることなく残っていたのだ。
彼女の直感に若干の嫌な予感が走った。
だが、それも報酬額との天秤により破棄。
アタッカーの美神と、シロから順にその屋敷の中へと慎重に進入する。
依頼書には、幽霊屋敷、とは書かれていたが、実際、どのような幽霊が現れ、どのような被害が出ているか、が明記されて
いなかったのだ。
それ故の高額報酬。
恐らくは表沙汰には出来ないような多くの被害があったのだろう。
 館の中へと無事進入した二人。
今のところ怪異が起こる気配は無い。
館全体から若干の霊的気配――残り香のようなものを感じる事より、何かが居るのは間違いなのだが……
美神は玄関入ってすぐのホールに、外に待機させておいた横島、おキヌ、それにタマモの三名を呼び寄せると、事情を説明し、
気を引き締めるよう促した。
その瞬間――激しい音をたて、玄関のドアが閉じられた。
そして響く何者かの声。

『お帰りなさいませ――
 私は、御主人様のご帰還を長らくお待ち申し上げておりました。』

 その声を聞き、美神は悟った。
館に怪異が住み着いているのではなく、この《館》こそが怪異、その物であるという事に。
けれども、時は既に遅し。
退路たる玄関のドアは既に閉ざされ、彼女らは籠の中の小鳥。
許されるのは、『出して出して』とさえずる事のみで、館はそんな彼女らに、それぞれのロールを任せたのだった。


 



「あー、もうっ!
 イライラするわねぇ――っ!」

 春先、うららかな太陽の日差しの下、美神は、庭に立てかけた物干し竿に洗濯物を引っ掛けていたりする。
北、東、西、と高層ビルに囲まれたこの屋敷の日照時間は非常に短く、事務所に居た時はおキヌが進んでやってくれていた
洗濯は、昼時に自由に動ける美神の仕事となってしまった。
まぁ、それだけなら未だ許せよう。
おキヌの制服、自分の下着、タマモの普段着、までならまだ許容範囲だ。
けれども、横島の下着を洗濯し、干している自分の姿を客観的に想像してしまうと、どうにもこうにも悲しくなってくる美神。

 ……まったく、何が哀しゅーて、横島クンの下着なんて干さなきゃならんのか、

 それでも彼女は横島の洗濯物だを放置する、なんて事はしないい。
それどころか少しでも時間をかけ、一つ一つ丁寧に物干し竿へと通してゆく。
なんだかんだ愚痴を零しながらも、皺を伸ばしながら干していく行為がどこか楽しいのか、
いつしか彼女の口から零れ出た鼻歌。
それはビル風に乗り、屋上で一人コンビニ弁当を食べていた中年独身男性に加え窓際族なサラリーマンの割とナイーブな心を
癒したり癒さなかったりしたが、それはまた別のお話。

「へぇ……、美神さん。結構、様になってきたじゃない?」
「ぴ――っ!?」

 不意に背後より投げられた、からかいの調子篭る言葉に美神令子。
普段の彼女からは想像もできないような声を出して固まった。
固まったまま、ぎぎぎ、とブリキの人形が首を捻るような音を立てながら、恐る恐る振り返る美神の頭部。その視線の先、

 ――ヤバイ、見られた!
  殺っとく……?

「あ、あら。タマモ。
 今日は随分遅いのね?」

 即座に浮かんだバイオレンスな発想を振り払い、ニヤニヤしながら近づいてくるタマモに努めて冷静な声をかける美神。
だが、その額に浮かんだ焦りの汗だけは隠せず。

「ん〜、ちょっとねー。」
「そ、そう。」

 それでお話は終わり、とばかりに、適当な相槌を返し、続きの洗濯物を干そうと振り返る美神。
その背中にタマモが尚も楽しそうに続けた。

「おキヌちゃんが横島にーってのは、一目瞭然でしょ?
 で、横島が美神さんにーってのも、今のところ、あなたが一番色気があるから納得できる。」

 ――い、今のところ?
  やはり、殺すか……

「でも、意外だったなー
 うん、盲点だわ。
 まさか美神さんが横島の事を――」
「違うっ違うっ!
 それは誤解だわ!!
 ほ、ほら、『ママ』のロールの私は、洗濯か買い物の時しか館の外に出れないから、ね?」

 館から与えられたロールにより、美神はこの館に住む『母親』役となってしまった。
流石に明治より残る建物故か、家事は女の仕事、という古臭い固定観念でもあるのか、美神が館の外に出れるのは
『洗濯の為』か『ご飯の買い物』に限られていた。
その道中に逃走を試みたが、シメサバ丸の際にも彼女が言っていた通り、年代物に憑いた幽霊は強く、そしてそれが館程の
巨大なものになれば尚更。
気が付けば、何故かこの館の前に戻ってきているという現象が起こるのだ。
と、言うわけで、美神は、数少ない外の空気が吸える機会を堪能していた……と、力いっぱい説明するのだが。

「……私、何も言ってないけど?」
「……。」

目の前にはニヤニヤと笑うタマモ。

 ……事務所に戻ったら絶対除霊してやる。

心に誓う美神令子であった。
ともあれ、

「そういやアンタ、シロにちゃんと餌あげてる?」
「犬?
 さぁ、放って置きゃその辺で残飯でもあさって来るでしょ?」
「ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん!!」

 不意に風に揺れる洗濯物の向こう側、玄関の入り口側に備え付けられている犬小屋から大きな鳴き声が響いた。
その犬小屋は、どう見ても小型犬用の犬小屋なのだが、見れば、どのようにして入ったのか、
その中にはシロが人間形態のまま押し込まれていて、

「ぎゃんぎゃんっ!
 うー、ぎゃん!
 うぅ〜〜」

 館より言いつけられたロールで、もっとも悲惨だったのはシロに違いない。
彼女に与えられたロールは、番犬。
シロは、最初、それを喜んでいたのだが、夜が来れば強制的に館の外の犬小屋まで戻され、あげく一度小屋に入ってしまうと、
子供がシロの名を呼ぶか、不審者が家の側をうろつかない限り、外には出てこれないらしい。
しかも、犬小屋にいる間は発する言葉は全て、犬のような鳴き声にしかならず、

(不条理でござる!
 拙者、こんな屈辱、我慢できないでござる!!)

 分からずともそう叫ぶ彼女の声が今にも聞こえてきそうだった。
 
「……可哀相だから、タマモ、呼んであげなさいよ。」

 タマモとおキヌのロールは共に、『子供(娘)』だ。
だから、タマモが呼べばシロは夜が来るか、自ら犬小屋に戻らない限り自由に外を――と言っても敷地内だけだが――
出回れる事となる。
いつもならば、学校へ出かける時におキヌが一声かけて行くのだが、今朝の慌てぶりでは、どうやら忘れて行ったらしい。
だから、シロがあの小屋から出る為には、どうしてもタマモの協力が必要となるのだ。
けれども――

「嫌よ。だって犬にはお似合いでしょ?」
「ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん!!」

 こう言うときのタマモは容赦ない。

「とりあえず餌だけはちゃんとあげなさいよ?」

 興が失せたのか、再び館内へと戻っていくタマモの背に、美神は声をかける。
了承の意か、それとも適当にあしらっただけか、扉の向こう、一瞬残されたタマモの手が振られたのが見え、

「……『私じゃ、残飯しかあげれない』みたいなんだけど、昨日の夕食の残り物、食べる?」
「くぅぅん……」

 まだプライドが勝ったらしい。
犬小屋からはみ出た尻尾が、器用に宙にバッテンを描いた。 

 




「あ、横島さん『も』今帰りですか?」
「あれ? おキヌちゃん。 なんか最近、よく一緒になるなー」

 横島が通う高校からは徒歩、おキヌが通う六道女学院からは電車を利用し、その最寄の駅から今住まう館までの通学路。
その二つが交わる交差点で待機する事、一時間。
ようやく訪れた待ち人に、おキヌは己もさも今通りがかったかのよう声をかけた。
少し驚いたような横島の声に、おキヌは隠れ潜んでいた事に悟られていないと知る。
それは少し嬉しかったり、でも、そろそろ三日目。
少しくらい気づいて欲しかったりもするのだが、何はともあれ、横島と二人、肩を並べ帰路につけるこの数分間は、
彼女にとっては学校の授業や、遠くに住む義理の家族へ送る手紙を書く時間に匹敵するほど大切な一時だ。

 夕焼け時。
自分たち同様、家路を目指すサラリーマンに混じり、二人の影が少し間を開け地面に伸びていた。

  どうすればこの間は縮まるのかな?

そんな事を考え少しアンニュイに陥っていると、

「そういえば今日さ――」

横島が何気ない雑談を振って来た。
その話に乗りながら、おキヌはそっと半歩彼に近づいてみた。
鈍感な横島は、その事に気づかないまま、今日学校であった事の話をする事に夢中で、

「んで、ピートもな、この洋館の話、聞いた事あるみたいでさ。
 そしたらタイガーの奴が愛子も知ってる知ってるーってしゃしゃり出てきやがって――」

 面識のある人達の名前に並び、おキヌの名前が出てくることは決してない。
それは通う高校も違うし、至極当然の事なのだが、やはりそれは何処か物悲しい。
決して、今の学校に通うようになってから出来た多くの友人を、ないがしろにするつもりは無いのだが、
それでも時折彼女の小さな胸に去来する痛みはどうしようもないもので、結局、半歩くらい彼に近寄ったところで、
どうこうなるものでもないのだと彼女は感じた。
 だから、彼女はなけなしの勇気を振り絞る事にした。
あと少しに迫るビルとビルとの隙間。その場所に、今の彼らの住まいが在り、そしてそこに戻ってしまえば、
彼女は彼の『娘』に戻ってしまうからだ。

「あ、あのっ、」
「ん――?」

 不意に立ち止まったおキヌに気づいた横島が、同じように足を止めおキヌを振り返った。
その何気ない動作でぶつかった二人の視線。おキヌは生来の気性から、すぐさま頬を赤らめ、目線を下ろしてしまったのだが、
それでも、なんとか口を開く。

「横島さんが……今、美神さんに夜這いをかけてるのって、
 美神さんが『母親』で、横島さんが『父親』のロールだから……なんですよね?」
「へ?」

 かけられた言葉に、横島は一瞬何の事を言われたのか検討もつかなかった。
何故なら

「俺が美神さんに夜這いをかける理由?
 そんなの美神さんが同じ部屋で寝てるなら、夜這いをかけるのは寧ろ当然の事だし、
 ああっ!でもこんな事言ったらおキヌちゃんに幻滅されちまう。ええっと、何か良い言い訳は……」

  もちろん、与えられたロールを完全にこなせば、館はいずれ満足して成仏するって言うしな。

「……。」 
「……。」

 一瞬時間が止まる。
妙ににこやかやな笑顔の二人が見つめあい、

   ――どげしっ!

「――!?」

 大きな音と共に、横島の顔面に空の青くて大きなポリバケツが命中した。

「――もうっ
 横島さんのバカ!」

 横島の暗転する視界の向こう、走り去っていく足音だけが横島に届く。
それをもって、横島はまた思っていた事が口に出ていたのだと知った。

「……なんで俺はいつも、こうなんのかな。」

 元々、美神のような霊力全開の拳で殴られたわけでなし、すぐさま復活を果たし、律儀に散らかったゴミをポリバケツへと
かたし直すと、横島。一人きりとなってしまったあと少しの家路。その先へと眼をやって。

「……あれ? おキヌちゃん?」

 普段なら、あのまま走って退場してしまうはずのおキヌが、館の少し手前でこちらを見ながら立っているのが見えた。
自分を待っていたのだろうか?
そんな事を考えながら、少し早足に距離を詰める横島。
張り上げなくとも、声が十分に届く距離に近づいた彼の言葉は――

「ごめん、おキヌちゃん。
 ……もしかして待ってて――」
「横島さん!」
「はひっ?!」 

 ――珍しくおキヌのあげた強い声に遮られ、横島は条件反射で返事をしてしまう。

「もし、もしですよ?
 私が『母親』のロールなら、私にも同じようにしてくれますか?」

 それを言うために待っていたのだろう。
おキヌはやっとの事でそれだけを伝えると、身を翻し館の中へと消えて行く。

「………………………ぇ?」

取り残された横島。 

「それって……一体、どーゆー……」

置き去りにされた言葉の意味を掴みきれず、ただただ呆然と立ち尽くしていた。






「この女狐が――っ!」
「何よ、犬は犬小屋って館も相場も決まってるんだから仕方ないじゃないっ!」
「もう簡便ならん、いくら温厚な拙者とはいえ、今度と言う今度は堪忍袋の緒が切れたでござる!」
「はぁ〜? 誰が温厚ですって?
 ……野蛮の聴き間違えかしら?」

 どたん、ばたんっ

 先ほどの事を思考の端に追いやり、とりあえずは館へと帰還した横島の前、通り過ぎていくのはそんな二匹の喧騒で。

「お前ら、飽きないなぁ」
「――あ、横島。おかえりー」
「あ、先生、お帰りでござる。」

 そんな喧騒の元凶が、帰宅した横島に気づきピタリと止まった。

「そうそう、横島。いいこと教えてあげよっかー?」
「先生!聞いて欲しいでござる。拙者、今日は散々――」
「あー、悪いけどまた後でな。
 先に着替えてくるわ。」

 先ほどまでの喧嘩はどこへやら、まるで打ち合わせしていたかのように彼に飛びついてくる二人を横島は苦笑でかわし、
館からあてがわれた『父親』と『母親』の寝室へと向かった。
背後で、女狐が先生に何の用でござる! とか 邪魔するなら犬小屋に戻すわよ! 等と再び喧騒のプロローグが聞こえたが、
横島は敢えてそれをスルー。
『仕事』を終えた『父親』たる横島には帰宅後にも、しなければいけない事がある。
それは、館により定められたロールではなかったが、横島自身が決めたことだ。
 美神は居間か台所に居るのだろう。
二人の寝室へと戻った横島は、手早に学生服を脱ぎ捨てると、彼用に宛がわれたクローゼットの中から、いつもの一張羅を
取り出し羽織った。
灯りも付けず、薄暗い部屋。
ようやくそれに慣れてきた彼の瞳が、広い目の部屋。その真ん中にでかでかと置かれたダブルベッドへと向けられた。
それは本来、『母親』と『父親』にと用意されたものであったが、当然、美神がそのような事許すわけも無く、
ここ数日彼が眠っているのは、今身に纏っているGジャンのあったクローゼットの中だ。
 ちなみに、そのクローゼットの中には、その一張羅の他には頑丈な鎖が仕舞われている。
どうやら館の力により寝室でしか寝れないらしく、だから、それは、しかたなく同室を許した美神の苦肉の策。
つまり、夜、二人が寝る際は、クローゼットに鎖を巻きつけ、横島がその場所から出てこれないようにしてしまうのだ。
もっとも、毎夜毎夜彼は何故か脱出に成功しているし、そして、毎夜毎夜、血まみれにされ、再びクローゼットに押し込まれ、
朝を迎えるのである。
 だから――

  ふんふんっ ふんふんっ

 と、ベッドにダイブした横島がその布団に微かに感じる美神の残り香を嗅ぎ、身悶えするというのは、まさに当然の行為!

「これが俺が定めた父親のロールなん――」
「そんな父親がおるかぁぁああ!!」

 ベッドの上、拳を握り締め力説する横島のテンプルに、部屋の入り口、全身に鳥肌を立て現れた美神が投げつけた柱時計が炸裂する。

「ごべりば……」

 まぁ、これもまた彼女ら一家の日課なのだろう。
変な日本語になるのだが、ベッドから転がり落ち、血の海に沈む横島の無事を美神は一瞥すると言った。

「晩御飯、暖かいうちに食べに来なさい。
 もう全員揃ってるわよ。」
「あれ?
 わざわざそれを言いに来たんスか?」

その声に、やはり無事だった横島はひょこっと柱時計の下から頭を起こし、部屋の扉、美神が居た方を見やるが、

「別に――折角作ったものが冷めちゃうと、美味しくないでしょう?」

既にその場所に美神の姿は無く、恐らくは一階の居間へと向かっているのだろう。
階段を下る音と共に、そんな声が開け放たれた扉の向こうから聞こえた。






「――で、《館》……って、この名称分かりにくいわね。
 ちゃんと伝わってる?」
『はい。不思議と、私を呼ぶ時の名称と、固有名詞の館とは違って感じられます。』
「そう、ならいいんだけどさ。
 あんた、そろそろ成仏できそうな気がしたりしない?」

 欠食児童のがっつき合い……と言っても、主に横島とシロだけなのだが、ともあれ、壮絶な食事バトルは幕を終え、
今はのんびりと食後のティータイム。
館の霊力で、最低限の家の修復を行われたが、中の機材は全滅。
最低限の食器等は外部から運び込み生活していた美神達。流石にテレビは重いので持っては来なかった。
つまりは、食後の時間を潰す娯楽は無く、何するわけではなく、皆がそれぞれ居間に集まり寝るまでの時間を潰すのが、
この館での夜の生活だ。
もっとも、食後直ぐにシロは強制的に犬小屋へと戻されてしまう為、この場には居ない。
テレビよりも優先度が高かった火燵が、この居間に一つだけある、というのも、皆が集まる理由の一つかもしれないのだが、
ともあれ、暇を持て余して――と言うわけでもなかろうが、美神がなんとはなしに《館》へと話しかけた。

『ふむ……かなり満ち足りて来ている気持ちはするのですが、
 それがどれ程蓄積したら果たして成仏できるのかは、私には分かりかねます。誠に申し訳ございません、御主人様。』
「今日で5日目か……
 タマモ、事務所の方はどうだった?」

 『母親』の美神は自らの事務所へ戻ることが出来ない。
値の張るお札や精霊石を多用すれば、この館を強制的に除霊することも出来よう。
しかし、この《館》の想いを満たしてやれば、無駄弾無く除霊することが可能だ。
その場合は、数日は必要かもしれないと、一応、その時の仕事のスケジュールと照らし合わせて選んだこの手段だったのだが、
彼女の思いの他、それは時間を必要とする作業だったようだ。
 そろそろ次のスケジュールが押して来ている可能性もある。
留守中の対応は、人工幽霊に一任してあるので、夕時、タマモにそれの確認に行って貰っていたのだ。

「ん〜、三件程、大きな仕事が入ってきてたかな?
 一つは、オカルトGメンの西条さんからの依頼で、もう一つは■■重工さんから。
 最後の一つは、留守だったので小笠原さんの方に行ったみたい。」
「うわ、よりにもよってエミの所とは……最悪。」

小笠原の名前が出たことで、露骨に顔をしかめる美神。そんな彼女の様を同様にその名前を耳にした瞬間に、予測していたのだろう。
横島とおキヌが顔を見合わせ苦笑した。

「まぁ、過ぎてしまった事はしかたないわ。
 それよりも後の二件も、こっちにあまり時間かけてたら最悪エミの方に流れちゃうかもしれないわねぇ。」
「それなら、人工幽霊に、神父の方にまわす様、言って置いたらどうッスか?」
「あ、それグッドアイデア。冴えてるじゃない。横島クン。
 タマモ、すまないんだけど明日朝一でお願いね?」

 可能なのなら今すぐにでも伝えに行きたい。
そんな顔をしながら言う美神にタマモもやれやれと肩をすくめ了承の意を示した。

「あー、でも、ホント。
 成仏させるのがこんなに難しいとは思わなかったわー」

 いつもは力任せの美神である。

「そういえば、私も成仏できませんでしたしね?」

 沈む美神を少しからかうようにおキヌが言った。

「まぁ、それは結果オーライって事で。」

 笑顔を作り返す美神におキヌもまた笑って返す。
好き嫌い、で言うならば、おキヌは美神とは対で、力押しで除霊するよりは成仏して欲しいと考えるタイプである。
だから、この《館》を成仏させる方法を途中で投げ出し、今から力押しで除霊するなんて事は彼女としても避けたかったのだ。

「でも、変ッスね。」
「変?」
「何か思い当たる事でもあるの? 横島クン。」

 横島の漏らした言葉に、三対の瞳が集まった。
彼自身、それほどまでに考えなく口をついただけだったのだろう、突然向けられたその瞳に少々たじろぎながら続けた。

「い、いや。さっきのおキヌちゃんの話なんだけどさ――」

 彼の話を要約するとこうなる。
曰く、以前、美神がおキヌを『山の神』から解放した際、成仏できなかったのは、件の球根妖怪の縛りがあったからで、

『つまり私も同じように何かに縛られているのではないか――と、横島殿は言うのですね?』
「まぁ、ただの想像だから……」

苦笑を浮かべ、横島。
彼自身、今自分が口にした言葉をさほど信じては居ない。
そもそもおキヌの時の様な世界を揺るがすような危機が、そうそう転がっているだなんて想像したくもなかった。

「流石に、あの時のような事はないですよぉ、」

彼同様、苦笑を浮かべ返すおキヌであったが、そんな中、彼らの上司は違っていた。

「いや、案外、いい線行ってるかもね、横島クン。」
「ぃ――?!」
「別に、世界を滅ぼすような大妖を封印している、とかじゃなくてもいいのよ。
 私とした事がうっかりしていたわ。」

 焦る横島達に、彼らの誤解を察した美神が先んじて安心させる言葉を続けると、何か思うことでもあるのか、彼女は一人俯き
なにやらブツブツと独り言を始めた。取り残された二人と一匹はそれぞれに顔を見合わせ、美神が言わんとする真意を探るが、
やはり思い当たる事は無く。

「基点から間違ってたって可能性もあるって事。」
「基点から?」
「「あ――っ!」」

こういう時察しの悪い横島は、美神の答えに鸚鵡返すが、おキヌとタマモは何かに気づいたように己がポケットの中からそれぞれ
一枚のカードを取り出した。
そのカードには双方とも『娘』と書かれており、即座に正解へと辿りついた二人に美神は穏やかな笑顔を向け更に続けた。

「いい? 私達は最初にそのロールを任された時から間違っていたって可能性もあるの。」
『それはどういう事でしょうか?』

《館》自身も横島同様、美神の言わんとする事が掴めないらしく口を挟んできた。

「私達はこのカードを、ロールを受け取り、それぞれが与えられた役割を演じれば、《館》、貴方が満足し成仏できると考えていたわ。
 でも、それが違うかもしれないって言ってるのよ。」
『……なんと、』
「貴方は《館》の霊。けれども、本当にあなた自身が《館》なの?
 それとも《館》と同化する事でしか、存在できなかった霊、思念だとしたら?」
『自覚……しかねます』

 美神の問いに、苦しそうな《館》の返答が返って来た。
けれどもそれは美神自身予測していた事。
己の役割を知らず、己が為すべき事を知らず、故に霊はこの世を彷徨うのだ。

「とりあえず、手分けして館内をもう一度捜索してみましょう。
 本来の家主達の未練や、そういったものの痕跡が見つかるかもしれないわ。」






「あれ?
 横島さん、もうこの部屋の探索は終わったんですか?」

先住者、本来のこの館の持ち主だった所有物だったものを探す為、犬小屋に縛られているシロを除く四人のメンバーは、
散り散りに館内の捜索を行っていた。
もともと掃除――というか、家事全般を得意とするおキヌは、早々に己の担当となった部屋を調べ終わり、そうして横島の手伝いに
来たところであった。
けれども、部屋の中に入ったおキヌが見たものは、部屋の奥、窓の側に腰掛け、ぼんやりと外を眺めている横島の姿で、

「あ――
 ごめん、これから。」

 何か考え事でもしていたのか、今更に入ってきたおキヌに気づいたかのような少し驚いた顔で返した。

「考え事ですか?
 どうしたんです、横島さん」

部屋に入ってすぐ、足元に散らばっていた瓦礫を片付けようと伸ばしていた手を止め、おキヌは横島の側へと歩み寄り問うた。
一瞬ぶつかった横島の瞳に、どこか普段と違うものを感じたからだ。

「ん、……いや、分かってた事やねんけど、
 ここでの生活も、もう終わっちまうのかなぁ、なんて。」

 そう思うと、ちょっと勿体無くて――というか、俺はあの女に指一本と触れてないというのにっ!!
拳に血管を浮かべ、本当はかなり悔しいのだろう、目から血の涙を迸らせながら叫ぶ横島。
今、彼の目の前には自分が居るというのに――それでもそんな叫びを上げる彼におキヌは、

「もうっ
 ……でも、私も少し寂しい気がしますね。」

正直、少し妬ける。
けれどもおキヌに言わせれば本能に忠実なのも彼の魅力の一つ。
これくらいで、毎度毎度妬きもちを妬いていたんじゃ、彼以外女性社員のいないこの事務所ではやっていけない。
だから、おキヌも自分の気持ちを口にする事とした。

「楽しかったですもんね、この一週間。」

おキヌだけではなく、他の三人の女性メンバーにとってみても、この館での生活はその実、大差はないのだろう。
寝泊りする場所が人工幽霊の居るビルから、この場所に変わったというだけで、強いて言うなら、埃っぽいのと、宛がわれた以外の
部屋はボロボロで、瓦礫で埋もれているという事くらい。
それは寧ろマイナス要素といえる事のはずなのに、それでも楽しかったこの一週間。

理由は言うまでも無くおキヌには分かっていた。
自分が寝る直前まで、また、朝起きて、間もない時間に。
髪を整える前とかには、会いませんように、そう願いながらも会ってしまえばそれはそれで嬉しい複雑な感情。
ある意味、今まで以上に彼の側に居る事の出来るこの環境。
それが、無くなろうとしている今、おキヌにとっても、またそして他の三人にしてみても、心から嬉しくないわけはないのだろう。
抱いている感情が、愛情であれ友愛であれ、おキヌが大切に想う人には、場を楽しくさせる才能があるのだから。

 それに、今回、おキヌは少しだけ頑張れた気がしていた。
だから、今の彼女は、それだけで満足だったわけで、

「でも――」
「ああ、だからと言って、このままここに住むわけにも行かないし、
 この《館》も、美神さんの言う通り、この《館》に眠る別の想いも、ちゃんと成仏させてやらないとな。」
「――ですね。」

 横島とて、それは理解していた。
ただ、少し、彼も本当にこの生活を名残惜しく想っていただけだったのだろう。
おキヌと言葉交わし、再びいつもの笑顔の戻った横島は、近くに転がっていた瓦礫を掻き出し、前館主の遺物を探し始め、
おキヌも笑顔でそれに倣った。







「――人の住んでいた痕跡がない!?」

肩透かしにも程がある。
既に時計の針は日をまたぎ、タマモは既に自室で床についていた。
かなり大き目の洋館だ。
全ての部屋を探し終わり、居間へと集合した皆の意見を集めた結果は、美神の先ほどの主張を覆すものだった。
いつからそこ館がこの場所に在り続けたのかは分からない。
幽霊屋敷と呼ばれる前、けれども館主達が居なくなったその後に、盗人等に入られた可能性は十分にあるが、元館主や他にも住んで
いたであろう者達の私物等が一切無い、なんていうことがありえるのだろうか?
もしかしたら元館主一家が夜逃げしたという可能性もある。
だが、それにしてもやはりこの現状として、辻褄が合いそうにも無い。

「ここまで何もないっていうのは、むしろ異常ね……」

二度の予想を裏切られた為か、そう口にする美神令子。彼女にしては珍しくその顔からは覇気が失せていた。

「案外、最初っから本当に人が住んでいなかったりしてな。」

沈む場を明るくしようとしてか、もしくは他意なくしてか、横島の軽口。

「やだっ……
 それじゃまるで本当に幽霊屋敷じゃないですか……
 背筋が寒くなって来ちゃったじゃないですか。」

だが、それはおキヌを怖がらせるだけに留まり、

「――そうか!」

美神は声を上げていた。
彼女は気づいてしまったのだ。
今回の霊障の真相に。

「どうしたんですか?」
「……?」

周囲から見れば、美神は現状を打破するための手段を思いついたように見えたのだろう。
しかし、美神の声に、横島とおキヌが顔を上げ、視線を送った彼女の顔に浮かんでいたのは、どこか悔しげな表情で。

『どうかなさったのですか? 御主人様。』

心配気に問う《館》の声に、意を決した美神が、天井へと目を送り告げた。

「《館》、
 貴方は最初っから


    ――居 な か っ た の よ。  」






 時間が止まった。
美神が辿りついた答えを内包するその言葉の意味を、横島とおキヌが察するより早く、その場に居た全員の視界が白一色に染め上げられる。
そして、声がした。

『……やはり、
 そうで御座いましたか――』

それは酷く落ち着いた《館》の発する声で、
――次の瞬間、

「あ……あれ?」
「ここは――」
「……ふぇ、拙者の寝床は何処行ったでござるか?」
「もぅ……シロ、寝言うるさ……」
「……」

 右を見れば大きなビルが在った。
そのビルには見覚えがあった。
この一週間、このビルが無ければ少しでも早く朝日を浴びる事ができるのに。
おキヌは、朝が来る度にそう思っていたビルだ。

 左を見れば大きなビルが在った。
そのビルには見覚えがあった。
この一週間、このビルが無ければ、少しは風通りが良くなって、洗濯物も早く乾くだろうに。
美神は、昼時が来る度にそう思っていたビルだ。

 振り返れば三車線の車道を挟んで向かい側に、大きなビルが在った。
そのビルには見覚えがあった。
この一週間、このビルの四階にあるオフィスに、中々の美女が居て、いつか潜り込んでやる。
横島が、そう決めていたビルだ。

 正面には、大きなビルが在った。
そこには、シロが毎晩押し込められていた犬小屋も無ければ、そんなシロをからかう様にと、わざわざ何処かから持ってきた犬の餌入れ
もなくなっており、どう見ても新築には見えない高層ビルが、今、五人の目の前に存在していた。

「み、美神さん!これって――」
「美神さん?」
「除霊終わったでござるか?」
「もーちょっと遊んでたかったかなぁ……」

四者四様、それぞれの思いを口にする皆が静まるのを待って、美神はゆっくりと口を開いた。

「――言霊って言葉があるわ。
 それは、人の発する言葉には力があるっていう考え方で、ほら、手直な所じゃ学校の会談とかでもあるでしょ?
 深夜に一人鳴るピアノとか、教室の一番後ろにいつの間にか使用者の居ない机が増えてるとか、」
「それウチの学校――おぐはっ?!」

話に首を突っ込んだ横島が美神の拳で撃沈。
何もなかったかのように彼女は続けた。

「――まぁ、大半は、そんなの迷信。
 ただの噂話に過ぎない。
 でもね、そんな噂話でも、人々の間を噂されるうちに次第に力や形を持つようになる事があるの。」
「……それが、言霊、ですか?」
「そう。
 『この近くに一等地にも関わらず、何故か残っている幽霊洋館がある』そんな噂。
 その噂は多くの人の間でずっと語り継がれて、やがてその姿を得るようになった。」
「……」
「で、自意識を得た幽霊屋敷は、幽霊屋敷であるが故に、一つの望みを持ったの。
 『もう一度、人の暮らしていた頃の生活を共に過ごしたい』って……ね。」
「……」
「……」
「……」
「そんな……そんなのってっ」

 酷すぎる。
美神が出した結論は恐らくは間違っていないのだろう。
だからこそ、今、美神達は本来の在るべき姿の現実へと戻ってきている。
それでも、その事実を受け入れたくないおキヌは、その瞳に涙を浮かべ、

「……」
「――っ!!」

崩れ落ちそうになった所を、優しく抱きとめた横島の胸の中、声を殺して泣いていた。
美神は、こう言う時に未だ素直に泣く事の出来るおキヌを、少し羨ましそうに眺め、けれどそれは一瞬の事。すぐさま身を翻すと――

「ほら、シロ、タマモ。
 二人とも事務所へ帰るわよ。
 特に、タマモには、ちょーっと、溜まってる事務処理付き合ってもらうからねー」
「ちょっと、なんで私だけ――」
「あ、でも先生達が――」
「横島クンは――っ!」

 即座に帰ってきた二人の声を遮るかのように、被せられた美神の声。
そうして彼女は一度、残された二人を振り返ると、

「……少し散歩してから帰ってきなさい。
 戻ってきた時、おキヌちゃんがまだ泣いてたら、横島クン、承知しないからね?」

 言葉の最後に怒気を込め、一瞬怯えたような表情を見せた横島に、満足したのか、まだごねている二人に両腕を絡め
引きずるように歩いていく美神。

 そして、取り残された二人。
横島、見回した周囲には、すっかり静まり返っており、それでも残業帰りのサラリーマンがぽつぽつと時折こちらを、訝しげ、
というよりは羨ましそうに眺めていくが、それは無視。

「じゃ、少し歩いてから帰ろうか?」
「……はい。」

 泣きやんだ頃合を見て、努めて穏やかな声で話す横島の声。
帰ってきたおキヌの声は、まだ少し鼻声ではあったが、それでも向けられた笑顔には、恥ずかしさからかほんのりと頬に朱がさしていて。






「時々、美神さんって損な役回りしたがるよね?
 人間ってやっぱ変だわ。」
「くぅぅん」

 執拗にごねたシロは罰として精霊石を没収して、今はタマモの頭の上。
理解できない、そう言いたげなタマモの声に、美神は一瞬迷ってから答えを出した。

「ま、一応『大人』だしね。
 それに――」
 私なりにも、いろいろ楽しめたし、今回はこれでイーブンって事にしておくわ。

 続きは口に出さず心の中に仕舞っておく。
タマモの見上げた先、やはり妥協したという美神の顔は、それでも穏やかな笑みを浮かべており――

「やっぱ、人間って変。」
 でも、そういう変な所、決して嫌いじゃないのよね。

タマモはタマモで、そんな言葉を飲み込むのであった。

「わぉぉぉおおおおおおん。」

 最後に聞こえたのは、やっぱり納得行かないと訴える一匹の狼の鳴き声だった。





 《おまけ》

「……ところで、美神さん。
 最初に私達って、車に乗ってこなかったけ? 無かったよね、ビルの前に。」
「――っ!
 レッカー?! 罰金?!
 そういえば、装備も丸ごとあの《館》の中じゃない!!
 あああ……私のお金っ、お金がぁあああ」
「……恐らく、依頼者も『居ない』のであろうなぁ」
「い、嫌ぁぁぁあああああああっ!!」

どうもっ、ヴォルケイノです。
今回は、今までの連作で書かせて頂いていた物とは、違うお話になります。

楽しんで頂けたなら幸いです。

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