高名な学者に言わせればこの世に‘絶対’というものは存在しないという。
世界は常に揺らぎ続け、人の信じるあらゆる法則は極小単位では成立しない。
ありえない100%――しかし彼が今目にしているのは、絶対の法則だった。
『ほんま、もうこんなに寒ぅなって。このままやったら4月頃には海も凍るんとちゃいます?』
ボケ
『んなわけあるかいっ!』
そしてツッコミ
そう、誰だってボケられればツッコミを入れずには居られない。
例えどのような存在であれ、この法則から逃れることはできないに違いないのだ、と
「ベタベタなのに、何度も聞いているボケなのに、どうしても笑ってしまう。そして突っ込んでしまう。
完璧な間と引き込む話術は流石大御所。これぞ漫才の真髄だよなぁ」
……真剣な表情で漫才番組を見つめる彼、横島忠夫はそう信じているらしい。
普段であればバイトに勤しむ金曜日の夜。彼が珍しくも自宅でテレビと向かい合っている理由は窓の外の曇り空だった。
週末は通して雨が降るとの予報を受け、『今日は休み、土日は別に来なくてもいい』と告げられたのは数時間前の事務所でのこと。
どことなく行っても良さそうな台詞に思わず聞き返したのがいけなかったらしく、所長から『絶対に来るな』と言い切られてしまって。
雨天中止が気まぐれではなく除霊の都合なのが原因か。所長はすこぶる不機嫌で、夕食におでんを持たせてくれた妹分も困り顔だった。
この二日分の収入を補うためには授業をサボることになる訳で、やはり単位が危うくなってしまうのだが――それはそれ。
久々の二日とも自由な週末。雨中のナンパも乙なものだと上がるテンション。そしてお気に入りの大御所漫才。
「ボケとツッコミ……そう、ボケられれば絶対に突っ込んでしまう! これは除霊に応用できるんじゃないかっ!?
悪霊が思わず突っ込むようなボケを放ち、こちらから隙を作らせれば……。どこかで聞いたことがある気もするし、これはいけるぞっ」
一人で盛り上がり、狭い室内で立ち上がる。
むしろ仕事本番より気合が入っているのではなかろうか。
「布団が吹っ飛んだ……猫が寝転んだ……いや、ダジャレなんかじゃダメだ! もっと口を出さずには居られない何か!」
芝居がかった動作で正面に手を伸ばし、爽やかな笑顔を向ける。歯が光らないのはおそらくまだ経験不足。
「ああ、君の悔しい気持ちは本当に良くわかる! よし、近くに美味い地酒を出す店を知っているんだ。二人で飲みながら話そうじゃないかっ!
……あほかっ、ワシは地縛霊やがなーっ!」
自らのツッコミと共に左手を振りぬく。
腰の効いた中々に堂に入ったツッコミだが、ボケた自分がまだ未成年である点には目をつぶるらしい。
「いつまでもこの世に残っていたってしょうがないんだ。さあ、ボクと一緒に成仏しよう!
……っておのれも死んどるんかいーっ!」
再度虚空を貫く左手は角度も鮮やか。さらに素晴らしい勢いでありながら架空の相方の前でピタリと止める辺りも完璧である。
しかし彼としてはまだまだ不満が残るのか、小首を傾げて素振りを繰り返したりする。
――コンコン
「うーん、やっぱり一人じゃイマイチか。ツッコミはどうしても相方が居ないと……いやいや、本番の相手は悪霊だ! 気合が足りんっ!」
――横島ー? 居るんでしょー?
「なんでやねんっ! なんでやねんっっ! なんっでやっねんっ!」
ボケの練習が途中からツッコミ役に変わっているのにも気づかない程熱心に素振りを繰り返す彼。
部屋の外からの呼び声にもやはり気づかず、真剣な表情で腕を振るが――
「横島ー、開けるわよー……きゃっ!」
「なんでやねんっっっ!!! ってタマモ? 何やってるんだ?」
渾身のツッコミと少女がドアを開いたのはまさに同時。
鬼気迫る彼の表情は相当恐ろしかったようで、随分と怯えてしまっていた。
「えと……その…………来ちゃダメ…………だった?」
「……なんでやねん……」
待望の相方を得たはずのそのツッコミは何故か力ないもので――それがむしろ彼らしいのだった。
週末はキツネ日和
「……別にシロと喧嘩した訳じゃないのよ?」
「いや、俺は何も言ってないぞ?」
怯えるタマモをなだめ、とりあえずは部屋に招き。
テレビに映る漫才番組を見て一応は納得したらしい彼女の、それが第一声だった。
「んで、じゃあどうしたんだよ、こんな時間に」
「……えっと……えーとね……」
口には出さなかったものの確かに図星ではあり、勿論問いかけた彼だったが
ちゃぶ台の向かいに座るキツネ娘はもごもごと何やら呟いて随分と歯切れが悪い。
彼なりの霊感の成長か、面倒事の予感に背筋を嫌な汗が流れたりもする。
「……二、三日……泊めてくれない?」
「そりゃ突っ込みの練習はしてたけど、そういうボケはいらないから、変な気使うなって」
「そういう話じゃなくて……っていうか女の子が泊めてって言ってるのに誤魔化すのは酷いと思うんだけど」
事務所で生活を始めて早数ヶ月。女所帯が影響してか妙なことばかり覚えていく実年齢一歳未満のタマモである。
とはいえ見かけは少し幼いものの確実に美少女。頬を染めて指先を遊ばせる姿はなかなかに……
(範囲外、射程外だ。俺はロリじゃないロリじゃないロリじゃないロリじゃない……っ!)
「えーと、横島ー? 聞いてるー?」
「ああ聞いてるぞロリじゃないぞっ! ……じゃなくて、すまん、何だ?」
「だから、寝る時は変化を解くから場所も取らないし、三日位いいでしょ、って」
「ああ、狐になれば平気か……いや残念じゃないぞ? うん、まあそれなら別に構わんけど。
でも美神さんもおキヌちゃんも心配するんじゃないか、突然居なくなったりしたら」
「……っ、大丈夫よ、出掛けにシロに言って来たし。何ならあんたから電話しといて」
二人の名前にわずかに反応した様子はどう見ても事務所で何かあったらしい。
さっそく部屋を物色し始めるタマモは普段通りに見えるが、だからこそ家出の理由は聞きづらい。
(外は降り出したみたいだし、こいつじゃ他に行くところもないよな。
手のかからないペットを預かるようなもんだと思って三日位なら……
ああ、俺の自由な週末はこいつに付き合ってやることになるのか……)
雨音を響かせる窓にため息を送り、興味津々に押入れへ手をかける居候に座布団を投げつける彼だった。
「失敗した……その辺のペットよりよっぽど手がかかる……」
「ねぇ、これ下全部絨毯よね? 座れるようになってるの? でも土足よね?
あ、あれあれっ、ポップコーンでしょっ! ドラマで見たのっ、大きなバケツに入れて食べるのっ!
何処から入れるの? 受付もテレビも沢山あるけどもしかして選べるの? ねぇってば、ちょっと聞いてよっ」
朝から部屋で退屈を叫ぶタマモは普段事務所でどう過ごしているのやら。
コブ付きではナンパどころではないだろうが、アパートに居るよりはマシかと当てもなく二人ブラブラと歩いてみた。
あれやこれやと興味を示すタマモが一番食いついたのは少し名の知れた映画館、いわゆるシネコンで。
身を振り手を振り、質問攻めにしながらもジージャンの裾をしっかり握っている彼女は歳相応に可愛らしい。
「んー、下は足音とかの防音じゃないか? ポップコーンは小さいのにしておけ、始まる前に食べきるのが礼儀だ。
映画は選べるけど何やってるかしらんから適当に雰囲気で決めるぞっ」
何だかんだと言いながらも、こういう形で懐かれるのは悪くないらしい。
頬が緩めば財布の紐も緩み、映画のお供を買い与えて‘ハートフル・キツネストーリー’らしい一作を選んでみた。
――で
「うう……ひっく……コンとゴンがね、っく、良かったね、子供もちゃんと……」
「ああ、良かったな、良かったからとりあえず泣き止めってほら」
旅館の裏に住み着いたキタキツネ一家の実話らしいその映画。
可愛い子狐を育てる親狐とこっそり餌を与える人間との心温まる情景は、夜中に現れた野犬に打ち砕かれた。
唯一生き残った二匹の子狐をコン、ゴンと名付けて育て始める旅館の従業員。
そして苦難と喜びの数ヶ月を経て立派に育った二匹は、もう飼い続けてはならないのだ。
餌の捕り方も教えられていない彼らはきっとすぐ帰ってきて、旅館の裏に住み着いてくれる筈。
そんな従業員達の気持ちに反し、狐達が戻ってくることはなかった。
しかしその一年後、二匹の狐はそれぞれの家族を連れて旅館へと戻ってきて……
「だってね、普通は大人になったら兄弟でも敵なのに、コンとゴンは一緒に……うっく、一緒に……」
「ああ、良かったな、本当に……だから泣き止めって……」
随分と心の琴線に触れたらしいが、野生の誇りとか言い出さない辺りはもはや飼い狐なのかタマモ。
泣きじゃくりながらやっぱり裾を離さない彼女に目尻を緩める横島の瞳も、ちょっぴり赤かったりする。
「さて、まぁとりあえず飯食って……ゲーセンでも行ってみるか?」
「抜かれたっ!? さっき抜かれたのにまた抜かれたっ!?」
「後から来たのに追い越されってなぁーっ! 周回遅れだ未熟者めっ!」
「それ意味違うでしょっ!?」
……
「横島、弾っ! 弾がなくなったらどうするのこれっ!」
「銃の先をスライドさせれば増えるっ、急げっ!」
………
「ねえ、これ揺らせばメダル落ちるんじゃないの? 揺らしちゃダメ?」
「それは誰もが通った道だ。やってはならん、ならんのだよタマモ……」
…………
「この犬のぬいぐるみ、小さい方でいいから! 何かバカっぽくていいっ!」
「バカっぽいって言うかどことなくシロに似てないか……? まあいい、このキャッチャータダオに任せろっ!」
……………そんなこんなで、日も暮れて。
「牛丼、実は食べたことないのよね。お弁当だけど楽しみ楽しみ。でもきょーぎゅーびょーって狐もかかるの?」
「それは知らんが……むしろタマネギは平気なのかタマモ。一応はイヌ科だろ?」
「妖狐だし大丈夫大丈夫。たーだいまーっと……あれ、何これ」
「メモ? ……お隣の小鳩ちゃんから……」
「むー。嘘つき。裏切り者。裏切り横島」
「そう言うなって。折角補習してくれるっていうのに断る余裕なんてないんだよ」
銭湯へ行き、夜も更けて、電気を消して布団に横になってもまだタマモは納得がいかないらしい。
外出していた横島の代わりに連絡を受けた小鳩によると、明日部活の監督に来る英語教師がついでに補習をしてくれるとか。
出席のチャンスを逃すのも拙ければ心証を悪くするのも拙い。横島としては出ないわけにはいかないのだ。
「屋内スケートとかに連れて行ってくれるって言ってたのに……。氷の滑り方あんなに話しておいて行けないなんて……」
「だから悪かったって。ほら、事務所に帰ってシロと行って来たらどうだ? あいつなら器用に滑りそうだろ」
「帰るのはいいけど……シロと行くと凄く苦労しそうだからいい……」
「……帰るのはいいのか?」
タオルケットに丸くなる狐モードタマモにダメ元で言ってみたのだが、事務所に帰ってもいいというのは本気のようだ。
一日で帰っても構わない家出って……理由は一体?
「っていうか何で家出なんてしたんだ? 美神さんに何か言われたんだったら、あの人の言う事はあまり気にしなくていいぞ?
なんせ本人が一番気にしてないから、本気で怒らない限りその場限りで済ませる」
「ううん、そういうんじゃなくて……笑わない? 呆れない?」
丸まった背中を向けて本当?本当?と繰り返す子狐を軽く撫でてやると、ようやくおずおずと話し始めた。
5時に起きてランニングに出かけるシロに声をかけられ、6時にはおキヌが家事を始める音を聞くタマモ。
特別朝に弱いわけではないが、半端に起こされる為にイマイチ寝起きが良くないのだ。
そんな状況で迎える朝食はやっぱりぼんやりとしていて、ちょっとした失敗をしたりもする。
それは昨日、金曜日の朝。
普段通り寝ぼけながら朝食を食べるタマモが葱と油揚げのお味噌汁をお代わりし、ようやく目が覚めてきた頃。
「タマモちゃん……そのお味噌汁はちょっと……」
「ふぇ?」
「揚げだらけ……でござるな」
ふわふわとお代わりを入れに行った際、ぼんやりしたまま油揚げを大量に入れたらしかった。
あははーと笑ってはみたが正直情けない。おキヌもちょっぴり怒っている。笑っているシロはまぁ、いい。
「好きなのはわかるけど、それだけっていうのは良くないからね?」
「うん、ごめん。ちょっと寝ぼけてたみたい……」
日頃の不摂生が原因でござるなー、何よバカ犬、食事中は喧嘩しないの、と一通り流れてそれだけの話になるはずだった。
しかしその夜、横島にも持たせたように夕食はおでん。
嫌いなものが少なく、むしろ偏食を嫌うおキヌの作る食事は特別お揚げが多かったりはしない。
そこでおでんはお揚げ物を沢山食べられる数少ない大歓迎の夕食なのだ。
「昨日の夜から煮込んでたから、美味しく出来てると思うんだけど……」
テーブルにコンロを置いて鍋を運んでくるおキヌ。
厚揚げ厚揚げ〜っと喜色満面で鍋を覗き込んだタマモは、早速金色の大好物を……大好物を……
「おキヌちゃん……お揚げとか、入ってないんだけど……?」
「えっと、ごめんねタマモちゃん。絹厚揚げとか後で買いに行くはずだったんだけど……今日ちょっとゴタゴタして忘れてて……
代わりに牛筋が沢山あるから。それ以外のも美味しく出来たし、ね?」
「そう……なんだ……良かったわねシロ……」
とりあえず目に付いた牛筋をシロに取ってやり、自分も大根や卵を取り。
確かにおでんはとても美味しかった。
とても美味しかったのだ。
「厚揚げはないし、巾着もないのよ!? 餅入りもうずらの卵入りも両方っ! 酷くないっ!?」
「まあ気持ちはわかるけどな……。でも昨日は除霊延期の連絡で忙しかったし、仕方ない部分もあるんじゃ……」
途中からこちらに向き直って熱く語っていた子狐をとりあえずなだめる。
実際昨日は除霊に必要だった道路封鎖と通行止めを中止にする連絡や先方との折衝等、美神とおキヌは違う意味で神経を使ったのだ。
お揚げだけ後で買いに行こう……ぐらいのことなら、忘れていてもおかしくはない。
「でも、でもさ、やっぱり嬉しそうなシロの顔を見てると腹が立つじゃない。 なんであんなに牛筋一杯でお揚げはないのって……」
「おキヌちゃんは変にあてつけしたりしないって。きっと本当に疲れてただけだよ。
……ってわかってるから事務所に帰ってもいいって言ってるのか?」
「……うん」
つまりはそれを理解しているから、帰るのに抵抗がなかったり電話を促したりしていたらしい。
降り続く雨に外は暗く、明かりを消した室内でタマモの様子はわからないが、彼はそっと頭を撫でてやった。
「……おキヌちゃんは根に持ったりしないし、食べ物でそういう事は絶対しないってわかってるけど。
それでもやっぱり気に入らなくて、とりあえず頭冷やそうと思って出てきたの。
おキヌちゃんに当たるのも嫌だったし……子供みたいよね本当……」
大人しく撫でられながら、呟く様に口にする子狐タマモ。
落ち込む彼女には悪いけれどその毛並みはふわふわで、なんとなく優しい気持ちになれたりする。
「いや、そんな事ないだろ、多分。親父も大人と子供の違いは気晴らしに酒を飲むかどうかだって言ってたし、誰だってそういう時はあるんじゃないか」
「そういう時はお酒を飲むものなの?」
「お前はまだ早いって。普通は友達と騒いで憂さ晴らすんじゃないか、今日みたいに。……気分、晴れなかったか?」
「うん、結構すっきりした。友達と……友達かぁ」
「…………」
ちょっと首の下を掻いてやったり、体全体を撫でつけてみたり。
どう言ってやればいいのかわからず、ただ毛並みを整えてやるしかない。
「横島の友達って……どんな人?」
「俺の友達? 俺の友達は……そうだなぁ」
「見かけは正反対だけど案外気の合うやつとか……」
ヴァンパイアハーフの整った顔つきが浮かぶ。
「見かけは独特なんだけど結構気の合うやつとか……」
ちょっとした猥談にも赤くなる大柄な友人が浮かぶ。
「女だけど割りと気が合うやつとか……すまん、とにかく気が合うやつだ」
机に乗って得意げに教科書を指す姿が浮かぶ。
「まぁ一緒に居て楽しい連中かな……ふぁ……ぁぁ……」
「ふ〜ん……そういうもの、なんだ」
「ああ……そういうものなんだよ……んー……」
「……横島? 横島……もう寝たの?」
自分の頭に手を乗せたまま寝息を立てる横島に流石に少し呆れる。
会話の途中に寝るとはまったく……嘆息し、どけた彼の手を枕にすることにした。
(友達かぁ……気の合う人……一緒に居て楽しい人…………)
彼の手は意外と丁度良い高さで、ゆっくりと意識が沈んでいく。
(今日は楽しかった、かな……)
なんとなく、よく眠れそうな気がした。
「タマモのやつ、どーしたかな?」
かなり長引いた補習の帰り道。小降りになった雨はもう傘が必要ないぐらいだった。
家を出る時には、居てもいいし帰ってもいいと告げて来たが……もし一人で待っているなら早く帰ってやらないと可哀想だ。
とんとんとアパートの階段を登り、見慣れた自室の前に。
「開いてる……な。 居るのか、タマモー?」
「あ……お帰り……」
居た。
どこから出してきたのかエプロンをつけて嬉しそうに、でもちょっと照れて微笑む姿は、制服っぽい服装と合わせて何とも――
「ロリじゃないロリじゃないロリじゃない……、帰らなかったのか、タマモ。その格好は……?」
「えっと、うん、泊まってった分家事でもしておこうかと思って。冷蔵庫空っぽだったから何も作れなかったけど……」
言われてみると部屋のそこかしこが片付いているし、心持ち綺麗になってもいる。
確かに冷蔵庫には何もないし、今は保存食も切れている筈。何も作れなかったのは当然だが……
「……じゃあ、昼飯は?」
「……なんにも」
「よし、とりあえず何か食いに行こう。――――ところで、押入れは開けてないよな?」
どうやら今日も泊まっていくらしいタマモと連れ立って銭湯へ行き、押入れの中身は忘れるように頼みこみ。
「明日も、スケートには……行けないのよね。やっぱり学校?」
「そりゃな。もう週末は終わったし、いつも通りだ」
また昨日のように床についた後――彼女が少し沈んだ声をもらした。
雨は止んだが外はまだ暗く、ただでさえ小さい子狐タマモの姿は見えない。それでもそっと手を伸ばす。
「んっ……そう、週末は終わったんだ……」
「まぁ、平日はあんまり遊んでる時間はないしな」
「そっか……んぅ……」
しっかり力を入れて撫でているのにむしろすりついてくるタマモは、彼にはどこか縋りつくように感じられて……
「きゃっ、ちょっ、何っ!?」
丸まった狐を持ち上げ、布団の中に引きずり込んだ。
「もう休みはないって訳じゃないんだし、今週末でもいいんだからな」
「……え?」
雲の切れ目か、部屋に時折光が差し込み、腕の内側でこちらを見上げているタマモの瞳がうっすらと光って見える。
「昨日は楽しかったし、また暇があったら二人でどっか出かけてもいいだろ。スケートでもいいんだし、な」
「……また一緒に?」
「ああ。もっとこうグラマーに化けてくれたら毎日でもいいぞ?」
「それはヤ……」
ぐりぐりと胸元に鼻を押し付け、さっと布団から飛び出すタマモ。
見つめる横島の眼前で、見慣れた少女の姿へと変わる。
「横島……」
「タマモ……?」
差し込んだ月光が少女の姿を照らし出す。
来たときと同じ筈の制服のような衣装。それが全く違うものに映った。
月の光は彼女の右半身だけを照らし、しかし影となる左半身に、瞳だけが強く輝いている。
どこか蠱惑的な彼女の瞳。吸い込まれるように、包まれるように。魅入られて目を離すことが出来ない。
「また、来ていいの? 一緒に、出掛けてくれる?」
「ああ……もちろん……」
光を浴びた金色の髪が輝き、風もなくふわりとなびく。
普段とは違い結われていないその髪はゆっくりとそよぎ、光り輝く右へ。闇を纏う左へ。
しかし横島には、輝いているのも闇に映えるのも、髪ではなくタマモ自身のように感じられた。
「本当よね? 嘘じゃないよね?」
「ああ……友達が遊びに来るのに、そんな確認するもんじゃないって……」
「友達……」
驚いたように目を見開く彼女。
開かれた瞳に自身が完全に吸い込まれるような違和感が――ふっと止んだ。
「そうよね、友達だもんね。そっか、そうよね」
「あ、ああ……タマモ、今のは……?」
幻術とも違う、初めて感じた不思議な感覚。
「ね、横島、今日はこのままで寝てもいいっ?」
「美神さんに殺されるから勘弁してくれ。ほら、明日も早いんだからさっさと寝るぞ」
戸惑いと混乱の時間はあっさりと終わり、その後聞き直すこともなかった。
それでも彼の脳裏には、輝く少女の姿がくっきりと残り――ずっと消えることはなかった。
「まぁ、流石のあんたも動物に手を出しゃしないわよね。……出さなかったわよね?」
「お帰りタマモちゃん。今日はすき焼き、厚揚げちゃんと買っておいたからね」
「女狐ぇーっ、先生の部屋に拙者に無断で泊まるなど……すき焼きでござるかっ!?」
「美神さん、絶対にないですからそんな目で見ないで下さい、たのんます」
「ありがと、おキヌちゃん……」
学校から帰った横島と共に。帰った事務所で、皆は普段通り。
日常はいつも退屈だけれど、楽しみが先にあれば、それも少し嬉しかった。
「これと……これ。対した事ないから、横島クン一人で行ってきて。手間取ったら今日明日で」
「うぃーっす。でも半分とは言いませんから、せめて1割ぐらい……ハイスンマセンイッテキマス」
――いや、普段とは少しだけ違う。
「ん、仕事? 一人じゃなんだし……手伝う?」
「……随分と仲良くなったのね、横島クン?」
「いや、まぁほら、同じ釜のって奴で……」
「ま、二人でもいいんだけど……ヘマするんじゃないわよ」
少しだけ、二人が仲良くなったようで、そして――
「ほら、起きて横島っ、起きてってばっ!」
「んんー? もう朝か……ってかなんだこんな時間に」
「こんなって、もう十一時だし。それにスケートリンク、十時には開くんでしょう? もうすっごく混んでるかも!」
その週の週末、日曜日。叩き起こされた横島はぼんやりと周囲を見回した。
いつもの部屋で、いつもの万年床。そして目の前で騒ぐ少女。
「タマモ……そういやスケートか。すまん、忘れてた」
「全くもう……こんなにいい天気なんだから…………行く、よね?」
目を細めて見れば、なるほど窓の外は透き通るような晴天で。
そして目の前の彼女の表情は――不安を帯びたように、曇っていく。
「……まぁ、こんなに晴れてるのに雨降らすのはもったいないよな」
「……? 何よ、それー?」
言葉とは裏腹に、苦笑と諦めを浮かべる彼を見て喜色に染まるタマモ。
そう、これでいい。
面倒な筈なのに。まだまだ成長不足の彼女と出掛けるのは少々物足りないはずなのに。
これでいいのだと。笑顔で箪笥から服を選び出すタマモを見て何故かそう確信する。
外は見事な日本晴れ。彼女の笑顔も晴れ渡るようで。
「ま、キツネ日和って所か……。しょうがないわな」
「だから何なのよ? ほらほら、着替えて着替えてっ」
「わかったわかった。よーし、向こうについたらスケートの基本、手すり磨きを教えてやるっ!」
どうやらこれからも当分は、彼に自由な週末は訪れないようだ。
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