玄関を開けてみると、からりとした秋晴れの空が広がっていた。
だから傘を持って出かける。
そんな日。
こんこん、とドアのなる音がして横島は目を覚ました。
築ウン十年を優に越えているこのアパートには、呼び鈴などと言うハイテクな物はついていない。それで困ったことはないが、それぐらいつけろよ、と思わないでもない。大体、こんなおんぼろアパートで金を取ること自体間違っているのだ――
こんこん
布団の中に入ったまま取り留めのない思考を走らせていた横島は、そこでようやく覚醒した。そうだ、ドアがノックされていると言うことは来客があるのだ。
「あ、はいはい。今出ますよっと」
ひとまず軽く答え、布団から這い出る。Tシャツにトランクスの恰好でだらしないことこの上ないが、まあいいかと寝ぼけ眼で歩き出す。まだ朝早い時間ではあるが、どうせ新聞の勧誘か何かに決まっている。そう決めかかって、だったらべつに起きなくてもよかったのでは、と気付いた。すでに返事をしたのだから今さらだ。ええい、速攻断ってもう一眠りしてやる、と理不尽に怒る。
「……おはよう」
だから。まさかドアを開けた先に立っているのが知り合いで、それもここに来たことなどなかったタマモで、少しだけ恥ずかしげに朝の挨拶をしてくるなんて思いもよらなくて。
「……おう」
間抜けな返事をしたのに気付いたのは、しばらく経ってからだった。
「な、なによ。私がここに来ちゃいけないの?」
「いや、そんなこたないけどな」
何の用なんだ、と聞いてみるとそんな答えが返ってきた。それでもちょっと訝しげにしていると、
「たまにはあんたと散歩してみようかと思ったのよ……わるいっ!?」
と、逆切れされた。思わず
「俺はたまの休みに貴重な惰眠をむさぼっとったのじゃー! 悪いに決まっとるわ!」
と、返そうかと思ったがやめておく。シロと散歩に行くのはしょっちゅうだし、珍しくこのはねっ返りが自分からやってきたんだから。黒焦げになっている未来の自分が容易に想像できたから……ではない、きっと。
ちょっと待ってろ、と言ってひとまずドアを閉める。どたばたと支度をして、いつものGパン、Gジャン、バンダナの姿になると適当に靴をつっかけて外に出る。少し肌寒いがまあ耐えられぬほどでもないと、そのまま待っていたタマモに並んで歩き出した。
普段シロに付き合ってする散歩とは違い、タマモとのそれは非常に穏やかなものだった。横島にとって、それが素直にありがたい。
軽く車の速度を越える「散歩」と比べて、これがいかに散歩しているか。シロを正座させて説教してやりたい気分である。
普段ならば一瞬で駆け抜けるこの公園も、ゆっくり歩くと色んなものが見えてくる。普段のせせこましい生活の中では気付かない小さな発見、これも散歩の醍醐味だろう。
街路樹の楓はすっかりその身を黄色く染めて、吹く風にかさかさと梢を鳴らしている。足元に吹き込む、最近めっきり冷たくなった風には乾いた木の葉が混じっていた。まだ息が白くなるほどの寒さではないが、息を吸い込むとつんと刺すような感触を覚えた。
この時間では、まだそれほど人の姿は見えない。それでも犬の散歩をするジャージ姿の子供とそれを微笑みながら見守るジャージ姿の父親、ジョギングするジャージ姿の老人、向こうのグランドで集まっているジャージ姿の集団は近所の高校の野球部だろう。公園のそばのマンションからは寝ぼけ眼でゴミ出しをしているジャージ姿の――
ジャージ多すぎだ。
こんな発見はいらんわ、とそれらの人々から視線をはずす。横島は隣を歩くタマモに目を向けてみた。
それなりに上機嫌な様子で、タマモもまた先ほどの横島のようにあちこちを眺めていた。同行者がいればとりとめもなく話すのもいいが、こうして二人何もなくただ歩くのもそれはそれで楽しいものである。普段はうるさいタマモではあるが、今日は自分と同じにそんな気分なのだろう。横島はそう考えて、ぼーっとこの静かな散歩を楽しむことにした。
しばしそうして歩いていたが、レンガのような敷石が敷き詰められた小道に入ってから、コツコツと微かに響く音がするのに横島は気付いた。
どこからそんな音が響いてくるのか、と見ればそれはタマモの持っているものが原因だった。
「おい、タマモ?」
「なによ」
「いや、なんでまた傘なんか持ってんだ?」
呼びかけに少しだけ不機嫌そうに答えるタマモに、横島は質問をぶつけた。
タマモが後ろ手に持つ赤いシンプルな傘。たしかあれは、美神さんがこの間買ってやったものだったと思う。うれしそうにそれを持ったタマモが少女のように、早く雨にならないかな、などと言っていたのも思い出した。普段クールなタマモだが、極たまにそんな幼い表情を見せるときがある。体は成長していても、まだまだ子供だということだろう。
「いいじゃない、別に」
「そら持ってるのは構わんが、この天気だぞ?」
ほれ、と天を指差す。そろそろ日が昇り暖かさの増してきた、雲ひとつない空。天気予報は見ていないが、今日はいい天気だと一目で分かった。
「いいのよ、なんか降る気がしたの」
「降る気がしたってなぁ……」
超感覚、という奴だろうか。秋は元々天気の変わりやすい季節だ。漁師や木こりの中には、雨や嵐がいつ来るか感じ取れるものがいると言うし、少々敏感な者には感じ取れるレベルのものなのだろう。子供が今日は雨降るかな、とわくわくして傘を持ち出すのとは違う、きっと。しかし――
「って、そんなんわかってるなら家出る前に言え! 俺はどうすんだ、俺は!」
「あんたなら濡れても大丈夫でしょ。風邪もひかないだろうし」
「アホか! 俺だってこの寒さで雨に濡れりゃ風邪の一つや二つひくに決まっとるわ!」
すげない返事をしながらニイ、と笑うタマモが憎たらしい。まあ、この天気だ。どれだけ変わるのが早かろうと、気をつけていればそうそう冷たい雨にさらされる事もなかろう。ちくしょー、と一つ悪態ついて、横島は散歩を続けることにした。
「そんで、今日はどうしたんだよ?」
「なにが?」
傘について話しかけたのを機に、横島はそう話しかける。そ知らぬそぶりで答えるタマモは、心からそういっているように感じる。さすが狐だな、と思ったりした。シロならばあたふたと慌てているところだろう。これがタマモだ、とも思うがなんと可愛げのない。
「珍しく俺なんかを散歩に誘って来るからさ」
「別になんでもないわよ。たまにはこういうのもいいかな、てね」
そう言われると、そうなのか、と思ってしまう。いやいやいや、と頭を振って振り払った。
「いーや、絶対なんかあるな。そ、そうか、いや、そんな、まさか……」
「……?」
不思議そうな顔でこちらを眺めているタマモ。だがその実、美神さんたちにいじめられているんじゃなかろうか!?
思考が走る。なんか走ってはいけない方向に行ってる気がするがどんどん走る。
ルシオラのときこそ勘違いだったが美神さんはやっぱりタマモにつらく当たっているんじゃなかろうかルシオラはあの性格だったからいじめらんなかったけどおキヌちゃんはともかくシロとはいっつも衝突してるし美神さんなら実は隠れていじめたりしててもおかしくないいやむしろ性格的にはこいつの方がいじめそうではあるけどわざわざこいつが俺なんぞのとこに来るなんてよっぽどのことじゃそうだもともとこいつも強い部分はあるけど同時にどうにも抜けてる部分があったりするしなあうう泣かせる話じゃないかしかし自分から言い出さないって事は逃げ出すでもなく自分で解決するって思ったのかええーいちくしょーそれじゃあ動くことも出来ず俺はただ励ますぐらいしか出来ねえじゃねえか
「強く生きろよ、タマモ……」
男泣きに泣く横島である。というか馬鹿である。
「あんたなんかに言われなくても強く生きてるわよ」
ツン、とそ知らぬそぶりでタマモは返す。心なしか呆れが混じっている気がするが、横島にはそれに気付く甲斐性無し。それを期待すること自体、無体な話しであろう。
「し、しかし、だな。もしも、もしも本当に辛かったら遠慮なく話してくれていいんだぞ!?」
タマモの様子に気付かずに、そう続ける横島忠夫。それを隙と言うならばそう言えたのかも知れない。
「ふーん」
にやりと微笑むタマモの頬に、しゅっと一筋朱が差して。
「じゃ、じゃあ、話しちゃおっかな」
「おう、どんとこい!」
そうしてすきと言った君を、その胸が辛いと告げた君を一体どう受け止めようか。
慌てて、疑って、泣かせてしまい。どもって、拒んで、悲しませる。
それが悲しくて、苦しくて。応えた答えは、本心からかは分からぬが。
朝焼けの、群青の空まぶしくて
雲一つなく、降れる雨
笑顔で語る、黄金の髪の
貴女の声を、朱に受ける
「知ってる? 天気雨の別名」
目の前にあるタマモの顔が、現実感なく――近い。
「狐の嫁入り、って言うのよ」
二人で差した赤い傘。こうして雨が降って欲しいから持って来たのだと語る。この子が、ただ――
こんこん、とドアのなる音がして横島は目を覚ました。
築ウン十年を優に越えているこのアパートには、呼び鈴などと言うハイテクな物はついていない。それで困ったことはないが、それぐらいつけろよ、と思わないでもない。大体、こんなおんぼろアパートで金を取ること自体間違っているのだ――
こんこん
布団の中に入ったまま取り留めのない思考を走らせていた横島は、そこでようやく覚醒した。そうだ、ドアがノックされていると言うことは来客があるのだ。
はいはい、今開ける、と返事をする前。きぃ、とドアが軋みを上げた。鍵はかけてなかったと、そう伝えた相手を思い出し。
「えと……その……来ちゃダメ……だった?」
あの日のように朝焼けの空を背景に、目をそらして恥ずかしげに問いかけるタマモに、布団の中から――かっこつかねぇな、と笑って答える。
「そんなわけねぇよ。まあ、上がれって」
今日も雨は降るのだろうかと、そんなつまらないことを思った。
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