『スラップステイック・ランナウェイ』
街が夕日に彩られ、あちこちの家からは夕餉の香りが漂うそんな夜と昼の狭間。
トントンと遠慮がちなノックの音とともに安物のドアが軋む。
返事も待たずゆっくりと入ってきたのは金色の髪の毛を夕日に輝かせた少女。
開け放たれたドアの前で恥ずかしそうに頬を染め、何かを訴えるかのような頼りなげな視線を向けてくる。
フワリと文無遠慮な風が少女の横を通り過ぎ、眠ることの無い街の喧騒を運んでくる。
その風に背中を押されたわけでもないだろうが、少女は少しだけ視線を逸らし、そしてその可憐な唇をおずおずと開いた。
「………来ちゃった…」
部屋の主である少年ははにかむ美少女を無感動に見るだけで無言のままである。
風だけが夕餉の香りと家庭の団欒をかすかに届けるだけ。
それ以外の音を失ったかのように不思議な沈黙が薄汚れたアパートの部屋を満たし始める。
思いもかけなかった無反応に先に耐えられなくなったのは少女のほうだった。
大きな瞳を微かな感情で揺らめかせ、一つだけ深呼吸するとまるで少年と目を合わせるのが怖いとでも言いたげな素振で弱々しく唇を動かす。
「えと………その……来ちゃ駄目だった?」
「うむ」
「うあ! ヒドっ!?」
あまりに予想外の返答に少女の目が大きく見開かれ、頬にはサッと朱が上る。
抗議の声を上げようと一歩踏み出した少女に部屋の主である少年は冷酷な笑みをもって応えた。
「お前の魂胆はわかっているのさタマモ…」
「な、なんことよ!」
必死に惚けようとするが一瞬だけ目が泳いだことを部屋の主である少年は見過ごさない。むしろ確信を深めたとばかりに大きく頷く。
その態度が気に食わない。
「私にどんな魂胆があると言うのかしら? 答えなさい横島!」
「俺がスーパーの特売で並びまくってゲットした今日の限定販売新製品 お一人様一個まで『カップキツネうどん ゴビ砂漠風味』が目当てだろう!!」
「し、知らないわ…」
再び泳ぐ大きな瞳。
まさに目は心の窓。
ユラユラと蛍光灯の光を受けて輝くそこにはキッパリと太文字ゴシック体で『正解』と書かれていたりする。
それでもたかが人間、しかもどちらかと言えば普段馬鹿にしている横島に本心を言い当てられたとあっては妖狐のプライドに傷がつくというものだ。
ここは断固否定を貫くべしと本能と打算がGOサインを出したりするものだからさあ大変。
「証拠は!?」
「さっきシロからメールが来た…」
「嘘ね。シロは携帯なんて持ってないわ」
仮に持っていたとしてもあの無骨なシロがチマチマと携帯を操作してメールを送るなどありえない。
シロならば横島に用事があるとなれば見えもしない電波に頼らずに自分で走ってくるだろう。
つまり横島の台詞はハッタリであるとタマモは看破してみせる。
だが横島はタマモの反論にゆるゆるとやるせなさそうに首を振り、ゆっくりと手を伸ばすと壁を指差した。
誘われるままに目を動かせば薄汚れた壁の一角に、平和な日本ではお正月の初詣ぐらいでしか見ることの無い物体がざっくりと突き刺さっていたりする。
「矢文なのっ?!」
「あと10センチずれていたら俺はメザシになっていただろう…」
事務所からここまで飛んできてしかも壁に刺さるほどの豪弓だ。
さすがシロと誉めるべきか呆れるべきか、当事者の横島はもう諦めているのか少しだけ煤けた目で壁に刺さった矢を見るだけであるのでタマモには判断がつかなかった。
「そ、それで矢文はなんて書かれていたっていうのよ!」
「ああ…」
横島がポケットから出したのはやたらと可愛いパンダのイラスト入りの便箋。
ピンク色の乙女チックな便箋に不似合いな墨の色が黒々と浮かんでいる。
こんな乙女テイスト満載のブツを、よりにもよって武力の象徴である矢で打ち込んだのかと相棒の意識のズレに戸惑うタマモに横島は書かれていた内容を高々と読み上げた。
「一筆啓上 火の用心 タマモ向かった 揚げ隠せ」
「くっ!」
「これでもまだシラを切るか?」
シラを切ろうにも強奪計画をリークされていたとなればそれは不可能。
当初の予定、遊びに来たふりをして油断したところでうどんを掻っ攫うと言う策は消えた。
ならば策その2、強襲あるのみである。
「ほーっほっほっ! バレたらしかたないわね! そうよ私の目当てはそのキツネうどんよ!
私が寝過ごしている間に買い占めるなんて非道、天が許してもこのタマモちゃんが許さない!!
さあ観念して全部出しなさい! あなたが何度も何度もレジに並んでお一人様一個の品を四個は買っ
たのはリサーチ済みなのよっ!」
「くっ! なぜそれを!?」
「あ、本当にやっていたんだ…」
「しまったっ!」
タマモのハッタリにあっさり引っかかりうろたえる横島。
「しめた。敵は怯んだ。ならば体勢が崩れた今が勝機」とかさに掛かるタマモ。
こうして戦況は大きく動いた。
「ふふふふふ…つまりは不正を働いたということね。ということはその品物は不法行為で手に入れたもの…没収
されても当然という結末っ! さあキリキリとこの私にさしだしなさい!!」
「なんでお前に没収されにゃならんのやっ!」
「お揚げだからよっ! しかも新商品のゴビ砂漠味! CM見てから今日の発売を楽しみにしていた私だからこそよっ!
寝坊なんかで食べ損ねるなんてあっていいはずはないわ!」
「意味がわからんわいっ!!」
「ふふふ…そう…どうあっても逆らうと言うのね…だったら力ずくでっ!」
「アホウっ! こんな狭い部屋で火なんか吹くなっ!」
言葉どおりに髪の毛を逆立て妖力を漲らせるタマモに横島は焦る。
それでも咄嗟に防ごうと『壁』の文珠を取り出す横島だがそれこそがタマモの思惑通り。
「ふん! 私の能力が火だけだと思っているなんて甘いわね!」
途端に部屋の中に濃密な幻術の霧が立ち込める。
自分の鼻さえ見えなくなるようなミルク色の霧。
しかもタマモの妖力のせいで霊波のジャマーも兼ねているという優れもの。
このミッションに対するタマモの執念が如実に表れた逸品である。
とにかくカップうどんを死守せんと手探りで動こうとしたが時既に遅し、ドアの辺りから聞こえる羽音と高笑い。
「あはははははーお揚げはもらって行くわーーーー!!」
「待てえぇぇぇ! 返せえぇぇぇ! 俺の四日分の夕飯いぃぃぃ!!」
こうして悲痛な横島の声を背にタマモは意気揚々とカップうどんの入った袋を咥えて空へと飛び去って行ったのだった。
すでに夜の帳が降り始めた空は街の明かりもあってかなり明るい。
行きかう車のライトやビルの明かりがイルミネーションのように輝きながら人の営みを告げてくる。
瞬き始めた空の星とそれより数段に明るい地上の星の間をタマモは上機嫌で飛んでいた。
もし彼女の姿を見ることが出来たものは天使が地上に降りたのかと錯覚するだろう。
彼女の口に咥えられたスーパーの袋が無ければの話だが。
自分でも格好悪いとは思うが両手が羽に変化しているのだから仕方ない。
口に咥えるしか運ぶ方法が無いのだ。
(でも…確かにちょっと人には見せられない格好よね…そう言えば確かおキヌちゃんが見せてくれた本にこんな感じのイラストがあったような…えーと…なんて鳥だったかしら?)
他に邪魔するものもいない空だからこそ出来る考え事をしながらの夜間飛行。
だが注意一生怪我一秒という法則は空にも適用できるものなのだと言うことをまだ人間界での生活の浅いタマモは知らなかった。
「そうそうコウノトリ!」
喉に刺さった棘が取れたかのようにハレバレとした顔で叫んだタマモの前に立ちはだかるはビルの屋上にそそり立つ避雷針。
元々、人が激突するなんてことを想定されていない黒い避雷針は夜の闇にすっきりと同化して、本人すら知らなかった対空兵器としての性能を完璧に発揮した。
「あきゅっ!」
ガコーンと大晦日に聞こえるような意外と重たい音とともに可愛い悲鳴が夜空に響く。
季節外れの除夜の鐘を怪訝に思った通行人たちには何やら白いものが近くの公園の茂みに向かって落ちていくのを見たが、それが何かを確かめようと思うような物好きは居なかったのである。
「…………う…」
墜落したショックで気絶していたタマモがゆっくりと目を開けてみれば、そこは茂みの中。
周りにはまだわずかに葉っぱを残した木が生え、しかも雑草の茂みが残されているという都会にしては珍しい一角だった。
「そ、そうだ! カップうどんは?!」
慌てて辺りを見渡せばすぐ近くにスーパーの袋が落ちている。
袋の膨らみからすれば幸いにも中身は無事らしい。
「良かった…」
とりあえず袋を抱きしめて怪我がないか自分の体を点検したタマモの口があんぐりと開いたまま固まった。
胸に抱いたスーパーの袋をギュッと抱きしめ深呼吸。
そして恐る恐る開けた目で自分の体を確認したタマモの瞳からブワッと涙が溢れ出す。
「す、すすすすすす、スカートはどこっ!?」
悲鳴まじりの問いに答えるものは居ない。
むしろ「はっはっはっ。私が持ってますよお嬢さん」なんて奴が居た方がヤバイと思いなおし、慌てて辺りを見渡してもスカートはどこにも無い。
そればかりかお気に入りのピンク色したベストまでが消えている。
つまり今のタマモは上はブラウス一枚、下はキツネさんのプリントパンツにニーソックスとスニーカーというその手の趣味の人が見たら全身の体液を萌やしつくして死にかねないというマニアックな姿だった。
「ううっ…なんでこんなことに…」
呆然と見上げた空を背景にわずかばかり葉っぱを残した木立でヒラヒラと舞う妙に大きな葉っぱのようなものが目に入る。
その不自然なオブジェをジッと見つめるタマモの目からまたブワッと涙が溢れ出し、口からは乾いた笑い声が漏れだした。
「あ、あはは…あんなところに…」
墜落の時に木に引っかかったのかすでにボロキレとなったスカートとベストの残骸が風に揺れる様が物悲しくてタマモはガックリと肩を落とした。
だがしかしこのままここに留まることは無謀である。
普段ならいざ知らず、今の自分はいろいろな意味で無防備なのだ。特に下が。
それにまだ秋とはいえ夜の風は冷たい。特に下が。
このまま誰も人が通らなくなる時間まで隠れていれば確実に風邪を引くだろう。多分、下が。
「い、行くしかないか…なるべく人目を避けながらダッシュで走ればなんとかなるはず…よね?」
無論その問いに答えるものもいないわけで…ただ秋の風がヒュルリラと股間の辺りを通り過ぎるだけである。
その冷たさにちょっとだけ己の境遇を嘆きながらタマモは無理矢理眼光に力をこめて拳を握り締める。
「今ならいけるっ!!」
決断したからには速攻で勝負する。
それが野生に生きるキツネの本能。そして闘争心。
えいやとばかりに希望の未来に向けて一歩踏み出すタマモ。
キツネのパンツは勇気の印。
お揚げのために戦えますか?戦えますとも!
「とうっ!」
だが現実は非情だった。あるいは無常だった。
己の心を叱咤して掛け声とともに茂みを飛び出すタマモの前に呆然と立っていたのは、まだ宵の口にもかかわらずすっかり出来上がった酔っ払いのサラリーマンだったりする。
「……………」
「……………」
両者顔を見合わせてしばし沈黙。
BGM替わりの街の喧騒がどこか遠くから聞こえてくる。
一分か?はたまた一時間か。とりあえず氷ついていた二人だったが先に動いたのサラリーマンだった。
「…痴女?」
「ち、違うの!」
「ああ、なるほど…痴少女?」
「そんな言葉はないっ!」
もしサラリーマンが素面だったら半裸の美少女が茂みから飛び出してくるなんて状況では事件を疑っただろう。
だがタマモにとって不幸なことにサラリーマンは酔っていた。むしろ泥酔していた。
そしてタマモが今の自分の境遇について効果的な説明を考えつく前に彼は再び斜め上の判断を下したのである。
「痴女だっ! 痴女が出たぞーーーー!!」
「ち、ちがっ!」
サラリーマンの大声を打ち消す間もなくあたりに湧き上がる人の気配。
先ほどまで人の気配はほとんど無かったと言うのに、いったいどこにこれほどの人が隠れていたのだと首を傾げるほどの人数に茂みだのベンチの影からワラワラと出てこられてタマモは焦りまくった。
しかも彼らはまるで申し合わせたかのように黒い覆面に黒装束、ついでにやたらとメカメカしたメガネのようなものを額につけている。
はっきり言えばある特殊な行為に特化した趣味の人の集団がここの公園に巣食う影の住人の正体だったりする。
「痴女だと!」
「何かのプレイじゃなかったのか?!」
「ちっ! 俺たち覗きニストの聖地を荒そうとはふてえ痴女だ!」
「なのねー」
「ち、違うって言ってるのにぃぃぃ!」
「待ちたまえお嬢さん! 私も痴漢なのだ! 決して恥じることはないぞ!」
「そこは恥じなさいよ人としてっ!!」
「開き直ったぞ!?」
「捕まえろっ!」
「簀巻きじゃ簀巻き!」
「ひいぃぃぃ! げ、幻術っ!」
とりあえず全精力を傾けて放った幻術に覗きニストたちがうろたえている隙に、タマモは全速力でスーパーの袋を抱えたままこの面妖な場所を逃げ出そうとした。
「ぬおおおっ! なにも見えん!」
「落ち着け同志よ! その額のスコープは飾りではあるまい?!」
「幻に騙されちゃ駄目! 本体はあそこなのねー!」
「なんでえぇぇぇぇぇ!?」
「お嬢さん! ならばせめて夜明けのけんちん汁などを一緒に飲もうではないか!」
「いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
渾身の幻術をあっさりと見破られたタマモに出来ることは、なりふり構わず逃げ出すことだけだったのである。
どこをどう走ったのかすでにそれすらも定かではない。
とにかく誰かに見つかるたびに、姿隠しの幻術を放ち気がつけば妖力はすでにからっけつ。
それでも何とか人目の無いところにたどり着きホッと一息つくタマモ。
「…………ううっ…私がいったい何をしたと言うの…?」
横島が聞けば「俺の晩飯を奪っただろうが」と叫びそうなことを無自覚に呟き、疲れきったタマモはヨロヨロと電柱に背を預けようとした。
ギニュ
「ぎにゅ?」
走りまくって泥だらけになったスニーカーが何か柔らかいものを踏んだ感触を伝えてくる。
それと同時に背後に湧き上がる怒りの気配におずおずと振り向いたタマモの前で低く唸っているのは寝ていたところを尻尾を踏まれた大きな野良犬だったりする。
「あ…あは…」
普段なら野良犬ごときは敵ではないが、何しろ今の自分は装甲をほとんど失っている上に妖力もほとんど尽きている。
戦っても勝ち目は薄い。
それに勝てたとしてもその騒ぎでまた人でも集まってくれば、折角逃げ延びたというのに元の木阿弥、再び痴女扱いされて追い回されかねない。
何とか誤魔化そうと引きつった愛想笑いを浮かべるタマモに犬は手を組み指をボキボキと鳴らすと獰猛にニヤリと笑った。
「許して…くれそうにないですよね…」
上目遣いで媚びてみるタマモに「わうん」と頷く野良犬。
彼女の美貌も今のマニアックな格好も侘び寂び萌えという日本の文化を理解せぬ野良犬には通用しなかった。
「わふうっ!」
振り向き逃げようとするタマモの尻の辺りでガチンと牙の鳴る音がする。
幸いにも怒りで狂った目測のせいで初撃は空振ったらしい。
だが可愛らしいお尻の身代わりとなったブラウスにがっちりと食い込む野良犬の牙が彼女の動きを封じ込め、まさにタマモの命運ここに尽きたかと思われた。
「放してえぇ!」
「わっふっふ」
ジタバタと暴れてみてもがっちりと食い込んだ牙は簡単に離れそうに無い。
しかも今はブラウスで済んでいるが、犬の目標は自分のお尻であることは放たれる殺気からも歴然だ。
スカートの上からでも嫌なのにほとんど生に近い尻を齧られるのは乙女として辛すぎる。
なんとか犬の気を逸らそうとタマモは必死に頭を捻った。
「あ! あっちに銀色に赤いメッシュのボーイッシュな犬娘が!」
「わっふっふ」
タマモの策はあえなく空振りに終わった。
タマモは知らなかったがこの野良犬はこの辺りのボスである。
そんな小手先の策に乗るような軟派な犬ではない。
「あ、こっちからムキムキマッチョなオス犬がっ!」
「わほっ!」
途端に緩む野良犬の牙。
チャンスは今しかないと牙に引っかかったブラウスをトカゲの尻尾宜しく脱ぎ捨ててタマモはダッシュで逃げ出した。
既に夜もすっかりとふけ、見事に真円を描いた月が中天で煌々と輝いていたが、野良犬に追われながらも人目を避けて逃げ回っていたせいで自分がどこにいるかすら判らなくなっているタマモにとって月なんか丸かろうが四角かろうがどうでも良かった。
とにかく今、自分が居るのが人目につかない何処かの橋の下ということだけ。
今はそれで充分だった。
何とか夜風と人目は避けることが出来そうだし、野良犬も諦めてくれたのだが失ったものは大きかった。
「カップうどんは死守したけど…」
ホヒーと気の抜けた息を吐くタマモは犬の攻撃でブラウスまでも失い、とうとう人前に一秒とて現れることの出来ない姿に成り果てている。
ブラにパンツという下着姿にスーパーの袋なんて格好は誰が見ても痴女。または痛い娘だろう。
悪くすればいきなり通報されることになりかねない。
そんなことになれば当然、保護者の美神の耳にも入る。
きっと鬼のような折檻が待っていると考えるだけで震えが走った。
それに犬に追われて半裸で街を走り回ったなどと知れれば、シロなどは腹を抱えて笑うだろう。
むしろ同情の目で見られるかも知れない。
あの美神の折檻だけでも怖いところにシロにまで馬鹿にされるとなれば妖狐のプライドは再起不能だ。
「なんとかしなきゃ…」
とは思うものの妖力のほとんどを失った自分に出来ることなど限られている。
このまま人目が無くなるまでここに隠れているぐらいしかすることがない。
そんなタマモを嘲笑うかのように、すっかり夜気を含んで冷たくなった風が吹きぬけタマモの素肌に鳥肌を立てていく。
「寒いよう…」
そりゃあ夜の橋の下に下着姿で佇んでいれば寒いだろう。
かといって辺りに着れそうな布の類はない。
それどころか風を避けてくれるダンボールとか新聞紙の類すら落ちていなかった。
あるのはカップうどんの入ったスーパーの袋だけ。
これを着るには色々と無理がありすぎる。
「が、我慢よタマモ…せめて人通りが無くなるまでは…」
それでも寒いものは寒い。
あげくに妖力も無い。
あるのは必死に守り通したカップうどんの入った袋だけ。
「そうだ! これを食べて妖力を回復させれば……ってお湯が無いし…」
生で食うのは流石に遠慮したい。
何しろずーーーっと楽しみにしていた新製品のカップうどんなのである。
緊急事態とはいえそんな勿体ない食べ方をするのはうどんに対する冒涜だ…と思う。
まさに八方塞の状況で出来ることと言えば限られていた。
「私は妖狐よ…こんな寒さなんて何でもないわ…そうよ! 心頭滅却すれば火もまた涼しと言うじゃない!」
緩みかけた脳が導く活路に従い精神統一するタマモ。
その様子は滝に打たれる修行僧のように凄烈な気迫に満ちている。
幻術使いのタマモにとって精神統一は朝飯前、妖力を失ってもこのぐらいのことは出来る。
伊達に妖狐を名乗っていないのだ。
「……ってますます涼しくしてどうする私っ!」
なまじ精神力が強かったことが裏目に出てますます冷えるタマモの体。
すでに唇は紫色。
しかも無駄に消耗した精神力は疲労の固まりとなって彼女にのしかかってくる。
そして疲労は弱気な心を産む。
「あうう…もう駄目かもしんない…」
体を丸めて座りながらぼんやりと呟くタマモの目にはいつもの光はない。
瞳は視線は定めることなくユラユラと漂うばかり。
せめて少しでも暖をと指先に狐火を灯してみれば、ついに妖力のコントロールも効かなくなったのか暖かそうに輝くハロゲンヒーターが目の前に現れた。
「え?」
我に返った途端に消えるハロゲンヒーター。
どうやらダダ漏れしはじめた妖力の残りかすが見せた幻覚だったらしい。
それでも今のタマモにはそれに縋るしかなかった。
もう一度…と願いを込めてマッチ…じゃなくて狐火を灯すタマモの前に現れたのは暖かく湯気を吹き上げるヤカンの幻覚。
「ああ…お湯さえあれば…」と手を伸ばした途端にヤカンは消え、ただ夜の闇が残るばかり。
「ぐす…」と涙ぐみながらも幻の温もりを求めるタマモはこうして次々と死亡フラグを立てまくった。
このまま幻覚を見続けてお婆ちゃんが出てきたらそこでゲームオーバー。
すでに食べ物、暖房器具の類は出尽くし、いよいよ次あたりがラストオーダーっぽい。
だけど最後の温もりを求めて灯した狐火の光に浮かぶように現れたのは、会ったこともないお婆ちゃんではなく自分が後生大事に抱えているカップうどんの元の主だった。
幻覚のはずの横島は役目を終えて消え去ろうとする『探』の文珠を投げ捨て必死の形相で走ってくると彼女をその腕に抱きかかえた。
「やっと見つけたぞタマモっ! ってこんなところでこんな格好で何しているんだっ?!!」
「あは…横島…なんだか凄く疲れたの…とても眠いの…おやすみなさい…」
「わーっ!! 寝るなタマモ!! 寝たら死ぬぞーーー!!」
焦りまくった横島が放つ往復ビンタが遠慮も容赦もなくタマモの頬にビビビと炸裂する。
「あう!あう!あうっ!」
「しっかりしろっ! 傷は浅いぞ!」
叫びながら必死の思いで放たれるビンタによってタマモは鼻血を流しつつも何とか生還することが出来た。
「あー…つまりなんだ…墜落して痴女に間違われ、さらに犬に襲われてこんな格好になったと…」
「ぐす…うん…」
幻覚じゃなかった横島が着せてくれたGジャンに身を包み、彼が買ってきてくれた甘酒の缶をちびちびと舐めながらタマモはコクリと頷く。
その姿と先ほどカップうどんを強奪していった高飛車な様子がどうにも重ならない。
どちらが本当のタマモなんだろうかと考えて横島は苦笑した。
考えるだけ無駄である。
不条理な展開にとことん追い詰められた今のタマモこそが本当のタマモなのだろう。
その証拠に苦笑を浮かべたままタマモの頭を撫でてやっても嫌がる素振は見せない。
むしろ心地良さそうに目を閉じてされるがままになっている。
見た目の年相応に素直な今の反応こそが彼女の本質なのかもと横島はタマモに気づかれないように微笑んだ。
「とにかく妖力を回復しなきゃな…家に来て一緒にカップうどん食うか?」
「うん…」
弱々しい笑顔を浮かべて頷くタマモ。
まだ顔は青いがもう大丈夫そうだと安心した横島はついうっかりと口にしてはいけない真実を漏らしてしまった。
「ところでタマモ…」
「…なに?」
「キツネの姿に戻ればよかったんじゃあるまいか?」
「……………………………」
「……………………………」
ヒュルリーヒュルリララと夜風がぼんやりと見詰め合う二人の間に草の固まりを転がしていく。
それにつられたわけでもあるまいが座り込んでいた少女の肩が小刻みに揺れ始め、立っていた少年は己の失言がどれほど残酷なものだったかを悟った。
「……………………………えぐぅ…」
「お、おい?」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!! 横島のバカあぁぁぁ!! ぽんぽこぴーーーー!!」
こうして横島は子供のように泣きじゃくる子ギツネをGジャンの懐に入れたままアパートへ帰ることになったのである。
次の日の夜…
トントンと遠慮がちなノックの音ともに安物のドアが軋む。
「どうぞ」という言葉に応えて遠慮がちに片手にスーパー袋をぶら下げたタマモが入ってくる。
微笑んだまま何も言わない横島から本心を隠すかのように視線を逸らし、それでも隠しきれない気持ちのまま少女は頬を薔薇の色に染めた。
「来ちゃった………ねえ…また一緒にうどん食べよ?」
横島がどう応えたかなんて………書くほど作者は野暮ではないつもりである。
おしまい
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