朝焼けがアパートの部屋を照らしていた。その輝きは美しいが、彼のいる部屋はゴミによって混沌と化していた。
「うう〜っ! くっ、こうやって二本の足で立てるって、こんなにも素晴らしいことだったんだな」
横島忠夫は伸びをし、しみじみと呟いた。先日の呪いによって、尻に多大なダメージを負ったが、ようやく治ったのだ。思えば怪我をしている間は不自由でしょうがなかった。
激痛が走るので、歩く事さえままならず、トイレの時には絶望という言葉の意味を身を持って味わった。だが、それもおさらばだ。
彼は生きる喜び、立てる喜び、歩いても痛くならず、トイレに行ける喜びを噛み締めていた。
「先生!! サンポ! サンポをするでござる!」
そんな感激する横島の隣には犬塚シロが居た
彼女はさも当たり前の様に、こう告げたのだ。今までずっとルームランナーで我慢していたので、彼女の頭の中には横島とサンポする事しかなかった。
「お前なぁ、少しは俺を労わる気持ちを持ったらどうだ?」
「何を言うでござるか! 先生を労わる気持ちは世界一だと自負しているでござる!」
シロの言葉に、横島は眉を顰めた。
「いつ労わっているんだ?」
「サンポの時でござるよ。サンポをしていると大自然と一体化し、とても気分が晴れるでござる。それに喜びに満ち溢れ、生きている事の素晴らしさに気付くでござる、それを先生にも味わって貰っているのござるよ」
「いや、それはなんつーか……」
横島は呻く。それはただ単にランニング・ハイなのではないだろうか?
そう考えると、毎日していたサンポは何かの苦行かと思ってしまった。そういえば、禅の中に、ただひたすらに走り続けるものがあると聞いた事がある。
「だーかーら、サンポ。サンポをするでござる」
横島の腕に抱き付き、シロは一所懸命にねだった。しょうがないなとばかりに、彼女の頭に手を置いた。
「分かった。分かった。行けばいいんだろ?」
「やったーー!!」
半ば投げ遣りな言い方ではあったが、それでもシロは嬉しいらしく、狭い室内をピョンピョンと飛び跳ねた。
「隣近所に迷惑になるからやめろ。行くぞ」
「はーい」
そうして横島とシロは、部屋の外へと足を向けた。
自転車置き場に辿り着くと、なぜか横島の足がピタリととまった。
「どうしたのでござるか? 早く行くでござるよ」
サンポに一刻でも早く出発したいシロは横島を急かすが、彼の様子はどうにもおかしかった。
「いやな、ちょっとトラウマが……」
無意識に横島は、自分の尻を撫でた。あの時は運良く、急所を外していたので助かった。
でも、もし男の大事な部分に針が当たっていたら、今頃どうなっていた事やら。それを想像すると、背中に冷たい汗が流れた。
「大丈夫でござるよ。例の少年は先生の態度を見て、しっかりと改心なされた。もう二度と陰湿な仕返しはしないでござる」
「そこんところは俺も分かってはいるけど……そうだ! シロは匂いで呪いの類って分かるか?」
「もちろん。悪意の混じった霊波の匂いはすぐに分かるでござる」
「よし。なら、俺の自転車が無事かどうか確かめてくれ」
「……それはいいでござるが、気にし過ぎではござらんか?」
シロの言う通りではあるが、横島には気が気でならない。美神の折檻には慣れ、痛みには一般人より遥かに耐性はあるが、あれだけは金輪際体験したいとは思わない。
「ほら、あれだ。師の身を守るのも、弟子の務めだと俺は思うんだ」
「確かに。ならば拙者に任せるでござる。大船に乗った気分でいてくだされ」
彼の言葉に、彼女はあっさりと乗せられた。相変わらずシロは、そういった師とか弟子といった熱血なキーワードに弱い。
シロは自転車に近寄り、クンクンと鼻を鳴らす。
サドルだけでなく、グリップ、フレーム、チェーンにタイヤも念入りにチェックする。
身を屈めて、それらを行う姿は、ある意味弟子の鏡と言えるのかもしれない。
「だーいじょうぶでござる」
尻尾をフリフリさせ、シロは元気よく言った。
「おう。じゃ、行くか」
シロはロープ付きのサンドバック―シロ自ら市販のものを改造した―を背負い、フックを自転車に引っ掛けた。
「しゅっぱーっつ!!」
横島が乗ったのを確認した後、シロは猛ダッシュをする。
「やっぱりサンポはいいでござる」
しばらくして、シロが横島に話しかけた。
「そ、そーか、出来ればもう少しスピードを落としてくれると助かるぞ」
景色は丸で電車か車に乗ったかの様に後ろへと流れていく。はっきりと言って洒落にならない速度だ。
もしここでハンドル操作を誤れば、目を覆う事故になるだろう。横島はそうはさせまいと、必死にハンドルを握り、バランスを取っていた。
「わんわんわーーんっ!!」
シロはハイテンション。かなりご機嫌だ。横島の視点からだと、背中しか見えないが、きっと笑顔に違いない。
笑顔になればなるほど、サンポの距離が長くなる。今日まで行けなかったので、通常に比べて遥かに長距離になる。横島はそう確信していた。
横島は空を見上げる。空は果てしなく青かった。
帰る頃はきっと真っ暗になっているだろう。仕方がないと思い、横島は声を出した。
「だから、早過ぎるっちゅーねん。犬も歩けば棒に当たるというだろーが!! スピード落とせ!!」
「犬じゃないもんっ!! 狼でござるっ!!」
しかし、言った言葉が悪かったのか、更に速度が跳ね上がった。
自分は何てバカなんだと、彼は心底思った。
ある日のお間抜けな先生と、お間抜けな弟子の一日のお話。
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