『目覚めてみれば』
深夜の大除霊が無事終わり、明け方近くになってやっと事務所に帰還した美神令子除霊事務所のメンバーたち。
やたらと数の多い雑魚霊たちに振り回されて疲労もピークになった一同は帰還するなりそれぞれの部屋に体を休めに行った。
女所帯でありながら令子が居間のソファーを横島の簡易ベッドとして使うことを許可するあたり、今回の仕事が肉体的にハードだったことの証明だろう。
やがてそれぞれがそれぞれの寝息を立てはじめ、人工幽霊は戸締りと結界を確認して彼らの休息を影ながら応援した。
まさかこの後、あんな悲しい事件が起きるなど誰も予測していなかった。
日が中天に差しかかるころ横島はつかの間の安息のから目覚めた。
体の疲れはそれなりに取れたとなれば次はエネルギーの補給である。
こんなときはおキヌが軽いながらも栄養豊富な食事を用意して待っていてくれる。
自分も疲れているのにさすが元々は昔の人、朝は早いし逆境には現代っ子の横島なんかよりはるかに強い。
居間のソファーで寝ている横島にはにかみながらも優しく食事の仕度が出来たことを告げに来るたびに、横島は彼女に感謝するし「おキヌちゃんてえー娘やぁー」と思うのだった。
けれど今日に限って何時まで待ってもおキヌが起こしに来ない。
とっくに目覚めながらも自分から起きだしたら料理を催促しているかのように思われそうで寝たふりを続ける横島。
しかし飢えはともかく喉の渇きというのを我慢するのは大変だ。
水ならば料理の邪魔になることも、催促と受け取られることも無いだろうと考えて横島は体を起こす。
見上げた時計はすでに昼を示している。
流石に今までこんなことは無かったと首を傾げながら向かった食堂には先客がいた。
「お。シロ、タマモおはよう」
「おはよ…」
「おはようでござる…」
寝起きの悪いタマモはともかくシロも元気が無い。
疲れがまだ抜けないのかと考え、台所を見渡して気がついた。
そこには料理の形跡は無い。
「あれ? おキヌちゃんは?」
「まだでござる…」
尻尾を萎れたヤナギの枝のようにダランと垂らすシロにタマモも力なく頷く。
シロとて肉限定なら料理は出来るのだが、肝心の肉が冷凍庫の中に入っていたという悲劇。電子レンジで解凍するなど思いも寄らない。
肉や刺身は自然解凍が一番というのがシロの持論である。
飢えていても誇りは捨てないのが人狼の生き方なのだ。
武士は食わねど高楊枝というではないか──ちと違うかも知れないけど。
タマモはカップ麺でも良いのだが生憎今は在庫が無い。
もっともそれは数日前に、おキヌが買い置きしておいた非常用のカップ麺を彼女に内緒で食い尽くした自分に非があるのだが。
発覚した後でおキヌは怒りこそしなかったが、心底タマモを心配すると言う顔色で訥々と語ったものだ。
「あれは非常食です。確かに美味しいし手軽ですけどおうどんぐらいなら私が作ってあげますから。それにカップ麺の食べ過ぎは体に悪いです」
妖狐の自分がカップ麺ごときに健康を害されるとは思わないが、食事に関しては彼女に頭が上がらない。
普段は優しいが怒ると怖いところもあるおキヌなのだ。
下手に逆らってキツネうどんがネギうどんに変化しても困るのである。
「それにしてもおキヌちゃんどうしたのかな?」
「疲れているんでござろう」
自分の体ほどもある冷凍肉を抱きながらシロが答える。
体温で溶かそうというのかも知れないが、歯をカチカチ言わせながら袋に入った肉を抱いてるんでは食材が溶けるころに新しい冷凍肉が出来ていても不思議はない。
だんだん蒼褪めてくるシロに苦笑していた横島だったがふと嫌な予感に捕らわれた。
「もしかしたらどっか具合が悪いのかも知れないな」
「そうかもね…」
確かに除霊作業というはハードワークである。
ましてや深夜ぶっ通しでやっていたのだ。
どちらかと言えば可憐とか清楚という形容が似合う彼女が疲労のあまり体調を崩している可能性は大いにある。
「起こしに行ってみるか…」
「そうでござるな…」
心配そうな横島に冷凍肉と心中しかけていたシロも同意した。
おキヌは困惑していた。
というより今の彼女の状態ははっきり言ってピンチである。
目覚めは最高だった。
何しろ良い夢を見れたのである。
勿論、彼女にとって良い夢というのは横島の夢だった。
おキヌの脳内で五割増しに美化された横島が自分を優しくかき抱くという、ありそうでなさそうなシチュエーション。
おずおずと唇が触れたところで目が覚めた。
な、なななな、わ、わたしったらなんて夢を!
よ、よ、横島さんとチューなんて…キャーキャー。
なんて一人で赤面してベッドの上を毛布を抱きながら七転八倒。
あげくに蓑虫がごとく毛布に包まってゴロゴロゴロゴロとのた打ち回ること数分。
悲劇はそこにベッドと壁の隙間という形をとって待ち構えていた。
「キャーキャー!恥ずかしーーーー…おうっ!!」
見境無く転がりまわったあげく30センチほどの隙間に落ちたのである。
ベッドを壁にぴったりつけておけば防げた悲劇だが、それだと掃除のときに大変だとわざわざ開けていた隙間。
どこか天然とはいえ寝相のいいおキヌは今まで落ちたことはない。
まさか目覚めてから落ちるとは思ってもみなかった。
「あ、あはははは…」
誰も居ないのに誤魔化し笑いをするのは人間の本能。
さすがに自室での出来事だから他人に見られる心配は無い。
人工幽霊はプライバシーを侵害することは無い。
事件や事故でもない限り記録してある住人の行動を令子に教えたりはしないから安心ではある。
とはいうものの恥ずかしいのには変わりが無い。
このまま挟まり続けるというのは年頃の乙女としてどうかと思う。
とりあえず恥ずかしいこの状態から抜け出そうとおキヌは気合を入れた。
「さあ! みんなお腹をすかせているから起きなきゃ!…ってあれ?」
あれ?あれ?と体を動かそうとしてもピクリとも動かない。
どうやら蓑虫のように体に巻きついた毛布とかシーツがベッドと壁の隙間をこれ以上は無いという完璧さで埋めたようである。
しかも自分は王家の墓に眠るミイラのように胸の前で手を組んでいて、その手はピッタリと壁に押し付けられていて動かすことも出来ない。
有体に言えば自分から簀巻きになって壁とベッドに挟まっている状態である。
「え? ちょっと…え?」
おキヌは自分がとてつもない危機に陥っていたことにやっと気がついた。
このまま挟まり続けていたら碌な結果にならないのは当たり前だ。
もしいつまでも起きてこない自分を心配して誰かが起こしに来たら…。
そういえば万が一とは思うが横島が来ちゃったら…。
途端におキヌの顔から血の気が引く。
(まずい…まずいです…ベッドから落ちて挟まってる女の子なんて…)
たしかにあんまりいないだろう。
落ちるまでは結構いるかも知れない。
一文字とかはありそうだ。
だけど挟まるというのはかなり特殊な状況である。
ましてやそのまま身動きが取れなくなるなど日本でも数少ないだろう。
もしかしたらギネスに申請できるかも知れない…しないけど。
「あ、ああああ…私ったら何を考えて!」
一瞬、ギネスへの申請方法を美神さんに聞いてみようか?と考えて我に返るおキヌ。
もはや時間的な猶予は無いと必死にジタバタ暴れ始めるが、本人の意思とは裏腹に蓑虫はピクリとも動かない。
「ふえぇぇぇぇん…どうしたら…」
半泣きになるおキヌの耳に廊下からの話し声が聞こえてくる。
ああ、シロちゃんかタマモちゃんが助けに来てくれた。と安堵の息を漏らそうとしておキヌはピシリと硬直した。
近寄る声の中には紛れも無い横島のそれが混じっていたのだった。
「けど俺がおキヌちゃんの部屋に入っていいんか?」
廊下を歩きながら横島は居心地が悪そうに鼻の頭を掻く。
彼女が勉強中とかに入ったことはあるのだけど、寝ているかもという時に入ったことは無い。
年頃の娘の寝姿というのはそれなりにクるものがある。
「来る」ではない。
こう体の奥底から「ク」るのである。女にはわかるまい。
特におキヌのような清純派系の美少女の寝姿は価値が高い。
自分ならそれを肴にご飯は五杯いけそうだ。
などと何か人として間違ったことを考えながらドアの前に立つ。
この中にはあでやかな寝姿のおキヌがいるかと思えば自然と呼吸も荒くなる。
だがしかしおキヌ相手に「おっキヌちゃーーん」なんてダイビングをかましたら、次から自分の居場所はおろか命までなくなるだろう。
だけどもしおキヌが肌蹴たパジャマなんかで「うーん」なんて寝返りをうとうものなら煩悩を自制する自信は無かった。
ここまで来て今更ながらに躊躇う横島を不思議に思いながらもシロがドアをノックする。
中から返事は無い。
寝ているのなら良いがもし病気なら声も出せないということかも知れない。
不安が伝染したのかタマモも少し首を傾げながら聞き耳を立てている。
何度かノックしたが返事は返ってこなかった。
「おキヌ殿〜。寝ているでござるか〜」
ドアを叩く音がするがおキヌは返事が出来ない。
シロやタマモだけなら恥を忍んで助けを呼べたかも知れない。
だが横島がいる。
彼にこの間抜けな有様を見せるわけにはいかない。
「もしかしたら…やっぱり具合が悪いんじゃないか?」
心配そうな横島の声がする。
自分を気遣ってくれるのはありがたい。とっても嬉しい。こんなマヌケな状況じゃなければだが。
『おキヌさん…助けを求められたほうが…』
「言わないでください…」
見るに見かねた人口幽霊が助言してくる。
たしかにそれが一番なのだがやはり踏ん切りがつかない。
『ですが…』
「あうう…言ったら恨みますよ…」
『は、はぁ…』
恨むといわれて人工幽霊は思い出した。
少し前からおキヌが事務所の裏手にどこからか拾い集めた古い木を並べていることを。
(恨むと言われましても…はっ! もしやあの古木にはシロアリがっ?!!)
家屋に対する天敵シロアリ。アリと言いつつゴキブリの仲間。
実はおキヌはこの日のために…自分に対する切り札としてシロアリの養殖をしていたのでは?!!と戦慄する人工幽霊。
無論勘違いである。
おキヌは趣味の園芸の一環として椎茸の栽培をしていたにすぎない。
人工幽霊が「食」を理解していたら起きなかったはずの誤解。
だが一度、沸き起こった猜疑の心は彼に次の行動を躊躇わせ、結果として人工幽霊は沈黙した。
こうして事態はますます悪化した。
おキヌとて何とかしたいのは山々であるが、すでに正常な判断力など失われている。
そして彼女は気がついてしまった。
(そ、そういえば! もし横島さんにベッドの上を見られたら!!)
ベッドの上には彼女の秘蔵のお宝が放置されたままだった。
いつもは隠してあるそれが今は堂々とベッドの上に転がっている。
そんなに大事なら机に突っ込んで鍵でもかけておけば良いだろうと言うなかれ。
あるいは机の引き出しを引っこ抜いてその裏に隠すというのもありだろう。
しかしそれは誰もがやっていて見つかりやすいことこの上ない。
それにそれでは使いずらいではないか。
寝る前にそれを堪能してからそのまま睡魔に身を委ねるのが日課だったのだ。
それが今、裏目に出た。今日はとことんついてない。
ノックする音はますます激しくなる。
このままではドアを蹴破ってくるかもしれない。
そうなったら何もかもおしまいだ。
「あうあうあう…な、なんとかしなきゃ!!」
過去、生き返ってから、否、幽霊時代を通してみてもここまで追い詰められたことは無い。
もう脳みそはグルグルで火花が出そうだ。
「って!そうだ!!」
なんのことはない。自分は幽体離脱が出来たのだ。
それも幽体の分際でものに触るわ動かすわ壁を通り抜けられるわと自在である。
どこぞの御飯を食べるしか能の無い三本毛の幽霊とはワケが違う。
伊達に300年も幽霊をやっていたわけではないのだ。
思い立ったら行動は早かった。
スポンと幽体を引っこ抜くとベッドの上のお宝を隠して、ダッシュでドアに飛んでいく。
一つ深呼吸してドアからヌペッと頭だけ突き出すと、目の前に驚いた横島の顔があった。
「お、おキヌちゃん? なんで幽霊なの?」
(しまったぁぁぁぁ!考えて無かったぁぁぁ!!)
ノックの音に焦りすぎたのだった。
このままではますます不審をもたれるのは間違いない。
体はどうしたと言われるのは火を見るより明らかだ。
無論、体は簀巻きのままである。
「あ、えーとえーとえーと…!ちょっと眠くて…」
「そ、そうなの?」
「え、ええ…あの…御飯の仕度できなくてごめんなさい…」
「いや良いけど…大丈夫?」
「大丈夫ですっ!!」
思わず返した元気の良い返事に横島が目を丸くする。
それでも「体が寝ていても霊体が元気ってこともあるんだろう」と納得したようだ。
その様子にホッと溜め息をつくおキヌ。
なんとか部屋に乱入されることは防げたようだ。
無論、挟まったままなのではあるが、それは横島を居間に返した後でシロとタマモに手伝ってもらえばよい。
口止め料として晩御飯は奮発しなきゃないだろうが、その程度で済むなら安いものだ。
しかし神様は悪戯好きである。
「はうっ!」
「どうしたの?」
突然、ピクッと引きつったおキヌに横島がまた心配そうな顔になる。
やはりどこか悪いのでは?と聞こうとしたがおキヌの霊体は「ちょっとマッテクダサイ」と言いながら部屋に引っ込んでしまった。
心配ながらも勝手に入るわけにもいかず横島たちはドアの前で立ち尽くすしかなかった。
「な、なに?」
突然、自分の体から送られてきた警告信号におキヌは挟まっている自分の顔を覗きこむ。
霊体が抜けているはずなのにその顔は蒼褪めダラダラと冷や汗を流し始めていた。
何か異常が起きたのは間違いない。
「と、とりあえず」と体に戻っておキヌは自分の体に起きた最後の試練を理解した。
それは人としてごく自然な寝起きの衝動。つまり尿意。
それが今、猛獣のごとき獰猛さで彼女を苛み始めていた。
考えてみれば朝からずっと挟まったままである。
限界が近くなっていても無理は無い。
もはや一刻の猶予も無い。
ついに少女は究極の決断を迫られた。
恥を忍んで横島たちに助けてもらうか。
それともこの年でおねしょ─起きているのだからおねしょではないかも知れない─をするか。
(お、おお…おねしょは流石にどうかと…あああ…でも…こんな姿を見られるのは…)
傍から見れば悩むまでもない事柄だけど、好きな人の前で恥ずかしい真似をするのは耐えられないおキヌだった。
それは横島と自分の関係がまだ恋人と呼べるものでないことに起因する心の罠。
はっきり言ってライバルは多い。
特に最大のライバルは美神令子だとおキヌは思っている。
容姿、スタイル、さらに知性、どれをとっても自分をはるかに上回っている─と思い込んでいる。
おキヌは勘違いをしている。
美神令子とて欠点が無いわけではない。
むしろ欠点だらけといえよう。特に金銭的に。
人の好みなど百人百色なのだから自分は自分の長所をアピールすれば良いのだ。
減点法で考える必要は無い。
まあ思春期にありがちの心の陥穽ではある。
だけどそんなことを吟味検討している暇はすでに無いと、下腹部から打電されるエマージェンシーコールはどんどん緊迫感を増してくる。
もう後ほんの少しで「サヨナラ」と打電してくるのは間違いない。
何とか必死に体をなだめすかせているうちに、ふとおキヌは自分のマヌケさに気がついてしまった。
「しまったぁぁぁ! さっき幽体離脱した時に自分を引っこ抜けばよかったんだあぁぁ!!」
まさに後知恵。
だがこの手はもう使えない。
今、幽体をぶっこ抜けばそのショックで堤防は決壊するだろう。
「ひーーーーーーーーん! 私のバカあぁぁぁ!!」
思わず上げた涙声にドアの外の緊張が高まった気がする。
しかもさっきより乱暴なノックの音と心配そうに自分を呼ぶ横島の声もする。
まさに内と外からのプレッシャー。
外は「入れてくれー」と訴え、内は「出しちくれー」と叫ぶ。
二つの方向へと向かうプレッシャーがおキヌの脳内でぶつかり合い、そしてついに少女は悲しい決断をした。
「横島さーーーーん。助けてぇぇぇぇ!!」
こうしておキヌの受難の朝は終わった。
ちなみに本人の名誉のためにトイレは間に合ったとだけ言っておく。
「ふぁー…おはよー」
夕方におはようもないものだが、除霊仕事の後に令子が夕刻まで寝ているのは珍しいことではない。
住人たちもそれを心得ていて、おキヌなどは令子の起きる時間に合わせていつも濃い目のエスプレッソを煎れていてくれている。
だが寝ぼけ眼のまま食堂に入った令子はいつもと違う空気に思わず顔をしかめた。
そこには顔を真っ赤にしてグスグス泣くおキヌを宥める横島と、そんなおキヌにまさか「ご飯は?」なんて聞くわけにもいかず、盛大に鳴る腹の虫を何とか黙らせようとガシガシとスルメを齧り続けて腰を抜かしたタマモ、さらにどういうつもりか冷凍肉を抱いて凍りついているシロがいた。
「な、なにがあったの?」
しかしその問いに答える声は人工幽霊を含めてついになかったのである。
その夜…色々とあったごたごたをなんとか終えて部屋に戻ったおキヌはドサリとベッドに倒れこんだ。
そのまま寝てしまおうかとも思ったが、日課を忘れていたことを思い出す。
昼間、咄嗟に片付けたお宝を引っ張り出すと、彼女はそれに軽く接吻してから目を閉じる。
小さな額に入った横島はいつもと同じように微笑みながら少女が眠りにつくのを見守っていた。
おしまい
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