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水蛍



「うわっとっと――、
 やれやれ、本降りになって来たか・・・・・・」

 夏独特の夕立。
出席日数不足故の補講から、いつもの事務所へと向かう道のり。
一筋の雷光に堰を打たれたかのよう、天より零れだした大雨に、バンダナ青年、横島忠夫は道中の公園で
雨宿りを余儀なくされていた。
見上げた空には一面の雲。
微かに白ばむ西の空はまだまだ遠く、後三十分はこの場に拘束されそうだった。

 ――いっそ走っていくか?

 不意に脳裏を過ぎるそんな考えを彼は一蹴する。
幸いにして本日、彼の上司は仕事の予定を入れておらず、故に別段急ぐ必要など無い。
そもそも除霊の予定が無い以上、顔を出す必要も無いのだが、それでも彼が事務所に行くのにはワケがあった。

「・・・・・・やっぱ一日一回は、あのチチ、シリ、フトモモは拝んでおかんとなー」

 そんな独り言。
ポリスメンが聞き咎めたら職質確定なその内容も、より激しくなった雨音によって掻き消され、
横島は雨避けに選んだ木の幹に背を持たれかけると、どんよりとした空を眺めていた。

「・・・・・・っ!」

 どれくらい呆けていたのか。
気がつけば魅入っていた、未だ遠く白い西の空。
けれども、そこに重ねる色は、焦げるような朱色。
慌てて目を反らした彼の唇に浮かぶのは自虐的な苦笑。そして、

「あーあ、
 早く、やまへんかなー」

声を大にし、どうでもいい、といった感じで漏らした彼の呟きも、

まだまだ激しさを増す雨音。
夏の雨は全てを掻き消して行く――



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   『水蛍』  ※下着青年・裏(前作は未読でも大丈夫です
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 ――バリバリバリバリッ

「な、なんだ――?!」

 それは唐突に始まった。
 雨は未だ止まず、それでも上空の雲の切れ間から、時折青い空が望めるようになった頃。
横島が雨宿りする木のすぐ側。
莫大な霊力の渦が発生していた。

「ま、魔族か何かか!」

 何かが空間を引き裂き、現世へと出現しようとしていた。
それを今までの霊験から察した横島は、すかさずサイキックソーサーを展開。高霊圧が生む放電現象に目を細めた。
彼の見守る中、霊力の渦はいよいよ収縮し、代わりに濃度を増したソレは次第に人の姿を形どっていく。

 ――どうする?! 事務所まで走って逃げるか?

 はなっから戦う、という選択肢を持たないのは彼らしいと言うべきか、
脅威に対し何の対策も持たぬままで突進をしない、というのは腐ってもGSと言うべきなのか。
 自由になる方の手でポケットをまさぐると、そこにはビー球に似た丸く冷たい感触がかえって来た。

 ――3つ、いや4つか。

 それを確認した瞬間、光が爆ぜた。

「――どわっ?!」

 激しい光量に視界を奪われる横島。
間髪入れず、どんっ、という衝撃が彼の腹部に走る。
それは、彼を押し倒さんが程の勢いを持っていて、

「この――っ!」

 アドバンテージは既に取られた。
先ほどの閃光で視覚は白一色。
形勢不利を悟った横島は、一撃必殺の思い込め、文珠に『滅』の文字を刻み込む。
この間、僅か一秒未満。
恐らくは体当たりなのだろう、未だ腹部に感じる温もり目掛け、彼はそれを振りかざすと――

「――パパ!」
「・・・・・・はぃ?」

 胸元から聞こえてきた少女の声に、横島の手が止まった。
視界閉ざされた彼の胸元に感じる、暖かく柔らかい感触。
その感触の主は、戸惑う横島をそのままに、もう一度愛しげに呟いた。

「パパ、逢いたかった・・・・・・」
「え・・・・・・えと・・・・・・」

 方や、背後の木に背を預け、掲げた手は振り下ろされる事のないまま宙を彷徨い、
方や、そんな体制の青年を愛しげに抱きしめる黒髪の少女。
どこか如何わし気な気配を漂わせるその光景は、幸いにしてこの雨の中、誰かに見咎められる事も無く、
結局、横島の視覚が元に戻るまで、少女はずっと彼を抱きしめていた。


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 雨を避け、横島とその少女は今は近くの喫茶店の中へと場を移していた。
あの場所でも良かったのだが、突然の雨の冷たさか、微かに少女が震えているのを横島が感じ取ったからだ。

「……私、未来から来たんです。」

 手にしたコーヒーカップで、雨に濡れた手を温めるかのように両手で包み込み、一口。
窓際の席、横島の対面に座る少女は、ようやく落ち着いたのか、そんな事を口にした。
横島のテーブルの上には水の入ったコップのみ。
雨のせいで飽和状態にあった空気中の水分がコップの表面で水滴と化す。
それは暗に、彼がここに入ってから、一度も水を口にしていない事を意味していた。

「・・・・・・」

 無言の横島。
彼は今、珍しく己が脳みそをフル回転させていた。
言うまでも無く、彼に女性経験はない。それどころか彼女だって居やしない。
幸いにして、彼女居ない歴 = 年齢 という悲劇は、今の彼の強さと脆さの一端を担う少女によって拭われたが、
ともかく――横島の脳裏を今よぎるのは、今年も六堂家より依頼された臨海学校の下調べの事だ。
 正確には下調べが終了し、それぞれに与えられた自由時間の事である。
もはや語る必要もあるまいが、夏の海は彼の煩悩をヒートアップさせる。

 去年よりもちょっと大胆な水着。加速する一夏の恋――を捜し求め、男、横島。
己が後をついて来ようとしたシロを驚異的脚力で撒き、闇雲に行ったナンパ。
もちろん結果は全て撃沈。
その後、すっかり人気の無くなった夕日沈むビーチに、体育すわりでイヂケル彼を引きずって帰るのは、
既に美神除霊事務所の恒例行事である。
 というワケで、夏のアバンチュールで過ちってしまった子供が居たりするワケがない。

――しっかし、『分』『身』の文珠を使ってまで、数こなしたっちゅーのに、誰も捕まらんとは……
 くぅ……流石だ俺っ。
 情けなすぎて、目から塩水がちょちょぎれるわ!
 横島忠夫の名は伊達じゃないってか!?
 ・・・・・・そういや、伊達といえば、アイツ弓さんとうまい事行ってンのだろうか?
 クソ、羨ましい。
 つーか、あのタイガーがまさか一文字さんと付き合うことになるとはなー。
 ピートは・・・・・・考えるのはよそう。
 今は手元にわら人形のストックはねーし、って、いや、待てよ!
 俺には文珠という最終兵器が――っ!!

 どこか遠くで、原因不明の悪寒に襲われているヴァンパイアハーフのコマに割り込む形で、
「・・・・・・あの、聞いてますか?」と、少女が確認の声をあげた。

「はい?」

 慣れない事などするものじゃない。
すぐさま明後日の方向に飛んでいっていた彼の思考は、少女の割り込みにより、なんとか軌道修正を果たす。

 だが――

と、横島は、ようやく目前の少女をしげしげと眺めた。
 正直、美少女だ。
肩にかかるか、かからないか程度に切りそろえられたストレートの黒髪。
顔立ちは整っていて、美人とも可愛いとも褒める事が出来よう。
年齢は十三、十四くらいに見えるので、シロタマ同様、彼のストライクゾーンから外れてはいるが、
姉がいるならば実に頃合であろう。
いや、待て。娘がこれだけ可愛いなら母親だってまだまだイケるに違いない!!

 なははは――っ!
 パパか! 上等っ!
 未だ見ぬ熟女様、その火照った体にこの横島忠夫の燃える鉄芯を――

「ちょっと、パパぁ?!」
「はひっ!」

 膨れ上がる妄想を推進力に、再び明後日へと飛び立たんとしていた彼の思考は、またもや少女の声で遮られた。

「って、その『パパ』ってさっきから何なんだ?」

 こんどこそ話を本筋に戻しながら、人違いじゃないか? 俺まだ高校生だし、と横島は続けた。
その返答に、呆れた表情を浮かべた少女は、溜息を一つ零した。

「やっぱり聞いてなかったんですね・・・・・・。」

 手にしたコーヒーカップを撫でつつ少女。そう前置きを述べ、半眼になったその瞳を伏た。

(あ、ギャグが過ぎたか?)

 傷つけたのかもしれない。
その仕草に、慌ててフォローを入れようとした横島だが、それよりも、少女が再び面を上げるほうが早かった。
そして、言う。

「本当に、私がわからないの? ヨコシマ――」
「――っ!?」

 彼の呼称は多いのかもしれない。
横島クン、横島さん、先生、よこちま、小僧、ボウズ、横島サン。
馬鹿であてすけな彼故、女性を見れば飛び掛り一蹴されて終わるその身なれど、
それでも皆が自分を呼ぶ声に込められた温かみを、彼は――時としてその呼称に込められた、
友愛超える想いにだけは気づけなく――知っていた。
 けれども、その呼び名だけは違う。
限りなく鈍感で、己を最も信用できないという彼の心の奥底まで、唯一の届く事の出来た人の、彼を呼ぶ呼び名。
 一瞬で喉がからからになっていくのを横島は感じた。
 たった一呼吸にも満たない言葉が、彼の心臓を鷲掴みにする。
背を伝う冷たい汗。
激しく脈打つ鼓動。
抑えることが出来ず、震えだした手が、何時しか握り締めていたグラスの水を波打たせた。
そして、

「・・・・・・ま、まさか、お前、ルシオ――」
「――ストーップ」

 何故、どうして?
戸惑いを覚えながらも、震える声で目前の少女の名を呼ぼうとした横島の口は、少女の小さな手によって遮られた。
けれど、尚も問いかける彼の瞳だけは遮ることはできず。
故に、というワケではあるまい。元よりその事を話すつもりだった少女は、横島の視線を真正面から受けると――

「その……その名前で呼ばないでください。
 試すような事をしてしまったのは謝罪します。
 けれども、今の私の名前は、横島 蛍。
 信じがたい事だとは思うのですが、貴方に歴史を変えてもらう為、私はこの時代に時を越えてやってきた、
 貴方の未来の娘なんです。」
 
 そう、答えた。

 近くで雷鳴が轟く。
閃光より数秒と遅れることなく鳴り響いたそれは、恐らくはこの近くに雷が落ちたことを意味しているのであろうが、
そんな事は今の彼には問題ではない。

「俺の・・・・・・娘?」

 馬鹿のようにぽかんと開かれた口が、少女の言葉を反芻する。
『タチの悪い冗談だ。』
脳裏に浮かんだ言葉が、喉の奥につかえて声にならない。
霊能力という一般人よりも、一歩常識の外に足を踏み出している彼であったが、少女が口にしたその言葉は、
とてもじゃないが信じがたい事であった。
 故に否定する事は容易なはず。
だが、何故だろう。

 もどかしい、
   いとおしい、
     ありえない、
       抱きしめたい、
   ありえない、ありえない――

 様々な感情の奔流が、彼の中を駆け抜ける。
その流れは、収束する事を知らぬように、めいめいが思うがままに想像しうる可能性を脳裏にぶちまけた。

「娘・・・・・・俺、の?」

混乱の中、再び口から零れ出た彼の呟き。
そんな彼の戸惑いを知ってか知らずか、目の前の少女は、大きく頷いて見せるのだった。


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「――そうか、俺はおキヌちゃんと結婚するんだ・・・・・・」

 未来の自分の娘、蛍。そう名乗る少女と横島は肩を並べ歩く。
場所は近くの商店街。
あれから喫茶店で説明してもらった話の内容を確認するかのように、横島は一人ごちた。

「ええ、
 平和だった頃はそりゃもう大変だったんですよ?
 もー、子供の目に毒な位に、すっごくラブラブで――。」

 横島の独白に相槌を打つ蛍の表情は、怒ったような口調の割には穏やかだった。
それは、彼女が言う『平和だった頃』の生活の中、自分とおキヌと共に家族として育った娘が、
本当に幸せに過ごせていたということを意味していて、横島も漠然と理解する事が出来た。
 アシュタロス事変以降、どこか自分の中に残っていたしこりが消えていくような感触を彼は感じていた。

「でも、よく、こんな突飛もない話を信じてくれましたね。」

 正直、信じてもらえるとは思って無かったです。思案顔でそう続ける蛍に横島は、
そりゃ、文珠まで見せられたらなー、と苦笑で返す。
 美神令子とその母、美神美智恵。
二人は共通した霊力、時間移動能力を保持している。
それを思い出し、蛍が自分の娘という証拠に文珠を出して見た時、横島はその信じがたい事実を
受け入れる事としたのだ。

「しかし、十四歳で15個の文珠の制御やなんて、蛍は才能あるんやなぁ。」

十五個の文殊を使用しての時間移動。

『時』『間』『移』『動』『●』『●』『●』『●』『年』『●』『●』『月』『●』『●』『日』

 まさか己の文珠にそのような力まで存在するとは思いもしなかった横島だが、
時間移動の方法として蛍が話した文珠の使用方法に、何故かそれが不可能な事のようにも思えなかった事もあり、
その事もこの少女を『未来から来た娘』と認めるのに一枚噛んでいるのかもしれない。
 いや、そうでなくても、彼はやがて少女の言う事を信じるようになったのだろう。

「そ、そんな事ないですよ。」

 今、横島の言葉に赤面し、嬉しそうに微笑むその少女には、確かに、あの女性を思わせる面影が色濃く感じられたからだ。

「それに、自分で収束できる文珠は5つ、6つまでが限界だし、
 それに未来のパパは、15個以上の文殊を独自で生成して制御しています。
 制御だけが上手くても――」
「――でも」

 ――仕方が無い、そう続けようとした蛍の表情に陰りが見え、横島は咄嗟に割って入った。
 
「制御できたからこうやって俺達は逢えたんだし、だいたい、俺が十四歳の頃には――」
  ――女子高の更衣室のロッカーに忍び込んだり、銭湯の天窓まで這い上がって覗きを・・・・・・

「――十四歳の頃には、どうだったんですか?」
「い、いや、霊能力なんて、欠片もなかったしなって。うん、やっぱり蛍は優秀だ。」

 うっかり滑りかけた口を慌てて軌道修正。横島がその替わりに言った言葉を受け、蛍が再び赤面する。
 穏やかで柔らかい口調。
 言葉を真に受けやすい純真な感性。
 朱に染まった頬を両手で押さえ、そんな事ないです、そう呟く彼女の素振りに、垣間見えるのは、確かにおキヌの姿。

 蛍の母親の名前がおキヌだと聞き、『今でも、既に片チチくらいは俺のモノに――』そう言って喫茶店を飛び出そうとし、
ただならぬ蛍の殺気に押し留められたのは、いわゆる一つの『お約束』。
 おキヌは誰にでも優しい。
自分に家に料理をしに来てくれるのも、その優しさの一環だと横島は思っていた。
定期的に部屋の掃除をしてくれるのも、自分の整理能力の無さを哀れんでの事からだと思っていた。
それに――

『もー、こうなったらおキヌちゃんで行こう――』

等と失言する男を、どうして好きになってくれる女の子が存在するというのだ。
 そう思って居たが為に、おキヌと自分が結婚する、という事実を信じ切れていなかった彼であったが、
そんな考えも、今、こうやって蛍と交わす言葉が、ソレが紛うことなき事実だと彼に訴えかけ、打ち解けていく。

 正直、趣味悪いぞ、おキヌちゃん――

 彼の脳裏、穏やかな笑顔浮かべるおキヌにツッコンでみて、それが自分だけではなく、
未来のおキヌを貶める行為だと今更に気づき、浮かべた苦笑。
それは、本当に穏やかな微笑で、

「パパ……ママの事考えてたでしょ?」
「――っ!?」

不意に己の目前に迫っていた、蛍の黒い大きな瞳に見つめられ、柄にもなく彼は赤面してしまう。

「もう――っ、どうせ『おキヌちゃんがそのつもりなら今晩にでも――』とか考えてたんでしょ?」
「ばっ、ち、違っ」

即座に否定したものの、蛍の言動で逆に想像してしまった横島。
思わずニヘラ、と緩む顔。

「パパのエッチ!」
「いてっ!」

横島の脛に蛍が蹴りがめり込んだ。

「――このっ!」
「つかまりませんよー。」

 反撃にと伸ばされた横島の腕をくぐりぬけ、進む道先へと一人駆けて行く蛍。
礼儀正しく、でも、しっかりと子供らしさを残し、彼の目の前で感情をころころと変えてみせるその姿に、

「ほらー、急がないと置いていきますよ。」

振り返り、掲げた手を大きく振り、横島を呼ぶ少女の顔には幸せそうな笑顔が浮かび、

  横島 蛍。

 未だ生まれても居ない俺の大切な娘。
 蛍の化身、
 俺の事を好きになってくれた大切な人。
 今はお前はまだ、俺と共に在るけれど、見えてるか?
 もう少し未来、
 お前は、俺の手の届くところで笑うことが出来るんだぞ。
 感じるか?
 今、俺の目の前で、お前が笑ってるんだぞ。
  見えているか?
   なぁ――

 不意に横島の視界が、込み上げてきた涙で歪んだ。
けれども、己の泣く様など娘に見せられるわけがない。
だから、彼は雲の切れ間から顔を覗かせ始めた太陽へと目をやった。
そうしていれば、今彼が必死に堪えている涙。たとえそれが意に反し、流れ落ちたのを蛍に見咎められるようとも、
『太陽がまぶしかったから』。
そんな陳腐なセリフで、誤魔化す事が出来るから。


 雨はもう上がっていた。
天の激流に身を委ね、刻々と姿を変える分厚い雲の隙間から、
もうかなりの場所より高く青い空を仰ぐ事ができ、
そして――

 ――空を見上げる横島。
故に彼は気づけなかった。
彼の正面、微笑む娘の顔に、一瞬の影がよぎったという事に。


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「ここです。」
「……え?」

 十数年後、アシュタロス事変にも劣らぬ大霊障が起こる、と蛍は言った。
そして、その起因こそがこの時間に存在する。それを潰し、未来を変えるという事が蛍の望みだった。
だが、それは、今やそれを託された横島自身の願いでもあった。
蛍の話が真実ならば、その大霊障で彼は、多くの友を失う事となる。
その中には、美神や、未来の妻おキヌも、シロやタマモ、ピートやタイガーまでもが含まれていたからだ。
 あの時同様、己が戦う事を心に決め、急いで収束生成させた文珠の数と元より所持していた文珠の数が、
合計で7個に達した時、道案内を買って出た蛍が立ち止まり、誰も居ない公園を指差した。
だが、蛍がその大霊障の原因と指差す場所は、どう見てもただの公園でしかなく、横島には彼女の指差す場所からは、
なんの霊力も感じることが出来ずに戸惑っていた。
 加えて、

「ここって、俺達が最初に居た公園――」
「うん、ここが大霊障の起因の一つを担ってるんです。
 ほら、あそこを見ててくださいね。
 いいですか?」

 そう言うが早いか、蛍の手から放たれた2つの文珠が光を放つ。
そこに刻まれた文字は、『開』『門』。
激しく輝く光を受け、文珠の転がった周囲の景色が歪み始める。
そして、次の瞬間――

「な、なんや、これ……」

 思わず漏れた横島の畏怖。
彼らの前に姿を現したのは黒紫色の穴。
それは不思議な光景だった。
蛍が先ほど指差した、横島の目前5m程の距離に、なんの支えもなく、空間に30cm程の小さな孔が開いていたのだ。
その孔の向こう側に見えるのは、一片の曇りなき闇のみ。

「これは、魔界からのゲートなんです。
 まだまだ未成熟で、完全に魔族が通過できるようになるには、早くてあと十年以上を必要とするんですが――」
「冗談じゃねぇぞ! そもそも魔界へのゲートってのは、そうぽんぽんできるモンなんか?!」

 孔の向こう。
そこに、底知れぬ何かを感じ取った横島は、困惑隠せず口を開いた。

「いえ、小竜姫様の話じゃ、本来はこんな事は起こりえない筈だそうです。
 現存する神界、魔界へと繋がるゲートは『場所』や『発生時間』等、それぞれの世界が管理し、
 互いが互いに、この世界へ過激派達が介入せぬよう監視しています。
 このゲートは、それらの全て規則を外れて異常発生しようとしているんです。」
「なんで、そんな事に……」
「わかりません。ただ、なんというか、この今居るパパの時間座標が何かの影響で、
 非常に移ろい易くなっている、このゲートはそのせいで発生した。と仰ってました。」

 横島の問いに、蛍は首を横に振り答えた。
小竜姫の名が出た事により、それは神族の力――恐らくはヒャクメ――を以てしても、
原因が特定できぬほどの問題なのだろうと彼は推測する。

「うつろい……やすい?」
「はい。ようは、未来を変えるのに一番適している、と思ってもらって結構です。」
「……しかし、歴史の改ざんなんて、よく神魔達が許してくれたな。」

 アシュタロス事変の最後。美神の母、美智恵は小竜姫より、神魔の最高指導者の承認の元、己が時代へと帰っていった。
先ほど蛍の言葉に、小竜姫の名があがったということは、この一件、同様の処置が取られたと見ていいのだろう。
つまり、他時代からの干渉が黙認されるほどの大事件ということだ。
もっとも、その承認があろうと無かろうと、横島は既に、未来を変える決心を終えていた。

 もう、こりごりだからな――

 大切なものを失い、あの時流した涙。
当時の事を思い出し、握り締めた彼の拳に熱がこもる。

「私がわかっている事は、それだけなんです。」

 気づけば、横島の目前、俯きそう言う蛍に、彼は少し強く言い過ぎたと後悔する。
だが、謝罪よりも先に、聞いておかなければいけない事が彼にはあった。

「この孔って……消せるんだな?」

 そう、この孔が後の大霊障の起因というならば、そして蛍がこの場所に自分を連れてきたということは、
何らかの手段でこの孔を塞ぐ事が出来る、と考えていいはずだった。
確信を持ち問う横島に、蛍は気持ちを切り替え、面を上げると、己の内より生みだした三つの文殊を手渡した。

「はい、パパも可能な限りの文珠に『封』という文字を刻んでください。
 それでこの穴を埋めることが出来るはずです。」

 文珠を受け取りながら、横島は再び背後の孔へと目を戻した。
普段ならば、誰先切って尻尾を巻き逃げ出したいところだったのだが、横島。
目の前の少女の事、なにより、己が薔薇色の未来の為、辛くその場に踏みとどまる事に成功した。

「今は、これが限界、かな?」

 念を込め、文殊に文字を刻む。
じゃらり、と音を立て、蛍の手へと戻された『封』の文珠は総計十個。
蛍はその文珠を一度手の平の上で戯ばせると、横島の手の中へと再び戻した。

「今の俺と蛍を比べるなら、蛍の方が文珠の制御を上手に出来るじゃないか?
 正直、俺はまだ三個の文字の制御すら――」

 未だこの時代では存在していないとはいえ、未来に於いて蛍は彼の娘なのだ。
そんな少女の手前、自分の劣を認めるその発言に、横島は己が無力を少し悔いる。
だが、現時点で文珠の制御は彼女の方が勝っているのは事実なのだ。
今の彼には、例え十五個の文珠を用いても、時間を移動することなど出来ようもない。
 これは、未来の仲間の命がかかった大切な勝負。
成功率の高い蛍の手に任せる方が良いと、彼には思えたのだ。
けれど、

「パパの手でやって欲しいんです――」

 そんな言葉と共に、突き返された十個の文珠。
下から見上げられた少女の表情は、場違いなような満身の笑顔で、

「蛍、お前――、」
「私、パパが除霊する所、殆ど見た事ないんですよ。
 大霊障前は、除霊にはまだ連れて行ってくれなかったし、
 大霊障後には、文珠使いは稀少で絶大な戦力だから、バラバラに配置されて、
 殆ど一緒に戦う事も出来なかったんです。」

 一呼吸。

「だから――」

少女は、笑顔のまま続けた。

「パパの活躍するところ、私、見てみたいんです。」

   ――ドクンっ

と、横島は己が心音を聞いた。
周囲の音が一瞬で消えうせ、蛍の声だけが耳の奥に響く。

 蛍が笑っている。
     ――思い出のあの場所で、
   蛍が笑っている。
       ――『大丈夫』彼女が口にした最後の嘘。
     蛍が笑っている。
         あの時、彼を送り出した――の最後の表情は、         

「パパ、お願い。」
「あ、ああ・・・・・・」

 あと一歩。

何がどう後一歩なのかは分からない。
ただ、漠然と気がかりなものが横島の中に生まれていた。
だが、それが何なのか、彼は気づけないで居た。
気づけないまま、促されるよう、彼は文珠を握り締めた。
今は、この孔を塞いでしまう事の方が先決だと、そう思ったから。
それに、

 この魔界へのゲートがあるのは、俺の時代だしな。
  なら俺が埋めるのが道理なのかもしれない。
   そうと決まれば、ここは格好の良いところを蛍に見せてやるか!

 彼は一度頭を横に振るい、雑念を飛ばすと、手の中の文珠を孔の周りへとばら撒いた。



 一個、二個、三個、四個、――

 一つ一つ、発動がスタンバイ状態となった事を示す様に、魔界への孔の周囲。
宙へと浮かび上がった文珠が輝き始める。
 元々が同一の志向性を持たされた文珠だからかも知れない。
孔に向い手をかざし、念を送ると、案外スムーズに始まった文珠の同時発動の準備。
若干出てきた余裕か、横島は集中解く事無く、思いついた事を口にする。

「・・・・・・蛍。」
「・・・・・・何? パパ。」
「お前は、その――、俺の娘、でいいんだよな?」

 それは勿論、言葉通りの意味ではない。だが、故に口にすべき事ではなかったのかもしれない。
未来に於いて、恋人としてではなく、自分の娘として存在している彼女。
それは、蛍にとって本当に幸せなのだろうか?
横島の娘として生を受ける事。
それは、アシュタロス事変後、自分達が自分達を納得させる為に作られたレールだ。
彼女はまた、己が想いを犠牲にして横島が幸せで在れるよう振舞っているのではないか?
幾度、幸せそうに微笑む少女を見ても、その懸念だけは消える事がなかったからだ。

 今、文珠の制御に力を注ぐ横島は、背後で見守る蛍を振り返る事は出来ない。
 今、未来を救わんが為、己に背を向け文珠制御に全力を注ぐ横島が、
どのような表情を浮かべているか蛍は知ることが出来ない。

「・・・・・・」

だから、その後の沈黙は、まだ若い横島には酷く重苦しく圧し掛かった。

 ――五個目の文珠に光が灯る

(やっぱ、言うべきじゃなかった――)
 雨は上がれど、魔界の穴から流れ出る霊気が近づく者を遠ざけているのか、
未だ小鳥の鳴き声すら聞こえて来ぬその公園。
完全に無音の空間で、横島が後悔し出した時、

「――ぷっ、あはっ
 あははははは――っ」

横島の背後から聞こえてきたのは、もう堪えきれぬ、そういった感じの蛍の笑い声。

「へ?」

呆ける彼に、彼女は続けた。

「やだ――パパ、もうっ!
 ちょっとママみたいな可愛らしいお嫁さん貰えるからって自信過剰ですよ。
 あははっ
 わ、私はママみたいな物好きじゃないから、パパみたいに女好きで浮気性な人、好きになったりしないです。」

 余程面白かったのだろう。
息を詰まらせながら背後で爆笑する蛍に、憮然としたものを覚えながらも、浮気性――己が父の姿を思い出し、
横島は反論すべき言葉を失い詰まる。
 実の娘にしてこの言われよう。
この時ばかりは結婚したら浮気などしない、と誓う横島であった。
もちろんそれは、言葉どおり『この時ばかり』になるであろうが。

 ――六個目の文珠が淡く輝く

「だいたい私の理想は高いんです。」
「ほー」
「やっぱり男性は包容力ですね。
 普段は情けなくてもいいから、ここ一番って時には頼りがいがある人で〜。
 あっ、あと優しさも大切ですね。無害な妖怪とかなら、助けようとしちゃうくらい優しい人。」

それは正におキヌが横島に見出した魅力である事を、語る蛍は気づいているのだろうか?

「そんな奴、この世におらんやろ」
「んー、候補みたいな人は居るかなぁ」
「なにぃ!? だ、誰やそれわ!」
「ちょっ、パパ! 集中集中!」

気付くと制御に成功している六つの文珠の光量が落ちており、慌てて横島は制御を取り戻す。

「あぶねぇ――」
「もうっ、しっかりしてよ、パパ」
「で、そいつは誰なんだ?
 ――ま、まさか西条とか!!」
「い、いい人には違いないけど、年が離れすぎてるし、
 そ、その・・・・・・ヅラはちょっと」

 天高らかに拳を掲げ、勝者の涙を流し始める横島。

「だから制御――っ!」

そんな冗談めいた事をやりながらも、今度はしっかり制御を手放したりはしてなかったのだろう。
 ――七つ目の文珠が新たに輝き、蛍から微かに見える彼女の父親の横顔を照らした

「で、そいつって誰?」
「どうあっても聞きたいんですね・・・・・・」

 珠のような汗が横島の顔を濡らしていた。
否、汗は顔だけでなく至る所から滲み出していた。
如何に同一の志向性を持つ文珠といえど、これほどまで多くの同時発動など、彼にとっては初めての試み。
軽口を叩きながらも、その実、浮かべられた表情には、当初伺えた余裕は、一欠けらと残ってはいなかった。

「そりゃ、自分の娘の事やしな。」
「もうっ、こんな時だけ。
 ・・・・・・なんだか、現金。」

 軽口は続く。
だが、横島は気づいていた。背後で見守る蛍も気づいていた。
残りの文珠は三つ。だが、それらが一向に輝く気配を見せないという事に。

「内緒にしてくださいね? 丞太郎君とか、ちょっと、その、いいかなぁ――なんて」
「・・・・・・それ何処のスタンド使い?」

 未来に於いて、十五個を超える文珠を制御するという横島。
だが、今の彼はまだGS見習いの高校生。
現在、制御下に置いている七個の文珠ですら、今の彼の限界を超えているのだ。
 それを横島は理解していた。
だが、理解したところで諦める事など出来なかった。
今すべき事は、今しか出来ない。
あの時、助けれなかった彼女は、娘という形をとる事でしか救えなかった。
だからこそ、今度こそは、蛍の目の前で、蛍が最も望む形で願いを叶えてあげたいと思ったから。

「えーと、パパの友達の雪之丞さんと、かおりさんの子供さんです。
 そっか、こっちじゃまだ生まれてないんでしたね。」
「マジ!?」
「ちょっと目つきが悪いけど、今までも、何度か助けてくれて、
 その時、ちょっといいかなぁって」
「気の迷いだ!!
 畜生、雪之丞の野郎。今度あったら文珠で次元の狭間に――」
「パ・・・・・・パパ?」

 集中は解かず、雑談は続いていく。
冗談みたいな口調で続けられるやり取りだが、横島は勿論、蛍も笑ってなど居なかった。
 大地を強く踏みしめる為、広く開いた横島の両脚が震えていた。
蛍からは表情までは伺えない。だが、背中からでも見える彼の首筋には、珠のような汗が浮かび、

  ゼェ―――ッ
    ハァ―――ッ

呼吸のたび、深く沈む両肩は、彼の霊力が枯渇寸前である事を意味していた。
 やはり、横島にはまだ早すぎたのだ。
その様を見、蛍は一歩前へと踏み出した。

 魔界のゲートの封印。
 未来の改ざん。

 ただでさえ、酷な事を頼んでいるというのに、『父親の格好いい姿を見たい』等と、
更に我侭を重ねている事実に罪悪感を覚えたからだ。
 彼女とて、十五個の文珠の同時発動を必要とする時間移動は賭けであった。
元より弾数制限のある文珠を、練習であっても一度に大量に使う事などできず、
故に、この封印、横島と替わったところで100%成功するとは言い切れなかった。
けれども、蛍の前、限界を寸前まで迎え、それでも弱音一つ吐かない父親の背中は、
逞しくもあり、また、痛々しくもあったからだ。

 だから、この雑談が終われば、やはり私が行おう。

そう心に決め、蛍は最後の軽口を叩く。

「も〜。まだ、生まれても無い娘に嫉妬しないでよ、パパ。」
「いや、今晩にでも早速――
 ・・・・・・今晩にでも?
 今晩・・・・・・」

 瞬間、横島の体から力が抜けた。
全ての文珠から輝きが消え、前屈みに彼は倒れていく。

(――っ!!
 霊力の使いすぎで、気を失った?!)

 止めるのが遅かった。
スローモーションのように倒れていく横島に、蛍が駆け寄る。

 だが、それより早く横島の右足が前に出、しかと大地を踏みしめた。
流れるような動作で彼は拳を突き上げると、天を仰ぎ叫ぶ。

「横島忠夫!
 本日を以て男になりまっす!!
 おっきぬちゃぁぁぁあああああああああああんっ!!!」

 ――っ!!!

 爆発的な霊力が横島より吹き上がる。
霊力持たぬ一般人にでも目視できそうな程に、強く雄雄しい彼のオーラは、しかしながらスケベ色。
一瞬で制御下に置いた十個、全ての文珠が眩いほどの輝きを放つが、それらからも、なにやら如何わしい気配が全開で。

「・・・・・・パパ?」
「あ、あはははっ・・・・・・」

だから、現在の横島の同時制御可能数を七つも上回るその偉業に対し、
彼に与えられた娘の視線は、実に冷たいものだったという。

「ともあれ、これで――」
「はいっ。
 パパ、お願いしますっ!」

 気を取り直し、横島。
彼は天に掲げていた拳を、魔界への孔目掛け振り下ろし、叫ぶ。

「――これで、決まりだぁっ!!」

 宙に浮かんだ十個の文珠が、孔の周りで高速で回転を始める。
その回転に押し込まれる様に、魔界へのゲートがそのサイズをみるみる縮小させていく。
そして、僅か五秒と経たずして、

「消え・・・・・・た?」

 もはや、孔は目視できず、あの禍々しい雰囲気もまったく感じなくなっていた。
 確認するような、彼の独白に背中から返ってきた声はなく、無言の肯定。
未だかつてない疲労感に、横島は何時しか大地に腰を下ろしていた。
立ったままで最後まで格好よく決められないのは悔しいところだが、それでも、己の限界だと思っていた部分を、
より高く越えられた事に、そして、蛍の願いを叶えてあげることが出来た事に、横島は満足を覚えていた。
 喜びは分かち合いたかった。
だから、横島は満身の笑顔と共に、娘の名を呼び振り返る。

「やった!
 見たかっ、ほた――る?」

 その笑顔が固まった。
彼の両目が驚愕に見開かれる。
振り返り見た、彼の視線の先、

「・・・・・・おめでとう。
 未来が変わったみたいです。
 パパ・・・・・・、」

 徐々に透けていく己の手のひらを眺めながら、悲しげに微笑む蛍の姿があった。


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 一時間後、美神所霊事務所を目視できる場所にある一本の裏路地。
雨上がり。再び太陽の日差しを取り戻した街に、外を出歩く人の数が徐々に増えていく。
そんな人達を避け、彼は一人、その場所に佇んでいた。
 笑っている訳でなし、かといって泣いている訳でもない。
普段の彼からは想像も出来ぬ程に、無感情な面持ちで、
そんな彼が緩く握った拳の中には、淡く輝く文珠が一つあった。



『二つ、嘘をつきました。』

蛍は、消えていく己の腕から目を離すと、横島に向き直りそう言った。

『一つは、美神令子さんについて。
 美神さんは、これより2年後、除霊帰りに命を落としました。
 場所は、先ほどの公園。殺したのは、あのゲートから堕ちて来た一匹のはぐれ魔族です。
 その魔族自身は然したる強いものではなく、故に未完成のゲートをくぐる事が可能だったそうなのですが、
 "虚を付かれたのだろう。"と皆が言っていました。
 物言わぬ姿となった美神さんを発見し時には、周囲に反撃を行った痕跡はなく、死に顔には笑顔。
 大切そうに包んだ手の中には、酷く安物の指輪が握られていたそうです。』

 蛍の語る真実。
義務のように口を動かす少女に表情は伺えず、対する横島の顔が何かに怯えるように歪んでいく。

『その指輪には、文字が刻まれていたそうです。
 《Reiko and Tadao》と。
 それと、その日の除霊先。ああ、これは依頼主からの言っていたのですが、
 "なんで私のほうが先なのよ" など助手と喧嘩する美神さんの声が確認されていたそうです。』

 そう、実に淡々と――

『愛するものを二度も亡くしたパパは、それはもう深い悲しみに囚われていたそうです。
 生来から優しすぎたパパは、その優しさゆえに、他者へとあたる事が出来ず、それから二年間、
 己だけを責め続けました。
 そして、その間、パパをずっと支えていたのが氷室キヌ、私のママで――
 ――そして、私がこの世に生を受けました。』

   少女は語り続けた、

『今、歴史が変わり、美神さんの死という事実が消えました。
 だから、私という可能性は未来からも消え、そして、この時代においても、存在を維持できなくなりつつあります。』

     彼女の最後となる言葉を。

 横島は恐怖に凍り付いていた。
過去、世界を護るという大義名分の下、彼は自らの大切なものに止めを刺した。
刺さざるを得なかった。
そうすることでしか、この世界を護る事が出来なかったから。
だが、その事を悔いる事はもうしないつもりだった。
それはなにより、あの戦いで犠牲になったあの女性の本意ではなく、だからこそ、
あの時流した涙で、己の感情に決着をつけたつもりだった。
 忘れるわけではなく、けれども、それに囚われるわけでもなく、
ただ、彼女が愛してくれた自分であり続けようと心に誓ったはずだった。
 しかし、それは本当に正しかったのだろうか?
あの時と同じ自分であり続けた結果が、今のこれなのではないのか?
あの時と同じ自分だったからこそ、あの時と同じように、今度は、娘を犠牲にするしかなかったんじゃないのか?

『――っ』

 今、徐々に自身の存在を無くしていく娘を前に、横島の心の奥底に仕舞い込んだ絶望が蘇える。
 それは、彼の抵抗空しく、涙となって瞳から溢れた。
決して声をあげることなく、それでも彼は泣いていた。
涙を皮切りに溢れ出てくる後悔の念。
その黒い感情を拳に込め、彼は大地を殴りつけた。
だが、先の夕立で水気を帯びた土では、己を傷つけるには至らない。

 なら、何度でも殴るまで――

 と、再び振り上げられた彼の拳に、暖かいものが添えられた。
面を上げた横島の正面には、彼同様、涙を流す蛍の姿があり、

『パパ、私、消えちゃうけど、
 でも、・・・・・・幸せでしたよ?』

 涙で歪む視界の先、蛍が微笑んでそう言った。

『本当に幸せだったの、
 本当に幸せだったから、消えてもいいって思ったんです。
 パパも、ママも。かおりさんや、丞太郎君や、小竜姫様や、ヒャクメ様。
 ジークさんや、ワルキューレさん。べスパちゃんや、パピリオちゃん。
 皆が、皆、私を愛してくれているの、分かってたから!』

 横島の拳が、力なく地に落ちた。
それは自ら撃ったわけではなく、その拳を包んでいたものが、完全にこの世から消えてしまったから。
言葉持てぬ横島の前、蛍は両腕のみならず、その両脚も今まさに消えようとしていた。

『私たちの未来は、あのままでは滅んでしまう。
 それを回避するにはこの方法しかなかったの。
 私は後悔なんかしてない。
 だからパパも、もう泣かないで――』

 体を支えていた両脚の喪失に、蛍の体が地面に倒れた。
横島は動く事が出来ず、ただその様を眺めていた。
仰向けに転がった蛍は尚も続けた。

『ヒャクメ様が言ってた。
 今の私たちの未来は、パパの時代から見て、無限に広がる可能性という樹の、細い細い枝なんだって。
 太い枝なら、たとえ切り落として独立した世界として存続していくかもしれない。
 でも、私たちの未来は――』

 蛍は全てを知っていたのだ。
知った上で、彼女自身が存在する未来を消そうとした。
それは一重に、彼女を愛してくれた世界を、人達を救うために。

 徐々に消えていく蛍の胴体。
雲間より覗く青空を眺め、少女は、その瞳を閉じた。
 静かに消え逝こうとする少女の元に、雲間より一筋の光が射す。
陽光を受け、少女の顔に残る水滴が輝いていた。
 穏やかな様、
  まるで聖母の様な神々しさすら感じさせるその姿に、横島は目を奪われ、

『・・・・・・ごめん、』

 しかしながら、彼女は聖母などではなかった。

『ごめん、パパ。
 怖いよ。消えたくないっ!
 私、消えたくないよ。パパ――』

 再び開かれた少女の瞳から、珠のような涙が零れ落る。
それを見た瞬間、横島の中で何かが弾けた。

 文珠とて万能ではない。
 存在の喪失を止める手立てなど、横島には想像できない。
 今日という日まで散々教わり、行使してきた裏技も思いつきやしない。
 今、消え行く少女を前に、彼は余りにも小さく無力すぎた。

 だが、それが何だというのだ?
 それが、泣く蛍を眺め、立ち尽くすことしか出来ぬ理由と成るのか? 

『蛍!』

 霊力の枯渇した体に鞭を打ち、横島はまだこの世に残る蛍の頭へと手を伸ばし、抱き寄せた。
悲しみに歪んだ娘の顔と正面から向かい合い、彼は蛍が口を開くより早くその頬に口付けた。

『パ・・・パ?』

 再び二人の顔が離れ、蛍がそこに見たものは、涙堪えきれず、それでも微笑む横島の笑顔。
彼は震える声で言った。

『大丈夫だ。
 例え、蛍が消えてしまっても、俺は一生蛍の事を忘れたりなんかしない。
 それに、俺の時代じゃ蛍はまだ俺と共にある。
 だから――』

 一呼吸。

『俺達は・・・・・・
 俺達は、何もなくしたわけじゃない。
 そうだろう?
 蛍――』

 逝く者には、せめてのもの希望と安らぎを――

 最後の時が来た。
既に顎は消え、残す数秒で彼女の存在はこの世から消える。
 横島は蛍の瞳から目を反らさなかった。
強い光をそこに宿し、最後まで見守るという意思が確かに存在していた。

 だから、蛍も笑い応えた。
そして、もはや存在しない口で、最後の言葉を紡ぐ。
 
『・・・・・・ありがとう
 パパ・・・・・・、大好き。
 それと、・・・・・・ごめんなさい。』

 蛍を抱きかかえていた両腕より負荷が消え失せた。
それと同時に、地面に何かが零れ落ちた。
悲しみがぶり返すより早く、横島はソレの存在に気づいていた。
蛍が逝った真下、自分の足元に転がるビー玉の様なもの。

 それは文珠。
横島のものではない。
蛍が残していった本当に最後の文珠。
風に押されてか、横島がそれに手を伸ばすより早く、地を転がる文珠。
そこに刻まれていた文字が露になる。

『――っ!!』

 そこに刻まれていたのは 《忘》 の一文字。

  ――瞬間、文珠が発動した。 




 雨上がり。再び太陽の日差しを取り戻した街に、外を出歩く人の数が徐々に増えていく。
裏路地に一人佇む横島の視界の先、そこにはかわらず美神所霊事務所が存在していた。
 シュゥゥと音をたて、彼の掌の上で戯んでいた文珠が、効力を失い消えていく。
《防》の一文字が刻まれた文殊。
それは、彼の保険であり、切り札でもあり、蛍――彼の娘と名乗る少女に、たった一つの嘘でもあった。

「『二つの嘘』か――」

 誰に言うわけでなく、横島は蛍の最後の言葉を反芻する。
 一つは、彼女の語った彼女の産まれるに至る歴史だった。
いや、それは厳密に言うならば嘘にはなるまい。
なぜなら、時期の遅い早いあれど、横島の大切なものを奪ったのは、あの魔界へゲートに違いないからだ。
けれど、それでも彼を謀った事を蛍は謝罪せずには居られなかったのだろう。
不器用な、と漏らし、横島は文珠の消えた掌をポケットに戻すと、ビル間から覗く空へと目を向けた。
 もう一つの嘘。それは、彼女が横島に送った最後の文珠である。
自らの娘が目前で消失する悲しみ。その苦しみを残された横島が抱えぬよう、彼女は一つ少ない目に文珠を差し出していたのだ。
あのゲートを封印する際に。
 だが、横島は蛍のその行為を拒絶した。
彼女の用意した嘘に、己が嘘を以て抗ったのだ。
 咄嗟の事で、その抵抗が正しかったのかどうかは横島には分からない。
だが、枯渇したはずの霊力を、再蜂起させるが程に強く、――忘れたくない! あの時思った気持ちに、偽りはなかった。
 だから、そう――

  悔いはしないっ。

 まだ回復せぬ霊力故か、それとも、心の奥底の絶望を御しきれていない為か、
ふらつく両脚に活をを入れると、横島は心の中で続けた。

 俺達は、何も無くしてなんか居ないんだ。
  俺達の未来は、今これから続いていくんだよ。
   そうだよな?

   ――。

 
 大切な人から貰った、そして、大切な人へと贈ったその言葉を以て、彼は裏路地から踏み出した。
向かう先には美神除霊事務所がある。
 雨が染み込み、未だ乾かぬ学生服はみっともなかったが、
それでも、一歩一歩確かに進むその足取りは、これ以上ないほどに逞しく。
しかと大地を捉え歩く彼の背には、夕立明けの赤く美しい夕日が輝いていた。






                  Fin
この話のオチは実は、2種類あったりします。
一つは前作の結末の、ヤムチャオチにくっつける事。
もう一つは、書き上げてみた結果、蛇足気味になってしまったので、
多くの方に御意見いただき、結果、カットとなりました。
横島のギャグ含有度が低くなりすぎてないか、少々不安なのですが、どうでしょうか?

もしかすると、続きます。

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