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 昔。
 自分が今よりもまだ子供子供としていた頃の事。
 一匹の子猫を飼っていた。
 子猫は捨て猫で、自分はそれを拾っただけだけど。
 親にも内緒で、家に上げる事も出来ずに。
 最近とんと見かけなくなった近所の空き地に匿い、
 餌を運んでやるだけだったけど。

 それでも自分は昔、猫を飼っていた。















「化け猫退治ですか?」

 キヌの確認するような言葉に美神は「ええ」と頷く。

「建てたばかりの館なんだけど、家主から使用人まで悉くが奇妙に衰弱して病院送り。これはおかしいって調べてみたら、って言う事みたいよ」

「調べてって……その家主さんがですか?」

「まさか。調べたのは霊能者。それも、私の前に依頼を受けたちゃんとしたGSよ」

 美神のあっけらかんとした言葉の意味に気付いたキヌは、少し身を震わせる。

「それって……もしかして」

「そ。残念ながらそのGSは見事返り討ち。で、晴れて私たちに依頼が回ってきましたとさ。めでたしめでたし、ね」

 と美神は笑うが、キヌは笑う気にはなれない。いや、美神もまたその笑いはあくまでも表面上のものに過ぎない。
 確かに後釜と言う事で情報収集にかける手間はいらない。
 前任者が返り討ちにされた事で、かなり高額の依頼料も依頼人は二つ返事で了承した。
 しかし――

「手強そうですね」

「手強いわよ」

 そう、手強い。前任の霊能者も、業界ではそこそこ名の知れた男だった。
 それが、大した手傷を負わせる事も出来ずにやられた。
 元々動物霊と言うのは人が成った悪霊よりも強くしぶといが、その中でも今回の相手は取り分けて強いと美神の霊感が警鐘を鳴らしている。
 気を抜けば、やられる。
 気を引き締めてかからねば。

「そう言う事だからアシュタロスの時以来久しぶりの依頼だからって、油断はしないように――――って言ってんのに、何時まで鼻の下伸ばしてんのよこのバカッ!!」

「はぅ!? いや、違うんすよ美神さん! 別に『化け猫かぁ〜。美衣さんみたいにプリンプリンなのかなぁ。それとも猫らしくクールビューティーな美女なのかなぁ』なんて言う事ではなくって、そう、こうやって煩悩の高めておく俺なりの気の引き締め方であって――」

「高めるなっ!」

 とはいえ、横島の霊力の源は煩悩だ。一理はあるかもしれない。
 絶対に二理は無いが。
 美神は呆れたように嘆息を一つして、横島の勘違いを正していやる。

「大体、勘違いしているようだけど――化け猫と猫又は別物よ」

「は?」

「年老いた猫が妖力を持って人に変化出来るようになった『猫又』と、恨みを抱いて死んで化けた『化け猫』は別物なの」

「つまりそれは――?」

 己でももう既に答えはわかっている筈なのに、それでも一縷の望みを託して問う横島に、美神は艶やかで残酷な微笑みを浮かべて。

「今回の相手は正真正銘、実体の無い唯の悪霊たる化け猫よ」

「なんすかそりゃぁぁ!! あぁ、一気にやる気なくなったぁ〜」

「コラ、不貞腐れて寝るなっ! 泣くな――って何でマジ泣きしてんのよアンタ!?」

 横島と美神のそんなやり取りに、キヌは一人「本当に大丈夫なのかなぁ」と少々不安に思った。思っただけで、自身、肩の力が抜けるのはどうしようもなかったが。










 昔、子猫を一匹飼っていた。
 近所の空き地にダンボールで小屋を作り。
 その中に手ぬぐいを敷き詰めて。
 幼い身では精一杯の労力を注いだ、猫の家。
 その中に子猫を一匹飼っていた。
 空き地の片隅で、誰に知られる事無く飼っていた。

 そう、自分は猫を飼っていた。






 除霊現場へとたどり着いた一行は、そこに建てられた建物を見て一斉に「うわぁ」となんとも曖昧な表情を浮かべた。
 幽霊屋敷。
 まずその言葉が脳裏に浮かぶ。
 と言うか、それ以外の言葉が思い浮かばない。所々罅割れた外見から推測するに、築三十年といった所か。

「あれ? 美神さん、この建物って建てたばっかりじゃ?」

「悪霊が取り付いているから雰囲気出しているのかしら」

「雰囲気って、そんな……」

 さして気にした風もなく言い切る美神に、流石にそれはと口篭もるキヌ。自分達の事務所に憑いている人工幽霊ならそれくらいやりかねないが。
 ともかく、入る前から悩んでいては仕方がないと美神は足を踏み出せば、キヌもまた嘆息気味に着いて来る。そして当然横島も――。

「横島クンッ! 何、ぼぅっとしているのよ、置いていくわよ!」

「え? あ、ちょっと美神さん。待ってくださいって」

 きょろきょろと辺りを窺い小首を傾げつつ、着いて行くしか選択肢はなかった。



 ギィギィィィ――



 重く軋んだ音を立てながら、扉が開け放たれる。
 三人が三人、その向こうから漂って来る冷たくぬめりとした空気に眉を顰めた。

「……随分と、まぁ」

「濃い、ですね」

「………あ、俺、宿題あったんだ」

 一人回れ右した横島の首根っこを二人掴み、中へと投げ入れる。
 勢い余って首が少し危険な方向へと曲がった横島から抗議の声があがるがそれを無視して、美神とキヌはその屋敷の中へと足を踏み入れた。
 嫌な空気だ。
 ねっとりと絡みつく、不快な気配。
 其れに脅えるでもなく気丈に眦を上げて、くるりと見渡す。
 中々に広い玄関ホールだ。
 これ見よがしに乱設するのではなく、控えめに調和を旨として設置された調度品。そのどれもがそれなりの名品であると見て取れる。
 どうやら、この屋敷の主は中々にセンスがいいらしい。
 その場所は、来訪者を気持ちよく迎えると言う目的を果たしている。
 いや――果たしていた、と言うべきか。
 それらの調度品のどれもが嘗ての色合いを失い、くすんでいる。
 まるで、何年も。あるいは何十年も放って置かれたように。
 中には、完全に精気を失ったように罅割れているものすらある。
 外から見たこの洋館そのもののように。

 おかしい。あまりにもおかしすぎる。

 外から見た時「雰囲気」と笑った美神は、首を捻る。
 これはもはや「雰囲気」等というものではない。
 築一年にも満たない建物の雰囲気では決してない。
 あまりにも「終わり」の匂いが濃厚すぎる。
 生物、無機物問わず、終末を迎えすぎている。
 いかに悪霊に憑かれていても、このような形には決してならない。

「横島クン、おキヌちゃん。気合を入れ直して」

 美神のやや強張った物言いに、事の次第を悟った二人は固く頷き美神の元に。
 先程までおちゃらけていた横島ですら、表情が真剣なものになっている。
 
 業界でもトップクラスの彼女らをして此処までさせる。それほどの怪異。

「まずは……屋敷の主の部屋がある二階ね。私が前、おキヌちゃん後ろ。横島君、両方のサポートお願い」

「はい」

「了解っス」

 美神の言葉に二人頷き、慎重に屋敷の中を探索し始めた。










 昔、猫を飼っていた。
 黒く艶やかな毛並みの子猫を。
 額の所に小さな傷のある可愛らしい猫だった。
 小太郎と名前をつけリボンの首輪を付け、飼い主になった気で満足していた。
 それでも中々懐いてはくれなかったけれど、自分なりに気に掛けながら学校の友人と遊ぶ間に暇を見つけては餌を運んでいた。
 しかし、何時の間にかその頻度は減っていき、久しぶりに顔を見に行った時その猫は既に箱の中にいなかった。
 誰かに拾われたのか、逃げたのか。

 ただ、自分が昔飼っていた猫はもういない







 家の中を功名に逃げ回っているのか、霊はその姿を様として見せなかった。

「化け猫でも猫は猫と言う事かしら」

 言いながら美神は最後の一室――客間の様相を見渡しながら、小首を捻る。
 廃れている。この部屋だけではない。
 今まで見て回った部屋は何処も彼処も寂れていた。
 数十年も放って置かれたようにボロボロで、くすんだ光景だけが空間を支配している。
 次の部屋も。次の部屋も。壁が罅割れていただけではなく、其処にある調度品のどれもが長い歳月を過ごしたように風化していた。
 書斎で見かけた本等は、手に取っただけで自重で崩れるほどだった。

「時間の流れが違う?」

 美神は状況を整理しながらポソリと呟いた。
 もしそうなら――そんな物只の悪霊のレベルを遥かに超える。
 しかし、何かが違う。明らかに違う。

「雑霊とかいないから楽ですけど……なんか疲れましたね」

 意外と広い屋敷を歩き回って疲れたのか、キヌが床に腰を下ろしながら横島を隣に誘う。
 その誘いに特に意識する事無く乗って腰をおろした横島も、程度は違うがやはり疲労している。

「美神さ〜ん。荷物異常に多くないっすか? 重いんスけど」

 肩に掛けた荷物を降ろしながらの言葉に、美神は小首を傾げた。
 そんな事は無い。確かに横島が以前にあったアシュタロスとの戦いの疲労からか文珠を生成できていない状況と、今回の相手が強敵である事を想定して重装備にはしているが、それでも横島がこの程度でバテるほどの重量は無いはずだ。
 おかしい。
 何かが決定的におかしい。
 横島だけではなく、キヌも。そして自分さえも。戦闘があったわけでもなく只歩いていただけだと言うのに奇妙に疲れている。
 嫌な感じだ。

「相手の正体もつかめ切れないままって言うのは後味悪いけど、早急に燻り出して退治した方が良いみたいね」

 全容が掴めないまま戦闘に入るのは危険度が増え得策とはいえないが、それでも此処で時間を消費する事の方が危険だという自分の勘を信じて、美神は横島の荷物から幾つかの符を取り出した。
 
「どうするんっスか?」

「一室毎に四方を符で塞ぎ出入りを出来なくするのよ。そうすれば幾ら逃げ回っても最後には姿を現すでしょうから、其処を叩くわ。とはいえ、最後まで逃げ回るかどうかは解からないから、横島君。ちゃんと見張ってなさいよ」

 横島は美神の言葉に神妙に頷いた。










「美神さーん、こっち貼り終わりました〜」

「お疲れ様。横島君、そっちは異変無い?」

「特に無いッすね。見鬼君もさっきからぐるぐる回りっぱなしで特定方向見てないんで」

 三部屋目の四方を符で囲った後、横島の言葉に一息付く。

(やっぱり妙ね。幾ら連続で結界を結んでいるとは言っても、消耗が酷すぎる)

 自らの身体に違和感を覚えながら、横島たちを見る。
 彼らもまた自分以上に霊力を消費していないはずなのに、どこか精彩が無い。

「けど、美神さん。猫の霊ってこんなに厄介なんスか?」

「猫の、というか動物霊は総じて厄介よ。潜在的に人よりも霊能に優れている種もあるし、元々勘が鋭いから――正直、下手な魔族よりはやりづらいわ」

 そう、やりづらい。
 精彩の無い横島が辺りを見渡しながら言った言葉に答えながら考える。

「その中でも厄介なのは、人に対する恨みを持って化けた者。あるいは、飢えて死んだ者かしら」

「恨み――は判りますけど、飢えもですか?」

 一息ついてキヌもその言葉に疑問を繋ぐ。

「生き物の飢えに対する執着は凄いわよ。それを利用した術だってあるんだから」

「術?」

「一番有名なのはやっぱり犬神かしら」

「犬神てぇと……シロみたいな?」

 自分を師と呼ぶ懐かしい少女の事を思い出しながら尋ねる横島に、しかし美神はきっぱりと首を横に振った。

「あれも犬神だけどね。この場合言っているのは『式』としての犬神よ」

「……どう違うんっすか?」

 美神はその問いに、休憩もかねて講義するのも一興かと考えて――その美貌に少しばかり邪な笑みを浮かべた。

「大神の血を引くシロ達と違って、『式』としての犬神は人が創るのよ」

「式って言うからにはそうなんでしょうけど」

「まぁ、聞きなさい。で、そのときの式の創り方なんだけどね、そこら辺の野良犬をこうこれくらいの――」

 と言って身振りを交えて縦長の四角を空間に描く。

「縦に深い穴を掘ってそこに犬を埋めるのよ。こう、首だけ出して」

 そこまでの説明で既にキヌは悲痛な表情を浮かべていて、美神はなんだか背筋がぞくぞくする。あー、もう可愛いなぁ。と、自分には到底似合わない仕草が似合うキヌを撫でくり廻したくなる衝動を抑えつつも思う反面、同時に羨ましくもなる。

「それだけじゃないのよ。犬のね、口が届くか届かないかっていうかむしろ届きそうで届かない位置に餌を置いておくのよ。何日も何日も。そうして飢餓で死ぬ寸前までおいつめた犬の首を刎ねて呪で括る。そうするとね、飢えによる執念を力にした強力な式神ができるのよ」

「酷い……」

 キヌは悲しそうな表情のまま再度ポツリと洩らし、横島は―――

「ちょっと横島クン、無視しないでよ。薀蓄した私が馬鹿みたいじゃないの!」

 ―――聞いていなかった。
 辺りをきょろきょろと見渡して、叫ぶ美神に何時もとは違って緊張感を滲ませた表情を向ける。
 美神も、そしてキヌも横島の様相に気付き、弛緩していた精神を瞬時に立て直し部屋の中央へと背中合わせに立って戦闘態勢を――取ろうとして、


「美神さんっ!! おキヌちゃんっ! 上だっ!!」


 符の張られていない、上空からの奇襲。
 横島の声で慌てて飛びのくも、一瞬、対処が遅れた。
 視界に映るのは巨大な爪。かわしきれないと悟り、キヌを押し飛ばして咄嗟に霊気を篭めた神通棍で防御する。が、

「ぐぅぅっ!?」

 体勢が不備であった事もあって押し切られてしまい、弾き飛ばされる。押し潰されるのは阻止できたが、手傷を負ってしまった美神は舌打ちして体勢を立て直しつつ――生じた違和感に愕然とした。
 力が入らない。神通棍にどれだけ気を篭めても、何時ものように鞭状に変質しない。
 霊力が、上がらない。

(霊力が――――――――――――喰われたっ!?)

 いや、正確に言えば生命力を喰われたと言うべきか。
 霊力のみならず、拳に力を篭める事も難しい。

「おキヌちゃん、怪我は?」

「だ、大丈夫れふぅ〜」

 しかしその動揺を表に出すでなくキヌの無事を確認して内心ホッとしながらも、美神は襲ってきた相手を鋭い眼差しで睨む。
 猫だ。
 一見して解かる。
 飽和した霊力で形が崩れていようとも、その体躯が如何に巨大であろうとも、見間違え様もなく猫の悪霊だった。
 その身は人よりも大きく、受ける霊圧は既に下級霊等と比べるのも不遜に思えるほど強大。そして、何よりも美神が畏怖を感じたのは人に向けるどす黒い感情。
 これはまずい。
 実体を持たぬまま爛々と輝くその双眸には暗い喜色の色。
 餌にあり付ける事を喜ぶ、飢えたケダモノの狂眼。
 自分達はこの悪霊にとって障害ではなく餌でしかありえない。
 先程の自分の話ではないが、あまりにも危険すぎる。
 つまりは――飢えて、飢えて、どうしようもなく飢えて、死んでも尚飢え続ける餓鬼道の使者。

「おキヌちゃん横島クン気をつけてっ! 下手に触れれば喰われるわっ!!」

 自ら喰われたから解かる、相手の能力。
 そうであれば、全てが符合する。
 色を失った調度品も、年月が過ぎ去ったように寂れたこの建物も。
 この中にある全てが「終わり」の匂いを色濃く醸し出していた事も。
 そして――ここに在るだけで自分達が異常に疲れた理由さえも、全てが。
 そう、この化け猫にとって雑霊でさえも含めたありとあらゆる物の存在力が餌なのだ。

(冗談じゃないわ。そんなブラックホールみたいな力を、神話級の神魔ですらない只の化け猫風情が使用している? 正気なのっ!?)

 導きだした推測に、戦慄が走る。背中が冷たい。
 ――これでは戦う意味すらない。

「っ横島クン!?」

 キヌが距離を取るのを傍目で確認しながら、冷静に対処しようとした美神は一人化け猫の前で佇む横島に叫びを上げた。
 しかし彼は美神の言葉に答えない。
 ただ、呆然と。あるいは驚いたように化け猫を見上げるだけ。
 今にも襲い掛からんとする化け猫に。
 今こうして対峙しているだけでもゆっくりと此方の生命力を吸い上げる異端の化け物に。


「―――――小太郎?」
 

 恐れるよりも驚くように、額に小さな傷のある化け猫にそう声を掛けた。








 
 昔、猫を飼っていた事がある。
 自分なりに愛して、可愛がったつもりでは在った猫を。
 自ら餌を取る事も出来ず、
 最後まで自分に懐きはしなかったがそれでも餌だけはしっかりと食べていた猫を。
 誰かに捨てられ、自分が拾い、何時の間にか姿を消した小さな猫を。
 気が付けば記憶の中に埋没させていた思い出の中。
 その小さな者が『命』であると認識できなかった遥か昔の子供の時代。

 ――自分は昔、猫を飼っていたと言えるのだろうか?







 ――咆哮。咆哮。咆哮。
 化け猫が吼える。
 鋭い牙を剥き出しにして、敵意と害意を含めた求食の咆哮が屋敷を揺らす。

「ぐっ!!」

「ひっ!?」

 それだけで美神が歯を食いしばり、キヌは短い悲鳴をあげる。
 咆哮にはそれだけの効果があった。只聞くだけで力を吸い取られる咆哮は捕食者として上位にある者の絶対的な宣言であり、喰らうと言う宣告ですらあった。
 その中で、しかし横島だけは立ちはだかる。化け猫の前に。
 美神達よりも近い位置にいる横島は、その効果を一層強く受けていながら、しかしそれでも怯まない。

「美神さん……こいつって」

「さっき話したでしょ。飢えて死んだタイプの悪霊よ。まったく正気じゃないわね、だからって無尽蔵にあらゆる生気を喰らうなんて――」

「飢え……」

 説明を続けようとする美神の言葉を、うわ言のように繰り返した横島の言葉が遮った。

(飢えていたのかお前は?)

 自分が餌を運ばなくなったから。
 自分では餌を取る事も出来ないから。
 いや、それ以前に――自分が餌も何も無い所に住処を作ったから。
 懐きはしなかったけど、それでも餌だけはしっかりと食べていたあの子猫の姿を思い浮かべる。
 あの猫は。あの小さな小さな子供の猫は。

 一日一回だけ自分が満足げに持ってくるあの餌をどれほど待ち望んでいたのだろうか?
 化け物になるくらい飢えながら、それでもまた自分が餌を運んでくれると信じていたのだろうか?
 信じて、待って、それでも裏切られて――ついには此処までの化け物になってしまったのか。

 だとすれば、それは自分の罪だ。
 命を。生命と言うものを軽々しく考えていた自分のミスだ。
 子供だったから、等という言い訳はすまい。今、自分はそれに気付けてしまったのだから。
 GSという命を扱う家業に身を置いて。彼女を失って、それでも気付けないほど愚かではいられなかった。
 
「横島クン?」

 右手にありったけの霊気を溜めて生気に満ち溢れた輝く拳を生成。美神の疑問には振り向かない。
 この中で一層の命の輝きを見せる横島の右腕に、化け猫は頬を緩め、吼える。
 餌だ、餌だ、餌だ。上質の、飢えを満たすに足る膨大な餌だ。
 まるで生きている獣さながらに、舌舐めずりする化け猫に横島は右手を真一直線に向ける。
 煌々と輝く異形の手甲。
 その異能の名を『栄光の手』と言う。
 形状の変化を得意とするその能力は霊波刀の形態とは別のもう一つの姿がある。
 それが――

「――伸びろっ!!」

 横島の裂帛の叫びと共に、栄光の手がまるで射出されるように伸びて疾るっ!
 迅雷の速度で迫る爪持つ拳を、化け猫は避ける事が出来ない。

「直撃? けど――」

 ズブリ、と粘性の泥に拳を打ち込んだような鈍い音を上げ、栄光の手に貫かれた化け猫の姿に、しかし美神の表情は渋い。事実、直撃を受けた化け猫もまた何の痛痒も感じていないのか、微塵も動じず貫かれるがままの姿をさらしている。
 そう、避ける必要はないのだ。
 全ての生気を喰らうと言うのなら、横島の霊能もまた喰らうべき対象でしかないのだから。

「よ、横島さん!?」

 キヌの悲鳴があがる。
 『栄光の手』で貫き、見た目は有利なはずの横島の表情が苦い。
 それもその筈。
 常時発動系の横島のこの霊能は、今、最優先で化け猫に霊力を吸われているのだ。
 しかし横島はそれでも尚倒れない。
 いや、倒れないばかりか更に霊力の出力を上げるその姿に、キヌが錯乱じみた声を上げる。

「横島さん、横島さん! 駄目です! 倒れちゃいます!」

「倒れないよ。大丈夫だから」
 
 縋るキヌに横島は柔らかい笑みを向ると、今度は化け猫に向かって――

「小太郎、すまねぇ。謝って済む事じゃねぇけど――せめて満足するまで喰らえっ!!」

 吼えた。同時に、部屋の中を黄金色の輝きが照らし上げる。

「美神さん、横島さんを止めてっ!」

「……駄目よ、おキヌちゃん。確かに危険だけど、横島クンの選択に間違いは無いわ」

 生命を燃やし上げるかのような刹那的な輝きにキヌは狼狽して、美神へと助けを求めるが、彼女は沈痛な面持ちのまま首を横に振った。
 そう、これがベストなのだ。先程、横島に遮られ口にする事は叶わなかったが、今この場で化け猫を退治するにあたっては、これは数少ない正解でもあるのだ。
 幾ら特異な能力であろうと、その元のスペックは猫の霊でしかない。
 その許容量は自ずと限界がある。
 今でさえ、猫が元となった悪霊としては破格の霊力を内包している現状だ。
 遠からず限界を超え、自滅するのは明白。
 加えて、霊力を喰らわせているのは横島だ。その霊的内臓量は自分すらも超えるかもしれない。ならば――自分達にできることは只一つ。

「おキヌちゃん、貴方も私と一緒に符を使って化け猫に攻撃するのよ! そうすれば自滅は更に近くなるわっ!」

 キヌは美神の激に一瞬ビクリと震え、思案し、頭を振って符を受け取る。
 その時にはもう先程までの気弱な表情は欠片も無い。その行動こそが横島を救うのだと、決断した強い少女の顔だった。
 その表情に自分も負けていられないと、若干力の入り辛い四肢に力を篭める。
 この程度の疲労が何だ。
 霊力を持っていかれたのがどうした!
 自分はまだ動ける。
 横島がああも奮い立っているのに、キヌが勇気を振り絞ったのに、自分がこのままであって良いはずが無い!
 霊力を篭めた符を握り締め、美神もまた立ち上がる。
 既にキヌが符を使用して攻撃を仕掛けている。
 しかし、化け猫はその全ての力を吸収しますます超え太っていく。

「待って、なさいよ。お腹に凭れる位に上質で特大の霊力食らわせてあげるわっ!!」

 美神もまた吼え、そして、一方的な攻撃に見せた持久戦の、三面攻撃が始まった。













 まだか、まだか、まだか。
 霊力が枯渇する。
 視界が歪む。
 終わりの見えない戦いに精神もまた疲弊する。
 既に美神もキヌも手持ちの符は残り少ない。

「く……この、いい加減、食べ過ぎは年取ってから大変な事になるのよっ!!」

「美神さん、あ、相手は幽霊さんなので年取る事は無いと思うんですけどっ!!」

 符で攻撃を仕掛けながら美神達の軽口にも余裕は無い。
 しかしそれは相手も同じ事。
 化け猫の身体は既に先程迄の倍まで膨れ上がり限界が近いと見て取れる。
 だが、美神達の攻撃を身動ぎ一つせずに弾く事も可能な霊圧を持つに至っても、攻撃を吸収する事を止める気配が無い。
 そう在るが故に。
 喰らい続ける事こそが存在意味であるが故に。
 自己の崩壊が近いにも関わらず、それが出来ない。
 只出来るのは無駄に力を喰らい続ける事だけ。
 満たされる事の無い食欲を満たす為に、永劫に喰い続ける存在。

「なんて浅ましい……」

 美神は手持ちの符を投げつけながら、ポツリと洩らす。
 自分で語っておいてなんだが、この猫が感じた『飢え』とはそれ程に耐えがたい物だったのか。解からない。飢えた事の無い自分には、それは解からない。
 ただ自分に解かるのは、放っておいても時間が過ぎれば周囲の力を吸収しいつかは自滅したであろう化け猫に対し、横島が攻撃を仕掛けたと言う事だけ。
 先の口ぶりからするに、生前何かしらの因縁が会ったのだろうと推測は出来る。
 だが――そんな事は関係が無い。仕事である以上、其処に私情を挟むつもりはない。

 手持ちの符も残り少ない。
 耳を飾る精霊石を一つ――いや、二つとも手にとる。
 これだけの霊力ならば、この肥大化した化け猫を自滅に追いやる事は可能だろう。
 しかし……それを使えば、今回の仕事は赤字確実。ただでさえ符の使いすぎで採算が合わなくなっているのに、これまで使えばどれほどの赤字になるのか――想像するだに気が遠くなってしまう。

 一瞬過ぎった思考をそのままに美神は攻撃を仕掛けながらもちらりと横島を盗み見る。
 『栄光の手』を放出しつづける彼の疲労も限界だ。
 既にその手から伸びる光の槍は、弱々しくか細い。
 それでも彼は倒れる事無く化け猫に霊力を与えつづけている。
 一刻も早く決着をつけなければ、彼の命が危うい。
 ならば――採算を考えて出し惜しみしている場合では無い。

「く――赤字覚悟の――」

 苦渋に満ちた表情のまま、

「フルコース大盤振る舞いよっ! たっぷり食い倒れなさいっ!!」

 虎の子の精霊石を放り投げた。
 瞬間――内側から溢れる膨大な霊力に爆光を放ち自壊する。

(――ぇ?)

 目も眩む閃光の中、照らし上げられた化け猫の瞳が喜色に歪むのを美神は確認して愕然となる。

(これでもまだ――!?)

 相手の許容量を見誤ったか――そう後悔しかけた美神の耳に、ピシリ、と陶器に罅が入ったような乾いた音が聞こえた。
 え? と、瞬きしてもう一度、今度はしっかりと化け猫を視界に収める。
 ピシリ。ピシリ。
 音が連続して大きく鳴る。
 化け猫を挟んで見えるキヌもまた呆然とした表情で、それを見上げている。

 ――内包した霊力に耐えられなくなって表面が罅割れたように裂け始めた化け猫の姿を。

「おキヌちゃん、横島クンっ! もういいわ! 放っておいても終わりよっ!」

 美神は叫んで退避を促す。
 キヌはその叫びに瞬時に応え、投げつけようとした符をしまいながら壁際まで下がる。
 そして横島は、

「横島クンっ!?」

「待って、下さい……せめて、せめて最後まで……」

 化け猫と対峙し霊能の槍を突き刺したまま、美神にそう懇願した。
 せめて最後まで。彼が満足するまで。
 嘗て果たせなかった責任を、せめて少しでも果たす為に。
 横島は薄れそうになる意識を必死に繋ぎとめながら、既に体中が膨れ上がり如何にも爆発寸前と言った風情の化け猫の瞳を見据える。
 化け猫もまた、怨嗟の声を上げるでもなく、断末の悲鳴を上げるでもなく、ただ見返す。
 別に其処に何かの意思が交わされたわけではない。
 猫は横島を覚えておらず、飢えを満たす為だけの意思でここに在るのだから。
 だからそれはただの偶然。
 自壊する寸前に見せた幻。
 
「せめて、せめて少しでも喰らって飢えを満たして――逝けっ!!」

 その叫びに呼応して放たれた渾身の霊力で、限界量を超えた。
 一際眩しい光が部屋を満たす。
 渾身の力を篭めた横島の霊力を喰らった化け猫が膨れ上がり爆裂する。


 ――その寸前。


 まるで満足するかのように小太郎が猫独特の笑みを浮かべたように見えたのは、意識を失う寸前に横島が見た、ただの幻覚でしかない。


















 横島が目を覚ましたのはそれから丸三日経った後だった。
 目を覚ましてまず看病をしてくれていたキヌに泣かれ、何故か「偶々」来ていたらしい美神に怒られた。無茶をしすぎると。
 その際彼女の目が赤く腫れ上がっていたのは気にはなったが、聞けるような雰囲気ではなかったので聞かなかった。
 代わりに事件の全貌を聞くと、美神は簡単に説明してくれた。

 結局のところ、あの化け猫がどう言う由来のものかはわからない。唯、本来ならば土地の持つ浄化作用で時間を掛けて浄化されるはずだったあの場所で飢えて死んだ猫の霊が、家を建てる際に地鎮祭をしなかった為に昇華できなくなり悪霊化したのだろうと、そう語った。

 他にも何か色々と言っていた気もするが、横島としてはそれさえ聞ければ十分だった。
 だから今、横島は此処にいる。
 除霊現場であったあの屋敷に。

「やっぱ、ここなんだな」

 やはり罅割れ幽霊屋敷然とした其処を見上げつつ、記憶を探る。
 この間は漠然とした感覚でしかなかったが、今ならわかる。いや、思い出せる。

 ここが。此処こそが、あの空き地だと。

 自分がまだ今よりももっと子供だった頃。
 命に対して何の責任も感じていなかった頃。
 猫を拾い、その運命を決定付けてしまったあの場所だと。

「気付かないもんだな……よく遊んだ場所なのに」

 寂しそうに呟く。
 気付かなかっただけなのか。
 あるいは、思い出そうとしなかっただけなのか。
 唯、わかるのは自分が勘違いしていたと言う事だけ。






 そう。自分は昔、ここで猫を飼ってなどいなかったのだ。
GTY+開幕おめでとうございます。
微妙に暗めのこんな話ですが、賑わいの一つにでもなればと思い投稿させていただきます、
サイトのご隆盛を心からお祈りいたしております。

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