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ある発端

 タイガー寅吉は、正面に座る老人をじっと見つめた。

 眼病を患いかけた老人の瞳は僅かに白濁し、焦点のずれた視線をタイガーに向けている。土色に日焼けした彼の顔には深い皺が刻まれ、そこにはここ数日の疲労の色がありありと見て取れた。老いているのだ。

「わかってくれるだろうタイガー。私は精一杯やったつもりだ。だが、これ以上お前をここに置いておくことは出来ない。他の子供達の生活というものもあるのだよ、わかっておくれ」

 老人は、先ほどまでと同じ言葉を繰り返す。

「でも院長――」

「――幸いお前はもう十分働けるだけの歳だ。体に欠陥は無いし、人並み外れた体力もある。ここを出てもやっていけるだろう」

 タイガーの言葉を遮り、噛んでで含めるように、院長は先ほどまでと同じ言葉を繰り返した。

「でも、ここを出たところで俺には他に行くべき場所がありません」

 タイガーは、俯いたまま搾り出すように言った。反論にすらなっていない、ただの言い訳に過ぎなかった。

 ここを出て行かざるを得なくなった原因が、半ば以上自分にあるということは彼自身理解している。みっともなく取りすがってまで留まろうとする自分が酷く浅ましいものに思えた。

「行くべき場所か」

 院長の呟きは溜息のようだった。

「なあ、タイガー。ここは既にお前のいるべき場所ではないんだよ。ここの子供達がお前を見る時の目には、もう気づいているだろう。それが全てを物語っているとは思わんか。私は街の連中のように、お前が化け物だとは思はないよ。だが、お前が普通の人間で無いということも確かなことだ。分かるだろう?」

 院長は、酷く疲れた様子で長々と息を吐く。

「この孤児院が寄付で成り立っているのは知っているな? 世間の評判を無視してやっていけるほどここも楽な経営ではない。何より、この間の騒ぎは決定的だった。カルロスの所の娘に襲い掛かるなんて、下手をすれば殺されていたところだったんだぞ」

 仕方が無かったのだ。ほんの偶然、出会い頭に彼女とぶつかったのが運の尽きだった。あれほど女性には会わないように気をつけていたというのに、その努力も、あの一瞬で全てが水の泡になってしまった。

「今のお前に行くところが無いのは誰よりも私が一番良く知っているつもりだ。でもな、どうせ来年になればお前はここを出て行く歳になる。それが一年早まっただけのことだろう。わかっておくれ」

 結局は、そこに結論がいくというわけだ。

 タイガーは唇を噛み締めて俯いた。言えることなど何一つなかった。正しいのは院長であって、自分はただ悪あがきをしているに過ぎないのだから。

「一週間やろう。その間に働き口を探しておくんだな。いっそのこと遠くへ出てみるのも手かもしれんぞ。なに、世の中には探せば女のいない場所だってあるだろうさ」

 これ以上話すべきことは無いとばかりに、院長はそこで話を打ち切った。





「はあ」

 川の流れを見つめながら、タイガーは溜息を吐いた。

 孤児院の裏手には小さな森が広がっている。小さな、と言っても、種々の動植物が自生するちょっとしたジャングルのような規模があった。
 子供の頃は、仲間たちで集まってよくこの森で狩りをしたものだ。運が良い日は小鳥やリスが獲れた。運が悪い日でも、獲物を探して森の中を駆けずり回っているだけで一日はすぐに終わった。あの頃はまだ、同年代の少女たちとも、じゃれあう子犬のように自然に触れ合うことが出来ていたのだ。

 いつの頃からだろうか、異性と顔を合わせるだけで普通でいられなくなってしまったのは。そのことに気づいて以来、それまでとは逆に、独りでいる為に森で過ごす時間が増えたのだった。

 昼の強い日差しが、重なり繁る木の葉を透いて川の水面で揺らめく。せせらぎの音は、擦れ合う木々の出す音と調和し、見事な音楽のようだった。
 水の流れを見つめていると、辛いことも忘れてしまえるような気になれた。だから、何か嫌なことがあるたびにタイガーはこの場所にやってくるのだった。
 ここ数日は、この川辺で過ごすのが殆ど日課のようになってしまっている。

「なんで俺はこうなんだろう」

 一人呟く。今回ばかりは、川の流れも彼の苦しみを取り除いてはくれなかった。

 女性が苦手というだけならまだ分かる。しかし、感極まると虎に変身するとは一体どういうことなのだろう。あまりにも馬鹿げている。幸い今のところセクハラ程度で済んでいるが、今後それ以上の何かをしでかさないという保障は無い。

 これ以上院長に迷惑をかけるわけにはいかなかった。彼が悪意で出て行けと言っているわけではないことくらい、タイガーも知っている。すでに散々延ばした挙句の期限なのだ。今度こそ、一週間後には孤児院を出て行かなくてはならないだろう。
 仕方ないことだ、と頭では理解はしている。しかし、理解しているからといって己の窮状はどうにもならない。

 働き口を探せ、と院長は言ったが、果たしてこの界隈で自分のような者を雇ってくれる場所があるだろうか。タイガー寅吉の名前は、セクハラの虎という不名誉な呼び名と共に付近一帯に知れ渡っている。例え、自分を知る者がいない遠くへと移り住んだところで、そこに女が居るのなら、いずれは同じ結末を迎えるだろう。院長はああ言っていたが、この世の中に女がいない土地があるとは思えない。

 考えれば考えるほど、タイガーは絶望的な気分になっていった。

「なんでわっしはこうなんかいノー」

 意識して日本語を使い、タイガーは嘆いた。

 この言語こそが、両親の母国の言葉だと聞かされている。練習のために、彼は一人でいるときはなるべく日本語を使うようにしていた。
 丸みを帯びた優しい響きがするこの言葉が彼は好きだった。幼い頃、少しだけ日本語が出来るという院長にせがんで、毎日のように教わったものだ。院長は、僅かな期間ではあるものの、日本に滞在していた経験があるらしい。

 この言葉を使う人々が暮らす国を一度でいいから訪れてみたい。その想いは日増しに強くなるばかりだった。

「でも、それも無理な話ですケエ」

 物心付いたときにはこの孤児院にいたタイガーにとって、そこは両親の母国らしいというだけで、頼るべき親類がいるかどうかも定かではない。日本に行ったところで何の伝手もコネも無いのだ。何より、まずこの国を出るだけの金が彼には無かった。

 一度ならず訊いてみたこともあるが、院長も両親について詳しいことは知らないそうだ。そもそも、なぜ異国の人間であるはずのタイガーが、この国で孤児になったのかすら判然としていない。院長の話によると、政府の役人からの依頼でタイガーのことを引き取ることになったらしい。そこにいたるまでの事情は教えてもらえなかったのだそうだ。両親が死んでいるのか生きているのか、それさえも不明である。

 ただ、『寅吉』というファミリーネームらしきものだけが、彼の着ていた衣服に縫い付けられていたのだという。院長が辞書を片手に調べた結果、彼の名前はタイガー寅吉になったのである。名前のタイガーは、『寅』の字が『虎』の意味であると分かったため、そこから付けたのだそうだ。

 ――お前の名前は、あの偉大な獣を意味するんだよ。

 何かにつけて、院長はよくタイガーにそう語って聞かせたものだ。その言葉が示すとおりに虎に変身するようになってしまったのは皮肉と言うべきか。

 なんにせよ、タイガーは自分の生まれた場所さえ知らないのだ。まだ政情が不安定なこの国では、そんなことはざらにある。そうやって納得する以外に、彼には自分を慰める術がなかった。

 ぼんやりと川を眺める。一体これからどうすれば良いのか、彼は途方に暮れていた。

 そのときだった。

『やあ、こんにちは』

 突然聞こえてきた男の声に、タイガーは慌てて立ち上がり周囲を見回した。体質のせいか、人の気配には敏感だという自負がある。間近から声が聞こえるほどの距離まで近づかれたのが信じられなかった。

 だが、どれだけ見回してみても辺りに人の姿は無い。

『探しても見つけることは出来ませんよ。精神感応で直接脳に言葉を送り込んでいるんです。悪いが君の声は大きすぎて、近寄りすぎると僕の方が危ない』

 声は男のもので、しかも日本語だった。

 不思議な声だ、とタイガーは感じた。耳元で囁かれているようでもあるし、遠くから大声で呼びかけられているようでもある。声の調子から距離感を掴むことが全く出来なかった。

「せ、精神感応?」

 タイガーは、馴染みの無いその言葉を鸚鵡返しに口にする。

『テレパシーというやつですよ。意外だな、自分で気づいてなかったのかい? ああ、なるほど今まで指摘してくれる人が居なかったってわけですか。その調子じゃ生活していくのも大変だったろうに』

「ま、まってツカサイ。わっしの力のことが分かるんですケエ?」

 いままでにも何度か、院長に連れられて祈祷師を名乗る人間に視て貰ったことがある。彼らは「何かに憑かれている」とか「過去の因縁が」などと語るだけで、結局彼の能力を封印することは出来なかったのだ。

『この国の政府は超常的な力をあまり認めたがらない傾向にあるようですからね。おかげで霊能力者の質も低いままだ。彼らは恐らく君の力を見誤ったんでしょう。君が持っているのが変身能力だ、と初めから決め付けてしまったのかも』

「わっしの考えてることが分かるんですかノー」

 そうとしか思えないほど、男の言葉は的確にタイガーの疑問に答えていた。

『言ったでしょう、僕はテレパスですからね。すまないが君の心の声は大きすぎて、こちらが意識して力を使わなくても君がなにを考えているのか勝手に流れ込んできてしまうんだ。偶々大きな森を見つけたから仕事柄興味を惹かれて入ってみたんですが、急に君の声が飛び込んできて僕も驚いたよ』

「は、はあ」

 あまりにも急な出来事に頭が付いていかない。タイガーは生返事をすることしか出来なかった。森に興味を惹かれるような仕事とは一体なんだろう。

『どうやら君は送信に特化したテレパスのようですね。僕もあまり詳しい方じゃないが、結構珍しい能力なんじゃないかと思うよ』

「でも、わっしは虎に変身したりするんですがノー。テレパスってのはそんなことも出来るんですかい」

『それは実際に虎に変身してるわけじゃない。あくまでも、君を見ている人間に、君が虎になっていると思い込ませているだけですよ。自分の考えたとおりの光景を他人に見せる能力、とでも言うのかな。どうしそれが虎なのかは……多分君自身が一番良く分かっているんじゃないですか』

 タイガーの脳裏に院長の言葉が蘇る。

 そう、彼の名前はまさに虎を意味するのだ。そしてこの名前だけが、彼が親から与えられた唯一のものだった。

「じゃ、じゃあそこまで分かるなら、わっしの力を押さえ込むことも出来るんですかノー」

 期待をこめてタイガーは尋ねる。

『すまないが、少なくとも僕には出来ないな。僕は専門の霊能力者というわけじゃないから』

「そうですケエ。残念ジャー」

 タイガーはがっくりと肩を落とす。能力の正体が分かったからといって、制御できなければ結局は同じことだ。これまでと何も変わらない。

 気落ちするタイガーに向かって、だが声は続けて言った。

『でも、僕以外の人間なら何とか出来るかもしれない。幸い僕の妻は元霊能力者ですから、彼女に訊いてみれば、もしかしたら何か伝手があるかもしれない』

「ほ、本当ですかいノー!」

『――っ、すまないがもう少し小さな声で頼みます。さっきも言ったけれど、君の声は大きすぎて僕には少し辛い』

「す、スマンですケエ。つい興奮してしもーたです」

 タイガーは慌ててぺこぺこと見えない男に向かって頭を下げる。

『それじゃあ早速ホテルに帰ったら妻に聞いてみることにします。君が住んでいるのは……ああ、そこの孤児院なのか。何か分かり次第そこに連絡が行くと思います』

「あの、出来れば――」

『――大丈夫。なるべく一週間以内にどうにかするよう、妻に頼んでみますよ』

 タイガーの不安を読むように声は言った。

「なにからなにまで、本当にすまんことですジャー」

『構いませんよ。君の境遇は僕にとっても他人事じゃなかったから。まったく、お互いに厄介な能力を持ったものですね』

 そう言って声は笑う。

 他人の心を読む能力というのがよいことばかりではなさそうなのはタイガーにも分かる。だが、言葉とは裏腹に男の声は穏やかで、そこには何のわだかまりも感じられなかった。タイガーは、そのことが酷く羨ましく思えた。

『いつか君にも僕のように、自分の能力に感謝する日が来ることを祈っていますよ。それじゃあ――』

 その言葉を最後に、声は霞むように消えていった。

 タイガーは周囲を見回す。やはり誰の姿も見つけることは出来なかった。

 夢を見ているようだった。もしかしたら、あれは自分に都合のよい幻聴だったのではないか。そう思い、力任せに頬をつねってみる。あまりの痛みに飛び上がりそうになった。少なくとも夢ではないらしい。

「そういえば、名前も聞かなかったノー」

 そのまま日没を迎えるまで、タイガーは森の中に呆然と立ち尽くしていた。




 彼の元に日本から一人の霊能力者が訪れたのは、それから丁度一週間後のことだった。小笠原エミという名のその霊能力者が、タイガーの能力をある程度制御することに成功したのは周知の通りである。

 タイガーが後に訊いた話によると、エミが彼のことを知ったのはGS協会を通じてであるという。日本のGS協会が、なぜ日本とは馴染みの薄い異国に居たタイガーの情報を持っていたのか、当時のエミにとっては大した疑問ではなかったらしい。だから、タイガーはあの不思議な声のことをエミに尋ねることはしなかった。自分自身、あの体験を未だに夢のように感じていたからかもしれない。


 その後タイガー寅吉が声の主に出会えたのかどうか――それはまた別の物語。
後書きはここに書けばいいのかな?

枯れ木も山の賑わい、ということで
相互リンク記念も兼ねて投稿させていただきます。
所謂一つの過去捏造というやつでございます。
彼の奇妙な名前の謎とか、その辺の事情が描けていればよいのですが。
それにしても、タイガーの口調は難しいです。
そしてルビが巧く使えない……。

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