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見えざる縁(終)







 人狼の里。
 雑草が生い茂る草莽を掻き分け、シロは一路に歩を進める。俄かに開けた視界に目を細めると、そこには年輪を重ねたケヤキの大木が鎮座していた。
 一足で川を飛び越え、根元へと近づく。悠然と佇む大樹からは、踏み潰すような威圧と包み込むような抱擁が感じられる。年経た遺跡のようだとシロは思った。
 裏に回り、慎重に手で擦る。指紋採集をする監察官のような顔で、シロは暫く木陰にへばりついていた。その頬に、微かに高揚の紅が差す。


「っ、あった!」


 硬い感触を指先に認め、シロは顔を巡らせた。そこにあったのは、小刀でぎこちなく彫られた二つの名前。香南と一条の、無骨な愛の証だった。
 ケーキに入刀する新婦のような面持ちで、名前を刻む香南の姿が脳裏に浮かぶ。一条の裏切りも、150年後の悲劇も。夢想だにしない無垢な幸福が、幹の間から覗いていた。
 シロは微かな寂寥を感じ、顔を俯かせる。香南は決着の後、これの始末をシロに頼んだ。二人の「墓標」を、消し去ってくれと―――








「私の負け、ね」


 一たび亀裂が入れば、後は積み木を崩すのよりも容易い。シロは罅割れた鳴鈴を、錫杖を振り下ろす閻魔の如き迫力で一気に叩き割った。水晶のような煌きを残し、鳴鈴が跡形無く消滅する。それを見つめる香南の顔は、晴れやかでもありどこか儚くも見えた。


「困ったなあ。最後の最後にこれじゃ、結局私の男運が悪かったってだけじゃない」
「・・・そういう身も蓋も無い結論も、なんだか釈然とせんが・・・ともあれ、拙者の勝ちでござるな」


 息を整え、誇らしげな顔でシロが宣言する。横島との絆を護り切った安堵と充足が、零れるような笑顔の中に満ちていた。
 まるで雛鳥と親鳥のようだ、と香南は思う。擁護の対象は脆く、危うい。それでも身を削るほどの献身を以って、彼女はそれに応えている。
 溢れんばかりの、純粋な愛情。畜生へと堕ちた我が身との対照が、今更ながらに心に突き刺さった。


「シロ。最後に、一つだけお願いがあるの」
「?何でござる。三回勝負にしろ、とかは駄目でござるぞ」
「この腕じゃ、ジャンケンも出来やしないわよ。人狼の里に、そこに生えてるのと同じ木があるでしょう。私と一条の名前が、何処かに掘り込まれている筈。それを消してほしいの」


 相合傘みたいなものか、とシロは想像する。そこに重ねるように、香南が再び口を開いた。


「もう残ってやしないだろうけど、一応ね。あれは、私と一条の墓標みたいなものだから」
「・・・墓標、でござるか?」
「そ。私も一条も、あの場所で全てを失った。でも私は、こうして未練がましく形を保っている。片腕だけ這い出した活動死体(ゾンビ)みたくね。けど、それももう終わり。私には還る場所だけあればいい。帰る場所はいらない。その介錯を、貴方に頼みたいの」


 人間を憎んだ自分を、人間を慕うシロが裁断する。それが香南の望む最後の決着であり、常世へと還る自分自身への手土産にもなる。もっとも、転生の外法を用いた以上、香南にその席は残されていない。輪廻の狭間を永遠に彷徨う、哀れな浮遊霊が関の山だ。
 介錯という言葉に香南の末期を悟り、シロの顔が悲しげに歪む。それを見て取った香南が、淑やかな笑みを浮かべた。


「そんな顔しないで。私は、貴方に感謝してる。血よりも濃くて何よりも強い、絆という名の縁を知る事が出来たのだから。夜叉みたいな顔で逝かずに済んで、正直ほっとしてるわ」


 そう言って笑う香南の顔は、花が咲くように愛らしい。確かに、この顔が羅刹になるのはかなり勿体無い。確信犯を匂わす茶目に、シロはやれやれと苦笑した。
 不意に。
 風景に同化するように、香南の体が淡く沈む。寸刻も経たずに、香南の存在は紙絵のように希薄なものとなっていった。
 底の割れた酒瓶を眺めるかのような、形のない虚無がシロを包む。どうすることもできずに、シロはただ呆然と声を掛けた。

「香南・・・どの」
「・・・お別れの時が来たみたい。それじゃあね、シロ。貴方と貴方のお師匠様の行く末、草葉の陰から応援してるわよ」


 音もなく、匂いも残さず。
 香南は、消失した。











 さわさわと、梢が揺れる。折からの風が、清涼な空気を運んでいた。
 木の幹に彫られた名前は、今も残っていた。香南の最後の望みは、これを完全に消し去ること。だが、シロは心に引っ掛かりを覚えていた。
 一条の方はどうでもいいので、さっさと削り取って節くれを燃やして埋めた。だが、香南の方には躊躇いがある。ここで一条同様に埋めてしまえば、自分はいつかまた同じ過ちを繰り返してしまうのではないだろうか。
 歪なものだったといえ、香南は警鐘を鳴らしてくれた。異種族間における友誼や信頼は、一度立場が違えば脆くも崩れ去る。結果的にだが、香南はシロの内から覚悟と想いを湧出させ、最後には横島との絆を再認識させてくれた。月下氷人の感謝と、忘却が喉元を過ぎる恐怖。シロの逡巡は、偏にその二つと言っていい。
 腕組みをしているシロの元に、スニーカーの平坦な足音が近づいてくる。顔を上げると、横島が疲れた表情で立っていた。


「ったく、歩くの速すぎだっての。昨日も夜遅くまで散歩に付き合ったんだから、ちったあ抑えろ」
「あう・・・面目ないでござる。あ、それと名前は残ってたでござるよ。ほらコレ」
「あー、まあ、そうだな。うん」


 困ったように鼻の頭を掻く横島。彼もシロ同様、香南によって仲人の手引きをされたようなものだ。あれだけの騒ぎとなり胸中複雑なものがあるが、とりあえず照れ臭いことは確かなようだった。
 なお、一条の名前がないことについては気付きもしなかった。閑話休題―――

 香南を弔うので、付いて来て欲しい。そう切り出された横島はなんで態々と内心訝ったが、尻尾の垂れ下がったシロを見て納得した。一人では踏ん切りがつかない、そんなところだろう。
 確かに、香南にはある意味で感謝している。だが、と横島は思う。アンタが過去の象徴なら、人間と人狼族の間にわだかまる、猜疑と欺瞞の体現なら。


「こんなのは、呪いの刻印みたいなモンだ。シロ、悪いけど俺はコイツを消すぞ」


 横島の右手に握られた「消」の文殊。無駄とも言える大仰な仕草に、シロは横島の頑なを悟った。シロは項垂れながらも、決意を込めた表情で横島から「消」の文殊を譲り受ける。介錯を委ねられたのは、自分だからだ。
 香南、と彫られた幹に向き直り、ゆっくりと文殊をかざす。木彫りの文字が、ボードクリーナーをかけるように跡形無く消えていく。

―――香南殿。

 拙者は、お主に感謝している。お主の辿った道は悲運なれど、その道の果ては拙者が引き継いでみせる。
 絆という名の、見えざる縁。お主が最後に信じた縁を、拙者は最後まで護り続ける。お主を乗り越え、拙者は先生と共に未来へと進んで行く。それを、ここに誓おう。

 不意に、文殊の発光が変わったように見えた。シロが目を凝らすと、文殊の字が変わっている。不思議に思い、まじまじと覗き見た。
 そこに浮かんだ文字は、「昇」。過去を土の下に消化するのでなく、天に届く様にと昇華する。シロの決意、それが真実であることの何よりの証左だった。









 空は高く、雲は白い。
 緑薫るケヤキの大樹が、少年と少女を優しく見守っていた。




これにて見えざる縁は完結となります。暖めすぎて化石になったような作品ですが、お付き合いして下さった方々に御礼申し上げます。

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