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見えざる縁(15)







 今から150年前。人間を愛した、人狼族の少女がいた。
 少女の名は、香南。時代の確執に揉まれ、裏切者の謗りを受けても。彼女は、自身の想いを貫いた。例え二度と故郷の土を踏めずとも、自分の居場所は愛する者である一条の隣だと。
 それ故に。一条を惨殺されたとき、彼女の世界は崩壊した。
 憎悪に塗れた魂は、歪な妄執を紡ぎ出す。転生の外法―――自身を生贄とし、依り代を求めて彷徨い続ける術。輪廻の輪から外れ、雑霊に成り果てても、香南は七生の先まで下手人の―――松島の子孫を殺し尽くすことを選んだ。それこそが、一条に報いる道と信じて。
 それ故に。一条の愛が欺罔だと知ったとき、彼女の世界は再び崩壊した。
 全て失った。何一つ、残せなかった。絵画のように薄っぺらい世界の只中で、香南は今度こそ空っぽになった。

 外法の終端。依り代にしていたシロの肉体を道連れに、香南は奈落への門を潜ろうとする。白い光が溢れ、天が軋みを上げる。荒れ狂う暴風の只中に於いて、消滅寸前の香南の元に、横島は漸く辿り着いた。

「約束する。俺は、もう二度とシロを悲しませたりしない」

「シロを、返してくれ。俺は―――シロのことが、好きなんだ」

 抱き締める腕に力が篭もる。言葉以上に雄弁な、暖かな想い。
 香南の心に微かな―――本当に微かな惑いが生じる。残された時間は、幾許もない。


 最後の刻が、近づいていた。






「横島、先生っ!!」


 永い夢から覚めるかのように。勢い良く体を起こしたシロは、自分が苔の生えた石の上に寝ていることに気が付いた。草深い森から涼しげな虫の音色が聞こえ、静かな渓流が夜闇の中に煌いている。散歩の途中に川べりで寝てしまったかのような、不可思議な感覚。首を捻るシロの耳に、涼しげな声が聞こえてきた。


「お早う。寝心地はどうだった?」

「っ、お主・・・!!」


 今や仇敵とも呼べる香南の姿を認め、シロは反射的に霊波刀を構える。だが、香南は薄く瞼を閉じたままだ。
 妙だ、とシロは思う。香南から溢れていた、血走るほどの狂気が感じられない。否、少ない理性を総動員して、無理やりに押し込んだと言った方が妥当か。微かに漏れ出る吐息から、シロは確かな獣性を嗅ぎ取っていた。
 やがて香南が口を開く。唇は、愉快げに曲がっていた。


「ハッキリ言うと、私は貴方を道連れにするつもりだった。愛する人を疑い、裏切られ、絶望に毀されるくらいなら。いっそこのまま逝かせてあげるのも、てね」


 瞬間、シロの脳髄に火花が走る。次いで押し寄せたのは、燃え滾るほどの激情。震える躯を弾丸に変え、シロは一足で香南に切り掛かった。
 風を裂くほどの、光速の一撃。だが、その速度故に軌道は直線的にならざるを得ない。香南は難無くそれをかわすと、擦れ違いざまに足払いを掛けた。
 束の間の浮遊感の後、シロは草むらへと墜落する。が、すぐさま起き上がり、切れた唇も拭わず再び刀を構えた。香南は肩を竦め、落ち着けと片手を前に出す。


「巫女戯るな、って顔ね」

「当然でござろう!!貴様のトチ狂った理屈に拙者を巻き込むな!!」

「そうね、私はトチ狂ってる。濁った眼では、何一つ真実を見つけることは出来なかった。本当に、滑稽だわ」


 自嘲気味に呟く香南を、シロは数秒の間黙視する。俄かに霊波刀を仕舞うと、ぐいと唇を拭い、眼だけを香南の方に向けた。
 詳しい経緯は知らない。だが、シロははっきりと感じ取った。香南の中で、何かが決定的に潰えたことを。それ故に、自分は今正に香南と相対していることを。
 全てを清算し、決着を付ける。それは、シロにとっても望むところだった。ならば、聞くべきことは聞いておこう。悲劇であれ喜劇であれ、全ては口上から始まるのだから―――





 湿った風が流れる。微かに揺れた香南の前髪の隙間から、色褪せた瞳が見えた。
 茶番。要約すると、その一語に尽きる。肉体を失い、魂を擦り減らし、虚構の愛に殉じようとした哀れな少女。言葉を失うシロに構わず、香南は静かに続ける。


「だから、私はもう何も信じられなかった。物事の表裏なんて、かるたの札みたいに指先一つで簡単に引っ繰り返る。何一つ確かなものの無い、あやふやで意地悪な世界。消える直前までそう思ってたんだけど、ね」


 言葉を切り、香南は閉じていた左手を開く。霊力を失い、抜け殻となった「真」の文殊。幾許もなく消失するであろう文殊を、香南はシロに向けて無造作に放り投げる。慌てて受け止めたシロの掌中で、横島の想いを結晶化した文殊は、役目を終えた老木のように穏やかな光を放っていた。


「貴方の師匠、本当に馬鹿なのね。火中の栗どころか、竜巻に体ごと突貫したんだから。けど、あいつは本気だった。文殊まで使って、自分のことなんか蹴り飛ばして、貴方の為だけにその身を擲(なげう)った」

「せ・・・んせい」


 震える程の歓喜が、シロの体を駆け巡った。あのときの、声。泥濘の底から引き上げてくれた力強い声を思い出し、目尻に浮かんだ涙を拭う。不謹慎だと分かっていても、自分の為に横島がその身を窶してくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
 同時に、自責の念が圧し掛かってくる。横島の信頼と献身に、自分は何一つ報いていない。俯きがちになるシロに、香南が言葉を被せた。


「私はもう長くない。こうして形を保っていられるのも、後数分でしょうね。最後に聞かせて。貴方は、横島のことを信じているの?」

「当然でござる!!」


 即答だった。伏せていた顔に垣間見えた、不安げな色は微塵も無い。それはシロにとって、太陽が東から昇るのと同じくらいに当然のことだった。
 ほんの微かにだが、香南が微笑んだようにシロには思えた。束の間の静かな空白の後、香南がシロに向き直る。その瞳には―――決然とした敵意が篭もっていた。


「そう。ならば、実力でそれを証明することね。私は否定するわ、横島を信じる貴方を。貴方と横島の、種族を越えた縁を。
 この世に確たる思いが、揺ぎ無い想いが在ると言うのなら。その信念を以って、私の魂を打ち砕いて見せなさい!!」


 烈昂の気合と共に、香南の腕に鳴鈴が顕れる。大気が震え、罅割れた空気が悲鳴を上げた。香南が纏い、携えるのは圧倒的な闘気。銀の弓を引き絞る月の女神のように、身の丈を超える程の鳴鈴を構える香南の姿は恐ろしくも美しいものだった。
 だが―――
 ぴしり、という音と共に、香南の右腕に亀裂が走る。朽ちた漆喰が剥がれ落ちるかのように、香南のカケラが砂塵となり消えた。

 終端が、始まったのだ。

 それでも、香南は鳴鈴を構え続ける。崩壊した箇所に霊力を集中させ、辛うじて人の形を繋ぎ留めている。左腕も、両脚も、唇や頬さえも。欠けていない所は一つもなく、さながらツギハギだらけの人形のようだ。命を燃やし、無様を晒しながらも、香南の瞳は刃のように鋭く煌いていた。

(・・・香南、どの)

 確信がある。香南は、自分に討たれることを望んでいる。
 歪なままで固まった粘土は、打ち壊すより他に無い。150年の歳月は、引き返すには余りに遠過ぎた。
 ふと顔を上げる。視界の端に、堂々と聳え立つ大樹が映った。樹齢を重ねた、ケヤキの大木。逆巻きのフィルムの只中で、二人の少女は相対する。
 香南の精神(こころ)は、始まりの場所を最後の舞台に選んだ。一条を愛し、人間との縁を信じた少女は。自身の死を以って、初めてソレを信じることができる。
 遣る瀬無い矛盾にシロが歯噛みする。確かに、この世界は意地悪だ。

 でも―――それでも。

 これだけは、譲れない。横島を想う心だけは、贋物でなどあってはならない。シロは文殊をジーンズのポケットに仕舞い、霊波刀を構えて香南と相対する。
 自滅を待つような真似はしない。この刀と、この心で、貴様の全てを粉砕する―――
 一瞬の静寂。そして、視線が交錯した。


「―――おおおおおぉぉぉぉっ!!」

「破あああぁぁぁっ!!」


 駆け引きも何も無い、力押しの特攻。同時に、引き絞られた鳴鈴が―――香南の両腕が消滅し―――渾身の力と共に放たれ、シロの突進を正面から迎え撃った。
 シロの霊波刀と、極大の鳴鈴が交錯する。この一矢を凌ぎ切れば、シロの勝ちである。香南に戦闘を続行する術は無い。
 鳴鈴に呑み込まれれば、香南の勝ち。それを望んでいるかのかは、香南自身も分からなかった。だが、ここで負ける程度の想いならば、待っているのは第二の自分だろう。このまま逝かせてあげるのが、親切というモノ、ダ。
 外法に侵食され、理性の蓋が外れかけている。愉快そうに荒い息を吐く香南の両眼には、鳴鈴と鍔迫り合いを続けるシロの姿が映っていた。

 シロの額に、脂汗が滲み始める。勢いそのままに、鳴鈴を受け止めた。それは即ち、全速の一太刀でさえ受け止めるのがやっとという事を意味していた。
 霊波刀は確かに霊的な密度・硬度は高いが、如何せん霊的質量が違いすぎた。全霊力を注ぎ込んだ鳴鈴は、大きさだけならば霊波刀の数倍はある。投げ込まれた大型の碇を、鋼鉄のモリで受け止めるようなものだ。持久戦になれば、いずれは劣勢に立たされるのが道理である。
 故に、シロは一撃で鳴鈴を叩き切るつもりだった。失敗したのは彼我の実力差もあるだろうが、両腕を犠牲にするほどの香南の一矢(かくご)を甘く見ていた事が大きい。一息で喉笛を噛み切る狼の御家芸は、そのまま香南にも当て嵌まるということを、不覚にもシロは失念していた。
 徐々に押され始めた体勢を必死に立て直しつつ、シロは悔しげに唇を噛む。憔悴した頬を、ちりちりとした痛みが走った。
 霊波刀の光が、徐々に小さくなっていく。鳴鈴が、顎を開けて迫ってくる。
 断頭台に括られた罪人のように、恐怖と絶望がシロの胸中を侵食する。徐々に狭く、暗くなっていく視界の片隅で―――シロは、香南の姿を見た。

 両腕を失い、全身が罅割れ、それでも口元には狂気の愉悦がこびり付いている。150年。一世紀半に渡り傷付き続けた、哀れな少女がそこにいた。







―――違う。


 両腕に、力が篭もる。光を失っていた霊波刀が、ゆっくりと輝き出した。
 自分は先生と、横島忠夫と出会えたからこそ、父親の無念を晴らすことが出来た。誰かを好きになる幸せを知った。楽しくてかけがえのない、珠玉の様な日々を得られたのだ。
 その結果が、その末路が。
 何もかもを失い、笑いながら泣き続ける香南の姿だと言うのならば。
 

 そんな結末は―――断じて認めるわけにはいかない!!


「う、おおおおおおぉぉぉ!!」


 踵の浮いていた両足を、確と地面に根を下ろす。いよいよ力を増した霊波刀を盾のように構え、シロは鳴鈴を徐々に押し戻し始めた。
 憎悪。それが香南の、信念の力。虚の躯に宿る、唯一の残滓だとするならば。
 屈するわけにはいかない。香南の為にも、自分の為にも。何より―――自分の帰りを待ち続ける、横島の為にも。


「種族だとか因縁だとか、そういった小難しい咄はあの女狐にでも任せておけばいい!!拙者の願いは唯一つ!!横島先生と一緒に、ずーっと散歩し続けることだけでござる!!
 それを邪魔するというのならば、何人たりとも容赦せん!!それが拙者の、唯一無二の誓いでござる!!」


 ただ、共に在りたい。いつまでも隣にいて、ずっとどこまでも歩いていきたい。幼くて単純で、それゆえに崇高な信念。千年の大樹に比肩するほどの凛とした態に、香南は我知らず息を呑んだ。
 瞬間。シロの下腹部、腰の辺りから淡い光が立ち上がった。何事かと目線だけを巡らせ、シロは目を見張った。


「これは・・・」


 力を失った筈の、「真」の文殊。それが眩いほどの光を放ち、シロを守るように包み込んでいる。無論、鳴鈴の霊圧の前には焼け石に水のようなものだが、シロは百万の味方を得たかのように全身に精気を漲らせた。
 魂の心奥から発した思いに、横島が文殊で応えてくれた。シロの解釈は、力強い「真」の輝きを以って確信へと変わる。その光に後押しされるように、シロは全霊力をかけて一気に攻勢に転じた。
 負けられない、ではない。負ける筈が無いのだ。自分には、横島が付いている。
 いつでも、どこにいても見守ってくれる。自分に力を与えてくれる最愛の師匠がいる限り、敗北の二文字はあり得ない!

 雷が激突するかのような押し合いに、大気が荒れ狂い川の水面が激しく波打つ。けたたましい羽音と共に野鳥の群れが飛び立ち、衝突の余波を受けて苔生した岩が次々に砕けていった。
 渦中にただ二人取り残されたかのような、軋んだ空間。寸刻が、永遠にも感じられる歪んだ世界。そこに、終焉が訪れる。






 凌ぎを削り続けた、二つの刃。そこに、一筋の亀裂が走った。
























「風が・・・止んだ」


 瓦礫の海と化した市街地の中心で、一組の男女が直立不動のまま佇んでいる。呆としたおキヌの呟きに、男―――横島は、シロの体を抱きしめたまま表情を強張らせた。
 快晴の空に落ちる、シンとした静寂。緞帳が降りた舞台にも似た、空気を纏う完結。
 何かが終わったことを、全員が理解した。だが、エンドロールにはまだ早いことも、全員が理解していた。
 横島の説得だけで、香南が改心したとは到底思えない。だが、連れて行くと言っていたシロの体はここにある。おそらくは、せめぎ合いがあった筈だ。シロと香南の、肉体の主導権を賭けた戦いが。
 シロの体が次に目を開けたとき、その答えが出る。横島は棺桶の蓋を覗くかのような恐々とした不吉に身を硬くし、それ故に一層の力を以ってシロを抱き締めることになった。
 壊れた砂時計は、二度と元の器には戻らない。横島は、一時の激情でシロを蔑ろにしたかつての自分を呪った。溌剌で爛漫で、一途に自分を慕ってくれる真っ直ぐな一番弟子。失う寸前に、彼女に惹かれている自分に気が付いた。
 遅せぇんだよ、と横島は歯噛みする。ほんの微かな行き違いで、何もかもが後手に回り、結局は全てが崩壊する。或いは、嘗ての人間と人狼族の確執も。それに連なる香南と一条の悲劇も。たった一つの、ボタンの掛け違いから始まったのかもしれない。横島は、不意にそう思った。

 壊れた砂時計は、二度と元の器には戻らない。
 でも―――それでも。


「シロ・・・ごめんな。ひどいこと言って、お前を突き放すような真似をしちまった。俺には、種族とか立場とかそーいう難しい話はよく分からん。そういうのは、美神さんに全部任せちまうしな
 俺さ、何だかんだ言ってお前とする散歩が好きみたいだ。富士山でも阿蘇山でもどこにでも付き合ってやるからさ。だから―――」


 帰ってきてくれよ、と。震える声で横島が言う。もう二度と、手離したりしないから。
 哀憐を湛えた、悲痛な表情。その声に、横島の思いに応えるかのように。
 長い睫が、かすかに動いた。

 息を呑む横島の顔間近で、シロの両目がゆっくりと開いていく。瞳の色からは、肉体の主は窺えない。限界まで引き絞った矢のような、張り詰めた緊張が辺りに満ちる。やがて完全に両の眼を開いたシロの顔は、能面のように無表情なものだった。
 まさか、という無言の如実。それを最も強く感じた横島は、地面が抜けるほどの絶望を覚え、そのまま膝を付きそうになる。その体を、柔らかい腕がしっかりと抱き締めた。
 え、という掠れた声。まじまじと見つめるその先で、シロの顔が太陽のように花開いた。










「ただいまでござる、先生!」





 いつもと変わらない、普段着のような満面の笑み。
 それを見た横島は、くしゃくしゃの顔のまま。言いたい事と思いの丈を全て詰め込むかのように、もう一度シロを抱き締めた。


 同時に起こる、歓声の奔流。駆け寄ってくる美神たちを遠目に見ながら、シロはもう少しこのままでと薄く目を閉じた。





以前のものは過去ログに保存されています。つまりは、それくらい古い作品です。
間が空いた、というレベルでもありませんが、次回で完結となります。

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