「『エロスは激怒した。必ず、かのケチ暴虐の女王を除かなければならぬと決意した。
(中略)
道で逢った若い吸血鬼をつかまえて、何かあったのか、二年前にこの市に来たときは夜でも皆が歌を歌って、街は賑やかであったはずだが、と質問した。若い吸血鬼は、首を振って答えなかった。
しばらく歩いて老爺に逢い、今度はもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。エロスは両手で老爺の身体をゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「女王様は、人をシバくネ。」
「なんでシバくんだ?」
「悪心を抱いている、というけど、誰もそんな悪心を持ってはいないヨ。」
「そんなにたくさんの人をシバいたのか。」
「そうネ、はじめは女王様の兄代わりの方を。それから、自分の父親を。それから、御友人を。それから、御友人のお弟子さまを。それから、地獄組組長さまを。それから、師匠の唐巣様を。」
「うへぇ、おどろいた。女王はそんなに暴れん坊なのか。」
「いや、乱暴者というわけではないネ。人を信じる事が出来ない、というヨ。このごろは、部下の心も疑って、少し派手な暮しをしている者には、人質一人ずつ差し出すことを命じてるヨ。命令を拒めば呪縛ロープをかけられて、シバかれるネ。きょうは、六人シバかれたヨ。」
聞いて、エロスは激怒した。
「呆れた……でも女王、か。……美人なのかな」
エロスは、単純な男であった。買い物を背負ったままで、コソコソ王城にはいって行った。
(中略)
「ちょっと待った!そいつを殺しちゃだめだ。このとおり帰って来た。約束どおり、いま帰って来たぞ!」
と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたユキノジョウは、徐々に釣り上げられてゆく。エロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「俺だ、刑吏! 殺されるのは、俺だ。ユキノジョウを人質にした俺は、ここだ!ここにいる!」
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。ユキノジョウの縄は、ほどかれたのである。
「ユキノジョウ。」
エロスは眼に涙を浮べて言った。
「俺を殴れ。俺は、途中で一度悪い夢を見た。お前がもし俺を殴ってくれなかったら、俺はお前に申し訳がたたん。殴れ。でも手加減はしてくれ。」
ユキノジョウは、すべてを察した様子でうなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くエロスの右頬を殴った。殴ってから苦笑しながら、
「エロス、俺を殴れ。同じくらい音高く俺の頬を殴れ。俺はこの三日の間、たった一度だけちらとお前を疑った。生れて、はじめてライバルであるお前を疑った。お前が俺を殴ってくれなければ、俺はお前のライバルではいられねぇ。」
エロスは腕に唸りをつけてユキノジョウの頬を殴った。
「ありがとうな、ユキノジョウ。」
二人同時に言い、軽く拳を合わせると、嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ミカミは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「あんた達の望みは叶ったわよ。あんた達は、私の心に勝ったの。信実って、決して空虚な妄想じゃなかったのね。そういうことなら、あんたの仲間になってあげてもいいわ。仲間の一人にする?」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、女王様万歳。」
ひとりの巫女が、緋のマントをエロスに捧げた。エロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。
「おいエロス、お前すっぱだかじゃねーか。早くそのマントを着ろよ。いつまでもまっぱでいるもんじゃねーぞ。」
女王は……』」
「……なぁ、葵。何読んでるんだ?」
――――――― 夏休みの強敵 ―――――――「え?何って問題文の『走れエロス』やけど?」
「走れメロスってそんな話だったっけ……?」
先ほどから皆本の目の前では葵が問題集を片手に頭を捻っている。
チルドレンの通う中学校では既に夏休み期間も終盤に入っていた。
葵が手にしているのは学生にはおなじみの、長期休みには必ず出される――国社数理英の基本5科目を詰め込んだ――課題。
通称・夏休みの
強敵。
「皆本はんってコメリカに留学してた時期があったんやろ?その間に色々変わったんちゃう?」
「そうだったかなー……。そんな話じゃなかった気がするんだけど……」
自身が早い時期からコメリカに渡った為か、葵の指摘にイマイチ確信を持って応えられない皆本。
始業式まではあと数日、なのに宿題はまだ残っていた。
夏休み明けには実力テストのようなものも控えていると聞いている。
「その様子から見ると、葵は国語でつまづいてるのか?」
「漢字の読み書きとかは難しい字でも結構自信あんねん。けど、読解問題がどうにも……なぁ。声に出して読んでみたらいい、みたいな話を聞いたことあったから試してるんやけど……」
「どれどれ……ちょっと見せてごらん」
先ほどから取り組んでいた問題集をパラパラとめくってみると、葵の言葉通り漢字や慣用句についての問題の解答欄はほぼ全てのページが正答で埋められていた。
が、長文問題の解答欄は消しゴムで消した跡が目立ち、答えもまばらに書き込まれているのみだった。
特に最後の方の問題になると一度も書き込めないまま終わっているのも少なくない。
「ちゃんと何回も問題文読むんやけど、そうするといざテストの時には時間が足らんねん」
その辺りの問題点は自身でもきちんと判っているようで、声のトーンが沈んでいく葵。
実際前期の中間テストでは全教科の平均点で96点を取り、優秀な成績を収めた葵だが国語だけは他の教科に比べてやや点数が低かった。それでも高得点ではあったのだが。
「なるほど、国語の読解力ってのは鍛えにくいらしいからなぁ。ふむ……」
葵が行なっていた方法も間違いではないだろう。
だが、テスト時間中に声に出して読み上げるわけにもいくまい。
と、そこで皆本は自身の学生時代を思い返し、一つの方法を思い出した。
「じゃあ一つ、コツを教えよう」
「え、ホンマ?どんなん?」
葵は目を輝かせて食いついた。
「この問題、傍線部の気持ちを答えなさいってあるだろ?」
皆本が問題文の該当部分を指でなぞる。
なぞった部分を葵が目で追っていく。
「こういう問題のヒントは傍線部の直後や直前に書かれてることが多いんだ」
指を動かし、今度は問題文の直前にある一文をなぞる。
そこには解答する上でカギとなる部分が示されていた。
「もう一つコツとしては、最初から全文読んでから問題に取り組むんじゃなくて、例えば第一問で『〜〜部分の気持ちを答えなさい』と言う問題が出たら〜〜部分周辺、第二問で『――部分の理由を答えなさい』と言う問題が出たら――部分周辺を読む、と言う風に問題を読んでから文章を読むようにすればかかる時間はかなり短縮されるはずだよ」
「……はぁ、なるほどなー。そういうやり方もあったんや」
葵の場合、一度コツをつかめば恐らく大丈夫であろう。
もっとも、この方法が合わない可能性もあるが。
その時は他の人、学校の先生に聞いてもいい。
谷崎や小鹿らB.A.B.E.L職員に聞くなりしても教えてもらえるだろう。
その変態性や影の薄さゆえに最近忘れ去られつつあるが、彼らは元々能力は優秀なのだから。
要は停滞を打破するきっかけを与えてやれば良いのだ。
「そろそろ休憩にしようか。紫穂達にも声かけてくるよ」
皆本の提案を合図に、葵はそっと問題集を閉じた。
「こっちも終わったぜ」
別室から紫穂と共に出てきた賢木が少し疲れた声音で告げる。
本日は夏休みの宿題を終わらせようと、賢木にも応援を頼んでちょっとした勉強会となっていた。
あいにく薫は、滅多に行けない3人揃っての家族旅行ということでここには居ないが。
最初は4人でかたまって教えあっていたのだが、いつの間にか皆本は葵に、賢木は紫穂にマンツーマンで教えるかたちとなっていたのだ。
「そろそろ俺は帰るとするわ。皆本はこのまま二人の面倒みるんだろ?」
「ああ。といってもあんまり根詰めすぎても良くないからそろそろお終いにするけどね」
だが、その集まりも既に始まってから数時間。
そろそろ周りの家庭から夕食の美味しそうな匂いが漂いだす時刻となり、帰宅の準備をし始める賢木。
「今日は賢木が来てくれて助かったよ。……僕だけじゃちゃんと教えられるか心配だったからね」
(まだ立ち直ってなかったのか……)(まだ立ち直ってなかったのね……)(まだ立ち直ってなかったんや……)
「あ、そうだ。帰る前に1つ言っとくぞ。中には授業中に出た話題をテストの問題に出す先生とかもいるから気をつけろよ。結局は授業を真面目にメモるのが一番ってこったな」
「そうだな、流石に授業中に出た話題のフォローまでは僕たちでも出来ないしな」
玄関へ向かう賢木を見送ろうと動く皆本。
忘れ物はないかと、ふと周りを見渡した。
目に付いたのは何やら思案顔のまま固まった葵の姿。
「……ん?どうかしたか葵?何だかボーっとして」
「え、あ、いやちょっと考え事してただけや」
「そうか?体調悪いようならすぐ言うんだぞ」
そんなことを言いながら、賢木を玄関まで見送っていった。
あとに残されたのは未だ思考中の葵のみ。
皆本の姿が見えなくなると、紫穂が近寄ってきた。
その顔にはいかにも「私、気になります!」と書いてある。
そのまま興味津々で葵の顔を覗き込む。
「で、葵ちゃん?ホントは何を考えてたの?」
「んー、いやホンマ大したことないんやけどな?超能力がもっと浸透すれば、今のメモるみたいに気軽に使われるんかなぁ〜と思ってただけや。メモるって『メモする』の省略語やろ?」
以前よりはいくぶんかマシになったとは言っても、超能力者に対する世間の目は未だ大きく変わってはいない。
葵たちが通う中学のように、超能力者も普通人も別け隔てなく門戸を開いているところは少ないのが現状だ。
もちろん局長を筆頭にB.A.B.E.Lも超能力者がより広く一般に受け入れられるよう活動してはいる。
しかし活発化してきている〈黒い幽霊〉の悪行や、逆に最近は姿を見せなくなったとはいえ〈普通の人々〉の活動によって邪魔され、目に見えて実感できるほどではない。
だがそれが五年後か十年後かわからないが、超能力に関する言葉が流行語として定着するくらい自然なこととして受け入れられている未来。
葵はそんな未来を夢想していた。
「ウチの場合やと……テレポる、やろか?語呂は悪ないなぁ」
「薫の場合は……キネる?キノる?どっちにしろ語呂悪ッ!呼びにくいわ」
考えていく内に、葵は身近な例を口に出していた。
その顔は新しい「遊び」を見つけたかのように楽しそうだ。
「なーなー紫穂ちょっとこの問題メトって欲しいんやけどー、なんて」
「い・や・よ。まったくもぅ、サイコメトラーは便利屋じゃないのよ?それにそういうのは葵ちゃんの役回りでしょう?」
むくれて紫穂がそう答える。
葵が真面目に宿題を終わらせ、紫穂と薫がそれを写す。
中学になってもその関係を変えようとは露ほどにも思っていないようだ。
そして一旦言葉を切ると、何かを思いついたように満面の笑顔を作り、意味ありげにこう言い放った。
「それに私はそんなのより――」
「皆本さんに“メトって”ほしいかな♪」
「は?何言うてんのん、紫穂?皆本はんはノーマ……!?」
葵は、ひどく赤面した。
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