「あ、おかえり横島クン。お疲れ様」
エプロンとオタマ。
そして、優しい微笑み。
彼女のそんな様子に、横島忠夫は混乱した。
全力で今辿った経路を戻り、玄関の外から何度となく建物を見直した。
頬に手を充てて、思い切り引っ張った。
痛かった。
再び、事務所と名の付いた建物に飛び込み、視界に飛び込んだ物を確認するのに約5秒。
「何やってんのよ、アンタ」
そこにはやはり、彼の混乱を作り出した存在が居続けていた。
視線こそ怪訝な様子に変ったが、薄い桃色に黄色いヒヨコのワンポイントのついた
エプロンに、まだ湯気の出ているオタマ。背後からは洋食系の静かに食欲を喚起する
上品な薫り。
……もう一度頬を引っ張る。
痛い。
「何かあったの?大丈夫?」
苛立ちから心配へ。
いつになく言葉が優しい物に感じられたのも彼の混乱に拍車をかけていった。
思考が稲妻のように駆け巡る。
「……いに、ついに来たのかっ!このゴーマンな金欲女が、愛する男に素直に心を開き、
手作りの愛情料理と共にその身の全てを捧げる決意をする日がっ!!」
叫びと共に。
横島忠夫は僅か0.3秒で『その行動』を完遂する。
では、そのプロセスを見てみよう。
妄想!!
そのキーワードと共に霊圧が人の領域を踏み越える程に上昇する。
練り上げられた霊力は全身を覆うような可視光を産み出し、彼の人を超えた速度から
身を守る防護鎧となる。霊視に優れた者が見れば刹那の彼の動きが神魔の超加速と同様の
物である事に気付くだろう。
加速された時間の中、まず上半身を包む衣服を全て纏めて上に脱ぎ捨てる。
布にかかる負担は限界近いが、波紋のように拡がる霊力に守られ、破れることはない。 ここまで0.1秒。
直後、眼が光り、欲望の対象を一瞬の混乱に陥れる。
明るさは平均1500ルクス前後。欲望の密度によって変化する。
両手は高速で下半身のボタンとジッパーを開ける。この時のジッパーの擦過音が
『スパァ!』という鋭い音を発する。
膝を沈みこませ、スクワットの姿勢になり、0.2秒。
全身を包む霊気が摩擦を消滅させ、留め具の外れたズボンは腿から親指まで使った高速の
ジャンプの衝撃でその場に留まる。
むろんその間、標的から視線をそらす事はない。
「美神さーん!」
空中に飛び出す寸前、相手の名前を呼ぶ伝統も守りながらガニ股になり手を合わせれば、
完成する。
伝統の美技、ルパンダイブである。
「な〜にをトチ狂っとるかっ、この色ガキ!!」
人の反射を遥かに越えるその動作すら、美神令子は迎撃していた。
なにしろ彼女にとっては、これも日常茶飯事なのだから。
……直後の打撃音がいつもより甲高かったのは、彼女が持っていた道具の違いだろう。
「な、なぜ?」
頭蓋骨陥没を招きかねない衝撃が彼を襲ったが恩恵──標的への刹那の接触──によって
高められた霊力が彼の命を繋ぎ止めていた。
次に迫り来る延髄に正確に踏み降ろされる踵を受けても生きていられるのは彼だから、
と、いうしかないわけだが。
「だって久し振りじゃないすか、美神さんの手料理」
謝り倒してやっと着席を許されたテーブルの上には、和食派おキヌ、とにかく肉派のシロ
とは明らかに路線の違う食事が並んでいた。
「久し振りだからって飛び付くのかアンタは」
自分の分を運んだ美神は眉間にシワを寄せる。
「いや前回の美神さんの料理って魔鈴さんとの勝負のアレだし」
アレ。
……まあ料理と呼ぶ代物だったかに疑問があるのは彼女も認める所だったので、その言葉は
敢えて追求しない。
不本意ながら。
「前の事務所では結構作ってましたよね。おキヌちゃんが来る前とか」
「良く覚えてるわね。そうだっけ?」
昔話が気恥かしいのはなぜだろうか。
そんな事を考えながら、彼女は料理を頬張る彼を見つめる。
テーブルマナーも何もないけれど、彼はいつも嬉しそうに食事する。
昔も、今も。
「そっすよ、おふくろ以外の女性からの初手料理を忘れるわけがないっす」
口の回りにパンくずをつけて彼は主張した。
「あのポンカレー!人生で五指に入るうまさでしたよ!」
……こけた。
結構思い切り。
そして、思い出す。
たしか先生用にと買い貯めしていたポンカレーが余っていたので彼にふるまったのだ。
……賞味期限が切れていた品。
「もっと良い物も食べさせてたでしょ?」
「あー、確かに。……オムレツとか。肉もっすねー、あと焼きそば?」
嬉しそうに思い出す横島と裏腹に、彼女は全部フライパン一つの手抜き料理ばかりだと
微妙に反省してしまう。
前の事務所の調理器具は給湯室の小さなコンロだけだったから仕方ないと言ってしまえば
そうなのだけれど。
「結構食わせてもらってますね」
……普段がインスタント食品生活の彼にとってはあれで充分だったらしい。
「あんた食事与えとけば働いたもの」
「ほへはひろいっふ」
「飲み込んでからしゃべってよ」
彼女自身、家に帰ればちゃんとしたキッチンがあるのにあの場所で料理をしていたのは
一人きりの食事がいやだったからだ。
大げさに、嬉しそうに食べてくれる人がいるというのは料理をする人間にとっては得難い
幸福の一つなのだから。
「それに食べさせてやらないと死にそうだったしね」
「それは誰かさんが決めた給料に問題があったのでは?」
「お金なんか構いません、そばに置いて下さい。なんて言ってたのは誰よ」
実際、彼女からしたら断るつもりで提示した時給に飛びついて、彼はずっとそばに居た。
必要な時も邪魔な時も。
「うう、恨むぜ昔の俺。……こんな業突く張りの自己中女に何でそんなこと言ったんやー」
冗談交じり、といか本気交じりの彼の軽口にとりあえず半分残ったロースピカタの皿を奪い取る。
「今なんて言ったか聞こえなかったわ、もう一回言ってくれるかしら?」
「いやー、美神さんのそばに置いていただけるチャンスを掴んだ昔の俺に感謝したんすよ」
「よし」
皿を戻すと凄い勢いで彼はかぶりつく。
犬の躾みたい、なんて思うのは犬に失礼かもしれない。
「食べ終わったら報告書よろしくね」
「へい」
調査から報告まで。今となっては彼は除霊に関する一通りをこなす事が出来る。
バカでスケベだけど、頼りになる。
とてもとても悔しいけれど、かつて丁稚だった少年は、美神にとって対等のパートナー
なのだ。
「どんだけ食べる気よ、相変わらず遠慮が無いわね」
そう言いながら、空になった横島の茶碗におかわりをよそってしまう。
久し振りの得難い幸せはもう少しだけ続くようだった。
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