4289

えす☆きす! −Especially Kiss−/最終話


 誰だ、この女の子?
 最初に浮かんだ疑問が、それであった。

 9人分のまなざしが注がれる先には、一人の少女がマット上に座り込んでいた。
 こちらに背を向け、身じろぎひとつしない。

 妖精の粉を振りかけたように、きらきらと散る金色の空気。
 漫画の演出効果のような、雰囲気のやわらかさを感じた。

 風が、少女の背中に流れる髪を、そっと持ち上げた。
 ウェーヴの入った薄い亜麻色、エクルベージュと呼んだほうが良いだろうか。
 束ねられた絹糸のように、頭部から肩、背中、腰、そして足元へと、豪勢に広がっている。

 見慣れたセーラー服姿なのは、一目でわかった。
 さらにその上から薄手のカーディガンと黒いタイツ、黒のローファーを履いている。
 先ほどまで戦っていた、毬谷百合という名の悪霊と同じ格好をしている。

 するする、と髪が持ち上げられる。
 少女が、ゆっくりと立ち上がっていた。
 こちら側に気づいたのか、一同の方を振り返り、視線を向けた。
 その瞬間、男女の入り混じった、賛嘆のため息が周囲からこぼれていた。


 「……きれい」


 誰の声かは判然としなかったが、どうでもよいことだったし、何より思いが一致していた。
 その姿は、清澄にして、可憐。天上の美。
 卓越した技量を持つ絵師が、精魂込めて描いた山水画のような品位と優雅さが、その外見のすべてに在った。


 「う、美しい……」

 「ママに、似ている……」


 ピートや雪之丞にしても、かすれ気味の呆けた声が出るばかりである。
 タイガーに至っては、口を半開きにして、魂を抜かれたような有様だ。
 かおり、魔理、おキヌ、エミにしても、ははあと感心するばかりなのだから、男性陣を責めるのは酷と言うものであったろう。
 杉下教諭、亀山教諭も同様の風体でいたが、すぐに気を取り直していた。


 「ちょっと失礼。僕たちのことはわかりますか?」


 杉下教諭の問いかけに、少女は、首を少し傾げた。軽く振れる後れ毛の、なんとみやびなことか。
 春先に、ほんのりと色づいた桜色の唇が、そっと開いた。
 風鈴の音色のように、はっきりと通る声だった。


 『え、杉下先生に、亀山先生……ですよね』

 「ありがとうございます。念のために、あなたのお名前を言っていただけますか?」

 『あの……毬谷百合、です、けど』


 納得したふうに、杉下教諭は頷いた。やはりそうでしたか、と表情で語っている。
 亀山教諭もどこか呆然とした風ではいたが、ははぁ、と理解の溜息を漏らす。

 その他一同は、記憶を呼び起こす作業を行っていた。
 毬谷百合といえば、記憶が正しければ、元は男で、マッチョで、強力な悪霊だった。
 タイガーと戦い、横島と戦い、雪之丞&ピートと戦っていた、巨躯の幽霊であった。
 確か、エミが何らかの説得を行い、そして光に包まれたはずだ。

 そう。時間の経過をたどれば、光が発生した直後のはずだ。
 巨躯の幽霊がいたと思われる場所に、あの少女が座っている。
 以上の流れより、あの幽霊は、絶対可憐な女の子へと生まれ変わった、ということになる。

 腰が抜けそうになった。
 事実、タイガーはその場にへたり込んでいた。
 他の誰もが、目に口と丁寧な円を形作り、声も出せない。
 何事が起きているのか、まったく分かっていないらしく、きょとん、として、皆を見回しているのは百合だけである。


 「誰か手鏡、持ってない?」


 エミは女性陣へと声をかけた。
 かおり、魔理、おキヌはしばらく呆けていたが、自分たちに向けられたと気付くや、急いで鞄の中を探し出す。
 真っ先に差し出したのは、かおりであった。組子細工の手鏡である。

 礼を言って受け取ると、エミは眼前へと掲げ、気合と共に念を込めた。
 手鏡に霊力を込めたのだった。これで、幽霊にも自身が見えるようになる。
 鏡面を百合へと向ける。


 「ほら」


 鏡を向けられた瞬間、百合はかすかに、だが怯むように身じろぎした。
 仔猫のような後ずさりだ。エミは微苦笑をもらすと、百合に軽く首を振った。
 怖がらずに見てみるワケ。無言のうちに語りかけるようだった。

 恐る恐ると、百合はエミの手元を覗き込んだ。
 十数秒を数えたあとも、ゆるゆるとして沈黙が続く。
 責め立てられるような緊張感や切迫感はまったくない。
 しゃわしゃわ、と響き合うセミの合唱が、優しげなドラムロールのようだ。


 『せ、先生……』


 鏡面とエミの顔を何度も見返し、百合はようやく言葉を押し出していた。
 声はもちろん、瞳、身体が小刻みに震えている。心身の全てが怖気づき、そして問いたがっているようだった。
 これは現実なのか。霊力のおかげ、手鏡が見せる幻ではないのか、と。
 エミははっきりと首を振った。問いに対し、はっきり否である、と示した。

 ようこそ、乙女よ。現実へ。
 世界がやっと、自分に微笑んでくれたような気がする。
 広げた両手を見つめながら、百合は身を振るわせ続ける。今にも泣き出すかと思われた。
 が、次の瞬間、百合はいきなり駆け出した。


 『そいやっ!』


 一同はまたも驚かされていた。
 リングに張られたロープをひょいと飛び越え、百合はそのままリング下へと着地する。
 コンマ数秒で全速力のダッシュをかまし、脚力を全開にしていた。
 部室が隣接する建物の、一番左端。青と赤の人物像が標識として描かれたスペースへと飛び込んでいった。
 すなわち、トイレである。

 小だか大だかが漏れそうだったのか、という疑問は瞬時に消去していた。だって幽霊だから排泄はない。
 大きい鏡のあるところを目指したのか、という問いもすぐに除外される。霊力がこもってないから使えない。
 全員の頭上にクエスチョンマークが点り始めたころ、それらはあっさりと吹き飛ばされた。


 『ないーッ!!』


 大音声、という表現に相応しいスケールで、声は飛んできた。
 ブロック塀に囲まれたトイレからである。コンクリートを原子レベルにまで粉砕しかねない迫力であった。
 けたたましい足音が響いてきたのは、声の直後であった。


 『先生、先生! なかったです。ありませんでした。なかったんですよぉぉー!』


 百合はまっしぐらに、杉下・亀山・エミ教諭陣のもとへと駆けてきた。
 外見のはかなげな部分を大きく裏切る、なかなかの健脚っぷりである。


 「あいつ、確かめてきたらしいな」

 「……何を?」

 「決まってんじゃねぇか。タマのあるなしだろ」


 天然モノかどうかはわかんねぇが、と続けようとしたところで、雪之丞は思い切りひっぱたかれた。
 頬を赤らめたかおりが、右手をひらめかせたのだった。
 何歳になっても、性に関する会話は程度の差こそあれ、どこか気恥ずかしくて、苦笑して、どきどき、にまにまというものである。
 ある意味、青春の恩恵というべきか。どきどきを隠しつつ、愛子は思った。


 「そうですか。それは良かったですねぇ」

 『良かった……ほんっとぉーぉおにっ! 良かったぁぁぁ!!』


 杉下教諭の表情が、かすかにこわばっているように見えるのは、気のせいであったろうか。
 百合の言葉だけなら、なんだか受験に落ちたことを喜んでいるようにも聞こえる。
 狂喜乱舞、欣喜雀躍。四字熟語をどれだけ引っ張り出しても、まだ足りない。

 念ずれば通ず。苔の一念、岩をも穿つ。確かそんな諺であった気がする。
 死んじゃったけど、ある意味、生まれ変わった。願いに願い通した自分の姿に。
 文字通り、精神が肉体を凌駕する好例であった。

 百合は、またもリングへと駆け上がった。そのままコーナーポストをよじ登る。
 俊敏な動きである。生前に積み重ねた鍛錬が、乙女の姿になっても生きているということだろうか。
 手を突き上げ、全世界に向けて、百合は勝利者としての歓喜の声を放った。
 アイ・ウィル・ロック・ユー。アイ・アム・ザ・チャンピオン。心底からの、正直な叫びであった。


 『おっぱいもちゃんとあるぅぅぅ!』

 「脱ぐな叫ぶな、バカ野郎!」

 『スク水おっけー、ビキニもおっけー! 夏がわたしを狂わせるぅーっ!』

 「スカートスカート! 何をしてるの、見えてますわよっ!」


 雪之丞とかおりの咎めも、いまやノー・プロブレム、ス・ネ・パ・グラーヴ。そんな気分である。
 コーナーポストのてっぺんから世界に向けて、煩悩を思い切り叫ぶ超絶美少女というのも、これはこれで味があった。
 美人なら、かわいいなら、許されることもある。そういう気がする。
 軽やかに飛び降りる百合の姿を見ながら、少年少女たちは、なんとなくそう思った。


 『皆さん、ありがとうございます! これで決心がつきました。わたし、さっそく行ってきます!』


 はつらつとした笑みと口調で、百合は決意表明をする。
 はて、なんのことだったかな、と想起したのもつかの間、あっ、とみなの声が上がった。
 百合が幽霊となってこの世に留まっていたのは、想い人に会い、あわよくばキスだのハグだのがしたかったから、である。
 同性だろうと、幽霊だろうと、結婚予定だろうと、想いの成就のためならエンヤコラ。人の迷惑顧みず。

 先ほどまでの百合なら、単なる災厄であったかもしれない。
 だが、今は違う。別の意味で災厄であり、大きすぎる火種である。
 男なら、今の百合がキスして、そんでもって抱いて、なぞと言ったら、まずよろめく。
 間違いなく、よろめいてしまう。

 相手はじきに結婚する予定であるという。しかも子持ち確定だ。
 周囲の理解も得て、双方の家も祝福ムードである中に、メガトン級の爆弾を放り込むようなものである。
 幸せそのものの家庭が、昼のメロドラマも真っ青のサスペンスになってしまう。
 全員の、特に教師陣の中でも、亀山教諭がやや青い顔で真っ先に静止していた。


 「待て、毬谷! さっきも言ったが、略奪は絶対いかんと……あっ」


 止める間もない、ぴか一のロケットスタートであった。
 艶やかな黒のローファーが、スニーカー並みに地面を強く蹴っていく。男性だったときの重量感などかけらも残っていない。
 軽やかなステップは快足を生み出し、山林を吹き抜ける風を思わせた。

 彼女を止めようと試みた人々は、初っ端からつまずいた。
 おっとと、とつんのめり気味で、身体と視線があべこべに動く。
 校門とは正反対の方角、校舎間の吹き抜けへと、百合は向かったのだった。
 放たれた声は、すみずみまで清涼感に満ちていた。


 『待ってて、横島くぅーん!』

 「横島!?」


 ドップラー効果の証明をしながら、百合は後姿をあっという間に小さくしていく。
 コントの一コマのように、誰もが身体を固めていた。自分は今、誰の名を聞いたかと脳内で確認しているかのようだ。
 全員を一望しているものがいれば、表情の変化が最初に現れた者を、すぐに確認できただろう。
 エミとピートであった。天を仰ぎ、溜息をつきながら、まずエミが予想を口にした。


 「あー……まぁ、信じらんないけど、どうやら戦ったことで、横島に対する愛情が芽生えてしまったみたい、ね」

 「えええええっっ!?」

 「その可能性大……かも、なワケ」

 「ウソだろ!? 殴り合って、どうして好きになる? わけわからん!」


 雪之丞には、意味が分からなかった。
 よく川原での喧嘩がモチーフとして出されるが、気に入らないという原因から、殴り合いを経て、夕焼け空の中、熱く握手を交し合う。
 そういう男同士の友情というか、その応用版とでも言うのだろうか。

 それにしても、男性であったころと、女性になった百合の、その落差があまりにも大きすぎる。
 どちらも一見して衝撃的だが、男性版が最初に来た分、少女としての百合のインパクトが強すぎて、かえって男性のころの印象が薄れてしまった。
 見方を変えれば百合自身の問題となるが、自称乙女の価値観・感性の持ち主が、さっきまで殴り合っていた相手に好意を抱くことなんて、ありえるのだろうか。


 「よく考えてみるワケ。横島とあの子、サシで勝負したでしょ。で、横島があの子の胸、消し飛ばしたでしょ」

 「ああ、跡形もなくな」

 「つまり、さぁ」

 「あんだよ。じれってぇな」


 エミはそっぽを向くと、ぼりぼりと音を立てて頭を掻いた。心なしか頬が赤い。
 こういうのはどうも苦手だ、といわんばかりの焦燥感がにじみ出ている。

 考えてみれば、横島と百合の戦いのあと、あの遠くを見つめる視線が気付くきっかけだったかもしれない。
 そして、浮かんだ微笑の意味も、なんとなくだが理解してしまった。
 先ほど百合が横島の名を叫んだことで、「なんとなく」が「あ、やっぱり」の形に収まったわけである。

 あー、もう、なんでこういう、青臭くてこっぱずかしいコト、わかっちゃったかなー、自分。
 エミさんなんかかわいい、と六道の女性陣が思い出したころに、助っ人はやって来ていた。
 ピートが後を受けて、答えたのだった。


 「毬谷さん。初めて身体に触れられて、女性としての自覚、持っちゃったんでしょうね」

 「なにィィィッ!!」


 頬を膨らませるエミが、ピートを軽くにらみつけた。
 気付いてたんなら、もっと早く言って欲しかった。というところだろう。
 ピートは微苦笑で彼女に答える。


 「つまり胸を揉まれたから惚れたってのか!? バカ言え、そんな理屈があるか!」

 「なんだかとっても……ふしだらな匂いがしますわ。フケツですっ」

 「揉まれてふくれた、の間違いじゃありませんかノー」

 「タイガー、後で校舎裏な」


 ボディーはもちろん、顔面にも拳を打ち込まんとする殺意を、魔理は漂わせている。
 かおりも、なんだか受け入れられない理屈のようで、真っ赤な顔でむっとしている。
 青春に恥ずかしがる女の子の表情は、実に味わい深いものだと、おっさんおばさん精神の持ち主なら思うであろう。

 それはさておいても、胸への接触が好意に結びつくとは、暴論の域に属するんじゃないだろうか。
 雪之丞たちの異論に答えたのは、杉下教諭であった。


 「いえ、小笠原先生のご意見にも一理あると思われます」

 「杉下先生!?」

 「これは過分に心理的な推測となりますが……」


 メガネを直しながら、杉下教諭は皆を見回した。
 一言一言を丁寧に咀嚼しつつ、彼は論を展開し始めていた。


 「毬谷くんは身も心も女性になりたがっていました。生前から幽霊である現在に至るまで。ところが現実はまったく思い通りにならず、憎悪に結びつき、その身を変じさせ、先ほどの戦いのような巨躯へとなったわけですが」


 百合の現実が思い通りにならなかったのは、除霊委員たちに教諭陣の介入・ツッコミもあったからでは、という意見もあろうが、誰もが無視した。


 「にもかかわらず、横島くんは毬谷くんへと果敢に挑んだのです。まぁ、主に胸に対してですが。行為の是非はともかく、彼の勇気と挑戦は、毬谷くんの心に何かを響かせたと思われます」


 胸を触るのが勇気と挑戦、と呼んでよいかどうかは論議を待つところであろう。
 が、とりあえず横島を讃えることにしたらしい。並外れて強力な悪霊相手である。
 文珠の効果もあっただろうが、戦意を萎えさせなかったのは幸いというものであった。


 「あいつはもともと男だったが、揉まれたから女としての自信を持ったわけか」

 「本来ならセクハラものですけどね。とんでもない話ですこと」

 「男性だったときには、柔道で触れ合うことはあったでしょうけど。こう言っては何ですけど……胸を揉んでくれる人もいなかったでしょうし、ときめいちゃったんでしょうね」

 「まー、なんてーか、その……たぶん、初めてだから、うれしかったんだと思うワケ」

 「で、あいつはそれがきっかけで変身できて、あーなったわけジャノ」

 「そうみてーだな」

 「どういう会話なのよ、これって!」


 雪之丞、かおり、ピート、エミ、タイガー、魔理、そして愛子。
 濃淡の違いはあれど、一人残らず、頬を染めていた。
 話していて今更なんだが、なんというむずがゆい会話なのだろう。
 ひとり、杉下教諭だけが好奇心に目を爛々と輝かせている。超自然現象を目の当たりにした科学者の態度であった。


 「いまや毬谷くんは、近年俗に言う『男の娘』などではありません。れっきとした少女、完全なる女性です。これは僕としたことが、なんといううっかり!」

 「杉下先生、なにを喜んでるんですか!?」

 「ああ、愛子くん、これは失敬。幽霊が性転換した事象など初耳ですからねぇ。実に、実に興味深い!」


 とある病院の医者は、現代科学至上主義を通し、「医学は、医学はぁぁーっ!」の叫びと共に、オカルトの存在を真っ向から否定していることで有名である。
 目の当たりにしたとはいえ、こうも嬉々としてオカルト現象を肯定する科学者も珍しいのではないか。
 ふんふん、と蒸気機関に灯がともった機関車のように、杉下教諭は鼻息を漏らした。


 「霊子力学を学んだ身としては、実に胸がときめきます。ええ」

 「カオスのおっさんみてぇなコト言ってんな」


 知人のマッドサイエンティストを思い出し、雪之丞は渋い顔になった。
 知的好奇心の楽しみ方は良く分からないが、われを忘れるほどの興味深いものなのだろう。

 だが、待て。ふと雪之丞は、ひとつの疑問に思考が至っていた。
 毬谷とかいう幽霊は女になった。胸を揉まれたから。結果的に無力になり、それは横島の戦果だ。
 あいつは横島の元へと駆けていった。横島への想いを口にした。じゃ、何をしに行ったのだ?


 「おい、そういやあの娘っ子。何しに、横島のところに行ったんだよ」


 場が凍りついた。
 なぜ今頃になって思いついたのだ。今まで思い至らなかったのだ。
 百合は、想い人へのアタックが望みであったはず。
 もし、その対象が横島へとすり替わっていたら。


 「す、杉下先生。つまり彼……もとい彼女は行動に踏み切ったということでは?」

 「どうやらそのようですね」


 あっさりと認める杉下教諭である。
 となりではピートが頭を抱え、エミが苦笑していた。
 亀山教諭も頭痛を堪えるように、こめかみを押さえている。


 「と、ということは、いったい!?」

 「神聖なる学び舎が、ラブホテルにビフォーアフター!?」

 「おーまいがっでぃす!」


 かおりの問い、愛子の予測、おキヌの叫び。
 丁寧に畳み掛けるタイミングの良さで、3人の声が連なった。


 「これはまたうかつでした。あれほど校内での不純異性交遊はダメだ、と言い渡したはずなんですがねぇ」

 「幽霊が守るか、そんなもん!」

 「よ、よこしまさはぁーんっ!!」


 先頭を切って、おキヌが駆け出した。
 愛子が続き、雪之丞たちも後を追う。
 校舎内の規則だの、貞操観念だの、乙女の想いだの、友情だの、青春がこもったその他いろいろを、心の内に燃やしながら。
 足音に砂塵を伴い、少年少女に教師陣は全力疾走を開始したのだった。





 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 ひっくり返っている人物を見つけたとき、百合は心が躍るのを感じた。
 もっと間近で見たいと思い、さらに速度を上げる。
 切り株の根元に、彼、横島忠夫の姿はあった。

 バーガンディ・レッドのバンダナは、頭部からすっぽ抜けていた。
 カッターシャツは生地のあちこちがよれて、へたって、汗じみている。
 仰向けになった姿は土ぼこりにまみれて、くるくると目を回し、気絶したままという有様だ。
 周囲を柔らかい草が覆っているとはいえ、彼を中心に陥没した地面が、やけに生々しい。

 横島のすぐそばまで来ると、百合はそのまま跪いた。
 彼の顔を覗き込むように、口元へと耳を傾ける。呼吸音が規則正しく聞こえた。
 ほっとして、腰を落ち着けなおす。
 なんだか、気ばっかりが先に行き過ぎて、身体がやっと追いついた感じだ。

 百合はくすくす、と笑った。
 口元に手を当てて、ひとしきり笑い続けた。
 落ち着くと、また横島に視線を戻した。
 バンダナの赤と黒髪の取り合わせがしっくりして、妙に気に入った。

 ひょい、と手を伸ばしてみる。
 まずは前髪から触れて、まつげを観察し、鼻毛が出てないかをチェックした。
 目やにもかろうじて大丈夫そうだ。なんとか合格圏内である。

 仕上げに、頬を指先で突っついてみた。触れられない。
 だが、ほんのりとしたぬくもりを感じる。彼のまとった霊気だった。
 産湯に指先を浸したら、こんな感覚だろうか。
 百合は知らず頬を緩めていた。



 ―――あったかい……



 幼心に、女の子に憧れていた。
 異性としての存在に、興味を持った。
 好意であり、生物としての憧憬でもあった。大げさに言ってしまえば。

 自分の外側と内側に、奇妙な不一致を感じていた。
 違和感の理由が分からず、そもそも何が分からないのか。何が知りたいのか。
 ぼんやりと自問自答を繰り返し、余計に分からなくなる。その連続だった。

 苦難を、焦慮を、正当化しようとは思わない。
 毬谷由利は、そう思って生きてきた。

 小学校、中学校を無難に過ごし、高校生活は当初こそ安定していた。
 クラスメートたちと会話や交流が出来ることを、好ましく思っていた。
 性別を考えずに、会話を楽しめるのは、心が落ち着くことだった。
 男女の差がどうだの、と色分けする必要などない。そんな思いが常に心の片隅にあった。

 身体と心、それぞれの歯車が、ついに軋みを挙げ始めたのは、この頃からだった。
 気付いていなかったのか、気付きたくなかっただけなのか。
 たぶん後者であった。



 【すげぇな、毬谷。2年生で副将だって? 対抗戦、頑張れよ】

 【たくましいよねー。すっごい肉食系ってやつかも】

 【言えてる言えてる。軟弱なものがぜったい似合わないよね】



 柔道は、好きだった。
 嫌いではなかった、というのが正直なところだろうか。
 賞を取るたびに、勝つたびに、周囲が褒めてくれる。
 熱心だと。天賦の才があると。日本一も夢ではないと。

 努力は、とても良いことだ。
 認められるたびに、自分はこうあるべきだ、と思い直した。
 求められているから、強くあるべきなのだ、と考えた。
 自己欺瞞、と言えばそうなのだろう。

 綺麗な服や飾り物。俗に言う女の子らしいものを、好むようになったとき、自分の想いに気付き始めた。
 違和感の正体を知ったとき、あからさまに取り乱すことはなかった。やっと心の収まるべきところに収まった、と感じた。
 女性よりも男性に目が向き、心が揺れるようになったとき、毒を飲んでしまったような気分に囚われた。
 同級生の男子を想うようになったとき、事情を知っていた亀山教諭の制止も聞かず、必死で柔道に逃げ道を求め、駆け続けた。



 【毬谷先輩、鼻血が!】

 【ああ、お前は初めてだったな。あれこそ毬谷が柔道の鬼である証だ。人呼んで「柔血鬼」だ】

 【す、すげぇ!】



 何から何まで、熱心さの証だと思われていたから、かえって好都合だった。
 寝技が得意中の得意になったのは、自分でも度し難い副産物であった。

 同級生たちからの賛辞や激励に、礼を言いつつも、素直に受け止められなくなってきていた。
 声を、笑顔を向けられるたびに、心の奥底で、なにかもやもやしたものが、べとつく油のようにうねりだす。
 無性に声を上げ、いや、泣き叫んでしまいそうな自分を、ゴミを押しつぶすように、心の奥底へ押し止め続けた。

 自分自身を慰めるようなことは出来なかった。
 鍛えに鍛えた日々が、己への言い訳を許さなかったからだ。
 いや、許さないようにと、自分で自分に言い聞かせ、育ててしまったのかもしれない。

 弱い自分がいやだから、嫌いだから、言い訳なぞしないように、鍛え抜く。
 逃げ出す術など考えることがなくなるように、道を踏み誤らないように、鍛える。

 今思えばその熱心さこそが、自分自身に正直になれないことへの、逃げ道になっていたのかもしれない。
 男であることへの違和感と嫌悪を、覆い隠してしまうための擬態、つまりは八つ当たりであったのだ、と。
 だから、心と身体がいつしか、ちぐはぐになってしまった。

 発熱や嘔吐、頭痛などの体調不良など、絶対に認めなかった。
 それまで以上に、過酷な練習に臨み、対抗戦の申し込みがあれば、休みの日でも進んで参加した。
 試合会場に向けて機上の人となる前に、初めて、不良っ気を出してみようと思い立った。
 憂さ晴らしもあったのかもしれない。こっそりウイスキーのミニボトルを何本も買い込んで、飲み干した。
 死を迎え、幽霊になったのも、目が覚めたらそうだった、という程度の感覚だった。



 【オラは死んじまっただ、か……】



 のんきだが、そんなことを考えたのを覚えている。
 身体がなくなったことは、むしろ身軽になったと思った。
 それまでの生活も、季節感も、時間の経過も、どこか遠いことのように思いながら、数年間を気楽に漂ってきた。

 可憐な女子高生を見かけるたびに、目が止まった。
 例えるなら、全身に波紋が走ったような感覚に襲われた。
 人としての肉体があれば、胸がざわついた、と言えるのかもしれない。

 どうせ他人には見えないのだ。
 足もないが、そもそも浮いているので、ふわふわと何処へでも漂っていける。
 ならば好きなこと、心に押さえ込んでいたこと、見聞きしてみたかったことを、やってしまおう。
 その思いつきはなかなか良かった。自画自賛で嬉々としながら、由利は幽霊ライフを満喫した。
 映画館でラブロマンスを見たり、昼夜を問わずウィンドウ・ショッピングに行ったり、世界的なファッション・ショーを観覧したり、と。

 ある日、見かけた女子高生たちに、由利は久しぶりの驚きを感じていた。
 見慣れた制服であり、学校名もはっきりと思い出せたのだった。六道女学院という校名を。
 そういえば、自分が通っていた学校も、この近くであったはずだ。

 思考が、生地の肌触り、プリーツ、色合い等々、細部までを思い出す。
 ふと身体を見下ろしてみると、由利は自身がセーラー服をまとっていることに気付いた。
 足もあった。理由は分からなかったが、これは新鮮な驚きだった。幽霊とは便利なものだ。それで精神的に片付いた。
 名前も由利から百合へと変えてみた。響きも花も好きであったから。

 何を着ているかとか、何を着ようかとか考えたこともなかったし、そもそも衣服のセンスに乏しい自分を知っていた。
 あとは女性としての思考・仕草を知ってみたい。それがきっかけだった。
 というわけで、百合の次の楽しみは、六道女学院への散策となった。
 ついでに母校へも寄ってみよう。女生徒の比較を行うのも大事な検証作業かもしれない。

 うかつだったのは、六道には霊能力に長けた人材がそろっていることを失念していたことだった。
 幸いというか、百合にはもともと害意も敵意もなかったし、観光や散歩気分でうろついていただけである。
 かわいい子、綺麗な子を見ていられれば、幸せだったのだ。

 だが今日になって、事態は一変した。
 後輩に当たる子たちから、成仏を薦められるも、素直には納得しかねた。
 女の子たちをもっと見たかったし、想い人の事もあった。
 出会えたら良いな、という程度の考えでいたから、あわよくば唇をゲットできるかも、と燃え上がってしまったのは、気付かずに残っていた煩悩のなせる業であったかもしれない。
 もっとも、かつての恩師たちから現実の厳しさを知らされ、夢はあっさりと終わってしまったが。

 心の中でいろいろと想像していた夢が、後輩たちの手によって壊されていった。
 意識せずに済ませていた外見も、女の子たちから学び取った言葉遣いも、流行の仕草も、そしてなにより約束の樹も、だ。
 そりゃもうこなごなに。風の前の塵に同じ。

 あまりのことに憤激し、激情を呼び起こされたとき、自分の中のたががはじけ飛ぶのを感じた。
 横島のという名の後輩が、妙なアイテムを使い、自分と世界とを隔てる結界を生じさせた時は、わが身はほとんど怪物のようになってしまった。
 それがまた激高の種だった。乙女の理想を汚す、許しがたい行いだ。
 いくら悪意に身を任せた自分の本質がそんなんであろうとも、現実を突きつけるなんて、ちょっとひどすぎやしませんか。

 だから、タイガーという名の後輩も、八つ当たり半分以上で倒した。
 横島も同様に片付けてしまうつもりだった。自分をこんな姿にしてくれた意趣返しも含めて、誠意を込めて、叩きのめすつもりでいた。
 戦いには勝ったが、勝負には負けた気分がした。
 魂を、自分の根底の部分に、触れられたような気がしたからであった。



 【わ、わたし……おっぱい、揉まれてる?】



 そう。胸である。バストである。
 あのとき自分は、胸をときめかせた。
 『きゅんっ』と鳴った音を、確かに聞いたのだった。
 音も、手触りも、いくつ鼓動を打ったかも、鮮明に思い出せる。
 百合はようやく理解した。そして納得していた。

 女の子に、生まれたかった。生まれ変わりたかったのだ。
 子供じみている妄想と笑われるだろうが、生前から、そう願っていたのだ。
 気付かなかっただけで。なにも知らなかっただけで、月日を過ごしてきた。

 恋を、してみたかった。
 一生に一度の、ハートに火がつくような。
 幽霊になってから気が付く、というのも可笑しな話ではあったが。
 いや、正確にはちょっと違う。胸を揉まれたから、気付いたのかもしれない。ちょっとありえない過程だろうけど。

 あんな怪物みたいな自分にも挑んできた、挑んできてくれた彼は、普通じゃなかった。
 横島忠夫。3年ほど年下の、自分の後輩クン。
 横たわって目を回している姿は、先ほどまでの自分と同じような、変貌したものではない。
 そして百合もまた、見上げるような、鬼のような容姿ではないのだ。この事実は大いに有効である。



 ―――ちょっと、まつげは長い、かな?



 こうやって人の顔を覗き込み、じっくり観察できるのは、とても楽しく、うれしいことだ。
 特に彼、横島忠夫くんのは、なかなかに妙味である。
 いろんな思考を経て、百合はそっと微笑んだ。
 もう一度、指先を伸ばす。何度でも触れてみたかった。

 どどどど、と地響きを感じたのは、唇に触れようとした矢先のことだった。
 んもう、野暮な地震だなぁ、と思ったやら思わなかったやら、百合は眉根を寄せて、ぷぅとふくれた。
 音も振動も、次第にこちらへと近づいてくる。はて、と首をかしげた百合は、響きの方へと顔を向けかける。
 振動の原因は、百合の背後で急制動をかけていた。除霊委員会と3人の教師陣だった。


 「待ちなさい、毬谷さん! 校内での不純異性交遊はダメよ。せ、青春じゃないわっ!」

 『青春じゃない? 本気で、言ってる?』

 「うぐっ」


 愛子は、珍しくひるんだ。
 可愛らしすぎる顔で、小首をかしげて、穏やかな口調で、なんとするどいツッコミだろう。
 いや、そりゃ、私だって、ありかなしかで考えれば、ありと言えなくもないというか学生らしさを守って条件付きで認めるにやぶさかではないわけで。
 青春は、何処にでもある。だから、校舎の外にも中にもあると言えるわけだ。

 不純じゃないなら、おっけいなんでしょ? 愛子の心がひとつの答えを導き出す。
 いえ、ダメよ。いけない。青春はもっと慎ましやかなものよ、と理性がさらに異を唱える。
 机の上で頭を抱えながら、愛子は煩悶しだした。放っておくと、そのまま転がりだしそうだ。

 愛子の横で控えていたおキヌが、すぐに進み出た。
 がんばりますっ、言わんばかりに両手を握り締めている。
 ちょっと踏ん張り気味の姿勢が、可愛らしくも勇ましい。


 「ま、毬谷さんっ」

 『なに?』

 「ね、寝てる人、押し倒しちゃダメです!」


 空気が固まった。涼風が静かに彼らの間を通り過ぎていく。
 はて、今のはどういう意味で、どういうシチュエーションなんだろう。
 一同のスローになった思考回路が動き出したのは、きっかり10秒後であった。


 『起こしちゃダメ、じゃなくて?』

 「……はっ!?」


 上目遣いでおキヌを見やる百合は、からかう風情ではなく、単に言葉の使い方を確認しているようである。
 けっこう耳年増なところのあるおキヌは、すぐに顔を真っ赤にしていた。汗まで大量に吹き出ている。
 お年頃の元幽霊少女は、いろいろと知識も偏りがちであった。


 「ああああ、勘違いです言い間違いです! すいませんすいませんごめんなさい!」

 「おキヌちゃん……なんだか、横島に似てきてねぇ?」


 魔理のツッコミがとどめとなってしまった。
 おキヌはネコが丸まるように、草むらの上で蹲った。
 完全に脱落である。2人連続で自爆してしまった。

 これは手ごわい相手だ。
 男性陣のみならず、かおり、魔理も同様に感じていた。
 悪意とか害意がなく、単なる疑問を口にすることで、相手を沈めている。
 かわいい顔して、なかなかやるじゃねぇか。雪之丞や魔理あたりならそう思うことだろう。

 百合は、愛子とおキヌから横島へと、視線を移していた。
 くすくす、とおかしさを隠し切れない様子で、笑みをこぼしている。
 そのまま、ちらっ、と校舎を見上げた。
 2階の窓には、先ほどから、まっすぐにまなざしを注いでくる少女がいた。

 見られている気配は悟っていたが、むしろ横島の方にこそ彼女の意は注がれているように、百合は感じ取っていた。
 ちょっとそばかすが残っていて、三つ編みを両サイドにたらし、どこか赤毛のアンを連想させる。
 彼女の、花戸小鳩という名を知るよしもなかったが、その顔色には、心配と不安がありありと覗いている。
 そのこともまた、百合に笑みを浮かべさせる要因となっていた。



 ―――君は、愛されてるんだねぇ……。



 視線を横島に戻し、心の中だけで、百合はしみじみとつぶやいた。
 ちょっとくやしい気もしたが、それ以上にすごいな、と感心してしまう。
 生きている子にも、幽霊の子にも、好かれているのだ。

 いや、ひょっとしたら、自分の知らないところで、いろんな友達がいるのかもしれない。
 そして、いろんな女の子が彼を想っているのかもしれない。
 人間だけじゃなくて、幽霊、妖怪、怪物。まさか、天使や悪魔とか?
 そこまで考えて、もっとおかしくなった。お腹を抱えて、百合は笑った。

 自分は彼と出会って、本当に間もないし、下手すると命もかかっていた戦いを繰り広げた間柄である。
 でも、まぁ、いっか。それで百合は済ませた。もう特に気にすることではなかった。
 男であったころの、煮えたぎるような戦闘意欲が、きれいさっぱり掻き消えていた。

 うさぎやイヌ、ネコを『もふもふ』するように、百合は横島を突っつき続けた。
 『なでなで』もした。ひとしきり横島を撫で回しながら、遊んでいるようだ。
 百合のにこやかな微笑みは、邪魔立てを押し止めさせる、ほんのりとした優しさに満ちていた。

 ふと、百合が声を発した。
 教師陣への呼びかけだった。


 『あの音楽、流すように指示したの……先生たちですよね』


 戦いのときに流れた音楽を指しているらしい。
 百合は、どこか誇らしげであった。ちゃんとわかっていますよ、と言いたげな目線をしている。
 指摘を受けて、杉下教諭は微笑んで首肯していた。亀山教諭もバレたかと苦笑しつつ、髪に手をやっている。


 「やはり、わかってしまいましたか」

 「お前、いつも音楽を聴きながら、練習してたっけなぁ」


 心の奥底が、過去を映し出す。
 そのまま胸の奥が、きゅっ、と窄まった。
 不快ではなかった。苦しくもなく、ただ暖かかった。
 巡ってくる血潮のように、全身がその熱を受け止めていた。

 映画のサウンドトラックやポップス、ガールズ・ロックに、CMの曲、アニソン等々。
 ラジオをつけっぱなしで、練習に勤しんでいた日々に、百合は居た。
 音に耳を傾けることで、雑念を振り払う目的もあった。
 多彩というか、ほとんどごった煮のように、ジムで流れていたことを思い出す。

 今も、確かに聴こえている。百合は横島の手に自分の手を重ねながら思った。
 ラジオをつけなくても、世界は音で満ちている。
 風が吹けば、自分の髪が指揮棒のように、振られる。
 草木が歌って、セミが合唱し、時に鳥たちがアドリブを入れる。

 憧れ続けた――本当に憧れ続けた、長くてきれいな髪だ。
 そして、鏡で見た自分は、小笠原先生が見せてくれた自分は、本当に夢のようだった。
 死んでしまったけど、身体はないけど、もう良い。これで良いのだ。
 百合は初めて、自分が好きになれた。


 『……あれ?』


 ふと百合は、横島のポケットから何かがこぼれおちるのを目にした。
 瑠璃色に光る宝石のような物体は、文珠であった。
 夏の日差しを受けながらも、目に優しい輝きだ。
 霊力が満ちているようだが、触れられるだろうか。百合はおずおずと手を差し伸べてみた。

 ひとつの文字が、珠の表面に映し出されていた。『想』と読める。
 何かのアイテムだろうか。考えがまとまる前に指先が触れていた。

 突然、光が世界を包んだ。
 降り注ぐ日差しを一気に押しのける勢いは、まばゆさのあまり、目を開けていられない。
 小さな珠ひとつから発せられた光は、広場だけでなく、校舎も大きく包み込んでいく。
 文珠の発動であった。

 意識が持っていかれるような感覚も、自身の霊体が傷つけられる感覚もなかった。
 仮に除霊のための発動だとしても、それはそれで構わない、という気がする。
 次第に光が和らいでいくのを、薄目の中で感じ取りながら、百合は安らいでいた。
 だから、目を開いた瞬間の光景は、そのまま成仏しちゃうかも、と思うくらいに驚かされるものであった。

 百合は驚愕に目を見開いていたし、除霊委員会の面々はもちろん、教師陣も同様である。
 ついには校舎中の人間が、窓から顔を出し、声もないままに下の庭を覗きこんでいた。
 魔術や奇跡を目の当たりにした観客、というのが一番近かったかもしれない。
 愛子の声が、広場にこぼれた。


 「き、きれい……」


 殺風景だった校舎の庭が、みずみずしい草原と化していた。
 緑の中は花々に彩られ、一望しただけでも、ショウブ、フウロソウ、カワラナデシコ、ヒメユリ、オグルマ、キキョウ等々。
 夏の草原に見られるはずの草花が、集った妖精のように顔を覗かせていた。

 広場の中央に、一際力強く生い茂っているのは、サクラの木であった。
 切り倒されたはずのサクラが、ごつごつと節くれだった幹を聳え立たせ、確かな存在感を百合に突きつけてきていた。
 見上げれば、薄紫と白の花々が、葉と半々の割合で、青々と生い茂っている。
 春から夏にかけての植物が、出現したのだった。百合は声を出すのも忘れ、草木の全てを見続けていた。

 目を閉じてみる。
 風がなびくと、草木や花々の歌声が聞こえた。
 先ほどの珠が生み出した幻だとしても、漫画的だと笑われたとしても、微笑んで返せる。



 ―――これが……君の力、なんだ。



 相変わらず目を回し続けている横島を、百合はじっと見つめた。
 彼の指から手へと、そっと触れていく。
 と、百合は、視界の片隅で揺れる存在に、ようやく気付いた。

 小振りの花だった。
 赤と橙が程よく交じり合い、茎の緑とも調和した色合いである。
 下向きに頭を垂れており、花々の中でも特に優しげで、それでいて力強さを百合に感じさせた。


 「これは、ノヒメユリですね」


 植物の名は、杉下教諭が口にしていた。
 さりげなさのお手本のような、声のトーンとタイミングであった。


 『ノヒメ……ユリ?』

 「ええ。野に咲く姫百合と書いて、ノヒメユリです」


 ゆらゆら、と風に踊る花を、百合はじっと見つめた。
 しばらくして、百合は両手をゆっくり差し伸べていた。そのままやわらかく包み込むように、花を覆う。
 無言の会話でもあるかのように、百合はまなざしを注ぎ、花は揺れ続けた。


 「偶然、ですかね」

 「偶然かもしれませんが、それにしても実に洒落てますねぇ」


 彼女の邪魔にならぬように、声量は低くして、こっそりと会話を交わす。
 だが、杉下・亀山両教諭の声は、しみじみと嬉しげであった。
 かつての教え子が――幽霊ではあるけれど――確かに生きて、戻ってきている。
 あらたな気付きと、そしてようやくの安らぎとを、得ようとしているのだ、と。

 花を包んでいた百合の両手が、静かに降りた。
 そのままの姿勢で、彼女は静寂の中に居た。

 不意に、百合の肩が震えた。
 身体の中で、何かがゆっくりとせり上げてくるものを、抑えているかのようだ。
 頭が垂れると、全身が小刻みに震えだしていた。

 涙が、あふれていた。
 白磁のような、すべらかな頬を、幾本もしずくが零れ落ちていく。

 百合は泣き続けた。
 目元を何度も、何度も袖でぬぐっては、また涙をこぼす。
 止まらなくなったのか、流れるに任せるようになった。
 両手は膝元で、スカートを握り締めたまま、落ち着いた。

 後に、愛子は語った。
 泣き声さえも、きれいだった。
 生まれたばかりの赤ん坊のように、命の躍動をいっぱい声にしていた、と。
 死んでからようやく手に出来た、その喜びを声にしていたみたいだ、と。

 涙の中で、百合は重苦しかった心が、ようやく浮かび上がるのを感じていた。
 映画の中のような、夢みたいなひと時を、たった今、生きた。
 羽毛のような軽やかさを、心身の全てが受け取った。

 頬を濡らしたまま、百合はおキヌ、愛子、そして小鳩へと視線を向けた。
 ぽん、と拍手を打つような軽やかさで、両手を合わせる。
 口元が、ひとつの言葉を形作った。



 ―――ごめん、ね



 ちゃめっ気たっぷりの、でも憎めない可愛らしさが、3人へと向いた。
 あ、なんのつもりか、はっきりわかっちゃった。3人の意識は期せずしてシンクロした。
 途端におキヌはふくれ、愛子もぷいっ、とそっぽを向く。
 小鳩は『いーなぁ』とでも言いたげな視線を送った。


 (今回、だけですからね……ぶー)

 (ま、まぁ……これも青春、だもん、ね)

 (い、いいんです。小鳩は、横島さんと、結婚しましたから……うー……)


 ピートが、皆に何かを告げた。
 教師を加えた男性陣はひとつ頷くと、そのまま百合へと背を向けていた。
 これが礼儀かどうかは知らなかったが、雪之丞にタイガーも素直に従った。

 かおりに魔理も、どこか気恥ずかしいのか、さっさと背を向けていた。
 雪之丞の、腕組みしたままの姿勢と表情に、かおりはどこか照れを感じ取った気がした。
 横を見やれば、魔理も頬を薄く染め、頭髪をまさぐっている。早く済ましてくれよなー、と言わんばかりである。
 百合がやろうとしているのは、ひとつだけであることは、誰もがそれとなく理解していた。



 ―――何度見ても、どこかかわいらしい、かも。



 横島の顔を覗き込みながら、百合は、そっと微笑んだ。
 想いを言葉にするのは、もうおしまいだ。
 一度だけ、そして一度限りで、精一杯で、全部の気持ち。
 全てを告げようと、思った。



 【出会いはほとんど最悪だったし。
  思いやりとか、ないも同然だったし】



 拳ひとつ分の距離を、百合はさらに詰めた。
 横島の顔を覗き込みながら、さっきまでの戦いを思い出していた。

 バカみたいに熱くて、漫画チックに飛び回って、技を出し合って、決着が付いた。
 自分はたぶん怖すぎた外見だったのに、スケベな気持ちで挑戦してきて、胸を触られて、おしまい。
 でも、あれがきっかけで、こんな風に生まれ変われた。



 【えっちなのは、ダメだけど。
  でもでも、興味はすっごくあるけど】



 この少年は知っているだろうか。そっと顔を覗き込むと、百合は微笑んだ。
 今、この世でいちばん、彼のことを好きな幽霊が、ここにいることを。
 バカで、熱血で、あけすけで、泣き虫で。
 でも、きっと、すっごく女の子を、大切にしてくれる―――そんな人。



 【君のことが、好きになりました】



 顔を、もっと寄せた。
 一気に寄せたいけど、ぶつけたらイヤだし、ゆっくりなのも、待たせている風でイヤだ。



 【幽霊で、ごめんね。
  ホントの身体でなくって、ごめんね】



 風が和らいだ気がした。
 ふわふわ、と持ち上がる髪が、2人にまとわりつく。
 砂糖を煮詰めて冷やした『天使の頭髪』のように、陽光を浴びた亜麻色の髪は、百合と横島を覆った。

 キキョウが、ふるふると揺れた。早くなさいよ、とでも言うかのように。
 ノヒメユリが、ふい、とそっぽを向いた。染まった赤は、百合の頬でもあっただろうか。
 もう大丈夫という距離で、百合は目を閉じた。

 唇が重なった。
 最初で、最後の――特別なキス。
 女の子になって初めての、そして最後のお別れのための、くちびる。
 君に捧げられて、本当に良かった。



 【横島くん、大好きです】



 また涙がこぼれた。
 熱い血潮の通う身体であれば、と願わなかったわけではない。
 だが、もう十分だ。百合は涙の中で、心の底から理解し、納得していた。
 幽霊でありながら、生まれ変われた。悲しかっただけの涙を、微笑みに変えてくれた。

 たぶん横島は、女の子の涙を知っているのかもしれない。
 そして彼自身も、女の子のために泣いたことがあるのかもしれない。
 そんな気がした。単なる勘だけど、今の自分は女の子だから、女の勘は良く当たるのだ。

 戦いの最中とはいえ、おっぱいを揉まれただけの間柄だったけど、まぁ、いっか。
 その思いの根っこに、どんな考えがあろうとも、彼は行動してくれた。
 ならば、と百合は願う。煩悩でいっぱいな彼に託したかった。



 【いっぱい……いっぱい。女の子たちを、助けてあげてください】



 長い長い時間をかけて、百合は想いを唇に託していた。
 それは神聖さを帯びた、確かな儀式であった。

 静かに、唇が離れた。
 深くゆっくりと溜息をつくと、百合は姿勢を直した。
 染まった頬の薄桃色と、舞い散るサクラの色とが、見る者の世界を幻想的に彩った。

 空が青くて、雲が白くて、地面は緑と、数え切れないほど大勢の色で満たされて。
 そんな中に、自分という存在が、薄桃色の雰囲気をまといながら、漂っている。
 百合は声を上げて、笑った。

 彼女の笑い声が、終了の合図と気付いたのか、除霊委員たちはようやく振り向いていた。
 もっとも校舎の人間が幾人か覗いていたようなので、そのざわめきのせいもあったのだが。

 おキヌ、愛子、そして小鳩は、めっ、とでも言いたげな視線で、だが柔らかな微笑を浮かべている。
 いたずらっ子をからかうような視線と笑みは、魔理とかおりのものだ。
 雪之丞、タイガー、そしてピートは、お疲れ様とでも言いたげな、微苦笑で答えていた。
 百合もまた、にっこりと笑顔で、ピースサインを返した。

 初めてのはずなのに、だがとても懐かしい空気を、百合は感じた。
 居場所を見つけた――いや、君はここにいて良い。そう言われたような気分だ。
 やっと落ち着けるんだ、と思った。


 「……毬谷さん!?」


 驚きに満ちた呼びかけは、愛子だった。
 呼ばれた本人の方が、大きく目を見開いていた。

 視界のあちこちで、きらきら、と空気が輝いている。比喩表現ではなく、本当に見えていた。
 幾百万もの細かいダイヤの粒を織り込んだ薄絹のヴェールが、百合の周囲で翻っているようだ。
 夏の陽光を受けると、こんなにも真っ白さが映えるものなのか。
 百合は、感嘆の吐息を漏らしていた。


 「お迎えが、来たワケ」


 エミが、淡々とした口調で告げる。誰かが、はっ、と息を呑む音が聞こえた。
 ああ、そうか。百合は静かに納得していた。

 いよいよ、本当にお別れの時だ。
 不思議と悲しくも痛くもない。自分でもおかしく思うくらい、とても穏やかな気持ちである。
 手に入らないと思っていた喜びと安らぎが、これほど間近に在ったとは。
 もう、何も望むものはない。全てが満ち足りていた。


 「毬谷百合くん」


 さく、さく、と草を踏みしめる足音が、みずみずしく聞こえた。
 杉下教諭、亀山教諭、そして小笠原エミだった。
 草原に立つ男女のスーツにジャージ姿が、百合には妙に格好良く見えた。

 百合は一瞬呆けたように教師陣を見つめていたが、あっ、と気付いたように背筋を伸ばした。
 杉下教諭は自分を確かに呼んだ。聞き間違いでもなんでもなかった。
 『百合』の名前を、彼は口にした。初めてそう呼んでくれたのだ。


 「ご卒業おめでとうございます」

 「おめでとう、毬谷」


 きょとん、と百合が呆けたままでいるのを、両教諭は穏やかな笑顔で見つめた。
 かつての教え子が、不思議な導きと力によって、幽霊でありながら、生まれ変わったという現実。
 まったく世界とは、常人の予想のつかない繋がりと展開、そして演出を見せてくれるものだ。
 好奇心と義務から発生したこの霊障体験だが、生涯忘れまい。2人は期せずして思いを同じくしていた。

 声に込められた言霊の力――万感の想いと言うべきか――を、彼らの背後で聞いていたエミは、ひしひしと感じ取っていた。
 素人のはずなのに、とは思わなかった。


 「これをずっと、言いたかったのです」


 百合は呆けたように杉下を見つめていたが、次に亀山、そしてエミへと視線を移した。
 彼もまた、力強く頷いた。エミもまた同様だった。

 どうして、こう、大人というのは、子供の心を簡単に掴み取れるのだろう。
 心のひだに優しく触れたときの暖かさは、自分を赤ん坊のようにしてしまうのだろう。
 勢いが弱まったはずの涙が、また百合の頬を伝い始めていた。

 周囲を見渡せば、草原も少しずつ、変化が訪れてきていた。
 花々が一本一本と消えていく。枯れるのではなく、輪郭がおぼろげになり、そして消える。
 一礼しつつ袖へと下がる舞台俳優たちのようだ。

 ああ、そうだ。百合は不意に理解した。
 これが自分の、毬谷百合の卒業式なのだ。

 その証拠に、教師たちの言葉をもらえた。
 そして今はこうして、目の前で後輩たちが見送ってくれているではないか。
 並んで立つ除霊委員たち、憧れで見つめた六道の女子生徒たちを、涙の向こうに百合は見出していた。


 「あの世に気に入らねぇヤツがいたなら、いつでも呼べ。俺が相手してやる」

 「また迷ったら、唐巣神父の教会に来て下さいね。必ずお力になりますから」

 「いい勝負じゃったノ、先輩。次はワッシが勝ちますケン」

 「今度は、女性としての礼儀作法を一から教えてさしあげます。よろしくて?」

 「幽霊でもお洋服は着られますから。お買い物に行きましょう」

 「バイク、乗っけてやっから、さ。ツーリング行こうぜ」


 頷くだけが、とてももどかしい。
 声が出せなかった。

 百合は何度もしゃくりあげ、袖口で顔を拭った。
 たぶんひどい顔になってるに違いない。せっかく声をかけてくれたのに、ちゃんと返さなきゃ。
 心が何度もそう唱えるのに、身体が言うことを聞かなかった。

 どうしても言いたい。一言だけでもいいから、言いたい。
 めちゃくちゃに暴れまわる呼吸器と、水道みたいな涙と、強すぎるしゃっくりみたいな泣き声を、むりやり押さえつける。
 全身の、全霊の力をいっぱいに絞って、時間をかけて、身体をなだめた。

 ようやく百合は、言葉を押し出していた。
 幼子のような必死さだった。



 ―――お、おどもだぢに、なっで、ぐれまず、か?



 雪之丞は不敵に笑った。
 何をいまさら。正面切ってガチンコ勝負した間柄ではないか。


 「とっくにてめぇは、俺らのダチ公だ」


 これほど大上段に構えた友達宣言があるだろうか。
 一同は吹き出しそうな表情になった。百合も、笑った。
 華やいだ笑い方だった。

 ヴェールの輝きが、一段と増した。
 緩やかに、百合を覆い隠していく。少女たちは、歓喜の混じった視線を送った。
 天上天下の、あらゆる美しさを秘めた材料を使って、天界の職人が仕上げた純白のケープ、ウェディング・ドレスのようだ。
 どんな国の、どんな伝説のどんな王女にも、勝るとも劣るまい。
 誰もがそう感じた。それが当然だと、自負するように思った。


 「じゃあね、百合先輩」


 愛子の挨拶が、締めくくったように聞こえた。
 ヴェールが一層輝いたと思うと、渦を巻くように、光が回転しだした。
 夏の草花の香りを一杯に含んで、涼風が柔らかく吹き、回る手助けをする。
 草原の緑が、残った花々が、そしてサクラの木がそよいだ。
 祝福と、別れの挨拶であった。



 ―――ばいばい



 百合の姿が、光の中に溶け込むように、薄れていく。
 声と、笑顔と、振る両手での挨拶を残して。
 螺旋の軌跡を描きながら、光は空へと上っていった。

 誰もが身じろぎせず、最後まで見つめ続けた。滲む涙は仕方がないが、笑みだけは忘れるな。
 心の内を押さえつけながら、皆はただ沈黙をもって、閉幕を迎えた。
 主演女優の、堂々たる退場だった。

 校舎から、潮騒の音が広がるように、拍手が沸き起こった。
 とめどなく降りしきる豪雨となって、壁面に反射し、響き合う。
 奇跡の舞台への、賛辞と歓声であった。

 深く、深く溜息をつく声が聞こえた。
 やっと終わった。長いようで、短かった時間が、である。
 互いに視線を見交わしあう中で、言葉はなんだか不必要なように思えた。
 が、不意に、足元から響いたうめき声が、皆を注視させていた。


 「横島君、大丈夫?」


 愛子が声をかけていた。そういや、まだ気絶しっぱなしだったっけ。
 ようやく目を覚ました横島に、おキヌと愛子以外の一同は苦笑を向けた。
 全部が終わって気がつくとは、タイミングが良いやら悪いやら。
 しかも、本人のあずかり知らぬところで、当事者中の当事者となっていたのだから、巡り会わせとは不可思議なものだ。


 「あ、愛子? あいつは、成仏したのか?」


 やけに丁寧な仕草で、愛子は頷いていた。
 まったく彼ときたら、どうしてこういう人なのかな。しみじみと愛子は、内心だけでこぼした。
 埃にまみれて、臆病さを丸出しの表情で、なんとも情けない風体だ。


 「あのコ、大変なものを奪っていっちゃったワケ」

 「……え?」


 見下ろしてくるエミは、静かに微笑んでいる。妙に恐々しい雰囲気を醸し出していた。
 横島は明らかにひるんだ。愛子の方を見れば、机の上に足を組んでふんぞり返り、流し目で薄く笑っている。
 「あーあ、横島君やっちゃったわねー」というセリフが、思い切り合いそうだ。

 次におキヌを見れば、ふいっ、と顔を背けた。「知りませんもんっ」とでも言っているのか。
 雪之丞にタイガーはにやついているし、ピートは神妙そうな笑みを湛え、胸元で十字を切っている。
 かおりと魔理に至っては、ほとんど呆れ返った風情である。「どうして、こんな人が」とでも言いたげだ。


 「アンタの、くちびる」


 一瞬、何を言われたのか、理解できていないという風に、横島は呆けた。
 そして、ヴィジョンは一気に、横島の脳裏を駆け巡った。

 マッチョで、強面で、ごつすぎる悪霊が、頬を赤らめて、迫り来る。
 プレス機か漬物石のような迫力で、自分へとのしかかり、唇を奪う。
 そんな光景であった。


 「オオ、ジーザス」


 神よ、救い給へ。
 絶望に表情をひきつらせたまま、横島は再び気絶した。
 ごとっ、と頭の落ちる響きが、妙に簡潔で潔かった。

 男たちは哄笑し、女たちは苦笑をこぼした。
 まぁ、気絶していた方が悪いし、幸運とは本人も知らないうちに訪れているものだ。
 証言くらいなら、してやろう。皆は頷き合った。
 あの幽霊少女がどんな風に、影の主役たる彼を想ったか、と。

 杉下教諭と亀山教諭は、互いに握手を交し合っていた。
 2人から礼を言われているらしく、エミもどこか照れくさげで、だがほっとした表情でいる。
 ひとつの大きな舞台を終えたあとのような、高揚感と安堵感、そして深い感慨が漂っているように、皆は感じていた。

 草原も、花々も消え去り、そしてサクラの木も、元の切り株へと戻っている。
 だが、切り株からかすかに顔を覗かせる、小さくて淡い緑に、気付いた者はまだいない。

 校舎中からの拍手と歓声は、いつまでも鳴り止むことがなかった。





 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 木々のあちこちからは、セミが盛大に歌声を響かせている。
 入道雲が、高く高くそびえ立ち、真夏の輝きの中から見下ろしてくる。

 伊達雪之丞は、何気なく空を見上げた。
 鍛えられた腕っ節のような雲が、空の青さを支えているように思った。
 背後から聞こえてくるノイズ交じりの音楽は、ラジオならではの心地良いチープさを醸し出している。

 視線を戻すと、周囲はここ最近でなじみ始めた風景へと移った。
 パイプ椅子に、揺れるすだれ。風鈴の音色がなんとも穏やかに漂う。
 軒下に据え置かれた、大振りの冷凍庫には、山ほどのアイスキャンデー。
 『氷』と記されたのれんが、暑い中でひときわ清涼感を演出している。

 雪之丞は、手にしたアイスキャンデーを、また一口かじった。
 すっぱさと甘さの程よい混じり具合が、口の中を漂った。
 チョコとミントの味だそうだが、美味ければ何でも良いのだ。

 丘の上に構える駄菓子屋は、ちょっとした隠れ家的なスポットだった。
 地面と空の中間を見晴るかす形で、冷たいものが食べられるのだ。なかなかの好条件である。
 こういう場所でひと時を過ごすなど、何年ぶりのことだろう。
 自分らしくないと思っていたノスタルジーが、雪之丞には妙に心地良かった。

 次に視線を右側へと向けた。
 背もたれのない木製の長いすに、横一列で、かおり、魔理、タイガー、横島、おキヌという順で腰を下している。
 皆が思い思いにアイスを満喫していた。カップであったり、棒状であったり、と様々だが、甘いものは幸せを運ぶ。

 幸せなら笑顔になる。まず間違いない。
 この場での、とある一名を除いて、の話であったが。


 「ぐおう、おう、おう、おう」


 突然、泣き声がこぼれた。横島のものであった。
 すっかりかすれてしまった声が、それでも慟哭となって、喉の奥底からこぼれ続けている。
 よくよく見れば、両目が赤く腫れている。かなりの長時間を泣き続けたらしかった。


 「まだ泣いてんのか、横島。あんだけ言っただろう」


 横島の狂態に慣れきったのか、雪之丞の声は飄々としている。
 皆も気にした風でなく、そのままアイスの甘みに舌鼓を打っていた。

 毬谷百合の一件から、すでに4日が経っていた。
 意識を取り戻した横島は、一時、夢と現実の狭間を行き来し、ほとんど発狂寸前の様相を呈していた。

 とある顔馴染みの病院でカウンセリングを受け、事情を知った職場の女性上司からはなぜか殴られ、同僚の狼少女、狐少女から睨まれたのが1日目である。
 男子生徒の大半から意味不明な嫉妬にさらされ、教師陣から握手を求められ、女子生徒からの対応が和らいだ2日目に至っては、何事が生じたのかまったく理解できなかった。
 3日目にようやく理由を聞かされたのだが、悪霊だった男幽霊が胸を揉まれて美少女幽霊になった、という内容には、むしろ発言者の方の神経を疑ったものだ。

 そして今日、4日目を迎えていた。
 授業を無事に終え、待ち合わせていた六道女性陣と一服しようとなったのだが、横島の精神は相変わらず情緒不安定気味である。
 なにしろ当の本人が、毬谷百合の変貌を見ていないのである。証言の類はともかく、映像記録となるとまったく望み無しだった。
 そこらへんの事情は、横島とて理解できるはずだった――のだが。


 「見てないものは、ないに等しい。誰からも美女だったといわれてもな」

 「バカ言え、いい女だったぞ。10人中10人が太鼓判を押すぜ」

 「それはそうかもしれん」


 おや、と一同は思う。皆のアイスを食べる手が止まっていた。
 こと今回の一件に関して、横島は他者からの証言を信用してないのではなかったか。
 そう問われると、横島は静かに頭を振った。荘重さすら感じられる首の動きである。
 かっ、と目を見開いて、宣言するように語を放った。


 「だがなっ。この目で見ていない限り、絵に描いたもちを食った夢、としか思えんっ。そんな美人を、自分自身の目で見れなかったことが、心底くやしいんじゃー!」


 悲鳴交じりの泣き声をあげながら、横島は顔を覆った。
 納得と呆れの視線が、半々の比率で注がれた。
 いくら評判を聞かされようとも、他者の証言の信憑性以前に、自分で見れなかったからくやしかったのか。
 だから評判を耳にすればするほど、すごい美少女であったことが痛感され、歯噛みして泣いていたのか。

 溜息をつくおキヌの姿に同情の視線を注ぐと、皆はふたたびアイスを味わい始めた。
 おキヌから貸してもらったハンカチに顔をうずめる横島が、視界の端っこに入った。
 まぁ、時間が解決するだろう。雪之丞は達観していた。

 それにしても、と雪之丞は、道路の果てに目をやった。
 学校の手伝いでちょっと遅れる、と言ったピートとの待ち合わせの時間は、とっくに過ぎている。
 あの野郎、また何か頼まれ事、増やしたんじゃねぇだろうな。
 舌打ちをした瞬間に、その響きは耳朶へと伝わってきていた。

 ここはGTレースの会場だろうか。
 知らぬ者が錯覚するかと思われるような、スピードと爆音を響かせて、赤い車体が飛び込んできた。
 アスファルトも抉り取り、空気ですらも切り裂いて、そのバイクは登りの坂道を使い、華麗なる跳躍をかます。
 着地からのスライド、ハンドリング、制動、ブレーキング。どれをとっても生半な腕ではない。
 ヘルメットを着用していても、2人乗りの姿が誰であるのか、すぐに察し得た。


 「ハーイ、学生諸君。元気してる?」

 「危ねぇだろうが。ミッション・インポッシブルじゃねぇんだぞ!」


 親指だけで、ヘルメットのバイザーを華麗に撥ね上げた。小笠原エミであった。
 避難寸前の態勢をとっていたおキヌ、横島たちの呆れたような視線にも、雪之丞の怒鳴り声にも、平気の平左である。
 よほどの速度で飛ばしてきたのか、青息吐息でひっくり返りそうな学生は、言わずと知れたピートだった。
 何かうれしい事でもあったのか、エミはやけに嬉々としている。

 ドゥカティの新車らしく、ボディはトリコロールに塗られ、タンデム仕様になっている。
 何が目的でタンデムなのかは、この場の誰もがすぐに理解していた。
 なんだかんだ言って、この人も青春してるな。皆の共通した感慨であった。


 「なんだか嬉しそうですわね、エミさん」

 「あっはっはっはー、そうなワケ。これからピートとデートなのよん」

 「おい、ピート。お前、仕事はすんだのか?」

 「い、いや、エミさんに強引に引っ張られて……その……」


 ピートとデート。韻を踏んでいて、なかなか面白い響きだ。
 きりきり、と歯軋りする音が聞こえたが、発生源はたぶん今まで泣いていた男だろう。
 学校から直接来たらしく、で、そのままデートに突入というところか。
 教師と生徒の真夏のアバンチュールは、生徒が押し切られる形で継続中のようだった。


 「というわけで、ピートは貰ってくワケー」

 「エ、エミさんっ。お願いですから安全運転で……あーっ!!」


 返事を待たずに、エミはエンジンを盛大に吹き上げた。
 レバー、アクセル等々の動作が流れるように捌かれ、空母甲板上のジェット機さながらに急発進していく。
 地面に残ったタイヤの跡は真っ黒で、摩擦の煙がほわほわと立ち上った。
 エミの逸る心情を、思い切り言い表していた。


 「借りていく、って言わないところが、さすがですわね」

 「いってらっしゃーい」

 「あれがお持ち帰りってヤツか。すげー」

 「ほとんど拉致じゃねぇのか? ピートのヤツ、半泣きだったみてぇだが」

 「エミさんも、教員生活をすっかりエンジョイしとるノー」

 「チクショー。どいつもこいつも、おいしい思いしやがって」


 椅子に座りなおし、思い思いに言葉を押し出していた。
 アイスキャンデーの、棒だけになった様を名残惜しげに一瞥していた魔理は、横島の言に軽く眉根を寄せた。
 そのまま、やや強めの口調で、横島へと言葉を向けていた。


 「忘れてんじゃねーぞ。いちばんおいしい思いしてんの、お前なんだからな」


 あんな可憐な幽霊少女にキスしてもらっといて、何をふざけたこと言ってやがる。
 ガンをつけてくる魔理の瞳は、触れれば切れそうな鋭さに輝いていた。
 乙女の純情は尊ばれてしかるべきだ。わからねぇヤツぁぶちのめす。視線だけで、そう語っていた。


 「わ、わーってるよぅ」


 完全に及び腰である。声まで震えながら、横島は頷いた。
 しかし、しかしである。わかっちゃいるんだが、やっぱりこの目で見てみたかった。
 遠い目で空の向こうを見やりながら、横島は内心だけでこぼした。

 我が煩悩がそうささやくこともあるが、美女とは心のオアシスである。
 やはり直に目で見ることで、心の平穏というものは保たれるものではないだろうか。
 そしてあわよくば、一片の情あらば、熱い口付けを賜っても、罰は当たらんというものじゃなかろうか。

 自分の気付かぬうちに、とんでもない美少女がキスしてくれたというのだから、これは惜しい。
 例えれば魚釣りである。小魚をリリースするというのなら分かるが、大物をわざわざ逃がす阿呆がどこにいるというのか。
 またも目尻がうっすらと濡れるのを感じながら、横島は山並みの遥か彼方を見つめた。
 手持ちのチョコモナカを、また一口かじった。ああ、アイスが美味しい。


 「横島さん」


 ふと、おキヌの声が、横島の耳朶を打った。
 勢いとか抑揚がなく、なんだかぼんやりしている風に聞こえる。

 視線を右に向けると、おキヌは正面を向いたままでいた。
 というより、さっきまでの自分と同じく、山並みを遥かに見渡しているようだ。
 手にしたサイダー入りのビンも口をつけておらず、物思いにふけっている。
 自分の名は、たまたま口をついただけかもしれない。横島は視線を戻そうとした。


 「キス……してみたい、ん、ですか?」


 5人が5人とも、口の中の物を吐き出していた。見開かれた視線がきれいにそろって、おキヌを向いた。
 まだ、ぼんやりとした空気の中にいるようだ。どうも彼女自身の煩悩と対話していたらしい。

 向けられた視線を感じ取ったのか、ようやくおキヌは横島たちに気付いた。
 あれ、何でみんな私を見てるんだろう。時計の秒針は丁寧に時を刻んだ。
 揺るぎのないペースは、いつまでも待ちますよ刻みますよー、ってな余裕を感じさせた。

 ああ、そっか。私、考えてたことが口に出ちゃってたんだね。うっかりだなもう。
 えーと、何考えてたんだっけ。確か横島さんのことで、毬谷さんのことで、キスのことで、って……。
 理性が気付き、感情が反応し、先ほどまでの記憶が蘇える。
 おキヌの全身の機能がフル回転し、瞬時に、茹でダコのようになった。


 「おゆうはん、おかいもの、いてきます」


 ほとんど機械のような片言振りだった。
 即座に立ち上がり、一礼し、踵を返す。
 直線からカーブへと速度は落ちず、なかなかの早足だ。競歩選手としても有望だろう。
 暴走寸前に真っ赤な顔色のまま――たぶん頭部から湯気を出しつつ――おキヌの動作はやけに滑らかで、機敏であった。


 「バカ! ぼさっとすんな。追いかけろ、てめ!」


 呆然とする横島の頭を、魔理が引っぱたいた。彼女もまた頬が赤い。
 鞄をひったくるように掴み、がに股気味の駆け足で、横島は飛び出していった。
 途中で一回転び、すばやくバネ仕掛けのように立ち上がると、また駆けていく。ディズニーのアニメキャラのようなドタバタぶりだ。
 彼の姿が見えなくなると、ほとほとくたびれた気分で、雪之丞たちは溜息をついた。


 「おキヌちゃんを、正直、あなどってましたわ……」

 「横島って、やっぱスゲぇわ……」


 心臓がラッシュアワーに飛び込んだようだ。
 雪之丞はうなった。カンベンしてくれよ、まったく。
 空を見上げた。まだ日は高い。こりゃもう、じっくり時間をかけて、クールダウンするしかない。

 椅子から腰を上げ、雪之丞は店の奥へと声をかける。
 かおり、タイガー、魔理も上半身だけをこちらへと向けて、注文を口にしていた。


 「ばあちゃん、ラムネもう一本な」

 「わ、わたくしも」

 「ワッシ、焼きソバ」

 「あたし、大盛り」


 どうみても80は超えているであろう婆さんが、やけに軽い身のこなしで、品物をそろえていった。
 BGMにレイ・チャールズを流しながら、ステップまで踏んでいる。タイミングがばっちりで、なんというグルーヴだ。
 やかんの湯がループを描き、スリッパがハイハット代わりになっている。
 口ずさむフレーズは、どう聞いてもネイティヴの発音だ。

 4人は瞬きも忘れて、店の主である婆さんを見つめた。
 ペットらしいイヌとネコが2匹ずつ、尻尾でメトロノームを担当している。ノリノリである。
 全てのメニューがそろうまで4分とかからなかったのは、どんな手腕だったのか、まったくわからない。

 ラムネが2本と焼きソバ大盛りが2皿、なぜかCMで有名な滋養強壮剤のビンが付いていた。
 婆さんのサムズアップ・サインに力強い笑顔が、陽光の中で輝いた。歯まで光ってやがる。
 そんなもん注文してねぇ。雪之丞はこめかみを押さえた。
 彼女の背後にジェームズ・ブラウンが見えた気がした。


 「だぁぁぁっ、恥ずかし、すぎる……ッ!」


 なんだ、この空間は。
 魔理を見つめるタイガー、かおり、雪之丞もまた、思いを同じくしていた。
 『夏が自分を狂わせる』って、誰が言っていたっけか。

 アイツか、と雪之丞はすぐに思い出していた。
 つい先日成仏したばかりの、元は男で悪霊で、その後は美少女幽霊。
 『ドヤ顔』でピースサインを出してくる彼女が、空の向こうに見えた気がした。
 夏の空はどこまでも高い。ちょっと高すぎじゃないか、と思えるくらいに。

 ラジオから流れるポップスを聴きながら、雪之丞はとりあえずラムネに口をつけた。
 かおりも、彼の横顔をそっと伺うと、そのまま口元にビンを傾ける。
 タイガーと魔理は、ほとんとやけ食いの勢いで、麺をすすり始めた。

 はじける泡と香ばしいソースの中で、歌声は響いていく。
 声は彼らと彼女らの耳元を、まだまだ続きそうな夏の涼風にも似て、素早くさわやかに滑っていった。





 ―――【特別なキス、してみて。まだまだ君たちは、こんなもんじゃない……なう!】















                                おしまい
最終話です。ここまで読んでくださった方々に感謝いたします。
久しぶりに書いてみて、投稿する際にも、クリックする手が震えてしまいました。何度経験しても、慣れるものではありませんね(笑)

それでは、本当にありがとうございました。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]