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えす☆きす! −Especially Kiss−/第3話


 「なるほどねぇ。あきらめて成仏しちゃえば?」

 『やだ!』


 エミの進言を、百合はきっぱりと断っていた。
 かわいく聞こえるはずの拒否の言葉も、程好くドスが利いている。
 これまでの事情は、愛子から聞かされたが、この幽霊が説得に応ずるつもりは、まずなさそうだ。
 眉をしかめながら、エミはそう判断した。

 3年間も幽霊としてさまよった、その気持ちは分からないでもない。
 一方で、異性じゃなく同性への思慕、というのは、エミにとって不知のジャンルである。
 だが、まぁ、そういうこともあるだろう。世界は広い。


 「意固地になってますわね」

 「かわいそう……」

 「んなこと言ったって、肝心の相手がいないんじゃなぁ」


 かおり、おキヌ、魔理も、打つ手を探しあぐねていた。
 百合を一瞥したとたん、ごつい人だなーとは思っていたが、まさか本当に男だったとは。
 そんな御仁の恋愛感情に、どう対処したものか。さすがに予想外の事態である。

 気持ちを否定する気はまったくないが、実るかどうかの可能性が果てしなく低い。
 というか、ほぼゼロである。乙女心のきらびやかさに反して、外見が致命的にたくまし過ぎた。


 「えーと……と、とにかく残念でしたね、毬谷さん。柔道選手としてもすごかったのに」

 「せっかくトレーニングで頑張られたというのに、お気の毒なことですわ」

 「だなぁ。全国大会でも優勝できたんじゃねーの?」


 話題チェンジGJ、おキヌちゃん。
 内心の賛辞と共に、横島はサムズアップを向ける。おキヌはちょっとテレ気味の笑顔を浮かべると、軽くVサインを返した。

 おキヌの言うとおり、百合の体躯を見た限り、もったいないと言えばもったいない。
 雪之丞も評価していたが、素人目にも生半可な鍛え方ではあるまい、と思われるレベルである。


 『いえ、あのぉ……』

 「どうした、毬谷?」


 身体をもじもじさせ――横島評するところの「ゴーレムのフラダンス」――ながら、百合は声を発した。
 亀山教諭がいぶかしげに問いかけてから、ようやく答えは返ってきた。


 『それ、単にもっと、スリムに痩せたかっただけなんです』

 「はいぃ!?」

 「なんだと!?」


 杉下、亀山両教諭のリアクションがもっとも大きかった。


 『でも運動すればするほど、筋肉がついてきちゃって……』

 「いや、そりゃ当たり前だろ!?」


 いやおい、ちょっと待て。
 ようやく理解にたどり着こうとしたが、大いに違和感を感じ、横島は無言でひとりつっこんだ。

 つまり毬谷百合は、痩せたいがために運動していた。
 しかし何を間違えたか、鍛えに鍛える方向に進んでしまった、ということになる。
 また、無理なトレーニングが体力の低下に繋がったとすれば、それこそ死因なのではないか。

 そんな間違いなんてあるのだろうか。横島は唖然とした表情を隠さなかった。
 筋トレに詳しい方ではないが、それにしたって、あんまりな間違いではないだろうか。
 高速道路を全力で、嬉々として、必死こいて逆走しているようなものではないか。


 「シェイプアップとビルドアップの違いに、気付いていなかったとしか考えられませんね……」

 「勘違いが死因かよ、おい……」

 「なんつーか、3年目の真実っスね」


 空気のいずれもが、おーまいがっどと唱えていた。
 百合は、おやと思った。幽霊だが場の雰囲気くらい、ちゃんと読める。
 自分の告白が招いたことだ。ここは明るく和やかなものにせねばなるまい。

 こういうときのためにこそ、近隣の女子高で、トップクラスの人気と可愛らしさを誇る六道女学院に足を伸ばし、何週間もの間、女生徒たちを観察したのだ。
 自分の存在を悟られず、目をつけた生徒のちょっとした仕草を見取り、覚え、研究し、我が物としたのである。
 今こそ、その成果を発揮せねば。

 Vサインは横にして、目元へ。
 小首をかしげて、舌を軽く覗かせる。
 キュートで、チャーミング。そしてタイミングが肝心だ。
 そして、百合は敢行した。


 『てへ☆ぺろ♪』


 諸行無常の鐘の音が、確かに聞こえた。

 一同の沈黙は重かった。
 お愛想でも微笑み返す余裕が、まったく無かった。

 むしろ殺意を覚えた。
 溜息がこぼれた。憐憫の情がわいた。
 生命力と精神力の大部分を、削られていた。

 百合の笑みは、もはや一種の挑発行為か武器であった。










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                        えす☆きす! −Especially Kiss−

                             【第3話】

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 「先輩、たのんます。黙って成仏してくれ。こりゃもう無理っスよ」

 『ここまできて諦められるか……もんですか! 意地でもかなえたる……かなえて見せます!』


 精神的にリミットが近づいてきているのか、百合は、地の顔が覗くようになってきている。
 雪之丞が呆れたように語り掛けた。


 「おい、よく考えてみろ。相手側もアンタも、そろった条件が悪すぎるじゃねぇか。相手は結婚、アンタは幽霊だし」

 『それでも出来るものは出来ます! 『約束の樹』だってちゃんとあるんだから』

 「『約束の樹』? なにそれ?」


 妙なワードを耳にした、と困惑気味の愛子の問いには、やけに自信満々な表情が返答をよこした。
 これが俗に言う『ドヤ顔』か、と納得したのは杉下教諭である。


 『うっふっふ、この校舎に生える伝説の樹です。その樹の下で告白すれば、恋心は実るのですっ!』


 どこのゲームから持ってきた設定だろうか。横島は反論する気もなかった。
 百合の口から告白だの恋心だのと聞かされても、正直反応に困るというものだ。
 格闘ゲームの暑苦しいキャラが、乙女チックな恋愛ゲームに参加するような違和感である。


 「うちの学校にそんなモンあったか?」

 「ぜんぜん知らない。っていうか、そもそも伝説なんてあったの?」


 横島と愛子、両人共に怪しさを覚えた。
 仮にこの学校に存在するとしても、愛子までが知らないとあれば、ずいぶんとマイナーな部類に属する話ではなかろうか。

 しかし、ジンクスや言霊という確かな実例もある。
 何度も何度も願掛け、そして行動することによって、有機物はもちろん無機物に霊力が宿るというものだ。
 微弱であっても、霊力を持った樹が存在するなら、何らかの影響はあるだろう。

 2人そろって百合に目を向ける。
 やはり『ドヤ顔』のままだ。


 『私たちの代から始めようと思って、作りました』

 「思いっきり捏造やないかい!」

 『何にだって始まりはあるもん!』


 気持ちは分からんでも――否、やはりわからん。横島はあっさり切って捨てた。
 乙女心の欲するままに行動した、と考えるべきか。
 その執念を慮っても、なかなかに痛々しい話である。


 「まぁ、色恋にしろ何にしろ、とにかく目印にしようとしたんだろ。その樹の下で果し合いでもしたのか?」

 『てめ、ふざけ………あ、あなたさま、おふざけにならないで!』


 雪之丞にこれ以上しゃべらせてはいけない。
 ピートとタイガーに視線だけで悟らせながら、横島は自覚なしの精神的放火魔を思った。
 百合も敬語がおかしくなってきている。少女マンガをテキストにでもしているのだろうか。


 「で、その樹ってどこにあるの? 私の知る限り、そんな伝説は聞いたことないのよね」

 『第1校舎と第2校舎の間に生えてるサクラの樹です。樹齢……何十年だったかわすれちゃいましたけど』


 ほぼ真後ろを見やりつつ、愛子は横島と頷き合った。
 すぐそこにある角を曲がれば、第1・第2校舎間の吹き抜けが見通せる。

 気楽さと面倒くささを半々で、歩調から滲ませながら、横島が目的地に向かう。
 角へと差し掛かった途端、きょとん、と目を丸めたのは、雰囲気からも明らかであった。


 「おーい。そんな樹、どこにもないぞ」

 『あっはは、そんなわけ……』


 何を馬鹿なことを、と表情に出しながら、百合も足を向けた。
 スキップしているらしいが、誰の目から見ても「岩の転がるような」という例えがふさわしく思えた。


 『ない!?』


 ダンボールを一気に裂いたような悲鳴があがった。


 「毬谷くん、残念ですが……あの樹はおととし頃でしたか。業者が切り倒してしまいました」

 『あんだってぇぇ!?』


 百合の両眼は、限界まで見開かれていた。
 もはや言葉を飾る気も失念してしまったらしい。


 「シロアリに喰われてたからなぁ。中身がとっくにボロボロだったんで、職員会議で切り倒すことに決まったんだよ」


 亀山教諭の声は、結婚を教えたときよりも、さらに優しく聞こえた。
 百合が亡くなった後すぐに、自分たちが入学する前に、サクラの樹はなくなっていたのか。
 現実の厳しさがまるで呪いのようだ。ピートだけが天を仰いだ。


 「まー、なんつう無残な」

 「まさに夢のあとだな」

 「主よ、この方の想いを導きたまえ」

 「しみじみと報われんお人ジャノー」


 ここまでくると、百合の在り様をどうこう言う気もなくなってくる。
 六道の女子生徒たちも同様らしかった。


 「虫に食われて、切られて終わるって……ちょっと切なすぎじゃね?」

 「運も管理も悪かった、と諦めるしかなさそうですわね。幸い、想い出もいっぱいになる前だったようですし」

 「あ、あの、毬谷さん。元気出してくださいね?」


 どうやって慰める材料を見つけたものかと、六道ガールズの歯切れも良くなかった。
 百合は地面に突っ伏すと、さめざめと泣いた。


 『ひどいっ。ひどいひどいひどいわ! 乙女たちの愛と青春が宿るはずだった樹を切り倒すだなんて。この世には神も仏もいないの!?』

 「妙神山ってとこに居るこたぁ居るけど、色恋沙汰とはたぶん全く関係ねーんじゃねーかな」


 人界から隔絶した場所に在っても、大いにゆるふわライフを謳歌しているであろう神々を思って、横島は頭を掻いた。
 住人たちが、武神に調査官に魔族である。そろいもそろって色恋沙汰に通じているとは思われない。

 最近、届いた手紙によれば、初音ミクのダンスゲームで盛り上がっているとのことである。
 個人的には、小竜姫やワルキューレがミクのコスプレしてくれんかなー、などと願っているが、そこは内緒だ。


 「シロアリが相手では仕方ありませんからねぇ」

 「愛も自然も厳しい、ということだな。耐えるんだぞ、毬谷。これも人生だ」


 杉下教諭と亀山教諭は、丁寧に正論を唱えた。
 生徒への思いやりも忘れずに、ほぼ異論の余地の無い答えである。

 愛子とおキヌはそっと目元をぬぐった。
 幽霊になっても人生の辛酸を味わうことになろうとは、なんと不憫な。


 「そんなに気にするこっちゃねぇだろ。薪や腐葉土にしたほうが遥かにエコだろ、エコ」


 雪之丞の長所は、その果断即決と行動力にある。
 が、配慮の無さが、この際は致命的であった。

 エミを筆頭とする一同は、スイッチがオンに入るのを察知した――ように思った。
 その予測は、外れていなかった。


 『エコもタコもあるか! ふざけんな!』


 火山の目覚めのような声であった。
 地面までもが揺れたように感じられた。
 百合の周囲が次第に揺らぎ始める。放熱現象による空気の歪みであった。

 暖められた空気が、爆風のように広がった。
 湯に浸したタオルさながらに、熱さが肌を圧す。
 想っていた人物の結婚を知ったとき以上の勢いであった。

 だが今度は、周囲を熱するだけではすまなかった。
 霊能力の感知にいまだ未熟な横島でさえも、肌を粟立たせ、感じ取っていた。

 膨大な霊力の凝集である。
 夏の明るさを押しのけるように、怨念が滲む霊力が、百合の周囲で黒い渦を巻いた。
 風が生まれた。生暖かく、粘つくような重さで校庭に広がりつつある。
 砂塵が巻き上がり、セミや鳥たちが逃げるように飛び去った。

 部活動に勤しんでいた生徒たちも、何事かとこちらを振り向き、悲鳴交じりの声を上げ始めていた。
 幾人かは百合のほうを指差して、恐れをあらわにしている。
 常人にも見えるほどに霊力が濃くなり、百合の姿が実体化しつつあるということか。
 最初の懸念が現実のものとなってしまったことを、百合に相対する誰もが理解していた。


 「あーもう、言わんこっちゃないワケ! 悪霊化しちゃったじゃないの!」

 「こういうのを待ってたんだよ! 高校生なら血と汗のガチンコだ。しゃらくせぇ知恵比べなんぞ性に合わん。血が騒いで来やがったぜ!」

 「不良漫画ちゃうわ、どアホ!」


 エミの呆れも横島のツッコミも気にならぬようで、雪之丞は喜びと興奮に血色を良くしている。
 横島、教師陣、雪之丞と、三連続で畳み掛けられた、正論かつ現実主義的な解答は、無情に過ぎたようだった。
 百合の表情はいまや鬼面と化し、その体躯は霊力を吸収し、倍以上に膨れ上がっていた。

 ピート、タイガーは愛子を下がらせると、集中し、霊波を全身にまとい始めた。戦闘態勢への移行である。
 横島、雪之丞もすばやく身構えた。霊波刀、魔装術はいつでも出せるように精神を研ぎ澄ます。
 かおり、おキヌ、魔理の3人も彼らのバックで、事あらばサポートせんと身構えている。
 杉下教諭と亀山教諭は、他の生徒たちの避難を急ぎ、誘導していた。

 百合は仁王立ちのまま、こちらを睨み付けていた。
 灼熱の溶鉱炉がそのまま人型へと転じたような、熱気と霊圧である。
 学校の敷地内はすべて、エミの手による結界が張られているので、百合が逃亡を図ったとしても、脱出できる可能性は低い。


 「おう、いい面構えじゃねぇか。それでこそ男だ。こっちも戦い甲斐があるってもんだぜ。存分に相手してやる」

 「いちいち挑発すんな、お前ってヤツはよー!」

 「主よ、未熟な僕をどうかお許し下さい……。そして僕に力をお貸し下さい!」

 「体力勝負ならワッシが相手ジャ。イチャイチャできんで気の毒とは思うが、このまま成仏してつかぁサイ!」

 「みんな、気をつけてねっ。毬谷さん、好きな人と青春させてあげられなくてごめんなさいっ!」


 百合は歯をきしらせた。揃いも揃って、好き勝手に言ってくれる。
 無粋な闖入者たちは、自分の目的の達成を、その根底から崩してくれた。
 秘密の花園が場末の鉄火場へと転じたような、空気と雰囲気の豹変振りである。


 「まずいですね。せめて他の生徒たちに、霊力の暴走が及ばないようにしないと……」


 辺りに視線を走らせながら、ピートが懸念を口にした。
 悪霊が放つ強力な霊波は、常人の精神や健康状態に、悪影響を及ぼす場合がある。
 学校の敷地を囲むように張られた結界と、もうひとつ、百合と生徒たちを隔てる境界が必要になりそうだった。


 「おい、横島。文珠でなんとかならねぇか?」

 「あっさり言ってんな。どんな文字入れりゃいーんだよ……」


 ポケットをまさぐると、3個分の珠の感触が、掌の中で転がった。
 霊力を込め、いつでも発動できる体制を整える。

 想像力、想像力と口の中で繰り返し、その一文字を丁寧に考える。
 『想』うだけでなんとかなるなら、苦労はせんわい、と内心つい愚痴をこぼしてしまう。
 汗にまみれながらも、横島は脳内の少ないボキャブラリーをひっくり返し始めた。
 急がないと、アイディアを思いつく前に、脳味噌が茹で上がってしまいそうだ。

 それにしても熱気がひどい。横島は全裸になりたかった。
 今すぐにでもプールに跳び込めれば、心身ともに癒されるだろう。
 こんなヤバイ空間からは一秒でも早く、遠く隔たったところに……。

 そこまで考えた横島は、感覚的に文字を珠へと込めていた。
 隔てる、の『隔』の字が入った。いつでも起動できますとばかりに、珠の中で文字が光りだす。
 横島はほくそ笑んだ。我ながらよい知恵の回り具合だ。

 込めた文字と共にイメージを抱きながら、横島は輝く文珠を、前方へと放り投げた。
 ピートの言葉を思い出す。ヤツと世界を隔てろ、と。

 そして校庭は激しい輝きに包まれた。
 あまりのまばゆさに、一同は両目を覆い隠す。百合ですら身をよじらせ、目を背けた。
 凝縮された霊力のなんという強さと明るさか。

 輝きが収まるまで、数秒を数えなかった。
 即座にピートは周囲へと目をやり、霊的感覚を研ぎ澄ませた。


 「…………え!?」


 思わず声に出して、ピートは慌てた。
 皮膚感覚でも分かるほどに、霊力が先ほどよりも濃密になっている。
 百合から発せられる分だけではなかった。
 自分の周囲からも、強力な霊波が放出されているではないか。

 隙を見せぬよう、横目だけで見やった。
 先ほどの位置から考えて、横島であろう人物が視界に入った。
 そして次の瞬間、ピートは全力で首を、横島の方へと向けた。
 信じられないものを見たといわんばかりの、勢いであった。


 「よ、よ、よ……」

 「あん? どうした、ピー……うおおおおお!?」


 互いが互いを見て驚く。その典型的な例であった。
 それもかなりの衝撃らしく、2人ともリンボーダンスさながらに仰け反っている。
 タイガー、雪之丞もようやく事態に気付いたらしく、こちらを見て目を丸くしていた。

 4人が4人とも、『濃い描写』に描き込まれた姿となっていた。
 そう、格闘漫画や不良漫画に出てきそうな、いかつ過ぎる姿にである。


 「ぬぁんっっじゃ、こりゃぁあ!?」

 「世界観まで隔てやがったのかよ、おい!?」

 「あ、悪霊の影響ですか!? それとも君のせいか、雪之丞!?」

 「ワ、ワッシの身体がぁぁ! マッチョになってしもうたぁぁ!」


 考えられるとすれば、戦闘モードに移行しつつあった世界観に在って、横島自身の――及び腰ながらも戦いに挑もうとする精神――心構えが、文珠に作用したのではないか。
 さらには横島の感情として、百合への鬱憤が積み重なっていたことも、理由のひとつかもしれない。
 意識的にせよ、無意識的にせよ、文珠へのイメージがここまで明確に作用したのは、横島自身の成長といって良いかもしれなかった。
 もっとも、誰も喜べるような現象ではなかったが。

 その意味では、百合も被害者の一人と言えた。
 もしや百合も変化を、と考え、視線を向けた一同が見出したのは、生ける仁王像であった。
 文珠を使う前とは、迫力が段違いである。宗教に疎い人間も伏し拝みたくなるだろう。
 乙女の要素など1ミクロンも残さず消滅しつくし、完全なる武人が誕生していた。


 『お、お前ら……ここまで来て、いやがらせかぁぁっ!!』


 百合は吼えた。
 雷にも似た一喝であった。
 両目からは止め処なく、涙が滂沱とほとばしっている。

 嗚呼、いとかなし。
 世は押しなべて無情と諦観の只中にこそ在りける。
 いずれもが白百合の如く、たおやかで儚げな乙女の矜持を損ねた。

 さらば、乙女の日々よ。
 さらば、青春の日々よ。

 わたくし、毬谷百合。
 今こそ、今こそ復讐の鬼と化し、無知蒙昧の輩を屠りて、屍山血河を築き上げんがため、修羅道に入る。
 若く明るい歌声よ、さようなら。夢のスクールガールズライフよ、さようなら。
 初恋にリア充にデートに一線越えにと、そりゃもういろいろメルトしてみたかった。


 『ぬぅぉおおおお! こうなったら破れかぶれじゃ。裏切られた純情可憐な乙女の怒り、骨身の髄までトコトン思い知らせたるわい!』

 「いい度胸だ、コラァ! ステゴロ上等、ガチで勝負と行こうじゃねぇか。かかってこいや、この野郎!」

 『女じゃあ、わしゃあー!』


 百合の悲鳴交じりの怒声が、真昼の校庭に轟いた。
 本宮ひろ志や原哲夫、宮下あきらの作品を髣髴とさせる光景である。


 「エミさん、結界維持をお願いします!」

 「お任せっ!」


 百合は悪霊になってしまったが、それならそれで対処の仕様もある。
 世界観の隔たりはあるが、そこはそれ。ピートのお願いなのである。
 むしろ彼にお願いされて、なかなかハッピー。
 エミにとって否やはなかった。





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 愛子はうめいた。
 青春は、大好きだ。若く明るい歌声が好きだし、山並みに向かって叫ぶのも好きだ。
 春先に芽吹く緑のように、萌えいずる恋心が大の好物である。
 夏場のたぎる暑さの中心でコイバナ全開。美味しそうなシチュエーションである。字面だけなら。

 現実は甘くなかった。外見はチョコレートかもしれないが、中身は超弩級激辛タバスコ入りだった。
 幽霊である自称乙女が青春を切実に乞うていたが、ついに悪霊と化してしまった。
 4人の同級生たちは、格闘漫画のキャラと成り果てて、武闘展開一直線である。
 部活動の青春に光り輝いていた校庭は、戦場さながらに変じてしまった。


 「あっ、愛子くん! 何が起きてるんだ!?」


 クラスメートのメガネ君だった。
 ときどき本名を忘れるが、愛子は特に気にしていなかった。友人とはそういう面もある。

 あなたも避難するところなのか、と問うところだったが、声は出なかった。
 彼は、視界に入ったものに、すぐさま心惹かれていたからだった。


 「おおっ、あの制服は六道女学院の! なぜこんなところに。いかんいかん、ここは率先して、僕が避難誘導を行わなくては! それでは愛子くんグッバイ!」

 「あ、ちょっと、あぶな……っ!」


 かおり、おキヌ、魔理の元へと駆け出したメガネ君は、明らかに進むべき道を誤っていた。 
 霊力が激しく渦を巻く、その真横を通り抜けようとしていた。

 そして百合も、戦いの場への不埒なる闖入者を許さなかった。
 武道を修めた者としての精神であったかもしれない。


 『くぁぁっ!!』


 裂帛の気合が、呼吸とともに吐き出される。
 突き出された掌底は、膨大な霊気をまとい、砲弾のようにメガネへと迫った。
 一瞬の出来事であった。

 『どぐしゃ』と書けよう響きの後には、宙を舞うメガネの姿があった。
 ロケット打ち上げをスローモーションで回せば、このように見えるのかもしれない。
 上昇しつつ、ゆらりゆらり、とその身体が回転している。
 最後は、見事なる墜落であった。


 「めっ、メガネぇーっ!?」

 「よくも僕たちのクラスメートを!」

 「この、どぐされがぁー!!」


 横島たちは怒りに震えた。輪郭がぶれまくっている。
 普段、戦闘向きではない姿だけに、炎や砂塵が膨れ上がる演出は、まったく別世界の存在に見えた。
 愛子はもちろん、六道女性陣も同様の感想を抱いていた。


 「か、かおりさんっ。『どぐされ』ってなんですかっ?」

 「わかるわけありませんでしょ!?」


 魔理は黙っていた。汗が額をつたう。
 意味がはっきり分かっていたからである。


 「それにしても文珠とはすごいものですわね……見て御覧なさい。殿方たちがあんなに濃くなってしまわれて」

 「結界越しだから、そう見えるだけかもしれませんけど……ちょ、ちょっと怖いかも、です」

 「だーいじょうぶだって。中身まで変わっちまったわけじゃないだろ? これはこれでおもしれぇって、な」

 「の、のんきね。一文字さん」


 ペースが乱れない子たちだ。愛子も思わず苦笑してしまった。

 ふと愛子は、校舎の中がざわめいているのに気付いた。
 窓から数人分の顔が引っ込み、慌てて駆け出す足音が、隣の教室の中へと消えていく。
 戦場のような雰囲気に当てられて、というより、妙にノリが良い印象である。

 時間にして、1分程度であったか。
 突然、校舎がメロディーに揺れた。
 あちこちに設置されたスピーカーから、音楽が鳴り響いてくる。
 勇壮なマーチである。

 黛敏郎の「スポーツ行進曲」であった。
 後楽園での野球中継や、往年の名プロレスラー、ジャイアント馬場の入場テーマにも使用された曲である。


 「おい、幽霊」

 『……あ?』


 雪之丞の呼びかけに、百合は剣呑な視線を向けた。
 顎をしゃくり、雪之丞が指し示した方向を、百合は見やった。

 真っ白いキャンバスに包まれた、リングであった。
 そう。格闘家の聖地である。

 にやり、とどちらからともなく、口元をゆがめた。
 歓喜であり、喜悦である。
 アレを見て、この音楽を聴いて、血が騒がないヤツは居まい。

 うぬもか。おうともよ。
 貴様もか。あたぼうよ。
 互いが期せずして、同時にうなずいた。

 理解しあっているのだ。納得しあっているのだ。
 あの場所でこそ、血の滾りが思う存分発揮されようことを。

 百合は駆け出した。
 リングサイドから一気に跳躍し、トップロープを超える。
 見下ろしてくる表情は、まさに不敵の一文字であった。

 同じく駆け出そうとした雪之丞であったが、左肩を何者かに押さえられた。
 タイガーである。邪魔立てするつもりではなさそうだった。
 表情は、百合と同じく、不敵に微笑んでいる。
 雪之丞はすぐに察していた。

 こいつは、虎だ。
 人の皮を被った虎が、吼えているのだ。
 戦わせろと。俺の出番だと。

 タイガーの頷きに、雪之丞は笑みだけで返した。
 仕方ねぇな。この渇きと疼きに耐えられる男はいねぇ。
 行け、ハポン(日本)のルチャ・ドールよ。

 雪之丞のサムズアップに、タイガーは彼の背を叩くことで返した。
 そのまま視線をリング上に向ける。
 礼儀には礼儀を。拳には拳を。蹴りには蹴りを。そして、愛には愛を。
 タイガーは、ついに吼えた。


 「ワッシが相手ジャぁぁぁ!!」

 『うおおお、来いぃぃっ!!』


 両人とも、なにやら妙に嬉々としていた。
 柔道一直線に生きてきた毬谷百合。
 南米にて、幼いころからルチャ・リブレを見てきたタイガー・寅吉。

 熱い格闘の血は、2人に息衝いていた。
 そうとも。男として、強さは求めるものだ。
 リングが、俺たちを呼んだのだ。ならば、ただ応じるのみ。

 高らかに「スポーツ行進曲」が鳴り響く中を、タイガーは走った。
 百合と同じく、リングサイドから駆け上がり、トップロープをダイビングして越える。
 アイツにあんな軽やかな動き出来たっけ? と疑問を持つものは居なかった。
 今のタイガーは、ルチャ・ドールなのだから。


 「うおおお、やっちまえ、タイガー! ちくしょう、コーラとポップコーン忘れた!」

 「何を興奮しているんですの、魔理さん!」

 「あ、あははは……性格も、ちゃんと変わっちゃってるみたいですね」


 どこから持ってきたのか、3脚のパイプ椅子を並べ、六道女性陣はリングサイドに陣取っていた。
 リングを挟んだ反対側では、机にマイクまでが用意されている。
 どこかに黒子が隠れているのでは、と勘ぐりたくなるような用意周到さだ。
 ちゃっかり座席を占めている横島たちも、状況の変化を鷹揚に受け止めているようだった。


 「全国3000万のプロレスファンの皆様、こんにちは。長らくお待たせいたしました。本日も腹の底からキナ臭くなる好カードをお楽しみ頂きましょう。実況は私、GSテレビアナウンサー、哀愁のエスペランザこと横島忠夫。解説はこのお二方、鉄火場専門格闘一代、伊達雪之丞氏。薔薇の貴公子・ザ・ナルシス、ピエトロ・ド・ブラドー氏にお越し頂いております」

 「なんだ、鉄火場専門ってのは?」

 「横島さんっ!? あらぬレッテルはやめてくださいっ」

 「なお、本日の試合のレフェリーは、小笠原エミ。ラウンドガールも勤めます」

 「誰がやるワケっ!」


 ぶーぶー、と指をくわえてブーイングを放つ横島とタイガーである。
 銃弾でもかましてやろうかと思ったが、エミは無視する方向で決めた。


 「試合開始!」


 エミが高らかに宣言する。ゴングが鳴った。
 BGMはいつの間にか、次の曲へと変わっていた。
 バイオリンと金管楽器の、切々たる響きがオープニングを飾る。
 この真っ白い、マットの上こそがジャングルだ、と。

 タイガーの脳内に、声が響いた。
 南米の奥地。ジャングルからの雄叫びが轟く。



 ――― 虎だ、虎だ! お前は虎になるのだ!



 タイガーの血が沸き立った。
 心臓が、早鐘のように鼓動を打ち出す。
 全身に行き渡る血流が、叫ぶ。
 お前の身体を支えてやる。敵を討て、敵を屠れ、敵を倒せ、と。

 そうすれば、お前はなれるのだ。
 セクハラではなく、泥酔でもなく、ネコでもなく、真の虎へと。
 曲のビートが、胸底の鼓動と重なり合う。
 デンデケデケデケ、デンデケデケデケ。

 顔の筋肉がうごめくのが、すぐに分かった。
 間違いない、変身の始まりだ。

 長時間にわたり霊能力を使用することで、精神が野生へと強制変更されてしまう。
 だが。だが今回は違う。タイガーは内心で笑った。
 見ていてつかぁサイ。今こそワッシは戦士になってみせます。

 仁王立ちのタイガー、その顔面は虎のものへと変じていた。
 金色の体毛、黒と金の縞模様。ネコ科特有のしなやかさが、体毛越しにも伝わってくる。


 「おおっ、タイガーが虎になった!」

 「最初っから虎じゃねぇのか?」

 「気にすんな。それより歌うぞ、横島」

 「おう。ピート、とりあえず肩組め」


 この歌を聴いたからには、歌わねばなるまい。
 戦意高揚のためにも。
 そして――久しぶりに活躍の場を得られたであろう――タイガーのためにも。

 横島、雪之丞が肩を組み合った。
 ピートも横に並ぶが、歌わされはしなかった。音痴はわかりきっていることであったから。
 心の底で、ピートはそっと涙をぬぐった。

 男たちは歌う。
 心を込めて、懐かしさを込めて、歌う。
 「行け! タイガーマスク」と。


 「どりゃああ!」

 「しぇぁああ!」


 タイガー、百合がリング中央で組み合った。
 ファンダメンタル・ポジションと呼ばれる組み合い方で、オーソドックスなスタートである。
 がっちりとしたフォームで、互いの力量を確かめ合った瞬間、タイガーが先手をとった。
 即座に右腕を百合の股下へとくぐらせると、一気に身体ごと引き上げる。

 このオレを、持ち上げるか。
 そうとも、お前を持ち上げたぞ。
 さぁ、落とせ。
 おう、落とす。

 そのままリング上へと、雪崩れるように叩き付けた。
 キャンバスが揺れる。受け止めるように、弾くように。
 どおん、と腹の奥底にまで、音が突き抜ける。
 ボディ・スラムだ。

 もろ肌脱ぎのタイガーの上半身が、光っている。
 爽やかさに映える、血色の赤である。
 眼光が空気を切る。両腕を鳥のように広げ、構える姿とその肢体が、ロダンの彫像のようだ。

 肉体の隅々まで走り抜ける力の流れは、常日頃のぼんやりしたタイガーの雰囲気を跡形もなく消し去っていた。
 これぞ戦士、これぞルチャ・ドールだ。


 「や……」

 「や?」


 おキヌは、魔理を見やった。
 なんか顔色が赤い。目元まで潤んでいる。
 よく見れば、胸元で手まで組んでいた。


 「ヤバい……ヤバいよ!」

 「え、どうかしたんですか!?」


 魔理にしか分からぬ、何か危険な兆候を感じ取ったのだろうか。
 おキヌは座席から半分腰を浮かせた。事と次第によっては、横島に報告せねばなるまい。
 待っていた内容は、おキヌの予想の外だった。


 「あ、あんなタイガー、初めて見た。どうしよう……めっちゃあたしの好みなんだけど!」

 「ええええ!?」

 「あ、暑苦しいのがお好きでしたのね」


 魔理さん、やけに乙女チック。
 おキヌはそっと自分の頬に手を当てた。


 『彼女か!?』


 タイガーへと声援を送る魔理の姿に、百合は興味をひかれたようだった。
 一見して、不釣合いのカップルのようだが、そこは当人同志にしか分からぬ相性、というものなのかもしれない。


 「も、も、もちろん。魔理さんはステキなお人ジャ!」


 タイガーの表情が赤く染まり、だらしなく揺れた。
 ああ、なんと素直で、あからさまで、隠すのが下手な男であることか。
 毬谷百合は微笑ましく思い、そして決意した。
 ヤキを入れてやる、と。


 『こんのリア充がぁぁぁぁああッッ!!』

 「逆ギレかいっ!?」


 カップルカップルカップル。嗚呼、カップル。
 なんて魅惑的にして甘美な響きなのだろうか。百合は心の片隅でしみじみと思った。
 だからこそ許せない。自分には決して手に入らないものを持っているこいつらが。

 百合は右手を硬く握り締めた。
 霊力を集中させているらしく、赤黒い霊気の流れが、拳にまとわり着くように回転している。
 収束した霊気は、メリケンサックの形をとった。

 てらてらと光る重油のような笑みを浮かべると、百合は一気に踊りかかった。
 左腕でタイガーの頭を抱え込み、右手で殴りつける。
 何度も何度も拳を打ちつけ、ときどき眉毛を、髪の毛を、そしてヒゲを抜く。
 八つ当たりとファイターとしての攻撃の、絶妙なるバランスがそこにあった。


 「王道のラフ・プレイか。霊力の隠し武器たぁ、えげつねぇ真似をしくさりやがる!」

 「毛を抜いている!? ネコ科の動物に対してなんという非道なことを!」

 「きたねーぞ、てめぇ! それでも自称乙女か。アブドーラ・ザ・ブッチャーか、おどれは!」


 動物愛護の精神と、友人への卑劣な攻撃に対し、猛烈な抗議である。
 だが百合は鼻で笑って、あしらった。懐かしい悪役レスラーの名前にもまったく動じない。
 悪役(ヒール)で上等、卑怯で結構てなもんである。百合はやさぐれていた。
 求めていた愛と、望んでいた理想郷、心のうちに抱いていた、清純なる乙女の花園を踏み荒らされた報いは大きい。

 タイガーの額から、血流が『ぴゅー』と噴き出したのを見て取ると、そのままコーナーへと放りやる。
 血が舞い、床にしみを残す。懐かしい光景だ。百合はひとりほくそ笑んだ。
 かつて柔道部員だったころは、己が寝技から脱出しようとした部員に対し、鼻血の洗礼を浴びせかけたことを思い出していた。

 好んで鼻血をこぼしたわけではなかった。
 ただ戦いへの興奮と、汗にまみれながら男性の肢体にしがみ付いていることに、心からの快感を覚えた結果、噴出しただけのことである。
 他の部員たちや教師陣は、自分が柔道に熱心なあまり、血の気が多いのだろうと勝手に推測していたものだ。
 そのせいで、付いた異名が『柔血鬼』だったのは、かなり業腹ものであったが。


 「ぐはぁっ!」

 「立て! 立つんだ、タイガーッ!」

 「まだ立ってますよ、横島さん?」

 「言ってみたかっただけ」


 コーナーに叩きつけられたタイガーは、額を押さえつつ、倒れそうなその身を、なんとか持ちこたえさせている。
 わずかでも時間を稼ぎ、体力の回復を図ろうとしているようだ。

 百合は大きく深呼吸をした。
 バキュームカーのような轟音が口元から響き、周囲の空気を飲み干していく。

 両腕を大きく広げ、回し、呼吸に合わせて、動かした。
 そのまま、手のひらを軽く曲げ、熊の手のようにかたどった両手を合わせ、ゆるやかに胸元へと持って行く。
 緩やかに駆動する重機のような圧迫感が生まれた。

 セコンドが、危ない、と声を上げる間もなかった。
 くわっ、と両眼を見開いた百合は、口もまた吽形の仁王像のように、大きく開いていた。


 『燃え燃えっ、キュゥゥゥンッッ!!』


 次に見た光景は、突然の火山噴火としか、例えられなかった。
 業火が一直線に、百合の口から飛び出したのだった。
 灼熱の固まりは、まっすぐにタイガーを直撃した。


 「ぎゃあああああ!」


 おお、あれぞ火達磨。
 誰かの心の内の無情なる部分が、冷静にささやいた。

 タイガーは転がった。防御を構えるどころの話ではない。
 ほとんど怪獣映画並みの迫力と勢い、そして攻撃能力である。
 熱気がリングの外まで押し寄せていた。


 「反則だぁぁぁ!」

 「野郎、タイガーを焼豚(チャーシュー)にしやがって!」


 即座に場外へと飛び去り、結界を張ったエミはさすがであったが、横島の叫びどおり、タイガーは見事にこんがり焼けていた。
 くすぶりながらリング中央に転がるさまは、まるでサイズが太目の焼きイカである。
 ぐるぐると目を回しながら、『あうう〜』とうなされているところを見ると、命に別状はないようだった。

 ピートが急いでタイガーをリング下へと運び、救護を行った。
 エミは百合を指導しているようだが、両手を広げてノーノーと繰り返す百合に、反省の色はなかった。


 「てめ、あたしのタイガーになんてコトしやがんだ、コラァァ!!」

 「ま、魔理さんっ、ストップストップ!」

 「火を噴く幽霊でしたのね」


 顔中に血管を張り巡らせて、魔理は激怒した。
 せっかく友人以上彼氏未満である存在の、なかなか格好良いところを見られたのに、あっという間に邪魔されてしまったのだ。
 天罰に値する冒涜行為である。牙のように歯を鳴らしながら、魔理は鼻息を荒げた。
 彼女を背後から抱きとめ、懸命に押し止めるおキヌも、そのまま引きずられてしまいそうな勢いである。


 「ばかな……あれは中国武術でいう『神胸萌炎殺(しんきょうほうえんさつ)』!」

 「知っているのか、雪之丞!?」


 どこかで聞いたフレーズとやり取りのような気もしたが、横島はそのまま続けることにした。





 ―――【神胸萌炎殺(しんきょうほうえんさつ)】


 人体を構成する脂肪、特に胸部に蓄えられた脂肪を燃焼し、口腔より炎を噴出する術である。
 徒手空拳の近接戦闘では絶大な威力を発揮する拳であり、中国拳法史上最も稀有な拳の一派として、伝承は何世紀にも亘ってきた。
 特筆されるべきは、女性にのみ、その奥義が伝えられてきたという点にあり、伝統を固守してきた、いわば秘拳中の秘拳である。

 その起源は紀元前5世紀の中国に始まるとされる。
 呉王闔閭(こうりょ)は軍師である孫子に命じ、180名の美女を兵として鍛錬させた。
 中でも、武術・体術ともに男子を凌ぐとして特別に選抜された女性兵士は、深山の奥に設けられた寺院にて厳しい修行を行った。

 「獲草菜豆(えくささいず)」と呼ばれる鍛錬は、今世紀に至っても、過酷な鍛錬の代名詞として伝えられている。
 文字通り、深山幽谷にのみ生い茂る野生の薬草、山菜、豆類を集めさせることで、徹底的に肉体の鍛錬を行う。
 さらに入手した食材を調理し、その料理を食することにより、体質の改造を行うのである。

 また日々の鍛錬の前後には「大越湯(たいえつとう)」と呼ばれる、秘伝の薬湯を与えられる。
 幾百もの薬剤、漢方薬の原料等々、そして幾千もの調合法によって生成された薬湯は、炎に耐えうる体質を作り上げるとされた。

 炎の原料は胸の脂肪であり、吐きすぎると貧乳となる。
 貧乳となった女性兵士は「英雄」として、国から深い尊敬を持って遇せられた。

 余談ではあるが、「獲草菜豆」はエクササイズの語源となり、さらに「大越湯」もダイエットの語源となったことが近年の研究で確認されている。
 まことに、軍事による歴史的・技術的発展とは、庶民の生活に多大なる影響を及ぼすこと顕著である、と言えよう。


 ―――明民書房刊 『中華武技説余話 〜女侠編・第三章 燃焼!良女〜』より。





 「なんと!? 信じられん。あの見目麗しいバストを戦いの道具にしやがるとは! 恐るべし、中国拳法。そして許せん。まったく許せん」

 「あの毬谷とかいう幽霊の使った技がそうだとすれば、の話だがな」

 「あいつの胸であれば、惜しくもなんともない」


 しかし、と横島は首をひねった。疑問がひとつ浮かんだのである。
 脂肪が炎の原料だというのなら、幽霊である百合が炎を吐けるというのは、いったいどういう理屈なのだろうか。
 問いを投げかけてみると、雪之丞も同じようにうなずいていた。彼もそこに疑問を感じていたらしい。


 『フフフフ、簡単なことよ』 

 「なに!?」


 思いがけず投げかけられた声の主に、2人ともが身構えた。百合の声であった。
 不敵に過ぎるまなざしが、リングから2人を見下ろしてくる。


 『それはな……気合だ!』

 「なんだと!?」

 『可憐なる乙女の願いに叶わぬものなし! 我が覇道……もとい恋愛道をさえぎる者が在らば、天をも滅ぼしてくれようぞ!』

 「畜生……なんて根性と胸をしてやがる。巨乳や貧乳がどうとか言うレベルじゃねぇ。反則だぜ!」


 拳を天に突き上げつつ、百合は豪語した。
 それはもはや八つ当たりなのでは、という疑問を差し挟むのも、なんだか妙に野暮に思えてくる。
 エミは呆れて見やるだけである。

 霊力の炎であるとはいえ、燃えるというイメージを相手に強く負わせられれば、霊的攻撃のダメージが倍増しとなる。
 あの技の利点はそんなところだろうか。
 どう対処したものかと、雪之丞はさっそく戦法を組み立て始める。が、その案が成立する時間はなかった。 
 タイガーに続く選手が、彼を押し止めたのだった。


 「フッフフ……。ここはこのオレ、横島忠夫に任せてもらおうか」


 常にないニヒルさを押し出しながら、横島は名乗りを上げた。
 長ランでも着せて、陰影の描き込みを多くすれば、セリフももっと深みを帯びたであろう。

 横島の態度は雪之丞にとって、正直意外なものであった。
 ハッタリや虚勢ではなさそうだった。


 『ほほう……次は貴様か。確か横島とか言ったな。よかろう。存分に相手をしてくれる!』


 挑戦者の出現に、百合は喜びを隠さなかった。
 戦えることにではない。痛めつけられることにである。
 見れば、六道の女子生徒のうち、おキヌとか言う少女が、横島に対してまなざしをしっかと注いでいる。
 言葉も「はわはわはわ」としか聴き取れないが、表情の青ざめ具合から見て、相当心配しているようだ。

 つまり、あの少女は横島を憎からず、いや、むしろ好意を持っているらしい。
 ならば、横島もタイガーと同じく、リア充か、あるいはリア充に手が届こうとしている人物の可能性が高い。
 彼奴は処刑あるのみ。百合は断定した。

 リング上から睨み付けてくる百合のまなざしは、底なしに黒く光り、揺れている。
 単なるリア充憎しの精神だけではなさそうだった。
 口を開いただけで、大量の空気が吸い込まれているようだ。


 『来い、横島! うぬの無力さ、我が胸による神技を、骨身の髄まで思い知らせてやるわっ!』


 吼える。
 獅子吼のごとく、吼える。

 自分の乳房を揉み、支えながら、百合は豪語した。
 ボウリングの玉をふた回りほど大きくしたようなボリュームである。
 強烈な違和感は横に置いといて、とにかく見事な見下しの態度だ。

 横島は、ふっ、と微笑みで返した。
 敵を、戦いを前にして、この余裕とは信じられない。
 彼の素顔を知る者は、誰もが怪訝に思った。


 「その一揉みが胸となり、その一揉みが胸となる! 迷わず揉めよ、揉めばわかるさ!」


 百合に指先を突きつけると、横島は言い放った。
 意味は良く分からないが、とにかくすごい自信があることは理解できる。
 セクハラ発言を格好良く言っただけかもしれなかったが。


 「揉まんでもわかるわ! あれは野郎だ!」

 「言うな、雪之丞! 現実から目を背けんと、この奥義は効かんのじゃ、チクショー!」


 地が顔を出している。やはり怖いものは怖いらしい。


 「横島さん、あれは幻影です! 惑わされてはいけません!」

 「やかぁしー! おどれは超絶美形さまでいらっしゃるから、さぞいろんなタイプの乳を見てきたんだろーよ!」

 「む、胸に貴賎はありませんよ! その人の個性です才能です遺伝子ですっ!」


 ふと横を見やると、エミが胸を張っていた。
 見事なまでの『ドヤ顔』である。
 ほれほれ、ピート、見て見てー。いくらでも見せたげるわよー。
 あんまん肉まんなんか目じゃないワケー、と言わんばかりの誇示振りである。

 ピートは思い切り赤面した。
 目をそらす仕草が、思春期に入ったばかりの少年のようだ。
 それがまた可愛らしいのか、エミが子供のように笑う。

 今度こそ横島は、深甚たる殺意に身を焦がした。視界が赤く染まる。
 すでに焼け焦げているタイガーもまた、血の涙を流した。
 美形死すべし。リア充死すべし。薔薇に包まれ、棘に刺されて寝てやがれ。


 「それでもオレは揉む! 否、揉まねばならぬ!」

 「何故です、横島さん!?」

 「そこに! 胸が! あるからだ!!」


 おお、神よ。
 ピートは祈りを唱えた。そして聴いた。
 天使たちの賛美歌を。あまねく世界を覆う使徒たちの合唱を。
 『主よ、人の望みの喜びよ』を。

 世に苦難は多かれど、この御仁はただひたすらに、女性の美しき胸を追いかけているのです。
 世に冒険家といい、探検家といい、挑戦者と呼ぶ。
 見えぬからこそ見えるようになりたい。求められぬからこそ求めたい。
 それが横島の横島たるゆえんであり、原動力なのかもしれなかった。


 「さらばだ、ピート。オレの骨は、海にでも放ってやってくれ……」

 「横島さん!」


 文珠の効果で4人ともシリアスな外見となっている。
 なのに、言葉と行動がいつもどおりであるから、違和感があることおびただしい。
 だから魔理はあっさりと断じた。


 「バカじゃね?」


 正気の沙汰とは思えなかった。
 何しろ相手は男である。百人中百人に問うても、決して女性とは言うまい。
 確かに胸はあるが、どうみてもはち切れんばかりのオーバースペック・マッチョマンであり、ヴィレッジ・ピープルをBGMに腰をツイスト、というのが良く似合う巨躯である。

 それでも横島は歩を緩めなかった。
 視線は獲物を求めるように鋭く、リングの上へと注がれている。
 腕組みで仁王立ち、睥睨して待ち受けるは、毬谷百合。
 その表情は、やはり喜悦に歪んでいる。

 来るか、愚かなる挑戦者よ。
 行くとも、傲慢なる王者よ。

 我が胸を、御さんがため。
 汝が胸を、征さんがため。

 詩人よ、歴史家よ、汝らの業績に誉れあれ!
 この戦を世に知らしめよ。この戦をこそ聖戦と讃え給えかし!
 我ら、戦士たる誠意と、静謐なる戦意とを持って、此処に宣言する。
 我らが戦、かくの如く命名したり。

 聖乳戦争――『バスト・オブ・バースト(Bust of Burst)』と!


 「やっぱり、男の人って、お、お、おっぱい大きいほうが、いいんでしょーか…………うふ、うふ、うふふふふ」

 「ちょ、ちょ、まてまて、おキヌちゃん。泣いちゃダメだ泣いちゃ」

 「横島さんは、あとでひっぱたいて差し上げたほうがよろしいようですわね」


 アホも突き抜けると、反論する余地を失わせるということだろうか。
 ふにふに、と泣きじゃくるおキヌをなだめながら、魔理、かおりは呆れの度を深くした。


 「はーい、そろそろ続きいくワケ。ちゃっちゃと始めなさいな」

 『フフフフ。ここを、うぬの墓場としてくれるわ!』

 「フッ……笑止!」


 本当にあの横島だろうか。見事な度胸の据わりようである。
 おキヌは我知らず、横島の後姿を注視していた。
 もしもーし、と彼女に声をかける魔理、かおりの声にも気付かぬままに。


 『我を侮辱するかっ!? おのれっ』


 百合の熱しやすく激しやすい気性に、さっさと火がついていた。
 リング上の霊気が唸りを上げて、百合の身体を覆っていく。
 彼の身長を大きく凌駕し、膨れ上がっていくそれは、次第に動物の形をとっていく。

 赤く黒く、淀んだ霊気の猛獣が、牙を剥く。
 どう見ても、パンダであった。


 「なんと! オーラの具現化による獣だと!?」


 愛らしいのに愛らしくない。パンダ愛好家も抗議し、子供も大泣きするだろう。
 百合が右手を振るった。
 パンダがせり上がった波のように、上から横島へと覆いかぶさってくる。

 頭部からまるかじりにする気だろうか。
 ピートは立ち上がり、雪之丞が駆け出そうとし、おキヌの悲鳴が上がった。


 「ほぉあちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!!」


 横島は、パンダを真正面から迎え撃っていた。
 目にも留まらぬとは、このことであった。
 両手で窓を磨くように勢いよく、だがしなやかで柔らかな動きが、高速で霊力を霧散させていく。

 お茶の熱さに悶絶しているようにも聞こえる。
 が、本人は真剣そのものだった。

 パンダが一声吼えた。
 霊気で構成された身体を散らされて、消滅していった。
 苦悶ではなく、断末魔でもなかった。

 『ばうー』と聞こえた。
 喉を鳴らし、喜んでいる。そうとしか思えなかった。
 そう、あれは犬や猫を撫でて、気持ち良くなったときの唸り声に似ていた。
 パンダの攻撃が届く間もなく、というより攻撃らしい攻撃もないままであった。


 「煩悩神拳・有情愛撫百烈拳!」

 『ぼ、煩悩神拳!? 太古より伝わるという、伝説の暗殺拳かっ!』

 「いかにも! 我が拳、振るうは常に愛のため」

 『愛だと!? ならば何ゆえに、我が愛の成就の邪魔をする!?』

 「お前は既に死んでいる!」


 互いの信ずる愛が、ぶつかり合っていた。


 「愛ねぇ……? どうも横島が言うと、うさんくせーな」

 「確かに相手は幽霊ですから、既に死んでますわね」


 お目当てのレスラーが戦列を離れたため、魔理は気が抜けていた。
 鼻までほじるありさまで、熱意に欠けることおびただしい。


 「まー、でも、ほら」

 「ああ、そうですわね」

 「横島さーんっ! がんばってぇーっ!」


 リングにかぶりつくように、おキヌは応援を続けている。魔理とかおりは、苦笑を交わした。
 除霊作業とはいえ、めったに見られない演出と舞台である。
 気は抜けないが、見知った男たちがちょっと格好良くなって、そんな彼らの戦いを見ているのは、なかなかに胸がときめく。


 「横島、危ねぇ!」


 雪之丞が叫んだ。
 百合が腰を落とし、前かがみの姿勢をとる。そのまま横島へと突っ込んできたのだ。

 弾き飛ばすも良し。つかみ、ひねり、組み落とすも良し。背負い投げに持って行くも良い。
 柔道の技と重量級の体躯を生かし、絡め取ってから力押しの技に攻撃方法を変えたらしい。
 タイガーよりも軽量の横島が、百合のパワーをもろに喰らえば、瀕死のダメージは免れ得まい。

 正面衝突する気か、と思われた瞬間。
 瞬きの間に、横島は百合の頭上へと舞っていた。百合の身長を軽く倍する高さだ。
 全身のバネをフルに生かしての跳躍だった。常人の身体能力ではありえない。

 雪之丞は感嘆に舌を打った。
 あの野郎、太陽を背にしていやがる。そこまで計算して跳躍したのか。
 横島が向かってくると思われるあたりに、百合が拳を打ち込んでいく。
 すでに、見切られていた。


 「ちょいな〜っ! 天翔愛撫百烈拳!!」


 打ち出された拳が幾百もの線となり、百合に降り注いだ。
 霊気が弾となって放出されているのか、空気が圧縮されているのか、拳の届かない距離であっても攻撃が飛んでいく。
 マシンガンのように連なった衝撃が、百合の身体へと打ち込まれていった。

 百合の肉体、もとい霊体にさほどのダメージは見受けられない。
 だが服の方は、霊的衝撃に耐えられなかったか、見るも無残な姿をさらしていた。
 あちこちが引きちぎられ、薄明るい光を放っている。霊的ダメージの証である。


 『ぬううっ、我が水兵服を破るとは!?』

 「煩悩神拳の奥義は、相手に触れずして、その衣服を剥がす事にあり!」


 コーナーポストに立ち、百合を見下ろす形で、横島は言い放った。
 視線も言葉にも、まったく躊躇や怯みがない。


 「すげぇけど、めちゃめちゃサイテーなこと言ってんぞ、アイツ」

 「よ、横島さんのバカっ……!」

 「でも相手の方、男性ですわよ?」

 「あああああっ!?」


 おキヌは混乱した。
 魔理のツッコミと、かおりの指摘は、至極真っ当な点を突いている。

 拳を固めながら、百合は横島をにらみつけた。
 並々ならぬ身のこなし、こいつは侮れぬ。

 パンダを消し去った、腕の動き。
 己がセーラー服を、それも胸部やスカートにダメージを集中させている。
 その証に見よ、もともとミニであったスカートに、千切れた形とはいえ、スリットが生まれているではないか。

 こいつは、間違いない。百合は確信した。
 横島忠夫とは、ハッタリや姑息な技で攻めてくるばかりではない。
 勇敢さと意思とを裏打ちしているであろう、類まれなる煩悩の持ち主である、ということを。
 一見、格好良いと思われる中にも、無類のスケベ心を持ち合わせている。

 そう気付いたとき、百合は我知らず慄然としていた。
 なんということだ。ヤツは、横島は、タイガーなる人物との戦いを見ても、あえて挑戦してきた。
 隙を見せれば、胸やスカートどころか、下着にタイツに、果ては唇にまで。
 いやもうそれこそ禁断の果実は食いまくられ踏み荒らされいけいけどんどん。



 ―――狙われている。狙われているのだっ。わが……わが、貞操がッッ!



 百合は赤面した。
 だが、誰も気付かなかった。
 戦いの最中で、すでに表情どころか全身が、興奮にわなないていたからだった。
 そもそも百合の放つ霊波も、赤黒い。表情の些細な変化など、皆が気付くはずもない。

 だから突然、百合の身体から、霊気が強力に放出され始めたことは、さらなる戦闘意欲の増加にしか思えなかった。
 横島憎し、横島滅すべし。その一念の表れである、と。

 堤防を打ち砕く濁流のように、霊波があふれ出ていく。
 胸元で、その太い腕を交差し、念を集中しているようにも、あるいはガードのようにも見える。

 横島が一歩を踏み出す。
 押し寄せる霊波が、また強まる。
 一歩進むたびに、強まる霊波。その繰り返しである。
 横島は、微笑んでいた。百合の表情に、かすかな困惑が浮かんだ。


 「なんてヤツだ。あのオーラの渦の中を平気で歩いていきやがる……!」

 「よ、横島さん。そこまで胸への愛を……!?」

 「な、なんというバストへの執念ッ!」


 雪之丞、ピートとも霊圧に耐えながら、横島の後姿を追う。
 タイガーもかろうじて上半身のみを起こし、リングでの戦いを見つめていた。
 押し寄せる流れを優しく受け流し、熱したナイフでバターを切り裂くように、横島は進んでいく。


 『むうっ、我がオーラにも臆さず、これほどの威を!?』

 「我が拳の真髄は軽挙妄動・猪突猛進! レッツでゴーゴー・マニアック!!」


 威張れる表現ではない。
 しかし、百合には絶対に聞き逃せない一言を、横島は放っていた。
 マニアック、と。



 ―――マ、マニアック、とな!? ど、ど、ど、どんなプレイがッッ!!



 放出される霊波が、より強まった。
 乙女心には刺激が強すぎる一言である。
 武道しか知らぬゆえの、ある意味無知であった。


 「とった!」

 『ぬっ!?』


 うかつであった。百合は我が目が信じられなかった。
 これほどまでの距離に、我が身に接近を許すとは。
 考え事が過ぎて――いや、まさか、横島の策に嵌ってしまったのでは。
 マニアックという刺激的な言葉に踊らされて、乙女心をくすぐられてしまったのでは。

 百合の胸元に、横島の手が添えられている。
 正視できない。いや、でも正視してみたい。どきどき。
 オオ、ママミヤ、ママミヤ。ママミヤレミゴー。
 なんだかそんな歌が聞こえてくる。

 コンマ1秒、2秒。そんな単位で数えられる気がする。
 胸に当てられた両手が、動き出すまで。
 まさに目にもとまらぬ早業。



 【きゅんっ】



 青い、青い果実を、きゅっと絞ってグラスに注いだような。
 鼓動というには、可愛らしい音色。
 自分の胸元から、聞こえた気がした。


 「奥義! 瑞技流行掌(みずぎで・ふぁっしょん・しょう)!!」

 『えくすたしぃぃぃーっ!!』


 リングの中央から膨らみ、世界は青白く輝いた。
 赤黒くて、ねっとりとした霊気が、吹き払われていく。
 身体の隅々まで、新鮮な冷水が流れ込んでいく気が、百合にはしていた。

 風が結界の中を吹き荒れた。
 まぶしさに目を覆っていた雪之丞たちは、気配を読みつつ、目を開いていく。
 視界を得たとき、真っ先に意識したのは空の青であった。
 あれほど満ち満ちていた敵の霊気が、全て払拭されている。

 第一声は、タイガーであった。
 肺に溜め込んだ息を、一気に消費しながら、叫んでいた。


 「む、胸が……なくなったァーッ!?」


 雪之丞も、ピートも、リング下に逃げていたエミ、そしてかおり、魔理、おキヌもその声に視線を固まらせた。
 リングの上の、毬谷百合の、胸元をひしと見つめた。

 まっ平らだった。
 ボウリングの玉サイズが、残さず消え去っていた。
 左官屋であれば、良い仕事してますねぇ、と好評間違いなしのなだらかさだ。

 胸元を呆然と見つめる百合、仁王立ちで見上げる横島の姿を、雪之丞たちは見た。
 次の瞬間に悟った。心が、興奮に震えた。歓喜が沸き起こる。
 横島が、百合にどのような攻撃を仕掛けたのかを、見知ったのだった。


 「すげぇ! 両手による超高速の摩擦が、胸の脂肪を一瞬で燃焼させちまいやがったんだ! さ、さすがは横島。このオレが好敵手と認めた男よ!」

 「さ、さらに霊脈を乱し、発火経路まで絶つとは! 実体ではなく霊体の胸をここまで……。まさに、究極の神技ッッ!」

 「『手のひらの瑞々しき技にて流れ行く』。ゆえに瑞技流行掌!……お見事ジャ、横島サン!」


 さわられたら、なくなる。そういう技だ。
 女性陣は青い顔をして、自分の胸部を覆うように、両手で押さえていた。
 百合もまた、自分の身に起きたことが信じられぬとばかりに、身を震わせていた。


 『お、おおおっ……。わ、我が胸がっ!?』

 「南極の厚き氷塊も、オゾンなき陽光、絶え間なき二酸化炭素を受けては、しょせん蕩けるアイスにすぎぬ! これぞ、ザ・エゴロジー(The Egology)!!」


 まったく意味不明の発言である。
 が、笑う者はもちろん戸惑う者も、この場には居なかった。
 誰もが度肝を抜かれていた。


 「貞操、破れたり!」


 ザ・外道。
 宮本武蔵が激怒しそうな台詞だが、横島は凛として語を投げ放った。
 おぼつかない足元をなんとか動かしながら、百合は立ち上がった。


 『み、見事だ……』

 「いや、危ないところだった。あとコンマ2秒遅れていたら、お前に投げられただろう」


 素直な賛辞を、横島は百合に向けた。


 『だがひとつ、貴様は見誤っているぞ、横島』

 「なに?」


 悔しさゆえだろうか。かすかに声が震えているように聞こえた。
 良く見ると、胸元を押さえた手も小刻みに揺れている。

 百合の表情は、前髪に隠れたままだった。
 それがバネ仕掛けのように跳ね上がったとき、非難の口調が飛んだ。


 『乙女の胸を揉みしだき、あまつさえ豊乳を貧乳へと成さしめた、うぬの所業!』

 「はっ!?」


 そういえば、そういうことになるか。
 いまさらながらに、横島は自分の行為に思いが至ったような表情を見せた。


 「うむ、貧乳中の貧乳。極貧乳と言うべきだろうな」

 「いらんことをッ!」


 雪之丞の感想に、横島はツッコんだ。
 今、他者にどうこう言われるのは、非常にまずい気がする。

 やつは男子だが、女子であることを切望してやまず、悪霊にまでなった危険な存在だ。
 自分、横島忠夫は、やむをえなかったこととはいえ、そんな百合の胸を触り、消滅させた。
 気分が女の子なら、帰結は必然的に推し量れる、というものだった。

 百合の身体から、陽炎のように、再び霊気が立ち上り始めていた。
 胸が悪くなるような濁り様ではない。
 身体の震えに比例して、気力が百合に充実していくようだ。

 まずい。大いにまずい。
 横島は強大な危険を察した。
 これは職場の上司にひっぱたかれる時にも似た、危険な兆候だ。

 百合の目元に、かすかに光るあれは、まさか涙なのか。
 横島によくよく見直す暇は与えられなかった。


 『責任をォォ! 取れぇぇいッッ!!』


 ドスの利きすぎる一喝であった。
 乙女回路の発動、と称すべきであろうか。
 今度こそ、はっきりと朱色に染まる頬が見えた。

 唸りを上げて、右の掌底が空を裂く。
 メガネ君を張り飛ばした勢いとは、姿勢、力の入れよう、スピード、その全てが雲泥の差であった。


 『ぎぅぅうぃぃいあぁぁぁ! いぃょぉおぐぅぉずぃぃむぁぐぅんんぬぅぉおぅえぇっずぅぃいいいいい!!』


 巨大な捕食獣の雄叫びにしか聞こえなかった。
 H・P・ラヴクラフトが聞けば、さぞ創作意欲をくすぐられたに違いない。
 ちなみに後日解読を行ったところ、『きゃー! 横島くんのえっちぃー!!』と叫んだのではないか、という結論に至ったことは余談である。

 強烈な張り手であった。
 白いキャンバスが衝撃でえぐれ、横島の踏ん張りを無視していく。
 リングに張られた3本のロープは、張力の限界をたやすく超えて、引きちぎられた。
 さながら真横に倒れたロケットの全力発射である。
 巨大な光の弾丸となって、校舎間の吹き抜けへと横島は飛んでいった。


 「愛したら火の鳥ィィーッッ!!」

 「よ、横島サーンッ!!」

 「ばかな……こ、これは『とある力士の超掌底砲(テッポウ)』! 噂には聞いていたが、まさに鉄槌!」

 「知っていたのか、雪之丞!?」

 『だれが力士じゃぁあ!!』


 百合は吼えた。
 乙女に対してなんという暴言であろうか。

 現実など見えない。否、見えてたまるものか。
 身体をなくし、夢をなくし、さっきは胸もなくした。
 しょせんフェイクの胸だと、笑わば笑え。自分だっておかしいのだから。

 だが、とそこでふと考えを途切らせて、百合は横島の飛び去った方を見つめた。
 口元がかすかに笑みをたたえているように見えたのは、ピートの気のせいであったろうか。
 エミも気付いたらしく、眉根が寄っている。何事かを考えているようだ。

 百合の視線は遠くを見据え、しばらくの間たゆたっていたが、すぐに雪之丞たちへと戻っていた。
 くわっ、と擬音がつくほどの見下しようである。


 『残りはうぬら、2人だけだな。虫けらほどの矜持があらば、我を迎え撃ってみよ!』

 「ほざいたな、貴様! いいだろう。この伊達雪之丞様が相手になってやる!」

 「……どうしても戦わねばなりませんか。仕方ありません。主よ、護り給え!」


 雪之丞とピートがリング上へと駆け上がる。百合が待ち受ける。
 戦いは更なる展開と、混迷への深入りを強めつつあった――ように思えた。
 まだ、この時点では。





 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 「これはすごい。タイガー君や横島君もすごかったですが、本当に高校生の戦いなのでしょうか」

 「こらー! お前ら加減しないかー!」

 「まいったわねー。まさかあんなに強力な悪霊になるなんて、予想外だったワケ」


 花壇の植え込みに身を隠すようにして、杉下教諭、亀山教諭、そして臨時講師の小笠原エミが、リングへと視線を覗かせていた。
 雪之丞・ピートVS百合、という第3ラウンドが始まってから、エミはすばやく距離を置いていた。
 1対1ならまだしも、強力なGS2人に力ある悪霊のバトルである。下手すると巻き込まれるだけではすまない。
 かおり、魔理、おキヌ、愛子へも声をかけ、下がり始めたその途中で、杉下教諭に呼び止められたのだった。


 「毬谷くん本人も知らないうちに、かなり思いつめていたみたいですからねぇ。これはうかつでした」

 「ええ。ストレスやフラストレーションって、幽霊になっても影響がすごく大なワケ。精神体になったら、周囲の霊気も取り込んじゃうから……」

 「す、杉下先生、小笠原先生、ヤバイっすよ。このままじゃ校舎が全壊します。夏休み前に青空教室になっちまいますよ」


 亀山教諭の声は上ずっていた。
 無理もない。流れ弾というか霊気弾のいくつかが、これまで以上の勢いで四方八方へと飛び散っている。
 まだ横島の文珠による結界が防いでいるが、いつまで持つかは分からない。
 横島が離脱させられた以上、新しい文珠は望めない。急がねばならなかった。

 おキヌは、急いで横島の元へと向かいたかった。
 雪之丞、ピートがそう簡単に倒されるとは思わないが、万が一の場合もあるし、エミにも言われたが、結界の維持に留意せねばならない。
 相手が相手だけに、いつ人海戦術に突入しても良いように準備しておく、ということらしかった。
 気ばかりが焦っていた。ネクロマンサーの笛を握り締めつつ、視線がときどき、リングと背後の校舎裏を往復していた。

 突然沈黙を破ったのは、杉下教諭であった。
 それまでじっと百合を見つめていたかと思えば、何かを思い出すように遠い目をし、すぐに黙考していた彼である。
 その勢いは、若干興奮気味であった。


 「小笠原先生。毬谷くんに関して、ひとつ気になることがあるのですが」

 「え?」


 それどころじゃない、と適当にあしらっても良かったが、エミはすぐに耳を傾けることにした。
 この際、少しでも打開策のための情報を得る方向で、納得したらしい。

 杉下教諭が問いを切り出し、エミが答えを返す。
 そのやり取りが繰り返されるうち、いつしか、確認と意見が交わされているように転じた。
 会議場での打ち合わせや、現場での対応・対策を練っている風情を、見ている者たちは感じ取っていた。
 意外なことを口にされたのか、エミは感心や驚きがないまざった顔色を浮かべている。

 一刻も早い事態の解決を、重視したらしい。
 会話を終えると、杉下教諭は亀山教諭と共に立ち上がった。
 エミも、愛子たちについて来るよう促すと、そのままリングへと歩き出した。
 何事が決まったのか、と顔を見合わせあう少女たちをよそに、エミはさっさと歩を進めていく。

 三つ巴の戦いは、相変わらずの激しさで継続中である。
 にもかかわらずリングサイドで立ち止まると、両手を腰に構え、きっと顔を上げる。
 堂々たる声を放っていた。


 「待ちなさい、毬谷百合!」


 跳躍しかけたピートが、足の力を落とした。
 百合の、今にも振るおうとしていた拳が止まった。
 雪之丞の放とうとした蹴りが、伸びきる前に下された。

 霊力のこもったエミの一喝である。
 リング上に張り詰めていた空気を、一瞬で吹き飛ばし、入れ替えてしまっていた。


 「エミさん!?」

 『なんだ、邪魔をする気か!』


 百合の顔色が憤怒にゆがむ。戦いへの不遜な介入が許せないのだろう。
 エミは間髪入れずに、言葉を継いでいた。


 「アンタ、疑問に思ったことは無いワケ?」


 その場にいる者の大半が、言葉の意味を図りかねていた。杉下・亀山両教諭だけが表情を変えずにいる。
 エミは何を語ろうとしているのか。視線は百合を捉えて離さず、語にこもる力が反駁を容易に許さないでいる。
 怒りを見せた百合ですらも、いまや黙って、エミの言葉がつむがれるに任せていた。


 「人間の性別を左右するのは遺伝子であり、その構成体である肉体よ。いまやアンタは幽霊。肉体という束縛、いわば枷を解かれたの」

 『……何が、言いたい?』


 百合は困惑を隠さなかった。
 自身が幽霊であるなど、百も承知の現実である。
 そもそも人間であること、肉体が枷であるとはどういう意味なのだ。

 場を占めていた剣呑な雰囲気が、少しずつ和らいでいた。
 戦闘への意識も、薄らぎつつあるようだ。握り締めていた拳が、微かに解けている。
 エミは少しだけ微笑んだ。揶揄ではなかった。


 「アンタ、なんでさっき胸があったの?」


 それは気合で、と答えかけた百合は、不意に言いよどんだ。
 生前読んだ本、それも強い女性の歴史に関する本の中身を覚えていたこともあったから。
 そこまで考えて、ようやく疑問が浮かんでいたのだった。

 自分はなぜ、修めたはずの柔道の技を使わなかった。
 タイガーとの戦いの折、怒りに淀んでいたが、記憶ははっきりと残っている。
 気合で炎を吐くのだ。そのために胸があることを念じ、切望したから、生じた。
 突き詰めて考えれば、そういうことに、なりはしないか。

 ピートとかおりだけが、目を見開いていた。驚愕のためであった。
 思わず声を上げそうになったのか、口元もわずかに開いている。
 次第に広がる困惑と気付きとを、エミの声が柔らかく支えた。


 「生きていたころの記憶と感覚に囚われすぎてて、心のどこかで思っていたんじゃない? 女性になれない。なれるはずがないって」


 生まれ持ったもの。
 生まれたときから、どうしようもなく定められたもの。
 身体と心。今の自分。
 さまざまな思考と言葉が、百合の心を吹き荒れ、かき乱していく。


 『ま、さか……まさか、我は……われ……わ、たし、は……?』

 「そう、毬谷百合。アンタは……」


 心身が、揺れ始めていた。ひとつの音に触れた音叉のように。
 エミの言葉によって、百合を構成していた全てが、その在り様を考え出していた。
 百合自身の言葉が、精神が、重圧が、記憶が、自身を束縛していたのだ、と。

 いや、これこそが呪いとなっていたのだ。
 今こそ、解ける時が来た。
 今こそ、解くべき時が来た。

 空間を圧するように、エミの言葉が響き、波紋のように広がった。
 切り裂くでなく、傷つけるでもなく、宙へと静かに溶け込んでいく。

 まことに、言霊だった。
 丁寧に、丁寧に折り重ねられたエミの霊力が、こもっている。


 「女性に、なれるワケ!」


 言葉があり、そして光が生じた。
 超新星のような、白銀の青白さだった。
 百合の身体から発せられたそれは、周囲を潮騒のように圧倒していった。
 文珠が隔てていた結界を柔らかく包み込み、押し退け、変身していた男たちを元通りの姿へと戻していく。

 天地万物が、陰陽の形を取って構成する、人界の絶対的摂理であり、普遍の真理。
 ゆえに事象が転じようとも、また今生の真理の内と称すべきなり。
 肉体と精神の関係は、君の心が決める。世界の成り立ちの中に、すでに含まれている項目。
 人であり、赤子であり、天使であり、悪魔であり、現であり、夢である。

 光は次第に収まりつつあった。
 風も、霊気の暴風もなく、世界は凪いでいた。
 わずかな瞬間のような気もしたが、どれほどの長さであったかは分からない。

 少数のようで、多数だったような。
 単純な、それでいて複雑な内容の言葉を、聞いた気もした。

 ピートも、雪之丞も、タイガーも、エミも、かおりも、魔理も、おキヌも、2人の教諭も、ただ沈黙の中にいた。
 声を出すのが、なぜか憚られたのだった。

 もうちょっとだけ静かでいよう。
 今は彼女が目覚めるときなのだから。
 なぜか、そんな風に思った。

 リングの真ん中を、皆は見やった。
 大柄で、筋肉質で、鬼面でセーラー服姿の人物は、もうどこにもいなかった。
 空気がきらびやかに、そして澄んでいた。
 その子を祝福するように。

 一人の可憐なる少女が、そこにいた。









                        続く
第3話です。次回が最終話となります。よかったら、お付き合い下さいませ。

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