「なに、幽霊が女子テニス部の練習を覗いているだと!?」
めしつぶが、華麗に跳んだ。
箸を折れんばかりに握りしめ、眼差しは炎が点ったように輝きだす。
どんぶりと箸を手にしたまま、伊達雪之丞は問い返していた。
眼光、身構え、気迫と三拍子そろって、刑事ドラマの熱血刑事さながらである。
テンションは一気に高まっていた。もちろん残りの飯とトンカツを一気にかきこむことは忘れない。
「あ、あ、あの、除霊委員会って、ここで大丈夫ですよね?」
「あー、うんうん、大丈夫よ。ごめんね。この人、こーいう人だから」
報告に来た2人の女子生徒は、完全に怯んでいた。
互いの肩に両手を置き、しがみ付く体制で雪之丞の勢いに耐えている。
説明にならぬ説明をする愛子の表情は、呆れ一色に染まっていた。
「やーれやれ、やっと出てきたんかい」
「これ以上待たされてたら、学校が戦場になるところでしたからノー」
少女たちの考えなど露知らず、当の横島とタイガーは、のん気とも聞こえるつぶやきをしみじみとこぼした。
雪之丞が消費した飯の量にもだが、クラスメートとして付き合うことの、なんと過酷であったことか。
ピート、エミ、愛子はとっくに悟りの境地に入っていたものか、苦笑を浮かべるだけである。
雪之丞とエミが、横島たちの高校に来てから、すでに一週間が経過していた。
横島たちの副担任として、また女子生徒の相談相手など、教師生活を謳歌していたエミと異なり、雪之丞はヒマであった。
はっきり言えば高校生活には2日で飽きており、昼食と昼休みを除いて思い切りヒマだった。
勉学に関しては、興味が持てそうな教科はおとなしく聴講していたものの、一時間と続かずに外を眺めて終わった。
穏便にサボタージュを決め込み、大概は教科書の陰でこっそりとトレーニングをするか、武術関係の雑誌を読みふけって過ごすのが大半であった。
そんな彼でも、体育では鬱憤の晴らしどころとでも考えたのか、積極性を覗かせた。
サッカーでは、シュートを放てばキーパーごとゴールに弾き飛ばし、得点と畏怖をゲットする。
バスケットでは、やはりゴールごと叩き壊すダンクを決めたりと、破壊活動と書いてスポーツと読ませる迫力を見せ付けた。
部活動の勧誘を受ければ、ことごとく自己のルールを押し通して済ませた。
レスリング部では、押さえ込み(フォール)がまどろっこしいというので、アルゼンチン・バックブリーカーからのエアプレーン・スピン、ボディ・スラムと流れるように技を決める。
結果、試合開始から20秒で、横島評するところの『ザ・反則勝ち』を得た。
さまざまな意味で規格外に過ぎ、この7日間で伊達雪之丞の名前は、良くも悪くも全校中に知れ渡っていたのだった。
「この学校に骨のあるヤツはいねぇのか? こっちは一週間も待ってやってるってぇのによ」
「うちの学校を崩壊させる気か、お前は!?」
「ある意味、学生生活を楽しんでましたしね。内容はともかくだけど」
「はい、ピート。あーんするワケ、あーん」
タコ型ウインナーをピートの口元に差し出すエミは、しみじみと楽しそうであった。
「……青春っていろいろあるわね」
「あらくれ歓迎、大いに上等よ。たぎる拳を振り下さねぇで、何が高校生だ」
蒸気機関さながらの鼻息とともに、雪之丞は心情を吐露した。
高校生活といえば同級生はもちろん、先輩後輩の間で血気盛んなアプローチが交わされているはずではなかったか。
肩が触れ合えばガンくれで挨拶を交わし、パシリを口にすれば拳で会話を交わす。
夕焼けに照らされた校舎の裏か川岸で、力の限りに己の肉体をぶつけ合う。
伊達雪之丞という人間は、決して無闇に戦闘を好む性質ではない。
しかし、何事にも挑戦のし甲斐というか、行動に伴うスリルがあっても良いのではないだろうか。雪之丞は心からそう思う。
特に今回のような霊障であればなおさらである。単調な生活の繰り返しでは、心身ともに鈍ってしまう。
欲は言わない。せめてもう少しだけでも、緊迫感ただよう不良っ気が薫ってきて欲しいものだ。
「あ、あの、急いで、お願いしたいんですけど……」
漫才のような雑談を断ち切るように、女子生徒たちは切り出した。
困惑と憮然が、それぞれに浮かんでいる。
ペットボトルやプラスティックの食器を、慌しく片付けると、一同は身支度を整えた。
「よぅし。じゃ、いっちょ行くか」
「エミさんは、校庭に結界をお願いします」
「打ち合わせどおりにね。まかしとくワケ」
「んじゃ、ワッシらも用意しますかノー」
「そうね。ほら、横島君、さっさと行くわよ」
「へーへー。んな、引っ張るなっての」
ようやく動き出した除霊委員会を先導し、女子生徒たちが歩を進めた。
ホントに大丈夫かなと言わんばかりの視線だが、階段を下りていく除霊委員たちは、観光客が物見遊山をするように賑やかである。
中でも特に、タイガー、横島と来た日には、女性であれば幽霊でも煩悩を発揮する、と、もっぱらの評判である。
エイリアンを倒すためにプレデターに依頼してしまったような気分が、少女たちを捉えていた。
職員室前でエミと別れた一同は、そのまま校庭へと足を向けた。
ピートは首に下げたロザリオを確かめ、タイガーも動きの邪魔にならぬよう学生服のボタンを外す。
机を掲げて先に進む愛子の背を見つめながら、横島は猫背気味に廊下を進んだ。
一歩一歩を重ねるうちに、横島は胸の内に、妙なシグナルが点りだすのを感じた。
ゆるやかに広がりつつある曇天のようなと言うか、とにかく何か違和感がある、様な気がする。
自分が何を感じているかもうまく捉えられず、もやをつかむような気分で、首をかしげた。
「なんだかなー。どうも気乗りがせんなぁ」
女子生徒や愛子に睨まれそうなことを、口の中だけで、横島は漏らした。
美神さんも呼んでおきゃよかったかなぁ、と限りなく可能性がゼロに近い案を思いながら、現場へと向かい続ける。
ふと空を見上げた。
どこまでも、清々しいまでに青かった。
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えす☆きす! −Especially Kiss−
【第2話】
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テニス部はレスリング部と隣接する形で、部室が設置されている。
部室の外では、天日干しでもしているのだろう。
レスリング部の使用するリングが、コーナーポストに四方へロープを張り巡らされ、完璧な状態で設けられていた。
銀杏並木に囲まれたテニスコートは、3面分の広さを有している。
コート内ではテニス部の面々が、思い思いの練習に励んでおり、白いユニフォームがそこかしこで翻っていた。
「若く明るい歌声に 白い花々咲き乱れ 私の心は春模様」
「花だぁ? 何のこった」
「きっと、テニスウェアやアンダースコートのことじゃないですか」
「いつでもどこでも煩悩がお盛んなお人じゃノー」
「医者か警察がいるわね、ホントに」
揶揄の言葉も、まったく気にならない。
横島は心底から、スポーツに勤しむ少女たちを愛でていた。
暑さに負けず、汗をきらめかせる少女たちのなんと美しいことか。
これこそ真の青春である。みずみずしい輝きに横島は駆け出そうとする。
が、一瞬視界に入ったものが彼の足を押し止めた。
「……なんだ?」
どの銀杏も、青々とした扇形の葉を一杯に広げている。
その中でも特に大きく生い茂り、丈も伸びたと思われる木の根元に、それは在った。
人の、後姿であった。
しかし地面に影は映っておらず、ときおり陽炎のようにぼやけて、揺れる。
気を抜けば見失ってしまいそうな姿は、明らかに幽霊特有のものだった。
横島は眼にぐっと力を込めた。
霊力が再び満たされてきたのか、輪郭が次第に濃くなってくる。間違いなく人型だ。
セーラー服の後姿は、銀杏の太い幹に身を半分隠すようにして、テニスコートを見つめているのだった。
「おっ、いやがったな」
「彼女、何をしてるんでしょうね」
「どう見ても覗きじゃねーの?」
「見つめてるって言いなさいよ。乙女の奥ゆかしさを、横島くんの汚らわしい煩悩と一緒にしないで」
うるわしい光景である。愛子はしみじみと感慨に浸った。
だから余計に横島の、か弱げに揺れ動いているであろう乙女心を、まったく斟酌しない無作法さがしゃくに障る。
今度なにか余計なことをほざいたら、誠意を込めて、机の角で一発ひっぱたいてくれよう。
しかし、横島の言い分にも、頷けないところがないでもなかった―――だからよけいに腹立たしかったのだが。
幽霊が覗くテニスコート内で活動しているのは、女子生徒だけであった。
男子の一人でもいれば、想いを寄せる幽霊が見つめている、とでも推測できただろう。
同性を想う、という可能性もなくはないだろうが、それは改めて問うしかなさそうだった。
いずれにしても、あの幽霊は何をしているのか。
六道女学院とこちらの校舎とを行き来しているのはなぜか。
質問は手早く、しかも明らかにしなければならない。
何かに固執したままで命を終え、この世に未練を残しているのなら、その執着を絶つのも一手だ。
なるべくなら納得の上で成仏してもらったほうが、お互いのためにも望ましい。
ここはひとつ、穏便に声をかけるところから始めるべきだ。除霊作業の第一歩である。
が、真っ先に声をかけた人物には、代案など必要なかった。
幽霊など見慣れた光景であったし、なにより面倒なのは性に合わなかったから。
「おい、コラ。そこの幽霊!」
遠慮も用心も、まったくなかった。
直球過ぎる呼びかけは、雪之丞のものだった。
「幽霊の分際で白昼堂々現れるたぁ、いい度胸だ。ちょっとツラ貸せ」
「どっから見ても不良やないか、アホ!」
さすがに呆れて、横島はツッコミを入れた。
が、声をかけられた幽霊は、一瞬身をすくめるような動作をしただけで、すぐにこちらへとゆっくり振り返っていた。
振り向く動作はなめらかだった。
「あ、大丈夫よ。私たち、あなたに何か危害を加えるつもりはないから、安心して」
皆の前に立ち、愛子が一言を差し向けた。
用心のためもあったが、何より同じ幽霊同士である。
暴力沙汰で解決するのは、精神的にもあんまりよろしくない。
「私は愛子。見てのとおり、机妖怪やってます。金髪の彼は留学生のピート君よ。あとの連中は気にしなくて良いから」
「待たんかい、こら!」
横島のツッコミを無視し、愛子は笑顔で挨拶を続けた。
愛子の態度につられたものか、幽霊の物腰は柔らかなものだった。
『初めまして。毬谷百合(まりや・ゆり)と言います』
どうも似合わない名だ。
口にしたとたん張り倒されそうな感想を抱きながら、横島は幽霊を見つめた。
女子にしては低めの、よく言うドスのきいた声音だが、丁寧な口調と挨拶である。
こちらを恐れる気配は見受けられなかった。
身長は170少々というところだろうか、女性にしては高めである。
だが、何より目を引くのは、その体躯であった。
見慣れたセーラー服ではあるが、まとった肢体は一目で骨太だとわかる。筋肉も確かな厚みでついているようだ。
さらにその上からベージュのカーディガンと黒いタイツ、黒のローファー。
くせの強そうな黒髪は肩まで伸び、髪先を纏めたゴムバンドは幾重にも巻かれ、まるで薪を束ねているように見える。
表情とその輪郭の造形は、仏師がノミで削り取ったような荒々しさと凛々しさを感じさせる。
生来のものか女性的なやわらかさは少ないし、どう見ても男性的な角ばった感じが濃い。
はっきり言ってしまえば、眼前の幽霊は、男性レスラーを思わせる重さと厚みを備えているのだった。
(ほほう……コイツ、なんか武道をやってたかもしんねぇな。無駄な肉がなさそうな、良い鍛え方をしてやがる)
(しかし、ごっついのう。モテそーなタイプじゃねーな。っていうか性別を間違えてるとしか思えん)
(色気はないが……どーも侮れん。魔理サンとは違う雰囲気の強さジャノー)
(若い身空で幽霊となって、現世をさ迷う羽目になるとは……主よ、僕に力をお貸し下さい)
ピートを除いて、男性陣が好き勝手に評価を下していた。
飛び抜けて目を引くほどでは――つまり好みのタイプでは――全然ないし、どこのクラスにでも居ると言えば居そうなタイプだ。
意思の疎通も問題なさそうであるし、気立ても悪くなさそうに思える。
うまくいけばこのまま成仏にも納得してもらえるかもしれない。
にもかかわらず、横島は内心、いぶかしく思った。
百合と名乗った幽霊を見てから、また胸中にもやもやとしたものが浮かび上がってくるのを感じる。
強いて言えば違和感とでも呼べるものだった。
「さっそくでなんやけど、あんた、うちの学校の幽霊?」
懸念を振り払うように、横島は問いを投げかける。
百合はひとつうなずいた。
「じゃ、オレたちの先輩か」
横島たちは2年生である。
1年生のときの記憶をたどってみても、百合の存在には、やはり覚えがない。
もともと曖昧さには自信と定評のある記憶力であるから、無駄な回想はすぐに止めていたが。
愛子も百合に問いかけていた。
「ごめんなさい。私、あなたのこと見覚えないんだけど」
『あ、それは多分そうです。あの頃とは容姿も変わりましたし』
なるほど、容姿というか印象が変わったということは、卒業後に他界した、ということかもしれない。
高校を卒業してから、それまでのイメージから脱却を図るのは、よくあることだ。
学生服を着ているのも、何らかの思い出が作用してのことだろう。霊現象としてありえないことではない。
仮説としてそう判断した愛子は、さらに問いを重ねていた。
「ふんふん。ところで、死んだのはいつ?」
『えーと、確か3年前になります。自分で言うのもなんですけど、ぽっくりと』
「事故かなんか?」
「飛行機に乗ってて、お酒飲んで寝てたら、死んでました」
「あなた未成年じゃなかったの?」
「……大人の階段、のぼってみたかったんです」
両手を胸元で合わせ、目元は恥じらいのせいか、少し血色を濃くしている。
ずいぶんと乙女チックな仕草に、愛子は思わずツッコミを入れたが、心底咎める気にはならない。
いちおう乙女とのことでもあるし、旅先で酒を飲んでみたくなるのも、ままあることだろう。
「わかるわ。いつものざわついた日常に背を向けて、ちょっぴり試してみたい大人の味……ああ、青春よね」
空の上で、芳醇なワインの香りに――たぶん、おそらく――包まれて、他界する。
なにやら詩的でロマンティックな香りがしないでもなかったが、そのような情感を全く解さない人間もいた。
「あっさり言ってますノー」
「大人どころか、天国の階段のぼっとるやないか」
「まぁ、長々と苦しまずに済んだのは良かったかもしれねぇな」
「では3年前から幽霊として迷っていたのですね。お気の毒に」
気配りを見せる発言はピートだけである。
愛子はこめかみを押さえつつ、男どもは無視して進めることにした。
説得というか交渉というか、とにかく世間話から始めてみるべきだろうか。
いくつか思いついた行動と質問、その優先順位を考えていたところ、不意に飛び込んできた声が愛子の気を引いた。
「あっ、杉下先生、亀山先生!」
ピートの声だった。
振り向くと、2人の教師がこちらへと、やや足早に歩を進めてくるところだった。
スーツの上下を隙なく着こなしている方は、化学・生物担当の杉下教諭。
白地に赤のラインが入ったジャージ姿の方が、体育担当と一目でわかる亀山教諭である。
両者を端的に言い表せば、博覧強記と体力自慢、となるだろうか。
横島やタイガーから見れば、天才で天然イヤミな教師と、大らかで体力バカな教師によるコンビ、という認識である。
一番近くに居た横島が、真っ先に挨拶を投げかけていた。
「ちわっス。どうしたんスか、先生。2人そろって」
「部員に呼ばれてきたんだよ。幽霊が出たってんで、えらいあわてようでな」
「ああ、そっか。亀山先生、テニス部の顧問でしたっけ」
「正確には副顧問だ。竜崎先生の代理でな」
艶やかにして豪奢な金髪の巻き毛、口元に手を添えて高らかに笑う姿が、恐ろしいほどに似合う女性教師を思い起こし、横島たちは思わず沈黙していた。
テニス部の最高顧問にして、手ずから入れた紅茶と薔薇を心から愛する竜崎教諭は、どこぞの貴族を思わせる気風と言葉遣いで、生徒たちにも人望が厚い。
余談ではあるが体育の授業中に、彼女が先導する持久走を見た教師は、竜崎教諭と生徒たちがまるでフランス革命に臨む兵士のように輝いて見えたと、後に語った。
「で、杉下先生はなんで?」
「霊現象には非常に興味がありましてねぇ。ぜひ一度、本物の幽霊というものを見てみたかったのです。作業のお邪魔はしませんよ」
「のんきなこと言ってんなぁ」
飄々として語る杉下教諭と、莞爾として笑う亀山教諭は、どこまでも自然体である。
除霊作業に対して無知だからか、あるいは除霊委員たちへの信頼なのかは判然としない。
2人の緊迫感のなさに横島も呆れたが、すぐに気持ちを切り替えていた。
メンバーの面子を考えれば、不測の事態が訪れてもなんとかなるだろう。
教師陣がいても問題はなさそうに思った横島は、愛子に視線を向け、うなずく。
続けて声をかけようとした愛子が目にしたのは、教師に向かって頭を下げる百合の姿だった。
『あっ、お久しぶりです。杉下先生、亀山先生』
突然、幽霊に挨拶され、2人の教師は目を丸めた。
が、次の瞬間には、なおいっそうの驚いた風情で、2人は百合に声をかけていた。
「あっ、毬谷! 幽霊ってお前だったのか!?」
「おや、毬谷由利(まりや・よしとし)君ではありませんか」
明らかに顔見知りの反応である。
怪訝な表情を浮かべる一同を察してか、杉下教諭が説明を始めた。
「ああ、君たちは知りませんでしたね。彼は3年前に、この学校を卒業する予定だった子です」
なるほど。彼らの受け持ちの生徒であったか。
身元の判明がスムースに行ったことに、除霊委員たちはほっとした表情を浮かべかけた。
だが、待て。
会話と口調の自然さに、一同はうっかり失念するところであった。
十数秒を置いて、ようやく疑問が頭をもたげていた。
『よしとし』って誰だ?
今、杉下教諭は、百合をなんと呼んだ?
いやな予感がする。
横島の胸中で、アラームが鳴り響きだした。
ここに来るまでに感じていたのと同調の警報である。
聞かないほうが良い気もするし、聞いておいたほうがはっきり納得できる気がする。
口火を切ったのは、愛子であった。
「先生、『よしとし』君って誰です?」
「目の前の『彼』のことですよ」
「…………ほわっと?」
「毬谷君は男性です。当時は我が校の柔道部のホープとして、大いに人気を博したものですよ」
漫画的に言えば『てへっ』という感じなのだろう。
はにかむように小首をかしげ、百合は照れ笑いを浮かべた。
仁王さんが笑った。そんな印象すら受ける。
だが、似合わん。
ぜんぜん、似合わん。
死んでまでも、似合わん。
意識と無意識のユニゾンで、横島は即、断じていた。
一同もまた、その笑みに返すことができなかった。ただ沈黙のみである。
あー、やっぱりなー、という響きは、はたして幻聴であっただろうか。
セーラー服に包まれた肢体は、かつて白い道着を伴侶としたマッチョなものであったのか。
いや、事実、現役でマッチョである。
幽霊になってまでもマッチョである。
記憶どころか、遺伝子・霊子レベルで生前の肉体を覚えているとしか思えない。
「やはりな。オレの勘は正しかったようだ」
雪之丞だけが、真っ先に言葉を発していた。
横島が驚きつつ問いかける。
「気付いてたのか?」
「当然だ。一度、武道にのめり込んだヤツに色気なんぞあるか。ありゃあ戦いに魅入られたことのあるヤツの眼よ」
改めて横島は、百合を見つめなおす。
確かにセーラー服が似合う体躯と雰囲気ではない。
寒風の吹きすさぶ原野にて、薄汚れた胴着を身にまとい、敵と相対する雰囲気がただよってそうだ。
『どっせぇぇい!』という、汗と熱気にむせまくる、一本背負いの掛け声が聞こえた気がした。
「なるほど。言われてみりゃあ、身体つきもそうやな」
「だろう?」
『どこ見てるんですか、エッチ!』
「やかましい!」
丁寧にハモって、横島と雪之丞は怒鳴り返していた。
羞恥から胸元を押さえる仕草も、まったく可愛らしくない。
むしろ、厚くガードを固めるボクサーにしか見えなかった。
雷光を背負い、いかめしいどころか鬼面さながらの形相でタクトを振るうベートーヴェンの姿が、横島の脳裏に浮かんだ。
曲はもちろん『交響曲第5番・運命・第1楽章』のオープニングである。
懸念は驚愕となり、すぐに激昂へと転じていた。
「お、男だったつーんか……」
これまで心中に明滅していたシグナルの正体は、これであったのか。
いまや横島は、ハニワのように固まっていた。
口元だけが、力なくも一言をつぶやいた。
おーまいがっど、と。
なんということだ。
横島は、煩悶に身をよじった。
忙しい勉学の合間を縫って、地道な作業を行ってきた成果がこのざまだというのか。
この一週間、女子生徒の幽霊であるという情報だけを頼りに探し回り、足を痛めて、たどり着いたゴールがこれか。
ようやくその後姿を見つけ、美人であるようにと願った期待と希望は、言い表せぬほどの現実に打ちのめされた。
自分の願いは、こんなしっぺ返しを喰らわねばならぬほどに、許されぬものであったのだろうか。
夏のさわやかな風にひるがえるスカートが見たかった。
汗に張り付き、肌とブラを透かすセーラー服が見たかった。
アイスクリームをうれしそうに頬張る、乙女の微笑が見たかった。
さらば、夏の夢よ。さらば、僕の青春。
横島は嗚咽した。
涙と鼻水とを『どばどば』とほとばしらせながら。
そして、激怒した。
「てめぇ、このクソ熱い夏にせっかく目覚め輝きだした、オレのワクドキぴゅあぴゅあはーとをどうしてくれる!? 反則だ、バカヤロー!」
「えーと……女装がご趣味でしたか。大丈夫、よくあることだと思います、はい。主の御前では皆が平等ですからね」
「ワッシ、もう帰ってもえーかノォ?」
「ちっ、さっさと呪符で片付けちまうか」
愛子、ピートを除いて、配慮というものが完全に消え去っていた。
「あなた、よしとしって名前だったのね……」
『ユリです、ユリ! 可憐ではかなげで清楚の象徴! 由利じゃなくて百合に改名しました!』
愛子の声は、むしろ優しさと哀れみに満ちていた。
切実なまでの熱意もあらわに、百合は反論の声を上げる。
上半身は風船のように膨れ、あちこちで見事な血管を浮き上がらせていた。
ミスでもミスターでも、ユニバースに出られるな。横島は遠い目をしながら思った。
可憐ではかなげで清楚といわれても、なにしろ見かけが見かけである。
横島たちの価値基準からしてみれば、どこの惑星の住人だという観念しか持てない。
「まだ成仏できていなかったのですか。お気の毒なことです」
「なんてこった。お前、迷って出ちまったのか。ナンマイダナンマイダ」
杉下教諭は痛ましげに首を振り、亀山教諭はそのまま念仏を唱え始めた。
陽は高く、セミは歌い、校庭にはスポーツに励む少女たちの声。
夏の空気の中を、読経する声がおごそかに漂った。
「先生。とりあえず、その幽霊……っつーか、毬谷先輩に事情を聞きたいんスけど」
「お、そうか」
放っておくと、いつまでたってもお経を聞かされそうだ。
金曜日の昼、授業はすでに終わっているが、長居する気はまったく失せていた。
「まずは……なにか心残りなことで、思い当たるようなものはありますか?」
まずはピートが進み出た。
セーラー服姿の男性の幽霊、という事実に驚きはしたものの、やることに変わりはない。
無事に彼を昇天させることである。すべては神のご意思のままに。
幽霊とは、その大半が生前の姿を留めた形で存在する。
衣服に関しては分からないが、そこもやはり個人の意思によるところが大きいのだろう。
とすれば、百合がセーラー服姿でいる要因も、生前に抱いていた心情の表れではないか。
「恥ずかしがることはありません、毬谷さん。主はいつもあなたと共におられます。どうか恐れずに話してみてください」
「しっかし、口がうまいのう。ほとんど告白か懺悔やな」
「ピートサン、その気になりゃ結婚詐欺もできやせんですかノー」
「おい、2人ともあの幽霊を見てみろ」
頬を染めて、身をもじもじとくねらせる百合が、そこにいた。
「オレ、もう帰るわ。後は任せる」
「横島サン、文珠でケリつけたらどージャ?」
「まぁ、焦んな、お前ら。この際だ。一戦交えて憂さ晴らししちまえ」
一秒ごとに精神がささくれ立っていく気がした。
雪之丞も、眉間のしわを深くしている。
結果的には、彼らの忍耐力が完全に磨耗するほどの時間はかからなかった。
2人の教師の存在が、この場合は救いとなった。
いつ進み出ていたものか、杉下教諭が百合との対話を行っていたのだった。
「なるほど……想い人に告白できないままでしたか。それはまた未練なことでしょうねぇ」
『押忍。できれば熱い抱擁やキスだけでもしておきたかったんですけど』
うっとりと夢見る風情は、百合の表情どころか、周囲の空気まで薄桃色に染め上げている。
今度こそ横島たちの全身を、寒気と怖気が走った。
「恐ろしいことを言いやがるな。ベアハッグから鯖折り、そして噛み付きか」
「うっかりキスしたら喰われるんちゃうか。頭から丸呑みで」
「チョウチンアンコウも真っ青ですノー」
『誰がアンコウだ、てめ……じゃなくて、あなたがた!』
だんだん地がよみがえりつつあるらしい。
除霊作業の良識派である愛子にピートも、どう反応したものか、さすがに判断に迷っているようである。
顔を見合わせて、眉根を寄せるばかりであった。
「努力は賞賛に値しますが、相手の心情をおもんぱかるのも大事だと思いますよ。毬谷くん」
温厚な口調で、だが冷静に杉下教諭は事実を語る。
横島たちは彼を、尊敬と感謝のまなざしで見つめた。
あの甘ったるい空気を撒き散らしている相手に対し、見事なまでの忍耐強さだ。
それにしても、ここまで乙女の道を生きることを欲する彼女――もとい彼とはどのような人物なのか。
横島の疑問を表情で察したのか、杉下教諭は、彼にひとつ頷いた。
次に百合へと向き直る。
何かを問いかけるようなまなざしに、百合の方も、すぐにはいと声を出していた。
「では毬谷くんの許可も頂けたことですし、私の方から説明しましょう」
3年ほど前に、彼、毬谷由利は、卒業直前に他界した。
もともとインターハイでも優秀な成績を残していた彼は、柔道選手として将来を嘱望されていた。
理想の体型を突き詰めていたらしく、彼は、ある時から一層のトレーニングに勤しみだした。
日々研鑽に励み、暴飲暴食を行わず、肉体の強化に努めた。
が、本人や周囲も気付かぬうちに、無理は彼の体を蝕んでいたらしかった。
冬休みに入ると、他県での遠征試合のため、彼は一人で機上の人となったのだが、それが今生での最後の旅路となった。
高度数千メートル上空、飛行機の中で、突然の死を迎えたのである。
「いま思えば、無理な練習が祟ったんだろうなぁ。本人はまったく気にしてないようだったが」
述懐する亀山教諭の前で、当の本人はこうして幽霊となって出て来ている。
生前の姿というか、セーラー服をまとって来ていることから、理想の姿によほど未練があったのだろうか。
そう。すべては想い人へのキスに挑むために、である。
己が道を全うせんがための努力と根性は、性差も現実も超えて、心から賞賛できた。
「しかし相手に告白もせず、いきなり行為に及ぶというのは、いささか一方的に過ぎませんか? そもそも教師として、不純交遊には賛成できかねますが」
「杉下先生、その言い方はちょっとキツイっすよ。この場合、永遠の片思いってことでひとつ」
『ああああ、教師たちの無理解が生徒を苦しめるわ!!』
―――ひでぇ天然ツッコミだ。
汗混じりに、生徒一同は思った。おだやかで優しげな口調だが、スズメバチの針のような鋭さを秘めている。
教師陣の言は、百合が幽霊であるという現状を認識し、聖職者かつ年長者としての立場に根ざしたものであることは、皆にも理解できた。
事実と現実は、いつだって厳しい。
百合の両手が硬く握り締められ、『ぷるぷる』と震えている。
「まー、アレやな。要はその思い人を探し出してキスすれば、あんたは成仏できると。んじゃ、さっさと見つけ出してこよーぜ」
心惹かれる作業でも光景でもないが、犠牲者は少ないのが何よりだし、なにより自分の唇を捧げるわけではない。
自分の唇を、といわれれば、発案者・発言者を張り倒して逃げるまでだ。
非情さを丸出しにしながら、横島は次の行動を提案した。
横島の案は至極まっとうに思えたが、異を唱えたのは亀山教諭であった。
「残念だが横島。そりゃあたぶん無理だな」
「へ?」
「想い人とキスすれば成仏できるかと聞かれりゃ、無理だとしか言いようがないんだ、これが」
「はぁ。理由はなんスか? 相手にはとっくに彼女がいるとか」
忌々しくなるほどによくあるパターンだ。横島は一人で勝手に納得していた。
教諭陣の言葉通りなら、相手の男も高校を卒業して数年。青春をエンジョイしている真っ最中であろう。
大学生であれば、学校生活はもちろん、サークルだの合宿だの合コンだの。
果ては就職活動だので、後ろを振り向く間もなく忙しく、人生が充実しているのかもしれない。
「毬谷。お前の想い人ってのは……」
『先生、ストップ!』
百合の、悲鳴に似た呼びかけが、亀山教諭の言を圧した。
羞恥ゆえか、頬の染まりようがすごい。
察するに余人には知られたくないらしい。足早に教諭の元へと駆け寄ると、互いだけに聞こえるように言葉を交わし始めた。
「相手だってとっくに卒業してんだから、聞かれても別にわかりゃしねぇだろうにな」
「何年たってもおんなじです! ホント乙女心がわかんない連中ね」
「そんなん言うてもなぁ。人の色恋沙汰見たってしょうがないやん」
横島と雪之丞はボヤキ半分につぶやいた。
愛子の、処置なしと言わんばかりの視線にもひるまない。
百合と亀山を見やれば、あっさり了解を取り付けたものか、互いにうなずきあっている。
想い人の名を出さぬことで一致したらしかった。
「というわけで、プライバシー保護のため、名は伏せておくことになった」
「まったく興味ないんで続きを頼んます、先生」
ばっさりと切り落とし、横島は続きを促す。
亀山教諭は荘重なまでに重々しくうなずいた。
百合も、想いを寄せていた相手の現状は知らないのか、なにやら緊張した面持ちである。
司会者の回答を待つクイズ挑戦者のようだ。
「毬谷の想い人だった男なら、今度結婚するからだ。俺のところにも結婚式の招待状が届いてる」
周囲の熱気が、瞬時に膨張したようだった。
肌が燃えるかのように熱いものがじりじりと押し寄せ、一同の汗が服をひどくぬらす。
百合から発せられた、気迫であった。
仁王立ちで両手を硬く握り締め、くわっ、と擬音つきで両目を見開いている。
震える肉体は、まるで灼熱の鉄棒であるかのように、周囲を熱した。
こりゃあかんわ。
汗をぬぐいながら、横島は百合から距離をとった。
教師2人が証明する、完全なる失恋通告である。誰にも異を唱える余地がない。
微風に少し熱気を冷まされた横島は、ふと思いついた事実を、亀山教諭に問うた。
「その男、まだ大学生でしょ? できちゃった婚で学生結婚じゃないっスか」
「そこらへんは問題ない。双方のご両親はもちろん、親族も公認だそうだ」
「相手も同年代?」
「この高校での同級生だ。かつ幼なじみでもある」
「赤ちゃんは?」
「初孫は大歓迎だと」
「ちなみに経済状況は?」
「ご両家とも安定している。まったく問題ない」
百合の目前で腕組みをしつつ、亀山教諭はむしろ優しげな口調で説明していた。
「恵まれてるカップルって、居るところにはちゃんと居るのね」
「ちくしょう! あらゆる面でブルジョアかっ!」
愛子の声を背に受け、横島は両膝を地面に落とした。
歴然たる格差社会の壁を知り、敗北感が心底にまで押し寄せていた。
「毬谷くん。こう言っては何ですが、先手をうった者が勝利を得るのも人生の真実なのですよ。特に彼らの場合、周囲の理解と愛情とに根ざした妊娠・結婚を経ています。すでに手遅れと言えるでしょう」
『それでもかまいません! なんだったら式場に乗り込んで新郎をかっさらうという手も……』
「いかん。略奪はいかんぞ、毬谷! 教師として断固止めさせてもらう」
『愛を止めないでください! 煩悩だって立派に美徳です!』
「心の名言、ありがとうございます、先輩!」
「横島くん、いーからちょっとこっちに来なさい」
一瞬で額に血管を浮き上がらせた愛子は、横島の首根っこを引っつかんで、数歩を下がらせた。
杉下、亀山両教諭の説得は正論だ。
しかしこのままでは、成仏を促すどころの話ではない。
どうしたものかと真剣に悩むピートをよそに、雪之丞とタイガーは、もはやさじを投げる寸前に見えた。
百合の意中の相手は、すでにお手つき済みときている。
加えてお子さんもいるのだから、どう見ても勝ち目がない。
いまや杉下・亀山両教諭と百合は、喧々諤々の議論を行っていた。
恋愛論とその倫理性が、議題の中心であるらしい。
ゴリ押しの説得ででも百合が納得してくれれば、それはそれで大いに結構なのだが。
なんとか現実打破の一手を見出せないものか。
それともこのまま、事態の推移を見守るべきだろうか。
「く……く……く、び……が」
足元で、絞まる首元の苦しさに転がる横島にも構わず、愛子は口元をきゅっと結んだ。
手元にきゅっと、そしてぎゅっと力がこもる。
なにより愛と青春の残滓に苦しむ、自称乙女の先輩を成仏へと導きたいから。
なんとか無事に解決したい。
だって、女の子だもん。
愛子はうっすらと頬を染めた。
背後から歩を進めてくる集団に気づいたのは、声をかけられてからだった。
「お待たせ。何か展開はあったワケ?」
「こんにちは。お邪魔いたしますわ」
「おーっす、タイガー。仕事してっか?」
「横島さん、大丈夫ですか…………って、泡吹いてます、泡っ! 愛子ちゃんってばぁ!」
小笠原エミ、弓かおり、一文字魔理、そして氷室キヌ。
およそ除霊に臨む緊迫感とは、無縁の雰囲気を漂わせながら、4人はやってきた。
続く
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