(さて、悠理も寝たことだ。大事な話をしようか、ミラージュ)
(何よ、ファントム。また『次の遊び』の話?)
私の中で囁くのは私。ファントムだった。
彼女はいい加減で気分屋でお父さまの言うことを聞かない私だ。
だけれど本当の所、私の根本的な気持ちの代弁者であることもある。
薫ちゃん達が大好きだったり、パンドラの奴らが気に食わなかったり、そんな部分では。
お父さまを嫌っているところが、私には認めがたいけれど。
(違うよ。遊びはしたいけどね。今は違う)
(パンドラの奴らの話?追い出すいい方法を思いついたの?)
最近パンドラという組織の奴らが私と薫ちゃん達の学校生活に無理やり入り込んできた。
お父さまのお仕事を邪魔する奴ら。
何とか追い出すつもりだったのに、一瞬うまくいきかけたのに、結局失敗してしまった。
いい手段が思いつかずに現状維持。それが腹立たしいのは、私もファントムも一緒だ。
(それも違う。まぁあいつらは邪魔だけどさ)
(じゃあ何よ)
遊びでも邪魔な奴らを追い出すわけでもない、それ以外のことに興味を示すファントムなんて珍しい。
(次の仕事の話さ。あんたはブーストの解明をするつもりなのかい?)
(当たり前じゃない。お父さまがそれを望んでいるのに、逆らうなんて)
(出来ない、かい?あんな奴の言う事を聞くっていうの?)
(あなたは遊びたいだけでしょう。私はお父さまの所に帰ってあげたいの)
私とファントムの大きな違いは多分お父さまへの感情だ。
私はお父さまの言うことを聞きたがるのに、ファントムはお父さまを嫌っている。
お父さまは絶対なのに。絶対正しくて、絶対逆らってはいけない存在なのに。
どうしてあなたはそんなことを言うの、ファントム。
私はいつもファントムにそう問い掛けたくなる。
(お父さまがあたし達に何をしてくれたっていうのさ)
(お父さまは私を撫でてくれたわ。お前はいい子だよって)
暖かい手。笑顔。存在理由。全部全部お父さまがくれたものだ。
それをファントムだって知っているはずなのに。
なのにファントムは私を見てにやりと笑う。
アリスに出てくるチェシャ猫はこんな風に笑うのだろうか。そんな笑みで私を笑う。
(確かにそうだ。だけどそれはあんたが上手に催眠をかけた時だっただろう。ミラージュ)
(何でもない時にそんなこと、言わない。だけどねファントム。そんなの誰だって一緒だわ。いつでもそんなことを言う方がおかしいじゃない)
普通の家族とおんなじよ、と私はファントムにそう告げた。
(そうだね。だけどあんたの大事なお父さまは本当にあんたを無条件に撫でてくれると、あんたは本気で信じてるのかい?ナイに爆弾を仕込むような、裏切れば捨てるような父親とそれに従っていたあんたが、そこいらの親子のような関係でいられると)
―――ナイ。
その言葉にはっと私の心が揺れた。
小さなナイ。
駆け寄ってきて、私を呼ぶナイ。
私は顔に巻かれた布を捲り上げる。
額の傷。荒っぽい縫い目。
そしてあの幼い唇は言うのだ。
「プラスチック爆薬です、ユーリ様。」
(……ナイは。ナイは。そう、そうよ。薫ちゃん達にナイの洗脳を解かれなければいいだけの話だもの)
ファントムは思考が少しだけ揺れた私をせせら笑うように覗き込む。
(ブーストを解明しなきゃならないのにかい?ナイはその為の子供だったはずじゃないか?次はナイを使うんだろう?)
(ブーストの解明はお父さまの望みだから、それはその通りだわ。だけど洗脳が解けない程度なら大丈夫なのよ。それなら何の問題もないわ。そうでしょう。だってナイの催眠はよく効いてるって、テオドールが)
そう。一回のブーストでは解けない洗脳。そうテオドールは言った。
慇懃でこちらを覗き込む瞳に何の感情も映さないあの普通人は、いつも合理的で正確だ。
良くも悪くも仕事に関して間違った情報を流すような人物ではない。
(そしてあたし達はブーストを解明して、薫ちゃんを洗脳してお人形にするわけだ)
(それは)
(あたし達が慕った薫ちゃんをあんたのつまんない人形にしちまうわけだね)
最終的な目的はそうだ。ブーストの解明と、薫ちゃんの、洗脳。
そうだ。この仕事が終わったら、薫ちゃんは人形になってしまうんだ。私が、人形に。
私は初めてその事実を思い出した。だってお父さまがそう言ったから、そうするんだと、当たり前のように思っていた。
でもお父さまが言うことだから、きっとそれがいいことのはずだ。
(いい子になるだけよ。お父さまの言う事を聞くいい子に。私みたいに――!)
(薫ちゃんを人形にして、また退屈な何でも言う事を聞くお人形遊びにあたし達は戻るわけだ。あたしはそんなのはごめんだね)
(あなただって、私達がすべきことはわかっている筈でしょう。いつまでも我侭が通用するわけ……!)
(そうだね。お前の大好きなお父さまは許しやしないだろう。お父さまに愛される為にはナイを使って薫ちゃんを人形にするしかないわけだ。どうせブーストの解明にはナイの死はほぼ必須だろうけどね)
(だって、だって、ナイは、お父さまの命令で……)
一回ではブーストは解けない。だからナイは死なない。
私はそう思う。でも繰り返せば?いつか解けてしまう?
じゃあ何回?そういえばブーストが完全に解けなかったら、ナイはどうなるのだろう。
洗脳が解けかけた状態でも、あの子は私を呼ぶのだろうか。
それともそうなる前にナイは、あの小さな女の子は私の前から消えてしまうんだろうか。
あのずたずたの縫い目に埋め込まれた爆薬のせいで。
(だけどナイに死んでほしくないんだろう、お前は。なのにお前はどうしてお父さまを信じていられるんだい)
(だって、お父さまの、お父さまが望んでいらっしゃるんだから。お父さまが)
そう。いつだってお父さまは正しかった。私を撫で、私を愛していると囁くお父さま。
世界最強の催眠能力…、そうお父さまはゆっくりと私を撫でる。
いい子でいれば愛してあげると、お父さまはいつも私に囁く。
(お前の望みは何でも叶えるなんて甘い言葉を吐いたあいつは、結局はあんたの一番の望みを叶えてはくれないんだ。薫ちゃん達とずっと遊んでいたい。ナイと一緒にいたい。ナイに死んでほしくない。薫ちゃんをお人形なんかにしたくない。ほら、何一つあたし達の望みは叶わない。あんたがお父さまを信じる限り)
(違う。お父さまは)
(認めちゃいなよ。あんな奴、どうなったっていいじゃないか)
(違うわ)
私は首を横に振る。ファントムは私を否定する。
(じゃあ頼んでみるかい?例えばナイの爆弾を除去してくれって。さて、お父さまは何ていうかな)
(私はそんなこと、頼まないわ……)
(おや、どうしてだい)
ファントムは人の心をざらりと撫でるような声を出す。
どっと私の中から何かが決壊する。
(だって!たとえあの子の爆弾を解除してもらったとしたって、ナイの洗脳が解けたらナイは私のことを忘れてしまう。ティムやバレットやパティみたいに。ううん、もしそうじゃなくても、私がやってきたことを知ったら、洗脳が解けたら、どうせ私はナイに嫌われる。目的がある以上、お父さまが爆弾を除去するなんてありえないし、だからってパンドラの連中に頼るなんて論外だし、バベルに頼っても、薫ちゃん達に知られて、嫌われてしまう。お父さまだってもしそんなことをしたと知れたら……)
(そう。あいつはあたし達を殺しにかかるだろう。お父さまはいい子で言いなりのあんただけを愛しているんだからね)
ぐらぐらと、私の中で揺れるものがあるのはわかっていた。
(違うわ)
(違わないさ、ミラージュ。あんただってわかってるはず)
(違う!お父さまはそんなことしない!いい子だって言ってくれるもの!頭を撫でてくれるもの!愛してると言ってくれるもの!)
だけれど私はそれに頷けない。ファントムの言葉を受け入れられない。
(そう、だってあんたはお父さまにとっちゃ洗脳の為の大事な道具だからね。いつまで続けるつもりなのさ、ミラージュ)
だって、ファントムだってわかっているじゃない。
(そうなら、もし、そうなら、そうだったとしても―――お父さまを裏切ったって、私は誰からも愛されないじゃない!ナイにも薫ちゃんにも、お父さまにも!)
一瞬、どちらにも言葉がなくなった。
沈黙の後、ファントムはそっとこう聞いた。
(本当にそうなのかい?ミラージュ)
それを言う時だけ、ファントムは少し優しい表情になった。
らしくないじゃない、ファントム。あなたはいつだって破滅的でいい加減で感情的で、そんな顔をすることなんてなかったのに。
いつの間にあなたはそんな風に変わってしまったの。そう、薫ちゃん達と遊び始めてから、ファントムは変わった。
感情的なところはあるけれど、どうしてだろう。どこかこちらを憐れむような目で見ることがある。
私をせせら笑い、憐れむ私。
あなたはただ私の一部なだけじゃない、と私は思う。それはファントムだってわかっている。
お父さまに逆らえない私。そんな私であるファントム。
結局今が続けばいいという儚い夢を見るだけの、ちっぽけな私に過ぎないファントム。
そう、それが私。それをファントムはよく知っているくせに。
(……。人形が起きちゃう)
私はファントムに告げた。朝が来ていることがわかった。
いつもと同じ朝。起きればナイがいて、学校が始まって、薫ちゃん達が出迎えてくれる。
いつか終わる朝。いつか消える悠理の日常。
人形が演じるささやかなごっこ遊び。
(ミラージュ。悠理はあたしと同じでお人形なんかじゃない)
私の思考を読んだかのように、ファントムは言った。
そんな世迷いごとで私がお父さまを裏切れるなんてファントムは思っているんだろうか。
悠理が私の人形じゃないだなんて。私やファントムのことをわかっていないような、何も知らない愚かな女の子が?
私やファントムがその気になれば、あっという間にこの世から消えてしまうような弱い悠理が?
(何言ってるの?あなたは私の一部だけど、悠理は私の人形よ。ほら、人形が起きちゃうわ。だから後にして)
ファントムが告げたのは、今まで以上に下らない言葉だった。でもきっとファントムは話したがっている。私を揺さぶればファントムが出られる時間が増えると思っているから。
だってファントムは私だから、私の不満が大きくなれば強くなる。だから私はもう考えたくなかった。これ以上ファントムにお父さまのお仕事の邪魔をさせられない。だから私は念じる。目覚めて、悠理。
(ミラージュ、悠理はあんたの)
(ファントム。お人形が起きちゃうわ。学校も始まる!)
言いつのろうとするファントムの声と同時に、浮き上がってくる人形の気配がある。
ほら、見てみなさいよ。悠理はこんな風に私の言うことをきくお人形じゃない。薫ちゃん達とは違うじゃない。
あなたはいい加減なのよファントム。
悠理、さぁ起きなさい私の人形。
あんたの
(起きなきゃ!)
……うな…だよ…
(起きなさい、悠理!)
「ふぁ」
誰かに呼ばれたような気がした。
むくりと起き上がると、やっぱり誰もいない。
いや、ナイが眠そうにごろごろと喉を鳴らしている。
黒い毛並を整えようと丸めた前足が愛らしい。
―――なんだよ―――
「…?」
誰かの声が聞こえた気がして、またきょろきょろとすると、今度は時計が目に入った。
「わ、もうこんな時間!」
学校に遅れる!
私は慌ててパジャマを脱いで制服に着替える。
洗濯は明日にしよう。
時間はまだ余裕があると言えるけど、元々あまり要領がよくないから、自分のペースを考えると結構遅刻ぎりぎりの時間だ。
ああご飯ちゃんと食べられるかな。
―――悠理はあんたの―――
焼いたパンを半分だけ食べて、これ以上はもう間に合いそうもないとごそごそと準備をしているとまた声がした。
はっと振り向くと、ナイがきょとんとした目で私を見ている。
私はそっとナイの小さな頭を撫でる。
にゃあ、と鳴き声がして温い体温が心地いい。
どうしてか、幸せだなぁと思った。
こんな些細なことなのに。
そして、鼻の奥がつんとした。
どうしたんだろう、私。夢を見ていた気がするから、まだ寝ぼけているのかな。
そしてナイを撫でる。はっと気が付くともう出ないといけない時間だった。
「ナイ、いってくるね!」
靴を履いてつま先をとんとん、と当てながら、ナイに手を振る。
ナイは答えるように「にゃ」と鳴く。
そしてドアをバタンと閉めたとき、同時にまたあの声がした。
―――悠理はあんたの、願望なんだよ―――
「……?」
私はもう一度振り向くが、そこには勿論ドアしかない。
いったい今朝はどうしたんだろう。
私は振り向いたついでにドアの向こうのナイに声をかけた。
「ドアの鍵、しめていくね。でも戸締りとか変な人にはくれぐれも気を付けてね、ナイ」
ナイの声が聞こえた。
「にゃあ」という声が「はい」と聞こえた気がして、私はくすくすと笑った。
なんだかこれじゃ、人間と一緒に暮らしてるみたい。
やっぱり家族みたいに思っちゃうものなのかな。
私はなんだか嬉しくなって囁いた。
「いってきます」
にゃあ、という声がやっぱり「いってらっしゃい」に聞こえて、私は笑って駆け出した。
誰かの声が聞こえたことはそのころにはすっかり忘れてしまった。
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