1670

墨俣炊夢譚

 時は戦国―― 尾張は長引く混迷からようやく抜け出そうとしていた。

 血を分けた者同士で相食み、殺しあう混沌。

 肥沃な土地と京への足掛かりを狙う、東よりの鷹の爪。

 これらを退け、生き残った者の名は―― 織田信長。

 だが、それでもなお信長の悩みは尽きない。

 海道一の弓取りと呼ばれた今川義元の敗北に伴う今川の弱体化―― そして、その混乱を期に今川からの独立を成し遂げた松平家康との同盟により、東からの脅威は薄まったとはいえ、長良川を挟んだ美濃では、マムシの裔である斎藤龍興が尾張を狙い、その牙を磨いているのだ。

 天下に覇を為すため、そして、舅・斉藤道三の遺した『美濃一国は信長に譲る』の言を為すためには、避けて通れぬ敵である。

 しかし、美濃斉藤氏の居城である金華山城―― 平原のただ中に聳え立つこの山城を攻め落とすためには、篭城を強いて補給を断つことが上策であるとは知りながらも、その橋頭堡となる要衝を押さえることがどうしても出来なかった。
 佐久間信盛はおろか、織田家中最強の猛将として名高い柴田勝家を指揮官に据えても、である。

 その難題が、信長を悩ませているのだ。



 ―― さぁて、どうするよ?

 板張りの床に、ごろり、と無造作に横になる信長―― その目の端に、土壁が映る。
 数年前に行った清洲城の改修工事―― その監督を務めた『組頭』が見せた段取りのよさ、手際良さが思い浮かぶ。

 ―― そうだな、あいつがいたな。
 悪戯小僧を思わせる笑みが、口元に浮かんだ。




   【墨俣炊夢譚】



 木下藤吉郎はふつふつと厭な予感を感じていた。
 殿に仕えたその時から何度も感じたこの空気―― 無理難題を押し付けられる時の空気だ。
 逃げたい、という気持ちは果てしない。
 しかし、逃げたら殺される。殿―― 織田信長という漢はそういう人間なのだ。


「サル―― お前、城を建てろ」
 単刀直入。
 藤吉郎の内心の怯えを見透かしたかのような、鋭さと意地悪さを兼ね揃えた視線とともに、信長は一直線に言葉を投げかける―― いや、投げつける、と言った方が正しいか。あまりに無雑作な物言いであった。
「えっ?!築城……ですか?一体、どこに?」
 美濃攻め最大の難関である金華山城は、短期決戦で攻め落とすには難い城ではあるが、水源の少ない山城であるが故、包囲されての篭城には弱いという弱点を抱えているという事は六韜を紐解くまでもない。
 だが、それも包囲するための拠点を何処に据えるか、という一点にかかってくる。
 その拠点として第一に選ばれたのが他ならぬ墨俣という土地ではあるが、佐久間、柴田と勇猛で鳴らした諸将がこの要衝に対する築城の指揮に当たったにも関わらず、結果は散々なものに終わっていた。

 その理由は、墨俣という土地の地形にある。

 川の流れが長い年月によって生み出した三角州。それも、平野のただ中に生み出された湿地であることが、馬の脚を殺し、機動力を殺し、輸送力を殺ぎ落とす要因となっていた。
 馬を使えないことで輸送力が落ちれば、当然ながらその分人手と時間をかけて築城せねばならない。
 しかし、居城の真正面に敵に築城される、という事態を黙って見ている者など余程の間抜けでない限りは存在するはずもない。
 一度拠点を築き上げることさえ出来ればそれに拠って護り、凌ぐことは出来よう。だが、護るための拠点には未だ至っていないただの湿地では、圧倒的な数を誇る寄せ手の攻めを受けきれるはずもない。
 だからこそ、柴田ほどの猛将ですらも退却せざるを得なかったのだ。

 それ故、蜂須賀小六を通して周辺の地侍の調略に当たっていた藤吉郎の脳裏には、真っ先に別の拠点候補、という言葉が浮かぶのである。

 だが、『他の拠点候補なら』と認識した藤吉郎の思惑を嘲笑うかのように、信長は目の前に広げられた地図を、扇子で指し示した。
「……ここだ」


 『墨俣』と記された地名を、頭の中で反芻する。



 す・の・ま・た。




 停止した思考が回復するとともに芽生えた『読み方を変えてみよう』という試みは、同じく動き出した思考が生み出した恐怖が邪魔した。
「―――― と、殿ォォォォォォォッ!!敵の真正面じゃないっスかー!!」
 藤吉郎にとっては、当然の泣き言であった。

 調略では一定以上の手応えを感じ、さらに別の方策によって一つの“大果”をも挙げているように、藤吉郎は人心掌握に於いて天才的、いや、奇跡的とも言うべき才を持っている。

 しかし、ことそれが『戦の指揮』という面に関して言えば、不向きであると言っても過言ではない。
 経験が足りてない、という向きもあるにはあるが―― 基本的には戦下手なのだ。
 勇将二人で成せなかった任務を、その戦下手な藤吉郎が命ぜられたのである。泣き言の一つや二つは言っても罰は当たらない。

 だが、藤吉郎の泣き言は、打ち下ろしで振るわれた右拳が叩き潰した。
「うるせぇ、やれ!!いいからやれ!やれなきゃ死ね!!」
「でも、築城なんて時間かけなきゃ出来ませんよー!不可能ですって!!」
「不可能を可能にしろ―― それがお前の仕事だ!!」
 言い切る言葉に、徐々に危険な響きが混じり出すのを藤吉郎は感じ取っていた。

 感じた以上、藤吉郎に許された答えは一つしかない。

「は、はい……木下藤吉郎、身命を賭してやらせて頂きます」
 我知らず、応じた藤吉郎の双眸からは血の涙が流れていた。
 その涙の源は、殴られた痛みだけではなかった。



 * * *



「不可能です!!敵の真正面での築城など…!!」
「不可能を可能にしろって命令なんだよ!!」
 自棄気味に湯漬けを掻き込みながら返した藤吉郎の言葉に、彼―― 竹中半兵衛重治は嘆息する。

 ―― 全く、危ういといったらない。

 だが、なんだかんだ言っても信長の命を果たそうとする、その『危うさ』を含めた部分こそが、半兵衛が一人の人間として藤吉郎を気に入っている所だと言ってもいい。

 藤吉郎の見せる誠実かつ献身的な働きや諦めない強い意志―― 力の及ばぬところは確かにあるが、それが仲間の信頼や勇気を引き出すことに繋がり、結果として全体を盛り上げることになるその美点によって、

 何とかしてやりたい。
 支えてやりたい。

 周囲にそう思わせてならない雰囲気を醸し出す藤吉郎の魅力に惹き付けられたからこそ、かつての主君である斎藤龍興の下を去り、新たに召抱えられた浅井家からも一年で辞して旧領で世捨て人の如く過ごしていた半兵衛が藤吉郎に秘かに助力しているのだ。



『じゃあ、友達として会いにくる、というのはどうかな?』


 織田信長の旗下に加わることを固辞した半兵衛に対して向けた藤吉郎のこの言葉に惹かれたが故に、奇のてらいもなく、一人の友として―― 信長に合力するのではなく、藤吉郎を助けてきた半兵衛ではあったが、かつて金華山城を陥落させたことがある半兵衛も、流石にこの時ばかりは手詰まり感を感じていた。

 斎藤家に仕えていたという自らの立場を利用した半兵衛の場合と違い、敵対関係にある織田勢の築城など許すはずもない。
 城内に内通者があり、その上で斎藤勢が戦力の大半を城外に誘き出す策があれば話は別だろう。

 そして、出来る限りそれに近い状況を生み出すための調略のはずだと言うのに――。
「まったく……安請け合いしやがって」
 と、半兵衛の胸中を代弁するかのように、そこにいたもう一人が吐き捨てるように呟く。
「じゃあ断れるのかよッ!?相手は殿だぞッ!!」
 もう一人―― 日野秀吉の言葉に絶叫で応じる藤吉郎。
「……わ、悪かった」
 涙混じりの叫びに、秀吉…そして半兵衛はたじろぐ以外に出来ることはなかった。

「それにしてもどうするんです?請け負ったからには信長どのの言葉は絶対でしょう?」
 半兵衛の問いに思案顔で腕を組んでいた秀吉も、苦虫を噛み潰した顔で応じて言う。
「大体だ!あんな場所に邪魔されることなく城を建てる、というのが出来るわけがないんだよ!
 魔術でも使って時間を止めるような真似が出来れば話は別だろうけどな」

「そんなことが出来るわけないだろ!というか、オカルト嫌いの殿にそんなことを言ったら、それだけで釜茹でされても不思議じゃな……」
 だが、秀吉の言葉にそこまで返したところで藤吉郎は反論を自ら封じると、
「……時間を止める・・・・・・……時間……時間、か」
 明らかに声の調子を落として言った。

「何か、気付いたことでも?」「しっ!」
 半兵衛の問いかけを強い口調で遮ると、秀吉は腕を組んで立ち上がった藤吉郎を顎で指し示し、続ける
「アイツ……すっかり入り込んでやがる。こうなったら邪魔しないでアイツがどんな答えを出すか楽しみに待っていようぜ」
 秀吉の言葉を背に受けて、目の前に広がる闇に灯された僅かな灯りを頼りにするかのような、頼りない歩みで部屋をぐるぐると歩き回り、果ては上の空のまま外へと歩み出る藤吉郎。

 引っ掛けただけの草履も半ば脱げかけてはいるが、「……時間を止める…いや、縮めることが出来れば……だとすれば……うーん」その目には、愚痴をこぼしていた頃にはなかった明確な意思の光が覗いている。
 その光は秀吉、そして半兵衛を導き、惹き付ける強い光であった。


 * * *



「あ、ヒヨシ――――――――!!」
 聞き慣れた声に、思索を中断した藤吉郎は、そちらを軽く振り返る。
「ごめ――――ん!ちょっとそれ取って――――っ!!」
 その声に周囲を見渡した藤吉郎の目に入ったのは、里を流れる小川の中を流れる一枚の布。
 ややくすんだ色を持つ大降りの布を流れから拾い上げ、絞り上げた藤吉郎は声の主にその緋色の布を渡すと、「……久々に袴を出してたみたいだけど、どうしたの?」軽く尋ねる。
「隣のおばさんに頼まれて久々に拝み屋をやろうってことになったのよ!
 ほら、このところ晴れ続きでしょ?だからもうちょっと雨が降るように―― ってわけなんだけど……しばらく手入れしてなかったからぼろぼろだし……その…お腹周りが……」
 途中からいささか小さくなった彼女の声に応えているのかは半ば判然としないまま、
「……なるほど、仕立て直し、かぁ……」
 何かを見出したのであろう、藤吉郎は小さく呟くと空、そして小川を交互に見比べ、緋色の布―― 縫い目を解かれ、仕立て直しを待つばかりの一枚の大降りの布と化した緋袴に目をやると、頬を膨らませる彼女の肩に両手を置いて、言った。

「――――ありがとう、ヒナタ!おかげで何をやったらいいか判ったよ!」
「え?!なになにっ!?何がどうしたのッ?!」
 半ば以上上の空だったことを咎めようとしたところで急に肩を抱かれ、訳が判らないまま頬を朱に染めるヒナタをさらに掻き抱き、
「よぉ――――し!やるぞ――――!!」
 藤吉郎は希望に満ちた声を上げる。

「や……やるって…………バ、バカ!!いきなりなんてことを言うのよッ!!」
 藤吉郎のその言葉に応じるのは、さらに緋色に染まった頬と言葉。


 上流でいかだとして組んだ木を材木とし、目的地で砦として組み上げる―― 後に『墨俣一夜城』と呼ばれる織田軍の拠点が出来るまで、それほど長い時を必要としなかった。
 という訳で、すがたけの2011年最初の作品は、3、4年ばかり放置し続けていたジパングネタです。
 見ての通り、ヒヨシが見た『あの未来』にさらにヒナタ(&ヒカゲ)がいたら、という欲張りなIFものです。
 構想段階で『ヒナタを出してみたら?』と背中を押してくださったサスケさん、本当にありがとうございます。

 いささか非主流ではありますが、楽しんで頂けたら―― そして、『こちら』とはまったく違う道を歩むであろう『彼らの歴史』に思いを馳せて頂けたら、幸いです。

[mente]

作品の感想を投稿、閲覧する -> [reply]